丹後の伝説:31集
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大杉神社(舞鶴市杉山) 大杉水(舞鶴市杉山) 熊野神社(舞鶴市杉山) 笹部地区調査 杉山のワサビ
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『舞鶴の民話3』に、
杉山のワサビ(杉山)
久しぶりに秋晴れの日、友の自動車で杉山を訪れた。曲がりくねった坂道を登った。よほど運転が上手でないと難しい。冬になると積雪があり、歩かなければならない。ここには杉山ワサビが生産され、むかしは有名だったが、戦後しばらくして土地の改良とともにワサビはなくなってしまった。杉山の清流のあるところにしては残念だ。 村人は何とかしてむかしのように採れるように、古老たちと相談して、いろいろとやっているがおいそれとは育ってくれない。何かワサビが村人の仕うちにおこっているのかな。小さいほこらの熊野神社、わき水のあたりにコンクリートの溝をつけ、ふたをしてしまったのがいけないのか、霊験あらたかな霊水をかくしてしまったのがいけないか、あまりにも生活用水、工場用水として掘りかえしたのがいけないか、清流は石と石の間を縫いながら、人工の川を下っていく。そこにワサビが出来るはずだ。むかしこの近辺で有名だった「杉山ワサビ」が復活するのはいつか。これを望んでいるのは私だけでなく、村人たちもそうであろう。外へ勤めにでているこの頃、二重稼ぎはいけないのか、これは熊野権現さんだけが知っていることだろう。
『舞鶴の民話1』に、
大杉水 (杉山)
五月晴れの空に、こいのぼりが親子むつまじく泳いでいる。くっきりと青葉山が空に向かってそびえている。
山の中腹に西国二十九番の松尾寺がある。大阪、神戸から参拝にくる人も多く、土・日曜ともなると、二つの駐車場は満車となる。馬頭観世音を祭るこの寺を西に下ると、杉山に出る。
ここには大杉神社があり、その境内に「大杉水」…杉の清水ともいう…がある。この清水は、昔から枯れることなく湧き出て、夏は冷たく、冬は暖かい水として有名で、昔は染物に使い、また酒づくりに使われていた。
昔むかし、熊野神社に蛇池があった。この池に住む大蛇が、出てきては大杉水を飲んでいた。ところが、その水を飲むと大変な力が出て、大蛇はあたりに生えていた三本の杉の木立を一つに巻きしめてしまった−。
今、大杉神社の境内に三百年以上もたったと思われる大きな杉の木がある。この大杉は、その昔に大蛇の巻きしめによって一本になったといわれている。
『ふるさとのやしろ』に、
青葉山西側の中腹、標高約二百五十メートルほどの斜面にある旧杉山村。道路わきの清*な流れをたどって上ると、村の東南に、杉の大木の木立があり、その中に泉が湧いている。泉の上にまつられた小さな祠が「大杉神社」でこの谷を「大杉谷」という。明治十一年の京都府地誌には「祭神不詳」とあるが、青葉山の伏流水が湧き出るこの泉の恩恵に村人が感謝の心をこめて、泉そのものを神として祭ったものであろう。
江戸時代の地方史『丹哥府志』には「杉の清水という。その水なむるに清うして、かつ甘し、銀気を帯ぶるに似たり、その清水の出る処、おそらく銀を掘りたる穴ならんとも覚ゆ」と記されている。
境内には、樹齢三百年以上の大杉があり、中には大きな洞穴になっている。伝説によると、この祠の少し上にある旧村社「熊野神社」の蛇池に住む大蛇が、下りてこの清水を飲み、不思議な力が出て、三本の杉を巻き締めて一本にしたという。
この水を利用して、名産のワサビが栽培され、京阪方面の料亭でも評判だったが、近頃はなぜか育たなくなった。またこの水を引いた田の米も良質で、酒米として知られる。大二次大戦中、下流の朝来に造られた海軍火薬廠の用水に使われたため、当時のコンクリート製大水槽が今も境内を占領している。
『朝来村史』に、
熊野神社 字杉山鎮座
…
当社は由緒の項に創立年暦等不詳として何も記されてゐない。按するに、幾百千年の古き昔に此杉山と謂う里が作り肇められた當時に於て村の守護神として勧請し奉祀し、鎮座なされたものに相違あるまい。祭神は伊奘諾神であらせられるが一体熊野さんは八幡さんと等しく全国各地に沢山お祀りしてゐる神社である、併し祭神となると必ずしも一様でない。素盞嗚尊をお祀りしてある神社もあれば又紀州本宮の熊野速玉神社の如く速玉之男命を祭神としてゐるのもあるし更に又伊奘冊尊、夫須美大神、事解男神の三神を祭神としてゐる熊野那智神社の如きもある。
斯く祭神に異同はあるけれども、しかし夫れも決して不思議なことでないと謂うものは元来伊奘諾命、伊奘冊命は申までもなく天照大神、素盞嗚命さまの御父君であらせられ御母君であらせられる、そして右の速玉之男命も又諾冊二神の御子であらせられるのである。夫れで此れ等の神様を紀伊の国熊野の地にお祀りするから熊野神社と称し奉るのである。紀伊の本宮・新宮、那智を熊野三山と申、昔から歴朝の崇敬篤く、殊に源氏が八幡宮を守護神としたるに対し、熊野神社は平家の尊信特に深かったものである。
斯くの如く尊い神様が杉山の産土神として永遠に鎮まりまし給ふのであるが、御威徳の勝ぐれて高くましますの故に里人氏子の神社に謝する観念は実に崇敬最も深きものがあって年内の奉仕特に丁寧である。 傳説によれば其昔、此神社には人身御供と謂う一つの特異な、しきたりがあって、それには毎年一度のおまつりに氏子中の何れかの家から眉目麗はしき妙齢の娘を其年のお供へとして神社へ捧げねばならなかった。何づれ一旦お供へした以上は無事に家へ還ってくるか還へって来ないか、若し何事も無く戻ってきたとしても兎に角此れは非常に村の人々の苦痛とした事に相違ない。何とかなられものかといるいろ相談を重ね適当な方法を考えた結果漸く一つの代案を得た。夫れは一定の場所の田を村中で當番によって耕作し、此れによって得たる清らかなるお米をもって特に大きなお鏡餅を造り此れに白無垢を被せ又お神酒をもこしらえて而して此れ等を人身の代りに御供へとして神前に捧げることにした。現今に至るも春の祈年祭には此精神と其作法は績けられてゐるのである。
右の傳説によって考えてみるのに一体神さまと謂うは此世に人間を化育生成し、其幸幅を増進せしめ下さるのであって敢へて難義な事を人間に要求し、課せらるゝ筈はないので、思ふに此の人身御供と謂うことがあったとするならば夫れはかへつて下から左様な事実を氏子の間に於て作ったものであるまいか、神さまから左様ないけ贄を申附けられたのでなく、察するのに此れは或時代に疫癘でも猖獗を極め、村の大切な人々也家々のかけ替えのないものがどしどし命を墜とす、或は又何か非常にむつかしい問題で、村がたつか倒るゝかと謂うやうな実に危うい場合があったとした時に
此死活の岐かるゝと謂う危局を救っていたゞきたいと、偖ては氏神へ人身御供を捧げますから何卒此重大な場合をお助け下されと誓願したと謂うやうなことは無かったであらうか、他にもよく聴く人身御供の話はおもに然うした事柄が多いのである。
祭禮
当社の祭日は左の通りに定まってある。
祈年祭 毎年一月二十四日
例祭 同 十月十七日
新嘗祭 同 十一月十四日
右祭日には何れも定刻全部の戸主婦人会青少年団参拝し社掌厳かに祭典を執行する。特に例祭には字の青年団により太鼓櫓を擁し笛、太鼓の昔賑はしく練り込みをなし當字特有の神事が行はれる。
当社境内は部落の東方大杉谷の高地に在り社庭廣く、西方遥かに舞鶴湾を望み閑稚幽邃の霊地である。籠舎屋根瓦、鳥居、石燈籠等重量の材料を登尾から昔の坂道を負ひあげたる努力。氏子代々の熱誠察するに餘る。…
『神社旧辞録』に、
熊野神社 祭神 伊奘諾尊 相殿 下森大神 同市字杉山小字大杉谷
相殿下森神社は同村小字大杉谷に在ったのを明治十五年十一月廿七日熊野神社に合祀した。熊野神社は大杉谷の高台に鎮した。
この神昔人身供奉の事有り、妙麗の娘が上ったが洵に難儀なので御形代に鏡餅を作って白無垢を着せ神前に供し悪習を廃したとの物語がある。いまにおきこの儀式は残る由。なお当社には境内霊泉大杉水有り、傍にこの池中の大蛇が巻締めて三本が一本に寄せられたと伝える大杉様と崇める老神木もある。しかし大杉池は大清池の転化とも睹られている。
棟札
…略…
何と面白い伝説が伝わる地。これは研究しないとそれこそバチがあたる。
『両丹地方史』(71.11)に、
舞鶴市北東部所在
集団離村の笹部地区調査に当って
舞鶴地方史研究会 井上金次郎
この地区は現在、福井県と京都府の境界線上に在って、舞鶴市域の最北東部に位置し、史的な表現では苦狭の国と丹後の国の国境すなわち、その接点に面した村落である。
死火山の青葉山系が日本海北部につき出した連峰中の向山(浴称力ブト山)三三一米の東南面中腹に、かなりまとまりを見せる小集落であるが、山襞を縫って九十九折の道を往来しなければならない交通至難を所にあるため、近項の市街連帯地域の農村部と違って近代化の遅れが目立ち、それぞれの家屋についこてもこの舞鶴市域にこんだ所が残っていたのかと思われる程ひっそりとした昔のまゝの茅葺き屋根の農家ばかりで、内部に入っても目新しい改造か行をわれた痕跡は一つも見当らなかった。
それだけに調査に当った私達に草深い故郷のイメージを与え、生家にでも帰った様を気安さや親しさが感じられて、大変奥床しくこれ等を通じて文化の基層をなす生活の伝統を探るには好適の集落であると思われた。然しその反面、過疎のため離村してゆかねばならぬ人達の言動に接した時、何ともやり切れない寂寥感におそわれたのは、あながち私一人ではなかったと思うのである。
以下、私か担当した部門について述ぺる。
昭和四十六年九月二十八日
(氏神の変遷)
現在字登尾に鎮座し、市指定文化財(南朝正平年号(一三五二)の御正体鏡を御神体としている登尾八幡宮の創祀について笹部は最重要を主役となって登場する。それは同社所蔵最古の棟札銘文によって明らかであるので一応茲に掲出する。
松か樅か見分け難き板で棋札型の棟札
最長部四○センチ 幅上部最長部十五。四センチ
下部最短底部十五・一センチ 厚さ一センチ
(一五三九)
梵字 天文八年已亥天 藤○三郎 左々べ村
梵字 奉立新朝来村二宮神
梵字 九月六日
同氏子等敬白
願主藤○登尾兵衛
「天係十五年(一八四四)午歳次甲辰初夏四月上浣改」と誌した冊子には、この棟札を写した箇所に
「考曰 朝ハ荘号也 田ノ宮ヲ一ノ宮卜称 登尾村氏神経所大明神 後ニ正八幡宮卜奉 唱 宮ヲ二ノ宮トモ唱エ候事ノ由 申伝」
の注筆がある。
この他同社所蔵の寄進札(天正十二年)一枚に−
「さゝべの等理伊入道 い上 八貫五百文也
願主 上尾(ノボリオ)」云々
「立大工は高浜の山ノキシ トキ 天文十弐(1584)季
三月十日各敬白」
とも誌している。
創祀後の此社の変移はその社蔵古文書によれば
「朝来中村領地内 石原に御座侯が他所の地に御座候へば祭り事も如才化成 建立(再建ノ意カ)も同断 此山之儀勧進は木部長左衛門(大波の人)山の改道被致此所に祭り度 肝煎被成候へ共 登尾村困窮に及び終に建立不申 貞享元年(一六八四)八月初頃から普請おもいたち建立なり 山ノ道改 屋敷取り 寛文九年(一六六九)酉ノ年より始り−貞享元年(一六八四)子ノ九月朔日肝煎此山に祭る也 其時の支配人仁左衛門」(庄屋木部家の関係人カ)
これの事情を裏書するものに安永七年(一七七八)の棟札がある。この裏に
「氏神中村古宮より此山御入くわんぶん七(一六六七)巳ノ末に御入也それより四十三年きようほう六(一七二一)かのとの牛に今宮立−」云々 次で「それまで五十八年都合百年になるあんねい七(一七七八)戊戌二月初午」と記している。
この様を経過をたどって社号も古林「二ノ宮」が朝来本村の石原地区から現社地の登尾に移転した頃から、どうやら「京所(きょうしょ)大明神」と唱え出した様である
− 京所大明神の称号は同社蔵鰐口元禄七年(一六九四)五月吉日の銘文に依る。(尚、朝来中村に小字「京所」があるが、それとこの八幡宮名称との関係は調査未了の為言及をさけ度い)
これか其後「経所大明神」とあらたまって江戸時代の当市の地誌(丹後旧語集、田辺旧記、丹哥府志等)に載せられているが、当社自身も安永七年(一七七八)の棟札にはこの称号に変政している。それがまた寛攻四年(一七九二)の時点では現社号登尾八幡宮と改称されたのである
−−社蔵寛政銘文棟札に依る。
笹部村は、この登尾八幡宮とはその創祀時主役を演じている程の関連をもっているのに何故徐々に疎外していったのであろうか。今では氏子関係を絶って地人同様となり、別に笹部神社を創設して完全に離脱しているのである。
「朝来村史」によれば
「笹部神社はもと西山の天王だいらという栃尾地内に祀られていた。神田と称する二反余りの土地を添えて栃尾から譲り受け、今の社地に移した。以前は天王様と申伝える」として
「もと(笹部村は)登尾八八幡宮の氏子であったが、近年自字に村社笹部神社を奉斎した」
「この部落はもと登尾八幡宮を氏神として出産の初宮詣りや毎年九月九日の御祭礼に全戸参拝の例であったか、近年或事情により自字の村社笹部神社(明治十七年村社列格)を氏神として奉斎するに至った」と述べている。然し、この近来というのは何時頃方のか不明であるか、この調査時点に於て奥野伊右衛門文書の中から「文化十三年(一八一六)三月」当時の庄屋奥野長左衛門家在役目引継についての村方文書の一部と見られる目録受領書があり、この文中に「神田年貢云々」と「寺志堂帳」か含まれていることから推して此頃既に笹部村には古例は別として氏神笹部社と祭祀していることが判る。前出の「丹後旧語集」「延享土目録(一七四四−一七四七)」「丹哥府志」等江戸期の地誌は総て登尾八幡宮の氏子としては登尾村だけを記し笹部をあげていないのは此頃既に古例の形骸を遺すのみで氏神氏子の絆は断絶していたと思われるのである。これを「村史」ては近来のことゝしている点首肯し難い。この隔絶は可成り年代的にも遡及出来るものと思われるのである。
これ等の事情については、今後の探究と考証に俟たねば正しい結論は得られをいが、御正体鏡の南朝正平年号(一三五二)といゝ、戦国期の天文記年銘(一五三九)といゝ何れも日本中か動乱の渦中にあって激動した時代であるので、笹部地区が茲に出自することは若丹の国境に位置するところから考察して、これ等は或は当時の丹後の国の防人として何等かの役割を演じたのではなかろうか。そしてこの一聯の年号はこれを反影した一つの証左ではないかとも思われるのである。
今登尾八幡宮に蔵する資料を慨述すると左の通りで、総て天保十五年に新調された櫃の中に納められている。
一、天文八年(一五三九) 棟札 一枚
一、天文十二年(一五四三)鳥居寄進札 一枚
一、貞享元年記(一六八四)
宮由来記(但シ庄屋木部長左衛門誌す)
一枚
一、安永七年(一七七八)百年至伝来札 一枚
一、寛政四年(一七九二)
御幣勤請遷宮札(但御神号正八幡宮卜改)
一枚
一、寛政四年(一七九二) 守護版
一枚
以上
この中で前述の如く笹部の文字が出自するのは天文八年(一五三九)分及天文十二年(一五四三)分の二枚てある。他は何れもその片影だに認め得ない。書記するところすべて登屋一村に限もれている。これを類推すると天文以降、次第に氏子関係は薄れ、江戸も中期以降にたると口碑として氏子遺例の儀礼が残っていたに過ぎない様てある。そして今では後文の如く大川社と笹部社の両社を産土神としている。これ等については、前出「朝来村史」が述べているので重複をさけ、今回の調査中笹部で得られた八幡宮伝承を掲示してこの頃を終り、笠部神社てついては年中行事の中て採り上げることゝする。
「大川神社は百姓の神様ですから代参でお詣りする風習か今でもある。区長がお初穂料を用意しておくと、その番に当った者がこれを春の適当な日に持参して神札をもらい受けて帰村し、収穫後秋詣りしてその神札を返す。その時これと引換えに留守番の神様(藁で作られている)を頂き、氏神の笹部神社の小宮に納める。笹部神社が出来るまでは登尾八幡にお詣りしていたらしいし、昔は笹部は登尾八幡の氏子であったので長男長女はお詣りしたという」「私達は、子供の誕生にはその前に大川神社にお詣りして、麻の綱を貰って来ます」との結論である。
(地主荒神について)
この部落では、一般民俗学でいう地神とか地主様とか「ウチガミ」とか云われている屋敷神を「地主荒神さん」と称して、九軒全戸が各々その屋敷内のどこかに祀っている。
これは屋敷内の西北隅に祀られらのか普通であると云われているものであるが、 こゝでは東向の表座敷の北東に面した庭の一隅にある大木の根元であったり、屋敷の西に当る家の裏庭にあったりして定置の方向ではなかった。が然し、どの家にもそれぞれ祀られていることは当市域では一寸珍らしい。
近項では農村部と誰も旧家でないとこれを見なくなったが、大体丹波、丹後のこれは、その祖型として「地の荒神」か考えられ、その大部分は一族血縁の祖霊が氏の神の意識によって祭祀、配分化したものとされている。然し、この村の場合は、集落化した草創時の旧家四姓の由来や「笹部三十石廻り庄屋」等の伝承から想像すると一門一統とか同族、又は株等の血縁集団による氏神始祖命化の意識に依ったというより、むしろ「一家を守る」という守護神的な性格をもつ単独型祖霊信仰の現われとして祭祀されたと考えられる。
普通「地主荒神」といわれるものゝ祭神は稲荷、神明、祇園、熊野、天王、白山、山ノ神、八幡等雑多であるとされているが、この村の場合は不思議に「地主荒神」として統一祭祀されている。これに或は角度を変えて見た場合、血縁集団としての本家分家とか主従関係にある親方子方から来る分祀とも考えられ無くはない。然し、この村の性格から、この統一された名称と祭神は農村共同体としての生活上の結びつきから来る連帯意識によるつながりと、それ等から生ずる近親的、血縁的なものから特に同一神を祭祀したと思われる。
奥野伊右衛門家の神体は高さ十八・三センチ、幅八センチの棋札形の杉柾板に「安政五年六月吉日 奉祭 地主荒神守護 ○」と三行に墨書したものであるか、他家のも本体は殆んど同様であるとのことであった。
また、これを祭祀している小宮は、一般通行の屋敷神型式のもので奥野伊右衛門家、奥野長左衛門家等は、青色凝灰岩製の社で俗に「ケンドン落し」という一枚戸の扉板をはめこんだ振分け屋根のある社屋に実に丁寧に祀られ、その家の創設にかゝわりがあろうかと思われる大きを常緑樹(この樹の種類は、種々家に王って異る)の根元に一抱えもある平坦な岩石の上に安置されていた。
またこの他、素木の小宮をしつらえて祭祀している家もあったか、これの祭礼については、定期的ではないとのことであった。
これの供物についても別に定まった物を供える風はないとの返事であったが、唯何れも一家か留守をする時、また大川詣り氏神である笹部神社への参詣の都度祈願合掌して安全を祈り、又は感謝を捧げるとの習慣て各戸ともこれ等については同一であるという。
(年中行事と講について)
この分は九月九日夜、地元の方々と鼎談の形で行そわれた座談会の録音テープから抽出し、これに私のノートを整理して補充したものであるが、丁度この採録部分は迎えの車が来る直前になってしまった為、倉皇の間意に満たぬ結果に終った。そしてこれ等を分析してみると、其発言内容か不明瞭であったり、日時に多少の誤りや記億ちがいと思われるところが出てくるので、これ等については後日訂正の機会を得度いと思っている。それで、こゝでは昔遍的な一般行事はつとめて略し一応地方色あるもめを概述した。
○春から夏の行事
正月十一日 つくり初めと言う
田畝に杭をうちその上に白い紙の御幣を立てゝ家長が遥拝する。
正月十四日 狐狩り
鍋敷に鍋つかみ(両方藁で手製)をつけてポイット(形容詞の方言)ほかした(捨てるの方言)
正月十五日 トンド(左義長)と尻たゝき
尻たゝきは若狭、丹後地方ではともに嫁の尻たゝきと言っているが、笹部では「婿さんもやった」というこの行事は登尾地域と始んど同一で前年度の新婚の家を訪れ、串柿と二〜五銭位入ったポチ袋を貰って帰る程度のもの。
然し、浜地区(東地区の旧浜村)ては端午の節句に菖蒲で作った尻たゝき用のものを作り村中の女の子の尻をたゝいて廻ったという。
正月二十日 この日を「こじき正月」と言う
正月二十五日 天神まつり
二月 節分の行事
星祭りと宮詣り
二月十五日 涅槃
白黒の豆を煎り砂糖で固めたものを仏前に供えて後喰べる。
三月 春の彼岸
松尾寺詣り
四月八日 卯月の八日として松尾寺詣り
この日竹の棹をつくりこれに藤の花、つつじの花、ホウキン花をつけて仏前に飾る
五月十四日 お日侍
七月 八日 虫送り
七月十七日 秋葉さんの夜祭り
もと八月十七日か例祭日であったのを近頃七月十七日に変更したと言い御神体は遠州の秋葉神社の分身として若狭の鎌倉村の崇敬厚く年一度鎌倉一村挙げての総詣りがある。
八月 盆の行事
七日 寺屋敷の共同墓地(石塔群所在)の掃除この笹部地区は別項の如く両墓制である
盆は寺の施餓鬼、盆おどり(若狭の鎌倉村と毎年交代して行たった)、六斎念仏(今なし)、松上げ(たいまつともいう)
○ 秋から冬の行事
九月 秋の彼崇 松尾寺詣り
十月九日 宮講
十月十七日 氏神笹部神社の例祭、これを秋祭りと言う
十一月 神迎え
註1 天神まつりは字が上手に書ける様にとの願いごと行事であるが、笹部のこれはどんな内容か不詳
註2 お日侍 これは普遍的元もので「月待ち」「日待ち」等、文化十年(一八一八)の「大山村村年中行事」によれば大山村なこれを正月、三月、五月、九月、十月と年に五度行だっている。字浜地区では九月
二十八日を「お日待」として行事していた。
註3 宮講、この場合の講は氏神、神事化かゝわる相談集会の意てある
註4 神迎えは「神無月」に関聯をもつ行事で一般に十一月中に行なわれるらしい。
この他に今も尚続いている年中行事として月日不詳であるか「田上り」という農作業区切りの大休み日かある。これは若狭地方で「野上り」と云われているのと同様の様である。又、仏事に関係する「観音講」か年二回、寺屋敷て行なわれているというか、他の例から推して春秋二回の村中の都合良い日を選びこれを講日としていると思われる。
過去に行をわれた講「秋葉講」「大師講」「七日講」「一日講」等色々であったか、今は前述の「宮講」と「観音講」の二種か残るのみこいう。
◎ 私の担当した部門の結論について
一、 私が今回の請査行で内々期待していたことは国史の貴重を根本史料である若狭国の大田文〔文永九年(一二七二)の条〕に出自する
「国領 六十八反百廿歩 除田井浦 二町八反四歩 地頭 近江前司 恒岡則行 則信□ 御家人 青七郎 跡 関屋二郎伝領也領家高雄神譲寺 田井浦二町八反四歩被抑領 丹後国 志楽庄 畢」
の記事であり、これを引用した福井県大飯郡誌(大正からかゝって昭和六年に刊行)の「大飯郡国境 丹後加佐郡の一部 田井浦より南一帯の地大飯郡に属したるに鎌倉時代諸所の押領行はれし頃 先づ田井浦彼国志楽庄に抑領せられし事(大田文)の書入に見え松尾観音堂附近も亦本郡に属したるに近世遂に彼国に属せしものゝ如し」「松尾寺も若州の観音としてきこえその創建者も若狭内浦(笹部の隣村)の人春日惣太夫にして近世も争ひし事等より推考して吉坂以北一帯の地と共にもと(田井浦二町八反四歩等と共に)青郷の内に含まれていたと考えられる」()印小生注 等若丹国境に言及した記事てある。
丹後には現在この大田文に匹敵対抗できる程の重要地方史料か無いので、鎌倉時代の若狭、丹後の国境は「被抑領 丹後 志楽庄 畢」として認めざるを得なく、その結果、中世の国境は押領によって変移したとしなければならない。
この観点に立って特に此度調査対象となった笹部地区は、丹後の尖兵的集落であり、国境の村をして注目した村でもあった次第で、こゝを徹底的に調査することによって何等かの中世的な収穫が得られるものと思っていた。幸いにして今回前述の通り笹部「氏神の変遷」を尚遡及することにより、その端緒が掴み得るとい確信らしいものが湧いて来たことを報告したい。
二、第二について民俗的を意味でこの部落の屋敷神の小宮(祠)か始んど古木の傍に置かれ、前記の様に呼称がすべて「地主荒神」であったことは祖霊信仰が基盤となって「地主荒神」に表現されている若狭、大島半島の所謂「ニソの杜」の信仰形態と類似していることであった。
笹部の場合は、家屋敷等個々の守護神化した鎮守思想が多く感じられたが、その信仰杉態と周辺の状況から推して、これ等は共通して祖霊信仰に結びついていると考えられた。今後はこの点にも留意して舞鶴市域、大浦半島の部落に点在し、また若狭湾沿岸にも散在する特異を「大将軍ノ宮」と併せ幅広く研究を続け成果をあげたいと思っている。
予定していた「交通の変遷」については、この周辺を尚精査する要かあり、時日か間に合わないので一応こゝでは除きたい。然し、笹部地区を通過する旧街道(福井県県道)が中世どれ程重要なものであったかは、この道に隣接する若狭の内浦、山中の両村に中世の城趾を四ヶ所も数えることが出来るし(大飯郡誌)又丹後側にもこの道に沿って朝来中村地区、登尾、笹部等、中世山城の遺趾を三ヶ所も認め得るので中世の動乱をふまえて、この時期の地方史解明に取り組む予定てある。
三、次で年中行事中の「狐狩り|は若狭、丹後に多いと云われている行事で、舞鶏市東部ては浜、登尾、大山、大波等から色々なこれについての報告資料を得ているので、その分布と内容に注目し、奇習「嫁の尻たたき」等とともに史実と習俗、延いては歴史と民俗の結びつき等、角度をかえて色々な面で市史編纂の資料としてゆきたいと思う。
『舞鶴地方史研究』(73.12・岸田篤)に、
登尾年中行事
・正月元旦 家内一同氏神参拝
若水迎え歳男、家長、主婦に先立昔時は木桶(たか)、木杓初水汲む。之雑煮用
・一月二日 仕事始め
昔より明治三十年頃迄、子供は銭さし(一文銭を通す約六寸)、学童は書初め、大人は男それぞれ鍋づかみ、鍋輪(鍋の台)、牛綱女は縫初め和裁にて一升位入る袋をぬい、米を一升位入、歳徳神へ供えて朝餉。
米袋を二こ作り一、二と書し(一)は本日、(二)は作初めに入れ、(一)はさびらき、(二)はさのぼり、に飯にたき神棚に供う。
・一月六日 若葉むかい
六日午後菜園よりかぶらとり、歳徳神供え翌七日正月雑煮に用う。
・一月一一日 作り始め
年末に場所を定め蕪を三本植置きたる場所へ宝木を立てお参りし、其年の豊作を祈る。宝木は栗或はゆるたの木拵え長さ約二尺太さ一寸位のもの、頭に紙の幣をはさみたるもの年末準備し歳神に飾り置く。現今はあまり行われぬ。
・一月二四日 狐狩り
氏神籠舎に明治三九年頃迄は若衆連中(一七才で仲間入り行い結婚迄のもの)がお籠りし神床にはもみの木の枝を飾り、不行為の者は両端を二人で持ち「ふんどし」をかかすと言っておどろかしたものである。夜一時頃火の番二人を残し(大いろり三尺余巾、長六尺位)一同村中を、先達が「われら何をする」と上の句を言うと、皆揃って「若宮の祭とて狐狩りや−」と下の句を付け、大声でわめき廻ったものである。其後一時休みたるも、近年昭和中期、青年が籠り、往年と同様お籠りしその時に酒、及豆腐等新入者が献す夜食及朝食を終えるだけ。最近は勤務者の勤めにも差支のため中休なり。
・一月一五日 どんど
火の種は一四日お籠りの火を才の神(四叉路)の所に移して正月の立松飾等を焚き、書き初めももやし高く上るのを見て、手習が上るといって喜んだものである。
・一月一五日 嫁のしりはり(婿も同様)
一五日朝、男の子のみ前年中結婚したる家に行き「祝いましょう」と云って来る子供(一五才迄)に串柿(明治末期より逐次貨弊価値に依て異るも)お金を付けて与う(大正期
「来二銭後五銭と金額は各自考に依る」現在に至る)。
・一月一六日 仏法始め
お寺より住職供を連れ、御札を持って各檀家に新年の挨拶に廻る。最近迄は餅を礼として供したるも、最近は御布施金と変る。昔時は此餅をかき餅として随時子供等お寺へ使に(お供物持参の他、仏事関係の用事)上りし折、かき餅焼きたるものを与えたるものである。
・一月二三日 祈念祭
正午部内一円参籠、神官を招し神前に本年の平穏、五穀豊穣の祈願、又年祝女三三才、男四二才、六一とか喜寿、米寿の神酒に鏡餅一重を供え祈念す。
昔時より近世迄は三飯なりしも最近は二飯部落より神酒をお供す。
・二月四日 節分
家々に依り大同小異はあるが、家に依ってはかやの木の枝に「ごまめ」をはさんで、戸口戸口に差して鬼の入らぬ様にと云う家もあり、或はのみの口を焼く、其他種々厄を焼くと云う行事もあった。
現今は見当らない。今に至るも星祭りや氏神へ参拝をなす。
・二月六日 コト(旧六日)
昔から氏神様をお祭して、此一年を無事で「コト」なかれ「災難なかれの意」、豊かな稔りを与え給えと祈り、兄弟姉妹達(他家へ嫁したるもの)を招きお餅、「ぜんざい」を餐し楽しく快談したり又食事に用いし箸(白木もの、柳等用いた)を二筋の太き繩にはさみ梯子形に造り、段の多い程食糧を沢山授ると云って喜んだものである。その箸の連を屋根の高い所へ上げた。
大正期に入りおこと始めとして彼岸中日と定めて同様の行事を行った。大東亜戦争始より自然消滅となったが、家内うちでは行う。
・二月一五日 涅槃
豆をいり米粉にて固めて仏様にお供し、後お下をいただく。又お寺には大涅槃像(大きさは丈六尺、巾九尺余のもの)を掛け此にお参りを行った。
・三月一七日 秋葉神社
遠州秋葉権権より分祠紀念日「昭和二六年百年祭執行」午後半日休業
・三月一八日 氏神お誕生日
明治三九年迄は昔から(天文時代よりか或は現在の地に宮遷ってからか不明)、(若衆解散迄)若者の年中行事であった。此の季節になると何処かの薮に孟宗の筍が大なり小なり上らぬという事は無かったので自然筍さんと称呼して居て筍の馳走であった。禰宜(昔時は年行司とも称した)宅より藁を供して貰い大〆繩を賑やかにうつ(作る意)たのである。鳥居にかけ飾り祝いぬ・氏神秋例祭前々日掃除の際此を取除きたり。現今は村戸主に於て行い、神酒をいただきたいへんな盛事である。
以上両日共字内一般休業す。昔時奉公人は嬉んだものである。
・三月二一日 彼岸中日、松尾参り
お日様の御供と称し、早々朝村を出発し若州高浜高森さん又は東三松位に迄行き、お日様即ち天と様、太陽を拝し日没迄にお日様のお供をし帰宅したのである。明治末期より自然消滅す。
・四月三日 陰暦三月三日桃節句、ひな祭り
大正初期迄は志楽村小倉天王参りをも行ったが現在なし。
・四月二九日 旧天長節は種卸し「稲種蒔」
昔時は旧暦にて行い、稲作作業の方法変遷に依り大正期には当時集会所に集り賄は宮籠り並。農作業の柴苅り始めより中休、終休「五月二七日海軍記念日」と定め、田植始は約一週間。始の六月二三日頃より始め、六月十日頃終了。六月一五日頃小休、大体は六月末、其間に野上祈念と云って松尾さんより鹿原金
剛院小倉天王さん参り。
或は高野村女布の天王さん参り等の行事を協議決定する行事であった。此を一般に告知掲示す。明治より大正初期には部落統一作業であった故、田植は一週間位にして部落全部終了。其間早々田植の終ったものは肥持ち等他の農作業禁止の申合も有った。逐次養蚕及外勤者のため現在廃止となる。(てんごりと云って労力相互援助をした)
・五月八日 「陰暦四月八日、卯月八日」
釈迦如来誕生日
竹の棹の先に(長さ二三間)藤の花(むらさき)ひきだら花(黄)とほをきん花(白色)つつじ花(赤)しびき(黒)の五種の花を「五色」日天様へお供えする。現今も続いている。松尾参り。
・五月二三日 お日待、月待日待
古くより行われた行事で、昔時は多人数にて籠舎に二個のいろりあり、此に満員になった由。三飯「昼、夜、朝」、米、塩噌、野菜を集め、三人の当番賄をなし、通夜のお籠り夜中月の出を拝し、又朝日の出を拝み神床には天照大神、月読見神と八幡神社の掛物をかけて祈念せり。世のうつり変りに依り参籠者減りしため、種々と奨励方を取りたるも勤務者多きため数は或限定人数となりたり。戦時中以後は昼晩二食となり、昔通夜の時には、各自蒲団を背負いてお講箱を持って参籠す。当日は半日休業。(お講箱は飯椀、汁椀、手皿、副食物入)
部落規約として葬式肥灰禁止の日を定めたり。
《参考》……正月一、二、六、一四、二三日
二月六日コト彼岸中日。旧三月三、一七、
一八日神武天皇祭。三月二三日天長節。
四月種卸し。五月五日節句、二三日宮籠 り。以下省略
・六月一二日 稲虫送り
・六月一四日 氏神夜祭り
・七月一七日 秋葉さん
・八月 一日 八朔節句
・八月 六日 堂の前稲荷社参り
・九月旧六日 宮講
・九月 九日 氏神例祭
・一一月六日 水神講
・一二月九日 山の神
其他毎月二四日念仏百万遍
・七月一二日 (陰暦六月一二日)稲虫送り
明治二五年頃迄は、昔から笛、太鼓、鐘で各自大松明を持ち、夕暮から秋葉社の下より(禰宜様が秋葉社より神火を移し)稲の虫送ろうや、稲の虫送ろうやと大声で村境迄送ったものである。明治末期よりは松明火となった。現在は農薬のお蔭でなくなった。
・六月末日 野上り祈念一斉参り
・七月二三日 (旧六月二三日)お松上げ
明治中期頃迄氏神のお庭で各戸より新麻がらを集めて夕方(三間程の竿の先にくくりつけ)点火した行事があったが、何時の頃からか中止となったことか不明(多分愛宕様に浄火を供し火難の除けをお祈りしたのではないか?)
・八月 七日 より二四日迄お盆行事
・八月 七日 両墓制のお墓全部清掃。三界万霊無縁仏始めとし
・八月一四日 盂蘭盆会。各戸墓参、親類物故者墓参
・八月二三日 庵の地蔵尊お祭寺住職参詣読経。
・八月二四日 しまい盆、うら盆ともいう。
・八月一四日 或は一三日夜無えん仏迎えて祭り一五日夜送る。
・八月一七日 (旧七月一七日)秋葉神社夜
祭りは昭和四○年頃迄は一六日午后総出にて二百有余段の破損の部分作業と草苅り行う。材料は各自くだ木三尺径三寸位のもの及杭二本を持参す。
一七日参拝し、おみき頂いたが、最近は当日右行事を行い其場にてお神酒をいただき解散。(外勤者の関係から)
・旧八月一五日 氏神の夜祭り
大正年代迄は禰宜は必ず参拝清掃祭祠を奉仕なしたるも、昭和の世代となり夜祭を知らぬ者多し。
・九月 六日 旧八月六日 稲荷社「村の中祭である北野天神様その他」お祭り(俗に甘酒祭ともいう)
昔から此祭に備えて氏神禰宜に当る人は甘酒一升程を作りお供えして参詣者にお下げとして振舞ったものである。菓子椀又は茶椀に一杯宛であった。粗食時代には子供参拝も多く非常に嬉んだものである。米統制や時代の変遷に依り菓子変りしも久からず参拝者少なく、最近は中止の形となった。
・九月二三日 夜待ち。一般余籠、お日待通夜。
・一○月一七日 (元旧九月一五日)
氏神秋例祭
古昔時不明なれども、昔より明治三九年迄は狐狩り、繩打ち秋祭礼行事は若衆の年中行事であった。
祭礼の順序屋台は以前道路に曳くかずな巾三尺長さ五尺高さ七尺そこそこなもの(はきしと云う)かくら箱総檜造長持形の箱の上鎮守に置き右側太鼓を据え、左側より打つ。荷箱の左側にかつゆを取付け油紙屋根障子、其下紫色紋入幕を張り廻す。鎮守の箱に祭具一切入れ、下に石臼二個据置く。荷棒長二間。二人にてかつぐ。
行列先導氏神幟祭例主任獅子舞人、氏子総代高張一対屋台曳、さゝらひき、鬼面か天狗面を着しはやし神楽箱拍子木打ち、しんばる一人、笛全員道中練り社内へ練込む。(はやし、神楽舞。氏神、堂前稲荷社、秋葉神社三ヶ所。昔は区長宅へも行った。夕暮に提灯に火を入れるべく時間をかせいだ)
神前に向って獅子舞、又昔時は三番叟も有った。多大経費のため一時中止のこともあり後は区長主催者となり再興。大正一五年立派な大きな屋台新調。道路完備のため村中総出此を曳き、四十数余石段を曳き揚げは壮観を極めて威勢あり。
昭和一四年頃中日華事変後中止となりしも、昭和四四年頃此祭礼行事を忘れぬため中年層が祭礼を行った。
・一○月中の亥日 いのこ祝ぼた餅神様へ供えん。神床へは別に一升桝にぼたもちを入れて供う。
…此時歌…
いのこ ごん先に 亥餅つくとは こりゃどうじゃ 稲のいもち病まじない。
・一一月 一一月の初めか一○月末には、新穀にて甘酒或は御洗米を各自随時に神殿、小宮等に献じたり。現在は此風習は殆どなくなった。
稲苅り始め
飯たき、神床、仏檀、恵比須様、地主荒神さん、稲穂をも供う。いなき麻がらで作り、稲穂をかける。又稲苅終め稲こきおさめ餅を作り祝う。凡て田の神様を祭る時は別に桝に飯又は餅を入れる。
下数南天の桑又は桑の葉は御始米のとき。
・一一月一四日 待上げ。一同参籠感謝祭執行後近頃此行事は婦人会に移りしも、逐次後退せり。中休みとなる。
・一○月二八日 神送り
・一一月二八日 神迎い一般参拝
・一二月 一日 おと子朔日 餅を作り祝う。
・一二月 九日 山の神。山仕事人は祝う。又一般は此日山に行かぬ様にした。
・一二月三一日 おお年。正月準備を行う。日没より深夜にかけ参拝、一年の感謝をなす。
・ 御講
一月六日、一一月六日。水神講、上、下二組に分れて水車当番を宿として行いしも大正八年末期より合併。公会堂にて宮籠の鮪程度にて水分神祭り神言を奏上す。当番は家順に行う。
・ 月並講
込谷組、日当組、下組に分れ各五〜七戸位にて任意加入。正月、二月、三月、五月、七月、九月、一一月人数に依り月割は各組にて行う。一一月の仕舞講(常にひらく各月は平汁、手皿物)は神酒も常より多く、又餅其他馳走をなす。当日翌年の籤引にて月番を定む。
近時は加入者減り自然消滅の形となる。月並講は正月一一日開催を通例として居た。
・代々講(二月六日)
此は元伊勢宮代参会を兼ね行い、明治四二年迄は中流以上の自由加入にして前年代参。抽せんにて二人宛代参。
御講当番は二人にて相当なる賄は派手で有ったが、明治四二年登尾大火後は集会にて開講、当番は三人宛。酒三升白豆腐一五丁雑魚一升五台とし、当番人は随意に此を賄をなし、各講員より白米三合、野菜、味噌等を集めたり。
大正末期より伊勢神宮へ二人の代参費用は講員負担とし、杓子或は箸を付し御講当日に配布せり。二○人前後の講員は以前に変り任意加入、最近は人数が少なくなりたり。
・宮講(一○月六日)
元は旧九月六日、明治四二年迄は大講小講二組あり、大講は古来よりの家、小講は比較的新しき家。当番宿は大々的のものにして一寸とした婚礼宴に準したる由。即ち前日には女子供等料理物を当番家へ持参の節は甘酒の饗応を受け当日は子供達は昼前に招かれ馳走になり、一般講員は昼を当て氏神参拝正装をなし宿に集る。お酒は手造酒をしぼり清酒様になしたるもの。之も宿の重荷であった(上作と不作とあり)。中々の驕りしため此を改め村一本として集会所にて行う様になり馳走献立を定めた。
一、野 菜 けんちん盛切
一、大根なます 一皿
一、雑魚汁とし字費より豆腐四十丁、雑魚二升、外に一人当り酒三合五勺
お講出席者は白米三合、味噌及かん徳利を出す。余り極端なる改革のため又以上の字費支給品を他に代えて馳走も増えたりしも民力涵養を他に依り現在は質素になり現今に至る。
・天神講(一二月末日)
明治末期迄は村頭分の家にて行い、当日は牡丹餅其他一品位饗応、学童のみ米、小豆等持寄たものであり、大正初期頃より(冬休に入りし頃年長者により期日を定めた。当番世話人は翌年学校を卒業するものの父兄より順次此に当る)大正末昭和に入り、学童は春はふき採り又一日は田にし拾いを行い、当番父兄が煮、実として各家庭を廻り之を売却したる金を積立て、お講の費用となす。
当日の賄いは年長学童立案し、買物その他を定め、当番父兄に指示し賄を行う。当日の前に小豆、米、野菜集めも子供が行う。当日は早朝より公会堂に集合・堂の前天神様に一同参拝し昼食をなす。午後は賑かに遊びす。夕食をなし、夜おそく迄遊び楽しみて解散す。昭和四四年頃より学童数減少のため休止状態なり。
・トク講
・二月一五日 涅槃上組
三月彼岸中日 込谷組
・七月一四日 日向組
九月彼岸中日 下組
本講は年寄、念仏に上る老婦人を招待して行う。当日は講員及老婆共念仏御詠歌を称え祭る。賄は昔時ははったい煎米粉と鉢物を(茶の子)お重−杯と一皿宛宿に持寄り馳走す。世は変りはつたいを改め混飯等に変った。みんな喜んで楽しく語り合い晩方に解散したのであったが、大戦中一時中止、終戦後は公会堂にて年二回字費より手当支給しお婆様達が随意に行った。最近は折詰を取る様になった由。
・念仏、月並念仏講
毎月二四日、昔時嫁を貰えば、又現今は六○才以上の老人は公会堂(昭和二二年頃迄はお堂、即ち庵寺)に集まり、百万遍を大じゅずを廻して行い、部内安全を祈念するものである。慶応頃一時中止した年に大厄病が発生したる故、復興続けたり。
開始時期は不明なるも江戸期より今日に至る迄続いて居る事は近在に類を見ない。
昔時は男女及子供も共に上りしものなり。
茶の子持参し、後には菓子と変り段々に向上せり。又昔時は一月九日、一二月九日山の神様。山稼ぎ人祝う日。
・三月二四日 両部講 大峰山弘法大師開講
・五月一一日 神道講
・八月二四日 両部講
・九月一一日 神道講
・一一月一一日 神道講 コト講として本年の収穫を祝う講。各組はコト講は餅米、小豆持参、牡丹餅餐応し、無事収穫の了りし事を神に感謝してお昼、夕餉を共にして楽しく談し合い夜更けて解散。又野上り、農閑期には隔年或は数年おきに、部民一同慰安旅行を行い、費用は交通費、おやつ及び酒等区費支弁下す。
◎代参 元伊勢 正月二三日迄に河守前記の通り代参者神札一般に配札す。
大川神社 一二月二三日
・大川神社 一二月二三日
当日は区長より御初穂を受け、堂の前の大川神社「堀立建物」神霊をうつし持ち、岡田下の大川神社に参拝。神官に祈念をして頂き、新しき神霊を持ち帰る途中「大川さんの使いしめ」が付いているので不浄不謹慎は出来ず、二人代参者は交代にて不浄に行く。
字にては其日新しき堀立神舎を作り、帰りを待った。近時凡ての神事省略となり目下中止。
・午頭天王
明治中期迄は姫路野里天王さんへ代参したが、其後は倉橋村行永椿天王へ代参した。後には牛を飼育する者のみ交代に参り、神札を受け一般飼育者配札す。此を厩に張りて祭る例であった。
・氏神鍵取
即ち祢宜は昭和三六年迄は選挙であった。旧藩時代は年行司とも称し、頭分の家の隠居が勤めたるもの。
時代は変り大正末期よりは二人にて勤める様になった。五○才以上の男子鍵取人は毎月一日、一五日各朝参殿清掃し献灯御神酒御洗米塩等を供え、神言を称えて字内安全祈願す。鍵取人給料は氏神の田の年貢米から支払い、年額二斗、現在なし。其他祈念日又は戦時中神官出張武運長久祈念は一日なり。此が準備は鍵取人の任務であったが、外勤者が多くなったため目下村総廻り。二○才以上男子が二人宛交代勤む。氏神境内の掃除は三人宛毎月一五日(日待、月待或は祈念のある前日)村廻りにて行い、又秋例祭は三組九人が出て幟出し此を立てる。同時堂前小宮「稲荷さん」お庭も同時行う。此作業には鍵取人は免除。
交代以前は正月一一日迄で新旧鍵取人に区長立会す。此費用は村より清酒一升、白米二升支給。現総廻りとなりてから区長交代の日に同時に行い、区長前任者が世話をなす。
三月一八日氏神誕生日には鏡餅及〆縄の藁は鍵取人よりなす。正月、節句等お供え餅も鍵取人がなす。
正月、三月一八日、秋祭りには内幕及外幕を張り国旗も同時建て、年中賽銭は鍵取人のものとなっている。堂前小宮のお祭りも同時に行う。
秋葉神社の鍵取人は村総廻りとし、交代は暦年とし毎月一七日に参殿献灯参拝し、八月一七日及氏神例祭日の二四日幟立ても同当人の仕事である。
第二堂前大石燈籠及秋葉神社下の燈籠には村総廻り、家順に依り毎晩献燈をなしたるも、戦時中燈火管制に依り休止し終戦後は電燈に代る。
氏神は大正八年頃より常夜燈(電燈)字内寄附金の利子金にて行いしが、現今は区費にて献燈す。
火の用心廻り古来より行いしが、明治四二年大火後は特に注意を以て字内総廻りにて全区を廻りたるも其後子供会が引き受け、永年勤続で表彰せられしも、最近は生徒数減少のため中止となっている。
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