丹後の伝説34

丹後の伝説:34集

飢饉・災害の記録

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延宝の大飢饉 天明の大飢饉 天保の大飢饉 安政の三日ころり 明治二年の大凶作

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延宝の大飢饉(1673)
『ふるさと岡田中』
延宝の大飢饉   西方寺庄屋記録
 寛文年間は凶作続きであった。延宝に改まり少しは良くなるかと期待したが、同元年五月十六日、地震があり、田の畦ゆり潰し山田等崩れ多くの砂入り痛みひどく、その上洪水による砂入も多かったので二六石七六の御用捨があった。同四年九月七日、大洪水で山崩れあり、九七石二斗の用捨があった。翌年もまた洪水にて稲木多数流失し、四七三束分の用捨を受け、同六年には大旱魃にて八八石六九の痛分へ御用捨があった。(以上西方寺被害)
 同八年五月十五日、再三の大洪水にて、福知山城下では死者一二三人あり、八月八日より十五日まで珍しい大雨洪水で宮津領内でも山崩れ、決潰によって荒地高三千石余あり、その上旧暦十月二十三日より大雪降り積り翌九年二月二十日ごろまで降り続き、平地で一丈山間部は二丈余も積り、麦作・菜種悉く腐り、山野の鳥獣飢死、飼育中の牛も皆飢と寒さに凍死する実に前代未聞の難渋の年であった。五穀大不作にて乞食多く飢人夥しく、倒潰家屋三三一七軒、凍死牛一七八○頭、御年貢納め得ぬ者数知れず、村役人は入牢し百姓は妻子に至るまで縄手鎖で辻堂、路傍で餓死するもの数知れずと報ぜられ、お上の施行粥で身命をつないだと伝えている。



『郷土史・岡田上』
延宝の大飢饉(一六七三)
 寛文年間は凶作続きであったので、延宝に改って少しは良くなるかと、農民達は期待をしていたが、元年五月十六日に地震があり、田の畦ゆり潰し山田等崩れ多く砂入痛みひどく、その上洪水による砂入も多かったので、二六石六七の御用捨があった。同四年九月七日大洪水で山崩れあり、九七石二斗の用捨を受けた。翌年もまた洪水にて稲木多数流失し、四七三束分の用捨になり、同六年には大旱魃にて八八石六九の痛分が御用捨になる。
 以上の記事は「ふるさと岡田中」に記載されている西方寺の庄屋の記録であるが、寛文年間の悲惨な暮しから少しでも脱却し、その明るさを新しい延宝の世代へ求めた農民が、またもや打ち続く凶荒にて、どん底へ落されていく。その姿がこの古文書から充分に察することができるし、そして、これ以上の災害が本地区にもあったであろうことは、容易に理解できることである。
 しかしながら、災害はこれで止まらず延宝八年の凶作は言語に絶するものがあったと思われる。五月十五日は大風と大雨で福知山城下で死者一二三人。また、八月八日より一五日にかけては古今珍しき大雨洪水で、宮津領内では山崩れや川の決壊などによって、荒地高三千石の損害を受け、その上、旧十月二十三日より大雪降り積り、翌年二月二○日頃迄降り続いた。雪の量は平地で三メートル余り、山間の村の方では六メートル余りにもなった。麦作や菜種は悉く腐り、山の鳥獣類はみな餓死をし、牛まで凍死するに至る。実に前代未聞の難渋の年であった。
 五穀は大不作にて乞食や飢人夥しく、その数、宮津領内だけでも一四、○八六人に上り、飢死者は八年より九年の二月までに一九九人の多きに達した。更に大雪のための潰れ家三、三一七軒、牛の凍死一、七八○頭の被害が出る。
 このような大災害で困窮する農民に対して、年貢が納められぬ百姓共やその妻子に縄手鎖、村役人は入牢と誠にきびしい取立てで、その難儀に及ぶもの領内で幾千人か数知れず、遂に、下方一同難渋を申立て、御蔵米の払下げを願い出た。
 しかしながら、諸国一統の凶作につき三分の一の銀納の分も米をもって納めるよう下命がある。これでは領内一統渇命し飢死すべくと、郷中一統の大庄屋・庄屋が会合を開き、三分の一米はこれまで通り銀納のことと、連日願い出たが聞き入れられなかった。庄屋役人達は領内一統の飢饉を見捨難しと、死罪を覚悟の上で、三分の一米の銀納と、御蔵米の相場をもっての払下げを、訴状にて願い申し出た。
 かくして、領内の過半の者を餓死から救ったが、延宝九年の春頃より、再び領内町下の難渋入いよいよ夥しくなり、家・屋敷・土蔵・諸家財迄売払って、飢をしのいだが、困窮に及ぶ者が多く、辻堂や道筋の傍にて餓死するものは幾千人とも、その数はわからなかった。
 阿部様の御国入後間もなく不憫と思われて、六月一日より大手前の広小路に於いて施行粥を出された。最初の間の日々は、その数六千七・八百人にも上り、皆々施行粥によって飢をしのいだ。
 九月中旬に難渋の家三、三一七軒、一四、○八六人に対し、一○才以下一人に付き米五勺、一○才以上米一合が配給されて、当座の命をつないだと伝えられている。

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天明の大飢饉(1784)

『ふるさと岡田中』
天明の大飢饉
 享保十七(一七三二)年、天明四(一七八四)年、天保七(一八三六)年に起こった飢饉は近世三大飢饉といわれている。その中でも特に天明の飢饉は全国的な規模であり、これが数年にわたるという深刻なものであった。天明二年は全国各地で農作物の不作を訴え、翌三年には信州浅間山の大噴火で噴煙多く、「昼間も提灯を持つ辛さ」「お盆の入りに袷着たき寒さ」等の気象異変が続き秋の収穫までに数回の大風雨に伴う洪水が相次ぎ、そのために十一月の新米の値は一石(一五○キログラム)が銀九十八匁に暴騰した。翌年二月には更に高値を更新して石当り銀百二十匁前後まで上った。全国的な飢饉のため食するものなく、山野の雑草、木の根を漁り、松皮や藁の餅を作り、寺の経文や死屍まで食した者もあったと伝えられる。餓死者数知れず、家族みな死に絶え空屋も数万軒に及ぶと言われ、当地も例外ではなく餓死者が続出し、言葉では言い尽くせない困窮の年であった。各地で百姓一揆が起こり、丹後では久美浜代官所支配下で一揆が起こっている。天明四年、五年も大風雨ありその翌六年も初夏から数度洪水あり殊に八月二十九日の大洪水では当村も山抜け多く、大石や大木が流れ、田畑を埋め尽して殊の外難渋の年が続いた。年貢の用捨や、施糊もあったが死ぬか生きるかの瀬戸際まで追いつめられた農民の苦しみを、二百余年を経た今もなお語り草として天明の飢饉を伝えている。

『郷土史・岡田上』
天明の大飢饉(一七八二〜一七八九)
 享保十七年(一七三二)、天明四年(一七八四)、天保七年(一八三六)に起った飢饉は、近世の三大飢饉といわれている。その中でも特に天明の飢饉は全国的な大飢饉で、しかも数年にわたるという深刻なものであった。
 天明二年は全国的な大不作の年であり、翌三年は火山灰のため「昼間も堤灯もつ辛さ」とあるくらい大きな信州浅間山の大爆発があった。瀧洞歴世誌の中の天明三年七月五日に「八日迄大太鼓打鳴らす如く鳴り不思議申候。その後承るところ信州浅間岳割れ、その割れ口より泥沙吹出し人家損する事数不知、前代未聞と申候」。また、同誌の八月六日には「信濃国拾里四方山抜け 震動雷電人馬多死す」と書かれている。更に夏に入っては「お盆の入りに袷着たき寒さ」の気象異変や、数回に及ぶ大雨風の洪水によって、諸国皆凶作となる。これらの災害で、この年の秋の新米は、一石(一五○キロ)が銀九八匁にも暴騰した。
 翌年二月にはもっと高値で、一石当り銀一二○匁までも上がる。全国的な飢饉であったため、悲惨な有様が至るところに見受けられたが、特に奥州地方が甚しくて、一村全部が死に絶えたところもあり、青森県では一年の間に餓死者十万余、他国へ逃れた者二万余、病死三万余、一家全滅して空屋となった家は、三万五千軒にも及んだという。食うに物なく、山野の雑草をつみ、木葉、木根をあさり、松の皮や藁で餅をつくり、寺の経文まで食う惨状であった。そして遂には死者の屍まで食った者さえあったと伝えられている。
 丹後地方に於いても餓死人おびただしく、道傍や辻堂に倒れ死ぬ者も多くあり、言語に尽し難い困窮な年となった。十月九日には、久美浜代官所支配下に百姓一揆が起こり、豊岡から二四○人、峰山から六○人、宮津から六三四人の隣国諸藩の加勢を受けて、漸く同月十四日大事に至らずに終熄した。
 また、当地方の様子について、瀧洞歴世誌には次のように書き残している。
 天明四年正 地頭村吉左衛門へ隣在の非人凡そ四十人程参り米壱升宛貰い、二十日晩に志高村源太郎へ参り凡そ六十人程飯喰い、其上米壱升ずつ貰い、二十二日晩久田美村儀平へ百人許り飯喰い、其上米弐
       升宛貰い、二十三日百人許り桑飼上村四郎右衛門へ参り大麦五合ずつ貰い引く
 天明四年春 日本国中大飢饉 銭壱匁に米七合売買也。大麦一石に付六十三匁、稗四十匁也と。
 更に、翌天明五年も夏から大雨数度打続き不作となり、十一月の新米は一石八十一匁、大豆一石六十六匁の高値になった。
 天明六年は初夏の頃から大雨風洪水、ことに八月二十九日の大洪水にて、山崩大石大木流失し、家を埋め死人もでる。十一月の新米一石銀八十匁替となり、町方は殊の外難渋した。
 天明九年米穀不作にて新米一石銀七十九匁替となる。
 とあり、天明の時代は全国的な大飢饉で明け暮れし、庶民の生活は、毎日が正に餓死との戦いであり、明日の命が知れぬ極限の日々であったと、察することができる。
 (補)天明三年の浅間山噴火の様子を「丹後史料」によると、六月七日、「信州浅間山崩にて鳴動丹後に迄ひびきどんどんどんどんの鳴音、町中の騒動容易ならず、昼夜の差別なく、諸寺社に百度打、又は逃支度等いたし、老
人子供は旦那寺に預け、家業などは打捨て、只々天下泰平のみ祈りける。前代未聞の大騒動。暫く打過ぎ、信州浅間山崩の由相間安堵せり。」と書かれている。
 また、噴火によっての浅間山付近の被害は、村落が、降灰・降石・溶岩流をうけ死者三万人に及んだといわれている。

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天保の大飢饉(1837)

『郷土史・岡田上』
天保の大飢饉(一八三七〜一八三八)
 「天保七年五月頃より秋九月頃迄、雨天が打ち続き、殊の外冷気で土用中皆袷を着ていた。諸国共大不作で米の値は追々と高くなり、十月に至って米一石に付き銀百八十五匁と仰せ出される。町方は申すに及ばず、在方も大不景気となり一統種々、難渋致し、その心痛は筆紙に申し尽し難いものであった。」と記されており、
 「翌八年春に至り、更に米価は上がり一石銀三二○匁となる。奉公人は無給銀で、日雇稼は上男一人銀五分内外となる。町方には餓死人が道傍や辻堂に、又、町方往還に倒れ相果てる者数知れなかった。右の様なことに付き、御上様より波戸場に施行小屋を建て、町方人別に御粥頂戴の御鑑札を御渡しに相成った。竹の瓶等を持参して頂戴するもの日々一、六○○余人、在方は村々へ米にて御渡し相成った。村役人方にて日々粥をつくり、町方同様に難渋人共へ相渡した。右の通りの難渋の上に疫病まで流行いたし、おびただしき死人で前代未聞の凶事であった。同年十一月の新米は一石銀一二○匁内外。町方は困窮し乞食が多数出た。其の上疫病も流行して餓死病死人は数知れなかった。」
 また、天保九年も夏より秋迄冷気が強く不作となって、米は追々と高くなり、新米一石が銀一三五匁になったという記録が、岡田上村誌に載せられているが、推察するに田辺藩の惨状と思われる。天保年間は度々洪水に見舞われているため、由良川筋ではそれも重なって、更に悲惨な状態であったのでなかろうか。

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安政の三日ころり(1859)

『郷土史・岡田上』
安政の三日ころり(一八五九)
 「安政六年七月より町方は申すに及ばず、郷中共に「三日ころり」とか申す急病が流行しておびただしき死人。実に火急の病人にて、この病気を煩う者は百人の内九十人迄は助り申さず、前代未聞の悪病なり。」
 よって親類や近所にても、病人の見廻りや葬式などにも参せず、七日の仕上げや法事も一切相勤めず、諸人只々怖れるばかりであった。
 之によって、御上様より八月十五日より二十日までの六日間を、町中一統病気送りにする旨が内々に御沙汰あり、老若男女差別なく古今の美々しき着類を拵え、昼夜大祭りの如き大騒ぎをする。前代未聞の賑々しきことで、これを「ころり送り」といった。当国にも同様のことがあったと記録されている。また、京都や大阪辺では九月中も、このような「ころり送り」の大騒ぎがあった由である。
 この病気が七月に発生しているところから、夏季に流行するコレラのような伝染病であったのではないか、と推察できる。

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明治二年の大凶作(1869)

『郷土史・岡田上』
明治二年の大凶作(一八六九)
 明治二年の夏は涼しく土用に入っても小雨が降り続き、霰さえ降る日があった。このために五穀は稔らず、稲は皆青立になり、翌年の春に火をつけて焼いたという。百姓達は野に山に、くず根やわらびをあさり、どくだみの葉なども摘んで餅に混ぜて食べた。飢饉の年は漁獲が豊富といわれているが、この年も宮津方面から魚売りが多く来て、くずの根などと交換した。翌年宮津藩では、町の米穀商人や有志の協力を得て施粥をし、困窮者に与えたので、毎日桶を持って粥を貫いに行く者が多かった。
 (註)この話は、宮津市辛皮の文久二年生まれの古老が生前に話し伝えたものである。




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