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丹後の伝説59

丹後の伝説:59集
−旧峰山町の民話 −

 民話というより伝説的なものばかり


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『丹後文化圏』 途中ヶ丘竹林寺の大蛇伝説
丹後の古代文化を尋ねて
峰山途中ヶ丘遺跡について  坪倉 利正

 途中ケ丘遺跡には、いろいろの伝承が語り伝えられているが、その一つに「途中ケ丘の上に途中山竹林寺という大伽藍があり、境内の鐘楼の鐘を小僧が毎日撞いていた。ところが或日、鐘を撞きに出た小僧が忽然と消えるという事件が二度三度と続いた。和尚はこの不可解な事件を解明するため一計を案じた。夕刻、鐘を撞きに出る小僧の形の藁人形を作り、その中に火薬を仕込んで犯人の現われるのを待った。やがて小僧の失踪した時刻になると、一天にわかに曇り七色の雲と共に一匹の大蛇が現われ、一呑みに藁人形を呑み込んでしまった。と、同時に大きな破裂音がし、正体を現わした大蛇はあたりをのたうちまわり、何処かに姿を消してしまった。数日して長岡の里人が山仕事で宮ヶ谷に入ろうとすると、入口の溜池に腹を裂かれて長々と池に浮かんでいる大蛇を見た。長岡の里人は後難を恐れて、大蛇の死体を近くの山に丁重に葬ると共に、谷の入口に祠を建てて祀った。」という。
 例祭は9月15日であるが、昭和5年に氏神である八幡神社に祠を移し「山ノ口社」として現存している。また、小字「途中岡」付近には「本堂屋敷」、「弁天」、「地蔵前」、「蛇池」等の小字名が残っており、「弁天」には昭和初期まで弁財天を祀った祠が残っていた(現在八幡神社に合祀)。こうみてくると「途中山竹林寺」は相当の伽藍であったことがわかる。しかし現存する字金田(きんだ)は「金田千軒」の伝説があったにしてはあまりにも地理的位置に恵まれていない。北側を東流する鱒留川の氾濫と、金田東部馬場地域が、江戸末期から明治時代にかけて開削され水田化されたことを考えると、それ以前に農業を主体とした大集落が存在したとは考えられない。


『中郡誌槁』 新沼の三本の矢伝説
 
当村字池ノ谷といふ所は真名井の神苗代の水濁りて用ふるに足らざる(不浄の女其水を覧たるにより)に至り箭を放ちて之を天に訴へられたるに白箭三つ下りたる地に新に池を堀り種子を浸すべしとの神告を受けて此地に池沼を設けられたるにて村名もと新治にあらずして新沼郷なりとの伝説あり又此地の東南に大苗代といふ字ありて是即ち神始めて苗を植へられたる地なりと唱へ今も村民ここを共同の苗代として使用す

『峰山郷土志』 新治城の片目の魚
 新治城
 山下に池があり、今は土砂が流れ込んで狭くなっているが、この池には片眼の魚が住むといい、また、他の魚を放しておいても片眼になってしまうともいう。天正の合戦に、片眼を射られた侍が、この池でその眼を洗ったためだといい伝えられている。

『峰山郷土志』  古当屋敷
 【古当屋敷(ふるとうやしき)(久次)】
苗代から久次に通じる山下の道の中程、西北の小谷がそれで、谷の奥は畠になっている。『五箇村郷土誌』によると−ここは古当氏の宅趾といわれ、久次神社再建棟札に、延徳二年(一四九〇)、願主神主古当長門守とあり、天正年間、長門守は一色の残党で、織田信長にほろぼされ、神領を奪われ、一色の部将である飯田越前守は、神社の破却を恐れて峯山にまつり、後、京極家がこの処に館を造ることとなって、再び赤坂に移して、篠箸(しのはし)大明神とよんだという。古当氏は代々「長門守」と称して久次に住んでいたものであろうか。墓は一軒屋の丸山にある−といっている。
また『五箇村誌』に−古当氏の全盛時代は、家の甍と、山一つ隔てた西光寺の甍と、互いに高きを競ったといい、かつて、田植のとき、日が暮れて植えつけが終わらなかったので、その妻が、杓子をもって太陽を招いたところ、太陽はたちまち三間余り引きかえし、田植は無事に終わったが、それから家運が次第に衰えたという−とある。この古当の田植は「村中田植(むらちゅうたうえ)」と呼んで、村の者総出で田植を行なったもので、たまたま、狐が馬に乗って通るのを見ている間に、太陽が西へ傾いてしまったといい伝えている。
古当長門守が一色の残党で、信長に討伐され……という点は、飯田越前守の昨岡神社峯山移祭とは時間的に食いちがいがあるようだが、この点は一色時代で述べたはずであるから省略する。なお、西光寺の甍と高さを競ったのは、古当の物見櫓やあったともいうが、山一つ隔てたという西光寺の場所がどうも納得しがたい。この伝説は、古当の勢力を表現した例であろうし、一方久次には、そうした大ぎな寺々が存在していたことにもなる。南明寺、ごとく寺(コートク寺とも)などの名が残っているのもその一つである。

『京都の伝説・丹後を歩く』
 古殿谷の日招き長者  伝承地 中郡峰山町久次
 一軒家の下に古殿(ふるどう)と呼ぶ谷がある。
 昔、この谷には古殿長門守という長者の屋敷があったそうだ。たくさんの土地を持っていて、峰山の殿さまのところへ行くのにも、新治までは自分以外の人の土地を通らなくてもよかったのだそうだ。
 ある年のこと、長者の家では大勢の村の衆を集めて田植えをしていたそうだ。みなが一生懸命に働いたけれども、やはり広くて、まだ残っている。その時、だれかが「狐の嫁入りが通る」と言ったので、みな手を休めて見とれてしまったそうだ。気がついてみると、お日さまは西山の向こうに隠れて、あたりは暗い。長門守は大変だと思った。今日中に田植えは終わってしまいたい。それなのに日は暮れる。お日さまを呼び戻さればと思った。
長者は、炊事用の大杓子で、「お日さん、戻れ、戻れ」とわめくと、お日さまは後戻りをしたので、
無事に田植えを済ますことができたそうだ。
 それからは、長者の家では不運が続いて、とうとう貧乏になったという話だ。 (『丹後の伝説』)

伝承探訪
 竹野川の支流、鱒留川に沿う沃土地帯は、『古風土記』の天人女房譚にうかがえるように、古くよりうまい酒を造り出す稲米の豊穣を誇るところである。その天女降下の比治山とも擬される久次岳の東麓もまた、稔り豊かな水田地帯であった。そして、江戸末期から明治にかけて、当地を擁した大地主・中西家があった。それは「一万石百姓」とうたわれ、酒屋をかねて、まさに久次・五箇の聚落から新治に至るまでが当家に属していたという。
 それならば、「新治までは自分以外の人の土地を通らなくてよかった」とは、この中西家の大地主ぶりをたとえたもので、その「日招き長者」の没落は、中西家のそれを言うかのようにも思われる。しかし、伝承は史実を語るものではない。人間の生きざまの真実を主張するものだ。
 その中西家の分家筋で、いまも豪農として水田耕作を営まれる中西秀郎さんを五箇聚落に訪ねる。その住居は茅葺きの豪邸で、かつての中西家の片鱗をうかがわせる。しかも、先代の医業を退けて、あえて農作にしたがう当主は、当地方の郷土研究者の一人であった。
 その中西さんの案内で、久次の枝村なる一軒家に向かう。はたして「古殿谷」は見出せるのか。一軒家ならず、十戸ほどの緊落に入ったところで、中西さんは一軒の旧家から中年のおばざ入を連れ出してくる。「この奥の谷です。子どもがよく古い瓦を拾ってきます」と言われる。一軒屋の村人にとって「古殿谷」は自明のことであるらしい。往古、籾種を浸したという清水戸を擁する苗代緊落に向かう途次の谷間がそれであった。案内にしたがって見ると、段々の水田を思わせる谷間が深くせり上がってゆく。久次岳東麓の農穣地帯を領有した長者の屋敷跡にちがいあるまい。
 しかし、当地方きっての郷土史研究家の藤村多宏さんの考証によると、この「古殿」は室町時代に一色氏の残党として、当地を支配した豪族の「古当」の謂いで、一四九○年の久次神社の棟札には、「願主・神主古当長門守」の名が見えると言われる。それならば、この「日招き長者」は、中西長者でもあり古当長者でもあるが、それを越えた長者ということになる。
 田植の都合で沈む夕日を招き返したがゆえに、たちまちに没落したとする長者伝説としては、鳥取の湖山長者がよく知られている。あるいは大分の田野長者、奈良の荒坂長者、静岡の金沢長者、三重の日之丸長者・宜田長者、新潟の犬神長者も全く同じ運命をたどったと伝える。自然の象徴たる太陽を人間さまの都合で勝手にする不埒な行為は、天の神の許すはずのものではなかったのだ。

『郷土と美術』(昭和15年)
伝説
中郡五箇村  比治の里人
天満宮 五箇村字五箇舟岡(フナヲカ)鎮座
 無格社 祭神菅原道真公 伝説セル由緒ニ依レバ、昔、五箇ニ寺田六助(現寺田石造祖ト云)ナル者アリ。菅公ニ都ニ仕へ愛セラル。公禍ニ遭ヒ九国ニ謫セラルゝニ及ビ、六助随従ヲ請へドモ許サレズ。悲ム事太ダシ。公惻然形見トシテ梅花石(石面梅花ノ如キ斑文アリ)一箇ヲ賜フ。六助泣ク泣ク拝受シ帰リ之ヲ奉祀ス。「天神ケ森」是也。某歳今ヨリ(明治三十年頃ヨリ)六七十年以前午歳、大洪水アリ。祠廟(天神森七左衛門トイフニアリシト云フ)神石共ニ流失行ク所ヲ知ラズ。後チ菅村ノ人拾ヒテ峯山ノ市民(岡田屋)ニ鬻グ再伝シテ同町石田與兵衛氏ノ有トナル。明治二十年頃天龍寺由利滴翠師来峯、石田氏請ウテ梅花石ノ由来ヲ誌シ装軸シテ藏ス。石モ亦小祠ヲ造り神棚ニ奉斎シ、毎年二月二十五日由来記卜共ニ出シ祀ル。
 府下南桑開花村開花天瀬宮モ同様伝説
=桜石=(金色也)出ヅ。
「附言」 梅花石ハ震災ニモ毀損セズ家人神徳ニ感銘尊信愈厚シ。又五箇川流域ニハ時々梅花石現出、拾得者一両人アリ。神徳光被今ニ及ブトテ愛蔵セリ。
 前記大洪水ノ民謡
  水が出て来た天神が森へ、水が襲
  く襲く橋元へ、其時婆さんが飛ん
  で出て、こんな事ならどもなりや
  せん熊(婆の子)どうしような

一 古当(フルタウ)屋敷長者伝説 五箇村字久次ニ伝へラク、昔古当氏ナル豪族アリ。(当地神社棟札ニモ古当長門守アリ)驕奢自ラ居ル。或歳多ク里人ヲ集メテ田植ヲナスニ田地多数ニシテ作業捗ラズ日ハ暮レントス。其内儀杓子(シャクシ)ヲ以テ日ヲ招クニ日逆戻ルコト三竿、業爲ニ終ル。然レドモ其後家運追々ニ衰頽スト云フ。
 「附」 鳥取県小山の湖水ノ長者伝説ト共通。

一 鶏伝説 五箇村字鱒留ノ北方旧道ノ傍ニ小字「大石の元」アリ。又鶏塚トモ称ス。正月元日暁天最初ニ来ルモノ鶏鳴ヲ聞クヲ得テ長者トナルベシト。蓋シ古墳ナリ。コノ大石ハ磯砂山ノ鬼ガ飯スル米ノ中ニアリシ石粒ヲ投ゲシモノト云ヘリ。 (巨人伝説)

一 百町 五箇村字鱒留小字大成ノ山上ニ「百町」ノ地名アリ。小キ田面多シ。或田植時里人田植ニ行キ九十九町植終リシガ、今一町ドウシテモ見エズ。不思議ナリト深セドアラズ。ナホモヨクヨク捜セバ田植弁当ノ飯櫃ノ下ニ、一町隠レ居リシト云フ。九十九伝説

一 白米城伝説  諸国ニアル白米城伝説五箇村字五ヶ高城山ニ残ル。コノ高城ニ籠レル軍勢ヲ敵軍下方ヨリ攻ムルニ、城上ニテ馬ニ白米ヲウツシカケカケ、水アル如クニ見セ虚勢ヲ張リシガ、敵ハ夜間後方久次村ノ方ヨリ攻メ之ヲ落シタリト云フ。

一 右ノ高城山及字鱒留小字中谷ニ、考古学者ノ言フ朝日夕日サス伝説歌謡ヲ伝フ。
 朝日さす夕日さす白椿のもとに
 黄金千両白金千両。

『峰山郷土志』
 【金の壺
新町に比丘尼屋敷がある。広さは約七畝。場所はかつての避病院(伝染病隔離病舎)の跡で、昔から「朝日さす 夜日(よひ)さす白つつじのもとに金の壷……」という伝説がある。白椿伝説と同種のものであろう。

『京都丹波・丹後の伝説』
 丹波の箱どよ  中郡峰山町丹波

 峰山町の”丹波”は、中郡穀倉地帯のひとつだが、昔はこの田んぼの中を流れる竹野川がかんがいに十分利用できず、農家の人たちは水不足に苦しんでいた。これを丹波の人が殿さまの許しを受け、お城のある権現山の木で「箱どよ」(箱形の樋、通水路として使う)を作り、かんがい水路を作った−という話がいまに伝えられている。
 三百年ほど昔のこと。この丹波に伊左衛門という村役をしていたえらい百姓がいた。丹波の村人が日照り年には荒山と水争いをしたり、大雨が降ると中郡中の水が竹野川に集まり、田は水びたしになって米のできが悪くなり困っていた。伊左衛門さんは、この竹野川の水を田にひけんだろうか、と妻に手伝わせ、昼は田んぼで働き、夜はちょうちんと竹で作った水平器や竹づつを持って半年もかかって測量した。村の衆には「用水路を引きゃあ、日照りにも悩まされんでもええ」と話していたが、だれも本気にしなかったという。
 伊左衛門さんは庄屋と相談し「用水路がでけなんだら、わしの首をやる」と村の衆を説き、藩のお役人には「失敗したらわしの首をさしだしますから、丹波の大溝の工事をやらしてくだせえ」と許可を受け、大溝を掘り進んだ。ところが、小西川の上に大きな箱どよを作って渡す必要があるが箱どよを作る大きな板もなかった。そこで「権現山の木を切って箱どよを作りてゃあだけど、切らせてくだせえな」とお願いしたら、お殿さまは「わしが赤銅の箱どよを作ってやる」といわれた。
伊左衛門は「箱どよは、くさって穴があいて、いたんだら、なおすのに苦労するので、権現山の木で作れば、いたんでも大工をたのんでじきなおすだで」と答えたため、お殿さまは感心して木を切ることを許可された。それからは、いたんだら権現山の木で箱どよをつくり、日照りも苦にならないようになった。
 昔は「嫁にやろうにも丹波の郷にはやらな。山に木はなし草もなし」という子守歌や「嫁においでよ、丹波の郷においで。山に木はなし草ないけれど、年貢いちずの田がござる」というかえし歌が、よく聞かれたという。

『峰山郷土志』
 【貧乏石
丹波、明治十年頃、貧乏石という直径一尺五寸余の円形の石を、村渡し(村から村へ送る)で丹波村へ送って来た。この石に触れると禍いにあうというので、誰一人手をぶれるものがなかったが、ちょうど多久神社の舞殿の上棟式があって、村人が境内に集まって酒盛りを開いていた席で、たまたま、この貧乏石が話題にのぼり、作兵衛という剛力の男が、宮山と矢田山の境界まで運びあげた。一同はその勇気と力をほめたたえて、大いに酒をすすめたが、泥酔したまま作兵衛は死んでいた。それから、貧乏石の名は、一度に高くなったが、今に至るまで誰一人近寄るものもない。

 【石生(こくしょう)用水
矢田、石生用水は、元禄四年(一六九一)に築いた用水溜池で、水ぬき(じょうご)の下に生松丸太を敷いたと伝えられているが、生松は水底で千年を持ちこたえるといい、最近、両端を斧で切断した松丸太が取り出されたが、腐蝕している様子はみられなかった。元禄構築当時のものであろう。当時、この造築にあたって、峯山領内から人夫が応援にくりだされたもので、今も次のような俚謡が残っている。
矢田の小村が堤を築いて 人を騒がせたよ領分の

峰山の民俗行事

「風俗問答状」(文化13年)が、『丹後資料叢書』に、掲載されている。
柳田国男は、「郷土生活の研究法」で、
それから丹後の峯山領のものは、その後になって私が発見し、原本は既に先年の震火災で焼けた。これなどはまさしく寺壮奉行手付の威望によって成ったもので、五六箇寺の住職が相談しそれに村々の庄屋の申し口を加へたるのだが、寺家だけに在家の風儀には詳しからず、また到頭出さずにしまったものと思はれる。
と書いている。
『両丹地方史61』(1995)に、

峯山領在方風俗の伝承について
奥丹後地方史研究会 糸井 昭
一、はじめに
 私たちの歴史サークル「庶民の暮らしや文化を伝承する会」は、峰山町で農業に従事してきた高齢者の体験と見聞を集録し、『絵でみる丹後の百姓しごと』(平成三年刊)と『絵でみる丹後の暮らしとまつり』(平成四年刊)にまとめた。
 後者は大正時代から昭和初期の農村の年中行事を記録したもので、現在では姿を消したものも多い。そこで、大正末期より約百年昔の文化十三年に作成された「峯山領風俗問状答」の年中行事とも比較し、民俗の継承を明らかにすることを試みた。

二、峯山領風俗問状答
 幕臣の尾代弘賢(一七五八−一八四一)は博覧強記、能文達筆家であり、故事に精通した学者として高名であった。彼は全国の風俗、おもに年中行事を調査することを考え、約百項目の質問からなる「諸国風俗問状」を、知人を通して全国に配布し回答を求めた。
 「諸国風俗問状」と、それに対する答書が存在することは、大正時代の初期に柳田国男先生が指摘され、それ以降に各地で答書が確認されてきた。しかし大名領としては、二百五十余領の中の次の九領にすぎない。
 陸奥国白川領  出羽国秋田領
 常陸国水戸領  越後国長岡領
 三河国吉田領  大和国高取領
 若狭国小浜領  備後国福山領
 丹後国峯山領
 大名領の外に村単位の年中行事の記録も知られている。例えば丹後国田辺領内では大山村、河辺中、青井など八ヶ村に文化十年の「年中行事書上げ覚」が残されている。(井上金次郎「『諸国風俗問状答』から見た田辺藩の記録とその周辺」『舞鶴地方史研究』第23号)これは代官等の指示に従って田辺領内すべての庄屋が作成したものであろうが、田辺領答書が現存していないのは、集約されて答書にまでこぎつけなかったか、または答書は作成できたが散逸したかのいずれかと考えられる。
 大名領の答書作成者をみると、七領までが家臣で、小浜領は町人、峯山領は二人の僧侶である。二人は領主の京極家と関係の深い寺の住職で、菩提寺である浄土宗常立寺の探誉と、蔵王権現・金比羅権現の別当でもあり、領主の祈願所である真言宗増長院の尊光である。
 二人は武家、町年寄、大庄屋、祠官、住持などから広く聴きとり、行事の詳細を御家中、町方、在方、寺社と各階層に分けて記録している。同様の例は白川領答書にみられ、資料価値を高くする優れた内容である。
 峯山領答書の原本は昭和二年の丹後震災で焼失したが、その直前に長浜字平氏が「丹後史料叢書」に収録し、また明治時代に府庁に提出した写本が京都府立総合資料館に保管されている。

三、在方年中行事の伝承
 次の表は「峯山領風俗問状答」中の行事のその後の状態をまとめたもので、表中の○は実施している、×はしていないことを示す。

旧暦    江戸時代(文化年間) 大正 平成
正月 元旦 鏡餅を神仏に供える
    雑煮餅(味噌だきで何も入れない)
    餅花
  二日 撚り初め ×
    起こし初め × ×
    親族往来の饗応
  七日 七種粥
  十一日 鏡開き ×
    帳祝い × ×
    藏開き × ×
  十四日 どうどや
  十五日 赤小豆粥
    尻張り(縄玉で若嫁の尻を打つ) ×
二月 八日 事(始め) 柳の箸をつくる ×
  午の日 初午 蚕のまゆ形団子をつくる ×
  春分 彼岸
三月 三日 ひな祭
四月 八日 仏生会 甘茶
五月 五日 五月幟
    よもぎ・しょうぶで屋根をふく ×
    子供のしょうぶかぶと ×
  田植後 さのぼり 赤飯
六月  一日 「氷」(かき餅)を食べる ×
  この時分 雨乞い ×
七月 七日 星祭
  十三日〜十六日 盆供
        墓所の灯籠 ×
        送り団子・送り火
    盆踊り「那須の与市」
八月   刈り初め × ×
九月 二十八日 神送り ×
    村方明神の祭礼
十月 亥の日 亥の子 餅を供える
十一月 冬至 師匠への贈物 × ×
  この月 霜月粥をすする × ×
十二月 一日 乙子ついたち 末子を祝う ×
  八日 事納め 念仏をやめる ×
  十三日 煤取り 煤雑煮・煤柿を食べる × ×
  節分 豆まき
    いわしの頭とひいらぎの葉 ×
    豆で天気を占う × ×

 表から、江戸時代の行事は大正時代から昭和初期では八割ほど継承されていたが、現在では半減していることがわかる。
 なお、大正時代・昭和初期に実施していた行事で、「峯山領風俗問状答」には記録されていないものに左記の行事がある。
 一月 扱き初め(×)、きつね狩り(×)
    念仏初め(×)、はったい正月(×)
 二月 庚申さん(×)、秋葉講(×)
 六月 虫送り(×)、薬風呂、虫干し
    井戸さらえ(×)、盆歳暮
 七月 地蔵盆
 八月 はっさく(×)、芋名月(×)
 九月 三夜さん(×)、お日待ち(×)
 十月 ゑびす祭(×)、子祭(×)
 十二月 針供養(×)、八日吹き(×)
 これらは江戸時代にもあったが、記録からもれたと考えられる。その多くのものは現在ではみられなくなっている(×)ので、これらの行事も含めて計算すると、現在は江戸時代の三分の一ほどに減少していると推定される。

四、考察
 江戸時代の農村で沢山の行事を消化していた理由には次のことが考えられる。
(一) 祖霊を敬う心が厚く、自然の恵みに感謝し、病気・火事・自然災害のないように神仏の加護を願った。
(二) 村中が一斉に休息日にすることで、日々の厳しい仕事に耐えることができた。
(三) 村中で行事にかかわり、会食することで情報交換の場となり、相互扶助の気持ちが育った。
 最近になって、年中行事が急減してきたのは、現代人の科学的なものの考え、農業の機械化による省力化、それに第一次産業の農業の衰退が大きな要因である。
 もっとも、子どもの節句とか七五三詣りのような子どもの成長を願う親の心を利用して活性化している行事も一部にはある。将来はこのような商業主義的な行事とか、自治会主催のイベント的な氏神の祭礼などが残り、個々の家で代々継承してきた年中行事は、若者の都会への流出とか別世帯化により、次の世代に伝承することが難しくなり、衰退の一途をたどるのではなかろうか。






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