丹後の伝説:43集
天橋立の伝説、他

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天橋立伝説 橋立小女郎 岩見重太郎仇討ちの場

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  天橋立の伝説 (宮津市)



『丹後国風土記』逸文(古典文学大系本の訳)
天椅立
丹後の国の風土記に曰はく、與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間に久志と云へり。此より東の海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。

中央の文人から見た天橋立観は数多く残されているが、地元から見た天橋立観がない。地元の史家が書いた物でもたいていは中央史観である。その方がカッコがよくて賢そうに見えるのかも知れないが、おそらく中央に都合の良いことしか見えてはこないと思われるのである。
地名から考えれば「久志備(くしび)の浜」とか「久志(くし)の浜」、「阿蘇(あそ)の海」「與謝(よさ)の海」が古い地名と思われる。久志は波路(はじ)とも同じで宮津湾の一番奥・南側を広く久志の浜とか久志備の浜と呼んだのではなかろうか。久志備はクシフルであろうから、アソ、ヨサのソやサはソフルのソであろうかと思われる。惣、皆原、吉原、獅子などはそうした遺称ではなかろうか。


『京都丹波・丹後の伝説』
天の掛け橋 宮津市文珠・府中
 日本三景の一つ・天橋立。海を二分し、宮津市文珠と府中を結ぶ、長さ約三・六キロの“白砂青松“の砂州。
 古代の人々は、天橋立が宮津湾(与謝の海)の潮流によって、砂が一ところに集められてできあがったなどとは考えもつかず「きっと神様が天と地を昇り降りするのにつけられた橋の一部だろう」−−と考えたのも、天橋立の美しさを知る人なら納得できるだろう。この「天の掛け橋」の伝説はその素朴で陽気な古代人の心を余すところなくいまに伝えている。
 遠い神代の昔、日本の国をつくりに高天原から伊邪那岐命が伊邪那美命とやってきて、ホコで天の浮き橋の上から下界のドロをかきまぜ、そのホコを引きあげると、その先からしずくが落ち、固まっていまの日本の国ができあがった。
 この光景をみていた高天原の神々は、美しい国ができたと大喜びで「みごとな美しい国だ。ぜひとも行ってみたい」と下界の日本の国をみつめていると、ある神様が「降りて行きたいけれど道がない。一つ天御中主神さまにたのんでみよう」と、みんなでたのみにいった。すると、天御中主神は「つくってあげるけれど、本当に必要なときだけ、私ら神だけが使う橋だよ。むちゃくちゃに使うとたちまちこわれてしまうよ」といって、日本の国へ通じる橋をおつけになった。
 神々はまたまた大喜び。次から次へと、下界の日本の国をめざして橋を降りていった。着いたところがいまの宮津市日置といわれている。この日置のあたりにはきれいな娘さんがたくさんおり、天からゾロゾロ降りてくる神々を見て「神様たちがきて下さった」と感激。神々もきれいな娘たちを見てニッコリ。すぐ娘たちと仲よしになりいろいろな話をして楽しんでいた。
 すると娘たちは天につきぬける橋を見あげて「私たちも一度高天原へ行きたいわ。ぜひつれていって」−−とせがみ出し、神々は大弱り。ことわってもあまりしつこくせがむので神々はしかたなく「そんならないしょで連れていってあげよう。だけど絶対声をたててはだめだよ」と娘たちを連れて橋を昇っていった。長くて高い橋を昇っていくにしたがって下界が眼下に広がり、言葉ではいい尽くせない美しさ。娘たちはおもわず「ワァきれい」と、感嘆のウズ。神々はもう真っ青。そのうちにガラガラッと大音響とともに橋がくずれはじめ、娘たちは放り出されて散りぢり。もうあの天への掛け橋の姿はなく、その一部が日置の近くに浮いているだけ。その後、人々は天の掛け橋の一部を「天橋立」と呼ぶようになったという。

天橋立



   橋立小女郎



『郷土と美術82』(1984)小女郎の松(切り株しかない)
丹後の海の伝説  井上正一

天橋立の小女郎狐
 丹後半島の東のつけ根にある天橋立は、宮津湾の潮の流れがつくりあげた砂の造型、海を二分して約三・六キロに及ぶ白砂青松の絶景は、古くから数多くの神話や伝説の舞台となり、日本三景のひとつに指定されて現在にいたっている。
 ここには「天橋立の小女郎狐の伝説があるが、美しい橋立にはタヌキでもイタチでもなく、やはりキツネがいちばん似あうようである。
 橋立の北の先端の溝尻村に住む農夫が、小舟いっぱい大根を積んで暮秋の橋立近くを通ると、橋立の古松の間に美しい娘が立っている。「もしもし船頭さん。日も暮れてきたのに家に帰りつけずに困っています。どうか舟に乗せて向う岸までつれていってください。」
 男は、「これは、きっとうわさに高いいたずらものの小女郎狐めにちがいないぞ。」と思い、舟に乗せるや荒縄でしばりあげ、家に帰って女房に「今夜は狐汁を喰わせるぞ。」と言って、青松葉をドンドン焚かせると、その火の中にしばった娘をどさっと投げこんだ。
 するとそばで見ていた女房が「あんたなんてことをするんだね、せっかくとってきた大根をもやしちまうなんて」
 よく見るとそれは娘に化けたキツネでなくて、舟につんで帰った大根が黒コゲになっている。小女郎狐はというと、舟が浜についたとき、うまく逃げだしたのである。
 これは小女郎狐の後日談・成相寺の文海というかしこい小僧さんが、村人をだまして困るという小女郎狐の「狐の玉」を取りあげれば、もう悪さはしないだろうと考えた。
 策を講じて橋立を通るたびに好物の油揚を一枚ずつおいてきて、狐が気をゆるしてでてくると、「お前が有名な小女郎狐かい? お願いだからひとめ狐の玉を見せておくれよ。」とたのみこんだ。狐が、いつもの油揚のお礼にと穴の奥から玉を出してくると、こんどは「二、三日で絶対返すから」といってムリヤリ取りあげてしまった。
 あとで、だまされたと知った狐が文海の留守中に文海の父親に化け、和尚さんをだまし狐の玉を取りもどすが、文海はまた別の方法で狐から玉を取りあげる。
 結局智恵くらべで文海にかなわないと思った小女郎狐は狐の玉を失って、すごすごとどこぞの山奥へいってしまったということである。


『丹後の民話』(萬年社・関西電力・昭56)
小女郎の松(切り株のみ)
橋立小女郎
日本三景のひとつ、天の橋立に住んでいたそうな…
 むかし、橋立に一匹の狐が住みついており、女の姿に化けては、そこを通る人や、舟で仕事をしている人たちを、毎日のように、たぶらかしておった。
 女にしか化けないということから、人々はその狐を、橋立小女郎と呼び、
「橋立で声かける女衆がいたら、それは、きっと橋立小女郎だで、化かされるな」
と、いつもいいあっていたが、小女郎の方が一枚上手なのか、あいかわらずだまされては、みんなが腹をたてておった。その悪さも、だんだん、だんだん、ひどくなってきたので、成相寺の下の方に住む若者が、何とかこらしめてやろう…と考えた。
 ある夕暮れ、その若者は、狐の大好物の油揚げを持って橋立へ行った。そして、明神さんのあたりまで来た時、案の上、ひとりの娘が声をかけてきた。若者は、
「お前は、小女郎だろう。化かされる前に、この油揚げをやる」
といって、松の根っこのところへ置いてやった。小女郎は、何かたくらんでるなと、若者をにらんでおった。
「な、小女郎、わしをずうっと化かさんと約束できるなら、その油揚げを、むこう十日間、毎日持って来てやるが、どうだ」
小女郎は、油揚げ十枚という、その言葉にぱっと狐の姿に戻り、
「約束する。油揚げ十枚だな。きっとだな」
といって、油揚げをくわえて素早くかくれてしまった。
 あくる日から、若者は約束通り、毎日毎日油揚げを橋立明神のそばまで運んでやった。
 そして五日目になると、そのうまさが待ち遠しいのか、明神さんの前で小女郎が待つほどになり、若者への警戒心もなくなっておった。
 そして、十日目。最後の一枚を持って来た時に、若者が聞いた。
「な、お前は化けるのが、本当にうまいが、どうして化けるんじゃ」
小女郎は、油揚げを食いながら、ちょっと考えていた。食いおわると、
「目をつぶっとれ」
そういうて、どこから出したのかきれいな玉を見せてくれた。
若者は、これが噂に聞く狐の玉かと思ったが、
「この、きれいな玉は、何だ」
と聞いた。狐は、
「これは明神さまからもらった玉じゃ。これ持っておるから、人間に化けられるんじゃ」そういうた。
まってましたとばかり、若者がいうた。
「な、小女郎、その玉を一日でええから、貸してくれ。そうだな…、そのかわり、約束の油揚げはもうしめえだが、ん、明日、いっぺんに三枚もって来たるで」
小女郎は、明日から、もうもらえんと思っていた大好物を、三枚もいっぺんにもらえる嬉しさのあまり、
「一日だけだぞ。きっと。油揚げ三枚だぞ」といって、玉をひっこめた。
 あくる朝、約束通り油揚げ三枚と狐の玉は交換された。若者は家へ飛んで帰り、その玉を、わからないように隠した。
 そして、二日目の朝がすぎ昼になった。小女郎は若者が返しに来んのでおかしいと思いはじめ、夕方になって、はじめてだまされたと気ずいた。何としても取り返さればと思ったが、玉がないから化けられん。そこで人が寝しずまる夜中をまって村へ行き、若者の家をさがして、その天井にひそんでおった。
 次の朝、若者が出かけると、小女郎は家の中をひっかきまわして、そして、やっと玉を取り戻した。帰ってきた若者は、玉が取り返されたと知ると、「しゃあねえ、こうなりゃ、あの手だ…」とつぶやいて、近くの神社へ走り、神主さんに訳をいって、神主さんの衣裳と御幣を借りた。それをかかえて橋立まで行き、木の陰で神主さんの衣裳をつけ、顔は目だけをだして白い布でつつみ、ゆっくりと松並木のあいだを歩いていった。そして、明神さんの前で立ちどまり、おごそかな口調で、「小女郎、おるなら、出ませい」といった。小女郎は、何ごとかと思って、そばの穴から、ぬうっと顔を出した。とたんに、「頭が高い」と御幣で頭をひと打ちされた。びっくりして穴にひっこんだ小女郎に、
「そのほうに授けた大切な玉を、人間に貸すとは不届千万。今かぎり玉を取りあげる。玉を差し出せ」と強い口調でいった。小女郎は、明神さまだと信じて疑わず、穴の中から手だけが、そおっと出て玉を置いた。若者は、おもむろに玉をふところに入れて、又、ゆっくりと帰っていった。
 それ以来、橋立で狐に化かされたという話は、もう聞かんようになった。(俵野・井上正一様より)
↓どこかこのあたりに橋立小女郎が棲むという。枯れてなしの小女郎松の切り株。
小女郎狐が棲むあたり

『丹後のきゃあ餅1』(1993・北絛喜八)(カットも)
…そのヒロイソの名は、『橋立小女郎』『こじょろう』ではなく『こじょろ』である。
 宮津の町で切り込み牛肉を買って、お人よしの平助おやじが帰りを急ぐ。濃松を過ぎるあたりで、可愛らしい娘さんが歩き疲れて、松の根元に腰を下ろして休んでいるのを見かけて、平助おやじが声をかけた。
「おお、可愛らしいお嬢さん、足でも痛むかえ?」
「あい、足も痛みますが、それより、腹が空いて、ひもじゅうて一足も進みませぬ」
「おお、それは可哀そうに」
 平助おやじは、途中で食おうと思っていた稲荷ずしを食べさせて、その上、娘さんを背負って江尻の村近くまで送ってやった。今日はええことしたわいと家へ帰ってみると、こわいかに、背中の牛肉が一片も残っていなかった。『こじょろ』にやられた!と思っても、もう後の祭だ。
 江尻の漁師のおかみさんが、一荷かついで宮津の町へ魚売りに行く。橋立の中途で上品な奥様に呼び止められる。
「まあー、このお魚はまだ生きてるのねえ。この大きな鯛を売って頂戴な、えー、そんなにお安いのー、お気の毒ねえ、おつりは要らないわよ」家へ帰って縞の財布の中味を見たら、落葉がごっそりと入っていた。
 『橋立小女郎』とは、劫を経た女狐のことである。彼女には、好きな男狐が、須津にも男山にも日置にもあって、積極的に彼女のほうから押しかけた。可愛らしい娘に化けるのが得意で、文珠の渡し守りのじいさんを騙すくらいは朝飯前、
「おじいさん有難う、ほんなら渡し賃はここに置くで」
と去ったあとで見ると椿の葉である。
 須津の倉梯山に棲む彼氏の所へ行くときは、浅利掘りの漁師を岸から呼ぶ。お色けたっぷりのいい女に化けて、身体をすり寄せながら流し目で見上げるように甘たれ声で頼む。
「須津の母親が、明日も知れぬ重病で、見舞いに行ってやりたいんですの、送って下さいね」大ていの漁師は、これでころりと参ってしまう。鼻の下の長い奴になると、ご丁寧にも彼女が、彼氏とよろしく楽しむ間を待ってやって、再び送り帰してやる。運がよければ往復の舟の上で、おこぼれにあずかるかも知れぬと、にやにやして待っている顔に、とんびが小便をかける。橋立小女郎
 村の役場の偉いさんや、村会議員さんは、何のかのと理由をつけては、宮津の新浜でタダ酒をしこたま飲んで帰ってくる。浜風が肌に心地よい。濃松を過ぎたあたりで、この辺では見たこともない妙齢の美女を見つけて、女には格別親切な彼は早速声をかけた。
「そこの美しい奥さんえ、何じゃら困ったげな様子だが何かいのう」
「有難う存じます。京都から橋立見物に来た者ですが、連れにはぐれて心細くて困ってるんですのよ。成相寺へはどう行けばいいんでしょうか?」
「それはお若いのにご信心深いことで感心ですのう。よろしい!まだ日も高いので、わしが成相山のふもとまで案内してあげよう」
「助かりましたわ。何もお礼の用意してませんけど、ご免なさいね」
 こないな所で美女に出会うなんて、もしや『橋立小女郎』かも知れんぞ、化かされんようにせなあかんぞ、と注意して見れば見る程、その女の艶っぽいこと。それに、こんな昼日中、いくら何でも出るはずがないと思い直して、美女と肩を並べながら千貫松、夫婦松と説明しながら行く。もとより助平心の旺盛な彼のこと、機会を狙って女を誘う。
「少し歩き疲れたでしょう。ここらで休んでゆきませんか。あそこの松の蔭なら誰にも見えませんよ!」彼女は、何の疑いも持たずについてくる。
松の根方に並んで腰を下ろすと、彼女が耳元でささやく。
「今晩はふもとの宿で泊まるのよ。お礼に一献差し上げたいわあ」
今晩せいわず、今この場でいただきたいとばかりに、彼女の肩をぐいっと抱く。くにゃりと、腕にしなだれる身体を抱きながら、こんな弁天さまを抱けるなんて、何と今日はついとるわいとばかり、おっかなびっくりで腰のあたりに手をまわしてもぞもぞやる……
 そこへ村の若い衆が二人、自転車で通りかかった。
「おい、武やん、あれ見てみいや、ありやあ村会議員の助平旦那じゃなかろうかな、うんうんうなって何しとるんじゃろ、腹でも痛いんじゃろか?」
 二人が近よってみると、助平旦那は、大きな松の木を抱いて、肌皮をなでながら、夢見心地の顔で何やらぶつぶつ言っている。そして周りには、手土産の折詰めが食い散らされていた。

狐にされているが、これは太古の橋立の神様かと思われる。橋立明神(磯清水)のすぐ北側に「小女郎の松」(切り株だけ)がある。美しい娘の姿をなさっている、女神様のようである。性格は和泉式部のような与謝野晶子のような、古代的というのか未来的というのか超情熱的女性、橋立は、橋立明神は、磯清水は、こんな女神様を祀る世界なのだろうか。須津の倉橋山にも男山にも成相山にも日置にも男神がいたようである。

橋立明神と磯清水



 岩見重太郎の千人斬り

岩見重太郎仇討ちの場の碑
小女郎狐の住処といわれる同じ濃松に「岩見重太郎試し切りの石」やロータリークラブの建てた右のような碑がある。

剣豪 岩見重太郎
 岩見重太郎は、講談などで有名な伝説上の剣豪で、江戸時代の初めごろに活躍したと伝えられる。
 重太郎は、父の仇の広瀬軍蔵・鳴尾権蔵・大川八左衛門を追って宮津にやってきたが、仇の三人は藩主京極家にかくまわれていた。
やがて藩主の許可を得て、ここ天橋立の濃松の地で、三人を討ち取り本懐を遂げたという。
また重太郎には、毎夜、天橋立で通行人を襲っていた元伊勢籠神社の狛犬の足首を切りその通行を止めたという伝説も残されている。

岩見重太郎の仇討ち図(碑より)
『世界大百科事典』によれば、
「?‐1615(元和1)。安土桃山時代から江戸前期にかけて活躍した武芸者。剣の達人として名高く豊臣秀吉につかえたが、1615年の大坂夏の陣においては伊達政宗の家臣片倉重綱の軍勢と戦って河内の道明寺で討死したという。
諸国を巡歴して、天橋立で仇討の助太刀をした話、信州松本在吉田村で甲羅を経た狒々をひとりで退治してみせた話、河内国丹南郡損城山の山中で山賊退治をした話などが真偽とりまぜて多くの講釈・草双紙・立川文庫・大衆演劇の紹介するところとなりヒーロー化されている。秀吉につかえてから薄田隼人と称したとする説もあるが確かではない」などと書かれている。いろいろ活躍譚は語り継がれていて何がどこが本体で本当か、何が尾鰭なのかわからないが、私の子供の頃の子供向けの絵本には彼の話もあった、ヒヒ退治のカッコのよい絵が描かれていて、ボクも剣豪になるんだと考えた記憶がある、映画にもなったというが、今は誰も知る人もないのではなかろうか。本当にここで仇討ちがあったのかどうかもわからないし、地元の正統派文献にも、マンガ派にもほとんどぜんぜん書かれてはいない。


籠神社の狛犬
籠神社の狛犬の足は彼が斬ったそうで、それ以後は動き回らなくなったともいう。
次の案内が立てられていた。
←この狛犬は、確か以前は右前足に鉄の副木が着けられていたと記憶するのだが(?)、今はそれはないが屋根が付けられた。
両方の狛犬とも斬られた跡はない。(伝説だから当然か)。

重文狛犬 阿吽一対 伝鎌倉時代作
籠神社の駒板の案内板
伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中不意に天橋立の松林に出現して、元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。偶々親の仇討ちにひそんでいた岩見重太郎が之れを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。以来社前に還座して専ら魔除けの霊験が聞こえたと伝えられる。
他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作と云われる。

全国的に有名な話であるし、橋立観光の目玉の一つであろう。
『丹後路の史蹟めぐり』には、
濃松の附近は、寛永九年(一六三二)九月二○日、岩見重太郎が宮津藩にかくれていた父の仇広瀬軍蔵、鳴尾権蔵、大川八右衛門の三人を討ち果して本懐をとげた所と伝える。岩見重太郎は豊臣家の家臣薄田隼人兼相だというが、兼相はすでに元和元年(一六一五)大阪夏の陣で討死しているので年代があわない。

、『丹後のきゃあ餅1』には、

……即席講談おそまつの一席……
 慶長十八年(一六一三)秋九月十五日、橋立明神の広場は、付近の村々からあっまった見物人が押すな押すなの大盛況でございます。
 塵ひとつなく掃き清められた竹矢来の前には、双方の検分役が騎射笠に威儀を正して、合図の大太鼓を打ちならさむものと撥を構えております。
 岩見重太郎この日のいでたちは、黒木綿の小袖・裾袴にわらじばき、髪は大きく束ねて白鉢巻をきりりとしめ、鹿皮鞣の襷をかけて、亡父重左衛門愛用の三傑小鍛治宗近の大刀をひっさげて竹矢来の中央に進み出ました。
 左手からは、広瀬軍大夫を車にして、鳴尾権造は右に、大川七左衛門は左に半円を画いて前に立ちはだかる。
「やあやあ、我こそは岩見重左術門が息、岩見重太郎なり。故なくして汝等に打ち果たされし亡父の仇、今日こそ橋立明神の神前にて美事にはらさむと存ずる。いざ、尋常に勝負!勝負!」
「何を申すか。我等は武門の意地で討ち果したまでのこと。仇討ち呼ばわりは片腹痛い。いで、返り討ちにせむ」
 双方名乗りをあげて、じりじりと間合いをつめる。森羅万象その動きを止め、聞こゆるものとては松間をわたる風の音と、磯辺を走る浜千鳥の声……
 ぽーん!ぽーん!(張り扇の音)
 ふと気がつけば、いつの間に潜んでいたものか、かなたこなたの松の根かたに広瀬軍大夫の門弟数百人、先生危うしと見れば飛び出さむものと息をひそめております。それを、知ってか知らずか重太郎は得意の八双の構えで微動だも致しません。……
 門弟の一人が、その背中に種ガ島の狙いを定めていた……あぶないっ!
「何をいたすか!邪魔だて許さんぞ!」
 大声あげて飛び出したのが、これぞ、天下に名だたる大豪傑、塙団右衛門橘直之。
 あわてて引金を引くと轟然一発。
これを合図に、天下の大仇討の幕が切って落とされたのでございます。
 重太郎は、飛燕のごとく先ず大川七左衛門を袈裟がけに、返す刀で鳴尾権造を片手横なぎに目にも止まらぬ腕の冴え!「あっ」と驚く広瀬軍大夫が、思わずのぞけるその脳天目がけて真向空竹割り!血しぶきあびた重太郎は大声あげて高々と、
「天地の神々ご照覧あれ、岩見重太郎亡父積年の怨みここに討ち取ったり!」
 取り巻く大群衆は大喜びで、やんや、やんやの大かっさいとなったのでございます。
「おのれ、先生の仇、逃がしてなるものか」
と、衆をたのんで打ちかかる広瀬の門弟数百人、にっこり笑った重太郎は、振りかかる火の粉は払わずばなるまいと、ここやかしこに、ばったばったと当るを幸いなぎ倒します。
「義によりて助勢致す」
と塙団右衛門これまた、百貫の大鉄棒を頭上にぶんぶんと振り廻し、一打ちに数十人を倒す勇ましさ、ここに、後世有名なる天橋立千人斬りの大絵巻が展開されたのであります。
ぽーん!ぽーん!(張り扇)
要約すればこんな調子で、講談の世界に、その飯の種となったのである。

岩見重太郎試し切りの石「岩見重太郎試し切りの石」がある。『丹後の宮津』は、
ちかごろ、この「涙ケ磯」も荒れはて、土地の人さえ見むきもしなくなったが、むかしは隔夜灯の燈火をそなえて供養としたほどで、他に享保四年の隔夜灯一基もあったが、石柱が斜に折れて棄てられたのを、後に「天橋立」の濃松へはこび「剣豪岩見重太郎試し切りの石」としてしまった、大正八年のことである。
としている。元は泪が磯にあった隔夜灯である。コケを剥がしてさがせば、たぶん「享保四年」の年号が刻まれていよう、ニセモノとすぐわかろうから、種明かしを書いておく。一円玉が見られるが、これは斬り跡(?。割れ跡)に一円玉を乗せると何時までも一緒にいられるというおまじないになるのだそう。










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