丹後の伝説37

丹後の伝説:37集
由良川の洪水2

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由良川洪水の概要 藩政期の洪水 延宝8年の凶荒 享保20年の洪水 慶応2年の洪水

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由良川洪水の概要


『舞鶴市史』
福知山から下流部は、連続堤防のない原始河川の状態にあるため、しばしば洪水の被害を受けてきた。江戸時代も慶安三年(一六五○)、延宝四年(一六七六)、元禄十六年(一七○三)、享保十三年(一七二八)、同二十年(一七三五)、嘉永元年(一八四八)、慶応二年(一八六六)、明治期に入っては十八年、二十九年、四十年、近年では昭和二十八年と記録的な大洪水をはじめ、度重なる洪水に見舞われ、加佐郡内の死者が四○○人を超えたり、大雲橋付近で一四、五メートルも増水したなどの記録も残っている。このため上流に大野(昭和三十六年三月完成)、和知(昭和四十二年六月完成)の両ダム、下流域にあった川中島(西島、瀬戸島、城島)の除去や河道の掘削など、対策が講じられている。


『大江町誌』
『大江町誌』より

『大江町誌』より


下流域の地相

 由良川は、その河川の特性から、上流域(源流〜綾部)、中流域(福知山盆地)、下流域(大江町〜河口)に三区分されるが、大江町は下流域の最上流部に位置している。

 (1)狭い河道
大河の多くは、中・下流域に広大な平野を発達させ、そこに肥沃な穀倉地帯を形成するのが普通であるが、由良川の下流域には平野がない。
 前にも述べたように由良川は典型的な山地河川である。山地が流域面積に占める割合は、大野ダム上流では九四・五%、大野ダム〜福知山では八○・七%となり、やや平地が開けるが、大江町〜河口の下流域では再び山地が増して八七・六%である。
筈巻橋(ここが福知山盆地からの出口)
 中流域にひらけた由良川流域最大の福知山盆地は、南北一・○〜一・五キロメートル、東西一二キロメートルの沖積層の谷平野であり、この盆地から下流域への流出口は、大江町と福知山市との境界下天津の狭窄部である。それより下流は山脚が由良川の両岸に迫るので 日藤、波美、北有路、三河、高津江など、町内各所に河谷の狭窄部が存在する。したがって、僅かに平地が広がりをみせる河守付近を除くと、由良川の沖積地は幅三○○〜五○○メートルの極めて狭長な谷底平地となっている。
 中流域の由良川河道幅は、三○○〜五○○メートルといわれるが、図でも明らかなように、福知山境から高津江に至る大江町域一二・六キロメートル区間の河川幅は極めて狭く、一○○メートルにも満たない部分が連続して、この間の平均疎通流量は毎秒三○○立方メートルといわれた。これが河道の改修がなされる以前の由良川の一つの素顔である。

 (2)緩い勾配
 由良川の素顔の次の特徴は流路勾配にある。上流域平均勾配一七五分の一、中流域七二五分の一、下流域二、三四○分の一と、下流域ではきわだって緩やかとなる。下流域のそれをさらに細かくみると、筈巻橋(河口より三二キロメートル)二、○○○分の一、波美橋(河口より二四キロメートル)八、○○○分の一、桑飼上(河口より一六キロメートル)一万分の一である。つまり桑飼上地点では、一万メートル遡って一メートルの高度差しかないので、落差はほとんど無いに等しい。
 このため由良川の感潮域は、河口より一七キロメートルの高津江地点にまで及んでおり、更に上流の三河、二箇上でも満潮時には水位が上昇し、チヌ・コノシロ・サヨリ・シノハなどのかん水魚が遊泳する。また河口部の砂礫堆積は河口閉塞をおこし河水の流れを著しく停滞させている。

 (3)流域面積
 由良川に設けられている各観測地点の流域面積は表のとおりである。大雲橋地点のそれは一、五七○平方キロメートルで由良川全流域面積の八三・四%に相当する。すなわち、由良川全流域に降った雨の八割以上が大江町を通過することとなる。これが特徴の第三である。
 上述した下流域の特性は、一面では下流部の流れを緩やかにし、往時の舟運に利用されたが、他面では流水の疎通をさまたげ、集中的な豪雨にはたちまち洪水被害を発生させる原因となっている。下流部では、洪水は直ちに谷平野に氾濫し、その全域が洪水の流路と化してしまうのである。さらに両岸に山脚が迫る狭窄部は、氾濫した洪水をせき上げる作用をするので、その上流部は異常な高水位となり長時間湛水の遊水池となる。由良川幹川の上・中流域及び支川の改修や地域開発が進むに従って、その地の遊水能力を減じるので、上・中流域の洪水はより短時間に下流域に到達することになる。

過去八○年の出水記録から判断すると、その洪水頻度は次のようである。
 五〜八メートル  一年半ごとに
 八〜一○メートル 四年半ごとに
 一○メートル以上 九年目ごとに
 手を供いておれば五年ごとに国道にのるほどの氾濫を予想せねばならぬわけである。
 大野ダム構築は有力な治水策とされるが、反面下流域の滞水時間を長引かせており、上流各地の堰堤や護岸は、下流域の水禍を増加する結果を生み兼ねない。



『ふるさと岡田中』
大江町誌等により由良川の成立をみると「新生代第四期福知山盆地が土砂の堆積で埋もれる時代の末期には大江町字波美付近に分水界があり、古由良川は福知山から竹田川を南下して瀬戸内海に注いでいた。
ところが、その後、兵庫県氷上町石生付近が地殻の変動によって隆起し、古由良川の南流を妨げたので、福知山付近一帯は満々と水を湛えて大湖となった。やがて古由良川は出口を北方に求めて北流して現在のように日本海に注ぐようになり、大湖の水は涸れて福知山盆地ができたと推論されている。波美橋
 現在の由良川の流域には堤防らしい堤防はほとんどなく、自然堤防であって洪水の時は両岸の山々が堤防の代わりをしている。すなわち、狭い所で四百メートル、広い所で八百メートルの川幅は、深さ数メートル余の一面の泥海になり道路も耕地も沈んでしまう。昔からこうした大洪水に悩まされ、寛文六(一六六六)年以降、約三百年間に大きなものだけでも八十回近くあったといわれている。
 災害年表に記載されている由良川の出水時には、そのたびごとに当地域を流れる河川も大なり小なり出水しているものと思われる。およそ十四キロメートルに及ぶ岡田川や支流の長谷川、下見谷川、平川、富室川は大雨が降ると激流に変わって大あばれをし、橋梁・井堰の流失、道路・堤防の決壊、山崩れ等によって耕地に土砂泥の搬入や畦畔の崩壊などの災害をもたらすなど、由良川流域の災害とは趣を異にしている。
かつて日本海側と太平洋側とを分けた分水嶺?血原峠?というのだろうか
野田笛浦が、「上には裂石ありて、下は深い谷。ひとたびつまづけば魚か亀の餌と為ろう」と詠じた交通の難所。現在はこんな道で少し峠となっているが、交通安全の地蔵さんも見守る。
写真の向側は採石場である。残欠の血原はこのあたりで、ここは匹女と呼ばれた女首長が治めていたという。

ここは確かに分水嶺だったかも知れない。筈巻橋の付近かここかだと思う。

『郷土史・岡田下』波美橋の下流(ここは鮎釣りの名所なのか、よく見かける)
由良川の水害
 由良川の流域には堤防らしい堤防がほとんどなく、両岸に迫る山が堤防代わりをしている。大洪水になると、山と山との間が狭いところでは四百メートルから、広いところで約八百メートルにわたって、深さ数メートルの一面の泥海となり、道路も耕地も沈んでしまう。昔からこうした大洪水に悩まされ、寛文六年(一六六六)以降、約三百年の間に大きなものだけでも八十回近くあるといわれる。「京都府百年の年表」「加佐郡制史」「読売新聞・由良川」ならびに地元資料などからその主なものを抜粋すると次のようなものである。
○大同元年(八○六)八月  死者多く、免税。
○寛永十二年(一六三五)八月  福知山浸水、死者多し。
○寛文六年(一六六六)三月  八月から九月にかけて大水七回。
○延宝八年(一六八○)八月  この年八回出水。
○天和元年(一六八一)七月  福知山に死者百二十三人。
○貞享三年(一六八六)九月  福知山で二十七戸流失。
○享保二年(一七一七)六月  由良川大洪水、福知山方面から家屋の流失数知れず、由良川筋における死者四百余人という。各村石高に応じて分米の赦免あり。
○享保二十年(一七三五)六月  由良川大洪水、加佐郡で死者四百人。
○元文五年(一七四○)六月  福知山の堀、長田ぜき破損。
○延享四年(一七四七)七月  二十一日と二十五日の二回由良川大洪水、山崩れ多く、家屋の倒壊、流失
 数知れず。
○寛延二年(一七四九)七月  由良川大洪水、川筋の家屋約百五十戸ほど流失す。
○文政十二年(一八二九)七月  福知山全域浸水。
○嘉永元年(一八四八)八月  由良川大洪水、 流域の家二階まで浸水。
○同 三年(一八五○)九月  由良川増水五・八○メートル、八月にも浸水。
○同 五年(一八五二)三月、七月  床下浸水多し。
○安政二年(一八五五)八月  由良川増水六メートル、十月にも五・七○メートル。
○慶応二年(一八六六)八月  由良川大洪水、階上浸水一・五○メートル、この年大水四回。
○同 三年(一八六七)七月  由良川増水七・七○メートル、この年大水二回。
○明治元年七月十八日  由良川大洪水。
○同 三年八月五日  由良川増水四・六○メートル。
○同 四年四月十八日  由良川増水五・七○メートル。
○同 六年八月十一日  由良川増水七メートル。
○同 九年  夏  大干魃  同 年九月十七日由良川増水五・七○メートル。
○同十六年          大干魃(五月より八月まで夕立一回)六十年来のことという。
○同十八年七月−1二日  由良川大氾濫、九十年振りの大洪水といわれた。
○同二十三年十月五日  由良川堤防一部決壊。
○同二十九年八月三十日  由良川大洪水、志高で最高水位十メートル、山崩れ、堤防の決壊、橋の流失、
 家屋の流失、倒壊多し。川筋の流失家屋千百七十三戸、死者三百四十一人、負傷者三百十二人、行方不明十八人。
 志高の薬師堂は裏山が決壊して、前の田の中へ押し流された。
○同四十年八月二十五日  由良川大洪水、最高水位志高で十一・五○メートル。由良川筋の各村は未曾有の大被害をこうむった。
 岡田下村では、流失家屋二四戸、浸水家屋二七○戸、倒壊家屋約五○戸という大打撃を受け、田畑も全面
 積の約八割が冠水、収穫は皆無に近かった。
 また、役場の重要書類もことごとく濁流に呑まれ、事務処理に難渋を来たした。岡田下村で最も被害の大きかった志高の被災状況は次の通りであった。
 家屋流失三戸、全壊二十七戸、半壊十七戸。
 ▽応急炊き出し=八月二十七日から十日間。人員三百七十六人(男百十五人、女二百六十一人)、米約九石、その他、ミソ、ウメボシ、漬け物。
 ▽就業材料の支給=大グワ三十四、小グワ五十三、斧十八、備中グワニ十八、ナター、カマ五十三、大箕二十八、小箕七、肥桶三十五。
  ▽小屋材料の支給=丸太千三百六十二本、竹千八十六束、ワラ二千四百四十六束、ナワ千九百把、板八百二十坪。
 このほか、全国各地より多くの救援物資が寄せられた。(注・前ページの図は、四十年大水害の志高被害見取図)。
○大正七年九月二十四日  由良川増水五・三四メートル。
○同 十年九月二十六日  由良川大洪水、志高の最高水位九メートル。家屋浸水百三十戸、流失二戸、倒壊一戸。
○同十二年九月二十六日  由良川増水七・三七メートル。
○同十四年九月十八日  由良川増水五・七○メートル、橋多く流失。
○昭和五年八月一日  由良川洪水、昔から恐れられているいわゆる土用水で、福知山から下流全域浸水し、浸水田の稲作は収穫皆無。
○同 六年十月十三日  由良川増水五・七九メートル、福知山で床上浸水六十七戸。
○同 九年九月二十一日  室戸台風の影響で由良川増水三・四五メートル、風による被害多大。
○同十九年十月十日  由良川洪水、最高水位七メートル、岡田下橋一部破損。
○同二十年十月九日  由良川増水六メートル、福知山の堤防四カ所切れ、家屋流失四十九戸。岡田下橋三
分の一流失。
○同二十四年七月二十九日  へスター台風の影響で由良川洪水、最高水位五メートル、岡田下橋百八メートル流失し、仮橋を架設。
○同  年 九月三日 ジェーン台風のため、岡田下橋は六橋梁が川上へ吹き落された。
○同二十七年六月二十四日  由良川洪水、最高水位四メートル、岡田下橋仮橋流失。
○同二十八年六月八日  由良川増水、最高水位四メートル余、岡田下橋一部流失。
○同  年 七月七日  由良川増水、四メートル七○、岡田下橋両岸付近一部決壊。
○同  年 九月二十五日  十三号台風により由良川大洪水、岡田下橋付近で最高水位十メートル。家屋浸水百六十九戸、流失十六戸(五十九棟)、全壊三十六戸(百六十八棟)、半壊七十八棟、被災戸数三百五戸、被災者数千百六十六人、死者二人、家畜の流失斃死山羊三十、ウサギ三十、ニワトリ千五百三十八羽。
 その他各支流の堤防の決壊、道路の破損数知れず。久田美川決壊、被害甚大。
○同二十九年六月二十三日  由良川増水、四・二五メートル。岡田下仮橋流失。
○同三十年九月三十日  二十二号台風来襲。
○同三十二年七月十七日  由良川増水、四・六○メートル。志高商店街床上浸水。
○同三十四年八月十三日  由良川洪水、降雨量一九八・三ミリ、大川橋付近の最高水位六・七○メートル、床上浸水三十戸、床下浸水二十五戸。田畑冠水百十五ヘクタール。
○同 年九月二十六日  伊勢湾台風による由良川大洪水、降雨量二八六・六ミリ、最高水位大川橋付近で八・四○メートル。家屋全壊二戸、半壊三戸、流失二戸、床上浸水百二十戸、床下浸水二十九戸、被災人員七百三十人。田畑の冠水多く農作物の収穫は皆無に近かった。
○同三十五年八月二十九日  台風十六号で由良川増水。
○同三十六年六月二十八日  断続的な大雨で由良川増水、最高水位音無瀬橋付近で四・二九メートル、大川橋付近で四・九○メートル、加佐地域の国道、バス路線が各所で寸断された。床上浸水八一戸。
○同 年九月十六日  第二室戸台風により由良川増水、降雨量二一・五ミリ、大川橋付近の最高水位三・八○メートル、家屋半壊一戸、一部破損十戸。冠水田畑二十一へクタール。
○同年十月二十七日  由良川大洪水、最高水位音無瀬橋付近で五・二五メートル、大川橋付近で六・八○メートル、床上浸水四十六戸、床下浸水三十七戸。冠水田畑百二十三へクタール。
○同三十八年六月四日  由良川洪水、最高水位音無瀬橋付近四・四○メートル、大川橋付近四・八○メートル、床上浸水六戸、床下浸水一戸。
○同四十年七月二十三日  由良川氾濫、田畑冠水七○ヘクタールに及ぶ。
○同年九月十六日  台風二十四、二十五号が相次いで近畿に来襲、由良川洪水、最高水位音無瀬橋付近五・四二メートル、大川橋付近六・七○メートル。床上浸水二十七戸、床下浸水三十五戸。
○同四十一年七月十八日  由良川増水、田畑二○ヘクタール余冠水。
○同四十五年六月十六日  由良川増水、最高水位大川橋付近五・四三メートル。
○同四十七年七月十日  由良川大洪水、警戒水位を一メートル以上も突破、大川橋付近で五・三九メートルに達し、国道一七五号、一七八号線は通行不能となり、田畑もほとんど冠水、加佐地域は孤立した。床上浸水二戸、床下浸水二十一戸。炊き出しを行う。十三日には久田美川へ乗用車が転落し、父子三人が行方不明となり、後に水死体で発見された。
○同年九月十六日  台風二十号の来襲により由良川大洪水、最高水位音無瀬橋付近六・一一メートル、大川橋付近六・九九メートル。交通はとだえ、田畑は完全に冠水、ドロ海と化し、待望の収穫を前に大被害を受けた。家屋全壊二戸、同半壊一戸、床上浸水七十戸、床下浸水六十戸。炊き出しを行う。
 舞鶴市内の被害総額は約二十一億五百万円に上った。


『八雲のれきし』
由良川洪水頻発の原因は
 一、狭い河道 二、ゆるい勾配 三、広い流域面積と言われる。

    一、普通大きな河には、中下流域に広大な平野を発達させるのが普通であるが、由良川は上流から下流まで山地を縫うように流れる山地河川である。全般に流域の山地の占める割合は八七・六パーセントである。
   二、勾配は極端にゆるい。上流部で一七五分の一、中流部七二三分の一、下流部二、三四○分の一である。とくに岡田上から河口においては一万分の一と殆ど落差がない。そのため河口部では砂を堆積して洪水時の流水を著しく停滞させる。
   三、広大な流域の降雨水は、両岸にせまる山を自然堤防とした幅四○○〜八○○メートルの狭い下流部で溢れ再々の洪水をもたらした。
 このような特徴を持つ河川は、往時舟運に利用されたが、他面、河水の流水を妨げ、集中的豪雨はたちまち洪水被害の発生となった。近年、河川改修の進捗は流量一万トン/秒計画の達成と、洪水調節ダム(大野ダム・和知ダム)の設置によって、家屋浸水をおこすような大洪水は少なくなった。

『図説福知山・綾部の歴史』
荒ぶる由良川とのたたかい ●洪水と治水

 由良川下流の自然堤防や河岸段丘には、相当数の原始・古代遺跡が点在している。縄文時代遺跡をみても、大江町の三河宮の下遺跡より河口までの約二〇キロの間に一〇か所が確認されている。由良川は、早くから生活の舞台となり、人びとに恵みをもたらした母なる川であった。
 これらの遺跡は、現在の地表面よりかなり深いところで見つかっている。例えば、平成八年調査した大江駅前の条里制遺構は、現在の田の表面より一・七bの深さのところにあった。膨大な土砂の堆積であり、由良川の洪水のはげしさを物語っている。
『由良川自然災害史』によれば、寛文六年(一六六六)から明治九年(一八七六)まで、二一〇年間に記録された大洪水(おおむね福知山での浸水高が一丈五尺以上のもの)が七三回とある。一丈五尺といえば約四・五b、それ以上の水位の洪水が平均三年に一回の割で起こっていることになる。
 明治以降でも、死者・行方不明が三〇〇人をこえた明治二九年の大洪水、家屋の流失全壊が七〇〇戸を超え、大江町での最高水位が一五bを超えた明治四〇年の大洪水は、今も語り草となっている。近くは昭和二八年(一九五三)・同三四年の大洪水の惨禍は、なお記憶に新しい。
 由良川は流域の大半が山地であり、典型的な山地河川である。加えて中・下流部には山脚が両岸に迫る狭窄部が多い。その上、下流部はきわだって緩流となり、海水による感潮河川(川の流速や水位が変動する範囲)は河口から一七キロの大江町高津江付近にまで及ぶ。また河口部の砂礫堆積が著しく、河口閉塞を起こし、流れを停滞させる。中・下流部は洪水を起こしやすい条件が揃っているのである。
 由良川は原始河川だといわれるが、明治四〇年の大洪水まで、ほとんど改修の手が加えられていない。歴史的には、明智光秀の築堤や、細川忠興の河口部掘削などが伝えられているが、ごく局地的なものである。明治末年以降、福知山の大堤防の完成や瀬戸島開削など大規模な改修も行なわれたが、堤防の少ない自然河川のため、民衆たちの水害との闘いの結晶ともいうべき竹やぶなどの水害防止林が各地に見られた。
 水害との闘いの跡を物語るものに、大江町有路の大雲橋がある。渡し舟に依存していた当地に、最初の架橋として大雲橋が完成したのは明治二八年であった。渡初めに当り、府の高官は「先鞭嚆矢、他を誘発する。亦徳とすべきなり」と讃辞をおくり、そのさきがけの意義を強調している。しかしその後、再三再四流失し、まさに水害との闘いであった。現在の近代的な大雲橋が完成したのは昭和四五年のことである。
 戦後、近代的な治水工事が進められ、水害は大きく軽減された。そして、今も着々と改修は進められている。単なる治水でなく、親水の観点もふまえた計画が進捗しつつあることは喜ばしいことである。(村上政市)







由良川のこのあたり、加佐郡はいるあたりからは地質時代の大昔から、たぶん由良川が日本海に注ぐようになってからは、洪水の常襲地域である。それは由良川の自然的な特徴からそうなのである。

国土交通省のパンフによれば(下の図も)、
由良川の流域の面積は京都府の全面積の40%を占めて近畿地方整備局管内では淀川、九頭竜川、熊野川に次ぐ大きさ。しかもこの流域は山地が90%を占めて、典型的な山地河川の特徴を持つ。
大きな川なら大きな平野があってもよさそうなものだが、由良川はそれがない。山地だけでできている巨大河川。広い広い上流域に降った雨が一度にドっと加佐郡へ押し寄せて出てくる。

由良川の流域図

しかも勾配がない。
加佐郡に入ると由良川は傾斜がない。
福知山市大江町の波美橋付近で1/8000。舞鶴市桑飼上の由良川橋付近では1/10000である。
10キロ行ってようやく1mの落差しかない。これは平坦地と同じだ。水が流れない。


由良川の傾斜

しかも川巾は狭い。一部開けた場所もあるが、一般に山と山の間が300〜500mしかない谷である。
そのうえその狭い谷間を、長く流れ下らねばならない。

由良川の川幅

しかも堤防がない。
自然堤防のような低いものが一部あるが、大洪水には役には立たない。両側の山が堤防の代わり。
汝の命の如くに堤防を愛せよ。汝の財産の如くに堤防に注意を払え。といわれたその堤防がない。



藩政期の洪水


概要
『大江町誌』
…町内の災害資料(藩政期)が少ないといっても、事態は広域に及ぷから、まるで無資料ということではない。上巻でふれたように、災害はえてして農民一揆の要因となり易く、そこにも多く引用した。ここでは在地資料の上で水害がどのように投影したかを通じて、先人の苦闘の跡をみていく。以下原拠に附したナンバーは本文の脚註に補った。(詳細資料編)
@滝ヶ洞歴世誌 A延宝凶荒記 B御代官様目録 C覚書牒 D拝借願 E御用日記 F役目録 G福知山地方自然災
害史 H各市史 Iその他

「滝ケ洞歴世誌」は、寛永十二年(一六三五)から明治中期までの地誌や見聞を記録しているが、天変地異を克明に写したと見られる享和二年(一八○三)までの一七○年(記事欠落三十年を引くと一四○年)の間に、大水が二四回、大旱九回、大風八回、地震四回、ききん年三度の記載がある。この記事は滝ヶ洞地区の実態であるから、その数値をそのまま由良川全域の事情にあてはめるのは早計であるが、洪水やひでりは広域全体の現象であるからこの数値を基礎に洪水の頻度をみると、一四○年に二四回の大水とは概ね五年に一回の計算になる。
 次に「由良川の自然災害史」洪水編の編年表から拾うと、寛文六年(一六六六)から明治九年(一八七六)まで、二一○年間に記録された洪水(概ね福知山で一丈五尺以上のもの)が七三回(年三度の出水を三として)ある。これに大江町入手資料の六回(慶安三、享保十六、延享四、文化十一・十三・十四)を加えて七九回で計算すると、平均二・七年に一回の割で水災に見舞われたことになる。
 この福知山で一丈五尺という水位が大江町で何丈になるかをみると、両者同日の水位を示す上記のデータがある。
 ざっと福知山水位の二倍半が阿良須の水位に当るのは、疎通力の乏しい暴れ河の惨害を象徴する値とみてよい。
 これを要するに藩政の頃、由良川下流の住民は、三〜四年に一度(慶応二年の如きは年内三度)一二メートルの高水に見舞われてきたとしてよいであろう。

延宝8年の凶荒



『大江町誌』
延宝の凶荒
 延宝八年八月宮津領内の凶作は言語に絶した。その詳細は既に各項で引用したが、要項を再記すると次のようである。
 この年の八月連続六日の大雨で、山崩れ、河欠続出、田畑は大荒れとなり、その冬には三メートルを越す大雪で山の鳥さえ飢え死んだ。藩への上納が納められぬ百姓や庄屋は牢へ入れられ、手錠をかけられるので、ついに妻子をふり捨てて欠落した。くびれたり入水して目殺するもの続出、領内一万四千八百何十人が餓死、潰れ家三、六一七戸、凍死の牛一、七九○頭という。この中へ幕府は江戸浅草蔵前へ米の収納を下命し、宮津領内へ二万二千石の延高を命じた。以前の割当石高を更に増徴して納米させたわけである。いま話の要点だけをかいつまんだが、ここには天災に加えるに情容赦もない人災の典型があり、「宮津領の百姓は自滅するであろう」と、世評があった由を一記している。窮状を見兼ねた領内の大庄屋が連名で死を決して江戸へ貢租の減免を願い出たいきさつは、上巻によられたいが、この中に河守組大庄屋庄右衛門も名を連ねている。(新治家文書は当年の水位三丈との伝聞を残す。)

享保20年の洪水


『大江町誌』
卯年の大水(享保二○)
 享保の末年は、百姓にとって誠に御難連続の年で、十五年は五〜七月七○日雨なし、十六年六月満水、「河守川上山崩 福知山より下は泥入多く川筋難儀仕り候、古今承らざる洪水」で、これらの凶荒が十八年五月の田辺藩一揆、翌十九年の福知山全領一揆、翌々元文元年の綾部領栗村強訴をひき起こした。(一揆参照)福知山の享保一揆は、この一○年後の延享元年に処罰となるが、詮議を延ばしたのは、翌二十年の大水の惨害が余りにも大きかったからだと藩が釈明している。(御仕置御定目)
 この享保二十乙卯年の大水が、後年「卯年の大水」といわれるもので、藩政期最大の洪水とされる。奇妙なことに、この水害記が大江町資料で未だ発見されない。覚書牒の筆者は差」の時交代しているから、記載もれになったのかもしれない。ただ歴世誌にいう「享保二十年川筋大水 郡中人死四百余 丹波より川口へ流れ来る牛馬其他言語に及ばず」は、簡にして要を尽したものである。綾部藩内山崩二万六九九か所、綾部市梅迫安国寺の仏殿は、この時の豪雨と山崩れで倒壊流失した。
 由良川筋ではないが、当年の田辺城下の混乱を手記に残した藩士馬詰某の記事がある。精細な描写を端折ると情況を尽くさないが、要点をとりつぐと次のようである。

 六月廿一日風雨烈しく水家内に押入る。やがて器物畳を浮かせてさながら筏を乱したる如く、老幼相助けて二階天井に上り、はては屋根を破りて棟に上るもあり、梁に腹ばい身に縄つけて柱につなぎとめ下半身を水中に佇む者あり、高き木にのぼり鳥の宿りし如き者あり。家潰れ辛うじて梁の下にかがまる者、俄に産気づき水中に生捨てし女あり。職人町京口辺殊に水高く深さ八尺、棟低き家は軒端を侵す。水音滔々とすさまじく流れ早きこと大河に同じ。流れてくる家の残材 戸や壁をつぎ破り、蛇・ゲジゲジが天井にへばりつき……廿二日水次第に減じ諸人杖にすがりて往来す。
 田辺領の山崩れ大小二千所、土人是を山津波という。城辺南北三里東西一里余一円に水没せり。市中の小屋押流さるる三十軒余溺死三十余人、城外住居の諸士妻子溺死十余人、在所にては二百軒潰れ六、七十人死する由。
 水落ちし後は床上泥五七寸溜りて臭気あり。蝦慕は床にいて喧し腹蛇は柱に纏う。衣はぬれしぼれ、貯えの米味噌は水押入、清水一滴もなし、小路の泥は深田の如く、破家の残材、草木塵芥うづたかく塚となり道をふさぐ。町外れに自他国の死骸あり、汚くいまいまし。
 由良川常水より高きこと三丈又は二丈、丹波の山々崩れ田野に泥多し、但此川辺、事に馴れ家内の常の備よくせしとぞ。流るる家に人あって助けよと泣叫び、助舟出す便なければ徒に間見るのみ。断腸の悲をなす。流るる人は中山の下なる鴨の岩角に当たりて家を砕き水?となる……(以下略)(舞鶴市資料)

『図説福知山・綾部の歴史』
未曾有の大洪水 ●由良川「卯年の大荒れ」

 享保二〇年(一七三五)六月二〇日午前一時前、降りだした雨は、やがて由良川を凶暴な暴れ川と化した。雨は一日中降り続き、夜を迎えても一向にやむ気配がない。二一日から二二日にかけて、ついに大洪水をひきおこしたのである。
 綾部では、由良川の水位が通常より二丈五寸(約六b二〇a)増水した。藩領二万石が九、五〇〇石余と収穫は半減し、山崩れ約三万七〇〇カ所、井堰の被害約五〇〇カ所、倒木約五万四、〇〇〇本、浸水五七五軒などの被害がでた。
 三和町の上川合村(村高三一二石)では、この年の年貢の控除額が約二六〇石で、年貢徴収額である取米は三六石と前年の七八lト減となっている。この取米の額は江戸時代を通じて最も少ない値であり、土地が高所にある段丘筋で川が低地を流れている地域でも、いかに被害が甚大であったかを物語っている。ちなみに上川合村の年貢量が平均値にもどるのは約一五年後のことである。
 次に具体例として、綾部の十倉村の様子をみてみよう。二〇日の夜から降りだした雨は、夜明け前になっていっそう強くなり、二一日には川に水があふれ、夕方にはあちこちから水が沸きだした。川原の土手を土俵で防ごうと村中総出で作業にあたったが、夜一〇時三〇分頃に水量が増し、ついに土手を越したため、力及ばず引き上げた。そうこうしているうちに水は屋敷にまで押し寄せたという。如是寺では裏山が崩れ、和尚が土砂に埋もれて亡くなった。村の作物は一〇〇分の一も残らず、寺を含め六軒の家が潰れた。
 福知山の長田村(村高一、三六三石)では、総田地のうち、四三町余が砂入になり、三九〇石余が年貢控除となった。藩に対して米二五〇俵の借米を依頼した上天津村では、世帯数一三七軒のうち、当分の間暮らしをたてていける家はわずかに一七軒のみで、他の一二〇軒はようやく湯茶が調達できる程度、または明日の食べ物にも困るような状況であったという。福知山の町方では京口門が倒れ、一一七軒の家が潰れた。町家や寺の蔵、藩士の屋敷などが、現在の高林寺付近まで流されている。
 さらに下流の筈巻村では増水「五丈」(約一五b)に達したという。大江町の天田内村庄屋の六月二一日の記録(享保一六年の欄に記載されているが、二〇年の記事とみて間違いない)では、「満水」として、近年では聞いたこともない洪水であると記録している。舞鶴の滝ケ宇呂村の記録では、丹波から河口へ流れてくる牛馬そのほかは言語に及ばずとある。
 このように各地の被害の記録が残されており、この洪水を享保二〇年の干支をとり「卯年の大荒れ」という。この大荒れは人びとの記憶によほど鮮明に刻みこまれたようで、後に出水のときには、卯年に比較してどれくらい水かさがあったというような記録もみられ、後世の洪水の基準になるほどであった。(西村正芳)




慶応2年の洪水



『大江町誌』
寅年の大水(慶応二)
 慶応二丙寅年は五月十五日に四丈六尺五寸(約一四メートと、八月七日五丈六尺五寸(約一七メートと、同月十六日四丈五寸(何れも亀井家文書)と、年内三回の洪水に見舞われた。いわゆる「寅年の大水」である。
 翌々四年(明治元年)七月十八日には再び四丈七尺の洪水に襲われる。
 慶応二年は、あたかも幕府が第二次長州征討の軍を再指令した年で、諸大名は一斉に西国へ進発した。宮津藩主本庄宗秀は現職の老中職であったから、総督補佐役として芸州に戦い、田辺藩も大坂に集結中であった。八月五日出発直前近畿は大暴風雨圏に入り、七日由良川増水五丈六尺五寸(約一七メートと、村々は壊減的打撃を受け、も早内戦どころではなく、一同あわてて帰国のハメになった。被害の全貌はなお不詳であ
るが、次の在地諸資料がそれぞれの局地の惨害を次のように伝える。
(1) 阿良須 水位前掲のとおり、阿良須の流れ家二五軒、行方なし。(安住の避難所がなかったの意)(亀井家文書)
(2) 南有路 八月水位四丈九尺、流れ家一五軒(高橋家文書)
(3) 同南有路 八月三日小雨七日夜半まで大雨、大風を伴い河水氾濫、全耕地の六分冠水作物皆無、流潰家南で一六
戸、北で二四戸、浸水一三一戸、格別の洪水ニ付十三日田辺代官林政兵衛と手代内見、救助米壱俵ツツ被下置、田辺
様蔵米値段初メ銀七八三匁忽チ八百廿三虹トナル(南有路区有文書土佐家写)
(4) 蓼原 八月七日〜八日街道家二五軒流れ漬、他七八戸潰、米一粒も熟さず、同八月十五日又々街道家上側床上迄水押入り、大悪年となり、米一石一〆ニ百匁となる。(新治家拝借願)
(5) 内宮 五月十五日大雨大風、米高値トナリ、五月石五両三歩、六月七両、下旬より八両(脇川家文書)
(6) 公庄村 この資料、伊豆家「役目録」は、慶応二、三、四年の久美浜代官所の解体接収と、この間四回の洪水に際し、混乱を極めた村方の事情を書き残している。久美浜代官宮崎達次郎は追放され、接収した長州藩士小笠原美之助は放胆な民心収らんの策をとった。慶応三、四年に褒美金、兵賦金(軍用人夫賃)、老齢者下渡金としての四村へ下渡した金、五回分一二七両と銀一三〆なにがしがそれである。が、今は水損にかかわるもののみをみておく。洪水の為、農地・農具・種籾・貯穀・家作一切を失った百姓達は、
(イ) 慶応二年七か年賦で農用資金三百両拝借(公庄村は更に四二両追借)四村で配分。
(ロ) 翌年種籾八○石拝借配分。
(ハ) 三年一二七両三歩と永楽銭三○文程を夫食料として拝借(この分公庄村のみ)、この金は代官所廃滅のごたごたと共に棒引きされた。
(ニ) 慶応四年七月大水の四日後巡視した役人は、公庄・蓼原両村の特別な惨害を見兼ねたらしく、二村へ一五両を支給した。
(ホ) 同年八月再び検分して、四村へ二一七両、米拾五石一斗を支給した。
(ヘ) 十一月貢納減免と新免定書を申し渡した。この年は六二石なにがしを被下米として減石し、残りは五か年無利足拝借米としている。
 これらの措置は、緊急救農の方策として一面では評価されるが、他面では激しい水禍を立証するものである。




明治29年の洪水

明治40年の洪水

「丹後の伝説38:由良川の洪水3」







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