丹後の伝説38

丹後の伝説:38集
由良川の洪水3

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明治29年の洪水


『郷土史・岡田下』
岡田下橋(久田美側より)
明治二十九年八月三十一日 大風雨、大洪水あり、その状況左の如し。
 八月三十日朝より降雨、作物のために膏雨(注・農作物を育てるよい雨の意)なりと喜びたるに、夕方には大風雨となり、夜に入るに従い風雨ますます甚だしく、屋外暗黒寸前を分たず。ただ烈風迅雨の音と川水の暴漲して激流するを聞くのみ。夜十二時ごろに至り風雨ようやく止む。この時谷川の水、居宅前の大道を没すること三尺(約一メートル)、その間、由良川に家屋の流失するあり、橋梁の流失するあり、谷々の山崩れ等その惨状いうべからず。八月三十一日の正午が満水の極点にして小字シゲツの水標にて二丈九尺八寸五分(九メートル余)に上れり。午後一時ごろより減水し始め、九月三日に至り平水より三尺五寸高まで減水し、舟渡し始めて渡るを得たり。
 この大水による久田美の被害は、流失住家一棟、潰れ家(ただし納屋、雪隠、水車等)十三棟、浸水家屋百五戸、床上浸水三十一戸、堤防決壊九百九十五間(約一八一○メートル)浸水田四十二町歩(四二へクタール)余、橋梁流失二十四カ所、山崩れ十六カ所なり。(久田美「真下銀兵衛記録」より)

先年物故した大川の故荒木舜太郎(元舞鶴市助役)は、生前、由良川水害の悲惨な有様を次のように語っていた。
 大川には元は国道沿いにもっと多くの家があった。当時は大水が来ると、家財道具を二階へ放り上げて、二、三日分の食糧を持って山へのがれ、自分の家の様子を見守った。洪水が激しくなると、家はグラッと浮いて流されていくが、その瞬間、家族の者の上げる悲鳴が山にこだまして悲惨の極みであった。
 一戸流れると下流の家はみな流されていき、悲鳴は上流から下流へと移って、その声はいつまでも耳にこびりついていた。なお、大昔の寛延二年の大水では大川だけで数十軒も流れたそうだ。
 

『郷土史・岡田上』
由良川橋(右・地頭、左・宇谷)
明治二十九年の大洪水(一八九六)
 八月三十日、朝から降り始めた雨は、はじめは日照り続きの農作物には慈雨と喜んでいたが、夕刻頃からは大暴風雨となり、夜に入ると風雨は益々強くなってきた。夜半になって次第に弱まってきたが、谷川の増水は甚しく山崩れや堤防の決潰、橋梁の流失等、その惨状は筆舌には表わすことができないほどであった。由良川の最高水位は福知山で七・九メートル、大江町で一二メートル、岡田上で一○メートルに達し、慶応二年以来三十年ぶりの大洪水となった。
 (註)当地に於いては、降雨量としては少なかったようであるが、福知山方面の上流が特に大豪雨であった為、由良川の下流が大洪水になり、その被害も甚大であった。
 この時の府下全域の被害は、死者三四一人、負傷者三一二人、行方不明一八人、流失家屋一、一七二戸、浸水家屋二三、四八四戸(大江町誌)であったが、そのほとんどが由良川流域に集中していた。
 岡田上の被災状況を記したものは全く残っていないので、近傍市町村誌や文献等によって水害状況を探り、その補強としたい。

 ・ 北有路小学校沿革史から(大江町誌より)
 昨三十日払暁より降雨次第に激しくなり、暴風強風遂に大荒れとなる。夕方益々激しく、夜に入るや外路は往来することを得ず。未曽有の大洪水となる。即ち、午前三時頃より各家風雨をおかして家財取片付けに着手、浸水の憂なきものまた出て助力をなし、老をたすけ幼をたずさえ高所に避難す。夜明るや水かさ益々あがり、濁流滔々の中、流屋その数を知らず。校下の家屋の倒潰流失せるもの四十七戸、この棟数七十四に及ぶ。幸にして人畜に死傷なきは、一に地理の然らしむるによるといえども、また水災の経験に乏しからざるの致すところである。
 午前十一時を過ぎ水勢ようやく定まる。其量四十尺(一二・一二メートル)に余り、慶応二年の洪水を越えてなお高きこと二尺(六○センチ)なりしと言う。午後漸次減水するも夕方に至りてなお車道を見ず。(後文省略)
 (註)地元住民の永年の宿願であった大雲橋は、明治二十八年四月に竣工を見たが、この洪水によって、わずか一年六か月で流失した。

・ 由良川物語より(福知山水防今昔より)
 (前文省略)明治二十九年八月、陰雨は連旬にわたり、由良川の流れは、あるいは増水し、あるいは減少して、人心漸く不安の念を抱かしめたが、比較的ながく大水害に遭わなかった町民は、まさか空前の大惨害に遭うとも想像しなかった。三十日にいたり、夜来の豪雨に加えて暴風ものすごく、由良川は刻々と増水、旭口の堤防は木枕のため、下手から廻水したが、水はいまだ床上に達しなかった。
 時刻は夜間、福知山の水防上最も要害の地点とした広小路及び京口堤防の二か所は、俄然ときを同じくして決潰したのである。
 奔流は忽ち人家を圧倒した。町民は暗夜の中に周章狼狽して、如何とも手の下しようがなく、阿鼻叫喚の大惨状を現出した。
 即ちこの時間の増水量は実に二丈六尺、無残にも溺死したもの二七○余人。中には一家一三人が悉く溺れて死し、一人も残さぬものさえあった。
 家屋、土蔵、納屋などの流失したもの八三棟、住家の全壊一八八戸におよんで、その惨憺たる光景はへ実に見るに忍びざる有様であった。惇明校の校舎が流失したのもこのときであり、当時、音無瀬橋下の堤防上にあった遊廓は、堤防決潰と同時に流失して、その姿を止めなかった。後の猪崎遊廓はこの水害によって、川向いに移転してできたものである。
・ 物価の暴騰(由良川改修史より)
 福知山より京都に達する国道二三号(旧国道)の間に橋梁の流失せざりしは僅かに土師川、生野川、桂川の三橋のみ、以て其の他を推知し得くし、されば運輸杜絶し爲めに我が福知山の如き、物質の払底に従って物価は日一日と騰貴し、其極は米価代十八円(米相場約九円)、草鮭一足三銭というに至れり。又、人夫も一日に一円というに至れるも詮なきことなり。
 また大江町内宮の古文書には次のように記録されている。
 「道路通行止マル、運搬道ヲ絶チ諸物価騰貴シ、天田内、二俣、内宮三字の困窮者米ヲ買フ事ヲ得ズ非常ニ困難セリ、荒ノ三日目河守米商ハ白米一升ヲ一五銭ニ売付警官の説諭ヲ受タリ、内宮ニテ米拾弐円ヲ出スモ買フヲ得ズ(中略)伍頭集会ニテ、当字ニテ米五石ヲ買入レ、即チ買入代金拾壱円定メ、困窮者へハ拾円ニテ売リ渡ス事トス」
 以上の資料から察しられるように、人命、家屋、農作物、耕地、道路に多大の被害を受けながら、その上物価の高騰による由良川筋住民の生活の惨状は、想像するに余りがあり、その極に至っていたものと思われる。

『大江町誌』
…これらの中て、慶応二年「寅年の大水」を上まわるほどの超大洪水は、明治二十九年と同四十年のそれである。この二回の洪水は共に記録的な惨害を残したため、八○年後の今日までも語りぐさにされている。


明治二十九年洪水(明治二九・八・三一〜九・一)
 八月三十日朝から降り始めた雨は、当初日照り続きの農作物には慈雨と喜ばれたが、夕刻に至って俄然豪雨に転じた。由良川は不気味なうなりをあげて増水し、最高水位福知山七・九メートル、大江町で一三メートルに達し、慶応二年以来三○年ぶりの大洪水となった。
 このときの府下全域の被害は、死者三四一人、負傷者三一二人、行方不明一八人、流失家屋一、七一二戸(府誌)であったが、そのほとんどが由良川流域に集中していた。

 以下、大江町内と近傍市町の資料を手掛かりとして二十九年水害の実況に迫ることとする。被害のうち、水位・人命・住居に関するものを重視し、田畑・道路・橋梁等の損壊は大部分割愛した。(以下同じ)
 (1)北有路小学校沿革史
 昨三十日払暁より降雨次第に激しくなり、暴風強雨遂に大荒れとなる。夕方益々激しく、夜に入るや外路は往来することを得ず。未曽有の大洪水となる。即ち午前三時頃より各家風雨をおかして家財取片付けに着手、浸水の憂なきものもまた出てて助力をなし、老をたすけ幼をたずさえ高所に避難す。夜明くるや水かさ益々あがり、濁流滔々の中、流屋その数を知らず。校下の家屋の倒潰流失せるもの四七戸、この棟数七十四に及ぶ。幸にして人畜に死傷なきは、一に地理の然らしむるによるといえども、また水災の経験に乏しからざるの致すところである。
 午前十一時を過ぎ水勢ようやく定まる。其量四十尺(一二・一二メートと に余り、慶応二年の洪水を越えてなお高きこと二尺(六○・六センチメートル)なりしと云う。午後漸次減水するも夕方に至りてなお車道左見ず。(中略)

一週間を経て再び出水し被害更に深まる。校舎は損害なく被災者の避難所となし、十五日まで臨時休校とす。時に生徒総数六十二名、戸数五十三戸の内、流失九戸、倒潰十五戸、床上浸水二十二戸、床下浸水二戸、無事六戸。(中略)災害後一人の退学者もなく、日々出席平日に異なるなし。
(註)有路上村住民の永年の宿願であった大雲橋は、明治二十八年四月に竣工を見たが、この洪水によって、わずか一年六か月で流失した。
 このとぎ、河東小学校(現河東保育園の位置)は、「開校後はじめて床上一尺五寸の浸水」を見たし、公庄谷河(たにご)の低地にあった公庄小学校は、「床上浸水三尺余に及び、塀を倒し机を流し、その他器具の破損少なからず、屋根棟悉く破損し、舎屋悉く漏雨す。ために修繕を終えるまで授業する能はず。」であった。(沿革史)

(2)常津塩見家記録
 明治二十九年丙申年新八月三十日(旧七月二十二日)十時より雨ふり始め、これ平日の雨也三十一日朝の明には、常津にて十五軒斗り水付候、ひる十時には、あなむしのたきつぼ迄水さき来り、十二時にはたきつぼ四尺ばかりもたち上げ候。善治郎木屋、喜十郎木屋、喜多蔵家、市郎右衛門蔵つぶれ流れ候(中略)福知山蛇ヶ端土手切れ五六十間ばかり。猶又広小路土手切三十間ばかり。猶又久昌寺夷士手切れ弐拾間ばかり、町屋流□立物掛る。弐百間ばかり流屋有。土手女郎屋床より上へ一尺ばかり上り候。死人千人ばかり有の咄。大橋は□川下なみ木掛り、是に家も五六十軒も掛り人も三十人ばかり掛り□家に敷け死に候。牛馬も死に掛り候。川筋の家流たるは数知れず、人の死人も数知れず:。……(以下略)
(註)現代表記に書き改めた。読がな及び傍点は筆者。

(3)内宮脇田家文書
 「八月二十九日夜半十二時寝所ヲ出デテ見ルニ、既ニ自宅へ浸水之体ニテ、五時家内一同大イニ驚キ取片付ヲナス。家の周囲ハ悉ク川トナリ、街道ハ勢ヲナシテ水流リ。其ヨリ水嵩益々加ワリ、納屋製糸場皆水ニ浸サル。午後二時間ニシテ減水ス。宇治橋ヨリ下残ラズ浸水ス。」
 これは、このとき内宮村入口付近にあった脇田家が、激しい二瀬川と北原川の出水に襲われたときのありさまである。
 この時内宮では、谷々の田地は砂入となり、氏神前の堤防は欠壊し(明治二十二年二四間土手切)、山崩・山畑崩れが各所に続出した。「早谷川(北原川)筋ハ、田地欠流土砂入所々ニテ列記スルヲ得ズ。」の状態であり、「仏性寺川(二瀬川)筋六町余(高橋田圃不残、上向田半部、下向田半部)、的場川筋四町余、早谷川筋不残土砂入・欠流」というありさまであった。
 氏神の舞堂を初め大神宮末社、掘立の民家一戸が倒壊し、橋という橋は悉く流出して只宇治僑一橋のみが残り、大神宮の三本杉の内下の一本が倒伏した。
 その他河守上村では、「仏性寺ニテ倒家一戸死人一人負傷二人、倒家北原二戸、橋谷一戸」があり、橋は二俣の田中橋、仏性寺の二瀬川大橋が流失をまぬがれた。山崩・田畑の崩壊流失、堤防護岸の決壊、道路の破損は枚挙にいとまがなかった。

(4)日出新聞記事(明治二九・九・一一)
 浸水の高さは寧ろ福知山町を越え、二階建の屋根瓦に塵芥の止まれるを見、又三階建の家屋も僅かに二、三尺を余して尺く浸水せし跡を印せり。河守に到着せし時水量を聞けば此辺にて常水より五丈を増したりと云ひ、土木監督署出張所の調査に依れば四十尺と云ふ。(中略)
 近傍挙て未曽有の水害を受けたるが、就中最も甚しかりしは河西村にして、字公庄は四十余戸の中二十一戸は尽く流失し其跡さへ見分け難く、字蓼原もまた住家全潰十三、流失三、納屋流失四の多きに達したりと。(大野ダム誌)

(5)養蚕家の被害
 養蚕家の蒙った被害も甚大であった。南有路区長から加佐郡蚕糸業組合に対し、左の被害報告が提出されている。
 養蚕家の被害者取調書
  一、養蚕家浸水戸数七拾三戸
   内蚕室ニ充ツルベキ家屋ノ流失又ハ破壊ニテ使用ニ堪エザルモノ四拾三戸
  二、蚕具の流失又ハ破壊シテ使用ニ堪エザルモノ合計左ニ…

(6)福知山町の状況
 福知山町の被災は極めて教訓的である。その言語に絶する大被害は、町を防禦するための大堤防決壊による恐怖をまざまざと見せつけたものであった。福知山市立惇明小学校には、「丙申水害実況」その他、この水害に関する克明な記録が保存されている。
 藩政期を通じて水防には最も意を用い、町奉行は洪水の都度水の方向を視察して水防を工夫し、経験に経験を重ねて水防対策を行ってきたものであった。それが、廃藩置県後は水防が等閑に付せられ、堤防の決潰等は昔物語りのように思われていた。
 「今日の災害を招きしこと畢竟当町人士の堤防に関する注意の冷淡なりしというべきか。我等幾多の生命と財産とは、僅かに延長九百余間の堤防の堅否如何に依る。自己の生命の如くに堤防を愛せよ。自己の財産の如くに堤防に注意せよ。」
 と、「丙申水害実況」は戒めている。
 
 明治二十九年八月連日の降雨、三十一日午後ニ至リ天候俄ニ暴風雨ト変ジタリ。風ハ益々強ク、或ハ屋根ヲ飛バシ、家ヲ倒スニ至ル。突然綾部警察署ヨリ警報飛来「水枕要心」ト、然レドモ慶応二年ヨリ以来今日ニ至ル三十餘年間、サシタル洪水モナシ。為メニ既往数度ノ洪水モ今ハ昔物語トナリ。「水枕」ノ真意義ヲ解セザリシモノニヤ、警報モ全町ニ伝ハラズ、町民ハ単ニ暴風雨ノ手当ニノミ奔走シ狂水ニ耳目ヲ貸スモノアラザリキ。時ナル哉、見ル見ル増水ニ丈ニ及ベリ。(中略)午後十二時頃ニ至リ稍静穏ニ帰リシ故、心身ノ疲労ハ一時ニ併発シ、殆ンド熟睡ノ状態ニ陥レリ。時モ時氾濫ノ餘殃ハ一時ニ襲ヒ来リ、畳ノ浮キ上リシニ驚キ眼ヲ醒マシタル有様ニテ、家具什器ハ愚カ垂レタル蚊張ハ其マゝニ、或ハ机上の時計サヘ顧ルノ暇ナク、素ハダカニ毛布一枚ヲ引キ被レルモノ、寝マキーツニ縄帯ヲシメタルモノ等………。
 城趾北麓内記方面ニ於テハカゝル事ニ経験アル町民ノコトトテ、家長家族ヲ励マシ、水嵩上ルニ従ヒニ階又階へ卜出来得ル限リヲ尽シタリ。時恰カモ何所カラトモナクヒビキ渡リシ凄ジキ物音、コレナン城趾北麓旭口堤防ノ一角水枕ノ為メニ押崩サレタルニテ、アナヤトサケブ間モナク轟々ダル音響卜共ニ猛リ狂ヒシ瀑布ノ加ク奔渦シ来リシ濁流ハ、人畜家屋ノ区別ナク、一気ニ凡テヲ押流シタレバ子ハ親ヲ尋ヌルノ暇ナク、妻ハ夫ヲ索ムルニ由ナク、子ヲ失ヒシモノ、親ヲ流シタルモノ、夫婦共ニ流失セシモノ、大抵一家ニ二人三人、甚シキハ一家族十三人ノ死者ヲ出スニ至レリ。之ト相前後シテ京口上番所裏広小路常照寺裏ナド一時ニ決潰シ、家屋ハ流失、人畜ノ死傷等夥シク実ニ空前ノ大惨事タリ。就中広小路ノ惨状内記ニ次グ。当時ノ死傷旅人ヲ併七テニ百人ニ及ブ。田畑・池沼・学校ノ庭園等ヨリ埋没セシ死骸続々発見サレ、日ヲ経ルモノハ悪臭実ニ鼻ヲ突キ、人ヲシテ悽然タラシメタリ。(惇明小学校蔵『福知山町洪水卜水防築堤由来」より)

(7)物価騰貴
 災害後、諸物価が異常に騰貴するのは世の常であった。福知山町では、
 「福知山より京都に達する国道二十三里の間に橋梁の流失せざりしは僅に土師川、生野、桂の三橋のみ、以て其他を推知し得べし。されば運輸杜絶し為に我福知山の如き、物貨の払底に従って物価は日一日と騰貴し、其極は米価石代十八円(米相場約九円)、草鮭一足三銭といふに至れり。(丙申水害実況)
と、いうありさまであった。
 河守地方の米価の高騰に対する内宮住民の対応は次のようである。
 「道路通行止マル、運搬道ヲ絶チ諸物価騰貴シ、天田内・二俣・内宮三字ノ困窮者米ヲ買フ事ヲ得ズ非常ニ困難セリ、荒ノ三日目河守米商ハ白米一升ヲ十五銭ニ売付警官ノ説諭ヲ受タリ、内宮ニテ米拾弐円ヲ出スモ買フヲ得ズ(中略)伍頭集会ニテ、当字ニテ米五石ヲ買入レ、即チ買入代金拾壱円ニ定メ、困窮者へハ拾円ニテ売渡ス事トス」(内宮脇田家文書)
(註)明治三十年六月には、福知山堤防修復が完了した。「字京口においては、洪水位以上約三尺を高め、中水位以下は凡て張石仕立にして上部及裏法は土羽仕立とし、馬踏巾を三間とせり。」(竣工式工事報告)というものであり、音無瀬橋も架け替えられた。

『図説福知山・綾部の歴史』より(写真も)
濁流にのみこまれた福知山 ●明治の大水害

広小路の惨状(福知山市・M29)

 明治二九年(一八九五)八月三一日、夕方から道路の歩行も困難なほど激しい雨が降りつのり、九月一日午前二時すぎ、朝暉山下蛇ケ端口の堤防が切れ、内記町を奔流が走った。
 東長町付近では一時間ほどの間に一階が水没し、二階も六〇aほど浸水してきた頃から、あちこちで助けを求める悲鳴や船を呼ぶ声が聞こえた。今の市役所の所にあった連隊区司令部も中部高等小学校も流失、ただ鍛冶町と内記町の角西側にあった収税署、旧井上眼科の位置にあった元藩医有馬氏の土蔵だけが激流の中に危なげに立っていて、西側の桑畑は一面海のようであった。藁屋根に五、六人乗ったまま流れて行くのを見てもどうすることもできない。一〇時頃をピークにようやく減水しはじめたが、同時に倒壊する家が多く、ものすごい水煙・土煙が各所であがり、屋上にいた人びとが方々で叫び声をあげた。午後四時頃になって、水はようやく腰ほどになり、裾をからげて通行する人も増えたが、家の中には一五aもの泥がつもり、薪も塩もなく、井戸水も使えない。近郷の親類縁者から握り飯やろうそく・水などをもらって夕食をすませ、湿った雨戸を倒して床にする人もあったが、どこからか蚊がやって来て寝つかれない。
 この時の水位は七・八b、堤防の決壊は朝暉口・常照寺裏・京口より広小路口に及ぶ一二七か所、死者二〇〇名、流されたが助かった人二五七名、家屋の破損・傾斜合わせて五六三戸、同じく全壊一八八戸、二階まで浸水四四五戸で、音無瀬橋も流失した。ちなみに明治三〇年における当町の人口は五、三七六人、戸数は一、〇〇四戸であった。

 生活綴方運動の先駆的指導者として有名な芦田恵之助は当時、惇明小学校の訓導であったが、以上は彼の書き遺した「丙申水害実況」の要約である。彼は、当地の窮状を訴え援助を乞うため、九月一三日から二〇日間、同僚の公手益謙とともに幻燈機を持って、ほとんど徒歩で口丹波・京都・宇治方面の、主に学校を回った。また明治二六年に設立され、会員はわずか二〇余名の天田郡教育会は、手わけして救援の品を募り、罹災の教員や生徒に配布した。淑徳女学校の創立者山口架之助は当時、細見小学校に勤務し、会の幹事であった。数里を遠しとせず奔走して、わらじ・マッチ・米など多少をとわず募集して配布した。
 明治四〇年八月二四日、当日夜からの豪雨で二六日の水位は八bに達し、午前四時に音無瀬橋南端が流失、同二九年に修理した朝暉口・常照寺裏堤防も再び決壊した。たまたま来ていた特令検閲使黒木大将も旅館から退避している。二九年の水害以来、伏見から分遣されていた工兵隊が舟を出して人命救助に当たった。この時の水死は五名、床上浸水一、三五四戸・流失一五一戸・全壊一二三戸・半壊四二戸。二九年の教訓を得て多少の準備があり、ことに工兵隊の活動のおかげで水死者は僅少であった。(大槻昌行)





明治40年の洪水

『郷土史・岡田下』
明治四十年八月の水害は、古今未曾有の大水害でありました。私は当時十二歳で由良川左岸の舟戸(三十四戸)に住んでおりました。八月二十四日より夜通しの大雨も二十五日ようやく小降りとなり、この分ならば床上一メートル前後の浸水と思っていたところ、夕方から雷鳴を伴う大雨となり、由良川はまたたく間に増水して来ました。しかし深夜のことで避難することも出来ず、現在のように台風、増水状況の放送
も、電灯もなく、文字通りの暗中模索で、家財を少しでも大二階へ上げること、人が同二階へ避難するのが精一杯のことでありました。当時牛を飼っている家が多かったが、これはこれまでの例もあるので、早い目に山手の方に連れて行き、つないでおいたものでした。
 夜十時ごろであったと思うが、川向こうの谷口格次郎さんの住宅が山崩れでつぶれて悲鳴が聞えたが、すでにあたり一面浸水しており、どうにもならず、暗たんたる気持ちになったものでした。
 不安の内に夜が明け、二十六日になると水位は大二階まで約五十センチ、家が浮く寸前との事でした。私は大二階の破風から出たが、草屋根はなわが切れ、大鳥が羽をひろげた様になって浮いており、あたり一面は泥海でした。
 濁流滔々、志高の上境で二つに分かれ由良川本流と、志高たんぼ上との大きな流れとなり、川上から流れてくる数知れぬ家屋や、雑物を矢の様な早さで川下へ流しました。流れる家にしがみついて助けを求める声も一再ならず耳にしたが、なすすべはありませんでした。
 舟戸部落から上境へかけて川岸に、真竹の大薮(官林)があり、それが堤防代わりになって、私たちの家は流失をまぬがれたが、屋根の落ちた家、こわれた家は続出し、家財や食糧は全部水浸しとなり、その惨状は今もなお忘れることが出来ません。
 大川なども国道沿いの家が多くあったが、舟戸部落に勝るとも劣らず、その被害は甚大でありました。昭和二十八年の十三号台風による水害がほぼこの大水害に近いものでありましたが、とに角、明治四十年の大水害は私たちの脳裏からは消え去らないものであります。(志高、今西弥一郎の手記より)


『郷土史・岡田上』
明治四十年の大洪水(一九○七)
明治四十年八月二十三日から二十四日にかけては、耐え難い蒸し暑さで異変の到来を予感させた。二十四日夕刻から降雨となり、夜半に入ってますます烈しさを増していった。翌二十五日の未明に至って小雨になり、やがて雨も止み洪水も漸次減水の兆候を見せたが、午後一時半頃より俄然雷を伴い大地を鳴動する大豪雨となり、夜の十時頃まで降り続いた。この間の総雨量は河守で五三六・一ミリ、岡田中村で七五○ミリに達した。この豪雨によって各谷川は再び大氾濫となり、由良川は刻々と増水し、二十六日の正午には最高水位地頭で一一・五メートルを記録し、古今に類例のない大洪水となった。この時、国道一七五線の俗にいう峠道路(現岡田郵便局の地点)の頂上を水が越したといわれている。
 この大洪水のため由良川筋一帯は全滅の様相となり、本村に於いても死者六名、負傷者多数、家屋の流失および全半壊一二三戸、外に堤防や道路の決壊、田畑の耕土の流失や砂礫の流入等数知れず、住民は茫然自失の状態であった。
 また、この出水による災害復旧に伴い由良川河畔に位置していた集落は、全戸移転を余儀なくされることになった。現在のこの地域の集落配置は、ほとんどがこの時に形成されたものである。
○ 桑飼下 集落戸数六七戸は、長さ四○○メートルに道幅三メートルの道路の両側に沿う列村を形成していた。この街道は往時田辺藩の参勤交代の道であり、巡見使も通った主要路で、由良川東岸の村々にとっても重要な往還であった。
 この年の水浸きで民家二○戸が流出し、二一戸が減水と共に倒壊、残り全部は浸水被害を受けたものの辛うじて難を免れた。
 水害を契機に由良川改修工事が施工されるに当って、この地域は水害危険地帯に認定され、京都府の指示によって全戸が移転を命ぜられた。村外に移住した人もあったが、ほとんどの家は由良川べりを離れて、一応安全な山際に移った。
○ 宇谷舟戸 由良川橋近くの自然堤防上に二○数戸の家があり、約一○戸は由良川べりに片側列村を、一二戸が字谷川の合流点に集落をつくっていた。うち数戸を除いて、いずれも四十年水害によって移転をした。
 この度の洪水で最も惨害を極めたのは、由良川筋の天田・加佐の二郡であるが、それらの被災状況は次のとおりである。
 なお、加佐郡の中でも最も甚しい被害を受けたのは、有路上村・河西村・岡田上村・有路下村の四村で、各村何れも流失全壊の家屋が六○戸以上に及んだ。また、それぞれの村に於いては、被災者のために二日から十日ぐらいにわたって、炊出しが行われていた。
 天田郡で被害が最も大きかったのは福知山町であり、同町の戸数約二、○○○戸の内八○戸を除く外は全部屋上に浸水し、且、堤防三か所が決壊した為、市街の一部はかわらと化し、町民は家財の全部を流失した。(以上大野ダム誌)


『八雲のれきし』
明治四十年(一九○七)の大洪水
 八月二十三・四日は殊の外蒸し暑く、何か異変があるのでないかと予感させる程であった。二十四日は夕方から夜半にかけて大雨となり、翌二十五日は未明から小雨、やがて一時は止んでホッとしたが、谷川は大出水となり、道路、堤防は各所で決壊した。午後まで減水しはじめたが一時半頃から俄然大豪雨となり、折から雷鳴も伴ったので大夕立かと思われたが、それは大地の鳴動する音響であった。雨は夜十時ごろになって止んだが各谷川は再び大氾濫を起こした。由良川は刻々と増水し、二十六日正午には地頭で最高水位三八尺(一一・五メートル)を示した。この洪水で由良川一帯は全滅となった。
明治三十四年に架設された舟橋の大川橋が流されたのはこの洪水であった。


『大江町誌』
明治四十年洪水(明四○・八・二五〜二六)
 明治四十年(一九○七)八月二十三日は耐え難い蒸し暑さで異変の到来を予感させた。二十四日より降雨が続き夜に入ってますます烈しくなった。二十五日は、一時雨は止み洪水も漸次減水の兆候を見せたが、午後二時ごろ俄然雷を伴い大地も鳴動する大豪雨となり、二十六日午前四時ごろまで続いた。この間の総雨量は、河守で五三六・二ミリを記録した。由良川は再び増水し、最高水位一五メートルという古今に類例のない大洪水となった。
 全府下の被害は、死者七三人、傷者一八五人、家屋全壊一、五四八戸、流亡一、一八一戸、半壊一、五八三戸と記されている。以下当時の資料を中心に洪水を見る。

(1)府警本部調査(日出新聞 明四○・九・三)
 その最も惨害を極めたるは、由良川筋の天田・加佐の二郡にして、天田郡は、家屋の流失全潰通じて七○○余戸、浸水家屋三、○○○余戸、死者一三名、負傷者二○名なり。また加佐郡にては、家屋の流出全潰を通じ八○戸余、浸水家屋五、一四五戸、死者二○名、負傷者八名あり。
 尚天田郡中被害の最も甚しかりしは福知山町にして、同町戸数約二千戸の内八十戸を除く外は全部屋上に浸水し、且堤防三か所決潰の為市街の一部は磧(かわら)と化し、町民は家財の全部を流失す。
 加佐郡中被害の最も甚しきは、有路上村、有路下村、岡田上村、岡田下村及河西村の五か村にして、各村何れも流失全潰の家屋六十戸以上に及くり。(以下略、大野ダム誌)

(2)加佐郡の被害
 加佐郡々役所がまとめた由良川筋町村の人畜家屋の被害は、表Cのとおりである。(略)

(3)大江町六か町村の状況
○洪水の回想
 明治四十年の夏は連日のように雨が降り続いた。別して旧七月の盆前からの豪雨は、大風を伴ってどしゃ降りとなり、ゴーゴーという無気味な瀬音が夜通し続いた。
 洪水の水足ははやく、家財を片付けるいとまもあらばこそ、九日の町は大混乱となり、我さきに小学校と長橋寺へ難を避けた。
 我にかえって気がつくと、中村(新)さんの家は激流の中にとり残されて、「オーイ。」「オーイ。」と、しきりに救けを求めている。気はあせるが急流が道をへだてて近ずくこともできない。やがて数名が月明かりの中を福知山通いの高瀬船で漕ぎ寄せた。首まで水につかりながら救出に成功したときは、もう夜明けに近かった。水足は、長橋寺の石段を二段残すのみというすさまじさであった。
 一夜明けると空はうそのように晴れ渡って、夏の日がさんさんと輝いた。寺裏の墓地に登って石塔の間から洪水を見る。
 上流の波美は大海に浮かぶ島さながらで、下流は三河・高津江まで一面の泥海であった。波美船越の方からは、大小の家が次々と汽車のように連なって流れてくる。大きな藁屋根の家、白壁の破風を輝やかせた瓦葺きの家、破風を忙しく出入する人影があるかと思えば、屋根の上に坐りこんだ人も流れる。どうすることもできない。それらはやがて三河上手の渦巻に達すると、みるみる激流の中に吸い込まれてしまった。
 堂本(どもと)から五日市へかけての街道筋の家々は、二軒を残して見あたらない。前夜のうちに流れてしまったものであろう。その二軒も、「あれよ、あれよ。」という間に連なって流れ去った。
 減水はおそく、漸く我が家へ帰ったのは五日も経過した後であった。町筋の立て込んだ家々は、流失したり、潰れたり、道路へ泳ぎ出したり、まともなものは一軒もなかった。惨憺たる有様に唯呆然とするのみてあった。
 多年の念願で完成した新大雲橋は一年余で流れ去ってしまったのである。この洪水の後、阿良須網場(あんば)の人は大良(だいら)へ、五日市の人は赤穂(あこ)の谷やその他へ、 向段の人は古地の奥や久手の高所へ夫々転居した。
       (北有路真下近蔵(明治二九生)手記)

○被害状況 表Eは、人畜家屋の被害状況を町内資料によって整理したものである。
(イ)北有路の流失戸数は四一とあるが、別の資料では二四である。計上基準の相違で世帯数や棟数等が動いたのかもしれない、表(ロ)の数値との間に見られる誤差は被災判定の一訂正などによって生じたものであろう。
 有路上村の被災住居三三四戸、当時の総戸数四○五戸(二、○八七人)であるから、実に八二・五%が住居被害を受けたのである。
 農作物には決定的な被害があったはずである。「有路上村現勢調査簿」によると、明治三十九年米収穫高一、○三八石に対し、同四十年は一七六石である。耕地荒面積は、三十九年一町一反三畝(六一筆)であったものが同四十年末には三二町七反五畝(九二二筆)に激増し、同四十一年三○町八畝(八三九筆)、同四十二年九町五反八畝(三八八筆)と回復している。
 河守町は、橋梁流失二、堤防凡そ三○間流失、道路破壊三○か所余、山崩及畑破壊二五○か所、山林浸水五町歩、農作物の被害は前表のとおりであると報告している。(河守町役場資料)
 河西村では、「日藤・公庄・蓼原ノ戸数二五○、内浸水セザルモノハ僅力ニ十四五戸アルノミ。」といい、浸水田畑九○町三反、埋没流失田畑二二町三反であった。小原田では山畑の崩壊が頻発したが、避難のため住居を出た直後、避難路上部の山畑が崩壊し、自宅から六、七間離れた所で一家六名のうち五人までが崩落土砂と共に谷底に押し流され死亡した(河西村役場資料)。公庄小学校は、「床上七尺に及び、僅かに勅語と四枚の修身訓が難を逃れたるのみ……。」(公庄小学校水害雑記)の状態で、授業再開は一か月後の九月二十八日であった。
 明治二十九・四十年の大洪水に壊滅的被害を受けた河西村では、四十一年にも洪水に襲われ、村民の疲弊は甚だしかった。河西村記録には、村税の滞納一二○名(内差押処分者一八)とあり、加佐郡中最も難治村であったという。(勝井正巳談)
 河東村の役場は床上二メートル浸水した。八重坂の空民家を村で借り受け、守谷医師を迎えてようやく明治三十九年に開設した医院は流失した。医療は一日もなおざりにできないとして、役場を隣接の元涵養校校舎に移し、旧役場建物を急速八重坂に移築して医院を再建した。
○被災者の救援
各町村の役場資料には、被災者救助の小屋掛材料、就業助成費、炊出給与、義損金や救援物資の配布などに関する詳細が記されている。表は、有路上村の罹災救助費の集計である。炊出しは、被災の状況に応じて二〜一○日にわたって行われている。河守町では、七二七人に対し米一五石、河西村では一、○七五人(延べ一万三六人)に対し三五石余、有路上村では七七石七斗余であった。


『大江町誌』
大正十年洪水(大一○・九・二五〜二六)
 大正十年(一九二一)九月二十五日、朝より大雨となり二十六日午前零時頃より台風豪雨となる。総雨量二一七ミリに達し、由良川筋は二十六日風雨の止んだ後も刻々増水して、河守町・河西村で三○尺(九・○九メートル)、有路上村で三六尺(一○・九メートル)(以下略)(加佐郡々制史)
 この水害記録から大江町関係の記載を拾うと、
 (イ)河守上村に於ては発電所貯水池破壊、為に多大の田畑流失の惨害を蒙れり。
 (ロ)河守町に於ては、二十六日天田郡金山村の死者一名拾ひ上げたり。
 (ハ)今回の惨害は、恰も晩秋蚕の上蔟前に当り悲惨にも之を流失せるもの多し。
 文中にいう発電所貯水池とは、千丈ヶ原ダムのことである。その決壊は二十六日午前三時二十分であった。(自然編参照)
 河守町役場資料には、波美の府立水尺水位三○尺、行方不明一、傷者一、家屋全壊一、床上浸水五四、床下浸水一七、浸水田畑九六町三反。被災者四五六人(延べ二、二八○人)に対して炊出しを行い、その米二石六斗六升とある。


昭五・八・一 水位九・七メートル
 前日午後五時頃より大雨、八月一日午前四時頃まで降り続き大江町の総雨量一九一・三ミリ、同日午後三時の水嵩九・七メートル。全壊三戸、流失一戸、床上浸水五四戸、床下浸水三二戸の被害があり、被災者延二、○九一人に対し七石三斗余の焚出しを行い救済に当った。(有路下村役場文書)
 大雲橋は、北側より浮きあがり橋の原形を保ったまま流失し、下流五キロメートルの桑飼上村の桑園に居坐った。

昭九・九・二一 第一室戸台風 水位七メートル
 台風は室戸岬に上陸し、午前八時頃から暴風雨となる。風速四○メートに 京阪神地方の風水被害は甚大であった。当町でも建物の倒壊損壊が相次ぎ、住宅・農林産物・土木施設その他に大損害を生じた。

昭一七・九・二一 水位九・二メートル
 十九日より三日続きの大雨で大江町雨量一一○・三ミリに達し大洪水となる。耕地・農作物はもちろん、住家の流失、全半壊など大被害を出した。あたかもこのころ戦局は悪化のさ中にあって、民需は強い資材統制を受けたので復興資材も乏しく、釘などの特別配給を被災各町村から府知事に申請した。

昭二○・一○・一○ 阿久根台風 水位一一・二メートル
 八日夜から十一日に至る二一五ミリメートルの大雨で大水害となり多数の罹災者を生じた。敗戦直後の人手不足と食糧難の中で被災者は困窮を極めた。この時、町内の寺院には、前年に引き続いて京都市の学童疎開児が多数分宿していた。
 「昨夜来の豪雨もようやく小降りとなり、夜が明けた。まだ子どもたちは眠っている。そっと外へ出て境内(光明寺)から南の方を見て驚いた。一面濁流が渦巻き、まるで海のようだ。川上から家や材木が流れてくる。あの大きな大雲橋もわずかに両側の吊桁が見えるだけだ。やがて子どもたちが起き出したが、この自然の暴威にしばらく声も出なかった。皆顔色が変わり、恐怖におびえている。汽車も何もかも流されてしまって、もう京都へ帰れないのではないだろうかと、女の子が息をはずませて尋ねにくる。「大丈夫だよ。水は直ぐ引くから。」と、大きな声で元気づける。
 しかし、当面何よりも心配なのは野菜の入手だ。降り続いた雨で蓄えは何一つない。田畑がほとんど流された今、供出を頼みに行くどころではない。幸い終戦後の配給の罐詰が少しあったので、どうにか切り抜けることができたが、誠に情ない状態であった。
 学校や他の寮との連絡も断たれ実に心細い。子どもたちを元気づけ安心させるのに随分気を使ったものだ。しかし、やがて水が引くと、早速役場や区長さんの家へお願いに行った。困難な事情の中から特にありがたい配慮をいただき、久しぶりに野菜を口にしたときの喜びは何ともいえないものであった。(以下略)(『あしあと』)
 これは、北有路の光明寺にあって、疎開児童と寝食を共にしていた富有小学校北野訓導の回想である。
 昭和十九年十月九日の洪水で流失し、十月に復旧完成をみたばかりの尾藤橋は旬日ならずして又もや流失した。



台風十三号(昭和28年)

『八雲のれきし』
台風一三号による二八水害
 台風一三号は昭和二十八年九月二十五日、本土を直撃、その進路は当地方にとって最悪のコースとなり、府下全域に甚大な災害をもたらした。とりわけ由良川水系と舞鶴市内の小河川は未曽有の被害を出した。総雨量五九○ミリ、瞬間最大風速四○・六メートル(北東の風)の大暴風雨は、明治四十年の大水害に匹敵する規模となった。
 堤防の決壊二九五か所、橋梁の流失九九か所、道路の決壊二七四か所、砂防埋没九か所、鉄道不通六か所等の土木被害により東西間はもちろん隣接市町村との交通網は途絶し、電力は送電不能、さらに電信電話も不通となり全く孤立状態に陥った。
 なお、田畑の流失埋没五万七、四○四町歩、住家の被害は全壊家屋三三九戸、半壊一、八五六戸、流失一六戸、床上浸水四、六○二戸、床下浸水一万四、○二戸の計二万八二四戸に及んだ。
 舞鶴市の罹災者総数実に八万八、○○○人余に達し、人命の喪失五三人という惨状であった。その他漁港・水産業・学校・水道・電気・交通・商工・公共造営物等施設の被害額は、五七億五、三○○万円余に達し、舞鶴市創始以来の最大の惨禍であった。(舞鶴市史)
 八雲では前日から、しのつく大雨となり村人はそれぞれ家に閉じこもり大洪水に備えて家のかた付けをはじめた。階下の物は出来る限り二階へ上げた。無防備の家族は抱きあって身をすくめるばかりであった。水位は予想を大きく上回り、濁流は刻々増水、国道は冠水し通行不能となった。隣近所との連絡も途絶え、床下から水が湧き上がるなど、ついに経験したことのない洪水となった。両岸の山から山まで一面の泥海は、わずかに二階建の屋根を浮かべ電柱もその先端を見せるのみであった。荒れ狂う本流は大きなうねりとなり音を立て、両岸の堤防代りの竹薮を次々と折り倒す。棟を越した濁流は家をきしませ、ガラガラと瓦の崩れ落ちる音をたて、暗夜にゆっくりと異様な音をたてながら浮き上がり、その濁流にのって行くさまは、恐ろしくこの世の断末魔を思わせた。本流には上流から流れてくる木材の山、流失した家々が幅広い帯となって流れる中を、牛が助けを求めてモー、モーと鳴きながら流される様はまことに哀れであった。人々は声もなくただ茫然として己を失うばかりであった。
 二十五日午後七時、村当局は全戸に対し避難命令を発した。翌二十六日午前一時三○分、大川橋水位九・五メートルを記録。午前七時、由良川中学校、八雲小学校、各字公民館、各寺院及び無被災家庭を避難所に指定し収容した。収容人員八、四八三人、給食個所二か所、給食人員延八、六八六人(内救助法による協力者二○三人を含む)、延食二万二、五七四食、米総量二、六二○キログラム、他に家屋被害の少ない農家から拠出された救援米一八○キログラムで別に延一、二○○人に給食された。

『大江町誌』
昭二八・九・二五 台風一三号 水位一四・五メートル

 この年は洪水が多発した。六月七日、台風二号による洪水(水位六・五メートル)があり、田植えどきの水稲苗は大被害を受けた。近隣町村をはじめ北桑田郡や氷上郡などから植替用の苗四一万把が寄せられた。
 七月五日、二度目の洪水(八・○メートル)が来襲して植替えた稲は再び浸水流失した。
 九月二十五日、三度目が台風一三号による大洪水である。大江町の総雨量は三六八・三ミリ水位は一四・五メートル、百年に一回あるかないかという空前の大水で町民の約六割が被災し、町合併後初の災害救助法発動となった。発足まもない大江町は致命的な打撃を受け、その復興には長い歳月を要した。(戦後編参照)
 概況 二十三日からの雨で河川は増水していた。二十四日夜半から豪雨となり、二十五日早朝には先ず由良川各支流が氾濫し、堤防や道路の決潰が相次ぎ、由良川本流も急速に増水して家屋に浸水し始めた。やがて各地区の道路や橋梁が次々と流失し集落相互の連絡が全く途絶する中で、正午ごろからは二○メートルの強風も加わった。
 一時間に水位が六五センチメートルの速さでふえる濁流に追いたてられ、高台へ高台へと逃げる避難者で大混乱となった。電燈は消え、電話は不通となり、町民は不安と恐怖の夜を迎えねばならなかった。二十六日午前二時半、水位は一四・五メートルに達した。役場周辺の数十戸と河守上地区を除く由良川沿い全域の家屋と耕地が水中に没し去る大水害となり、災害救助法が発動された。二十六日は全域交通途絶で施す術がなく、二十七日、ようやく濁流の去ったあとには、見る影もなく変貌した町並と、尺余の泥と砂礫によって壊滅した田畑が残され、明治四十年洪水以上の大惨害となった。物的損害は約一五億円、昭和二十七年の町会計決算額は五五、二九六、四五一円であるから、これはその約二七倍に相当する額である。また、避難所へ収容された被災者は延べ一五、七五二人、炊出しに要した米は六、一七○キログラム(四一石、約一○三俵)にのぼった。
 この災害では、二箇上水源地の土砂崩壊により一挙に六人の死者と重傷一人をだした。

 家を呑んだ土石流 夜来の大雨と異常な水勢に、洪水に馴れた村人たちはあわてて片付けにかかった。府道べりの低地にある共同作業場の機械類の高所への移動が終わったあとは、約六○戸の大部分の人々が自分の家の片づけに追われてしまい、浸水の心配のない私たち一○余戸の者だけで、高台の公会堂の畳などの片付けにかからねばならなかった。この作業が済んだときは、すでに日暮れごろで、やれやれとそれぞれ家へ帰って行ったが、私は刻々増える水勢を見ながら、高所へ移した作業場機械などの再避難を考えていた。それは六時半ごろであったろうか、土砂崩壊が始まったのである。「ドロドロドロ」という無気味な音、二○秒位おいて、二回目の地震のような地鳴り……。
 この朝、私は自宅付近の山崩れで堆肥小屋を押しつぶされていたので、ハッとして山手の裏道をわが家をさして走った。すでに夕闇で、はっきり見えないが、裏道が土砂で覆われ、道路わきの家も半ば土砂で埋まっているではないか。大変なことが起こっている。私はやむなく舟で迂回し、我が家の灯を見てその無事を知った。
 翌朝、夜が白んだころ土砂崩壊の現場に行って唖然とした。昨日まであった二戸の家が一面の土砂に埋まったかみえない。泥海の中に、草葺きの合掌だけが山手に押し出されている。別の二棟は半ば土砂に埋もれている。
 この家なら安全だと判断した近所の人がここへ難を避けたのが、不幸にも土石流の直撃をうけたのである。別棟に避難していた他家の乳牛は、土砂に押し上げられて屋根裏近くで生きていた。
 早朝集まってきた人々が茫然としているとき、倒壊している家の合掌の梁の下から、「ヒーッ」という悲鳴ともなんとも言いようのない女の声がした。「あっ、生きとる、今助けるで待っとれよ。」皆で障害物を取り除いて女の人二人を救出したが、既に一人は息絶えていた。生存の一人も、生き埋めの子どもの名を呼びながら、間もなく息を引きとった。
 集まった集落の人たちの懸命の救出作業も、崩落した土石の圧力はものすごく、遅々として渉らなかった。翌日は水が引いて道路が出、地元はもちろん、夜久野町・三和町消防団の応援を得て、ようやく三遺体が発見された。瞬時の異変を物語るかのように、左手に煙草入、右手にキセルを持ったままの、痛ましい姿もあった。さらにその翌日、最後の一人である子供の遺体が発見され、次の日、拙宅で遭難者六人の合同葬儀が行われた。
 この災害の原因は、戦時中、海軍が突貫工事で、山頂に貯水槽を掘ったが、そのとき谷へまき出され放置された排土の崩落によるものとされている。(二箇上・新井竹二手記)

▼ドロの街大江町(新聞記事より)
 ……広大な士地は二尺余の果しない一面の泥海と化し、道路沿いの数百町歩の耕地でも稲穂と草木が二〜三センチ首を出しているのみて、水稲はじめ農作物は全滅、晩秋の麦蒔きすら不能とされている。
 高地にある小学校、神社などでは被災者達が着のみ若のまま空腹をかかえて退水を待つ一方、昼間はスコップ、バケツなどで床上の泥をすくい上げている。途中、住む家を失いドロンコ道を下着一枚で、トボトボ歩く女の子、泥の中にすわりこんでうつるな眼を開けたまま動こうともしない老人などを見かけた。
 しかも、二十七日、二日ぶりにやっと山越えで食糧の補給がついたものの、井戸水は全く飲料にならず、野菜類なども全滅し、救援の梅千五タルを分配し細かくちぎりあって食べている有様……(以下略)

▼罹災児童の作文
  夜中の二時ごろ、まさあきちゃん等はかべを破ってにげられました。京子ちゃん等は、はしごをつとてにげられました。まさいっさんとこの家がうちとこの家にぶちあたったとき、「ギイーッ」といって家がへたりました。水が少しひいてから下へ見にいくと、木屋がようこさんとこのかどくちまで流れてきていました。私はかなしかった。涙がでてきました。かつみが「家がない。」いうてないていました。くみ子もないていました。(記録文集『台風十三号』より)

『図説福知山・綾部の歴史』(写真も)
 
屋根ですごした不安な一夜 ●「二八水」の惨状
28水害
↑天井を破って屋根に逃れようとする親子(福知山市・昭和28年・恒見勝氏撮影)。堤防決壊後、市内は45分間で2メートル増水したという。

 由良川流域は近世以来水害の常習地として知られ、大小合わせれば二年に一回の割で水害に遭っている。明治二九年(一八九五)福知山で堤防が決壊し、数百の人命、数千の人家を失って以来、近代的治水工事を行なったが、以後もたびたび被害に遭っている。戦後最大の水害は昭和二八年(一九五三)九月二五日の台風一三号によるもので、和久市北方の堤防が一五〇bにわたって決壊、市街地に濁流が溢れ、逃げおくれた市民は雨の中大屋根へ上って救いを求めた。最高水位八・一b、死者四人、流失家屋五五戸、全半壊一、六〇九戸で、府は災害救助法を発動した。
 綾部市でも被害は甚大で、山崩れによる死者・行方不明者二五人、流失一二一戸、全半壊六六六戸であった。
 この大水害は、その凄まじさからさまざまなエピソードや生々しい記憶が語り伝えられている。
・福知山市字戸田の農家では、夜に向けて思いのほか水嵩が増し、家の周囲はいつのまにか濁流が渦巻き、逃げられない状態になってしまった。家人は二階へ避難したが、飼っている牛は二階へ上がらない。当時、牛は農家にとって第一の財産であり、家族に準ずる大切な家畜であった。仕方なく牛の鼻を支え持ったまま、はしごのそばで一夜を明かした。
・この水害により、音無瀬橋も戸田橋も通れず、午後帰宅しょうとした佐賀方面の勤め人は石原の遷喬小学校の体育館に止宿した。戸田方面から河水の轟音に混じって、時々救いを求める悲鳴が聞こえる。家に残した子供や老人を思い、不安は募るばかりであったという。
・雨は降るし、屋根は滑る。幼児を抱えた東堀・和久市方面の人びとは、脅えながら救助の舟を待った。和久市の人びとは夜分に成和中学校へ避難したが、近くの人びとがふとんを出し合って就寝の援助をした。
・惇明小学校前の内記五丁目の家も二階の床まで浸ってきたので、屋上へ避難した。五歳の幼児の尻を下から押し上げ、あとは幼児の自力で這い上がらせようとするのだが、滑る瓦が非常に心配であった。
福知山駅前の広場も水に浸り、駅裏は一面の湖となり、数十戸の団地の屋根だけが碁石のように整然と並んでいた。
 以来昭和五一年まで二三年間に大小合わせて一六回の洪水があった。昭和一八年、由良川の流水量調節のため、北桑田郡美山町に大野ダム建設が始まり、戦争で中断もあったが同三六年に完成した。昭和二二年には政府は福知山市ほか五郡(北桑田・船井・何鹿・天田・加佐)にかかわる由良川改修計画をたて、水門・揚水機の設置、堤防の補強、橋梁の架け替えなどを行なった。
 こうした本格的大工事により、福知山では昭和四〇年七月の水害以来大水害はなくなり、洪水時の遊水地帯には厚中町・笹尾新町といった新市街地が生まれた。(大槻昌行)






『大江町誌』
昭三四・九・二七 伊勢湾台風 水位一二・五メートル
 概況 前回の八・一三水害に追討ちをかけるように来襲したのがこの洪水である。二十六日払暁より台風一五号の接近と共に猛烈な暴風雨となる。大江町の総雨量は一六九・五ミリ、由良川本支流が急激に氾濫し、夕刻からは町外への交通は途絶して大江町は孤立状態となった。町長の緊急要請(午前十時三十分)により、本町応援に出発(午後七時)した福知山自衛隊無電班も、洪水に進路を断たれ止むなく引き返すありさまであった。
 町内全域が停電し、電話も不通となった。水位はかつて例を見ない速度で上昇(一時間九○センチメートル)し、暗夜の避難と救助は大混乱を呈した。殊に住居の大部が罹災した蓼原・新町等では、夜が更けるに従い疲労は増大し、救助のための人員と舟の不足が加わって難渋その極に達した。
 二十七日午前三時、既に八・一三水害の水位を一メートル上まわり、午前七時には実に一二・五メートルと、二十八年災害以来の高水位に達した。午前九時、この年二度目の災害救助法が発動された。被害状況は別表のとおりである。(略)










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