古代の土器製塩(若狭・丹後)
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 藻塩焼き日本には岩塩がないので、塩は海水から採るより方法はない。 最も簡単な方法は、海草(玉藻・ホンダワラがよく使われた)が浜に流れ着いているのを採ってきて乾燥させておいて、それを焼けば塩が取れる。 百人一首にもある、 「来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くやもしほの 身もこがれつつ」(「新古今和歌集」藤原定家) これは海草の灰まじりの塩で、色も黒っぽい。当時、家庭の炊飯用に使うならこれでいいのだろうが、もうチイと不純物のない上質な塩が大量に欲しいの需要が高まると、いろいろ工夫が必要となる。 土器製塩全国的には、製塩土器の型式概念図(地域・時代別) (たばこと塩の博物館のHPより) よい物を作ってくださって、感謝感謝。さっそく使わせてもらいます。 これを見てもらえば余計な説明は不要であろうが、付け加えると、 ナゾの 岡山県瀬戸内市牛窓町 これらが古代の製塩土器だと解き明かされたのは昭和29年であった。同様の遺跡は、全国でおそらく1000ヵ所にも及ぶかと見られるが、その後急速に研究が進み、上図のような、全国的な製塩土器の概念図も作られるようになっている。 若狭の土器製塩丹後は上図にみえない、盛んではなかったようではあるがなくはない、若狭の西と接する加佐郡では、若狭の流れになると見られる土器製塩遺跡が見られる。 まずここでは研究の進んでいる若狭の土器製塩を取り上げてみる。 これらは若狭の土器製塩最盛期の遺跡である。 浜禰の浜の反対側、南向きの浜が塩浜で、 若狭湾沿岸の製塩土器の出土分布図 『図説福井県史』より、 若狭湾沿岸の製塩土器の出土分布
これらは若狭の土器製塩の最盛期のもの(古墳時代前期~奈良時代)のものである。7世紀末から9世紀前半ごろの船岡式・傾式の製塩土器を取り上げた。岡津式は船岡式にふくめたが、浜禰ⅡB式など船岡式より古いとみられているものはふくめていない。越前は、船岡式・傾式段階と考えられる平底型と、傾式の製塩土器を取り上げた。『日本土器製塩研究』より作成した。 各種製塩土器 各種製塩土器 (右)浜禰Ⅰ式 古墳時代前期 小浜市堅海遺跡 高さ8.8cm 小浜市教育委員会蔵 (中)浜禰ⅡB式 古墳時代後期 大飯町宮留遺跡 高さ20cm 大飯町教育委員会蔵 (左)船岡式 奈良時代ごろ 小浜市阿納塩浜遺跡 高さ22.3cm 小浜市教育会蔵 土器製塩遺跡は、若狭全域では、51ヵ所、うち大飯郡18ヵ所、遠敷郡(小浜市域28ヵ所)、三方郡15ヵ所の製塩遺跡が確認されている。このうち8世紀の製塩遺跡を特徴づける船岡式土器を含む遺跡が43ヵ所あり、若狭製塩が奈良時代に際立っていることが知られる(その後も遺跡の数は増えている)。 しかしそれで終わるのでなく、その後、平安時代へも続き、支脚のある、 『高浜町誌』によれば、 若狭地方の土器製塩 若狭地方における土器製塩遺跡の分布は、今日では五七個所を数えるに至った。しかも最近では、敦賀、三国、芦原などの越前海岸、舞鶴、丹後半島にも確認されるに至り、日本海沿岸一帯に遺跡が残されている可能性は強い。近年、本町に隣接する舞鶴市においても若狭と同一タイプの製塩土器が大浦半島一帯から発見されてきており、遺跡の数も六個所となっている。
さて、若狭地方の遺跡は海岸線全域に土器の散布がみられるが、現在では民宿の改築、駐車場、護岸工事、開田工事などで消滅したものが多くなっており、遺跡の全容が存するものは極めて稀なものとなっている。そういう意味からも、製塩遺跡の保存は大切な課題であり、昭和五四年(一九七九)には、小浜市岡津製塩遺跡が国の史跡として指定され、小浜市では土地を公有化して史跡公園として日本海側唯一の土器製塩遺跡の史跡として公開する予定となっている。 製塩遺跡は、その殆んどが海に面して点在する現在までの漁村集落と重複していることもひとつの特色であるが、中には、大飯町大島吉見浜遺跡、小浜市田烏傾・大浜遺跡のように、現在では集落の存在しない所にも遺跡が分布する例もある。しかしながら、これらの地には終末期の横穴式石室を有する古墳が築かれており、当時は集落を形成していたことは明白な事実である。恐らく土器製塩の衰退とともに、それらの集落も消滅したものであろう。 若狭地方における土器製塩については、同志社大学により研究が開始され、その後若狭考古学研究会の精力的な研究によりその内容が明らかにされ、全国的にも若狭の土器製塩の研究成果が注目されている。その理由はいろいろあるが、後にとりあげる藤原宮・平城宮跡の木簡との関連が最も注目されることであろう。 土器製塩の移り変わりを示すものとしてモノサシ(編年)を作り、その変遷を知る手だてとしている。モノサシは、その内容を良好に示す遺跡の名前から愛称をつけて呼んでいるもので、今では全国的に通用するまでになった。一連の研究に基づいて作成された編年表によって、次にその移り変わりを紹介していきたい。 (1)浜禰Ⅰ式 古墳時代前期~中期(四世紀末~五世紀初頭)に属するもので、大飯町宮留浜禰遺跡において、同志社大学により発掘調査がなされ、若狭最初の製塩土器として著名である。製塩土器は、瀬戸内海地方や紀州のものに類似した倒杯型の脚部を有するグラス状の器形をもち、その容量は一三〇~三〇〇CCと格差はあるが、総じて小型のものである。炉は粘土敷炉と考えられ、浜禰遺跡では、四・六×三・四メートルの不整円型の平面形の凹レンズ状を呈する粘土敷炉が、砂浜の中に形成されていた。浜禰I式段階の遺跡は、あと小浜市阿納塩浜遺跡だけの二個所に限られている。 (2)浜禰ⅡA式 古墳時代中期(五世紀末~六世紀前半)に属するもので、前述の浜禰遺跡で明らかにされたものである。製塩土器は浜禰I式とは全く異なって、薄手でコツプ型丸底を呈する器形のものが使用された。二ミリメートル内外で極めて薄く、ちょうど玉子のカラを連想させるような薄さで、その容量も三二〇CC程度で、この段階では土器も平均化された容量のものが製作されるようである。製塩炉については、いまひとつ明確にされていない。ただ、小浜市田烏傾遺跡の調査では、小円礫を幾重にも重ねた例が報告されているが、規模や平面形も明らかではない。高浜町においては、この浜禰ⅡA式の段階で土器製塩が開始されるようで、若宮西若宮、若宮西須賀、中津海堀、立石才ケ鼻の四遺跡でこの土器の散布が確認されている。 (3)浜禰ⅡB式 古墳時代後期(六世紀後半~七世紀)に属するもので、どうやら二ないし三に細分化が可能で、その大きな特色は、須恵質の土器という極めて個性の強い土器が製作されている。ⅡB式古は、ⅡA式に似た丸底のコップ型で須恵式、やはり薄手の土器であることが特色である。ⅡB式新は、やや厚手の土器で丸底ながら、大型化しており、その容量も二〇〇〇CCにも及んでいる。製塩炉は、ⅡB式新の段階のものは、長方形の平面形を有する平べったい石を敷きつめた、いわば敷石炉のものが判明しており、この段階で、いよいよ若狭式ともいうべき土器製塩が本格化してくるものと想定している。高浜町内でも、前述のⅡA式の四遺跡などに土器の散布がみられる。 (4)船岡式 大飯町本郷の船岡遺跡を標式遺跡として名付けられた本土器は、若狭の製塩土器の中でも全国的に名高いもので、奈良時代(八世紀)を中心として、土器製塩が最も隆盛した時期のものである。土器は土師質で厚手となり、小型のたらいを思わせる器形を呈し、容量も一万CCに及ぶもの、径二尺(六〇センチメートル)位なものもある。本土器も極めて個性的なもので、土器製作の際の輪積みの痕跡を土器の外面に残していることで、製塩土器に共通することでもあるが、内容は丁寧に整形されている。いわば消耗品としての、一回限りしか使用不可という製塩土器、それも大量生産が要求されたことからかもしれない。 製塩炉は、海岸線に対して直角に長方形の平面形のもので、敷石炉が群をなして構成されるのがこれまで船岡遺跡で明らかにされている。若狭地方に共通することであり、八〇パーセント以上の遺跡が船岡式に属するもので、高浜町においても例外ではなく、ほとんどがこの遺跡である。 (5)傾式 小浜市田烏傾遺跡の調査で明らかにされたもので、五徳のような役割りを果たしたとされる〝支脚〟とよばれる粘土の台が出現する時期でもあり、平安時代ころのものと想定しており、八世紀後半~九世紀代にその年次を求めている。支脚は高さ一〇センチメートル内外で、口径二〇センチメートル内外の半円形を呈し、丸底の土器を乗せる機能を有している。炉は敷石炉であるが、敷石は支脚が間に入るべく、石が粗な並べ方になるのが特色で、小規模なものとなる。 (6)吉見浜式 大飯町大島吉見浜遺跡で明らかにされたもので、同じく支脚を伴うことが本土器の特色で、その高さも一五センチメートルと高くなっていく。土器も口縁部がやや外反する壺形を呈する丸底で、口径は一五センチメートル内外のものである。一〇世紀前半にその年代を想定している。炉も吉見浜遺跡で発見されており、平面形は基本的には長方形である。石材は角礫で大小さまざまなもので、支脚を支えるためのものという感じで、敷石炉とはいえ粗な並べ方となっている。 (7)塩浜式 平安時代、一一世紀まで年次の下る可能性のあることは、伴う土師器や須恵器により明らかで、若狭における土器製塩の終焉を示す土器でもある。遺跡も若狭地方で六個所となり、著しく数が減少する。本町では神野浦遺跡で土器と支脚が検出されている。塩炉式の支脚は二〇センチメートルと細くなり、製塩土器もガラスコップ大の丸底で薄手のものである。炉は不整形のプランで、小さな角礫で粗な敷き石のもので、およそ実用的なものというより、塩作りの祭祀を想定させるようなものである。 (8)まとめ 若狭における土器製塩について述べてきたが、今日の段階では、若狭にとどまらず、舞鶴、敦賀を加えた若狭湾沿岸地方における古代土器製塩を考えざるを得ない所まできていることを感じる。それに加えて、製塩の独立支脚の技術波及を考えた場合、それが若狭から能登まで延長する可能性のあることから、日本海沿岸地方の土器製塩の展開も今後の課題となる。 若狭の土器製塩の開始は、やはり古代史の流れの中でとらえられ、そのことについて石部正志氏は「若狭地方の首長が畿内もしくは吉備地方の首長と直接的な交渉(同盟・連合関係)をもった段階でおそらく若干の製塩技術保持者とともに製塩技術を若狭に導入」したと理解しているが、まさしくこの状況の中で開始されていくものと考えられよう。 若狭式土器製塩の成立については、奈良時代の船岡式というまさしく釜風の土器ともいうべき大型土器の出現と整然と構築される敷石炉にあらわされており、平城宮跡出土の調塩の木簡に人々の苦しみがにじみでている。 支脚の出現という、さらに若狭色の濃厚な土器の出現は、船岡式の土器の大型化、大量生産という方向からややはずれ、特に若狭の土器製塩の最終末の塩浜式に至ると、製塩土器の小型化という現象がみられ、この段階の主流は土器製塩以外の製塩法の導入をうかがわせる。いわば土器以外の釜の出現を考えざるを得ない。 若狭考古学研究会による土器製塩実験の試みの中で、採鹹(かん)工程で藻を使用した場合、藻の色素がにじみでて、茶褐色の塩ができ、不純物の多いものとなることが判明してきた。一見、単純に考えてきた藻による採鹹についても今後考えていく必要を感じている。杉崎章氏による松崎貝塚のいわゆる鹹水溜遺構の発見も貴重な例として、土器製塩遺跡の調査で充分注意しなければならないものと考える。今後のこされている課題としては、前にも述べた日本海沿岸の土器製塩の展開における若狭の位置づけ、さらに製塩土器型式の細分化、生産量の問題等があると考えている。 若狭の塩の記録が見当たらないが、 敦賀(角鹿)の塩は『日本書紀』に見られる。 武烈紀に、 大伴大連、兵を率て自ら將として、(平群眞鳥)大臣の
当時は平群眞鳥が塩をしきっていたのかも知れない、しかしそれは瀬戸内などで、日本海側は彼の権力が及ばなかったものか、混乱期に天皇は日本海側の塩しか入手することができなかったものか。単に敦賀のみでなく、敦賀に集中された越前・若狭湾一帯の塩を指しているものであろうか。若狭湾沿岸の製塩遺跡は約70ヵ所にものぼる。万葉集巻3に、 366 反歌 越の海の 古代の北陸道といってもロクな路ではなかったであろうか。敦賀から海路を行ったのであろう。その船から見えた、塩を焼く煙を見て歌を詠んだのであろう。田結は今もある、金ヶ崎の少し先の砂浜である。これは藻塩焼く煙であろうか。製塩土器は今のところは当地では出土していない。 木簡に見える塩。調としての塩。 藤原宮・平城宮出土の若狭関係の木簡は34例知られるが、このうち御贄に関する3例のほかは、すべて調としての塩に関係するものである。 若狭は志摩・紀伊・淡路とともに天皇に御贄を貢進する国に指定されている(延喜式)、木簡に現れる御贄は、いずれも遠敷郡青郷(高浜町)からのもので、多比(鯛)の鮓、伊和志(鰯)の腊、胎(貽)貝であり、魚介類であった。御贄と関係して、若狭には宮内省大膳職に所属する漁民江人の一部がいたようである(天平勝宝8年5月22日付「勅」東大寺要録)。 調としての塩は、遠敷郡では小丹生・玉置・野・三家・佐文・木津・青の七郷(里)、三方郡では能登・弥美・竹田・余戸の四郷(里)から納められている。このなかには、遠敷郡の玉置・野(若狭町)、三方郡の能登(若狭町)・弥美(美浜町)など直接製塩にかかわりのない地が含まれることが注意されている。 製塩の労働力として奴婢がいたかも… 丹後の製塩遺跡『浦入遺跡群発掘調査報告』(2002。舞鶴市教委)よりこれによれば、丹後でも22ヵ所の土器製塩遺跡が知られている。 ほとんどが若狭に接する大浦半島に集中し、若狭より約2、300年遅れて土器製塩が行われている。発掘調査されている遺跡は少ない。 「広報まいづる」(99.03.31) 舞鶴の製塩遺跡
大浦半島に12ケ所 平安時代に「堅塩」づくり 商品としての塩の生産地は地域が限定され、奈良時代から平安時代にかけての生産地となると玄界灘沿岸、紀伊北部、若狭湾など十地域です。若狭国(現在の福井県嶺南地方)は、奈良時代、都であった平城京に貢納物として塩を納めた最大の生産地であったことが知られています。 舞鶴市内では、大浦半島の沿岸部を中心に十二か所の製塩遺跡が確認されていますが、奈良時代にさかのぼる遺跡は、この地と三浜遺跡の二か所だけで、あとはすべて平安時代から製塩を始めているようです。 奈良時代の製塩土器は、口径約四十㌢の大型厚手平底で、浅いバケツのような形をしているところから大量の需要に対応。一方、支脚を伴う小型薄手丸底の製塩土器も。これは、支脚の上に製塩土器をのせ、火が土器の底にあたって熱効率が高まるように工夫したものです。 平安時代になると、土器は小型化していき、支脚は高さを増します。これは、奈良時代の「量」を求めた製塩から、「質」主眼の製塩に大きく変化したことを物語っています。 海水を煮つめてできた塩を再度焼き、固めることで、「堅塩づくり」に移行したものと考えられています。 浦入遺跡浦入地区は、舞鶴湾の入口水道の東岸。今はすべて関電の石炭火電↑の敷地となって、元の景観はまったく失われた。現代文明とは何とも無粋な、自然破壊者であるが、こうなる以前は写真↓のような小さな湾があり、製塩遺跡があった。 当遺跡は浦入全域にわたる広範囲を10年(試掘から報告書発行まで)の歳月をかけて徹底発掘調査が行われたため、従来知り得なかった新たな知見を数多く得た。 立派な報告書があるが、ダレも目を通す者もなく、図書館の片隅に、馬の耳のシンジュのようにホコリにまみれている、どこかのイナカ町の知性のレベルを語るかのように…。ロボットですら学習する時代、人たる者の条件としては、しっかり学習することと、それをサポートする施設が求められようか。 まだまだ解き明かされることがないナゾ、古代のロマンはまだ数多く残されている。 『浦入遺跡群発掘調査報告』より↓→ 古墳時代には、中期段階での鍛冶工房の検出という成果があり、居住域から一定の距離を置いて検出されたことから鍛冶工房を伴う集落構造を知る上での知見を得ることができた。鍛冶遺構の調査では鍛造剥片の検出などが重要であるなど、特に製塩遺跡においては遺構の性格に合わせた調査方法の重要性が必要であることを再確認した。
律令期の初頭には鉄加工の工房や製塩作業か本格化する。若狭湾内での塩生産の実態や鉄加工といった先端技術の導入が中央との強い係わりを示し、実際「与社」と記された墨書土器の存在から丹後国中央とされている宮津の与謝地域との関係も窺える。この地域と古代の与謝地域との深い関わりは、地元に「元橋立」や「文殊信仰」の伝承が伝えられていることからも、現在までその根底に交流が受け継がれてきたことを窺い知ることが出来る。 これらの伝承を含め、調査によって明らかにされた成果は現在を生きる私達の文化財であり、これらを次世代へと引継ぎ、大切な財産として活用することが私達に課せられた責務であろう。(松本) 「元橋立」は、浦入湾の入口に北から出ている砂嘴のことである。100メートルほど、幅は狭い所では2メートルほど、潮位が高いと水没してしまいそうな感じの高さであった。 「文殊信仰」。浦入は千歳の地籍で、その千歳の伝説である。 「舞鶴市の遺跡紹介」 浦入遺跡 塩と鉄のコンビナート 場所:舞鶴市字千歳
塩つくりは森鴎外の『山椒太夫』では、安寿姫が毎日浜で海水を桶で汲み上げる作業や由良川河口にある神崎地区にも湊十二社の祭礼で謡われる「塩汲み踊り」の歌詞などから過酷な労働であったことが窺えます。奈良時代から平安時代まで市の北部にある大浦半島及び神崎などの日本海に面する古代の浜辺を中心に塩つくりに使用した土器が見つかっていることから塩つくりが盛んにおこなわれていたことが分かっています。 なかでも浦入遺跡は、舞鶴湾口部の東側に形成された浦入湾沿岸部を中心に広がり、発掘調査によって海浜部に奈良時代から平安時代末の塩つくりの炉(製塩炉)や鉄を加工した炉(鍛冶炉)があり、その山手の斜面に住居や倉庫と考えられる建物群が見つかっています。平成7年から10年におこなわれた発掘調査では浦入湾奥部の海浜部の畑の下から製塩の燃料になった炭が混じった黒色の土が現れ、さくに、人の熱によって土や石が赤く変色した塩つくりの作業場が200m以上にわたって確認されました。 この塩つくりの作業場ではどのような作業がおこなわれていたのでしょう。これまでの文献や出土した炉跡・土器から塩つくりは海水中の塩分を単純に煮詰めれば良いというわけではなく、海水を濃縮する(採鹹)工程、濃縮した海水を煮詰めて固形の塩である荒塩にする(煎熬)工程、荒塩は潮解性が強く溶けてしまうので、さらに火を掛けて自然に溶けにくい精製塩にする(焼き塩)工程がおこなわれたと考えられています。 浦入遺跡での塩つくりの作業場である製塩炉は、石を集めた集石炉と地面に精良な土を貼った地床炉の2種類が確認されており、地床炉は方形の海側以外の3方向に溝を掘り水が入ってこなくする方形区画炉と呼ぶものです。この炉を覆うように塩つくりに使用した炭混じりの土からは塩つくりに使った土器(製塩土器)も多量に出土しました。土器の形は浅いバケツのような底が平たいもの。底が人く砲弾状の形をしたもの。甕のような形をしたものの大きく3種類が見つかっています。砲弾状の製塩土器には棒状の支脚が共に出土することから、支脚の上に容器を置き使用したと考えられます。時代が新しくなると容器は小さく薄く、支脚は長くなり、熱効率を考えたものに変化しています。 海浜部にこのような製塩炉と塩つくりの土器が出土したことから海水かち精製塩を造る作業がおこなわれていたと考えられています。 この塩つつくりを行っていた場所と重複しで鉄を熱して加工する鍛冶炉も見つかっています。鍛冶炉での作業は、まず鍛冶炉の中に炭を入れてフイゴで空気を送り込み炉の中を高温に熱し、その中に鉄を入れて、柔らかくなった鉄を金槌で打ち製品に加工します。その際に不純物は溶けて炉の底に溜まり、椀形の鉄滓となって鍛冶を行っていた証拠として残ります。通常の遺跡では集落内の一角に数基が存在するだけなのですが、製塩炉や集落内の建物内でも見つかり集約した鉄加工がおこなわれていたと考えられます。 塩つくりと鉄加工がこの浦入遺跡で集約的におこなわれてきたことが分かりました。塩つくりと鉄加工を盛んにおこなうには技術・原材料や道具・燃料・労働力が必要となってきます。 この背景には当時の政府の関与が必要となってきます。他にも一般の集落では出土しない奈良時代の貨幣である「和銅開珎」「神功開宝」「萬年通宝」やまじないの道具である土で作った馬や木で作った人型、墨書土器などの遺物も政府が強く関与した遺跡であることを裏付けています。「与社」と書かれた墨書土器は、当時の丹後国府があったと推定される現在の宮津市府中地区を指すものと考えられることから、奈良時代から平安時代前半の浦入遺跡は丹後国が関与し、現地の運営は「笠百私印」と印が押された製塩土器の存在から「笠」氏がおこなっていたことを推定させくる貴重な遺跡と考えられます。 「広報まいづる」(99.03.31) 奈良~平安時代 製塩・鍛冶炉が多数出土
400年続いた生産拠点 浦入湾奥の海岸部に、奈良時代から平安時代にかけての製塩炉跡が広く分布しているのを確認し、大量の製塩土器が出土しました。また同時期の鍛冶炉跡四十五基も検出、浦入が塩生産と鉄製品生産・加工の一大拠点であったことが明らかになりました。 製塩炉跡 全国初の方形区画炉 製塩炉跡は、東西海岸部の山すそを削った平坦地を造成し、設けたもので計三十六基を確認。人頭大の石を敷いた「石敷炉」 (長さ約二㍍、幅約一㍍)、粘土を張った床を作り、周囲に幅三十㌢から一㍍の溝をコの字形やL字形に巡らせた「方形区画炉」(長さ四㍍、幅三㍍)、直径約一㍍の範囲に粘土を張った「円形炉」の三種類を確認しました。 このうち、石敷炉は奈良時代の若狭地方で一般的にみられるものですが、方形区画炉は、全国で初めての検出例です。同遺跡群は、この方形区画炉を主体としています。 鍛冶炉跡 一列に並ぶ公的な工房 鍛冶炉跡は、西側の海岸部で製塩炉群と重複し、一列に並んで見つかりました。奈良時代の終わりごろから平安時代にかけ、製塩を一時中断して鍛冶を大規模に行った時期があったとみられます。 これだけの鍛冶炉が一遺跡から検出された例は珍しく、一定間隔で並ぶ鍛冶炉の形態は、公的な鍛冶工房のあり方を示すといわれていることから、浦入遺跡群の性格を考えるうえで非常に重要な遺構といえます。 製塩土器に刻印 「笠氏」実在の裏付けに 浦入湾東側の斜面(標高十二㍍)から「笠百私印」と刻印された製塩土器の支脚を発見しました。豪族の刻印がある製塩土器の出土はわが国で初めてのことです。 支脚は、高さ八・六㌢、底部の直径九㌢、土器をのせる受部の直径四・一㌢で、直径三・一㌢の円形の刻印が押されていました。刻印は、「笠という氏族の百□という名の人物の私印」と読み、豪族の私印であったことが分かります。 支脚の高さが低いこと、刻印の形が丸であることから、奈良時代末~平安時代初期に作られたものであると推定できます。 従来、奈良時代の塩作りは、中央政府の管理下で行われていたと考えられていました。今回の発見で、律令制度が揺らぎ始めていた同時代後期には、製塩を行う豪族が出現していたとみることができるようになりました。 また、「笠氏」 については、詳しいことがほとんど分かっていませんが、氏がこの地に存在していたことを証明する大きな物証になるとともに、舞鶴市のもともとの地名、加佐郡の起こりを考えるうえでも貴重な資料を提供することとなりました。 「笠氏」とは 東京国立博物館が所有する法隆寺献納金銅仏・観音菩薩立像(重要文化財) の台座に「笠評(郡)君」が六五一年に献納したと刻まれています。 この像を納めた笠氏については、古代吉備地方(現在の岡山県)を治めていた「笠臣国造」であるという説が有力でしたが、今回の発見で加佐郡の「笠氏」である可能性が強まっています。 古墳時代 日本海側で最古の鍛冶炉 ふいごの羽口片や鉄滓、土器も 五世紀後半の古墳時代中期に鉄製品を作ったとみられる鍛冶工房跡を発見しました。工房跡は、浦入湾奥東側の海岸近くにあり、南北六・四㍍、東西五㍍以上の規模を持った竪穴式のものです。床からは三か所の鍛冶炉跡とともに、ふいごの羽口片や鉄滓、土器などが出土。鍛冶作業に関連するとみられる土坑と溝も確認しました。 この時代以前の鍛冶工房の発掘例は、近畿南部や関東地方などでは知られていますが日本海側では最古の例です。 この地に早くから鍛冶技術をもった工人集団がいたことを示しており、その後の塩生産や鉄器加工といった手工業生産地として発展する基礎となったことをうかがわせています。 浦入二号墳 導入期の横穴式石室 3回の埋葬を確認 浦入湾を見下ろす西側丘陵頂部で、直径約十一㍍、墳丘高一・七㍍の円項を発見しました。 墳丘の中央部には、横穴式石室があり、入口にあたる羨道の長さは一・五㍍、幅〇・五㍍。死者を安置する玄室は長さ二・四五㍍、幅一・七㍍、残存高一・一五㍍で、床面には浜辺の玉砂利が敷き詰められていました。副葬品として、須恵器の杯身と蓋、鉄鏃が納められ、六世紀の中ごろから終わりごろにかけて少なくとも三回の埋葬があったことが分かりました。同墳は、浦入遺跡の周囲一帯を支配した人物とその一族を埋葬した墓であると推定されています。 この横穴式石室は、羨道部が短く、玄室との境に立石を使うなど、舞鶴市域でこれまでに知られている石室としては最も古い形態を示しています。同様の石室は、丹後・中丹地域でも、導入期の横穴式石室だけにみられるものです。 この浦入西2号墳は、発電所の完成後、見学できるように移築復元事業を進めています。 3銅銭(奈良時代)、すべて出土 奈良時代にわが国で鋳造されたのは、和同開珎、万年通宝、神功開宝の三種類。今回そのすべてが一枚ずつ出土。京都市以北では初めてのことです。 和同開珎は和同元年(七〇八) に鋳造が始まったとされる日本で初めての本格的な貨幣。その後七六〇年に万年通宝、七六五年に神功開宝が相次いで鋳造されました。中国の唐にならって貨幣経済を導入したものですが、その流通範囲は京内とその周辺諸国に限られ、地方では商品を交換する交換経済が一般的だったとみられています。 この銅銭には、宗教的な呪物としての一面があったとみられ、今回の出土も、製塩や鍛冶に関係した何らかの祭祀に用いられたものと推定されています。(最近、明日香村で見つかった「富本銭」という銅銭がわが国最古の銅銭と判明しました。) 『美浜町誌』 若狭湾岸の古代土器製塩
浦入遺跡の発掘調査 日本古代の土器製塩は、採鹹・煎熬法(海水を濃縮して煮詰める)が用いられ、採鹹、煎熬、そして、焼塩という工程からなることは前章で述べられたとおりである。製塩土器は、②の煎熬、③の焼塩の工程で使用されたものである。 若狭湾岸の西端、大浦半島先端に所在する浦入遺跡において、舞鶴市教育委員会、(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターによる平成七年度(一九九五)から三年間に及ぶ発掘調査が行われた。これまで若狭の土器製塩遺跡の発掘調査は、遺跡全体の一部分に留まるものがほとんどで、その断片的な調査の蓄積によって古代土器製塩のあり方が検討されてきたことに対し、浦入遺跡では遺跡のほぼ全域が発掘調査されたため、遺跡における空間利用の実態や土器製塩の始まりから終わりまでを追うことができるなど、若狭の土器製塩のあり方について新たなイメージを加えることとなった。浦入遺跡では七世紀後半に土器製塩を開始し、八世紀中ごろには汀(てい)を造成して広範囲の平坦地形を造り、区画溝を備えた大型の製塩炉と小型の石敷炉を造り出した。製塩炉を望む丘陵上にはテラス状建物・住居跡・倉庫群を構成する竪穴建物・掘立柱建物などの建物群が展開して工房群を形成するなど、遺跡が大規模化し、土器製塩のピークを迎えた。竪穴建物からは、政と墨書された須恵器杯、鉄製釜などが出土し、その南側に掘立柱建物群が展開したことから、塩の生産現場を管理した官人が長期滞在した住居跡と塩を管理した倉庫群がその中心で、組織的な労働編成がなされ、効率的な管理運営が進められたものと考えられている。 土器製塩には十一世紀から十二世紀中ごろにもう一つのピークがあったようで、大規模な造成を伴う区画された製塩炉、無区画の焼土面、礫を伴う小規模土坑が新たに造られた。遺跡からは鉄器を加工した鍛冶炉が多く確認され、土器製塩との複合的な労働体系によって遺跡が成り立っていたことが想定されている。 人形・馬形の本製祭祀具、銭貨(富寿神寳)、「与社」と墨書された須恵器などの官衙的な遺物が出土したことから、国府、国分寺など丹後国の中心施設の所在が推定される与謝地域と浦入遺跡の生産主体者との関係が想定された。九世紀中ごろに使われた「笠百私印」と刻印された製塩土器立脚の出土、九世紀中ごろの丹後国司として名が見える笠数道の存在から、国司を輩出した加佐(笠)郡の有力氏族、笠氏によって遺跡が経営されたものとされる。 三浜遺跡左が三浜、右が小橋。タンボがあるあたりは古くは潟湖であったといわれる。 『舞鶴市史』 舞鶴市内で製塩土器らしい遺物が発見されたのは、昭和五十年末に三浜においてであった。翌五十一年、市教育委員会は同所の試掘調査を実施したが。この結果、八世紀および一〇世紀、奈良時代と平安時代中期の製塩遺跡であることが判明した(三一五頁、「三浜遺跡」参照)。また、その後の調査で、千歳・大丹生・瀬崎・小橋・東神崎の海辺でも平安時代の同遺跡が確認されている。
こうして加佐郡内の若狭湾沿岸地域で生産された生活必需物資の食塩は、史料には現れないけれども、当然に貢納の対象となったであろうし、また、山間・内陸地域の需要に応じて広範囲に交易されていたものと考えられる。 『舞鶴市史』 三浜遺跡 字三浜小字村中
三浜地区では以前から工事などで土中を掘ると土器が出ていたが、たまたまその中に製塩遺物が確認されたため、昭和五十一年十一月、同地区小字村中において市教育委員会の試掘調査が行われた。その結果、設定したトレンチの基本的な地層り(○~四層)のうち、現地表面下一〇~三五センチメートルの地層(一層)が土器の主要包含層で、ここから製塩土器片のほか土師器・須恵器の破片や炭化物・灰が検出された。また、同じく八五~九五センチメートルの地層(三層)でも少量の製塩土器片と土師器・須恵器それぞれの杯・壺片を検出、この地層が古墳時代~奈良時代の包含層であることも判明した(写真85)。 出土遺物は右記の製塩土器片数百点と少量の土師器片・須恵器片に、貝(カキ・イガイ)・獣魚骨などであったが、製塩土器には二種類のものがあり、まず、三層から少量、一層の下部から多量に出土した土器は、暗赤褐色を呈する砂まじりの土器で、その外面は原型をつくった際の粘土紐輪積みの跡が残るが、内面は丁寧に整形されている。土器の厚さは一センチメートル内外、ただし底部は一・五~一・八センチメートル内外で平底のようである。この土器の口縁の口唇部は上端が内側に鋭く傾斜するようにつくられていて、この点に地域的特徴をみることが出来る。器形は平底の桶状をした大型土器と考えられ、製塩土器の編年が確定している若狭地方での、八世紀、奈良時代を中心とした製塩最盛期の船岡式土器と類似している。なお、土器の外面に灰白色の付着物が認められた。 次に、一層の上部から出土した土器は、明赤褐色の厚さ三~四ミリメートル内外の薄手土器で、同層下部出土の土器と同じく、外面に輪積み跡がかすかにあり内面の方が整形はよい。器形は底部の出土資料を欠くが、恐らく丸底でガラスコップ大の小型土器であろう。また、この土器に支脚と呼ばれる粘土の台が伴出しているが、これは長さ約二〇センチメートルの細長い土製品で、丸底の土器を乗せる、現在の五徳のような機能をもっていたものと思われ、製塩炉で土器に入れた海水を煮つめる火力の効率上、画期的な発明品である。一層上部出土の小型土器は、若狭地方で一〇世紀後半から一一世紀まで年代の下がる可能性のある塩浜式土器と類似している。 以上、三浜遺跡の調査では製塩炉が検出できず、出土資料も不十分でその詳細は明らかではないけれども、奈良時代と平安時代中期において、三浜地区に漁業とともに製塩を営む集落が存在していたことは確認でき、また当然のことながら、この集落は生産した塩を利用して水産加工も行っていたことであろう。 なお、若狭地方の製塩土器はその容量が、四世紀末~五世紀初頭一三〇~三〇〇立方センチメートル、五世紀末~六世紀前半三二〇立方センチメートル程度、六世紀後半~七世紀二、〇〇〇立方センチメートルと、時代の経過とともに大型化し、製塩最隆盛期の八世紀では一〇、〇〇〇立方センチメートルにも及び、口径六〇センチメートルぐらいなものも出現した。しかし、八世紀後半~九世紀には支脚の使用が始まって、土器口径は二〇センチメートル内外、さらに一○世紀前半には一五センチメートル内外と小型化が進み、一〇世紀後半~一一世紀にいたると土器製塩は衰退の一途をたどり、代って釜を用具とする新製塩方法が導入されていったと言われる。 若狭地方におけるこの製塩の推移は隣国の当地方でも同様であっただろうから、三浜の土器製塩は一一世紀には終末期を迎えたものと推測できる。 『丸山校百年誌』 製塩による生活は、十二世紀頃まであったということは、発掘土器の編年によって明らかであるが、その後、鉄鍋による煮沸の方法になったのか、漁業か農業が拡大したために廃れていったのかは、わからない。
ただ三浜の土器製塩と交替して、小橋に塩にまつわる伝承の背景となる時代が浮び上ってくるのである。 昭和八年版“私の校区”に「小橋ハ塩屋ト称シ現今浜田牛藏ナル家ガ三濱ノ源内即チ植田権吉ヨリ分家シタルモノナリト言フ。」とある。 塩屋が、かって小橋分の浜の権利を一人で持ち製塩を業としていたことは、広く伝えられているから想像できる。昔話の中にも、塩売りが登場するし、前述したが今に伝えられる年中行事の中に、ショウライブネのすむ八月士五日、子供組は、浜の丸石のかまどに鉄鍋をのせ、海水を煮つめて塩(クロジオ)をとり、イガイの貝殻に塩を入れて持ち帰るのが盆の最終行事である。(民俗編参照) 八月十四日 四時頃起き墓へ参りお供えをする。家には「ショウライダナ」(仏さんのお供えをのせる棚)を作り、その上に墓と同じように供える。ショウライダナは門口の戸袋の外側につけ、無縁仏のために供える。昼はミタマのメシ(あずきごはん)を供える。墓からショウライブネの子が大きな鍋(村共有のもの)を浜で石を積んだくどをこしらえた上にのせ、海水を炊きほして塩をこしらえ、その塩をイガイのからに入れ、くばったり、もらいに行ったりする。その塩を、小豆ごはんに入れてたく。それをにぎりごはんにし、ミタマのハシ(十三本、七、八寸の箸をこしらえ糸でくくり束にして十二日のうちに仏壇に供えてある)で精霊に食べてもらう。夜、墓参り、相撲、おどり。 「塩屋の塩売りばさの話」 -小橋- 今もこの村に塩屋という家があります。昔この家は、浜を持っていて塩を作って売っていたそうです。塩を売りにいくのは、女の仕事で、これを「塩売りばさ」といいました。 その塩売りばさと狼の話です。 (第一話)“狼に助けられた話” 塩売りばさは、毎日毎日おいかごに塩を入れて、野原や、平の方まで売りにいっていました。野原道は、今のように広くなく、人が一人、やっと通れるくらいで、その上、けわしい山を木の根をふみわけて越える道でありました。それでも、塩は、もっていくだけ、いくらでも売れましたので、塩売りばさは、せっせと山を越え塩を運んだのです。 ある日のこと、野原に塩を売りに行って帰る途中のこと、「ダットクズレ」ヘ来ると、狼が、人間を食べていました。それを見た塩売りばさ、これは大変なことになったと思いましたが、少しもあわてず、おいかごのすみに残った塩を手につかむと、 「よい漁ができたなあ。」と言って、その塩をまいた。 すると、狼は人を殺した後なので、少しは、やましいところがありましたから、仏の供養になると思ったのか、それとも後口に塩をねぶりたかったのか、塩売りばさを、黙って通しました。 あくる日、ばさが、またその道を通りかかりますと、きのうの狼が出てきて、塩売りばさの着物をくわえてひっぱります。さあ大変、塩売りばさは 「きのう塩ふって、アホにしたもんやさかい、仕返しされるんやろか。」と、思ったのです。 しかたなく塩売りばさは、狼にたもとをひかれてついていくと、大きな岩の下に狼の穴がありました。狼は塩売りばさを穴の奥に連れて入ると、自分は穴の入り口に、まるで門番のようにすわって眼を光らせています。 しばらくすると、ゴーツと音を立てて、狼のせんずがやってきました。山の木々をふるわせてせんずが通り過ぎると、門番をしていた狼は、ふりかえって 「今、去ね。」 といいます。やっと自分が助けられたことに気がついた塩売りばさは、狼にお礼をいって歩き出しますと、狼は、せんさつまで送ってくれたのでした。 (第二話)“狼背おい” ある日、塩売りばさが、いつものようにおいかごしょって、野原道をてくてく帰ってくると、途中で狼が出てきて、 「ばさあ、おうていのう、ばさあ、おうていのう。」 と言うた。塩売りばさは、あわてんと、 「おいかご、しょっとるし、明日、おうてやる。」 いうて、にげて帰ったそうや。 次の日も、また次の日も、毎日、毎日、狼が、 「ばさあ、おうていのう。」 いうて出てきた。 ある日、塩売りばさは、何を思いついたか、狼が 「ばさあ、おうていのう。」 と、出てくると、ばさは、 「盆までまっとれや。盆になったら、おうてやる。」 と、いうたそうや。 さて、七月十三日の盆がやってきた。塩売りばさは、やくそく通りに、狼を背おうために、野原道までやってきた。 塩売りばさは、狼に頭からがぶりとやられんように、裏返しに背おうた。狼を背おうた塩売りばさが、「せんさつ」まで来ると、村の衆が小橋音頭をおどっとるのが見えた。それを見た狼が、 「ばさあ、ありや、なんやぞ。」 と、きいた。塩売りばさは、 「ありゃあのう、おまえを、たんじょまつりしてもらうてて、村の若い衆にたのんで来てもろたんじゃ。」と、けろっとしていうた。狼は、 「もう、おわんでよいで。わるいことせんで。こらえてえやあ。こらえてえやあ。」 いうて、逃げていったそうな。 (註1)ダットクズレ…通称『牛ノ背』のこと、野原へ越す松と雑木の山であるが、その山の背のたりは、草木がなくはげているのでこの称がある。 (註2)せんず=群れ、子どもたちが遊んでいて、夕暮に帰る時、うしろにいる者に対して、「あとにおるもんおおかめせんず」とはやす。 (註3)せんさつ…現在の治左ヱ門墓のあたり。昔はその下に庄屋屋敷と、広場があり、村の中心であった。「制札」がなまったものか。 (註4)悪いことをしないようにこらしめる若衆の行事。 (註5)この話は狼が狸にかわったのも残っていて、狸の場合は、「治左ヱ門の墓石の下にはいってしもた。」で終る。また、背おい方は「狼ぜおい」で狸を背おうた、となり、狼の話の後から、狸の話が生まれたことがわかる。実際の野原道は狸が多い。 『由良川子ども風土記』 神崎村の塩作り
舞鶴市・神崎小 四年 斉藤俊之 神崎村で塩を作りはじめたのは、だいたい千五百五十年ほど前らしいと、年とったおじいさんが話したと加佐部誌に書いてありました。しがし、もうけが少ないので明治四十三年九月に止めてしまったそうです。 ふたたび作り始めたのは終戦前後です。 昔は、神崎の浜は砂のところが長がったそうです。その浜にどの家も同じ面積になるように浜を分けて、家ごとにかこいのくいを立てて塩を作りました。 作り方は、砂浜のゴミをきれいにはいて、真夏のあつい砂の上に海水をくみ上げててひしゃくでまきちらして、しばらくしてがわいたら、海水をくみ上げてまきちらしをくり返して、塩分をたっぷり含んだ砂を作ります。次に竹で作ったくま手のような「さで」という物で砂をかき集めます。かき集めた砂をむしろをしいた箱わくの中に平均に海水がしみこむようによくならしながら入れます。上から海水をがけると砂についた塩を海水がとかし、箱の下にたまり、こい塩水になります。これを何回もくり返してこい塩水を作ります。そのころは、どの家にも「かまや」という、わらぶきの家が浜にありました。その「かまや」の中には、赤土で作られた大きな「くど」があり、大きな鉄製のかまがすえられていました。そのかまに塩水を入れて、浜や山から木を持ってきて、につめました。それだけでは木が足らず、塩作りをしない大にゅうの方から船で木を売りに来たのでそれを買ってたいたり、かまやや、ゆごまで行ってたき木を買ってたいたそうです。塩をたきつめるのは夜もねないでたきました。 まだ塩ができ始めないうちに、かぼちゃの小さいのをまるごとゆでたり、かまの下の火でさつまいもの丸やきをするのが子供の楽しみでした。 数時間たつと、かまの底には塩がたくさん残ります。それをざるにとってにがりを取ってでき上りです。 その塩を麦わらで作った俵に二俵ずつ入れて売りに行ったり、食べ物と交換に行ったそうです。 この塩作りは、昭和二十七・八年ごろ止められました。でも、古い家には今でも塩作りの大きなおけやその他の道具が残っている所があるらしいです。 放送の日に、視聴者の方がFM局までわざわざ届けて下さった「宮古島の塩(雪塩使用) 雪塩 ちんすこう」というお菓子。 その時は気もつかず、お礼も申しませんでしたが、ありがとうございます。 宮古島の「雪塩」と琉球銘菓「ちんすこう」が出逢う 伝統の味に新しい風 雪塩ちんずこう と書かれている。 宮古島でも塩が作られているよう。塩味がするが、塩辛いというよりは少し甘味がある、これは海水から作られた塩の味。 音の玉手箱
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