丹後の伝説:25集 |
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田井・成生の漁業、姨捨山、野原銀山、他このページの索引姨捨山(うばすてやま) 大椎の木 栄柴神事(舞鶴市野原) サルの話 塩うりばさ 田井・成生の漁業 成生 成生の映画化計画 野原銀山 のりとりなぎ ホウリ(神職) |
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…同じ沈降海岸でも多島海となっている瀬戸内海と違って、若狭湾岸は島は少なく、わずかに常神岬西の御神島、舞鶴市域となっている成生岬付近の毛島、その沖の冠島、沓島が目立つ位である。沿岸は蘇洞門、音海、成生岬等、至る所に海崖、海蝕洞、岩礁が発達している。海崖に繁茂する樹林は魚付林、藻類の繁茂する岩礁は魚介類の産卵繁殖地となり、根付魚も多く、若狭湾沿海部はどこも古代から好漁場となっていた。
沖合いには対馬暖流が流れ、その一部は丹後半島沿いに南下するが、主流は東流となって越前岬から北上する。 越前岬で主流からの分流が南下して、若狭湾沿いに東から西への環流となり、この環流に乗って回游する魚族は湾内に突出する東大浦地区の東岸に近づくため、その魚道沿いに定置網が設置されている。東の常神、西の伊根とともに舞鶴北東部、大浦地区の東岸域は若狭湾内屈指の定置網漁場となっている。)(舞鶴北東部の成生岬付近は、前面に毛島、馬立島があり、越前岬からの環流に乗って回游する魚族の魚道が、最も接岸する位置となる。このため、ここに立地した田井、成生は天正期(1573〜1591)から刺網でブリ漁業を行い、現在に至るまで舞鶴の代表的漁村である。 しかし、この環流も冬の季節風の影響を受け、必ずしも魚道は一定せず、漁獲量の変動も年によって著しい。他の若狭湾沿岸地域と同様に、舞鶴の沿岸部でも、この環流と季節風、さらに潜流となって南下する寒流や、冷水塊の影響を受けて漁業が成立しているため、暖・寒両流の魚族をとるための多彩な漁法が発達しており、沿岸の岩礁部には藻類、貝類が多く古くから特産物となってきた。… 『舞鶴市史』に、 …田井は成生と同時期に大敷網を導入しブリ景気の恩恵を受けた。大正期の漁業組合員五三人、二統の定置網を中心に小定置、イワシ流網、イカ落網、トビウオ刺網、タイ延縄等多種類の漁業を営んだ。大正九年ごろにはイワシ落網も導入、成生と同様にブリ漁の不振を補った。同末期からはエビ、ワカメ、ノリ、アワビ、テングサの養殖と餌付漁業のため築磯造成を行った。昭和期に入り十四年から十六年にかけて共同出荷所桟橋、防波堤修築、港域埋築の諸工事を実施し、また一三トン、四○馬力の共同曳船の建造も行った。
成生は、大正中期に導入したイワシ落網をブリ漁期以外にブリ網場に設置して、定置網場を周年稼動をさせる方法を採り、大正期以降のブリの不漁期を補う役割を果たしてきた。このほか二○戸の各漁家はそれぞれ小定置を経営しており、二○人の組合員は平等に配分されるブリ漁の収入のほか、自営の漁業による収入も得ていた。昭和期に入って漁業施設の整備が進められ、同十四年に貯水庫、同十五年に共同出荷所桟橋、同十六年には二階建ての水産倉庫を建造している。
のりとりなぎ (田井)
十二月から一月にかけての日本海は、大波である。日によっては、五米余の大波が打ちよせる。岩にぶちあたりはねかえる様は、ほんとうに壮観である。こんなときに漁に出る漁師たちは、必死の思いである。しかし、定置網にはブリがはいっていることもあり、ほかしておくわけにもいかず、家族に見送られて漁にいく男たちは、男の中の男といわねばならぬ。十二月には、正月準備に魚が必要であり、漁の少なくなったといわれるこのごろでは、危険を覚悟の上でのりだすのだ。でもブリの姿をみると、思わず万才の声をあげ、生死など考えておれない。 田井、成生の古老たちがいうに、これは江戸のむかしよりやってきたことらしく、目をつむりながら語る。ひとかかえもあるいせいのよいブリをだいたときは、本当に幸せ一杯である。尾びれで体をたたかれても、痛みも感じないと。沖より、真黒に又銀色にひかる、大きなうねりの波も快い。魚を船にあげるたびに、船はかたむく。思わず両手をあわせて合掌する。船に水がはいりこみ、ブリも一杯になったところで帰路につく。よめや子どものよろこびの顔が浮かぶ。発動機の音も重たそうだ。むかしは、ろをこいだとのことだ。でも空には青空が顔をだし、漁師になったよろこびがわきあがる。むかしは、木綿や麻のあみであったので、破られることもあった。何回か、浜から沖へ、沖から浜へと往復する。浜辺には子どもたちが待って、うれしそうに両手をあげてくれる。その度に苦労もなんのその、時のたつのも忘れてしまう。お日さまが、少し西へかたむきかけたときに漁は終わる。もうくたくたである。欲も何もない。ただ床に横になってねむりたいだけだ。 一月にはいると、イワシがかかっている。最近は、イワシは滋養があるとの話がテレビなどであり、料理の仕方もいろいろいっているが、浜辺はイワシ、イワシで一杯になる。自然の恵みはすばらしい。日本古来より海にかこまれたこの国は、魚の料理は世界で最高であると思う。 二月にはいると、雪が海の上に舞うが、波は一月とは変わり、なぎの日が多くなる。寒風や波に育てられた海藻が、海底に林のようにゆれている。なぎであるので男だけでなく、女も海にでる。長い竿の先にかまをくくりつけたもので、底の海藻を刈る。陸の上とちがって軽く、なでるだけで海藻が海上につく。それをひろう。この海藻のとり方は、誰がおしえたのか、古くより伝わっている。神様が、教えてくれたのかな。乙姫様の絹の布のようである。しばらくして、海藻を船にあげる。北海道ののりがよいコンブといわれるが、この若狭ののりも、日に干すと最高ののりになる。何でも、初めての産物はいいという。やがて、女たちが町に売りにいく。ほんとにいいのは貨車につんで阪神、中京、東京へと送られる。自然の恵はすばらしい。 わかめのさしみをたべながら酒をのむのは、この世の最もたのしいことの一つだと、古老は目を細めて語ってくれた。
舞鶴市の北端の集落成生
専門委員 藤村 重美 舞鶴市の北端(35°34′N)の成生は、旧名を鳴生と記し、大宝元年3月に凡海郷の北部を海中に没した大地震の鳴動とともに生じたと伝えられる古い歴史を持つ集落である。成生の氏神を祭る神社は鳴生神社の名がつけられ、境内にある葛島神社は大宝の地震まで地つづきであった葛島(成生地先の海中にある)に祭られたものと伝えられる。定置網漁業発達する若狭湾域にあって、漁業のすべてを定置網漁業にかけるうえ、江戸時代から現代に至るまで戸数変遷が少なく、明治39年の大敷網導入とともに全戸が経営に平等に参加するなど、特色の多い漁村である。また旧家(水島、高井両家)に近世文書が多数にあり、その整理、解読が目下すすめられている.両旧家の文書より戸数と漁業のおおよその推移をみてみたい。 慶長の検地帳に主ると、成生は小成生(現在の成生のすぐ南、良田あり)という子村を持ち、両者あわせて田畑11町1反1畝、村高31石6斗6升となっている。戸数は検地帳では判明しないが、他の資料より成生63戸、小成生13戸、計76戸あったといわれる。戸数の割に石高が少ない点からみて当時既に漁業が主な生業であったと推定される。同じころ、燐村田井は村高167石1斗9升、戸数43戸と注っている。村高により当時の田井は農業か主であったことが分かる。田井は元来、別所といわれる現在の位置より南部の山中の平坦地にあったのが海岸部に移ったので、元来は豊村であった。(移った動機、時代等は不詳。現在調査中) 元正年間、成生ではブリ刺網、カツオ網の存在が知られるが、定置網中心の現在とちがって沖合にまで出漁していた。そのため慶長年間(年代不詳)に出漁中の成生の漁師がしけてほとんど遭難するという事件があった.以来、漁業は衰退し、離村により小成生も廃村となり、成生の戸数僅かに7戸になった。 このころ、田井が漁業に進出し、成生海域にまで漁場を広げたため、後年、成生の漁業が盛り返してきて以来、長い間の紛争の因となった。元禄年間の両村の境界争いに関して、成生に15人連名の文書があるため、約100年の間に8戸の増加をみたことになる。新しく増加したこどは、社会的に無場(網場の権利のないこと)の階層となったと考えられる。その後、文化年間に2戸増加、文政3年には20戸となっている。この20戸がそのまま昭和2年まで120年間つづく。大敷網を導入した明治39年以降は経済的にも安定し、戸数増加が可能であったはずだが、20戸の戸数制限は守られてきた。7戸20戸にと増加し、成生の漁業が復興するとともに田井との紛争がつづいたので、文政3年田辺藩は両村の当時の力関係を考慮にいれて、地先海面を測量の上、区分を明確にした漁場図を作り、両村の紛争を解決させている。両村の地先海域は若狭との境に位置する甲岩より成生岬に至り複雑な湾入や小島嶼の間も両村の漁場が相互に入りまじり、明治35年の漁業法公布まで両村は漁場のみでなく、山林の境界をめぐっても紛争が絶えなかった。 明治30年代から40年代にかけて漁業にも技術革新がすすみ、定置網漁業では高性能な大敷網が宮崎県の日高亀市氏によって考案され、その網を利用した高知県でも大成功であった。高知から明治38年11月に伊根に導入され、翌年成生、田井にも設けられた。成生は葛島(現在の第1号網)の位置にブリ大敷網を明治39年11月初旬に設置した。元来、地先は好漁場であり、ブリ刺網は天正年間以来の伝統があることも加わって、翌明治40年2月本網引き揚げの4か月間の漁獲高は実に85000円であった。(当時米1石15円)、この成果が若狭湾域のみでなく、日本海の各地にブリ大敷の成立と発展の因となったといわれる。 成生が7戸より増加して20戸になる過程に網場の所有関係をめぐって場持と無場の階層が分立したが、大敷導入時には指導者(水島小兵衛氏)の卓見によって全戸が経営に平等に参加し、その成功とともに今日まで豊かで安定した網漁村となってきた。個人有として残っていた小定置の網場も部分的ながら村内に解放されている。ただしそれはいわゆる制限戸数20戸についていえることであって、そこに定置網漁村の限界をみせているとも考えられる。
成生村の映画化調査同行記
専門委員 戸祭 武 (1) 去る4月、映画監督の浦山桐郎氏(キューポラのある町青春の門など演出)と直木賞作家長部日出雄氏(津軽じょんから節など)が、当地へ映画製作の調査に来訪した。 映画化の対象になったのは、例の大浦半島旧成生村にのこる伝承で、慶長年間、成生の全漁民が若狭湾へ出漁中、突然の嵐に会い、全員が遭難、村が滅亡にひんしたのを、また村人の協力で、村を復興した話である。水産地理を専攻し、漁村をこまかく調査して歩いている藤村市史専門委員が、本来調査に同行するはずであったが、所用のためやむなく私が数日間、案内して調査を手伝った。とりあえず予備知識として、「各説編」と、岩崎英精氏の著作、藤村委員の共同研究に成る「水産地理学の研究」を読んでもらってある。 (2) いきなり成生を訪問し、村の中と周辺を歩きまわったあと、村の方々を訪問した。すでに有名になっている成生・田井の漁業図、検地帳など、多くの史料をみせていただき、成生の現在までの変遷をつかんでもらう。全国の漁村史を専攻する人が、一度は訪れるのも、この完備したすばらしい史料のせいである。ただ、岩崎英精氏が疑問を提起された「災難の前に、この村が本当に70余戸もあったか、どうか」の問題には、結論は簡単に下だせない。わざわざ70余戸もあったという話を、創作しなければならぬ理由も考えられないし、といって周辺部を会わせて70余戸が住むには地域がせますぎる。しかし、遭難前に70余戸があったことにした方が、映画では、その悲惨さを示すのには良いようだ。そして、それがいつかは明らかな事実として、伝承の定着となるのであろうか。 そういえば「遭難」そのものが事実であったか、どうかも、明確な結論は下せないのであるが、とにかく映画化の決め手がそこにあるのだから、海の遭難と断定して話をすすめることになる。映画は遭難の事実でなく、その村がどのようにして蘇生していったかが主題である。全国にも、ずい分悲惨な遭難の伝承は多い。しかし、成生のように村落共同体があざやかによみがえったのは稀有のことであり、まして、それを後づけることできるのは貴重な存在だと、全国の漁村を歩きまわった両氏はいう。日本人の原点そのものを探ることができるというのである。 (3) 問題は復興の過程である。成生の方々の話の中心は、生活に困った村の人々は、残された家族は四散し、周辺の村々に住みつき、多くは成生に帰って来なかったこと、わずかに村にとどまった8戸の村人が、その後、分家をさせたり、一部の離村者を帰村させたりして、現在の約20戸の村を復興させたというものであった。確に検地帳その他の史料もそのことを示している。しかし、史料が語らないところの、どのようにして人口を増やし、どのようにして離散した村人を帰させてきたかは、村に伝わる言い伝えを聞くほかはないが、かんどころはつかめない感じである。色々の史料を読みあさっているうちに、「けがれ小屋」が話題になった。漁村は危険と隣り合わせの仕事であるから、禁忌もずい分と多い。創作としては、遭難の原因として、そのタブーを破った青年男女が登場するのであろうが、もちろん、そのタブーは内陸部からかえって時代も下ったあと伝えられてききたものと考えてよかろう。 (4) 田井の村を訪ねる。田井と成生の漁業権の問題が自然テーマになる。古くて新しい問題であるが、このことはすでに多くの先学がそのいきさつを研究されていることであるが、さし当たっては、いわゆる遭難という成生村の危機が、この対立のきっかけとなったのか、どうかに集中する。やはり伝承の聞き取りが中心である。ただ成生と田井の村のありかた、村人の生活様式、生活意識、社会構成のちがい、禁忌事項のちがいなどが、遠来の客の輿をそそった。このこともまた、遭難と復興なる、村の再建に当たった人の苦心のあとが、形づくったものとすれば、輿がわくことである。 成生の遭難・離散で、成生の人が一部住みついたと伝える大山の村で聞き取りをつづける。大山の方々は、成生の人が住みついて定着してしまった話はないが、一時、成生の人が「小屋がけ」をして避難して来たこと、大山の人が、それに同情して、食物などを提供し、その生活を助けたこと、つまりは山の民は、生活にゆとりがあり、漁村への経済的優位を説く話となる。それぞれの伝承の相違は興味をつきさせない。 大浦半島平地部の農村の方にも話をうかがう。内陸部ということになるのか、いわゆる物知りの方も、成生の遭難・再建の話はあまり出て来なかった、それが成生への遠慮か畏敬のせいとばかりは、いえないようであった。ただ、言葉のはしに出た「成生400、田井365、大山300、こちらは??」とごまかしながら、庶民が生きていくのに、一年何日間働くかの語呂あわせはおもしろい。山の人は高い所から見おろすだけ「えらい人ですわ、昔からそうなっていますねん」というのも、古い時代、平野部の農村こそ豊かであったという自慢なのであろうか。 (5) その他の村々をふくめて、大浦半島を歩きまわりながら、漁村、山村、濃村の生きかた、生活感覚の違い、成生伝承の伝わり方の相違は大きな興味をもたせた。それは映画の主題のひとつになるはずである。しかし、それ以上に、成生の流散・再結集が孤立した村人の、いわば文化のぶつかりあい、再構成こそ重要ではないかというのが、調査行のあとの二人の問題提起であった。文化の伝播とか、影響という平面的な概念で、地方史は組み立てるべきでないというのである。若狭地方の探訪もかねて、このことはより深く調べたいとのことであった。たまに訪れた外来者に、この点を指摘されたことは、衝撃的な意味をもった。 ちなみに、長部日出雄氏の原作シナリオ、浦山桐郎氏の演出で、仮題「嵯歎(さたん)の海」として、この人たちのライフワークに近い大作として、近い将来完成されるはずである。
『京都の昔話』(昭58・京都新聞社)に、 姥捨て山
むかし、「六十になると、みな捨てんならん」という決めで、年寄りをほかさん(捨てなくては)ならんと。ほしたら孝行息子がおって、 「お婆さんをどうして捨てられる」いうておった。けれども捨てんならんきまりで、しゃあないで、背中に負うて姥捨て山へ連れていったと。行くのに、そのお婆さんは紙をちぎっては木の枝にちょっとくくり、曲がり角に行くと紙をちぎっちゃくくりちぎっちゃくくり。そしてむこうへ行って、息子がさあ捨てようと思うだけど、よう捨てんとそこに置いてえた。ほいてまあ帰りかけて、雪の小降りするのにもう帰れんで、また後もどりして、負うて連れもどしたと。ほいたらお婆さんが、 「そんなことしたらお前が叱られる」言うけんど、 「なんぼ叱られても、打ち首になっても、もうお母さんよう捨てん」と言うて、納屋の縁の下へ隠して、ほいて毎日こっそりご飯やなにか持っていっておった。 ほいたらあるとき殿さんが、 「灰の縄を持ってこい。持ってきた者にはほうびをとらす」とふれた。息子がその話を聞いて、 「灰の縄なんてあるか」言うたら、お婆さんが、 「そんなことはやすいこと。わらをていねいに打って、ほいて固う固う縄をのうて燃やし、そ れをあんじょう(ようく)冷めてからそうっとあげたら、そのまま持っていける」言うてくれた。 「そんなこと、やすいこった」いう話で、ほで教えられたようにして持っていったと。ほいたら殿さんが、 「なあんと、どうしてこんなんをのうた」いうことで。へたら、言おうと思うたけど、そのときは言えなんだ。 ほいたところが、つぎに親と子と同じような馬を引っぱり出して、 「これの親子を見分けよ」言われた。ところが親と子とそっくり瓜二つで、とてもわからん。 お婆さんに聞いたら、 「ああ、それはやすいこった。えさをやってみい。先に食べるのが子で、あとから食べるのが親いうことだ」と教えてくれた。ほで殿さんのとこで馬の親子をぴったりと当ててみせた。ほいたら殿さんが、 「よう当てた。どうしてそんなことを知っとるんや」いうたが、その日もうっかり言うたら叱られるで、言わなんだと。 ところが、 「ほな、もういっぺん言うで。『鳴らさん太鼓の鳴る太鼓』いうのを作ってみい」という話じゃ。そのときにまたお婆さんに聞いたら、 「そりゃあやすいことだ。太鼓を張るまでに内へぶんぶん蜂を入れて、そのあと太鼓の皮を張って、ひとつ叩いたら中の蜂があばれるもんださかいに、どえらい勢いで鳴る」言うてくれた。ほれで息子がそのとおりにして殿さんにしてみせたら太鼓がドンドラ鳴る。殿さんが、 「どうやってなら」言うと、もう隠しきれんで、 「実は、わしは大事な親を、もうようほかさんと連れて帰って置いとります。その親からみんな聞いたんや」と白状した。そしたら、 「それはええことや。年寄りという者は大事なもんやで、いまからはほかすということは絶対せんように」言うてくれた。それから、六十になってもほかさんように決めがついただって。 語り手・佐近田重太郎 語り手は大山の人である。
『舞鶴市史(各説編)』に、 大椎ノ木 (大山)
大山小字後山の田井へ通じる旧道のそばに、樹齢数百年にもなる椎の大木がある。地元の人は、これを大山の大椎ノ木といっている。 田井の沖合にある毛島には、昔からタカの巣といってタカが生息している所があった。田辺の殿様は、その巣からタカのひなを捕えさせ、それを黒地で飼わせていた。黒地のタカの番をしたり、えさをやったりするのは地元の庄屋どんの役目だった。 ある年、タカが逃げ出したために、二人の庄屋どんは殿様からきついおしかりを受けて、とうとう打ち首にされることになった。 いよいよその日の朝が来た。庄屋どんの一人は、普段から信心している観音様に、最後のお祈りをするため回り道をした。もう一人の庄屋どんは「もうすぐ打ち首にされるというのに、お祈りなんかしても何にもならない」と思って刑場にきめられたあの大推ノ木の下へ一人で行き、そこで打ち首にされてしまった。 ところが、ちょうどその時、逃げていたタカが見つかったという知らせが来た。観音様へお参りしたため遅くなった庄屋どんは、お陰で打ち首にされずに済んだ。 先の旧道のそばの大きい岩に、その時打ち首になった庄屋どんの首を置いたといわれている。 また、この伝説は、二人の庄屋どんでなく、タカ捕獲の禁制を犯した二人で、お参りしたのは観音様でなく、田井にあるお社となり、刑場に着いた時、殿様から刑を免ずる書状が早馬で来たという言い伝えにもなっている。 サルの話 (大山・水ヶ浦)
大山村では、サルの害に苦しんだあげく、山王大権現を氏神にお祭りしたといわれている。また、毎年、節分の夜は村の美しい娘を一人選んで、人身御供として氏神に供えると、真夜中にサルどもがその娘を連れ去るとも言い伝えられている。 水ヶ浦でも、サルのために随分農作物が荒された。こんなにサルが多くては、とても年貢が納められないというので、殿様に年貢を減らしてもらうよう願い出ることを決め、このことを田井村の寄り合いに出したが、そのころは、年貢を減らしてほしいなどという訴えは、大変なことであったから、村の人はなかなか賛成せず、庄屋どんも反対であった。そこで水ヶ浦の人たちは直訴する決心をした。当時、直訴は重い罪になっていた。 水ヶ浦の人たちが直訴の決心を話すと、庄屋どんを始め、村の人は何とか止めさせようとした。そしてとうとう言い争いになり、水ヶ浦の人たちは寄り合いから飛び出し、田井の大橋の上で直訴の願書を書いた。この直訴は首尾よく成功して、願いも聞き届けられ、その時以後、田井の大川から東の田畑は年貢を減らされ、水ヶ浦は馬の飼い葉だけを納めればよいことになったという。 このほか、泉源寺で娘さんが「サルの嫁」になった話や、同じく泉源寺の御霊神社で、岩見重太郎が「ヒヒ退治」をした物語りなどもある。
次は野原村の鉱山についてであるが、兵庫県生野町史談会発行資料に次のようなものがある。
宿外神田松永町 紀伊国屋 利八 天保十二年 丹後野原村銀銅鉛山稼方 出府願上候書付并被召出候一件 丑十二月十二日始 久 米 井 この文書の内容を簡単に説明すると、大草太郎左衛門御代官所但州朝来郡生野銀山猪野々町年寄長兵街という者が、野原村鉱山の有望なのに目をつけ、天保七年、田辺藩主に採鉱許可方を申請したが許可されず、やむなく同十二年、幕府勘定奉行所へ直接願書を提出した。そして同十五年までの間、奉行所へいくども呼び出され、願書を書き直しさせられたが許可が下りなかった。その間に願書九通が提出され、長兵衛は三年間宿に泊まりきりであったなどを記している。 野原村の「人家より拾45丁も隔、海岸附之岩山裾二而、山表は字砂浜、山裏は南部ケ鼻と唱、海中江突出候小山二而鉉(つる)筋相顕有之」場所で、銀・銅・鉛の鉱筋が通った有望な山であり、しかも、鉱脈は若狭国に引き続く大山であると長兵衛はいう。これは、かれが天保十二年十二月出府、同月十二日「乍恐以書付奉申上候」と幕府に野原村の銀・銅・鉛の採鉱を最初に願い出た申請内容の一部である。 さらにこれにより長兵衛の願意を探ってみると、野原村の銀石については、他の山師が先年山稼ぎし掘り出した銀石を船でたびたび他国へ積み回していたと聞いたので長兵術と組下の二人して現地の鉱脈を調べたところ、稀に見る鉱脈で「山裾より谷峰両所江引通所々銀銅鉛石相顕有之候」先年掘り取った場所二か所は土石で埋めてあった。これを取り除けば銀・銅・鉛の鉱片があることは間違いない。村内近隣の者たちは場所の様子を細かくわきまえているので、採鉱が始まっても村内故障有無を尋ねてみたところ御役場より御差図次第少しも差し障りがないと聞いたので、去る天保七申年生野銀山方の二人と私(長兵術)が差し添え、御支配生野御役所へ願書に付す副申書をもらい、牧野山城守(節成)様御役所へ罷り出、田辺城下町大庄屋(惣年寄)下役の月行司を通して願書を差し出した。ところが一向御沙汰がなく、数日逗留の上願書を御下げになった。これは銀・銅山稼ぎ方の儀、田畑その他、差し障りにもなると思召されたのではなかろうか。稼ぎ方の様子並びに田畑差し障り等になったならば、如何様共熟談の致し方もあるはずだと月行司の者へ種々談じてみたが、一向取り次ぎの様子はなく、ことに一度も御役所へお呼び出し御取り調べがないので稼ぎ方の仕法、願意の様子もわからないのではないかと思うが、何分月行司共が取り用い申さず、二度とも空しく帰国した次第である。 なお、大草太郎左衛門(生野銀山支配代官)の「牧野山城守領内野原村銀鉛山調之趣申上候書付」には、同鉱山は最初丹後峰山町の者二人と讃州塩飽の者一人が採鉱していた所、領主より厳しく差し止められ、村に掘り取った石があれば残らず差し出すよう命じられ、取り置いた石は残らず海中へ取り捨てたという。これは盗掘とも思えるがいずれにしても藩の強固な姿勢が気になる。 このことから長兵街は天保十二年十月出府、神田松永町紀伊国屋利八方に止宿、大草代官屋敷の協力を得て同年十二月から同十五年六月まで願書を九回奉行所に提出した。》」の問、天保十一年に同僚の惣兵衛が信州関屋村枝郷赤芝銀銅山(真田信濃守領分)の採鉱を申請していたが、翌十二年許可になった。このため、長兵衛は同十四年九月の願書の中で「御老中様御領分一一さへ稼方早々被為仰付候儀 私願上候山方之儀眼前御国宝乍見年来空敷相成候段何共歎敷」と御老中の領分でさえ早く、一般領分はなぜ遅いのかと嘆いている。最後の同十五年六月の願上書に引き続き御下知を待っているが今以て御沙汰もなく「乍恐私義も最早四ヶ年越止宿仕居極難渋仕罷在候間何卒格別之以御憐惑を早々奉蒙御下知候様」と願ってみたが、ついに望みを絶たれた。天保七年から同十五年までの八か年に及ぶ長兵衛の辛苦と忍耐と努力は常識では考えられない一途のもので、野原村銀・銅・鉛の鉱脈はかれにとって余程の魅力があったに違いない。 明治四十四年「第二回京都府加佐郡勢一班」によると同年現在、東大浦村において、金・銀・銅を新舞鶴町某、銀銅鉛硫化鉄を四所村某と東大浦村某が試掘しているが、いわゆる野原鉱山を試掘していたようである。
『定本柳田国男集第十巻』「日本の祭」に、野原の話がある。 …私はこの全国区々な事実を、次のやうに説明しようとして居る。即ち是は神職が職業化する一つ前の状態であって、此人で無くては祭のある役目は勤まらねといふ考へから、単に家の特権として其任務を世襲せしめただけで無く、更に一歩を進めて其家は神役にかゝりきりで、他の活計事業には携はれないやうに、なって行く路筋に在るのではないかと思って居る。ホウリは大夫よりも一段と早く、この専業化を完成したやうに思はれて居るが、それでもまだ若干は例外が残って居る。たとへぱ京都府東北隅の加佐郡野原などは、元は三十何戸かのホウリ株といふものがあって、廻り持ちで氏神の神役を勤めて来たことは、他の地方でいふ頭屋制も同じであったのが、後に協議の末その中のある一戸に全部を引受けさせ、今は其家のみが此村のホウリである。ところがそ一}から餘り遠くない若狭の常神村の如きは、今でもまだ四十二戸のホウリといふ家が有って、半年づゝの廻り持ちで、正月と七月の朔日に交代して神主の役を勤めて居る。この変化を生じた原因は、村によって信心の強さ弱さがあると共に、物忌精進の厳重さにも著しい差異があり、更に又是から生ずる経済上の拘束にも、堪へられるものと否とがあったからであらう。頭屋は勿論大きな栄誉であり、又旧家の特権でもあったが、之に伴なうて可なり大きな義務もある。それ故に現在は折々はその免除を乞ふ者と、喜び競うて之に就かうとする者と、村の状況に応じて幾段と無き差異が生じて居るのである。…
野原では、元旦に氏神の若宮神社で栄柴の神事が古くから行われたが、いまは中絶している。 これについて明治初年の記録(丹後国延喜神社考)に「榊を藁で束ねて、稲のようにしたものを、氏子がそれぞれ持って、早朝参拝し「柴の実入れ」と異口同音に唱えると、本殿の祝が礼服で「一抱刈っては稲の山、三抱刈っては酒を造り、長柄杓で酌んでも尽きぬ、長柄杓で酌んでも尽きぬ長者、万束よろこび込む」と歌う。氏子はこれに囃をそえて、終わりにエイヤア エイヤア とかけ声をして栄柴を納め拍手して帰る」と記している。 このような内容から推して、これは農作物の豊穣を祈る正月神事の地方色ある一例と思われる。 これも元をたどれば、世界樹と思う。山の世界樹の生命力を田の稲に移そうとしたものでなかろうか。今は確かに農作業であろうが、こうした世界樹信仰をもつ所はやはり元は金属と私は考えている。
塩うりさばさ (野原)
小橋の村に塩屋という家があります。浜辺に塩を作るかまがあり、海水をいれては塩を作って売っています。塩を売りのいくのは、女の仕事で、木綿のふくろに塩を分けていれ背中にかついで売って歩くのです。この女の人のことを「塩うりばさ」といいました。 塩売りばさは、塩をいれた袋をおいかごに入れて売っていくのです。小橋からいく道は浜村や市場村にいくにも、となり村の野原にいくにも細い一人だけ通る道を歩かねばならなかった。 ある人は田辺へ、高浜へと持っていきました。塩は生活の必需品で、とぶように売れました。それで塩売りばさは毎日のように、せっせと細い道、峠を越えていきました。 ある日のことです。野原に魚が沢山とれ、塩が必要になったので注文があり、売った帰りの峠にさしかかりました。「ダツトクズレ」に来ると、山犬か、狼かわからないがうずくまって何かたべている。どうも人間らしい、バサはこれを見て、大変なことになったと思いましたが、あわてて大きな音をたてると駄目だ、おちつけおちつけと自分にいいきかせながら、おいかごを下ろした。かごの隅の方に一にぎりの塩がのこっていました。バサはこれをつかむと、 「今日はよい漁ができたなあ」といって塩をまいた。すると狼は人をたべたあとなので、少しはやましいと思ったのか、あと口に塩をねぶりたかつたのか、塩売りバサのなげた塩をおいしそうになめました。 あくる日もバサは野原峠の帰りみち、きのうの狼が出てきて、バサの着物のすそをくわえてひっぱります。バサはきのう助かったが、仕かえしに今日はやられるのと違うか、と仕方なくついて行きました。ついた所は岩の下に狼の穴がありました。そこにバサをとじこめました。くらい穴の中です、でも外の景色がよくみえる、狼は穴の入口に門番のようにすわっています。その眼光のするどいこと。 しばらくすると、ゴーゴーと土けむりをあげて、黒いものが次から次へと、狼のむれ追っていきます。森の木々がぱさぱさとなる、狼のむれです。しばらくして狼が、「もういいでしょう」と穴の中から出してくれた。狼がくるくるとうれしそうにバサのそばをはなれない、穴から出てバサは大きく深呼吸をした。穴の前には無数の狼の足あとが残っている、狼はバサの命を救ったのです。バサは狼にお礼をいって歩きはじめた、狼は主人のあとを追うようにやってきて、細い野原みちをてくてくいくと、狼はワーウーワーウ−と吠えた。気をつけてね、ごぶじでと云うようにきこえた。 〃 狼背おい 〃 ある日、塩売りばさが、いつものようにおいかごしよって、野原道をてくてく帰ってくると、途中 で狼が出てきて、 「ばさぁ、おうていのう、ばさぁ、おうていのう。」と言うた。塩売りばさは、あわてんと、 「おいかご、しょっとるし、明日、おうてやる。」いうて、にげて帰ったそうや。 次の日も、また次の日も、毎日、毎日、狼が、「ばさぁ、おうていのう。」いうて出てきた。 「ばさぁ、おうていのう。」と、出てくると、ばさは、「盆までまっとれや、盆になったら、おうて やる。」 と、いうたそうや。 さて、七月十三日の盆がやってきた。塩売りばさは、やくそく通りに、狼を背おうために、野原道までやってきた。塩売りばさは、狼に頭からがぶりとやられんように、裏返しに背おうた。 狼を背おうた塩売りばさが、「せんさつ」まで来ると、村の衆が小橋音頭をおどっとるのが見えた。 それを見た狼が、「ばさぁ、ありや、なんやぞ。」と、きいた。塩売りばさは、 「ありゃあのう、おまえを、たんじょまつりしてもらおおと 村の若い衆にたのんで来てもろたんじ ゃ。」と、けろっとしていうた。狼は、 「もう、おかんでよいで。わるいことせんで、こらえてえやぁ。こらえてえやぁ。」 いうて、逃げていったそうな。 |
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