丹後の伝説:32集
旧海軍第三火薬廠、他
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朝来校の「土管」など 朝来谷と岸田篤翁 朝来の地名の意味 馬田の伝説(舞鶴市吉野) 狐狩・嫁の臀はり(舞鶴市大波上) 木辺久左衛門(舞鶴市大波下) 白屋の土地取り上げ 第三火薬廠 住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠 人間魚雷「回天」の製造
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現在の白屋は右手の集落であるが、かつては中央の森の左手の白い建物(国立舞鶴工専)の地にあった。
『白屋のあれこれ』(松岡徳二・平10)に
土地の買収
立ち退き命令
時は昭和十四年(一九三九)秋、舞鶴海軍の高官が突然朝来村役場に来られて、「白屋、長内、岡安の全域を買収する。目的は海軍の施設を充実する為だ。緊急を要するので来年十月末迄に立ち退きを完了せよ」
こちらの希望も、お願いも、一切聴く耳もたぬ、という過酷極まりない絶対的な命令でした。素朴で人情こまやかな僻村の小集落に、何故このような難題が持ち込まれるのだろうか。
−白屋は朝来村の中部で“土地極めて肥沃、山林多く桐実を産する。日光、通風ともによく、至って住みよい地域である−と荒木信次郎さんが朝来村史に述べておられる通り、北側には小高い山を控え、これを背にして軒を並べ、山王神社を中心に東に十四戸、西に十四戸、併せて二十八戸の集落で、南は開けて水田が広がり、日当たりの良い理想郷だったのです。(別紙五十三ページ、移転前の白屋居宅の略図を参照下さい)
若し、私の憶測に誤りがなければ、一千年余の昔、先祖がこの地に住みついて、子孫の平和と繁栄を祈りながら、心血を注いで開拓した文字通り血と汗の染みついた土地であり、永いながい歳月にわたって生命を支えてくれた生活の基盤だったのです。この田畑や山を一瞬にして失い、明日からの生活をどうするのか。しかも墳墓の地を追われて、短時日のうちにすべてを持って他に転出を迫られたのです。正に白屋にとって開闢以来の大事件でした。
四散
−白屋二十八戸、長内六戸、岡安十二戸併せて四十七戸、すべて離村することは朝来村にとって打撃が大きいので、出来るだけ多くの人に留まってほしい。出来れば朝来地区内に一集落作ってほしい−
これが時の村長藤村準三さん、そして元村長地元白屋の松岡幸吉さんの切なる希いでありました。
白屋に於いて連日集会が持たれ、討議が繰り返されました。その結果、白屋の小字堤(現在地)に集落を作ることに概ね意見がまとまり、ここに集まるよう説得が続けられたのであります。
小字堤は、南に高い山があり、東西にも山が迫っていて日当たりが悪く、面積が狭いうえ、生活に欠かすことの出来ない水も無い所で、人が生活する環境には決して恵まれていなかったのですが、他に適地が見当たらなかったのだろうと思います。
海軍の了解も得て、結局ここに定住することに決定し、意を同じうした白屋十九戸、岡安三戸、併せて二十二戸で新しい集落を形成することになりました。二戸は村内字登尾へ、七戸は親戚や縁故を頼って、新天地にしあわせを求めて村外の夫々の地に散りました。
日本歴史地名大系(平凡社)には、
−白屋村 現在舞鶴市字白屋・白屋町
朝来谷のほぼ中央の勝地を占め、朝来谷から志楽谷への入口に位置する。
中世志楽庄朝来村の地、慶長検地郷村帳 高二五二・一三 石 白屋村−
とみえ、「白屋村の内長内」の付記がある。
土目録によれば総高二○一石余、うち田方一八九石余、畑方一二石余。延喜三年(一七四六)の郡中高覚では、農家戸数一九、桐実を産した。昭和十四年(一九三九)、海軍用地のため接収され、集落の多くは舞鶴方面その他へ転出したが、一部は小字堤に移住し、うち岡安からの移住者も加わり、新しい集落が出来た、とあります。かくて字長内・字岡安の集落は消滅いたしました。
・白屋の人で小字堤に移住した方
松岡 正久 松岡 力吉 松岡 幸吉
松岡 英三 山田 米蔵 池田与三郎
松岡 国司 川田 かず 仲村粂三郎 谷岡 伊作 松岡 鶴男 松岡 弥吉
谷川 清誠 村中 清蔵 松岡 乃婦 仲村芳太郎 松岡 林蔵 松岡 秀吉
松岡 豊二
・岡安から参加された方
梅垣 勝次 谷口 弘 坂本 卓男
・朝来村登尾へ移られた方
松岡 実蔵 松岡 作蔵
・他町村に転出された方
・志楽村字安岡 中岡 吉蔵 ・志楽村字安岡 岡本春太郎 ・中舞鶴 和田 山田茂太郎 ・東舞鶴市字市場 松岡藤太郎 ・東大浦村字西屋 松岡 吉蔵
・倉梯村字堂奥 松岡源太郎 ・余内村字倉谷 松岡 嘉隆
改葬
各家によってそれぞれ異なりますが、多い家は三十基以上の埋葬墓がありました。すべて改葬しなければなりません。この作業を行うに際しては細心の配慮で臨み、先祖様のお骨を一片も残さぬように、また、古い墓場には、楠の大木があったり、雑木の太い根が交錯するなどもあって、言語に絶する苦労が伴いました。それでも底まで掘り、何も出なければ土をお骨に見立てて収納いたしました。
この作業は一基を掘り上げるのに時間を要し、雨や雪の時は作業が出来ず大変でした。専門家に依頼する人もありましたが多くは自分で行いました。
宅地造成と石場搗き
軍の至上命令でしたが、一年以内に退去完了せよというのは余りにも時間が足りませんでした。例えば堤地区に例を取ってみると−
この土地は水田・畑・山林・雑種地で平地が少なく、段差と傾斜地でした。宅地造成に山林の一部を取り込まなければならない狭い所であり、どのように道路や水路をつけるか、二十二戸の屋敷配分をどうするか。これを計画し、決定し、更には、各人の意見調整をして持分を決めるまでに、時日がどんどん過ぎました。
なお、その当時は現在と異なり、降雪量が多くて雪による作業妨害も大変でした。
自分の宅地の場所が決定すると、先ず宅地造成を急がねばなりません。集団移転の報が伝わりますと、多くの業者が大儲けをしようと近在から集まってきました。特に福井県から多く来られたように思います。それぞれ家毎に業者を選んで契約し、工事が始まりました。
昭和十五年の頃は土木機械もなく、技術も幼稚でツルハシとモッコというすべて人力に頼るものでしたが、それでも、六月頃には手荒いながら造成が出来始めたので、早く出来た処から次々と石場搗きを行いました。この作業は、建屋の重量の懸かる大切な柱の立つ位置を重点に、栗石を多く埋め込んで地堅めをする作業で、櫓を組み、周囲から綱を引いて中央の主柱を持ち上げ、打ち卸すいわゆる「ヨイトマケ」で、昔からの慣例の方法です。みんな協力しあって次々と廻って行きました。
私の家は七月十日に搗き終わり、二十日に母屋を解体する予定でしたが、母が心労と連日の過労の為、十七日心筋梗塞で作業中に急死するという思い掛けない事態が飛び込んで、大変な思いを致しました。
該当者は、みんなそれぞれ人に言えない思いを、歯を喰いしばって我慢をしながら、懸命に退去の作業を続けたのであります。
建築
建屋は移築・改築・新築いずれもお構いなし。但し、海軍が買収したときに所有していた建物の総面積の範囲内であること。これが条件でした。
物資は厳しく統制されていて、市場には全く品物はありません。釘一本・セメント一キログラム・ふのり一枚に至るまで、すべて軍が発行するチケット以外には絶対に入手出来ません。しかも、軍が決めた坪当たりの標準量は決して満足の出来るものではありませんでした。
それというのも、昭和六年に始まった満州事変は、やがて支那事変となり、泥沼化して止まるところを知らず、昭和十二年、遂に日・中戦争に進展いたしました。「ほしがりません、勝つまでは」などの言葉を流行させたのは、世の中から物資が姿を消してしまったからにほかありません。
また、急を要するので宅地造成を待ち兼ねての建築の強行であり、更には、三ヶ字一斉移転のため、まるで蜂の巣を突っついたような混乱の中でのことですから、業者が行う作業も粗雑となりますし、手抜きにもつながりました。
私の場合は、母屋も離屋も移築でしたので、解体した諸材・建具など、やっとの思いで買収地域外に運び出したものの、すべて野積みのまま、雨ざらし、雪ざらしで越冬という無惨な有様でした。
このように、もろもろの悪条件の中での苦闘でした。
昭和十五年、暮も迫って、取りあえず土蔵を建て、壁のついていない二階で冬を過ごしました。朝、目が覚めると顔や布団の上に雪が積もっているという吹きさらしの中での起居でした。
買収されて、急遽立ち退きを経験した人々は、みなさん大同小異の悲惨な体験をなされたものと思います。
直訴
昭和十五年十一月一日、中山門(岡本晴一さん所有の山裾に爆薬部の守衛所が出来ました)の守衛さんが、「立入禁止です」と入門を拒否しました。まだ搬出すべきものが沢山残っています。他にも同様の人がおられました。最初から十月末限りと宣告されていましたので、こちらが悪いのですが諦めておられません。
そこで爆薬部の竹ノ内海軍大佐に直訴を行いました。
この大佐は足が悪く、少し歩行の不自由な方でした。その故か黒塗りの、私にはすごく立派に見える乗用車を乗り廻す、当時としては珍しい存在の軍人でした。部長に次ぐ偉い人ですが、何故か検査官と呼ばれて非常に恐れられていました。工場を巡視されるというとすぐ情報が伝わって、お叱りを受けないよう警戒したものでした。足の竦む思いで、恐るおそる庁舎の検査官室に行き、「中山門の出入りを停められたがしばらく通行を許してほしい」、と状況を説明してお願いいたしました。叱られるのか、怒鳴られるのか、覚悟を決めておりましたが、案外優しく承知して下さいまして、翌日から通れるようになりました。
しかしながら、軍の方も文字通り超特急工事らしく、暫くすると土地造成工事に受刑者などが大々的に動員され、乳岩谷・松尾谷・中ヶ谷・今谷の夫々の谷奥から、現在の高専のグラウンドまで、急斜面を物凄いスピードのトロッコが走り廻り、山を削り田畑を埋め、地形を大きく変えていきます。
こうなりますと危険で、うかつに立入りが出来なくなりました。
このようにして、先祖が苦労して造ってくれた貴重な遺産、永く継承してきた大切な歴史のすべてをなくしたことを、私は寂しく、また、悲しく思います。
現在は、白屋の山林を除いた大部分の土地を、国立舞鶴工業高等専門学校として、日本の国を支える技術者を養成する殿堂に姿を変えて、優秀な若者たちが研鑽に励んでおります。
『白屋の薬師堂と仏たち』(平8・松岡徳二)は、
…想えば昭和十四年(一九三九)秋、海軍の高官が突然朝来村役場に来られて、
「海軍の施設拡充のため、白屋、岡安、長内の全地域を買収する。一年以内にすべてを撤去せよ!」
との厳命を受けたのでありました。静かでのどかで平和な村に、突然降って湧いた大事変、まさに晴天の霹靂でありました。
当時軍の命令は至上であり、抗する術もなく、民家四十七戸は住家を解体し、墓を堀って先祖の骨を拾い、安住の地を求めて親戚や縁故を頼って四散いたしました。勿論神社や寺院も例外ではありません。
このような理由で薬師堂は現在地白屋町小字堤一三六番地に移祀されたものであります。
『舞鶴市史』は、
朝来工場の建設と第三火薬廠の開設
長浜にあった海軍火薬廠爆薬部は昭和十六年四月から第三海軍火薬廠となり、これと相前後して東舞鶴市外の加佐郡朝来村(舞鶴市朝来地区)へ移るのであるが、この間の経緯は次の通りである。
昭和十四年八月、宮城県柴田郡柴田町船岡に海軍火薬支廠が開設されたのに伴い、平塚の火薬廠は海軍火薬本廠となり、爆薬部は海軍火薬本廠爆薬部となった。しかるに同年十二月、舞鶴要港部が鎮守府に復活したので、同十六年四月、制度変更があり、船岡は第一火薬廠、平塚の本廠は第二火薬廠となって共に横須賀鎮守府の管下に入り、舞鶴の爆薬部は第三海軍火薬廠となって舞鶴鎮守府管下に入ることになった。通称〃三火廠〃と呼ばれたのがこれである。
これより先、前述のように日華事変以来、爆薬および炸薬の製造が激増し、昭和十二年の後半には長浜工場内の滞薬量が安全量をはるかに超過するようになった。しかも平地の敷地内には約二三○棟の建物があり、工場内はもとより小丘陵を隔てて背後にある舞鶴海軍工廠に対しても保安上極めて危険な状態になった。このため、当時の爆薬部長は速やかに長浜工場を安全な場所に移す必要があることを艦政本部に進言した。たまたま、同十四年三月に大阪府北河内郡枚方町にある陸軍火薬庫の大爆発があったので、艦政本部でも火薬関係施設の安全化が問題となり、長浜工場の移転が急速に実現される運びとなった。
移転先は加佐郡朝来村字長内、岡安、白屋、吉野、朝来中、大波上、大波下地内に決定した。まず、昭和十四年から字長内、岡安、白屋、吉野地区の用地買収が始まり、同十五年には字長内、岡安、白屋の全戸が移転して建設が開始された。続いて同十六年には字朝来中、大波上、大波下の用地買収が行われた。買収用地は山林約四七○万平方メートル、田畑五五万平方メートル、埋立地九○万平方メートルの広大な地域にわたるものであった。
用地の西半分に当たる大波地区に製薬工場を、東半分に当たる字長内、岡安、白屋、吉野地区には成形工場および火薬庫を設けることになった。両地区の中央部に当たる字朝来中地内には庁舎、集会所、官舎、病院等が建設され、同十七年には水雷炸薬成形場および弾丸炸薬成形場が完成した。
その後、戦局の進展に伴い、長浜工場地区は海軍軍需部に譲渡することに決定したので、同十九年四月に長浜地区の製造設備一切を大波地区に移転した。
朝来工場建設の予算は約三、二○○万円、その内訳はおよそ次の通りである。
土地買収費 五、九八六、○○○円
土木建築費 一二、八五二、○○○円
水道費 一、一二〇、〇〇〇円
機械器具費 一一、二六六、〇〇〇円
そ の 他 八二、〇〇〇円
追加予算 一、○○九、○○○円
朝来工場の成形工場、同製薬工場の略図を示すと図3・4の通りである。
朝来工場開設当時の編制は総務部、製造部、会計部、医務部の四部に分かれ、職員五○人、男子工員約一、二○○人、女子工員約四五○人であった。同十七年五月には製造部は二つに分かれ、製薬関係を第一製造部、爆薬乾燥および炸薬成形関係を第二製造部とした。太平洋戦争の進展につれて設備も増加し、作業量も増大したので、同二十年八月の終戦時には職員一六四人(内技術系六○人)、男子工員二、五一五人、女子工員一、○七六人、学徒一、二○九人で合計約五、○○○人に上った(日本海軍火薬史)。
現在の日本板硝子株式会社舞鶴工場(大波下)から国立舞鶴工業高等専門学校(白屋)の青葉山麓に至る広大な朝来谷一帯が当時の第三海軍火薬廠跡であり、また国鉄松尾寺駅から同工場へ通じている鉄道引込線も当時、弾薬輸送のため敷設した線路である(写真7)。第二次世界大戦終了後三五年を経た今なお地下火薬庫跡が随所に散見され、当時をしのぶよすがとなっている。
えっウソー!というほどに先祖伝来のふるさとを取り上げられて追い出された市民の側の記述が何もない。そうした所へ目がまったくむかないようなものは歴史ではないし市史などと呼べるものとはまったくない代物といわざるを得ない。何一つ聞き取り調査も行っていない。ごリッパが過ぎる見本として引いておくが、このようなアホくさい「歴史」だけは以後は市民の税金を使って書かないようにされたい。
幸いにも舞鶴市民の側の記録がいくつか出ている。どこかの編纂室ほど無反省に軍事権力よりではない記録である。少し紹介してみよう。
チョウさんと私は呼ぶのだが、地元の関本長三郎氏らがまとめた『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』の、中から
発刊にあたり
旧日本海軍第三火薬廠「爆友会」世話人
谷口篤稔
「第三火薬廠を住民の目線で記録する」誌の発行にあたり一言お祝い申し上げます。
昭和15年、帝国海軍の一方的な命令によって朝来地区の田畑・住居は、強制買収によって失い、同時に職も失いました。その規模は、朝来地区の全山林の4割、田畑等の6割、家屋の移転は55戸という大規模なものでした。
旧日本海軍は「米英撃滅、撃ちて止まぬ」旗印の下、人間の尊厳を無視し火薬の製造に奔走しましたが、それも敗戦を迎え、今日では60年余の歳月があの苦しかった日のことは忘れ去られて来ました。
その日のことは、ここにある一冊の本が如実に語っています。私共の先輩である朝来中の永野繁雄さんが、平成5年11月に出版された「朝来の崩壊から復興まで−回顧録」です。
買収交渉の模様は、皆さんご承知の事なので省きますが、敗戦直後の朝来の様子を「回顧録」は次のように記しておられます。
『・・・敗戦で軍に雇用されていた者は、4年足らずで皆解雇された。耕す土地もなく全くの失業である。また物価高のため、買収で少しばかり握った金も、そろそろ底をついてきた。(賠償金は半分近くを国債で受け取り、生活費として引き出せなかった。また昭和22年には預金封鎖もされた。)
諺に「国破れて山河あり」と言うが、山の木で用材になるものは切り荒らされなお、雑木までが製炭材として切られる始末であり、耕そうにも昔の美田は礫土で埋められ耕作不能である。買収前二百町歩以上あった耕地も、開墾可能地は30町歩程であった。この土地を財務局と契約して、小作料を払って開墾し、耕したことであった。このような悲惨な生活に追い込まれて、かっては人情豊かであった村民も一時は思想までも変化するような、誠に情けない状態に追い込まれたのである。』と・・・
本当はどのようなことであったかは、戦争を知らない者でもこれでだいたいの推測ができそうである。この書はすでに完売だそうで、今では手には入らないと思われる。手に入らない人のために、もう少し引かせてもらうと−、
まことに優れた郷土史で、私は感心ばかりをしているのだが、それは私だけではなかろうと思う。
この書の概説は『Town town』(050810)がしっかりと書いている。それには、
*旧海軍の爆薬製造施設の実態明らかに*
*2年間の聞き取り調査まとめ*
*舞鶴市の関本さんが本を出版*
舞鶴市朝来地区で旧日本海軍の爆薬製造施設として1941年から終戦まで稼働し、動員学徒を含め最大約5000人が属いたという「第三火薬廠」の実態を、地元の関本長三郷さん(61)=同市太波上=が本にまとめ、「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」のタイトルで自費出版した。
地元住民の一人として記録にとどめたいと、2年間に亘る動員学徒ら元勤務者123人への聞き取り調査を元にした本で、戦争の名のもとで過酷な労働に耐えた勤務者らの思い、また詳細な施設図の復刻版も収録するなど、これまで概説程度しかなかった火薬廠の全貌を伝える労作に仕上げている。
第三火薬廠は、旧海軍がすでに稼働していた長浜工場の施設移転を目的とし、朝来、大波、白屋など旧朝来村の約46%の土地を強制買収し、全国3ヵ所目の火薬廠として建設。現在、日本板ガラスが操業する工場敷地などに爆薬製造の諸施設、保管庫などが立ち並び、年間3000トンに上る爆薬を生産した。
関本さんは、幼いころから火薬廠の工場廃墟を見て育ち、2年前に団体職員の仕事を退職後、地域の生活を一変させた地元史として火薬廠ことを調べ始めた。資料集めの中で、元勤務員でつくる「爆友会」の400人に上る名簿を入手し、地元舞鶴をはじめ、福井県内、京都市、東京都などに在住する75歳以上の人への聞き取りをしてきた。
また、個別聞き取りのほか、地元在住者を中心にした座談会形式の「語る会」を、地元勤務者、女子勤務者、朝来国民学校高等科舞鶴第二高等女学校など学校別の学徒動員者、火薬廠見習工員養成所卒業生などに分けて6回開き、より確かな記録として残してきた。
本は、A4判220ページ。6回の「語る会」での多岐にわたる証言123人の個別聞き取りでの話、また特攻兵器「回天」の爆薬製造の証言、燃料不足を補うための「松根油」づくりなどの話を特集としてまとめる。このほか、学徒動員で働いた舞鶴第二中学校の「学級日誌」、火薬製造や勤労動員割り当て表など貴重な資料も数多く掲載している。
「火薬製造の仕事は、原料によって手の皮膚がかぶれ、作業着もぼろぼろになるなど辛い仕事で、家族にもその苦労を話していない方が多く、個別の聞き取り調査ではよくぞ聞きに来てくれたと感謝され、戦後60年の空白を埋めるように一気に思いを話していただけました。2年ががりでしたが100人を超える方々にご協力いただけたのは、みなさんそれぞれに戦争への深い思いがあってのこと。本が後に続く人たちへの平和へのメッセージになればと願っています」と関本さんは話している。…
『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』より、
2004・4・1第三火薬廠について語る会
強制買収と引越し
☆ 1939(昭14)年の秋、海軍の将校が突然朝来村役場を尋ねてきて、「白屋、長内、岡安の地区を来年10月末までに神社仏閣墓地すべてを明け渡すように!」と言った。当時朝来村の書記だった吉野の林さんが「臨時議会を召集するために議員さんの家を回った。」と言っておられた。(関連の話が「百年の歩み」に掲載されています。)
☆ 聴く耳持たぬ命令だった。戦争前の事だし、もし反対でもしようものなら「このご時世に貴様何を抜かすか!と言われるし、事実、買収の説明会の時に「買収費の林地1坪をせめて1割上げていただけないか?」と言ったら「非国民的態度!」と怒鳴られた。と朝来中の人が「今(平成5年11月)、思い出しても腹立たしい!」と言っておられた。買収の話は戦争前の事やし、言いたい事もとても言えなかった、何も言わんと聞いてるしか他はなかった。
☆ 何回も話し合って現在の地に決まり家財道具などを運び出そうとしたが、今みたいにトラックがある訳でなく、全部「大八車」に乗せて何回も運ばんならん。(運ばなければならない。)少しでも雨が降るとぬかるんだがそれでも運んだ。この年は事の他雪が多かったせいもあり全部運び出せなかった。新しい墓は、完全に白骨化しておらず、和尚に来てもらってお経を上げてもらって移した。そんなことで期日どおりに移転が出来なかった。
☆ 白屋の人達は、決められていた期日1940(昭15)年10月までにほとんどの人が転居、移転できなかったので私が、足はガタガタ震えもって海軍大佐の検査官に、「まだ引越しが終っていないので完成をしていた中山門」を通行させて欲しいと頼んだ。(ここを通らないと荷物が運び出せないから・・)凄く怒鳴られるかと思ったが許可され、あくる日から通行出来るようになった。しかしまた運び出しても、新しい家ですぐ使えるように出来ず、外に放りぱなしにせざるを得なかった。
☆ 「村がなくなる!」事についても、当時はそのさみしさなど考える余裕もなく、只々引っ越す事に無我夢中だった。転居する人に別れをいう暇すらなかった。詳細は「白屋のあれこれ」=松岡徳二著を参照してください。
□−1939(昭14)年11月の長内、白屋、岡安の3地区が、翌4月吉野、朝来中、大波上、大波下地区の買収が始まったが、結局「村」を消滅させられた長内6戸、岡安13戸はそれぞれの所へ転居、白屋は現在の所へ集団移転の形となって28戸、計47戸全戸が強制移転になった。大波上、朝来中地区は10戸である。
火薬廠勤務者123名に聞きました
1、用地買収
*用地買収=強制買収の話は、様々な個所で出ましたのでこれらも参照して下さい。
1939(昭14)年11月に開始された第2製造部附近の買収に伴う移転は、ほぼ1年間要した。ところが1941(昭16)年4月から始まった大波を中心とする第1製造部の買収は、12月8日の開戦の230日前であった。
あせった海軍は、先祖代々から住む住民を蹴散らし、舞鶴の一、二をあらそう美田に朝鮮人や海軍刑務所の服役者を強制的に使用、四方の山々から土砂を運び、火薬という危険物を生産する頑丈な建物を建設し始めた。部分的には最期まで整わない部分もあったが、設備は急速に完備していった。その面積は長浜のそれと比べ20倍を越え、朝来地区の46%線(舞鶴市史)にも及び、総予算は、現在価格にすると3.200億円にも達する。
◎昭和14年11月23日朝来村々議会緊急招集。前日から憲兵隊に連行された村長に何があったのか知る由もありませんが、当時朝来村吏員として働いていた林氏は、夕刻開催の連絡を他の吏員とともに手分けして伝えた事を語られました。この日を境にして用地買収の話は一気に進む事になります。その林氏の日記には・・「十一月二十三日、曇、本日某重大事件が発表され、村民一同驚いた」と鉛筆書きが残されています。
同氏の夫人から昭和11年から平成7年までの60年間分の貫重な日記を頂きました。
◎昭和16年4月22日、第2回買収、小学校東側の信号から南へ吉野橋までとそれから以西〜大波下間が決定(同日記)する。
◎長内村に何回も憲兵が来て「何時いつまでに出ろ!」といわれた。
◎松が森工員宿舎の場合−昭和17年初めだったと思う。施設部に呼び出された。「所有地の山を削り、工員宿舎を建てる。契約しろ、協力しないと言うなら貫様の為に日本が負けてもいいのか!そんな事になれば〃非国民〃になる。ここは日本だ、判(判子)をつけ!」文句の一つも何も、言えたものではなかった。
◎始めから命令口調やし、海軍の事なので、戦争だったし、従わなくてはならんので、反対しても仕方がない。そんな事を言ったら「非国民」扱いにされる事は判っていた。
◎杉板を取るために、各部落の山の詳しい者に言いつけて「大きな杉を見つけて報告させた」そして、それを強制的に「伐採」させた。杉板に「酢」を塗ると赤めのいい色になったものやから・・・
2、立退き
立退きの苦労話は、本当に沢山の方からお聞きしました。舞鶴では、道路を隔てて住宅が一方にかたまっている地区をよく見ますが、海軍の施設の関係で移転させられたものです。また、市街地に対しても終戦の年4月、三条、大手通りなど夜に張り紙された「家屋強制疎開」の家は、明くる日から5日以内に立ち退けというメチャクチャな事がまかり通りました。市内中心部の幹線道路の広さは、この当時に拡幅されたものです。
◎私の家は、行くところが中々決まらないでいた。建設会社の事務所に応急的に入って立退きをした位だった。町内の人から移転先を世話してもらってようやく落着いた。
◎森地区の工廠宿舎建設− 毎年秋に実る「梨」があって、生活の足しにするために楽しみだった。ある日突然将校が来て全部切り倒した。文句を言うと「後ろに手が廻ってもいいのか!」と言われて、泣くに泣けず黙っていた。その夜、気丈夫な父が泣いていた。
◎平海兵団(舞鶴第2海兵団)建設に関して − 海軍が通告してから一週間後、今度は「(家を壊す事は)軍がやる。お前達は何をしなくてもよい!」と称して家に太い縄をかけて大勢で引き倒した。新しい墓などは、臭いもするし、もう一度棺桶を作って運んだりした。とにかく家の物を全部出し、近くの仮住まいの小屋に運んで家が建つまでの一年間を過ごした。
◎新しい家は、元の家の面積、数を越えたらダメ、わら(かや葺き)屋根は、二階建てにしてはダメ、新しく作る「蔵」もダメ、「ひさし」には壁を付けろ、防火設備についてもうるさかった。屋根の瓦だって曲がったものが来た。中田の村が完全に消滅すると思った。思い出は、影も形も全部なくなった。
◎仮の住まいにしている小屋までも、宅地造成の発破で石が飛んできたものだ。
◎移転した先が、また移転せよといわれて、二回も変わった方もあった。
3、火薬廠建設の埋立て
用地買収を強引にやり終えた海軍は、直ちにこれまた猛烈な勢いで埋立て作業を開始します。数え切れないほどの朝鮮人作業員、皆から「囚人」といわれた海軍刑務所の受刑者、残念な事にこれらの方の声を聞く事が叶いませんでしたが、この項に関しては、特集「朝鮮人強制連行と寄留簿・火薬廠建設」をご覧下さい。
◎埋立ては、何にもましての優先工事だった。まず旧長内地区の奥谷から始まった。徴用工や受刑者を使っていた。2人一組のトロッコでどんどん田を埋めて行った。
◎田圃には、まだ稲穂が付いているのに、収穫を待たずに埋め立てているのを見た。これは何が何でもひどいなあ−と思った。土砂を運び出す作業は、家のそばでも関係なく始まった。家を曳くのを見たが「御殿が動くようで凄かった。」線路がいくつも延びていた。トロッコの凄いスピードが怖かった。
◎田口神社の横の現場では、通学する子供を止めて発破作業をしていた。2人で赤旗をもって立ち番をしていた。今思えば凄く危険だった。
◎岩盤を砕くため、小さい穴をあけ、それを段々大きくして、その穴に爆薬をつめて崩していた。その破片が300メートル以上飛んで、屋根瓦を壊した事がある。弁償して欲しいと思っていたが、怖くてよう言わんかつた。隣の家も壊れた。
◎この作業は、トラックで受刑者が運ばれてきた。みんな腰にクサリをつながれて運ばれてきた。映画の「奴隷」みたいだ。
◎みんな青い作業服を着ていた。夏場は「ふんどし」まで青かった。
◎埋立てが先へ延びて(あたりは)線路でいっぱいだった。完全に埋まっていないので、トロッコが通るたびにレールの下が「ブクブク」していたのを思い出す。
埋立て土砂をとりだした場所・・・1大波下愛宕山登山口西、2田黒、3久原口橋前、4田口神社西、5西宮集会所川向い南、6旧三軒官舎西、7長内、岡安の山々など(小規模にはその他にも沢山あります。)火薬廠の近辺の都合の良い所から土砂を搬出しました。
『朝来校百年の歩み』(昭48)より、
暗い思い出−朝来谷の買収
そうした子どもの生活に戦争の暗い影を投げかけたのは、十五年から十六年にかけて行なわれた朝来谷の買収であった。藤村正巳氏は当時を回想して次のように語っておられる。
戦争を実際に感じたのは、朝来谷の買収の時でしたな。勝つとか負けるとかいうことではなく、暗い感じでした。うちのじいさんが海軍の買収の接衝をしておったのですが、軍の膝詰の談判に呼び出されて、四日間司令部から帰って来ませんでした。四人か五人か行かれたんです。行ってから三日三晩帰ってこん。殺されとらへんやろか、なんぼなんでも今夜あたり帰って来そうなもんやいうて、今は板ガヲスエ場になっている舟着き場へ行って、一晩ばあさんとじっと待っていたことがありました。四日目の晩に、軍用車で送られて帰ってきて、がくんとして、実印をポトンと押した。その後はすぐに切り崩されて行きました。あの時の印象というものは、子ども心にも暗いものを落としたものでした。晩帰ったということはいうたらいかんということて固く口止めされました。四年生ぐらいの時のことです。
朝来の面積全部で六百町歩、その半分以上の良田が海軍に買収された。長内、白屋、岡安の四十七戸、それに二社一寺が移転して、白屋、朝来中、登尾へ移ったのが十五年翌十六年には、朝来中三戸、大波上十戸が移転したのだった。買収によって農山村であった朝来の生活は一変したのであった。
買収された用地に、第三火薬廠が建つというので、学校にも転入児童かふえた。朝鮮の子弟もどんどん入ってきて、後には、クラスの半分以上が朝鮮の子どもで占められるようになった。朝鮮の子には、頭のいい子もいた。年令も中には三つも四つも大きい子もいて、成績のいいのはトヅプクラス、悪いのは悪いということで格差が大きかった。女の子にはきれいな子が多かった。
『朝来校百年の歩み』(昭48)より。この書も優れた書である。もう少し引かせていただくと、
女子生徒も増産に一役
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争に突入。その頃になると、食糧をはじめ衣料品等もますます窮乏の度が深まった。子どもたちも「欲シガリマセン勝ヅマデハ」を相言葉に、乏しきに耐えて、一方増産に一役かっていた。
その当時朝来校は、市内の増産モデルスクールで、先生たちも、出勤するとすぐに脚絆を巻き、地下足袋をはいて陣頭指揮をした。上級生は道路ぶちに穴を掘って大豆をまいたり、校庭を掘り返してイモ畑を作ったりした。
お米もかなり作った。飛行機用のヒマも作った。杉山の上り口で松の根掘りまでするようになった。松根油をとるためであった。開墾から帰ってみると、弁当が盗まれてなくなっているようなこともあった。
少年団活動も次第に強化され、クワやマオの皮をむいて、干して学校へ持っていった。それも収量を分団で競争したから、負けまいとがんばったがいやなことだった。そんなにしてまで繊維を集めねばならなかったのである。お宮さんへドングリ拾いに行って、たくさん集めたものは表彰されるというようなこともあった。彼岸花の根を集めたこともある。食べられる物はすべて役立てねばならなかった。
竹槍訓練
十七年の四月十八日、アメリカの飛行機が東京を空襲したのが皮切りで、戦禍は国内にも拡大していった。学校で戦意昂揚と本土上陸に備えて竹槍訓練も行なわれるようになったのは、敗色濃くなった十九年の末である。
勉強していてもいつ太鼓がなるかわからない。太鼓が鳴ったら、竹槍を手に手をとって運動場に飛び出し、運動場を一周駈けて藁人形を突くのである。遅いともう一ペン運動場を走らされるから、勉強中も、太鼓がいつ鳴るか、気になって落着かない。チャーチルやトルーマンの似顔の藁人形を、竹槍で突くのだが、気合が入っていないと、よいといわれるまでやらねばならず、雪の中での素足がこごえて、冷たさもわからなくなってしまうのだった。
学徒動員
高等科の生徒が、学徒動員で第三火薬廠に通うようになったのは、十九年十月、行き帰りはラッパを吹いて行進し、校門には門衛が出来て分隊長が「総員何名。」と告げて出入りした。火薬廠では、手は黄色になるわ、鼻の下は黄色うなるわ、中には薬品にかぶれる者もいた。当時朝来川はものすごく黄色い水が流れていた。川いうたらあんなもんやと思っていたが、硫黄で汚濁されていたのだった。日当は一円だった。
しばらくして、学徒動員でなく奉仕隊という名前になって工場にはいらず、道端で作物を作ったりした。この方は日当五十銭であったが、敗戦でもらわずじまいになった。
火薬廠で働いていても、豆の入っためしではおなかがすいた。それで一策を案じて、工場の洗濯物の蒸気を使って、お風呂の洗い桶でヨモギを蒸したり、豆をゆでたりして食べたこともあった。
それとシラミに悩んだことが忘れられないがそれは後の章に書くことにする。
火薬廠が出来た十七年から、海軍の将校の娘は、海軍のバスに乗って通った。てくてく歩いていかねばならぬ一般の子どもは、羨しいような、恨めしいような、くやしい思いで、バスの通り過ぎるのを見送ったものである。そうした差別は、病院においてさえあり 海軍関係の病人は、レモンや何やと物質のない時代に、口にしていた。
空襲
敵機は次第にひんぴんと、舞鶴をも襲った。しかし、それは湾口の機雷封鎖とか、艦船に対するものだから、空襲警報にもさほど驚かなくなった。ただ防空頭巾だけは、いつも肌身離さず携帯していた。
当時はすでにサイパン島は陥落し、そこを基地にして、しきりに本土を空襲してきた。二十年の七月三十日、白昼舞鶴湾は空襲された。川端五兵衛氏は、その時の恐怖を次のように語っている。
よく晴れた空に、たくさんの艦載機がいきなり山かげからあらわれたのです。グラマンかなにか黒いやつでした。私らは肝をつぶしてタコッボに逃げこんだ。一人一人にタコッボが掘ってあった。あわてて、一つのタコッポに、大波上の梅本さとるさんと、上官だった谷口耕一さんと、私の三名が飛びこんで、抱きあって伏せていました。機銃掃射の弾丸がバラバラと落ちてくる。ひょいと顔を上げると敵機の飛行士の首にマフラーを巻いた姿が、じかに見えた。あの時はこわかったですな。戦争の恐ろしさを肌に感じました。
学校の近くに松本鉄工所がある。あのあたりに機銃掃射の弾丸が落ちたそうである。しかし全校児童は、防空壕に避難して、事なきを得た。この防空壕は、朝鮮の人たちが、手弁当で、無償で農場に掘ってくれたもので、いうに全校児童を収容することが出来た。市内の学校には、こんな立派な防空壕を持っているところはなかった。学校が朝鮮の子弟と、日本人子弟との融和に努力していたおかげでもあろう。
朝来校の校庭にはご覧のような「土管」が置かれている、常滑焼きかも。しかし実はこれは土管ではない。左のように刻印が打たれた、陶器製品である。両側にネジが切ってあり、何本かをつなぎ合わせて長いパイプにするのではないかと思われる。
『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』は、
2004.10.5の朝来国民学校高等科の「学徒勤労動員」体験者語る会の記録に、
朝米小学校の「土管」のルーツは?
☆ところで今の朝来小学校の校庭にある大きな『土管』は、どうしてあるんや?
☆それは「ルンゲ塔」という装置の一部や。直径1.1m、高さ1.7mあって、これを縦にして10個ぐらい積み上げて1本にして6本づつ2列に配置して溶酸を回収する装置として使ったものだ。第一製造部の爆薬製造工場にあった。
(朝来校はここに動員された。)
★ルンゲ塔:気化した硝酸を水溶液として廃酸槽に回収する装置(「舞鶴での火薬人生」)陶器製の土管、これがどのようにして朝来校にあるのかは不明。少なくとも1970(昭45)年には2個あったが現在は1個だけ。推測されるのは、朝鮮戦争(1950.6〜53.7)当時米軍の弾薬置場(1950〜55.5)になった時か、自衛隊の弾薬置場の閉鎖が決まった1966(昭41)年の『記念』として学校に持ってきたのではないか・・・とするのが専らの見方です。
舞鶴市内の小学校に旧海軍の“遺物”があるのは朝来校のみである。従って校下に「火薬工場」があった事でもあり、高等科とはいえ、本校卒業生が体験したとの歴史に立つならそれにふさわしい扱いを考えたくもないが、今更・・・と思わんでもない。
確かに校庭には1つしかない。ないかないかと校内であまりキョロキョロすると不審者と間違われるので、こんな貴重な宝物のもう1つを失ったのか、何というアホじゃいな、戦争を知らぬもいい加減にしろや、とブツブツいい、心配したが、−見つけた。
見つけて下さいと言わんばかりでに学校正門を出たとたんに、向こうから目に飛び込んできた。
学校農園の中にあった。ここで穫れたイモのツルだろうか、一杯に詰め込まれていた。フチの部分にはヒビがはいり、一部が欠けている。
火薬廠の大事な遺物であり、朝来村の現代史の貴重な語部である。どなたか先人はこういう風に使うために学校へわざわざ運んだのではなかろうと思う。これは苦難の歴史を歩んできた朝来村民に対する、大きく言えば全人類に対する冒涜行為である。しかるべき所へもっていってしかるべき保存しては、といいたいが、そんな所がない。ああああ情けない話である。
過去を忘れ徹底した反省を忘れるとき、それは未来を忘れるときであり、自殺のときでもある。これは氷山の一角、大事なことを完全に忘れるのは、何もこればかりではないのではなかろうか。それは市民である自分自身に対する冒涜でもあろう。
何度も何度もうるさく言うけれども、市民達が過去の歴史に対して無知・無関心であればあるほど、権力にとってこんなにありがたい好都合なことはそうないのである。エエカゲンな政治と行政「あんなクソ役人どもはなにさらしとるかわからへんぞ」「まあ、お前らあは早よ死ねといわんばかり」と皆がいう。格差を拡大させ、地域を限界に追い込んだ、医療は崩壊。年金もくしゃくしゃ。憲法改正で戦争しよう。核武装だ。さすがに選挙では負けたが何の反省もない。シンから腐り切っている。国や市民を守るのかとおもっていれば、防衛庁を守り警察を守りブさんや一部が私腹を肥やすためだけの自衛隊と警察。学校は子供と地域の文化のためにあるのか。それとも…
クソ政治屋やクソ役人だけが悪いのではない。何も世の中の不可避の流れの中ででこうなったのでもない。永年の市民の側のチャランポランな姿勢がこうした世の中を招いたのでもある。しっかりしようぜ。我らの生き方を変えないことには世の中は変わらんぞ。
国の再生。政治の再生。郷土の再生。…早急に再生しなければならないものは幾らでもある。しかしそのキーポイントは「頼りない仕事をしよるエエカゲンな学者先生」を呼んでくることでなくて、実は市民の再生に尽きよう。市民の再生は市民の歴史の再生を欠いてはできない、−そうと考え、こんにHPを作っているのであるが、さてどうであろうか。
『舞鶴での火薬人生』(浅尾正雄・平13)に、(写真も)
ルンゲ塔
ルンゲ塔は、各種爆薬の製造時に発生する気化した硝酸ないし亜硫酸ガスを、硝酸および硫酸として回収する装置である。ルンゲ塔の構造などについては、すでに説明をした。
なお、ルンゲ塔という名称は、この装置の発明者であるドイツの化学者ルンゲの名前に由来すると聞いている。
二個のルンゲ塔が、朝来小学校の校庭に今もころがっている。子供たちの平和な遊具となっている。いかなる経緯で二個のルンゲ塔が小学校に持ち込まれたのか、定かではない(…)。
ルンゲ塔と朝来小学校は、火薬廠での学童動員を私に思い出させずにはおかない。すでに述べたように、一、二○○名余りの学徒が火薬廠に動員されていた。その中には朝来尋常高等小学校からの二○人前後の学童(男児)も含まれていた。彼らは、主として農作業を手伝った。
先に説明した粗製品置場の東北側にも、二個のルンゲ塔がある。土中に少し埋まり、半分ほどに欠けて壊れている。また、その建物の西側には(爆薬一時置場との間)、酸を入れていたと推定される陶器製容器・壷がやはり二個、横たわっている。
この朝来小学校には朝鮮人の子供が半分もいたというハナシもある。同じく同書の「第三火薬廠について語る会」から
朝鮮人宿舎
☆ 朝鮮人宿舎 一 大波上の下の方に奥原地区があり、ここにトタン張りの4〜5棟、2〜300名、いやもっと多かったと思う。家族づれもいた。初めは地下タンクの工事に出かけていたが、その後火薬廠の埋立に行ったと思う。この飯場(潜函=せんがんバラック)が全焼した。物凄い火が上った。田圃伝いを通って見に行ったものだ。この部落の入口には、立派な駐在所があった。戦後さかんに耕作もされたが現在は、遊休地となっている。飛鳥時代といわれる「大波古墳」がこの上の山裾に残されている。
☆ この宿舎以外にも家族連れは、民家の「離れ」を借りたり、小屋を建てたり生活をしていた。自分の国で生活していたように床下に煙を通して「暖房する」=オンドルの設備をする人もいた。朝鮮の人達は、みんな腰が低くかつた。別にいじめたりはしなかったと思う、普通に付き合っていた。朝鮮の子ども達も小学校に多く通い、クラスの1
3もいた。全体として大波下にいる人が多かった。
(終戦前の朝来校の児童の中で、朝鮮人の子供達が半数近くいた−とされるが、同窓会名簿や関係者の皆さんによるとほぼ3分の1と思われます。)
同書「朝来国民学校高等科『学徒勤労動員』体験者語る会」に、
朝来校への朝鮮人の子供達の増加
☆朝鮮から両親と共に朝来に来た子は、凄く多かった。中には頭のいい子もいた。
☆その男子は、全員火薬廠に行った。女子も男子も実際の年は大きな子もいた。女子の中には戦争が終わったら直ぐに結婚した子もいたぐらいだ。
★当時朝来校は、朝鮮人の生徒が学年の半数を超えていたといわれているが、名簿で推計すると半数を超える事はない。なお同校の「歩み」の発行と平行して作成された卒業生名簿によると1937〜1949(昭12〜24)年の年度別卒業生の数は次の通りです。昭和12年−29名以下13−29、14−26、15−24、16−46、17−49、18−54、19−54、20−35、21−31、22−34、23−47、24−50)なお、この項については「朝鮮人強制連行真相調査団」報告の項をご覧下さい。
「火薬廠勤務者123名に聞きました」に、
朝鮮人作業員と子供達
火薬廠の建設については「朝鮮人作業員」を抜きに語る事は出来ません。使うものと使われるものとの立場の違いはあっても、戦争という大きな渦の中では朝鮮人も工員も同じ被害者。そして子供たちも・・・なお、残念ながら関係者から直接、証言を聞く事ができませんでした。
そのため、「朝鮮人強制連行と寄留簿、火薬廠建設」と「朝来国民学校勤労動員語る会」の項を合わせてご覧下さい。
・工場埋立て作業は、全部人の手でされた。発破されたものをツルハシとスコップとトロッコでやっていた。私は当時国民学校高等科の2年生だったが「18歳の同級生」がいて、まるで「おっさん」と勉強しているようだった。
・朝鮮人の徴用は、家族で来ている。朝来校が児童数の半分を超える事はないと思う。
・私らは、朝鮮の子供と一緒に学校も行ったが、別にケンカすることはなかった。とにかく腹がすぐので、それよりも木の実や食べられるものを見つけることが肝心だった。
・徴用工の飯場は、奥原にあった。大波下に多く住んでいた。大波上や朝来中では民家の空き家を借りて住んでいる家族もいた。
・徴用工の本国送還−病気などで仕事が出来なくなった朝鮮人20名を帰国させるために博多まで送る事になり引率をした。往きは山陰線周りで2日分のおにぎりをつくってもらい船に乗せた。送るときは「公務」だったが、帰りは「一般扱い」になり切符がすこしづつしか買えず、3日間もかかって帰ってきた。
・終戦の時、「今までいじめられてきたので朝鮮人がメチャクチャするで=暴れるで..」といわれたが何の事はない、一番先に逃げたのは憲兵と巡査だった。
もちろんよい教育をするよい教師も朝来校 にもいたと伝わる。文部省が表彰してくれることであろうし、××市や××市教育委員会あたりも貴重な近代化遺産、世界遺産級と持ち上げてくれるかも知れない、心当たりは即刻名乗り出られるとよろしかろう。
同書「朝来国民学校高等科『学徒勤労動員』体験者語る会」に、
☆動員中は、火薬廠で工員から殴られる事はなかったが学校では厳しかった。6年の始めは男も女も見境なくやられた(殴られた)。
☆「朝来校百年の歩み」(以下「歩み」)の写真を見て、突然「あっ!この中にわしを殴った先生が居る。「この時は、新校舎の非常階段の二階の隅に呼ばれて、全員が殴られた。この先生がこの女の先生と(写真を指差し)評判になったもんやから生徒全員をやったんや」「この先生は(殴らなかったので)よい先生だった。」「この先生は雪中行軍の時軍刀を抜いて竹をスパッと切るのが好きやった。」「若い先生は軍隊に行っても行かなくても(軍人のやり方と)一緒や、殴らん先生もおった。
こうしたすばらしい朝来校史を伝える「土管」である。イモヅルなど詰め込む無神経極まる「近代化遺産の活用」をすれば同じ過ちを繰り返すこととなろう。
第三火薬廠では回天の弾頭もつくられていた。現在は舞鶴市のグリーンスポーツセンターとなっており、少年少女のキャンプなどに使われている、広い所である。「空水谷22工場」と当時は呼ばれていた。
『京都新聞』(070824)に、
*人間魚雷「回天」の製造従事*
*舞鶴・77歳男性 戦争体験を語り継ぐ*
62年前の終戦直前、舞鶴市朝来地区にあった旧海軍第三火薬廠に旧制中学の生徒が動員され、人間魚雷と呼ばれた特攻兵器「回天」製造の一過程を担った。「あの時は国のためと信じていた」。26日に市内である「回天」を題材にした映画の上映会で、製造に従事した男性が自らの体験談を通して戦争の悲惨さを訴える。
同市森本町の小坂光孝さん(77)。1945年4月、小坂さんら舞鶴第二中(現・東舞鶴高)3年生全員が同火薬廠に動員された。生徒らはまだ14か15歳だったが、機雷や手投げ弾などさまざまな兵器に火薬を詰める労働に連日取り組んだ。
その一つが戦況悪化を受け、旧海軍が44年秋に採用した回天。全長約15メートル、直径1メートル、1人乗り。舞鶴の海軍機関学校出身の黒木博司少佐が発案したとされる。潜水艦に搭載し、敵を見つけると発進させ、乗員は潜望鏡で敵艦の位置を確認し、敵艦に突っ込んだ。
火薬廠には弾頭のみが運ばれてきて、そこに固形と溶けた火薬を混ぜて詰めた。火薬の蒸気で肌はかぶれ、目の回りは紫に変色した。トラックに弾頭2つを乗せて運ぶ途中、弾頭がぶつからないよう間に立って支えていた仲間が押しつぶされ、亡くなる悲劇もあった。
8月15日、作業中に広場に集められ、終戦を知った。小坂さんは「涙も出ない。言葉の意味をしばらく理解できなかった。日本は負けない、と教育でたたき込まれていたからだ」と振り返る。
小坂さんら火薬廠経験者で15年前、回天の模型を作った。地域の子どもらに「こんなものを作らなければならなかった戦争のむなしさ」を知ってもらうためだ。以降、毎年8月、市内の戦争展で展示している。
26日、回天に乗った若者を描いた邦画「出口のない海」(主演・市川海老蔵さん)が、北田辺の市民会館で計3回上映される。小坂さんは「私らには体験と平和の尊さを語り継ぐ役目がある」との思いで、午後2時の部の冒頭で当時を振り返って講演する。
人間魚雷とはどんなものか御存知ないかも知れない。
『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』には挿絵もある。
人間魚雷「回天」、太平洋戦争末期に造られた特攻兵器。「回天」とは、衰えた勢いをもり返すという故事にならった。改造した魚雷に爆薬を搭載し、隊員が操縦して敵艦に体当たりする兵器。最大径1メートル、全長14.75メートル。命中すれば搭乗員は爆死、脱出装置はない。戦死者は145人、平均年齢21.1歳だった。その「回天」の爆薬の製造研究と量産化をここ舞鶴の長浜にあった海軍爆薬部が成功。これに携わった関係者が1986年「鳥取県西部海友会々報」2号に掲載されています。ご家族の了解を得て、転載させて頂きます。筆者は朝来の官舎に家族と住んでいた火薬廠の海軍技手(少尉)です。
としてその資料が転載されている。専門的で長いので、その後にチョウさんがまとめておられるので、そちらを引かせてもらうと−
第三火薬廠で作られた
人間魚雷「回天」搭載爆薬の「秘策」に思う・・・
当時、舞鶴市朝来中の海軍官舎に家族と共に住んでいた佐々野さん(故人)が出身地の鳥取県の海軍・自衛隊関係者でつくる「鳥取県西部海友会」誌に寄稿しています。(佐々野夫人は、三人の子供さんと朝来小学校前の官舎住まい、ご飯に入れる野草摘みが仕事であったと回想しておられます。現在米子市在住)この爆薬そのものは、1932(昭7)年から舞鶴市長浜の海軍爆薬部で研究開発されていたものです。(長浜爆薬部は1929.7束京滝川から移転した。)後日この作戦が計画された当時は「あまりにも
残酷すぎる」と言って却下された程の作戦でした。終戦間直の春、再び持ち上がり、1944(昭19)年8月、山口県の大津島(現周南市)に基地が出来ました。
では先の爆弾がなぜ「回天」に使用されたのか?それは、「九八式爆弾」と呼ばれた爆薬は、“支那事変”(1937)で日本軍の爆撃機が、敵機の機銃掃射を受けた時に、直ぐに爆発するので、これを敵機機銃弾が命中し爆弾が燃え出して火を噴出していても爆発せず、目標に投下されて始めて爆発するという「驚くべき性能、米英の度肝を抜いた」爆弾でした。
つまり、「回天」が敵艦に向って 少々の「被弾」しても目標に命中するまでは爆発させない事により、初期の目的を達成しようというものなのです。この爆薬を「回天」に取り付ける作業にも第三火薬廠の海軍技手が出かけたり、呉工廠にも修理の出張に出かけた。
しかし困った事に、この爆薬作りに従事する作業員は100%「カブレ」ました。そのために外国ではこの爆薬製造方法を採用しませんでしたし、あの日本陸軍さえ全々関心が無かったとされています。
火薬廠での「かぶれ」の苦労は筆舌に尽くしがたくこれを「銃後の守り」と無神経に勘違いした。この「かぶれ」こそ火薬廠の代名詞!舞鶴に設置された海軍爆薬部から76年余。日本の戦争に
深く関った火薬廠が、その朽果てた残骸を人知れず我がふるさとの山々の麓にそこかしこに 残している姿は、「歴史」だけの言葉で終わらせたくない!と強く思う。(長)
回天は潜水艦に抱かせたようで、敵艦を発見すると、搭乗員は母艦の潜水艦より回天へ乗り移る。その入口は図によれば上と下にあったようである。いずれにしても出入り口は外からナットで締め付けられるので、一度乗ってしまえば最後で中から出る方法はない。
いかに決死の作戦といえどもこれは異常としか言いようがない。発狂している。人間のするようなことではない。決死といえども、せめて何%かの生還ができるようには設計しておくべきであって、それが100%できないならば、こんな作戦兵器は造ってはなるまいし、まして使ってはなるまい。戦争とはかように人間性破壊の狂気であって、カッコがいいなどは考え違いもはなはだしい。どこぞの市や市教育委員会さんどもがさかんに持ち上げ、観光名所にしたいそうであるが、その海軍さんもこの例からはしっかりもれなかったのである。赤レンガ倉庫の前に復元して飾っておけば、観光客が来ることであろう。市や市教委さんやめた方がいい、どこからもここからもボロクソに言われることはまちがいないと思う。
145名もの若者がなくなったそうであるが、はたしてそれに見合う戦果があったのかどうか、記録はない。簡単に敵艦にぶつかれたりはしない。飛行機のような高速のものでも、命中率は数%でしかなかったと言われる。たぶん一人も成功はしていないと推測される。
尚、この回天、改造魚雷というべきか、ミニ潜水艇とよぶべきものなのか、その本体の極秘にされた「乗り物」であるが、これは舞鶴海軍工廠で造られていたというハナシや証言も残されている。本当なのか私は確認はとれていない。このいたれりつくせりの書にもこれについては何も書かれてはいない。
『舞鶴の民話2』に、
馬田 (朝来)
朝来の郷土史家が田のあぜ道に坐って語りはじめた。
ここ朝来中と吉野は昔より部落があった。戦国時代、それ以前から時には戦乱の巷であったらしい。
石田三成一派の文治派は同じ豊臣家の部下でありながら、武力派の一派とそりがあわなかった。武力派の人々は徳川家康にくみした一六○○年(慶長五年)に一大激戦を演じました。丹後を領していた細川忠興は武力派の一人だったから、上杉景勝を討つため家康に従って丹後を出ていた。
その留守をうかがって大阪方では兵をさしむけ、その手はじめに家康に従って関東へ下っていった諸将の妻子を大阪城におびき入れて人質におこうと企てました。大阪玉造の屋敷にいた忠興の夫人もこの企ての対象になったのですが、夫人はその無礼を大いに怒りついには自分の屋敷に火を放って刀に伏し相果てました。
一方忠興の父幽斉は宮津の城にいたのですが、屈強な武士はほとんど忠興に従って関東に下っており、重臣松井、有吉等は豊後にいましたので大変困りました。手もとの兵士は百騎に足らぬ小勢であります。そこで、宮津、久美、峰山の諸城より田辺に集中し防戦することにきめた。この報が伝わると、宮津の漁師たちは漁船を出し、幽斉一行を無事田辺まで送った。
田辺城防戦の兵は雑兵をいれて五百人に過ぎない。桂林寺の大溪和尚は弟子僧十四人をつれ加担、瑞光寺の明誓も加わり、吉原の漁師も海辺の守りにつき、田辺の城下は幽斎の永年の恩義にむくいるべく準備した。
寄せ手は主将福知山城主小野木縫殿助を初めとして、別所豊後守、山崎左馬助、源仁法印等、大阪よりの攻め手合せて総勢一万五千余人であった。田辺城を攻め、細川氏と戦った。其勢は侮ることなく要所を占領した。
当時小野木の偏将某朝来谷を其手に攻め中村の小野山に陣をしいたことがあった。其の頃であっただろう、戦斗中の一武士が流れ矢が乗っていた馬にあたり、馬はたおれた。矢はやつぎばやに飛んできて、馬は再起不能になってしまった。武士は今まで幾度の戦に働いてくれた、愛情の念にたえず、矢のとび来る中、愛馬の死がいをだいて草むらの方に歩んだ。それを見ていた敵方は、矢を打つのをやめてじっとみていた。涙をながした顔で静かに坐り、草むらの先の田んぼの土を手で穴を掘り、静かにその中に埋め、土をかぶせて土盛をした。
手をあわせておがんだあと、その上に小さな一本のむろの樹を植えたという。後年このむろの樹は大きくなって遠方からでも見られた。村人はこの話をきき、このあたりの田んぼを馬田と称するにいたった。
筑前国下座郡馬田郷というのもあるから、必ずしもこの伝説のような話ではなかろう。水ケ浦沖の馬立島とか、ウマダテというのは馬を繋ぐことで、文字通りだと馬を繋いだ島ということになるが、それは何の為の馬であろうか。あるいは水神・犠牲獣としての馬かとも思われるが、ここでは馬を屠って埋めた、その上に木を植えた。…のかも知れない。馬はあるいはマか何かの当字であるかも知れない、何も資料も残されていない。
『市史編纂だより』(56.3)に、
朝来谷と郷土史家岸田篤翁
専門委員 藤村重美
青葉山西麓より舞鶴湾まで、大浦半島の基部に細長く東西に約6キロ延びる主谷を中心に、多くの谷が南北に分岐している朝来谷は、未解明な多くの歴史を秘めた谷である。
地名の由来は、丹後風土記伽佐郡御田口祠の条に〃校倉〃を意味する「阿勢久良」が転訛し、鎌倉期以降に朝来となったもので、正応期の丹後国諸庄園郷保惣田数帳目録(成相寺蔵)にも「加佐郡志楽庄朝来村三宝院四十二町五十歩」として記されている。当時、朝来村に三宝院(京都醍醐寺系)の所領があったことが分かる。
また風土記の御田口祠にあたるのが、朝来の氏神である田口神社で、ここには市指定文化財である享徳3年(1454)の石灯寵が存在し、豊受大神他二神を祭るが、明治8年に社殿・古記録共焼失している。丹後の代表的な古社と考えられる。
この谷に古い居住と豪族の存在を物語るのが大波上の古墳群である。径10〜15メートルの円墳9の存在が府の遺跡地図に示されているが、昨年6月の調査で新しく7つの円墳が確認されるなど、正確な遺跡調査もなされぬままである。遺跡のみでなく正平期(135Oごろ)南朝遺臣錦織兵衛の潜居地と伝えられる朝来中村城、弘治年間(155Oごろ)に伊予山名の落武者浜井兵部の岡安城についても正確な位置も不明である。岡安城にも関係ある旧家の大石家(現朝来中)の文書も最近調査が行われ、同家に残る天正13年(1585)の「細川家之御城図」は最古のものとして郷土資料館に展示された。
しかし、この谷は旧加佐郡域では、明治以降の集落及び河道の変遷の最も著しい所で、現在までに小野・八田(共に朝来中の分村)・田黒(大波上の分村)・岡安・白屋・長内・笹部と7集落が消滅または移転し、文書類の消失もあって、その歴史の不明なものが多い。田黒以下は昭和期に入っての移転のため、今なら正確な史実が得られると思える。戦後にゴルフ場設置のため、山麓部の旧岡安地区に集団離村した笹部のみは、市史編さん室のスタッフによってかなりの資料が得られている。
この谷の知られざる近世の姿の一つは、田辺藩内で一番豊かな山林と、田畑のあったことであろう。この谷には大波(564)・下谷・朝来中(共に240)・岡安(90)・白屋(201)・登尾(263)・笹部(31)・杉山(124)・長内(50)=数字は宝暦期の石高=(大波は享保六年に上・下に分割、下の石高は239石、下谷は明治4年吉野と改名)の9村があり、大波の2分により10村となって明治期に入り同22年この10村が朝来村となった。この谷は地形上新田開発はほとんど考えられず、明治期以降戸数の増加をみたが、明治末〜大正初期にかけての朝来村(250戸)の平均耕作地は9反3畝、山林は1町1反、この数字は加佐郡内各村中第一位の経営規模で、京都府下でも屈指のものであった。嘉永期の「田辺藩郷村記」にも笹部・登尾は豊かな農村として示されている。しかし、朝来村に対する賦役は八ツ一といった高いものであった。
この谷の年貢米を城下に積み出した大波湊は、藩内の主要港の一つで、年貢米の移出のみでなく大浦・河辺谷と南部の志楽・倉梯との結節点でもあり、また盗賊の多かった吉坂峠を避けた若狭への裏道、更には巡礼道の出入口として栄え、この谷を通じる道は丹後・若狭を結ぶ要路であった。
古代より肥沃で(山林の多いこの谷は肥草も多かった)豊かな農村の多いこの谷の耕地の荒廃をもたらしたのは、鎮守府設置のための山林の乱伐であった。明治24・25年ごろのことである。
このため、治山治水のバランスが崩れ、同29・40年、大正7年とこの谷に大洪水が襲い、朝来川沿いの主要耕地が大被害を受け、遂に村の存亡を賭けた大事業として、朝来川の南麓部移転が計画され、大正8年4月より同10年2月にかけて完了した。しかし、明治期以来の洪水で、村の財政も各戸の資力も乏しかったため、その費用5万4千円の返済には20年もの長期を要している。
返済完了とともに朝来川河口左岸に高さ7尺5寸、幅3尺の朝来川改修紀工碑が建てられた。仙台石に刻まれた長文の碑文の最後に
始而免水禍今年八月債務完済得達多年宿志
矣因于茲紀其功爾云
とある。今年八月となっているのは、当時の表現では「皇紀二千六百年」すなわち昭和15年であった。そしてこの年に朝来谷に第三海軍火薬廠の設置が決まり、やっと水禍より免れた下流のみでなく、上流の耕地も収用され、岡安・長内・白屋は全47戸が移転し、その長い歴史も墳墓の地も同年に消えた。
更に同17年には東舞鶴市と合併のため、朝来村の名も消えることになった。このため「朝来村史」の刊行が企画され、荒木信次郎・田野治平の両旧村長の執筆で同19年9月に完成した。当時あった軍関係の諸制約のため上記の収用等については記されていないが、史実をふまえた立派な村史であり、貴重な資料である。
この村史の協力者として著名な郷土史家であった池田儀一郎・山本文顕の両氏をはじめ、18名の氏名が記されている。その中の唯一の生存者として荒木・田野両氏の遺志を継ぎ、晩年を朝来谷の郷土史の調査に、また貴重な資料の紹介に尽された岸田篤翁が、昨年10月31日、米寿を直前にした満87歳7カ月の天寿を登尾の自宅で閉じられた。翁に親しく教示を受け、また案内された多くの後学の一人であり、翁の最後の業績となり、文化庁に永久保存される「大正期の民俗(登尾)」を手伝った者として、翁の生涯での郷土史へのアプローチとその業績の一部をまとめてみた。
翁は明治26年3月18日、志楽村安岡の森田嘉久治氏の2男として生まれた。嘉久治氏は明治42年から大正2年にかけて志楽村長であり、郡の米相場の関係者として残された資料が、後に翁の名を有名にした「米の百年」に活用された。
翁は新舞鶴高等小学校・加佐郡立中等養蚕講習所・城丹蚕業講習所に学び、兵役につく大正2年までは京都蚕業取締所舞鶴支所に勤務し、蚕種検査など養蚕教師として加佐郡内のみでなく、天田郡まで巡回指導に当たり、除隊後の同5年に登尾の岸田市蔵氏の婿養子として同家に入籍された。
岸田家では養蚕は営んでいなかったため、多くの山林てコロビ・ハゼ等の工芸作物や、植林に、更に一町歩をこえる田畑を妻女よねさんとともに耕作しつつ、養父母の市蔵・ふで夫妻より学ばれ、記し残された知識と、受け継がれた多くの民具が晩年の労作に役立つことになった。前記「朝来村史」に名の出るのは、村会議員・区長としての多年の経験が生かされたともいえるが、当時50歳の年齢から考えて、朝来谷についてのかなりの学識を持たれていたと察せられる。その成果の一部が戦後27年の「登尾邑産神社伝来棟札等之写」となったと思われる。
37年に妻女を亡くされて以来、農閑期には札所めぐり等の旅をつづけるとともに、実父より受け継いだ米の資料や、郷土の生いたちについての関心を深められた。46年、朝来小が市の社会教育学習の指定校となり、当時の萩野義雄校長(現西図書館長)や、白糸中で郷土学習指導に当たっていた渋谷春雄教諭(現中丹教育局指導主事)の依頼もあり、同年以降、別表のような多くの資料をまとめられた。
特に47年に出された「米の百年」は、NHKの放送で全国に紹介され、各地より多くの資料要請があり、また同年、出された「登尾の百年」・「朝来谷寺」も新聞に報じられ、翁の名は高まった。
これらはいずれも翁の80歳をこえての労作で、その博覧強記と労をいとわず資料を求め、古文書を解読されるすぐれた能力には、ただただ畏敬するのみであった。
翁の多くの著述の中で白眉ともいえるのが、52年に84歳で出版された「登尾八幡神社の覚書」であろう。敬神の念厚い翁の多年の労多い蓄積の見事な結実として、不朽の価値を持つものであることは、西村朝代、森本登尾八幡の両宮司によって、序に記されている。自費で300部を出されたが、これを贈られた人達こそ、西村宮司の序にある「大神の恩頼」(ミタマノフユ)を賜る人であろう。
翁は若いころより山仕事に従事されたため、晩年まで足は丈夫で、各地に資料を求め、また紹介された。前記の大石家文書外、朝来谷各区々有文書、また遠く若州山中地区文書や、野村寺亀井家文書等がそれである。案内を受けた多くの土地と、その名の示す本当に篤実な翁の温顔の想い出はつきない。
「大正期の民俗」では、多くの写真もとり、翁自身も写った写真とも一冊のアルバムにして献呈した日が10年に及ぶ翁との出合いの最後になった。55年5月29日であった。変容の激しい朝来谷の中心部に誘致された高専に勤めたからこその翁との御縁と思いつつ、不変不動の青葉山を見るとき、その西麓の上野に眠る翁の姿がいつも思い出されることであろう。近く翁御夫妻の石塔墓が建立されるという。
翁の戒名は長松軒篤翁良忠居士。
岸田 篤翁の業績
(年 月) (著 述 名) (ページ)
27.1 産神社内伝来棟札等之写(登尾邑) 11
42.1 米の百年の表 7
43 昭和28年13号台風風水害記録 55
43 重要規約保存書類綴(字登尾) 77
44 戦時食糧に関する綴 19
46・12 吉野・白屋・朝来中の年中行事 7
47.2 登尾の百年 30
47.3 登尾八幡神社・お寺と土 40
47.7 朝来谷寺 72
47.10 米の百年(近世米価) 10
48.1 朝来谷の家名と年中行事 52
49 江戸期入合山論記・入合山文書(朝来村)54
50.2 江戸・明治・大正農家の副業 10
50.3 朝来谷石造物 (写真38枚19)
50.4 明治100年記念 志楽谷旧家名 20
50.12 当地方の方言と訛り 30
51.3 農村の生活と歴史(舞教研社会科資料集bSP28〜64)
51.3 お金と食物のことわざ集 17
52.1 天保・弘化・安政 白星区有文書 18
52.7 登尾八幡神社の覚え書 99
52.12 朝来地方の方言(舞教研社会科資料集bo21〜31)
55.5 大正期の民俗(登尾) (写真80枚・13)
このほか未整理・未発表・未収録のものが数々あり、目下、子息の久男氏(元市水道部長)が整理中である。
『舞鶴の民話3』に、
朝来村というのは(朝来)
朝来村という名称はいつごろから始まったか詳かならず。古史を按ずるに元明天皇の和銅三年(七一三)諸国より風土記を奉る。その丹後風土記加佐郡御田口祠の条に「校倉」又阿勢久良の文字あり。阿勢久良谷が朝来谷に転訛し、更に朝来村と呼ぶに至りしものとの説が真である。鎌倉時代以降の文書、器物には明らかに朝来村と記されたものが多く存する。
丹後風土記に、カサ、シラク、アセクとの地名の由来が伝説をそえて説明されている。昔はこのあたり一帯をシラクのショウといった(シラクの庄アセク、シラクの庄力ワナベ)シラクというのは少彦命とオオノムチのみこと(大国主命)が天下を回られ、丹後から越の国へいかれるとき、アメのホアカリのミコトという方を召されて、この国を治めよと申された。ホアカリのミコトは喜ばれ「ながき国になるか、青雲のシラクの国なり」と申された。シラクとは国を治めるべしという意味で、これからシラクとなったといわれます。アセクの起こりは田の口神社の記録に出ていますが、この田の口の社は豊受の大神が国土を治められたとき、丹波の大将ヤマトエタマのミコトがここにきて田を作ってアゼクラ(校倉)をたて、その中に稲の実をいれた。その倉を祭りもて、お田口の社という。つまりアゼクラがアセクになったと言うことです。むかしはよくラ行がぬけるものです。福知山の石原イシハラがイシハになり、しまってイサとなったし、京都の烏丸はルがぬけてカラスマとなったようにアゼクラ→アセクラ→アセクになったのは自然なのです。
田の口神社は米倉を祭る。つまりイネの信仰、むかしは食事のことをケといった。(朝ケ、夕ゲ、晩ケ)のですが、田の口さんはケの神です。ケに尊敬の意のウをつけてウケ、なお一層尊敬のトヨをつけてトヨウケ(伊勢神宮の外宮)いずれにしても田の口神社はケの神様なのです。
お世話になりっぱなしの大先生方に心苦しいのではあるが、少し尋ねたい。大先生達には「残欠」は偽書ではなかったのか。何を言うのも勝手だ、人様に迷惑がかからなければ好き放題もいい放題もいいだろうが、漫談ではなくてもし歴史学の学問としての発言のつもりならば証明が証拠が必要である。偽書を引いたのでは証明材料にならないのではないのか。
自説に都合の良いときだけに残欠を引き、普段は偽書だとしているのはチト勝手が過ぎませぬか。学問で生きる人の態度ではないのでないですか。シロともクロともどっちでもエエやないか、そんな事がわかるかい興味もないわい、ワシは実はゼニをくれる方の味方の発言をするんだという、きょうびの情けないエセ学者センセならば別として、まじめに郷土史を学ぶ者の態度ではないと考える。
残欠を引くならしっかりと全編を読まなければならない。私は偽書とは考えてはいないが、この校倉→朝来説は当たらないと考えている。アセクはアセクラの転訛という主張はいいかも知れないが、それが校倉であるというのはおかしい。
日本得魂命は日子坐王の右腕、土蜘蛛退治の一番隊長。だから彼もまた何でもなく土蜘蛛と同じ性格、すなわち産鉄者であろう。田口神社は現在地にあったのではなく、杉山の山の奥にあった。そんな所に稲を入れる校倉を彼が作ったのであろうか。
事に但馬国朝来郡は有名で播磨にさえその名がある。穀物を入れる校倉などであるはずもない。
『朝来村史』に、
木辺久左衛門の事
沖の海賊大波の木のべ
磯をせせらぐ久左衛門
木辺久左衛門と謂う海賊が大波に住んでゐて前島の鼻から強弓でもって沖を通ほる漁船商船を射すくめ積荷を掠奪した
……此れが今日まで一般に言ひ傳へられ右の俚謡と共に海臨寺の西下に道路に沿うた大なる畑、夫れが木辺屋敷と称し昭和の今日誰知らぬものない程其名が残ってゐる。
一体木辺と謂う人物はいつの時代のものだらう。いろいろ調べてみるのに不思議なことは、泥棒をしたと謂う文献は一つも見当らない、かへつて種々の善行が記録されてゐるのである。先づ元禄時代アノ赤穂義士の仇討当時、木辺久左衛門は田口神社の鐘鋳に際し中村の林次右術門と二人が肝煎となって大に尽力してゐる。又二百年前の元文時代には大波村の庄屋も勤めてゐるのである。現代と違って餘程身分も正しく筋目がよろしくなければ庄屋とか里正の職に就くことのできない又名前の上に苗字を附ける事の許されない階級のやかましい時代のことである。忌はしき賊名を負う木辺が堂今と名乗りをあけて公事に尽くしたと謂うのは餘り信ぜられないと思ふ。何れかの国の一人の武士が若気の至りで失敗を生じ、主家を逐はれて大波に来て浪人生活を営み、得意の弓術を以て海賊を征服し、海賊の親分らしき行動があって、誰れ言うと無く海賊木辺と口碑に残ったと謂うやうな事ではあるまいか、兎も角大波の木辺久左衛門と言ふ名は朝来に於ける著るしき一個の存在である。
下大波村は其昔、今の在所の奥の「渡りど」と称する地点より元屋敷とよびなしてゐる場所に部落し、寺院は其口の寺屋敷と称へ居る所に存在してゐたと傳へられてゐる。
前島
古は全くの離れ島であって、くしのふへは村の浜から前田との間を船で渡過したものであると謂う。熊野神社は元前島に鎮座されて居たのを後年現在の神地へ奉遷したものと傳へらる。
『朝来村史』に、
大波村の奇習 (特に大波上に今尚多く行はる)
狐狩、嫁の臀はり、八朔の悪魔払ひ、盆の念佛等の奇習がある。此れ等は志楽倉梯方面にも大同小異現在尚行はれつつあるものも一部存してゐるのが上大波と分かれるまでからの風習で其形式は大体両字同じいやうである。特に面白いのは狐狩の行軍中(正月十四日夜)村の若い娘達は予め大しょけに一杯の手まりの如き雲だんごを作りおき、物蔭から一行に向かって夫れを投げつけるのである。雪丸を当てられたる青少年達は此夜は手むかいできない習慣になってゐるから恨を呑んで隠忍せねばならぬので只誰々が一番甚どく投げつけたと謂うことをしっかり覚えて引挙げる。
狐鳴く貂なくわれは何をしよるぞ
地頭どのの仰せで狐狩りやあ−
と聲高々と積雪の夜牛を数回廻り歩行くのである。
八月一日所謂八朔の節句がくる。村の少年達は字の入口に大なる藁の蛇体をつくり悪魔の通行を遮ぎると共に鬼の褌数個をこしらえ両端に縄をつけて村中を走り廻はる。此褌には針のある榧の木の枝其他のものがさしこまれてあって触れたら痛い、此れを婦人とみたらやにはに走りよって股の間をとほすのである、殊に春の狐狩の夜に雪の弾丸を多く発射した相手をさがし探めて此の褌を用ふるので皆恐ろしがりて逃げ廻る、追ひかけ廻し活動を演ずる、今より五十年程以前には実に盛んに演出せられたものであった。
貝坂の説
大波は昔天台宗で多禰寺の壇下に属してゐたと謂う。随分距離も遠いし、山坂を登って往かねば菩提所通ひが困難である為に便法を設け、法螺貝を吹いて信号することになってゐた。河辺へ越す村の奥の峠、此の山上が最も便利だと謂うので葬式其他の佛事を報らせるのに此地点から法螺貝を吹いたから夫れより貝坂と称へることになったと謂う。
『朝来校百年の歩み』(昭48)に、
楽しい子どもの行事
戦争がきびしくなるまでは、伝統的な子どもの行事が行なわれていた。
○きつねがり
一月十四日の夜、小学生や中学生の男の子が天神さんに集って、一晩夜あかしをし、夜中に三〜四回、きつねの出そうな山道、墓場などを「きつねがりやーい。われは今何をしよるか、地蔵の教えで、きつねがりやあーい。」と、大きな声でやめいて廻る。その夜は、家人も眠ったかと思うと目がさめるのである。
むし封じとか、つきものをおとすためとか、あるいは、昔はきつねがたくさんいて、よく人をばかしたからとか、きつねがりのおこりについては言われている。
○しりはり
一月十五日の朝、前の年に嫁どりをされた家に、男の子も女の子も
「しりはリに来ました。」
といって訪ねていく。そうするとその家ではお饅頭の包みを、子どもたちに持ち帰らせる。昔は、男の子だけが、きつねがりの帰りに、しりはりに行ったのだそうだが、いつからかしりはりにだけ女の子も行くようになった。お饅頭も昔は串柿を一本ずつ出したのだそうてある。それでお嫁さんをもらった家は柿をたくさん干してつるさねばならなかった。お饅頭になったのは、戦後十数年たってからのことである。藁で一斗樽をつくってかつぎ込んだところも部落によってはあったようてある。
しりはりは、お嫁さんに子宝が恵まれるようにという願いから生まれた、愉快な行事なのであろう。
○あくまはらい
九月一日、男の子たちが集って、繩で大蛇を作り、それをかついで村中をひっぱり廻した。そしてカヤの枝でふんどしをこしらえて、女の子を追いかけて、ふんどしで叩いたり、かけたりする。昔は家の中まで土足で上って行ったが、今は家の中までははいらないことに決められていて、
「あくま払いやーい。」
と大声を張り上げて、一軒一軒まわる。家によっては、お菓子とか、お金とかを包んで出すところもある。厄除けに年寄りは、「やっとくれ。」と進んで叩いてもらうのだが、女の子などは、わけもなくこわがり、その日になるとそっと逃げだして、その辺りには姿を見せない。ところがあいにく逃げ出した先でつかまったりすることがある。悪童どもはこの時とばかり、追っかけ廻してあげくに泣かしておこられるのである。その日ばかりは野荒しをしてもよいという、男の子天国の一日である。
○虫送り
昔は今のように農薬を使わなかったので、稲の虫送りをした。それは害虫退治であるというよりも、子どもの楽しい年中行事であった。てんでに竹やおんがらで、作ったたいまつに火をつけて、「イネの虫おくろうーやあーい]と大声を張りあげて、田の畦道を上から下へと歩いて行く。部落も上から、長内がやって、次ぎ吉野、それから白屋、朝来中というように、上から順にリレーして行なわれた。そして部落の境まで来ると、皆が一箇所に集って、たいまつの残りで大きな焚火をした。
時期は六月の中旬、そうしたたいまつの行列が、夜の闇の中に一週間ほど続くのである。杉山は山中の方へ送った。日が暮れてあたりに夜の闇が迫る頃、きつね火のような火が、青葉山の中腹を進むともなく進んでいくのは詩情をそそる眺めであった。大波は火をともさず、カネ、太鼓、それに笛で、ドテンカンドテンカンと虫を送った。
稲の螟虫とりは学校行事であった。役場からの依頼を受けて、一斉に田に入って、競争でとり合った。多い子は二十匹あまりとった。春のタニシ拾い、秋のイナゴ採りも、今は懐しい思い出の世界のこととなってしまった。
こうした伝統的な行事が影をひそめて行ったのには、いろいろな社会の変貌があったのであるが、その大きな転換期をつくり出したのは、昭和十五年、十六年の朝来谷の買収であった。買収によって、農村らしい生活は、大きな変革を迫られ、戦局が苛烈化していったのと相まって子どもの年中行事は、昔の面影を失っていったといえよう。戦後農薬の普及によって、虫送りは姿を消したが、きつねがりや、あくまはらいは、一部の部落には、いまなお命脈は保っている。
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