丹後の伝説:62集
−旧網野町の伝説(二) −
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『ふるさとのむかしむかし』
静御前の出生地
新平家物語の悲劇の女主人公である静御前は、網野町磯の生れだと言い伝えています。
静は、磯村の磯の善次の娘として生れ 七歳で父を失ない、その後、母とともに京都に出て 白拍子(現今の舞妓)になりました。
嘉永元年(一一八二)七月、後白河上皇が、京都の神泉苑で雨乞いの神事を行われましたおり、静は召されて舞をまい、上皇より蝦蟆龍の御衣をいただきました。
また堺の住吉神社の舞会で舞をまい、その時、平家追討のため来合せていた源九郎義経も乗合せており、静を見そめて、ついに愛妄と致しました。この時、静は十八歳、義経は二十七歳であったといいます。
義経は、平家滅亡後、兄頼朝と不仲となり、義経は静を連れて 吉野山にかくれていましたが、追手を逃れるために、雪の中で別れ別れとなり、身重の静は補われて
鎌倉の頼朝のもとに送られました。
鶴岡八幡宮で舞を命ぜられ、有名な
しずやしず しずのおだまき
くり返し
昔を今になすよしもかな
と歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されていましたが、のち許されて京都に移りました。
その後、文治四年、頭をまるめて禅尼となった母とともに故郷の丹後の磯村に帰り、生家の元屋敷に草庵をつくって住み、義経と、早世したわが子の菩提をとむらいました。
いま磯に、その屋敷跡も残り、静と、母と、従者の三人を葬ったという「三つ塚」があります。磯村にはこのほか、静を記った静神社があり、この伝承に関係のある遺跡がまだたくさんあります。 (原話 磯 峠下安三)
七龍峠の頂上にロードパークがあり、こんな案内板がある。
このロード・パークの後の山の頂上に七龍神社がある。少し磯の方へ下ると以前の峠道があり、そこから登る。
『ふるさとのむかしむかし』
七竜のへび
塩江村と、磯村の間に、大きな岩山の峠道があり、道は府道になっているが、まだ車も通らない石ころ道でした。それが近年から改修工事が進められています。その峠の近くに高天と呼ぶ山があり、その頂上近くにある大きな穴の中に、七竜へびが、山の主として棲んでいたという。
ある日、ここを通る旅人が、
「やれやれこれで頂上に来た。どれひと休みして」と休んでたばこをすっていた。
その時、白い小さな蛇が、旅人のそばにするすると寄ってきて、何か食べ物でもほしそうに首をかしげ、人なつこい様子。旅人は、ふといたずら気分をおこし、手にしていた煙管の頭で、こつんと蛇の頭をたたいた。たぶん蛇は、あわてて逃げ去るであろうと思っていたら、なんと驚くことには、蛇はたちまち杖ほどの大きさとなり、見るまに棒のようになり、電柱のようになり、ついに両手でかかえるほどの大蛇となり、旅人の顔をにらんでいたかと思うと、あっという間もなく
その旅人を呑んでしまった。
遠くからこれを見ていた人は驚いて山をかけ降り、村人に知らせたので、たちまちこの話は村中に知れわたった。
村の人はこの白い蛇を「七竜のへび」と呼んで恐れあがめ、とくにかしこい蛇であるから、霊験あらたかな神だとして 信仰のまととなり、祠も建てられ、願をかける時には、鶏卵を神前に供える例になっている。 (原話 塩江 大道明治)
附記 私も参拝したことがあるが、神前に山と積まれた鶏卵に驚きました。 (井上正一)
「神前に山と積まれた鶏卵」などはまったくない、カケラもなかった。
左の祠の壁にあった案内板↓
ね滝から流れてきた杓子
塩江から磯へ通じる道の海手は千刃の崖となっている。その崖の途中に、大きな穴があいていて、そこからつめたい水が出る。それは湧いて出るといった程度ではなく、暗い穴の中から小川のように流れ出てくる。そして崖の途中から滝のように海面に向って飛び落ちる。
地元近辺の人々はこの一帯の地名を「ねたき」と言っているが、江戸期に完成した「丹哥府志」にはここに「男滝と女滝」のあることを記るされているが、「おたき」は山崩れなどで埋没し、「めたき」が現在残っている。ただ名称が訛って「ねたき」となったと思われる。
この滝水は、どんな旱りの年にもかれたことがないという。ある時、この滝から杓子(箸だとの説もある)が流れてきたことがあったという。この話はすぐ村中に伝わり、いったすこんなものがどこから流れこんだのか、それがわかれば、水源もわかると思い、まず、この流れてきた杓子を村の長老に見せた結果
「これは塩江の人のものではない。たぶん、木津川の上流から、地底をくぐり抜けて流れてきたものであろう」という話だった。
それにしても木津川の上流と、この土地とは直線でも相当の距離がある。まさか、と思われる。
(原話 塩江 大道明治)
引原(ひっぱら)ごんすけ狸の最後
木津から網野へ出る道に、引原峠がある。むかしは大木が繁っていて昼でも暗い山道でした。あのへんに古い狸が居てよく人を化かした。お祭りなどでよばれて行った帰りに持っていたご馳走の荷をすっかり食い荒されたり、やれやれ帰ったわいと、風呂をあびていたら、それは小川の水たまりだった。こんな事件は、この附近の村人たちからよく聞かされたものである。
これではこまる、と、新庄や、今井などの村人が相談し、狸のわるさを封じるために、石地蔵を建立して、僧の読経をいただいた。
狸はそのためにそこに居られなくなって、どこかへ姿を消しました。この狸は誰言うとなく「引原ごんすけ」と名づけられていたが、名から察すると雄狸だったかも知れない。
さて「引原ごんすけ」は、その後、隣村の塩江の五石(ごいし)の山へ移っていた。ここでもまたわるさをはじめた。
嵐の夜など、浜辺のあちらこちらで火をもやし、沖を通る船をおびき寄せて船を難破させ、食糧や積荷をうばうということが度々あった。
地元の塩江村の人たちが相談して、山の上の海上がよく見渡せる峠に、大きな石地蔵を建立し偉いお坊さんを招いて、狸封じのお経をいただいた。その法力によって「ごんすけ」はまたそこにも居たたまれず、但馬の山へ退散した。
その後但馬の人に聞いた話によると、丹後から逃げて来たという古い狸が、但馬の山に棲みついて人を化かしていた。
山で樵人が焚火をして、あたっていると、そこへ見知らぬお婆さんがやってきて、
「すまんがのう、ちよいとあたらせてくんさらんか」と言う。
樵人がよく見ると、婆さんの後の方に尾が見える。
「さてはこいつだな、近頃うわさの高い古狸めは」と、いきなりそこにあった燃えさしの丸太をつかんで打ちたたき、とうとうその狸を退治してしまった。
これが「引原ごんすけ」の最後である。
(原話 塩江 船田佐十郎)
五色浜の水死体
むかし五色浜に若くて美しい女人の水死体が漂着しました。ところが、その女死人は、生後間もないような男子を抱いていました。それが不思議なことには、母親はすでに死んでいるのに、幼児は乳房に口をあてて生きていました。
「これは不思議だ、子供は生きている」
発見した人は、とりあえず、幼児の着物を着換えさせ、乳の出る若い婦人を頼んで 乳をやろうとするが、それを飲もうとしない。そして火のつくように泣いている。
そこで別の人が
「そら坊や、泣くな、泣くな、きれいな石をやるで」と言って、五色浜の小石を見せると、幼児は泣きやんで、笑顔さえ見せた。居合せた婦人たちはほっとして
「そうか坊や、そんな小石がほしいか、そんにほしけりや 五石浜の小石はみんな坊やにやるで、もう泣くんじゃないよ」と言ったところ、幼児はその言葉がわかるかのように、嬉しそうにほほえんでいた。
しかしその後、やはり乳は飲まないし、ほかの物を与えても口にしない。しかたがないので、泣けば小石をにぎらせてあやす。しかし、そんなことで何日も生きていられるはずもなく、何日か後に、息をひきとって冷たくなった。
村人はこのかわいそうな親子をねんごろに葬ってやりました。
そんなことがあって後のことです。誰かがこの浜の小石を持ち帰ると、はげしい腹痛がおきる。石をもとの浜に返すと、けろりと直る。ところが前もって、
「子供や、お前の石をもらってゆくで」と断ってから持ち帰れば、腹痛は起らない。
磯の丁子口の地蔵さんは、その親子が祀ってあると伝えられています。 (原話 磯 峠下安三))
五色浜の話
一条天皇の御代、藤原保昌が丹後守だったころ(九九四〜一○○三)というから、今よりおよそ一千年ばかり前の話であります。
天皇の中宮、藤原彰子の院号を上東門院と申しますが、この方の側近には紫式部とか和泉式部など有名な女流歌人が出仕していました。
そのころ上東門院が御母、枇杷准后のために仏像をお作りになり、その飾りに用いるきれいな小石を求めていられた。
そのころ丹後守として 丹後に赴任していた藤原保昌にその小石さがしを依頼するため、その使者としてつかわされたのが、同じく女流歌人の赤染衛門という男のような名の方でした。
保昌は赤染衛門をともない、丹後の海の浦々をまわり、橘の志布比の浜(今の五色浜)において光よい五色の小石を発見され、この石を拾って都に送りました。
門院はたいへん喜ばれ、保昌の妻の和泉式部の許へのお便りに「ながくこの浜を御志起洪と名ずくべし」と記されてあったといいます。
後の人はそれを「五色浜」と書くようになり、今は海中公園予定地として観光客が多くなりました。 (原話 井上正一)
御来屋神社は別に社殿はないようで、本殿に合祀されている様子。
『ふるさとのむかしむかし』
みくりやさんの縁起
むかし、塩江の漁師の惣左衛門が親子連れで、夜、はるか沖合に漁に出た。いつもの漁場で、鯖を釣っていたところ、何物か船の紬先にコツン、コツンとあたる。鯖はよく釣れるのだが、船にぶつかる物音が気になるので、水竿を取って
そのあたる物を突き除けてから、釣り竿に持ちかえたが、急に釣れなくなった。すると、またコツン、コツンと何かが船にあたる音がする、と、また釣れだす。
不思議に思って、こんどは、その当たる物を船に引上げて見た。するとそれは神様のお祠子であった。何だ、こんな物だったのかと、その時は特別気にとめないでいた。
なにしろ思いがけない大漁だったので、まだ早かったが、夜明けを待たないで帰ることにした。
宮が瀬の沖までくると、急に船が止って動かない。そこで、これは引きあげた祠のせいかもしれないと思い、祠子だけを陸に揚げておいて、船着場に向った。
帰ってからその次第を語り合い、なにしろあらたかな神様だから粗末にできないと思い、その浜辺にささやかな社屋を建ててお祀りした。
ところがその後のある夜、その神様が、惣左衛門の夢枕におたちになり、
「今の場所は、土地が低くて 荒波に流されるおそれがある。もっと高い所へ移せ」との御神示があった。
それで急いで宮が尾という所へ移したが、また夢見せがあり
「浜詰の若宮の屋敷へ移せ」とふたたび神示をうけた。
それで地元の氏子たちと相談の上、神示通り若宮の境内へ移して、今は若宮の神と合祀されている。
この神社を別称御来屋(みくりや)神社と称するのは、惣左衛門が海上から移したお祠子が、もと、鳥取県御来屋の土地から、洪水の時流れてきたのだということがわかってから名付けられたのだという。
民俗学でいう年齢階梯組織「若者組」の一種かと思われる。縦社会といわれる日本社会ではあるが、地域社会にはこうした横社会が実際にはたくさんあった。今でいう子供会とか青年団、地域婦人会、老人会とかいったものになるのだが、ほとんど引き継がれることもなく、北方文化の縦社会のなかで変質、消滅してしまった状態のようである。ワタシらの生涯の間に起きた最近の大きな事件であった。こうした組織の起源は南方系文化であろう。
子供会は親が干渉あるいは支配しすぎ状態で子ども同士の横の結びつきを見失いがちになっているし、青年団は丹後には一つもなくなった、「お祭り青年団」いうて、ワシらはアホにしとったけど、今はそれすらないし、それを作るんさえむつかしいデ。当時の書類がいっぱい残っとるんや、どうしたらええやろな、大事なもんも多いんや、焼いてしもうたらもう永久になくなるしな、など途方にくれている。これはわれらの世代である。ワレラは少なくとも京都というミヤコの地での有史上最後の横社会文化の担い手であったようである。婦人会や老人会も役員のなり手がないとか消滅が続いている。横糸を失うことで地域社会は縦糸だけ、これではいっそう社会の崩壊が進むこととなることであろう。
ともだち仲間
浜詰区に今も行われている「ともだち仲間」(以下「仲間」と記す)というのがあって、それがいつの頃から始まったのかよくわからぬが、たぶん江戸時代からずっと続いているようです。
「仲間」作りができるのは、義務教育を終了した男子が、気の合った同志十人内外で申し合せて「仲間」を作ります。
春二月のことの日に、米袋に白米五合と、会費若干を持って、宿としてくれる仲間の家に集って会食をします。この時、生涯離れることのない「仲間」の盟契がなされます。
婿養子とか転任などで、区外から入ってきた男子はいずれかの仲間に加えてもらうのだが、この新加入については数度の内交渉の結果、加入を認められる見通しがつくと、自分の親しい仲間か、あるいは親戚などを仲介者にたのみ正式交渉が行われる。交渉にあたる者は羽織をひっかけ、酒一升をたずさえて
仲間のうち顔のきく者の宅へ頼みに行く、といった手続きによるのが普通であります。
規約もなく、役員もつくらないのがたてまえてあるが、貯金の取り扱いをする者を会計係と言っています。
仲間の年齢も、同年の者が多いが、一つちがい、二つちがいもあり、気の合う者同志であれば、年齢の差はあまり気にしない。
「仲間」が会食するのはこと(毎年二月に行われる年中行事の一つ)のほか、盆・暮・正月などであります。
高齢になると、死亡などでだんだん欠落者のできることは当然だが、最後に二人だけになってもなお会食するといった例もあり、会食だけでなく何事もかたい結びつきが続くのであります。
経費や積立金は共同作業などによる収益金があてられる場合が多く、積立金がかなり多くなると、仲間の罹災の場合の救済や、公共への寄附金または、老後の費用などにあてられています。
仲間の相互扶助は徹底して行われ、本人または子女の縁組などについては、まず「仲間」に相談する。参考のために承っておくといった程度ではなく、「仲間」の決定には従わねばならない。「あの娘はよくない」ときまればその縁組は進められない。もしその場合、強いて貰おうとするならば「仲間」を脱退するまでであるが、そのような行為はたいへん恥辱と考えられています。
また末婦仲の関係がわるくなり離縁かどうかと悩むような場合でも「仲間」が「あの女は見込みがある。辛抱してやれ」ときまればその意見に従う。もし妻がながたんうてば(里逃げすれば)仲人か親戚とかが一応迎えに行くが、最後にこの「仲間」の誰かが挨拶に顔を出す。それでもなおかつ応じない場合は、見込みない嫁だと見離される。
他人との間におきるもめごとの仲裁人、新築・葬儀または、家業の多忙時における労力援助など、そんな時には「仲間」が押しかけて万端の世話をする。このように実の兄弟でも及ばない固い結びつきがあります。
そのため、婚礼などの宴席の最後の日には「仲間」だけを招待する。しかもその料理は新客(正客)と同様の待遇をする例です。
以上のような「仲間」同志の結びつきは、男仲間だけでなく、その妻たちもまたそれに準じて、珍らしい物のやりとりとか、身の上相談でも、実の姉妹同様の親しみをもって交際されています。
(原話 井上正一)
木津上野の今の橘小学校や橘中学校、老人ホーム丹後園のある少し小高くなった丘を「上がり山」と呼ぶ。これは弘化4年(1847)の地変によってできたと伝えるている。同年の瓦版(網野町郷土資料館蔵)に、
此地に今年弘化四末の正月十一日の夜半の頃、震動 雷電して大雨車軸を流す。村民胆を冷し驚き怖く事限りなし、程なく夜も明け四方静まり、雨止み、空晴わたるに心安堵して漸やく外面に出るに豈料らんや、高さ五、六丈ばかりの山忽然とあらはれたり。衆人又もや打驚き前代未聞の事なり等と、其噂さ遠近に高く聞ゆ、
(1丈=3メートル)
とあって、一夜のうちにできたという山の絵も載る。この上り山が、昭和2年(1929)の北丹後大地震によって、10メートルほど陥没し、その余波で東南側一帯の水田が隆起したという。
地震がなくても18メートルばかり突然隆起することがあるようである。そして地震が10メートルばかり沈下した。この数値はオーバーなのかも知れないが、正確には誰も計測していない、これが日本という国土である。原発安全ですなどは国土をしらぬ者のたわごとでしかないし、こうした場所に学校や老人ホーム、保育園などは、温泉のモウケしか眼中にないのか子どもの安全など誰も気にもしている様子がない、これは原発推進派のアベ氏などととたいして変わらぬ程度の神経かも知れない。
『丹後国竹野郡誌』
上り山 字木津にあり
(木津温泉誌)温泉場の西面なる一帯の砂山にして松林密茂し頂上は二十尺に達せず彼方は一面澎湃たる日本海にして右手に経ヶ岬、夕日港、左手に朝日港、久美浜湾を指呼し風帆の波を蹴って山涯に行くを数ふべく眺望濶如たり、口碑に元此地海中なりしも安政年間地変あり一夜に此丘を現出せりと云ふ松林には松露を多く産せり、
『奥丹後大震災誌』
小字上野民家の眞向ふにある桃園は日本海に面する一大砂丘に接続せる部分で、往古天変地異の爲め一夜の中に隆起したものとの伝説がある。谷口村長の所有地で、砂質土の小丘上には、一面に桃の栽培をなし、立派な果樹園となつてゐたが、地震と共にその中央部が深さ平均五米、面積凡そ一町二反歩の大陷沒を來し、到底原形には復旧の見込なきに至つた。その周囲下にある水田や畑地も当時の震動のため一帶に波状形のうねりを生じたほどであつた。
『ふるさとのむかしむかし』
上(あが)り山地変
上り山とは、国鉄丹後木津駅に立って西方を眺めると海手に見える砂丘であります。現在はそのあたりの砂を取り除いて地形を低くし、老人ホーム丹後園や、それにつづいて橘小学校や、橘中学校が置かれて、まったく昔の面影はなくなりました。
しかしこの地は一夜で隆起しててきた山なので誰言う享なく上り山と称しています。
事件のあったのは弘化四年正月十二日夜と言いますから、今より約百三十年前のことであります。
当時としては前代未聞の事変だとして関係庄屋はただちに飛脚をたてて藩の役所へ通報した。宮津藩ではその原因を追及したがわからず、「木津には温泉が出るのだから、硫黄の気が一時にふき出し土地を持ち上げたであろう」との評決であった。
一方この事件が、京の都へも伝わり、さっそく瓦版の記事になってばらまかれ、京すずめたちの話題となりました。その瓦版の一枚が今木津連合区に保管されて居るが、それによると、
「丹後の国に於て一夜の内に山湧出る次第(中略)ここに丹後国竹野郡木津の上の村といへる在郷あり、すなわち組(久美)より網野へ至る往還なり
此地に今年弘化四未の正月十一日の夜半の頃、震動蓄電して大雨車軸を流す。村民胆を冷して驚き怖くこと限りなし。ほどなく夜も明け四方静り、雨止み、空晴れわたるに心安堵でようやく外面に出るに、あにはからんや、高き丘、六丈ばかりの山忽然とあらはれたり。衆人又もや前代未聞の事なりなどと、
その噂遠近に高く聞ゆ、村老の曰く実にや宝永のむかしもかかる例ありて御代豊かに栄えしと聞く、正しく弘化の時にあたりて、世界全く弘く化す豊けき御代のしるしぞと悦び祝うと伝へ開て、そのままここにうつし侍ることになん」
と記され、おまけに紙面の大半を割いた挿絵入りであります。
この上り山が、昭和二年の丹後震災で一丈余も陥落し、さらにその頂上が削られて小学校や中学校つづいて老人ホーム丹後園もできて、おまけに附近を掘ったら温泉がこんこんと湧き出、これを丹後園はじめ附近の民家に配湯して文字通り温泉郷が実現します。これは瓦版でなく、新聞に詳しく報道されることと思います。
『網野町誌』
上り山地変
「上(あが)り山」とは木津駅から西方に見える砂丘である。この地は一夜で隆起してできた山なので、誰いうとなく「上り山」という。
事件のあったのは弘化四年(一八四七)正月一二日の夜ということだ。当時としては一夜で山ができるということは前代未聞の事変として、関係庄屋たちはただちに飛脚を立てて藩の役所へ通報した。宮津藩では原因追及したが不明のまま、「木津には温泉が出ること故、硫黄の気が一時に噴き出して土地を持ち上げたのであろう」と評決した。
一方この事件が京の都へも伝わり、瓦版の記事となってばら撒かれた。その一枚が木津連合区に保管されているが、それによると、『丹後の国に於て一夜の内に山湧出る次第(中略)茲に丹後の国竹野郡木津の上ノ村といへる在郷あり、即ち組(久美)より網野へ至る往還なり、此地に今年、弘化四未の正月十一日の夜半、震動雷電して、大雨車軸を流す、村民膽を冷し驚き怖く事限りなし、程なく夜も明け、四方静まり、雨止み、空晴れわたるに、心安堵して、暫やく外面に出るに、豈科らんや、高さ五六丈ばかりの山惚然とあらわれたり、衆人又もや打驚き、前代未聞の事なり杯と、其噂さ遠近に高く聞ゆ、村老の曰く、実にや宝永のむかしもかヽる例ありて、御代豊かに栄えしと聞く、正しく弘化の時代にあたりて、世界全く弘く化す豊けき御代のしるしぞと悦び祝ふと伝え聞て、其儘ここにうつし侍ることになん。』
○
さらに驚くことに、このニュースは遠く信濃の善光寺まで飛んで、そこの古文書にまで残っているそうだ。しかも噂は遠くなる程大きくなるのか、隆起の高さ二丈が七丈(約二一b)にもなっている。
○
この上り山が、昭和二年の丹後震災で一丈余も陥落し、さらにその頂上が削られて小・中学校、つづいて老人ホーム丹後園もできて、おまけに付近を掘ったら温泉がこんこんと湧き出、これを丹後園はじめ付近の民家に配湯して、文字通りの新温泉郷が実現したのである。
(『ふるさとのむかしむかし』)(『伝説と史話ふるさとのむかし=x)
『ふるさとのむかしむかし』
八百比丘尼と丹後の杉林
若狭の八百比丘尼は幼ない時人魚を食ったので八百年も長いきしたと伝えられています。
その八百尼は、丹後町の乗原の産であるという説(竹野郡誌)がある。また宮津市の栗田村がその出生地であるともいい 海岸に八百比丘尼供養塔があります。
ともかく長生きして記憶がよかった。若狭の領主にたいへん寵愛され、古いことをよく八百尼に尋ねられたそうです。
臨終のさいに殿様が
「なにか言い残すことばないか」とお尋ねになると、
「なにも言い残すことはないが、ひとつお尋ねしたい。丹後のハマ(網野町浜詰)から、ミナト(久美浜町湊宮)に行く道中に苔の生えた大きな杉の木がたくさんあったが、今でもあるか」と尋ねたそうです。
○
久美浜町の佐野谷川流域である平田・三分・関・永留へんでは、文化文政の頃から嘉永、安政年間にわたり、村人たちは「根本掘り」といって、冬期農閑のとき、田圃から埋れ木を掘り出し、その木材を用いて桶、たらいなど日用品を造って
但馬方面へ売却ということです。(熊野郡誌)また田村善福寺の板戸はこの埋れ木による杉の一枚板作りであるそうです。
網野町字木津の田圃で 今日まで幾十回となく温泉試堀が行われたが、いつも大きな埋れ木にぶつかる。その多くは杉の木であるという。
網野町の沖田田圃も、掘れば杉檜などの埋れ木が出ると地元の人は言っています。
木津を中心とするこの附近が昔、杉などの大森林であったことが考えられ、木津の地名も木の国の紀州と同じように「木の津」と称せられたものかとも思われます。
(原話 井上正一)
おこうの村の分村
ずっと昔、浜詰海岸から、葛野にかけての海岸ぞいの地域に、おこうの村があったといいます。ところが、西北風のたびに海岸に打ち寄せる砂を吹き飛ばし、田圃も屋敷も砂で埋められて居住できなくなりました。
そこで葛野・鹿野・俵野・溝野・上野の五つの小村はそれぞれ集団分村することになり、鹿野、葛野は熊野郡側へ、その他の三か村は竹野郡側へ、それぞれ山裏の風のやさしい土地を選んで分村いたしました。
分村の年代は記録によると、上野村は三百年前、俵野村は二百五十年前と、おおよその時代はわかっているが、その他の村の移転年代は不明です。
分村のとき、氏神の岩船神社は葛野付きとなり、薬王寺覚性院は上野村の管理となったようです。また仏の年忌供養のとき、道端などに建てられた地蔵尊像、五輪塔などは一か所に集められて、そこを地蔵山といい
之は俵野村が管理して今日に至っています。
地蔵山の祭りは毎年八月二十三日に行われるが、江戸時代より明治初期ころまでは、元村だった五か村の人々が参詣し、相撲など盛大に行われたそうです。
なおこの地の名称を、熊野郡では「おんごの」とも言います。 (原話 井上正一).
「おこうの村」といつもり長者
網野町の浜詰から、久美浜町と葛野部落にかけての海岸砂丘地帯を、往古には「おこうの村」と称した。そして家が千軒もあって栄えていたとの伝承があります。
この村に「いつもり」という長者がありました。この人はもと伊賀の上野の出身で 裕福な家であり、深く観世音を尊信していたそうです。
ある年 屋敷に植えた杉苗が、僅かの期間に大木に成長して この不思議なできごとに長者は驚きましたが、前代未聞のできごとだとで、遠近の人々が毎日見物にやって来たといいます。
そこで長者は念のため、占師にうらなわせましたところ
「これは、み仏の因縁じゃ、この木を伐って観音の像を刻んで祀れとのお教示があった」と言う。そこで長者は仏師に依頼し、この木を伐って観音像を刻ませました。
三体の御像が出来上りましたので、一体は大和の長谷寺に、一体は但馬の湯島(今の城崎)の温泉寺に寄進し、一体は、わが家に祀っていたのです。
その後、ある年、長者は国主の意に逆う事件に関係したため、その地に住めなくなり、観音の尊像を背負って霊地を廻国し、ついに丹後のこの浜に留りました。おこうのの地に、住居をつくり、別に一寺を建立して観音の像を祀ったのであります。
ところが、たった一人の娘の頭に二本の角らしいものが生えるという奇病にかかり、それがだんだん延びてゆきます。長者は医師にも見せ、充分な手当てをしたが効なく、この上は神仏にたよるよりほかないと考え、村の氏神であった岩船の神に毎日日参して祈願しました。
ある夜、岩船の神が、長者の夢枕にあらわれ
「その方の善根と熱巨な願いにより、その願いは聞きとどけたいと思うが、わしの力では一本しか落すことができない。残りの一本は観世音に頼め」と告げられた。
長者はたいへん喜こび、それからは伊賀より移して祀った観音堂に娘を日参させましたところ、ちょうど百日の満願の日の帰りに、途中で最後の一本もころりと落ちました。
村の衆は、その角の落ちた所を、娘の名をとって「さいが鼻」と言うようになりました。娘の名を「おさい」と言ったようです。
さてこの霊験あらたかな観音堂は、上野岡の天王の地の薬王寺境内に祀られていたのですが、強い西風のたびに海岸の飛砂が境内を埋めるので、慶安四年(一六五一)に、現地に移され、寺名も真言宗、薬王寺覚性院と号していました。
その後、明治五年(一八七二)無檀家の故にて廃寺になるところ、久美浜町大向の迎接寺内から中性院を移したことにして、今日では寺名も改め、真言宗中性院となっています。
(原話 俵野 井上正一)
『ふるさとのむかしむかし』
橘の伝来と木津
但馬の国司、田道間守という人が、垂仁天皇の命をうけ、常世国へ、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めに出かけたということは「日本書記」の垂仁天皇九十年に記されています。
香菓というのは橘のことでミカンの原種である。また常世国とは、南支那方面であろうとの説もあります。
田道間守が、十か年もかかって香菓を持ち帰ったのは今の浜詰の海岸で、函石浜に近い清水岩あたりだと言い伝えています。
この浜に上陸したから、陸路を木津圧地内の女布(めふ)谷の田神山に神籬(ひもろぎ)を設けられ、無事帰国の神恩にたいしお礼の祭典をあげられました。田道間守はそれより日和田を越えて、熊野郡を横断し、川上村須田で休まれ、それより峠を起して自領の但馬国へ向われたといいます。
祭典をあげられた田神山には村人がその後豊宇気の神を祭祀しましたが、これが現在の式内売布(めふ)神社の創建であります。
本土に初めて橘が到来した土地であるのでこの地を「タチバナ」と言い 後に橘を音便で読んで「キツ」と言い、「木津」と書くようになったのだそうです。
(原話 井上正一)
『ふるさとのむかしむかし』
丹後の丹池(あかいけ)の話
むかし大阪の鴻池に年ごろの美しい娘さんがあった。嫁のもらいては多かったが、娘が行くと言わんので、両親は困っていたそうだ。それで両親が、
「そんならどうするだいや」言うと、
「わたしの好きなようにさしておくれ」と言って親の言うことを聞かなんだ。
そうしたら、ある時、丹後から嫁のもちいてが来た。それが、どえらい男まえ(美男子)の人が貰いに行っただって。娘さんはその男にひかれたのか
「丹後へならお嫁に行く」と言いだした。
両親も娘の言いなりにさせようと思われて、立派な駕籠(かご)に乗せ、供人もつけて、丹後まで送らせたそうな。
はるばる丹後までやって来て、ちょうど、竹野郡から熊野郡への郡界となっている桜尾峠までやって来ました。かごを降ろして一同がひと休みしていた時、娘さんはかごから出られて、小用にでも立たれたのかと思っていたが、いっこうに戻られない。それから大さわぎになり、山から谷へとさがしたが見付からない。ちょうど谷の底が大きな池になっていて村人が「かった池」といっている池まで降りて、
「お嬢さあーん。お嬢さあーん」と何回呼んでも返事がない。
すると湖上に、男と、女が泳ぎまわっている姿が見られた。あっと驚く間もなくその姿が消えたので、
「お嬢さん……もう一度姿を見せて下さーい」 と呼ぶと、大蛇が湖上にかま首をもたげて、こちらをにらんでいるかと見るまに、これも水中深くはいってしまった。
一同はお嬢さんは水中に入って大蛇となられたであろうとあきらめて しかたなく、駕籠を置いて供人たちは帰っちまっただそうな。
その後、この湖には大蛇が居るといううわさが高くなり、村の人々もこの大蛇になやまれることが多くなった。
そのころ近くの木津村のうち有田という小部落に、三五郎という剛の男があって、
「おれが、そいつを退治してやる」と言っていた。
三五郎はある日、氏神の加茂の神に祈願してから「かった池」まで行き、裸になると、短刀を口にして ざぶんと水中深くもぐっていった。あちこちさがし廻ったが、大蛇らしいものは見つからない。ただ湖の底に大きな木の株が沈んでいたので、もしやと思って、ふたたびもぐり、その株を短刀でさんざん刺した。すると大蛇は水面に姿をあらわしたので、三五郎はこれとたたかって、ついに退治してしまった。
そのためにこの湖の水はまつ赤になり、いつまでも赤い水のままだったので、誰言うとなく「あか池」といい、「丹池」とも書かれるようになり、それがだんだん有名になり、ついに国名を「丹波」と名づけられたということです。
附記 この話は多くの人から聞いたものを一本に直した。人によって僅かずつ差があったのでこんな形にまとめました。
(木津 井上正一).
丹池(あかいけ)と底が通じている六池
さて 「但馬の妙見さん」と言えば、知らぬ人のないほど有名であるが、この神社の社名は、正しく言うと名草神社で ここは海抜七一〇メートルであるが、この山の頂上は、もっと高く、標高一、二○○メートルあり、この山の名も「妙見山」と称せられているという。
この神社のすこし下の方に、池というほどでないが、小さな水溜りがある。この池のそばに立札があって、この池にまつわる伝承が記されている。
この池は、往古はもっと大きかったようで 参詣者が池水で禊(みそぎ)でもしたのかも知れないが、決して池の中へはいってはいけないといわれていました。もしこの禁をおかして池中へ入ると、それが最後で、池底深く沈んでしまって、ふたたび上がってくることはできないといわれ、あるいは底無しの沼かも知れない。この池にまつわる伝承は丹後木津の俵野、勝田池と同じで、大阪鴻池の娘が池に入って大蛇となったという。そして、
「もし私に逢いたければ、丹後の丹池(あかいけ)へ来てくれ」と言った。
以上のような立札が立っていた。とは網野の中川三治先生のお話であった。
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つぎに、弥栄町井辺部落には、むかし大きな池があって、この池の周辺に村があったので 井の辺村というようになった。この池は木津の俵野の丹池と底が通じているのだと、の伝承がある由、地元の人から聞きましたが、木津にもそんな言い伝えがありますか、と、和田野の芦田行雄さんから電話があった。
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むかし網野の溝の奥に「ひょうたん湖」という池がありました。この池の底は俵野の丹池と底がつづいていて、池の主が、いつでも往き来しているのだと言い伝えていました。
今この池はすっかり埋めたてられて、住宅地帯となり、桃山区の一部と改められ、昔の面影はありません。
(網野の一老人記)
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熊野郡海士部落にも「あか池」がある。むかし朱壷を洗ったため、池の水が赤くなったという説と、坂井の赤井城主が管理していたので「赤井の池」と言ったとの二説があり、そのほか六部さんの息子の孝養談も伝えられている。
とにかくこの池は、俵野の「あか池」と底がつづいている。ある人が、俵野の「あか池」に棒を投げたら、数日後に海士のこの池に浮いてあがったなどといわれている。
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網野町の字郷部落人家より上流の川(福田川の上流)に「牛洗い場」という底知れぬ淵があった。村の百姓が、ここで牛を洗っていて、あやまって牛を深みにすべらしてしまって
そのままついに、浮きあがらず、助けることができなかった。ところが数日後、この牛が、俵野の「あか池」に死んで浮きあがっていた。この川は、現在は改修されて淵はなくなっている。 (原話
郷 後藤宇右衛門談)
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豊岡の旧市街のあたりを流れる円山川に、「愛宕さんの淵」があった。円山川の水が渦をまいていたので ここを通る川舟がよくこのふちに呑まれたことがある。このふちもまた丹後の俵野の「あか池」と底が続いているとの言い伝えがあった。但し先年行われた河川改修工事によってこの淵はなくなっている。と豊岡の地元の人より聞いた。 (木津 井上正一)
加茂神社の境内には何社か境内社があるが、どれが養父神社か不明。
『ふるさとのむかしむかし』
養父大明神の化身
日和田の部落は、山の中の谷なので、獣がよく作物をあらわしました。この獣たちを封じるために、村人たちが相談し、但馬から獣の神様を迎えることにしました。
その神様は兵庫県養父郡養父村に祭洞されている養父神社であります。
日和田のこのお宮は、氏神の威徳神社とは別の山にあって 祭神は養父大明神ですが、なぜか大川神社とも言われています。祭当日は毎年陽暦八月二十五日でありました。
この神の化身は、大きなカメで、作物をあらす獣を食べる神様だといいます。
むかしは参拝者が多く、遠く、熊野郡・竹野郡・中郡のほか、但馬方面からも参拝され、帰りには境内の熊笹を折って持帰り、獣の被害の多い所へ立てたものだそうです。
日和田での例祭にはその祭事に弓・槍・鉄砲など用いて盛大に行われたそうですが、今は住民が離村し、お宮も字木津の加茂神社境内に移されています。
(原話 出ロ和久・高尾道幸・沖野浩一)
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