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丹後の伝説54

丹後の伝説:54集
−文政一揆−


↑『伊根町誌』より

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 『野田川町誌』
百姓一揆
江戸時代に、政治家とその治世下にある者とのあいだに、意志の疏通を欠き、または圧迫誅求がはなはだしい場合、その困ぱいが爆発して、愁訴、強訴、逃散の三つの形で表われた。愁訴は哀訴とも称し、領主の行政に対し、その負担の苛酷、または取締りの峻厳を緩和されることを哀訴歎願するのが普通であり、強訴は、暴虐を指摘して、その撤廃を要請するために、隊を組み幟旗をたてて役所に押しかけて強く訴えるのである。古来有名な関東下総国(千葉県)佐倉宗五郎の事件は、哀訴であり、この哀訴によって、聞き入れられない場合、弾圧を加えて追い払われる場合、召捕えられて極刑に処せられる場合(宗五郎は、はりつけ)とがある。強訴に移り、強訴では目的を達しないときに、竹槍、鉈、鍬などの農具をかざして、税吏、役人らを襲撃して、乱暴、狼籍の限りを尽すのである。文政五年に当町石川の吉田新兵衛を発頭人として勃発した百姓一揆は、強訴に類する。以下は、発端とその状況についてである。(「岩屋村誌」「与謝郡誌」による。)その原因に関し、三重村(現大宮町三重)糸井藤右衛門の「万代記録心へ帳」に、「宮津城主殿様わ、江戸御勤めの事に候故国元日銭の儀は少しも御存じ無御座候、日銭の頭取と相見え候御方は、沢辺淡右衛門様、其の外多分有之、在方は大庄屋、出役庄屋だけに候、また不承知之御方は栗原百助様、山崎甚右衛門様此の御両人日銭に掛り無御座下々萬民燐むばかりに候、下百姓より一人につき三文づつ立る事、御上へは九十二文の一匁を以て納め候間一匁につき八文づつ出役庄屋の取前に相成候に付多分の口銭給米の外に有之、誠に下々のもの立ち行かず難儀至極に御座候、故に十二月の娩晩川村、奥山滋蔵殿宅にて相談有之、為治郎と申御方其の外五六人寄り集り、強訴日目見相極め、落し文手配り、十三日夜領分百姓合図、大川合せ大火をたき云々。」(下略)とある。
当時、宮津の藩主本荘宗発の所領は、七万石(うち、丹後六万石、近江一万石)であったが、幕府の要職にあったために、その出費がかさみ、従って、その経済は苦しくなったので、これを補うために、民百姓より無理な取立てをせざるを得なかった。このために、百姓一揆が起きたのである。
由来、先納米と称するのは、その昔、三分銀といって貢租の七分は米で納め、残りの三分は銀で代納するのであったが、藩の経済状態が悪くなった結果、秋の収穫に先立って正月から十月まで、毎月分賦前徴されることとなった。これを「お頼み米」とも、「御預け米」ともいうのであるが、この先納米のために、領民の受ける苦痛は甚大なものであった。貢租は、五公五民が建前として、六万石の半分三万石の七分を米納、残り九千石の分を銀納(この九千石は、普通なれば翌年の春から夏、秋にかけて代銀を分納)するのである。藩は、財政の窮乏のためにこれを前徴し、さらに追先納米として、一万五千俵を徴収することにした。要するに、六千石の代金を前徴し、そのうえ万人講と称する日掛けの人頭税、一人三文づつを取り上げ、領内六万二百十六人(男女七十歳以上七歳以下の者、病人ならびに愚かなる者、狂病の者を除き)から、七千五百七十三人を除いた差引五万二千六百四十三人、一人一日三文ずつ、一日百五十七貫九百二十九匁、一個月平均二十九日半として、四千六百五十八貫九百五文五毛を毎日その村の庄屋に納めさせ、これに前記九千石の先納米と、六千石の追先納米との合計一万五千石を加えて納めさせた。当時、文政五年の米相場は、石銀五十八匁であったので、この代銀八十七貫匁を、百姓からは百匁の割で徴収し、庄屋が九十二文を百文として上納した。これによると、藩の金庫には、九十二文を払込めば百文の受取りが出たのであるから、毎月三百七十七貫七百十二匁を庄屋たちが頭はねをしたのである。この人頭税は、貧富の区別をせず、一列に徴収したので、富者には大した負担にはならなかったとしても、人数も多い貧民には、この負担は悲惨なものであった。取り立てる方は、くらしのいかんによらず、毎日一人三文、五人暮しとすれば十五文、七人暮しとすれば二十一文づつの人頭税を納めなくてはならない。衣類を脱いで税に替え、寝具を払ってその日をしのぎ、家畜を屠って一時を免れ、もはや食う物も尽き、纒うた夜具もなく、住むに家なき貧民が、路傍にたおれ、溝にころび、泣きさけんでも息のある間は日銭を免れることはできない。かくして、怨嗟の声は、丹後の国中に充ち充ちたのである。
時に、石川村の奥山(現川上)に、吉田新兵衛なる人があった。かれは、中郡常吉の出身で、旧名を鈴木滋蔵といい、弟に当たる人に、吉田為次郎なる人があり、前に自分が奉公した宮津藩主と関係のある人の家に祭り客となり、その際に百姓の現状を訴えて、その採るべき方法をさずかった。それは、強訴を行なえとの暗示であった。帰宅するやかれは、兄新兵衛と謀り、熟考のすえ、家族たちの悲惨な将来をも考えながら、現在の民百姓の苦しみを見るに忍びず、かくて、落し文、その他の方法をもって連絡し、ひたすらにその機を待ったのである。この企てがあることを、役人も庄屋も事前に知ることがでなかったのは、このときの民百姓が、いかに上部に反抗の意志をもっていたかということが察知できる。小野武夫博士の「徳川時代百姓一揆叢談」によれば、
『文政五年十二月十三日夜宮津愛宕山の上、石川村の加久屋橋詰、三河内の沖田と三ケ所にて不思議なるかな同時に大がかり火を焚きたてた。様子知らざる村人達は何事かと寄り寄り怪しのかかり火を囁き合っていたが、折しもある合図の火と見えて、八方より幾千の農民、ドッと鯨波の声を発して先ず石川へ押し出し、当時大庄屋蘆田庄兵衛、庄屋八郎兵衛を始め、上山田村大庄屋小長谷安四郎、この三家へおし込み、戸、障子、畳、敷板並びに家内に有り合せ諸道具まで散々にたたきこわし、まだ土蔵へはかからなかったが、それより岩滝村へ押し出し、この地の千賀八郎助とて、宮津藩御領分の総ろくを仰せ付けられし家と、同村大庄屋糸井市郎兵衛を襲撃、八方より取りまき、斧、鉈、鎌、鍬或は鳶口または棒、様々な手道具を持って家を破り、家内に雪崩入り、手当り次第乱暴、狼籍に及ぶので、家人は驚き怖れて戸外に飛び出して誰一人その影を見せる者はなかった。この様子を、櫛の歯を引く如く、陸から、海から早船で宮津の役所へ訴えるので、素破一大事よと諸役人の驚き方少なからず、直ちにそれぞれの役向へ沙汰に及び、家中時を移さず総登城、評定の上急ぎ役人それぞれ手分けして、石川、山田、岩滝へ出張の上、理法権の三つを以って取り鎮めんとしたが、猛り立つ農民群集のその有様は、宛然潮の湧くが如くにて容易に取鎮め難く(中略)
越えて十四日夜、皆原村大庄屋三宅忠左衛門、今福村庄屋甚四郎、波路村庄屋平左衛門等を潰したること岩滝村の千賀、糸井の如く、十五日朝、獅子矢原村庄屋市五郎、同人隠居とも同様、日置村栄治郎、同庄屋与助、日暮前、男山村庄屋喜兵衛、同重右衛門を潰した。この時分より次第に群集増し強気盛大となる。この時群集の中から、難渋に迫り、この挙を企てたるに、領分の中には不参の村ある由、左様の村は、こぐちより火を放ち焼捨つべしとの声が起こったので、集る人数は蟻の如く、これより町へ入込み、先ず町方手組の者をつぶし、その上にて重税を献策し、民百姓の難渋を他所吹く風と高見して居る腐儒者沢辺淡右衛門以下、これに随従して、占森乙蔵、飯原鎮平この三人を貰い受け、みの、笠をきせ鋤鍬を持たせ、昼夜稼ぎ、百姓の味を思い知らせん、と、東は中山峠、田井、島蔭、獅子崎を浜づたいに宮津を指してひきも切らず、南は加佐郡、岩戸、喜多村、西は三重、三坂、竹野郡の村々を先手に大内峠を越え、弓木、須津の群集と会し、西は加悦谷組須津へ越し、庄屋忠四郎、重右衛門、与左衛門を潰し、北は、伊根浦、高梨、岩ケ鼻、世屋の山合より、続々と相会し、文珠へ押し寄せた。
町奉行鞍岡内記、郡奉行得能甚助両氏を総大将として、御目付以下幾多の役人共、陣笠、陣羽織に身を固め、犬の堂京口へ出張し、総町名主、組頭は火事装束にて提灯を持ち、纒を持たせ、一町内より二十人宛人足召連れて警固に出張した。殊に犬の堂の警固は、九ッ目の定紋打った高張提灯を立てつらね、突棒、刺又、袖がらみ等を備え、要所要所に抜身の槍持つ血気の侍を配し、これより一歩も内へ入れまじの構えをした。猛り立ったる群集は刻一刻と増加して天地も破るる喊声と共に一度にどつと押寄せた。それ搦め捕れよと鞍岡奉行のはげしき下知に先手を守る番人輩、矢庭に取押えんとするや、群集口々に「ヤー理不尽なり役人共、我々盗賊にあらず、欺りにもあらず、一家饑餓に追る民百姓なり、沢辺淡右衛門、古森乙蔵、飯原鎮平並びに名主庄屋等に用筋あって罷り出たるもの、何科あって縄目を受ける。ソレ皆の衆番人共を打ちのめし一揆強訴の血祭りに挙げよ。」と猛り猛う郡集の勢力に、番人共も辟易し、いささかひるむその辺に、気転の群集早くも番小屋に火を放った。折からの風に煽られて忽ちドット揚る焔は夜を照らして物凄く、炎々たる紅蓮は更に隣の二番、三番の小屋を襲い、群集は火焔に乗じて天地も破る閧声をあげ或は松明、或はオドロ、焼柱、何れも火のついたものを警固の役人目がけてどんどん投げ込む。警備隊と一揆の者の争闘が演じられ、双方少なからぬ怪我人が現われた。
一方京口(宮津南の入口)には得能奉行統卒の下に松縄手に御紋付の蘇を張り、高張提灯を立て、三つ道具と抜身の槍持つ警固の侍、京街道本町職人町の名主人足共を指揮して厳重に備え立てた。亥の刻(午後十時)過ぎに金引山と栗田峠の頂にドツと燃え立った火焔を合図に、数千の同勢鯨波の声山を崩して上宮津谷に集まり、今福庄屋甚助を一挙に屠りて猛り立ち、鎌、鉈、斧、鍬、竹槍、棍棒手に手に得物を振り廻し、土石または砂利石を打ちかけ、閧声をあげて押寄せて来たので、警固の役人、衆寡敵せず、一揉みに備えを破られ、群集は城下町へ雪崩込んだ。これと同時に城東から栗田表裏の百姓は、皆原村の大庄屋三宅忠左衛門を襲い、ここでも家財を悉皆毀ち、簑笠ままの手負猪の荒れたる勢で押し寄せ来り、獅子、矢原村の庄屋市五郎宅を潰した同勢は、更に波路村の庄屋平左衛門に集まり、同家に目も当てられぬ惨害を浴びせて、喊声を挙げ、破竹の勢で一瀉千里につなみの如く捲くれ掛って宮津城東の固め、惣村口の固めは見る見るうちに破られた。東南の固め既に破れて群集が城下町に乱入した以上は犬の堂だけ支えるは無益の徒労にあるのみならず、双方から挾み打ちになる危険あり。「者共引けイ。」と大将鞍岡の下知によって役人共は大手口に引き取った。名主、組頭等が駆り出した町の人足共は、逃げるが精一杯、蜘蛛の子を散らすが如くであった。
表裏の固めが破られると、一揆は四方八方から入込み、各所より続々宮津町へ入り込む群衆数知れず、町々、谷々、辻小路、浜辺に至る迄群集同勢殺到した。町内に於いては、白柏町茶屋垣田甚治宅を破壊の手始めに、四、五軒を襲った。時恰かも酒の醸造期であったので狂い立った群集は、ソレ酒桶の輸を切れよと斧を揮って切らんとするに、群集中にあった大男(註、謎の大男ありて一揆を指揮したと伝えられる。)が声高らかに「酒のある桶は必ず下の輪から切る可し、上の輪から切るときわ命を仕舞うぞ。」という。それより米倉へ入り込み、詰め込んであった玄米、白米をドシドシ山王川へ投げ込み、川一杯米の流れとし、夜具、蒲団から衣類、諸道具を皆打ち込んだ。酒倉からモロミと清酒が洪水の如くに流れ出た、同町茶屋清治方もその難を受けた。白柏町名主一文字屋勘兵衛方へ乱入した一揆は、衣類道具類を完全に破壊し、更に横町綿屋萬助方を襲った。群集はまた大津屋山本善治を襲った。当時大津屋は、その名をとどろかした新分限者(富豪のこと)の大縮緬屋で、機台数百二十台も有する大家であった。仏性寺がこの変の時、大津屋から製品を、預かったのであろうか、群集は仏性寺前に集り「ヤイ坊主、大津屋から預った品は残らずこれへ出せ。若しかくし立てするにおいては僧侶でも容赦はせぬ。寺諸共焼払うぞ。」と叫ぶと、住職もたまりかねてか、大津屋から預っていた縮緬絹布、その他貴重品、家具類を本堂前の広場へ放り出した。山なす品物にそれを焼き捨てよと火をかけた。ドッと揚がる火焔は天をついて仏性寺の火事かと思わしめる程であった。暴徒の群勢は凱歌を揚げて仏性寺を引き払い、魚屋町へ乗り込んで、町名主追掛屋西川喜兵衛方を襲って散々乱暴をし、手当り次第に狼籍を演じた。然るにこの騒ぎに同勢が五、六名召捕られた。これを目撃した群集は矢庭に役人を包囲して「己れ田楽め、百姓を縛るとは不屈至極、ソレ田楽奴をやっつけて味方の者を奪い返せ」と多数をたのむ群衆は獲物を振り廻して役人のひるむそのすきに漸く奪還するを得た。兎角するうち、一度波止場に集まって更に強訴の方針を定めようと波止場へ波止場へと押し寄せた。その際また数名の同志が召し捕られて役所へ引立てられたとの説が立ったので、波止場の同勢はそれ取り返せと閧の声を挙げて城門へ押しかけた。群集口々に「ヤイ城内の役人共、淡右衛門、乙蔵、鎮平、この三悪人を即座に此処へ出せばよし、若し出さぬ時は宮津の町を片っ端から火を掛けて焼きつくすぞ。」と罵れば、雲霞の同勢「ソウダ、ソウダ、淡右衛門等の悪人共に簑笠着せて鋤鍬持たせ、尻からたたき使いにして百姓の味を知らせてやる。」こんな状況であるために、何時静まるか、誰がこれを鎮めるか、全く手のつけ様もない有様であった。
町奉行、郡奉行の面々は、理解を説いて慰撫これつとめたが、頑として応じない。「タトエ一家残らずこの場へ現れて、百万言述べ立てるとも、イッカナ承引仕らぬ、強って退散致せとあらば、家老職の栗原様これへ出張挨拶あらば承る。左も無くばこのところ一歩も退かぬ。」かって領主宗発公先年寺社奉行御就任に際し、その賀意を表すべく御勝手掛の淡右衛門、大庄屋両人、出役庄屋五名を召し連れ江戸表へ出府し、御前において、例の淡右衛門、主君の歓心を求めんと、己が手柄を誇り勝手に御領分身元の者等はもとより、水呑百姓に至るまでそれぞれ応分の銀子上納の儀申し居れりと、言葉巧みに進言した。たまたま君側に居合せた老職栗原は淡右衛門の進言をさえぎって「国元の民百姓の難渋していることは君にもかねがね御承知の筈である。かかる民百姓塗炭の苦しみをなせる折柄、銀子上納を申しつけては、下々の難渋察するにあまりあり、この儀ははなはだよろしからず。」とついに上納金賦課を差し止めた。この事を領民が伝えきいていたので、栗原様がこの場へ出て挨拶したら退散するも、左もない以上は断じて退散しない、栗原が出るか、淡右衛門以下三役人を渡すか、この条件を絶叫してひるむ気勢は更にない云々。』
(以後、丹後史料叢書)八ツ時頃、栗原様御名代木股勇馬様有本九八郎様天方峰蔵様御供廻り御召連魚屋町八百屋七郎右衛門宅前へ御出張、大音に栗原理右衛門同苗百助御領分之百姓へ申渡す事これ有り皆々静かに承れとの事に、数万の群集一同水を打ちたる如くに静まった。
ここにおいて、木股勇馬様、改めてきかれるには、御領分の百姓共徒党を組みて俄かに騒ぎ立て御城下に押し寄せ狼籍に及びたる事御上を恐れざる不届の致し方、屹度御仕置仰せ仕る可きも、このところ寛大の御慈悲によって、品によっては願の節御聞届け下さるにつき、願の筋申し立てよとあり、百姓総名代は名を申し立てず、百姓一同に代って申し出ずるには、先達御頼の先追米一万五千俵と、萬人講日銭の儀今日限り御免の事、大庄屋出役庄屋元の人数に御減し且つ手組連中御廃止の事、沢辺淡右衛門、飯原鎮平、古森乙蔵等右日銭取立発頭の役人役目御免の事、附先召捕られし者御とがめ無く御放免、並びに此度の儀徒党の御詮議無き事、右条々御きき届け下されば一同引取申す可し、と申立に及ぶ。木股勇馬様のお言葉には、願もつともなれども一存に計い難きにより、一応重役に伺いその上何分の沙汰に及ぶ。此度の一条栗原身に代えてその方共の願相叶う様計う可しと、天方様御召連れ一先づ御引取り、有本様は御残りなされ、半時ばかりして栗原様御出でになり、願の趣聞届けつかわすに依り早々に引き取る可し、在判の書付は追って村々へ送りつかわす、との儀に一同納得した。その引取の際魚屋町、湊屋始め町々家々では、酒肴握り飯その他急場に有合うものにて、一同慰め饗応するのに、かねて手組連中にて有ながら挨拶にも来ぬは不都合なりとて横町屋利助に談判せんとてまかり出るを、番人頭覚兵衛、番人に下知して縄をかけたる故、折角鎮静になっていた群集俄かに猛り立ち、それ覚兵衛を成敗せよとて、犬の堂に向い、残る一手は、綿屋利助を潰し、犬の堂は覚兵衛が家に火を掛け焼払い、その夜帰り道、須津村与謝郡上組出役庄屋忠四郎同手組重右衛門儀兵衛隠居共取潰し、鯨波を作って弓木岩滝方面へ引き揚げた。その夜、引き揚げた徒党は須津にて二手に分れ、一手は加悦谷に、一手は野田に出て、弓木村にて中郡組出役庄屋藤兵衛を潰し、大内峠を越えると、岩滝村の与謝郡下組出役庄屋山家屋利七、同組手組米屋品蔵を潰し、道土を越えて竹野郡に向う組と二手に分れ、存分に打ち潰ぶし、また加悦谷の一手は、亀山に進むものと二手に分かれ、一組は加佐郡出先庄屋明石村六兵衛を潰し、一組は四辻村に渡り中郡出先庄屋清左衛門を潰し、その足にて岩屋村に入り、同組大庄屋安達又右衛門を打ち壌した。かかるうちに上の方にも暴動起こり、与謝村加佐郡組手組市郎左衛門、同後野村太兵衛、同組庄屋加悦町下村武右衛門等を潰し、明石よりの一手と落合い、更に岩屋より来る組と幾地にて落ち合い平地峠を越えて中郡竹野郡に進発した。
大内峠を越えたる同勢は周枳村中郡出役庄屋新治郎同本家共残らず潰し、竹野郡に下り、道土越えの同勢と溝谷村に落ち合い、大庄屋梅田三左衛門居宅米蔵酒蔵隠居共悉く潰し、この日下口にも暴動起り、目指す処は徳光村橋本の勘兵衛と、島村の祐左衛門、両人共竹野郡手組連中、先ず成願寺村同組出役庄屋直八を潰し昼八ッ時(二〜三時頃)徳光村橋本に群集し、勘兵衛方に乱入し同人家蔵家財道具目も当てられぬまでに打ち破り捨て、続いて木橋村にて溝谷の一手と出合い、同組出役庄屋久右衛門を潰し、島村祐左衛門を完全に潰し、続いて網野村に打ち出て、此処にて加悦谷の同勢と落ち合い、同組庄屋河田平八同組出役庄屋勘左衛門を潰し、同手組浅茂川村弥三左衛門も同様潰し、新庄より坪坂峠を越えて、木津村岡田分庄屋与三兵衛を潰し、十八日夜明けがた夫々解散した。十三日夜から十八日の朝まで、六日五夜前代未聞の修羅の巷が展開された。
この騒動の後始末。
栗原様御書付け

一、万人講日銭御免の事
一、諸御頼一万五千俵御買上米御免の事
一、当午年為御坂扱米千俵被下置ぎ候事
一、奉公人増給御免の事
一、七人被召捕候者御免の事
前書之通令承知相違無之者也
午十二月十六日
栗原理右右衛門 御在判
更に役人の役目御免について
大庄屋之向は、退役之儀願出候処御免仰被出候もあり、また差留に相成候もあり、追而五人に被仰付候。其
の後大目付並御目付衆御書付
御勝手頭取御免  蟄居  沢辺淡右衛門
元〆郡奉行御免       松山源五右衛門
同                飯原鎮平
郡奉行見習御代官頭取御免
古森乙蔵
右之通被仰出候間可得心其旨候
正月二十七日
大須賀 権之助
村松 猪左衛門
池田 善五郎
久田 与左衛門
徒党一揆頭取御詮議
二月十五日朝六ッ時(六時)石川村奥山分為治郎事喜右衛門、滋蔵事新兵衛御召捕後口手錠、十六日朝宮津葛屋町大工長五郎御召捕後口錠、同日奥山分元蔵後手錠、元右衛門前手錠、十八日太三郎九平友治郎、二十日儀三郎徳蔵前手錠御作事に御引立、其外村々より多数御召捕御留置もあり、御用捨者もあり、右之者共四月十七日入牢被
仰付就是御中関川権兵衛様、栗原理右衛門様、同苗百助様疑かかり揚り屋え御入
文政七申年四月二十二日御仕置
獄門 奥山分 為治郎事 喜右衛門
討首 同村   滋蔵事  新兵衛
永牢 同村   粂助事 元蔵
同断 葛屋町  大工 長五郎
御国追放 同村 元右衛門
同断 同村  友治郎
同断 石川村 儀三郎
同断 同村 九平
同断 同村 徳蔵
同断 同村 太三郎
牢中病死   与治右衛門

その後のありさま。「丹後郷土史料叢書」文政九年二月三日、栗原百助は、揚屋を脱出し、島崎より小舟を拾い、夜明方江尻浜に着き、それより徒歩にて大島村重右衛門方にかくれ、さらに、新井村に逃がれ、田辺領小橋村に渡り、若狭を経て江州路を辿り、同月十三日野洲郡守山守善寺に到着した。当地は、宮津藩の飛地で、ことに、守善寺住職は、百助の従弟であった。早くも捕手が近づいた気配がしたので、同月十五日夜同寺を脱出、蒲生郡八幡町蓮経寺に入ったが、詮議きびしく、十六日朝大林寺宇津呂八幡別当御朱印地竜亀山西光寺大雲院に逃れたが、追手に取囲まれ、万策尽きて、その地で自刃した。
一方、父理右衛門は、強訴の一件に何の関係もないことながら、十七年間、揚屋で謹慎中であった。天保十一年宗発公が死去し、宗秀公相続となったことにより、十四年、正月入国と同時に八十余歳となった理右衛門は許され、後見役を仰せつかり、江戸表に出向き同地で卒した。


 『丹後路の史跡めぐり』
 石川の奥山村
 山田の対岸石川は文政百姓一揆の発端地として有名である。文政五年(一八二二)宮津藩は、藩主本庄宗発(むねあきら)が幕府の寺社奉行加役の重職にあって江戸に出仕し、丹後はほとんど重役に委せきりであった。そのために莫大な費用を要し、藩の財政が窮乏したために、御勝役頭取沢辺淡右衛門、元締松山源五右衛門、郡奉行飯原鎮平、郡奉行見習代官頭取古森乙蔵らが画策して、年貢として先納米、先先納米をとったあげく、万人講と称する人頭税を考えついた。そしてこの徴税のために責任を大庄屋に押しつけ、これを助けるために出役庄屋を設け、大庄屋と出役庄屋には年貢の一部を手数料として渡すことにした。これを知った江戸家老栗原理右衛門の庶子関川権兵衛が、分宮の祭礼の時に奥山村の吉田為治郎(喜右衛門)に話した。為治郎は急ぎ奥山へ帰り、姉さくの夫である吉田新兵衝(滋蔵・中部常吉村より入聟)に話した。そうしてもう一刻も猶予できないと文政五年十二月八日領内一二○ヶ村の百姓にひそかに激をとばした。
 同年十二月十三日の霜の降る夜、みのかさをかぶり、手に手に鎌、なた、竹やりなどを持った加悦谷の百姓たちは続々と野田川べりの加久屋僑につめかけた。夜半に浪江要助という者が橋詰にのろしを上げると同時にかねてから手はずのあった三河内の中田、宮津の狼煙山より合図ののろしが上がり、手はじめに上山田の大庄屋小長谷安四郎、石川村大庄屋芦田庄兵衛、出役庄屋八郎兵衛宅を打ちこわした。これに呼応して与謝郡内百姓はもとより、中郡、竹野郡、加佐郡の一部の百姓が蜂起してその勢約五万人、各地の大庄屋、出役庄屋、ちりめん問屋等を打ちこわして宮津城の大手門に押し寄せた。驚いた宮津藩ではなすすべを知らず、ちょうど江戸表より帰城した家老栗原理右衛門をして百姓の要求をのませてようやく十七日になって鎮まった。ところが翌六年石川村に潜入した藩の密偵が駄菓子屋の主人から新兵衝、為治郎のことを聞きこみ、二月十五日未明村上淡右衛門ら捕手が奥山を急襲して両人を召捕った。新兵衝の妻さくはその時、汁をよそおうと見せかけてすばやく連判状を火にくべた。処刑者が意外に少いのはそのためである。そののち奥山村元蔵をはじめ石川村からも次々と三五名の百姓が召捕られて入牢し、きびしい拷問にも唯一人として口をわらず、この間奥山村の与治右衛門と、宮津町大久保稲荷大工の長五郎は牢死し、結局文政七年(一八二四)二月二二日、新兵衝と為治郎の二人のみが処刑された。また関川権兵衝は、百姓に同情して事実を知らせた罪により切腹させられている。
 一揆を事実上指揮した総髪の大男といわれる宮津大久保稲荷の神主坂根筑前(清太郎)はいち早く大阪へ逃亡したといわれる。
 二人の首級はある夜ひそかに石川福寿寺の住職が盗み出して奥山村に埋めたといいそのような大騒動が起きたども思えぬような静かな奥山の墓地には、
     大綱院峰恵操居士     (新兵衛戒名)
     寅岩了説信士       (為治郎戒名)
     桃雲宗季信士       (与治右衛門戒名)
と三人の墓がねむっており、吉田家には新兵衝の使用した刀架、煙草盆、見台が残され、家の上には当時の屋敷跡がある。大正十二年には福寿寺で百年忌が催された。
 元来宮津藩は田辺、峰山両藩と異なり、領主が次々とかわって、それも悪政が多かったため、一揆が群をぬいて多く発生している。江戸時代に府下で五六件の一揆のうち.田辺藩二回、宮津藩十回、峰山藩では一回も起きていない。

 ↓『伊根町誌』より



 『舞鶴史話』
 文政五年の騒擾
一八二二年(文政五年)十二月十三日から五日間にわたって宮津藩では領内一円の大騒擾がもち上りましたが、わが田辺藩の動揺はたしたことではありませんでした。同月加佐郡的の庄屋で群集から襲撃せられたものは
河守関村庄屋    久右衛門
河守町大庄屋    真下六郎左衛門
河守町庄屋     絹屋六兵衛
同           喜兵衛
天田内村庄屋    治兵衛
二俣村 同     十左衛門
文化文政時代は一に化政度ともいわれ、ちょっと元禄時代に似た所があって裏面はともかく見たところは華やかになりました。歌舞伎がはやり、富籤が流行したりしましたが農民の負担する年貢米は益々重くなり、五公五民(半令は上へ収め、半分は私有にする)の制も崩れてきました。そしてそれが天保へもちこされて大塩の乱となって爆発しました。



 『大江町誌』
 宮津藩文政一揆

(一) 誘因
 化政期の安逸時代、宮津藩に一大痛棒を与えたのは、文政五年(一八二二)十二月に勃発した丹後最大の百姓一揆、いわゆる文政一揆であった。暫く宮津藩の財政に注目すると、この大一揆を誘発した原因の数点が浮かび上がる。
 その一は宮津藩が小藩の実力を越えて幕閣の重職を歴任したため、力以上の過大な失費が続いて藩財政を圧迫したことが考えられる。
 別項「御頼銀」「京極氏と切支丹」でもふれたように、五代将軍綱吉の生母 桂昌院(俗名光子、阿玉の方)は京都の八百屋に生まれたが、後宮津本庄家の養女となって家光に侍し綱吉を生んだ。桂昌院の義弟、本庄宗資は綱吉の叔父に当たり、宗資三代の孫が宮津藩七万石に補せられた本庄資昌である。本庄氏が松平の姓を許されたり、要職に登用された理由の一つはこの辺にかかわっている。
 現に文政のころの藩主宗発(むねあきら)は、はじめ寺社奉行(文政一〜九)であり、ついで京都所司代(文政十二〜天保二)、老中(天保六〜天保七)に補任されている。したがってその身辺を賄う、社交上体面上の出費は莫大で、到底領内の貢租では償いきれぬものがあった。天保十二年の藩借財総額は、金四○万一九○五両に達するありさまで、この借金は当藩の租税収入の一二年分(米価石一両替え)を超す額であった。(「宮津藩の無尽興行」真下八雄)
 その結果は、厳しい倹約令、藩士俸禄の借上げ、苛酷な税の取立、御頼銀、御講掛金や御用金の賦課、有力銀主からの借金等となり、これら年賦の返済や利払いのために藩収入の半額が投入される状態であった。(御頼銀参照)「御用日記」の記事には、右の御用金の催促が何回となくみられる。一揆誘因の二は、 延宝以来宮津藩の採ってきた「延高」「新田改出」等による収奪の強化である。村の石高をつり上げて税の増収を図るもので、具体例は「四郡高辻帖」にも見られるが詳細は、「宮津藩貢租」及び「年貢のくびき」によられたい。
 ここへ町の高利貸資本が進出して、田畑の永代譲り渡しや、質入地の担保流れ(借金のカタにとられる)が続出し、百姓の生活破壊は一層進んだ。一揆の実情で述べるように、暴民が真っ先に荒しに掛かったのは、顛落百姓が借金していた大庄屋や富農であったのは、平素の怨念の爆発ではないかと思われる。
 理由の第三に、天明飢饉(後述)にはじまる一連の不作の打撃がある。農村には底流として「慢性化した窮乏」が渦巻いていたのであった。その証拠に史料は次のような動きをのせている。
 天田内村「覚書牒」は文政一揆を遡る六年前文化十三年に洪水と大風のために農作は大被害を受け、時の大庄屋加悦町の下村武左衛門と雲原村岩屋村の庄屋が実情を見に来た事をのせている。二俣村の土手切れ七か所二百間余、荒地砂入八石余り、庄屋たちは年貢一八俵の控除を内申した。この時藩の救助米在方へ二、五○○俵というから、生やさしい被害ではなかった。
 窮民の飢餓はなお続き、この年末、河守町で夜乞食に出る者六、七○人。余裕のある大家の放出する米は年内に五俵から六俵になった。夜乞食の他に小作料減免の集団行動もあったらしく、藩の吟味が始まって中には手錠をはめられる者二○人ばかり出たという。(「史料編」)
付 天明の強訴の胎動
 凶荒が農民一揆に繁った例は多いが、実は宮津藩でも文政一揆の四○年前、天明初年にあわや一揆寸前という動きがあった点に注目しておきたい。
 天明の飢饉は、享保飢饉、天保飢饉と並び称される大飢饉で、特に奥羽に惨害をもたらした。草根木皮まで食べ尽くした津軽では、餓死二○万、疫病の流行と重なって全国では九二万の人口減になったという(歴史辞典)。「歴世誌」の載せた「信州浅間が岳破れ、われ口より泥砂吹出し人家損ル事数しれず」「しなのノ国拾里四方山抜け震動雷電人牛馬多く死す」「当地大水田畑損ず」「天明四年国中大キキン ゼニ壱匁ニ米七合云々」(天明二、三、四年)など何れもその関連記事である。
 このころ宮津藩主は三代資承(すけつぐ)で、幕府の奏者番や寺社奉行に出仕していたから、これが小藩の財政を圧迫した点は、後の宗発(むねあきら)の場合とよく似ている。天明二年藩では、「先納銀を高一石につき九匁当たり借りすへ(追徴御用金であろう)を仰せつけ」たのが契機となって、苛税反対の強訴が企てられた。加佐郡宮津領へは十一月二十七日夜、与佐郡方から強訴参加の呼かけが橋谷村百姓代又七の所へ届いた。衆議の末二十八日夜百姓分の者 雲原村へ集結した所、情勢を知った藩では「御領分中へ壱万俵拝借仰せつけ」たので、「奥郡の百姓引取候由」を聞き皆々雲原村から引き上げた。(「覚書牒」)
 この一件「歴世誌」も「天明二年十二月宮津城主松平伊豫守様御領分百姓申合 願事ニ付鈴山成相山江凡弐万程寄合段ゝ申上其上御領分へ壱万俵出被遊 先納ニ指次被成候」と農民の統一行動の跡を記録している。こうして天明の強訴は寸前で回避されたのであった。

(二)一揆の直接原因−万人講日銭
 以上ながながと文政一揆の伏線となった藩の事情をみたが、勃発の導火線となったのは次の万人講日銭の課税である。(一件の記録は類書が五指を下らぬが今は「宮津旧記」を中心史料とした)
「文政四辛巳年 当殿様(本庄宗発)は寺社奉行を命じられ、御勝手向六ヶ敷(むづかしく)、借財が多くなったので、まず身元の者に御用金を課し、貢租三分の一の銀納分は先納させ、ついで追先納米壱万五千俵も銀納を命じ、万人講による徴税案」を発表した。
 いう所の万人講日銭とは、領内六万二一六人の中、七○歳以上、七歳以下、病人を差し引いた残り五万二六四三人に、「一日一人銭三文宛」の日銭を、三年間上納させようという案である。月平均二九日半とみて毎月四六五八貫九五五文、完納の上は一○か年賦で返済というのだが、この机上の案はあまり多額にすぎて町名主村々庄屋も請合いかねたので、結局日銭を二文にへらした上係の役人を増員した。強化された徴税の係り総数七二人となり総括するのは岩滝村千賀八郎助である。
 在方  大庄屋。組に一人を二人に増員、五組で十人
     出役庄屋。組に五人を七人に増員、五組で三五人
 町方  名主六。組頭六、手組一五に増員計二七人
 日銭徴集の分担区域を縮めて手間を省く為の役人増であろうが、この係役人は日銭一○○文につき八文を手数料に貰い、九二文を一〇〇文として藩へ収める−−納める側からみると、重税と共に手間賃も納入するという感じである。
 同旧記はこの辺の事情を記していう。
  「文政五年正月 追先納米壱万五千俵代銀御取立……その事務がふえたので新たに召し抱えられた奉公人は二倍にふえ、それらの給金も町や在に割付、万人講日銭に加算して取立られるので「町在必死致難渋。」八月十一日分之宮祭りの時 石川村奥山の為治郎という者が家中の関川様の家で「右万人講日銭の仕組、取集メ候銭ハ九拾弐文百文の勘定ニテ掛屋に納め八文は右七十余人の役徳に相成候事」之は御勝手頭取沢辺淡右衛門、以下元締松山、郡奉行飯原、見習代官古森等と大庄屋手組連中と諜し合せての仕業……である。旨をききこんだ。
 為次郎は早速村へ帰って同村の百姓新兵衛と密談、藩の反省を求めるには、藩が最も恐れる最後の手段、一揆による他ないと結論した。
 (註) 地元の伝承では、この新兵衛は常吉村から入婿し近所の子弟を集めて寺子屋を開いていた。性、深謀沈毅、軽々に一揆に同調する人ではなかったという。それが一揆の首謀者になったからよほど腹にすえかねたのであろう。

(三)暴動の概況
 謀議を固めた彼らは、文政五年十二月八日より領内に落とし文をして一揆への参加を呼びかけ、十三日夜四ツ時、石川村かぐや橋詰に大かがり火をたいて合図とした。集結した農民たちは竹の皮笠にたっつけ袴、鉈、鎌、竹槍等ありあう道具で武装した。この夜の積雪は二尺、空は晴れて半月が掛かり、悽愴の気は山野に満ちた。
 一揆の徒党はそれより「石川村へ渡り、辻堂の辺にて勢を揃え、酒屋より酒を運び握り飯を出させ、支度をよくして、大庄屋芦田庄兵衛宅へ押し寄せ、山の崩るるごとぎ鯨波を揚げて、思い思いに斧がんどう、かけやその他得物道具を持ち、表口より散々に打ち破り、柱を切るやら挽くやら建具をめぐやら、有合う諸道具不残打めぎ、土蔵単笥、長持引出し打砕き打破り、俵物などまで取出し切まき散々に打潰」した。(宮津騒動夢物語・宮津事跡記・の描写より。以下はしおる)
 こういう手のつけようもない狼籍・打ちこわしが同村庄屋、中郡組大庄屋、岩滝村総録(前出千賀家)与謝郡下組大庄屋、同上組大庄屋、同出役庄屋……と次から次へ続く。十三日夜から十八日朝まで、一揆の跳梁は加悦谷、岩滝、日置、四ツ辻、網野、河守と全領に及んだ、藩の手先として百姓の恨みを受け、打ちこわされた大小の庄屋、手組、出役庄屋の数は五○を超える。
 いち早く注進を受けた藩は、直ちに火事装束の人足を動員し、要所には関所を設けて暴動の波及を防ごうとしたが、気おい立つ一揆勢は、長竿を振廻し投石して抵抗、犬の堂の番人小屋を焼いて、その燃え杭を役人に投げつける有様で町方人足も逃げ去ってしまった。犬の堂や京口の固めを突破して町内へなだれ込んだ一揆は商家の手組連中も襲って家財を破却したという。
 空前のこの暴動を何とか収拾し得たのは、農民に信望のあった前の家老栗原理右衛門の出馬で、彼と農民の折衝を通じて百姓たちの要求が明らかになる。
 「百姓一同申上候
  ・先達御頼追先納米壱万五千俵、万人講日銭今日限り御免之事
  ・大庄屋出役庄屋、元の人数に御減し、手組連中御廃止之事
  ・日銭取立発頭役人(沢辺以下、三人)役目御免之事
  ・今度召捕られた者御放免、徒党詮議無之事」
これに対して村々へ渡した栗原の書付は次のとおりである。
一万人講日銭御免の事
一諸御頼壱万五千俵御買上米御免の事
一当午年為御取扱米千俵被下置候事
一奉公人増給金御免の事
一七人被召捕候者御免の事
 前書之通令承知相違無之者也
  午十二月      栗原理右衛門判
              惣百姓
              水呑江
 続いて郡奉行も 万人講中止、追買上米 一万五○○○俵も中止、の書付を配布した。百姓必死の訴えがすべて聞かれたかに見えたが、翌年正月十四日、江戸からの正式回答は期待を裏切り、まるで後退したものであった。その要点、
 「百姓共の困窮をかねて耳にしておれば何分の取扱いもあった、愁訴の事も承知せず騒立は意外に思う。御勝手元難しい時だが、
 ・御救米弐千俵下しおかれ
 ・万人講の内壱歩お下げになる
御仁恵ありがたく存じて先非を悔い農業を大切に働く様申しきかすべし」
とあって一向に反省の色はない。どうにか成果らしいものは、大庄屋がもとの五人になり、出役庄屋がクビになったのと、百姓怨みの的とされた御勝手頭取沢辺ら四人の役人が罷免されたくらいのことである。
 回答に誠意のみられぬ不満から、村々には再度の騒動を呼びかける落し文や張り紙もあったというが、いったん鎮静した百姓の統一気勢は挙らず、以後専ら藩側の主導でことが進行する。
(四)徒党処分
 文政六年二月十五日、石川村奥山の為治郎事喜右衛門、滋蔵事新兵衛が召し取られ、後口手錠となった。捕方役人がふみ込んだ時、新兵衛少しも騒がず、いち早く「徒党連判状」を囲炉裏へ投げ入れた。これを知った捕吏はくやしがってその灰を懐紙に包んで証拠にしたと伝えられる。主謀者釈放を求めるために再び蹶起を呼びかける張り紙もあったというが、この時もはや一統の反応は全くなかった。
 文政七年四月二十二日御仕置
   獄門 奥山分 為治郎事喜右衛門
   討首 同 村 滋蔵 事新兵衛
 以下永牢 二、国追放 六(牢中病死一) 右の者共夫々御仕置、家内御構なく跡闕所。家財売払。女房子供親類引取、栗原理右衛門と百助の父子は、一揆に合体したとの疑いが晴れぬまま座敷牢に拘禁された。父理右衛門は一七年間牢中にあって後「御免被仰付」八○余歳で領主後見役となった。子百助は真相を江戸の若殿(宗秀)に伝えんとして文政九年脱牢、江戸へ走った。途中宮津藩支領近江八幡在の西光寺で、藩の捕吏に囲まれ自殺した。
(五)大江町への波及
 文政一揆は宮津藩全領の一斉蜂起がたてりであったから、河守組の傍観は許さなかった。その対応を地元の伝承や「覚書牒」で見ると次のようである。
(1) 仏性寺庄屋藤原家の場合
 蹶起を呼びかける落し文は庄屋軒下の笠の下に置かれてあった由で、落し文の内容は不明だが、「覚書牒」の記事からだいたいの見当がつく。
 それは、「河守側も即刻打毀しにかゝれ。もし一揆に同調せねば一揆側の返報を覚悟せよ」と恫喝めいた呼びかけであったであろう事は想像に難くない。
 村民の先導として打ちこわしに加わるべきか、座して一揆側の追及を待つべきか、進退窮した庄屋弥兵衛は、土蔵に入り鉄砲で自らの命を断ったという。だから藤原家には「孫末代まで庄屋などの役を受けるな」との家訓が申し送られたという。(四代の孫、藤原幸太郎直話)
(2)林田家「覚書牒」記事要約(「史料編」参照)
 十二月十三日夜強訴発(岩滝千賀両助家蔵家財、諸帳面、金銀、諸道具残らず焼払い……以下打こわしの様相概ね前述の通り。省略)
 この辺へは宮津の方から度々一揆参加の呼びかけが参り、「宮津へも来ず河守へも参らず日和見しているのは怪しからぬ。一揆に同調せぬというなら当方から出向いて、加佐郡中の家残らず打潰す」と強談判があった。そこで加佐郡の一一か村は、河守の「だん」で落合い、夜八時ごろから町へ出、真下六郎右衛門、同喜兵衛両家、家蔵家財、米俵着類道具残らず打ち潰し、柱を切かけにした。ただし喜兵衛家は裏側少々こわした程度の被害という。
 河守へ波及した打毀しは、右にあげた「覚書牒」の他「宮津騒動夢物語」に「河守町において、手組真下六郎右衛門、庄屋喜兵衛、其他身元宜敷者少々づつの事有之候」としている。同書によれば、これらの打ちこわしを叙した次に、打毀しにあった大庄屋、手組、出役、庄屋等四○人に藩からの被害見舞(状況により七俵、五俵、三俵)を下されたことを記し、そのリストの中に「加佐郡組手組連中真下六郎右衛門、同組出役庄屋喜兵街」があげられている。(だからこの人たちが全く被害がなかったとはいいきれぬ)
 「宮津旧記」ては、被害者の範囲をさらにひろげ、「加佐郡組大庄屋河守町真下六郎右衛門、同手組同町六兵衛、同出役庄屋喜兵衛、同手組連中関村庄屋久左衛門、天田内村庄屋治兵街、二俣村庄屋武右衛門、これまた同様家財家蔵不残打壊き候由」と記している。
 事実はどうであったか、証明する資料は得られていないが、叙上の記録はいずれも「また聞き」で、こういう場合によくある尾鰭がついた話ではないかと思われる。真相は夢物語のいう「少々ずつの事」であったらしく、そのためか藩は河守町役人に、「河守町は騒動に参加せず、慎んでいたのは誠に神妙である」として褒美と褒状を出している。
 旧冬郡中の者共一統騒動致し、町在へ乱入致し数多家潰しなど致し候儀、不埒至極の儀に有之候 然る所其町儀は、平生村役人共申附方もよろしく村方一統相慎み、心得方宜敷候趣神妙の至に有之候 右之趣江戸表に於て、殿様御聞に達し御満足に思し召され候
 此段厚き思召を以て村役人共へ 御格式御目録下しおかれ 且つ村方一統の者共へ 御褒美として白銀拾枚下しおかれ候間 有難く頂載致すべく候                                               以上
  文政六年末十二月
河守町役人中
(註)大庄屋真下六郎右衛門家
  河守の文書には、真下姓の大庄屋や庄屋名がしばしば登場するが、その系列はあまり明確でなく、四、五軒の同族の家があるようである。本真下家は元禄の頃から栄え、代々六兵衛名義(絹屋)。中真下家は宝暦年代に分家し、六郎右衛門を襲名した人が多い。屋号、「絹屋」とあって、繭、地絹等を商い、幕末頃の豪勢さは幾多の語り草となっている。本町通に面した豪華な邸宅は、藩候通行の時の本陣となり、藩札発行の兌換責任者としても名を連ねた。大庄屋文書の一部は史料編に登載してある。明治になって郷土を去り旧宅も昭和五二年に手離されている。
 同家の床柱には、一揆勢が乱入した時の斧傷があるとの風評があったが、実見の結果は床の辺にはその徴候なく、僅かに玄関の平ものに手斧を打ち込んだらしい傷跡があったのみである。同家の記録に、廃藩の直前に藩主宿泊の通告が来たので、家作大修理したとあったから、この時の修繕で修復されたか、暴挙が奥の間まで及ばなかったのか、不明である。
(3)最近発見された波美の庄屋手記によると、文政一揆の当時、天領波美にも貢納を拒否しようとする百姓の動きがあって、これを取鎮める庄屋の苦心が次のように記されている。
(イ)「去ル文政五午年十月廿一日夜、三ノ宮様(波美氏神)前堂へ集り村方区々ニ致し、一村不納の基ヲ工ミ、徒党ヶ間敷儀致され候故其時私庄屋役相勤め、波美一村預り居候時故御高札の趣に相背く様なる儀致す人を、そのままに差置候ては役目立たず、依って察当致し候」村方区々ニとはこの場合、総百姓の意向をばらばらにして年貢不納に固めようとの意味であろう。
 「其上にも又寺堂に相集り徒党三十八人とか申す風聞あり」と婉曲な表現だが、この庄屋はなりゆきを案じて総寄合を求め、過激な行動を慎むよう訓諭した。この件で百姓代を含む三点の詑び状が庄屋宛に出された控が附記され「右始末私共の不埒に相違なく御高札の趣を相守らず、申訳ありませぬ」と詑びている。
(ロ)同年十二月、宮津領の一揆が河守へ波及し、谷の奥の村々の百姓の出動を聞いた村役人たちは、手分けして船越、そうぶ、橋本の三か所の村の出口に張番にたって、村の者が騒動にまきこまれぬよう警戒した。とある。不作の年を迎えて、波美村にも不穏の空気が流れていたことが察しられる。文政一揆に河守町がどうであったか。立証の資料はないが、無風地帯ではなかったのは確かである。













丹後の伝説54
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