丹後の伝説28
千歳の阿弥陀堂、にしょもん、みとじ、船幽霊、他
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阿弥陀堂(舞鶴市千歳) 金のにわとり(舞鶴市千歳) 熊野神社(舞鶴市大丹生) 経塚(舞鶴市千歳) じとう(舞鶴市瀬崎) 庄屋の息子と大蛇(舞鶴市三浜) 浄瑠璃(舞鶴市瀬崎) 瀬崎の製塩土器 千歳の風景(舞鶴市千歳) 天神社(舞鶴市瀬崎) ニショモン(舞鶴市三浜) 博奕岬(舞鶴市瀬崎) 船ゆうれい(舞鶴市三浜) 守り神のヘビ(舞鶴市大丹生) 万どうあげ(舞鶴市大丹生)
みとじ舞鶴市(三浜・小橋) みとじ(高浜町) 文珠さん(舞鶴市千歳) 薬王寺(舞鶴市千歳) 由良の浜姫(舞鶴市小橋) ワカシラ(舞鶴市三浜)
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『大丹生校閉校記念誌』に、
薬王寺
千歳の大崎(今の井上高ひろ君の家の下の海)で、あみをひいていると、おひかりもの(ありがたいもの)がひっかかった。それで千歳の今の公民館の上の山に祀っておいたが知らないうちになくなっていた。そのおひかり物は人間になって福井へ船であがられて、由良川すじを上に行って高津江のそうべえという所で休まれた。そしてそこでさとうの入っていないもちを食べられた。その人間になったおひかり物は、そうべえの人に、「もし、千歳からわしをたずねて来たら、兵庫県の薬王寺へ行っていると言っておいてくれ。」と言っておいて、そこから歩いて薬王寺へ行かれた。それで今でも千歳の人は、四人で毎年、九月十九日に薬王
寺へ行き、一晩とまって帰ってくることになっている。
『大丹生校閉校記念誌』に、
文珠さん
千歳のししはなの山の上に文珠さんがあります。
文珠さんには、神様がおられたそうです。
文珠さんの神様は、白杉の松の所まで、道を作ろうと思われました。神様ですから、人に姿を見られないように夜中に作ろうと思われたそうです。そして、どこから道を作ろうかと考えているとだれかが、ときを間違えて、夜中に、うすを廻しました。その人は、麦を、細かくして、朝食べようと思ったのです。
神様は、うすの音でびっくりして、それで宮津へにげられました。それで、神様は、千歳に作るのをやめて、にげた先の宮津の天の橋立に、松林の道を作られたそうです。
それで千歳の文殊さんは元文殊といわれています。
『舞鶴の民話3』に、
千歳の阿弥陀堂 (千歳)
大浦半島の西側に千歳がある。平からくねくね曲がった海沿いの道を西へ進む。上下佐波賀があり、小さい峠を越すのだが、峠の下の浜辺にはあさり貝を採る人がちらほら見える。寒いこの頃は特に美味である。千歳はむかしは志楽庄の波佐久美といわれていましたが、千年来、文殊菩薩の霊場であったことから江戸時代に千とせと改められたという。
江戸時代には大庄屋であった千歳の津田氏は、織田信孝の子孫と名のる藩武者で、千歳に住みつき武力でもってこの地方を支配したと伝えている。従って津田、堂元、富永の千歳区民は武士の末えいであるという。
この津田氏の念持仏堂として建てられたのが現在の阿弥陀堂です。天満神社の裏で、このあたり一帯が津田氏の屋敷あとであり、阿弥陀堂は三間四面のつくりで、一四五体の仏像が祭られている。棚に祭られていた念持仏用の小像、昆沙門天や地蔵菩薩と思われる立像が多く、誰が造像したか、何かの祈りをするため寄進したものと思われる。現在それらは破損しているのもあるが、多くは一木つくりの平安仏と思われる。素朴であり、均整がとれた美しい像だ。毘沙門天が多いのは、この地方が北辺の地として、北方守護神の毘沙門天がよく作られ、現世利益の財宝神として信仰が厚かったと思われる。
堂内に「奉寄進、丹後田辺千歳村宗右衛門」の銘のわにぐちも残っている。又この堂の下の畑からは製塩土器の破片がみつけられる。きっと津田惣右衛門が、織田ゆかりの武将として、水軍をひきいて若狭の各地を攻伐をしていたともいえる。狭い阿弥陀堂に祭られた仏たちは、そのむかしからの歴史を知っているだろう。又現在関西電力の火力発電の設置問題でこの地は有名になりつつある。これも阿弥陀堂の仏様たちがじっと見つめていることだろうな。
『舞鶴市史』に、
経塚 (千歳)
千歳には古くから「朝日照り、夕日輝く大石の下に、蕨縄(わらびなわ)千束、黄金千両」という言葉が伝承されている。これは救荒食糧と黄金が埋蔵してあるから、非常の時はこれを使うよう祖先が残したものだともいわれている。
また、この経塚のある山裾の道には、狼が出るといって怖がられ、古来から神聖なところと崇めたそうだが、いつのころか盗掘されたという。
『大丹生校閉校記念誌』に、
金のにわとり
千歳の村のいいつたえによると、むかし千歳の村のどこかに金のにわとりがうめてあると、いわれていました。それで、えらいはかせが来て、しらべられました。
そして
「朝日さす チョロチョロ川のほとりにうずめてある。」といわれているので、あっちこっちさがしていたけど、なかなかみつからなかった。いまでも、たかひろくんとこの上の山にさがして、ほったあとがあって、大きなまるい白い石がおいてありました。
いま一つ残っている如来堂も、あんなものが七つあったのに、どろぼうが金のにわとりがあると、いうのを聞いて、どうさんの下にあるかと思って、六つとももやしてしまいました。
そしていまは、一つだけになってしまいました。
いまは、舞鶴市の文化財になっています。
『舞鶴の民話4』に、
美しい千歳浦の景色 (千歳)
浦入地区のあたりの風光を書いた文としては、里村紹巴(一五二四年〜一六○二年)が永禄十二年若狭から丹後地方を旅行したときの紀行文に、 「松尾山をおがみ、志楽地中というところより船にのって、しばらくいくと蛇島にあがった。二日ばかりここにいて、嶺山よりのおむかえをともない、そこを出るに、大志万但馬守父道舟ども集めて千才の浦にて朝の烟をたてている間に
夏の日や、ふべき千とせの浦の松
文殊ここにて千年説法跡とて、岩にししが裏あざやかなり。嶋々のそびえたるに、上中下海に入りたる面白さはことばに表現しがたき……」
千蔵村の古名は「波佐久見」または「狭汲」であったのが文殊菩薩が千年説法したという言い伝えのある千蔵の霊場の名をとって、江戸時代に改名した。又、しし鼻という岬の名も、獅子は文殊菩薩の乗る動物であるということからとられたもので丹後地方の文殊信仰の原点であるという。
千蔵にはまた日本書紀によると「新嘗のために国郡を卜す」として、悠紀田は尾張国山田郡、主基田は丹波国訶紗郡とあり、天武天皇五年(六七六年)即位の大切な儀式「大嘗会」に用いる米をつくる「主基田」の田にえらばれた歴史があるという。瀬崎の海ぞいの北のすみずみまで段々田(かくし田)があり、その山側には、ビワの木があり、甘だいだいの木に多くの実が太陽に照らされて、金色にかがやいている。国見山よりみる若狭湾のながめは天下一品であり、舞鶴の人たちも一度は訪れてみるべきであり、舞鶴のかくれた絶景に一驚するのも、郷士愛が益々深まると思う。
『大丹生校閉校記念誌』に、
守り神 へび
いつのころからか、大丹生に来られる三つの道にわらで作った大きなへびが置かれるようになった。これには、こんな話がある。
昔、大丹生は悪い病がはやり、村の大人はばたばたたおれていった。困った子どもらは、わらで大きなへびを作り、病が三つの道を通る時こわがって村へはいってこないようにしようと考え、実行した。それ以来毎年二月一日に、前から作っていた長さ十四メートルぐらいもある大きなわらのへびを、早朝かけ声と共に村の三方におくのである。
今、へびは小学校三年から中学三年生までの男子が作っている。
わらをそぐって、指が切れたりへびを作っていて、手のひらがすれることもある。しかし、今やらなければ、この伝統もたたれてしまうかも知れない。
どんな伝統でも、良い伝統なら守っていきたいものだ。
熊野神社
奥の宮の本当の名前は熊野神社といい、昔は今の場所のもっともっと高い所にあったそうです。その場所は大丹生の海が見渡せる所です。
昔、大丹生を通る船はみんな沈没してしまいました。それは、大丹生をとおる船人が、神様に向かっておじぎもせずに神を神とも思っていないからです。
そんなことが毎日続くので川しりの所に新しいお宮をつくり、そこの神様にたのんで、木で海が見えない所にお宮を作りそこまで下りてもらいました。
それからというものは、ああいった事故もなくなって平和にくらしていました。
そのお宮はおいておいたけれど、今は風でこけたりいたんだりしてもうそのお宮はありません。
「万どう」あげ
火の用心の大切なことは、今も昔も変わりません。お互いが毎日のくらしの中で、いくら注意をしていてもどんな事で火災が発生するかわかりません。そこで昔の人達は人間の考えや力で及ばない処は神様にお願いして安全をお祈りする習慣が幾つもありますが、中でも、防火、鎮火の神様として知られているのが愛宕(あたご)さんです。我が村では毎月二十四日は愛宕さんの日として、代参二人で舞鶴西の愛宕神社に参拝して村の安全を祈念して今尚この行事を続けていますが、毎年八月二十四日の午後(夕方)元発射場附近の海岸から愛宕さんに向かって「万どう」たいまつをあげます。
昔は麦わらを二つ折りにして、三センチ大のもの十二個を一束にして一メートル位の竹か杖位いの大きさの木につけて、それに火をつけて高く振り上げ、たいまつが燃え終わるまで大人や子ども達で賑わったものです。
今では麦わらの代わりにわらを使っていますが、もうこうした行事もうすれて、今年は二、三人位でした。
だんだん減って行く数々の行事の中で、暮しに直接かかわりのあるこの行事は「人ごとでない」いつまでも火の用心の大切を毎日続けたいと思います。
尚火の用心は或地方では大人や子どもが拍子木を叩いて夜廻りをしていますが、我々の子どもの頃は年中村を廻ったものでした。
『両丹地方史』(78.7.10)に、(地図も)
大浦半島の製塩遺跡について
舞鶴地方史研究会 高橋卓郎
…
七月二日、丸山校児 数名と共に瀬崎へ行き、(字瀬崎小字白石)博奕岬燈台へ上る道路口に鎖が張られ「無用の者立入禁止」と記された付近の浜砂が切れて山の斜面へつながる部分の崩土に生えた雑草の間から、支脚の一部が露表しているのを児童が発見、そのあと四個の支脚片と、散らばっている製塩土器片を発見する。かって軍の施設が近くにあった所で、表土には、新しい瓦片、練瓦片なども多数あるところから、製塩土器を含む土層が掘り出され、攪乱されたと見るべきだろう、遠くから運ばれたり、三浜から土を運ぶようなことは絶対にないとのことである。
したがって、瀬崎に古代製塩があったことは、(多くの資料をもたず、やゝ軽卒かもしれないが、)まず間違いなかろう。型式は三浜U式に比定できる。…
『舞鶴市史』に、
瀬崎に区有として残り、最近市に移管された浄瑠璃人形の「かしら」数十首は、近世の太棹三味線と「浄瑠璃語り」を伴った人形芝居から、その後義太夫節と一緒になって使われた淡路人形の「かしら」である。
この地への伝来等については、よるべき史料がないため一切不明であるが、その衣装には若狭、丹波の染め木綿が多いので両地方との交流がうかがえる。明治初年のころまで農閑期の娯楽として興行されていたことが東・西両域の辺地の古老達から伝えられている。
『大丹生校閉校記念誌』に、
じとう
昔は、地頭(昔のざいとの)が、ねんぐ(米・きび)をとった。
それを半分ぐらい、しゅうぶんけにおくっていた。それを少しの間続けていると、だんだんしゅうぶんけに、おくらんようになった。
地頭は、今の小へい、という家の人で女の人がおった。その女の人は、百姓には、嫁にやれないので、三浜のほうまでお嫁にいった。その時三浜に山をもっていってしまった。
それで、いそというところまでが境になってしまった。その前まではおおきみという所までの境やった。
博奕岬
昔々、ある時まだ名前もついていなかった。この岬で竜神と鯨の大王がバッタリと出会った。
二人とも日ごろから、「自分が一番強い」と思っていたからしばらくすると、自まん合戦をはじめた。
「わたしは大空高く、成層圏までも飛べるのよ、はやさだって超音速ジェット機にも負けないわ」「おれ様は、どんな深い海にも何時間でももぐれる。おれより大きなさかなは世界でもいまい」
論戦はいつまでも尽きず、「それでは、うでずくで勝負をつけよう。」ということになったが、そこは、竜神様は女性、知恵くらべで、勝負を決めることになり近くの海岸に転がっている黒い石と白い石をつかい、勝負をすることにした。それ以後、この岬を『博奕岬』というようになった。
北野天神社
私達の村に昔から伝えられている行事の一つである天神祭がある。
子どもにとって、一年で十二月二十五日の天神様の祭が一番楽しい想い出の一つである。
当日は、皆が祭りの番の家に集まり、トランプ、かるた、石回しなどで汗を流していた。その日ばかりは、とても嬉しくて朝早くから起きた。
また、その日は、いつもと違い服も上下共に新しいものを着せてもらい、いそいそと宿に行った。
下は下駄ばき、それに、黒地のネルの足袋でした。足袋の新しいあの何とも言いようのないふわふわとしたぬくもりがあった。
いつまでも、カラカラと音をたてながら下駄を履き、早足で宿に行ったことをよく想い出す。
『舞鶴市史』
三浜のワカシラ
若衆組の組織として古くからあって、年齢層と呼び名は次の通りである。
「小ワカシラ」一六歳−一九歳
「中ワカシラ」二○歳−二三歳(一五歳から二八歳までだったという人もある)
ワカシラ入りの儀式 大晦日の夜、若宮神社の堂に集まり、上座に「大ワカシラ」が座り、下座に新しく「小ワカシラ」になった者が座り、「大ワカシラ」から迎える言葉がある。内容は一人前になったことを認める意味と、これからの心構えについて厳格な説教めいた言葉である。新「ワカシラ」は、その厳粛さに震えながら聞くほどであったという。その後で杯をもらう。その酒を飲んで一人前になったことになり、続いて年籠りに入った。
ワカシラヤド始め 一月十一日、回り持ちの宿で、この年二八歳となり「大ワカシラ」を終わる者の奢りで宴会が行われ、その前に注連繩を編んだ。朝から各ワカシラは、一人につき藁八束、半紙八帖を持って若宮神社に集まる。「小ワカシラ」は山へ行き、ゆずりはの木を切って持ち帰り、これを割って板状にし、「中ワカシラ」、「大ワカシラ」が細工して魚の形を作る。彫刻し、墨で目や鱗を描き入れる(包丁などの道具も木形で作成したともいう)。一方「大ワカシラ」の中、三人はたて臼を逆さにして置いた周りに位置し、用意した藁で注連縄で編み上げる、他の「ワカシラ」は周りにあって藁をさし入れ、ねじりよるのを手伝う。
こうして出来上がった注連繩(ちょうど大相撲の横綱ぐらい)に、別に作った魚形などを取り付ける。更に「トシワイダワラ」(年祝俵−豊年俵ともいった三○センチ×一五センチ位の大きさ)を藁で作ってこれも下げ、縄の中央には、前もって多祢寺から持ち帰った「大漁祈願五穀成就」と書かれた札をかかげてすべてが出来がる。
次に村の入り口(海蔵寺下の旧石段付近)に櫓を組み、道をまたいで注連縦を張った(注連縄は一月十八日の村祈願(祷)の日まで置き、魔除けとしたという)。こうして一切の作業が終了して、ワカシラヤドで宴が行われた。
その他のワカシラ行事 一月十四日 狐がえり、九月二十三日 氏神祭の「まんだい」
まんだい=ワカシラが藁を集め、おがら(麻)を束ねたものを持ってしげの山(三浜峠東側の山)の頂上へ登り、松の大木にこれをくくりつけて、火をつける(一○年程前からしていない)。
松原神社では、昔は振り物(吉原の振り物と似ていたといい、用具はいまもある)と、「にわか」が行われた。いまは宮に参るだけとなっている。
『舞鶴市史』に、
ニショモン (三浜)
いまから二百年ほど前、三浜にニショモンという男がいた。身の丈は七尺(二・三メートル余)を超し、足は一尺(三○センチ余)を超えた。
ある日、年貢を船に積んで藩のお蔵へ運んだ時、役人がからかって「お前は体ばかりでかくてどうせ力もそれほどなく、役立たずだろう。くやしかったら小脇に一俵ずつ米俵をはさんで歩け。出来たらその米俵をやろう」といった。
これを聞いてニショモンは、簡単に米俵をちょい、ちょいと一俵ずつ小脇にはさんで「それではごめん」と歩き出した。蔵役人はあわてて「いまのは冗談だ。悪かった。米を持って行かないでくれ」とあやまった。
またある日、海が非常に荒れた。年貢米を田辺に運んで帰ろうとしたが、舟は米をおろしているので浮くし、海はいっそう荒れるので、やむなく平まで舟をこぎつけた。村でみんなが待っているのが気になって、とうとうニショモンは三間(五・四メートル余)の長さの舟を背にして、かいを杖に石伝いに山を越えて三浜へ帰った。村人は舟が山から下りて来たので驚いたという。(ニショモンの履いていたという足袋がいまも残っている)。
『京都丹波・丹後の伝説』に、(カット・しるべも)
怪力ニショモン 舞鶴市三浜
昔、舞鶴の三浜にニショモンという大男がいた。身のたけは七尺(約二・一メートル)を超え、はいた白たびは一尺(約三十センチ)もあった。食べるものも、着るものも人並みはずれていたため、貧しい村の中ではいつも小さくなっていた。
あるとき、年貢を納めねばならない日になったが、海は大変なシケ。年貢米を運ぶ船を出すことができない。期限の日に遅れるとえらいことになるので、村人たちは集まって相談していた。するとニショモンが「それならオレが行く」といい出し、他の者がとめるのもきかず船に飛び乗った。「いまこそ自分が村に尽くすとき」と思ったのだろう。全身の力をふりしぼってこいだので、とうとう波を乗り切って沖へ出た。
田辺藩の蔵に着くと、今度は役人がびっくりした。「えらくでかいのがきた。ちょっとからかってやれ」ということになった。「米俵一俵ずつ小脇にかかえて歩けるか。歩けたら、それをやるから持って帰れ。できなかったら、明日から食うものを半分に減らせ」。ニショモンは二俵ぐらいわけないので、ちょいとはさんで歩きだした。役人は大弱り。「いまのは冗談。かんべんしてくれ」といってあやまった。
さて、帰る段となって海はさらに大荒れ。年貢米をおろして船が軽くなったので、どうしても湾外まで船を出せない。ニショモンは「こんなことをしていては、みんなが心配する」と、意を決して近くの岸に船をつけた。
村ではいつまでたってもニショモソが帰ってこないので心配。浜へ出て火をたいたり、神に祈ったり、「ニショモン、ニショモン」と沖の方を呼んだりした。するとおかしなことに反対の山の方から「オーイ」という声。よくみると、山から船らしいものが、ゆらりゆらりとおりてくる。びっくりして走っていってみると、ニショモンが船を背負い、カイをツエにして歩いてくる。「船が山から帰ってきた」といってみんな大喜びした。
三浜地区は大浦半島の北端。現在は府道が通じているが、昭和三十四年までは人がやっと通れる山道があっただけ。船が唯一の交通手段だった。この伝説は辺地の住民の〃山越え〃道への願いがいかに強いものだったかをよく表している。
(カット・福永博君=舞鶴市丸山校)
〔しるべ〕三浜は東舞鶴市街地から北へ約二十キロ。大浦半島北端の半農半漁の村。白砂が美し竜宮浜海水浴場がある。最近は海水浴客、釣り客がふえ観光地化が進んでいる。
古い伝説を現代人がわかったように安っぽいいかにも現代的な「解釈」をくだすのはいかがなものであろうか。有害なだけと私は考えている。特に子供には有害であろう。過去を安っぽく現代人に都合の良いように解釈していいのだ、過去はそう解釈するのだとする過去に対して傲慢な思い上がった現代的悪癖が生まれよう。本当に道への願いがあったかどうかわかったものではないし、そこからこうした伝説が生まれるはずもないではないか。
伝説は昔話ではない。孫にせがまれて祖母が語ったものではない。神聖な神の言葉として、神がおそらく祭の日だけに集落の忘れてはならない大事な過去の出来事を語ったもので、それは本当の事として固く信じられ代々語り継がれたものである。そのように聞かなければ、読まなければ語り継ごうとした伝説の本当の内容は理解はできない。
もともとは大人伝説ではなかろうか。南の海より北の海に到り…の播磨風土記の記述を思い起こす。天日槍伝説の残滓のようにも私には思われる。
『舞鶴の民話2』に、
峠から舟が (三浜)
田辺藩における諸貢祖は、一本年貢、小物成、運上、継物の四つから成っている。本年貢が基本をなすものである、本年貢は村単位に課せられる。
あるとき、年貢を納めなければならない日になったが、海は大変なシケで、年貢米を船で運ぶことはできない、期限におくれると大変なことになるので、村人たちは集まって相談していたが誰も船をだすというものはなかった。相談の円座のうらにひっそりと坐っている大男がいた。ニショモンという男で、身のたけは七尺(約二米)、白たびは一尺(三十糎)もあった。大食いで貧しい村ではいつも小さくなっていた。この男がむっくと立ちあがり、「おれが船で運んでやる。」村人は思わず、大男の方を見、海の方を見た。いくら力が強いといってもこの海では死ににいくだけだ。
「わしは、この村では厄介もの、むかしおばあから、紀州のみかん船があらしをついて、紀州から荒海の中江戸にみかんを運んだという話を聞いている、この荒海ものりこえる。」
村人はこの大男の力強い声に、たのむことにした。男は日ごろ世話になっている村人におかえしする時と思ったのだろう。
村人が海辺に立って船を見送った。大波は船を木の葉のようにもてあそんだ。大男は一生けんめいにこいだ。沖の方に流されそうになる、冠島の八幡に波静まれと祈った。力を出してこぐか、海の底にいきそう苦闘どれほどだったか、大丹生半島を通り、田辺の見える湾に入った。湾内は外に比べてうそのように静かである、ニショモンはゆっくりとろをこいだ。吉原を通り、高野川を上った。
倉が並ぶ、船が並ぶ、米俵や塩を積んだ船と行きかう、武士がこちらへ来いと手まねきしている、彼は米を積んでくるのは、はじめてである、田辺藩の蔵についた。刀をさした藩士がみえる。何かじろじろみている。米俵をおろしはじめた。「三浜村から持ってきたんだな、そこにおろせ。」役人たちがささやいているのが聞こえる。「えらいでっかい男がきたな、ちょっとからかってやろうか。」
「おい、そこのお前 米一俵を右手に、一俵を左手に、その船から運べ、そうしたらそれをお前に与えるだろう。」ニショモンは軽々と持ちあげ、役人の方に歩きだした。役人は大弱り、「今のはじょう談、なかったことにしてくれ。」と頭を地につけてあやまった。
さて帰るだんになったが、前よりも海は荒れている。来る時にあれほどの荒波をのりきったのだいけるだろう、早く帰ってみんなを安心させてやろう、ニショモンは波の上をこいだ、見送る役人たちはただあきれ顔で見ているだけ。年貢をおろした船は軽くなって、大丹生沖より外へは大荒れで、出られそうもない、ニショモンは船を内海にむけ、平の方にこぎ出した。
村ではいつまでたってもニショモンが帰ってこないので心配で、浜へでて火をたいたり、「ニショモンよー、ニショモンよー、早く帰ってこいよー」と声のかぎりをあげて叫んでいる。
又ある人達は田辺に船をほかして、歩いて帰ってくるかも知れぬと、たいまつ持って、峠の方に向った人もあった。「ニショモンよー」と峠の方に向っていうと、「オー」とかえってくる、不思議なこともあるものだと、峠の方にいそいだ。
「ニショモンよー」「オー」前より声がよくきこえる、やまびこかと、火をかざした。峠の上に船がゆらりゆらりしながら、こちらにやってくる。
峠のきつねのしわざか、みんな立どまって、そちらの方に火をかざした。船はこちらの方にやって来る。走っていってみると、ニショモンが船をかついで歩いてくる。
「船が峠ごしで帰ってきた」
村人たちは大よろこびである。ニショモンがニコニコしながら、かいを杖にしておりてくる。
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
侍と百姓の話
船が山から帰ってきた話
−三浜−
むかし、三浜に大男がおりましてなあ、三浜のニショモン(西右ェ門)いうて、近郷になまえが知れわたっとりましたんじゃそうな。
この男、身のたけは七尺(一尺は約三十センチ)をこえたといいましてなあ、その男のはいた白たびが、一尺をこすおおけなもんで今も残っとります。
ある時なあ、年貢を納めんなん日になったやけど、海がえらいしけましてな。そのころは、船で年貢米をお蔵まで運んだんですが、その船を出すわけにはいかん。かというて、日をおくらすとなかなかきびしてな、えらいことになるいうんで、村のもんがそうだんしとりましたら、ニショモン「ほんなら、うらがいく。」言いましてな、みんながとめるのもきかんと、波に乗りましたんじゃそうな。
ニショモンは、大男でしたでな。こんな貧しい村で、ふだんは食いぶちが多いばっかりで小そうなっとったんでしょうかな、この時が村につくす時やと思うたんでしょうなあ。ニショモンが、ひっしのごう力でこぐもんじゃで、とうとう波を乗り切って、沖へこぎだしたんですな。
田辺の蔵へついたら、さあ、こんどは役人がびっくりしましてなあ。
「えらい大きいのが、きょうは来よった。」
それで、ひとつからこうてやれいうことで、「おまえ、小わきに米俵一俵ずつはさんで歩けるか、歩けたらそれやるさかい、持って帰ってええ。もしでけなんだら、あしたから食うもん、半分に減らせ。」言うのですわな。
ニショモンは一俵ずつくらいわけのない話で、ちょいちょいとはさんで歩きだしましたら、役人が弱りましてなあ、
「こらえてくれえ。今のはじょうだんじゃ、今のはじょうだんじゃ。」
言うてあやまりましたんじゃそうな。
米俵は持って帰れなんだけど、とにかく、役人をあやまらしたもんやさかい、意気ようようと引きあげたんですなあ。
ところが、帰りの船になると、年貢の米をおろしたもんじゃで、船が波にういて、その上、いきしにまして外海がしけとりましてなあ、どないしても船が外へこぎ出せん。
ほんで、ニショモン、「どうしよう、みんなあが心配しとろうに、はよ帰らなあかんし。」言うてな、とうとう、今の「平」に船を向けましたんですわ。
村の方では、いつまで待ってもニショモンが帰ってきよらん、どこぞで死んだんやないか、言うもんもおりまして、みんな浜へ出まして、火ィたいたり、それこそ雄嶋さんおがんだりして
「ニショモン、ニショモン。」
言うて、沖へむいてょんどりましたら、これはけったいな、裏の山のほうから、
「おーい。」いう声がするんですわな。
山のほう見たら、まあ、山から船らしいもんが、ゆーらりゆーらり、おりてきますんや。みんながびっくりして走っていってみたらニショモンが、船をせおうてなあ、櫂をつえについて山をおりてきますやないか。
「こら、えらいことや。船が山から帰ってきたわいな。ニショモンが船をおうとるわいな。」いうことでな、みんな、大喜びしたいうことですわ。
まあ、この話は、ニショモンが侍あやまらして、船をおうて山をこえたということで、大浦半島の村じゅうの評判になったということですわ。
『京都丹波・丹後の伝説』に、(カット、しるべも)
みとじ
舞鶴市三浜・小橋
アワビにはびっくりするほど大きなものがある。年月を経て妖怪変化になったとしても不思議ではない気さえする。
昔、宮ノ川の上流に一の滝、二の滝、三の滝という三つの滝があった。三の滝には滝つぼがあって、そこに〃みとじ〃というアワビの化けものが住んでいた。ひとかかえほどもある大きさで、きれいなコイに化けたりして、人がコイを取ろうと思って手をのばすと、水の中に引きこんで食べてしまう。猟師も木こりも、しまいにはこわがって、だれもこの滝に近づかなくなった。
ある日、修験者が村にやってきた。庄屋の家にとまって、この話をきき、「それなら、わしが退治してやる」と、翌日出かけていった。緑は美しく渓流に映え、流れる水の音に小鳥の声は心地よく、修験者はすっかりいい気持ちになってしまった。ふと見ると、きれいなコイが滝つぼに泳いでいる。思わず手をのばしかけた。すると、鐘の音。「やめとけ、やめとけ」と聞こえた。空耳かと思い、もう一度手をのばすと、また「やめとけ、やめとけ」。
修験者ははじめて「これが〃みとじ〃なんだ」と気付いた。どうやって退治したのか、修験者のことだから御仏の力を借りてやっと退治したという。それから三の滝の〃みとじ〃はいなくなった。
しかし、いまでもこのあたりでは宮ノ川の上流を〃みとじ川〃といい、海でおぼれて死ぬと「〃みとじ〃が引いたんだ」といったりする。鐘は昔、三浜地区にあったといわれる真言宗の名利、永源山徳雲寺の鐘。地元民たちの間ではいまでも「鐘の音を聞いた」という人がいる。
この話を小橋地区の古老からきいて発掘した地元・丸山校の高橋卓郎教諭は「大浦半島は谷が深く〃隠し田〃が多かったといわれる。田辺藩の見回り役人に〃隠し田〃が見つからないよう、なるだけ人が近づかないようにと恐ろしい物の怪の話が出来上がってきたのでは……。水の中に人を引き込む物の怪はカッパが相場だが、アワビの化け物というのは珍しい。三浜地区では〃みとじ〃が上流の橋のところまできて、人にいたずらをしたという話も残っている」と話している。
(カット・松本美和子さん=舞鶴市丸山校)
〔しるべ〕三浜、小橋は東舞鶴市街地から約二十キロ。大浦半島北端の半農半漁の村。白砂が美しい竜宮浜海水浴場があり、夏場は民宿客、海水浴客でにぎわう。小橋地区はいまでも中世の都ことばが残っており、民俗学的に興味深いところ。
『舞鶴の民話1』に、
みとじ (三浜)
昔、三浜には海賊が住んでいたらしく、その大将の古墳もある。三浜には四季を通じて釣人がやってくる。春先にはワカメ取りでにぎわい、岩場にはサザエの姿も見うけられる。アワビには、びっくりするほど大きなものがある。それらのアワビが年月を経て妖怪変化になったとしても不思議ではない気さえする。
その昔、宮川の上流に一の滝、二の滝、三の滝という三つの滝があった。三つの滝には滝つぼかあって、そこに「みとじ」というアワビの化けものが住んでいた。ひとかかえほどもある大きさで、きれいなコイに化けたりして、人がコイを取ろうと思って手をのばすと、水の中に引き込んで食べてしまう。猟師も木こりも、しまいにはこわがって、だれもこの滝に近づかなくなった。
ある日、修験者が村にやってきた。その修験者は庄屋の家にとまって、この話を聞き、「それなら、わたしが退治してやる」と、翌日出かけていった。
緑は美しく渓流に映え、流れる水の音に小鳥の声は心地よかった。修験者は、すっかりいい気持ちになってしまった。
ふと見ると、きれいなコイが滝つぼで泳いでいる。修験者は、思わず手をのばしかけた。
すると、どこからか鐘が鳴り、その鐘の音は不思議なことに、「やめとけ、やめとけ」と聞えた。
修験者は空耳かと思い、もう一度手をのばすと、「やめとけ、やめとけ」と……。
修験者は、「これが『みとじ』なんだ」と、はじめて気が付いた。
どうやって修験者が「みとじ」を退治したのかは、今もってナゾである。
……それからというもの三の滝から「みとじ」の姿は、かき消えてしまった。修験者のことだから多分、み仏の力を借りて「みとじ」を退治したのだろう、と村人たちはあらためて胸をなで落ろすのだった。
しかし、今でもこのあたりでは宮ノ川の上流を「みとじ川」といい、海でおぼれて死ぬと「〃みとじ〃が引いたのだ」といったりする。
鐘は昔、三浜にあったといわれる真言宗の永源山・徳雲寺の鐘で、地元では今でも、「鐘の音を聞いた」と、いう人が後を断たない。
ミトジは水刀自のことではなかろうか。本来は水を管理する巫女さんの親分であろうか。水の神様とも見られていたと思われる。みとじ川の水源(三の滝あたり)に住んで、この村の飲み水と田の水、それと海の管理者であったと思われる。
妖怪化するのはずっと後の時代のことと思われる。
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
みとじ −小橋−
むかし、むかし、宮川(みやのかわ)を上っていくと、三つの滝がありまして、一の滝、二の滝、三の滝といいましたそうですわ。その三の滝に、滝つぼいうか、まあ、ふちがでけとって、そこに、〃みとじ〃いう化けもんがすんどりましたんや。ひとかかえもあるような、おおげな鮑の化けもんでしてな。ときには、きれいな鯉に化けたりして、人が鯉とろ思て近よると、水に引きこんで食べよったということですわ。それで、狩りするもんも、木ィこるもんも、こわがって、だれも行きよらんようになりましたんや。
ほしたら、ある時、六部がこの村に来よりまして、庄屋がいにとまって、みとじの話を聞きましてな。「わたしが退治したろ。」言いまして、あくる日、三の滝へ行きましたげないな。
ほしたら、まあ、けしきのええとこで、鳥は鳴くやし、よい気持ちになっとりましたげな。
滝のふちに、きれいな鯉が泳いどりまして、手ェのばしましたんや。ほしたところが、どこぞから、鐘の音が「ゴーン」いうてきこえましてな。それが「やめとけえ、とったらあかん。」と聞こえましてな。
だれが言うたんか、この近くのエゲの山には、むかし、徳雲寺いうありがたい寺があって、そこの仏さんのかげんですかなあ、また、六部が鯉をとろ思て手ェのばすと「ゴーン。やめとけえ。」と言うんですな。ほんで、やっと、ーああ、こら、みとじなんやな。と気がついたんですな。
ほんで、どうして退治したのか、六部のことやさかい、仏さんの力を借りたんやろか、やっと退治したんやそうですわ。
それから、三の滝のみとじは、おらんようになりましたんやそうですわ。
ほやけど、今だに、小橋らあでは、海でおぼれて死んだりしますと、肛門がひらいとりまして、それを、「ああ、これは、みとじが引いたんやなあ。」というんですわ。
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
みとじずもう −三浜−
昔、宮の川にみとじという大あわびの化け物がすんどった。宮川橋を通る娘を下からのぞいてひやかしたりして喜んどった。
この頃、村に勘七という力じまんがおった。松原神社へまいると思て、宮川橋を通りかかると、
「おーい。」
と、下からよぶもんがおる。勘七が橋の下のぞきこんだら、「みとじ」が上向いて立っとる。
「なんやいなあ。」
と、いうたら、
「うらと、すもうしてみんこ。」
ここで、あわびの化け物ごときに、なめられてたまるかと思たから、
「よっしゃ、やろかし。」
と、答えた。
松原の中で、土俵かいて、始めたが、勘七たちまち、ポーンと投げられた。
勘七は「こんなはずではなかったに。」と、くやしゅうてならん。
何を思うたか、みとじにむかってゆうた。
「みとじよ。いまのはな。われに、どんだけ力があるか、ためしてみたんじゃい。われが殻の中から、はだか
で出てきたんに、やわらこうて、つぶれちゃいかんで、とんでやった。」
いうたら、みとじがいうに、
「よっしゃ、ほんなら、どっちも、はだかでやるいよ。」
「ほんなら、ちょっとまっとれ。」
と、勘七は、とんで帰って、はだかにふんどし、つけてきた。
みとじはもう、土俵にあがっていきりこんどる。着物ぎとっても、はねとばしたんに、はだかなら、わけはないわと、しこふんでまっとる。
勘七は、ふんどし姿で、宮の川の河原で、なんじゃ、もぞもぞしっとったが ゆっくり土俵にあがってきて
「さあこい。」
いうた。さてまた、すもうば始ったが、こんどはどうじゃ。どういうわけか、みとじがなんぼ、おしても、ひいても、勘七は、土俵に根が生えたように動きよらん。
みとじはあわてたな。時間かけたら、貝のこと、身が干からびてあかんようになる。
ところがなんぼ、みとじがあわててさわいでも、勘七は、ひたいから汗かいてつったっとるばかりで、動きよらん。とうとう、みとじは、
「まいった。」
と、ほうほうのていで、水の中へ逃げこんでしもうた。
「ほい、なんぎなこっちゃ。」
いうて、勘七が、こともあろうに、土俵の上で、ふんどしときはじめたら、なんと、ふんどしの中から、河原石が、ころころころころ、いっぱいいっぱいころげでた。これでは、勘七、動かなんだはずじゃ。
やっぱり、力の強い化け物より、頭の強い人間の方が強かったという話。
これから、みとじは、橋の下から、上通る娘を恥しがらせたりせんようになったそうな。
やはりカッパと思われる。本来は水の神様であろう。
「泉」というアングルの絵画だけれども、彼女は泉というのか水の女神で、その証拠に水の湧き出る壷を頭に持っている。
この壷が退化するとお皿になる。カッパの頭の皿であり、カッパとこの美女が同じものと判断できるわけである。カッパとは水の神様の零落したものと考えられることになる。さらに零落するとアワビになるのかも−。
三浜・小橋の辺りでは、水刀自とこの神様は呼ばれたかも知れない。
隣の高浜町ではミトジは海盗児とかくようである。やはり妖怪化してカッパとされているようである。
『若狭高浜町のむかしばなし』に、
海盗児(河童)
ついこの間までほとんどの童女はみんなオカッパ頭であった。つまりカッパ(河童)のような髪型のことである。
河童というのは、海、川、沼に住んでいて人は河童に尻の穴から尻子玉を抜かれて食べられると、溺れ死んだそうである。溺れ死んだ人の尻の穴がぼっかりと黒く大きく開いているのは尻子玉を抜かれた証拠であるといわれている。
これは、高浜が木津庄といわれていたときの話。
昔むかし一人の漁師が海へ出て漁をしていると、突如大荒らしにみまわれ舟は難破してしまった。舟から投げ出された漁師は海中で一本の木に命を託して懸命に泳いでいると、そこへ海盗児が現われて男の尻のものを取ろうとした。
「海盗児さん今尻のものを取らないでくれ。必ず五日のうちに尻のものを差し上げます」
と男は涙ながらに言った。
「お前がそないいうなら五日待ってやろう。五日の夕暮れに浜へ出ておれ、必ずだぞ」
と言い残して海盗児は姿を消した。
男は木にすがりつき、無事高浜に帰ることができた。家族や親戚、近所の人たち一同は奇蹟の生還だと大いに喜ぶと同時にこの大荒らしによくぞと、驚いた。みんなは“よかった、よかった”と男を祝ってくれたが、当の男の顔は沈み力が抜けた様子で何も語ろうとしない。男の脳裏には、あの恐ろしい海盗児との約束が忘れようとしても浮かんできて消えない。
男はひどくやつれ、近所の人と話をするのを避けるようになった。男は“あした、あした”と独り言を言っていた。約束の日がきた。
男の顔は真っ青になっている。女房や子供も心配し、近所の人に相談した。みんなの前で男は重い口を開いて、海盗児のことを話した。近所の男たちはあれこれと考えを話してくれるが、意見はまとまらない。
海盗児は約束の刻限がきても男が来ないので、腹を立てて男の家の表戸を叩いた。近所の人が戸を開けると、線香の匂が海盗児の鼻をついた。家の中では近所の男女たちが集まって泣いている。海盗児は尋ねた。近所の人が涙ながらに話すと、海盗児は言った。
「なんだ死んだのか、それなら助けるのではなかった」
頭も使いようですね。それから漁師は健康を回復、仕事に精を出したという。
今では海盗児(河童)が出たと聞かなくなったが、どこへ行ったんだろうな?
少女のおカッパ頭は、今でもそうなのでなかろうか。神様か神様に近いような人はこうした髪型だったのかも知れない。
「おかっぱ」
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
由良の浜姫 −小橋−
昔、べざいや、はがせが、小橋の港にも立ち寄っておった頃の話でございます。
べざいにのった水夫たちが、何日も何日も海の面ばかり眺めてすごしたあとに見る、陸の色は、ほんとうに美しいものでありました。
とりわけ、女人の姿は、彼等が待ちわびたものでありました。
越前の方へ向かおうとしていたべざいが、由良の沖を通りかかりますと、由良の浜が美しく輝いて見えます。水夫たちは、いちようにうなずきあって船を浜へ向けますと、浜に誰やら立って招いております。
側へいってびっくり、何と美しい女人でしょう。これは、あの天から降りてきたという羽衣の女人でありましょうか。水夫たちは、我さきに船をおりて、女人にふれたいと思うばかりでありましたが、船頭は、それを止めていいました。
「待ちなされ。この航海は一日も日延のならぬ荷を運んでおる。船の上から、姿を賞でるだけにしようではないか。」
しぶしぶ水夫たちが、おろしかけた小舟を、またつなぎとめまして、浜の女人にむかって、口々に、未練がましいことばを並べたてておりましたら、何を思ったか、女人は、懐から紙をとり出し、矢立の筆を一かみ口でほぐしますと、さらさらと、何やらしたためだしたのでございます。
この中の、誰かへの付け文等と思うには、少々つりあいがとれませぬゆえ、水夫たちが、不審げに顔見合わせておりましたら、女人はこれはまた、鈴をころがすような声で申しました。
「お頼み申します。敦賀の浜で、私の姉が、きっと、みなさまの船をお待ち申しておりますゆえ、それほど時間がないのなら、この手紙を、お届けくださいまし。かならず姉さまが皆さまのお相手をいたすことでございましょう。姉も楽しみにしております。ただし、船上では、この手紙をお開けくださいますな。きっと、きっとお頼み申します。」
ふしぎなことに、言い終った時には、手紙は船頭の手の中に届いていたのでございます。水夫たちの未練をごちゃまぜにして船は由良の浜を、はなれて行きました。
沖へ出てから、船頭はいいました。
「まさしく、あれは、浜姫。手紙は開けずばなるまい。」
水夫の反対をおして、開いた手紙の中身には、何と書いてあったとお思いですか。
「一筆まいらせ候。このもの共、いとうまそうなれど、浜へはおりたたず逃げ申し候。口惜しいことゆえ、何とぞ、そちらへ到着の上は、一人残らずお召し上り下さるよう願い上げ申し候、早々
かしこ、由良の浜姫より」
小橋へ立ちよりました水夫共が、おそらしげに肩ふるわせて、口々に申しました浜姫のくだりを、少々つややかにお話し申し上げました。
(註1)べざい…北前船航路の千石船、実際は三百石くらいのものであったという。
はがせ…べざいより一まわり小さい貨物船。
これはローレライ伝説か。彼女が魔女・ローレライ。ハイネだったかの詩を学校で歌ったことがあった。
「ローレライとは不実な恋人に絶望してライン川に身を投げた乙女であり、水の精となった彼女の声は漁師を誘惑し、破滅へと導くというものである。」とも言われる。
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
庄屋の息子と大蛇 −小橋−
−葛嶋神社伝承−
葛嶋神社は、昔、磯葛嶋の宮代谷という所にありました。
だからお祭の日は、舟にのってでかけるのでありました。そして一度、嶋をはなれたら同じ日に二度嶋へ上ることは、かたく禁じられておりました。
祭の日の、神主の役は、代々、小橋村の庄屋がやることになっていました。庄屋は「柳のまな板」と「金のまな箸」を使って祭事を行なうのでありました。
小橋村の庄屋は、先妻をなくし、後妻が入っておりまして、先妻の子を、この継母が、自分の子として育てておったのです。誰がみても、血のつながった母子としか思えないほど、三人は仲むつまじく、くらしておりました。
ある年の祭礼の日がやってきました。
折悪しく、小橋村の庄屋は、大事な仕事ででかけておりまして、家におりませなんだ。
庄屋の妻は、この時こそが、息子に力があることを村の人に示す時だと思いまして、父親にかわって、息子に祭りの役をさせようとしたのです。
村の人の助けもありましてか、この日の祭も、無事におわりまして、庄屋の息子がりっぱに神主役をやりおうせたことを、村の者もほめそやしたそうでございます。
ところが、大変なことが持ち上りました。庄屋の息子が、祭礼に使った「柳のまな板」と「金のまな箸」とを嶋におき忘れてきたのです。
息子の母親は、継母として、いっしょうけんめい育ててきて、ここで息子を立派な一人前の男として人前に出す機会を与えられたのですから、息子の失敗をそのままにしておくわけにはいきません。息子をはげまして、嶋へとりに戻るようにすすめました。村の者も、禁をおかしても、神様はわかってくださるにちがいないと思いました。息子はまた、この母親を実の母親以上に思っていましたので、母親が、父親から叱られることを恐れました。それで、とうとう、母親や村の人の見守る中を、息子は、葛嶋へ漕ぎ出したのです。
何のこともなく、葛嶋神社へつきまして、忘れ物の「柳のまな板」と「金のまな箸」を舟まで運び、再び櫂を握ったその時です。
一天にわかにかきくもり、雷鳴がとどろきわたりますと、葛嶋神社のあたりから、口から火を吹き、大鏡のょうな眼を光らせた大蛇が現われたのです。たちまち海は、わきかえり、大波が、息子の舟を、木の葉のようにもてあそんだと見るうちに、息子も舟も海に呑みこまれてしまいました。
母親もまた、悲しみのあまり、海に身を投げたといいます。
村人達は、このようすを一部始終、目にしまして、「神様ながら、あまりのなされ方。」と、この時以来、葛嶋への参詣を止めてしまったのです。
何年かするうちに、磯葛嶋の社殿は、朽ちはて、ついに波浪によって、崩れ落ちてしまいました。
やがて、新しく村内の氏神様の隣に、社殿を建て、葛嶋神社は再興されたといいます。(歴史編参照)
『舞鶴の民話1』に、
庄屋の息子と大蛇 (三浜)
瀬崎から東へ海沿いにいくと、しだいに岩場となり、ついにはびょうぶを立てたような大きな岩が行く手に立ちふさがって行き止まりとなる。
波はそこに大きく寄せ、また大きく返し、白糸湾内と異って荒海である。
もときた道を帰り、平へ。三浜峠にさしかかると、西武のツバキ園が素晴しい。中国からのツバキもあるそうで、日本でも有数のツバキの種類を誇っている。
峠を越えると、前方に日本海が一度に開け、なんとなく気が大きくなる。連れ立った友人も「素晴しいなあ、オゾンがおいしい」と、まんざらでもない面持ちだ。
三浜よりに一つの島が見える。磯葛島である。この島の植物と雄島の植物とは同類で、その昔は陸続きであったということだ。
葛島神社は、今は小橋の宮山に、氏神の若宮様と並んで、ひっそりと祭られている。が、昔は、浜から海へ一、五キロにある磯葛島の宮代谷にありました。
だから、年に一度の祭りの日は、村人はこぞって船に乗ってお参りをするのだが、ここに一つの言そ伝えがある。
その言い伝えは、磯葛島へ一端行きかけて後戻りし、もう一度出直して島にあがると、必ず不吉なことが起こり、二度と生きては帰れない、というもので、村人たちはこのおきてを固く守ってきた。
祭りの日、神主は、小橋村の庄屋が務める、庄屋は代々受け継いでいを神器の「ヤナギのまな板」と「金のまな箸を用いて、祭神の「オオムナチノメコ」と[スクナヒコノミコト」に海の幸を差し上げてお祭りを行なうならわしとなっている。
江戸時代のはじめ、小橋村の庄屋に五郎兵衛という者がいた。
五郎兵衛は大切な用事ができ、どうしたわけか、祭りの日に帰えれなかった。そこで村の老人たちが庄屋の家に集まり相談した結果、祭りの神器が使えるのは庄屋の跡継ぎだけであると、息子を父親がわりに神主役にすることに決めた。
村人は大漁旗をはためかせ、船首に神器を持った庄屋の息子を立たせて島へでかけた。
そして神に参った後、島の浜石の上で飲めや歌えの酒盛りが繰りひろげられた。
ここでも庄屋の息子は主役で、その神主役は立派だった……と、村人は息子をたたえた。
息子は杯を重ねるたびに気持がよくなり、すっかり酒に酔って小橋の浜へ帰ってきた。
しばらくして酔がさめ、ふと我にかえると、さあ大変……祭りに使った「ヤナギのまな板」と「金のまな箸」を島に忘れてきたことに気付いた。
息子の失敗をそのままにしておく訳にはいかない。母親は息子を励まし、島に取りに戻るようにいった。
村人たちも祭りの後であり、その日に二度上陸してはいけないという村のおきてを犯しても庄屋の息子であれば許されるであろうと考えた。息子は息子で、この失敗で父親にしかられることを恐れ、息子はとうとう母親や村人が見送る中を葛島めざして一人で舟をこぎだした。
途中、なにごともなく葛島神社につき忘れていた「ヤナギのまな板」と「金のまな箸」を舟まで運び込んだ。
息子は、ホッとして村をめざして舟をこぎだした。
そのときだった。一天にわかにかきくもり、黒々とした雲が空一面を覆ったかと思うと、雷鳴がとどろいた。
そして、島の方からはらんらんとした大きな目をむき、口からは火柱を吹き上げながら大蛇が現われた。
その大蛇の恐ろしさはたとえようがなく、大蛇が海に入るや、海は大波となって白いキバを立て、庄屋の息子の舟を木の葉のようにもてあそんだかと思うと、アッという間もなく息子は舟もろとも大波にのみこまれてしまった。
小橋村の浜でまんじりともせずに息子の帰りを待っていた母親は、このようすを目の当たりにすると、行き先を告げることもなく、どこへともなく姿を消してしまった。
数日後、母親が愛用していたツゲのクシが浜にあがり、悲しみのあまり母親が海へ身を投げたことが分った。村人たちは、この有様を目にして「神様、無情だ」と、このとき以来、葛島へのお参り
をやめてしまった。そして何年かたつうちに、磯葛島の社はくちはて、ついに崩れ落ちてしまった。
このあと、村人が集まって相談の上、村の氏神様の隣りに新しく葛島神社を再建したが、庄屋の息子も神器の行方も、ようとして分らなかった。
そして小橋の庄屋は世襲でなく、その都度に村人の相談で決めることになった。
現在、磯葛島では小さな蛇をよく目にするが、大きな蛇はみかけない。そして若狭の海も普段は庄屋の息子の霊をなぐさめるようにおだやかだが、ときとして美しい白浜は人を飲みこむことがあるそうである……。
『わが郷土』(丸山校百周年記念誌・昭51)に、
船ゆうれい −小橋・三浜−
今でも、ちょいちょいあることや。
海ゆうとこは、上からみると、波ばっかりでも、船のとおる道ゆうもんは、ちゃんときまっとって、はずれるてえと、くりにひっかかったりして、危いことになる。漁師は、それをみんなあしっとるもんや。
ところが、ある人が船にのって海へ出たらトップリ日が暮れてしもうた。
それで、船かえそとおもたら、むこうの薄暗がりの中から、すうーつと大きな船がきよる。たしかそこに、くりがあるはずやゆうとこでも、とまったり、まわり道したり決してせんと、ずうっと近よってくる。
「これは、いかん。」
と、おもとると、こっちの船の横にとまると、のっとるもんが、手ェのばして、
「水じゃく かしていやあ。」
という。この時、ひょいとかすと、その水じゃくで、こっちの舟に水がいつぱいになるまで、水をくんでいれよるから、かす時には水じゃくの底をぬいてかさなあかん。
むこうの連中は、それ知らんで、いっしょうけんめいに、こっちの舟に水を入れよとするが、いつまでたっても入らん。とうとうあきらめて、また来たように、暗闇にすうっと消えていきよる。
これが、舟ゆうれいじゃが、舟ゆうれいが近づいたら、こっちの舟まわして、かならず後舟から、ゆうれいが近づくようにする。
前舟からつけると、舟をしずめられるというとるなあ。
(註1)くり…岩礁、海の中に沈んでいる岩のこと。
(註2)水じゃく…昔は柄が長い水杓であかとりした。
この水じゃくが、「あかとり」になって、「あかとりかしていやあ。」といったとも伝えられている。
(註3)前舟…舟の進行方向に対して、左側、後舟はその逆である。
『舞鶴の民話1』に、
船ゆうれい (三浜)
夜の海はさびしい、波がぽちゃんぱちゃんと浜辺にうちよせる。大きな波もどぶんどぶん打よせる、小さなあかりをつけた船が通る、あの船はどこへいくのか、船というのは通る道があるのだそうや、はずれると海に沈んでいる岩にひっかかったりして危いことになる、漁師たちはみんな通る道を知っている。
むかしのことだった、三浜のある人が海へ漁にでた、魚の大群が一団となって泳いでいく、追いかけても追いかけてもにげていく、日が西の海に沈んでいく、海が金色に赤色にかわる、魚が銀色に光る、船のろをやめてみつめる。思わず大きな網にざぶんといれ、ざあ−とあげる、小魚がぴんぴんはねて一ぱい取れる、面白いようにとれる、日はとっぷり暮れてしまった。
早く帰らんと思うてろをこぎだした。大きな波が船にばしゃんばしゃんと寄せる。そのたびに船が右に左にゆれる、うらさむい風がはだをなぜる、何か出てきそうな気がする、南の浜辺に村の家のあかりが見える。早くこの魚を持ってかえりたい、いけすの魚がとびあがる。
ふと裏の方を振りかえった。
うすぐらくなった海の上に、みたこともないような大きな船がこちらに来よる。たしかにあそこに大きな岩が沈んでいるはずや、船はとまったと思ったら、ぐるりとまわってこちらにやってくる、あんな船にぶちあったら、ひっくりかえってしまう。でも船は横までやってきた、細くなった背の高い人が、「水じゃくをかしてんか」という。
その顔、姿、あおい、もしかするとその水じゃくで、こっちの船に水いっぱい入れるとちがうんかと思って、水じゃくの底をそっとぬいて渡した。あっちの人は水じゃくで海水をくんではこっちの水にいれる。底がないので何杯いれてもこっちの船には一つも入らない。どうしても船が沈まんので、大きな船はあきらめて、す−つと消えてしまった。波がぱちゃんぱちゃんと船べりをたたく。あれが船ゆうれいというのやる。
漁師はあぶら汗が次から次に出てくる。真黒な海をみつめた。
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