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梅田雲浜
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![]() ![]() 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 梅田雲浜![]() 幕末の志士として知られる梅田雲浜、吉田松陰よりスゴイ人だ、とも言われる。 儒学者内田周平は、明治維新のさきがけとなった先駆者は、吉田松陰、橋本左内、他の誰でもなくもまさに一介の浪人梅田雲浜だったと述べ、西郷隆盛は、中国の伝説の名刀も、日本の名刀も雲浜の鋭さにかなわぬ、と延べ、雲浜の弟子であった画家富岡鉄斎は、まことに第一流の人といえるのは、当節、雲浜先生のみ、と言った、という。雲浜が獄死したと聞いた久坂玄瑞は、先生亡きあと、この岐路に立つ今の日本を、一体誰がこの先支えるのだろうかと、悲しみ嘆いたという。 幕末の内憂外患の時代、何とかしないとこのままでは日本の自立すら危ない、の思いは各藩公家各界各階層の皆々から「草莽の義徒」など、それぞれに共通して抱いてはいたが、ではどうすればというとその方向性は皆バラバラであった、それを全国的にほぼ統一して「倒幕しかない」にまとめていったという。当時の身分には捕らわれず、志ある者は誰であろうと一切区別することなく対等に付き合った。学者でも空論家や、実践なしの評論家は好まなかった、という。朱子学者としてのネットを生かしたものか、これだけも広い範囲へ働きかけて、志士ネットに繋いでいったのは雲浜だけであった。 幕末維新時代は歴史好きのなかでも人気高い時代になるが、雲浜はまず取り上げられることはない、もっとも早い時代の志士であり、早すぎてたいていは割愛されてしまっている時期になり、世間一般に広く知られた志士というわけではない。しかしこの人抜きでは本当は幕末維新は語れないといった人になる。 立派な銅像が小浜中央公園にある。小浜病院の杉田玄白像と向き合うように立てられている。杉田玄白がこの世を去る1年前(文化2年・1815)に小浜に誕生していて、日本近代化へ向けて、世代交代・選手交代といった感じに見える。玄白の孫の世代になり、近代化を求める動きは学問や文化の分野から、さらに社会的経済的政治的な分野へと広がっていく。雲浜はその先頭を駆けた。 その案内板には、 幕末の志士 梅田雲浜先生
幕末の勤皇の志士梅田雲浜先生は、文化十二年(一八一五年)、六月七日、現在の千種二丁目で小浜藩士、矢部岩十郎義比の次男として生まれた。外国船が来航、開国を要求し、我が国未曾有の危機迫る中、雲浜先生は、天皇中心の国政とする尊王攘夷論をもって日本各地を奔走し、多くの若い志士達の指導的役割を果たした。 惜しくも、安政の大獄(一八五八年)で捕えられ、翌年九月、江戸において病死、四十五年の生涯を閉じられたのであった。 思えば先生四十五年の生涯は、終始、貧苦と不運の連続であったが、これを克服し、初心を曲げず、崎門学の勤皇愛国の精神を貫徹された人生であった。 梅田雲浜生誕二百年を記念し、明治維新の先駆けとして活躍され、日本の激動期に大きな足跡を遺された梅田雲浜先生を末永く顕彰し、その御遺徳を偲び、後世に伝えるため、顕彰看板をここに建立する。 平成二十七年六月七日 梅田雲浜生誕二百年記念事業実行委員会 ![]() 雲浜の生誕地。小浜市千種に「梅田雲濱先生誕生地」碑がある。碑は小浜のあちこちにあるが、主なものだけを取り上げてみる。すごい案内板がついている。 人の駅 梅田雲浜
the politician who advocated the reverence for the Emperor and expulsion of foreigners in the last stage of Edo period 江戸幕末の尊王攘夷派(天皇権威を唱える封建的排外思想の倒幕派)の志士として活躍した梅田雲浜は、矢部岩十郎義比の次男で小浜町竹原三番町に生まれました。のち、祖父の実家である梅田姓を名乗り、山崎闇斎が提唱した朱子学(実践道徳の教え)の一つ崎門学を学び日本が対外関係で緊迫化するなか海防策に関する意見書を藩主に提出しました。これが藩主の忌諱に触れ、1852年(嘉永5)、浪人となります。生活困難ながら尊王攘夷を唱え、志士の指導者となった雲浜は、1856年(安政3年)より上方と長州(山口県)の物産交易に従事、将軍徳川家後継問題・条約締結問題では一橋慶喜を擁して勅許反対を推進しました。青蓮院宮への入説、戊午の蜜勅降下にも関係して安政大獄で捕まえられ、1859年(安政6)獄死しました。墓は小浜市北塩屋町松源寺に、銅像は中央児童公園に、顕彰碑が小浜公園にあります。 小浜市では、梅田雲浜先生を顕彰して毎年「梅田雲浜顕彰全国吟詠大会」を盛大に開催しています。 梅田雲浜先生について
生いたち 梅田雲浜先生は文化十二年(一八一五)六月七日、この地(小浜市竹原宇千代)にあった小浜藩邸て、矢部岩十郎義比よしちかの次男として生れた。そのため初めは矢部源次郎 幼少より文武の道を修め、藩学である崎門学に通じたばかりでなく、国学、兵学、漢詩、和歌をもたしなまれた。 功績 嘉永二年(一八四九)時代は恰度、幕末期で勤王、佐幕、開港、攘夷の論が紛糾して世情騒然とした頃、先生は勤皇攘夷論をもって王事に奔走し、多くの若い志士達の指導的役割を果されたが、安政五年(一八五八)の大獄に真先きに捕えられ、江戸の小笠原邸の獄舎へ送られ取調べ中、翌年九月十四日病歿された。 思へば先生、四十五年の生涯は終始、貧苦と不幸の連続であったがこれを克服し、少しも初志をまげず、崎門学の勤王愛国の精神を堅持して家族に対しても、旧藩主に対しても熱誠と愛情を示されたことは、先生の辞世「君が世と思ふ心の一すじに わが身ありとは思はざりけり」の歌や、信子夫人の「こと足らぬ住居なれども住まれけり われをなぐさむ君あればこそ」の歌がこれを証している。 このようにして先生の没後十年、明治維新の親政が実現し、先生はその目的が達成されたのであって、残された功績はまことに偉大であり今も尚、全国の人々に畏敬され顕彰されている。 没後の光栄 … 小浜公園の顕彰碑 (碑文は山県有朋の揮毫) ![]() 梅田雲浜先生の功績
嘉永二年(一八四九)以来、外国船が盛んに来航して国交をせまり、国内ては幕府の戚令が行なわれず、内憂外患、我が国未曽有の危機に遭遇した、この時にあたり梅田雲浜先生は幕府を倒して、天皇親政の我が国本来の国体に復するようその首魁となり、全国各地を遊説して同志を募り、この実現を謀ったが安政五年(一八五八)の大獄に真先に捕えられ、江戸の小笠原邸の獄舎へ送られ取調べ中、翌年九月病没された。 思えば先生四十五年の生涯は、終始貧苦と不幸の連続であったが、これを克服し少しも初志をまけず、崎門学の勤王愛国の精神を堅持して、家族に対しても旧藩主に対しても熱誠と愛情を示されたことは、先生の辞世「君が世を思う心の一筋に、我身ありとは思わざりけり」の歌や信子夫人の「事足らぬ住居なれども住まれけり われをなぐさむ君あればこそ」の歌がこれを証している。このようにして先生の没後十年、明治維新の親政が実現し先生はその目的を達成されたのであって、その功績はまことに偉大であり、先生は今も尚全国の人々に畏敬されているのであります。 梅田雲浜先生の略度 年号 西暦 年齢 雲浜先生略歴 文化十二年 一八一五 一才 小浜市竹原三番地(旧藩邸)矢部岩十郎義比の次男として生まれ、毋は奥州白河藩士務川義である。従って初めは矢部源次郎義質といった。 文政五年 一八二一 八才 小浜藩校順造館に入学 〃十二年 一八二九 十五才 京都に上り、堺町二条、望樟軒に通学。 天保元年 一八三〇 十六才 江戸に赴き、小浜藩儒山口菅山に就いて崎門学を学び(天保十一年二十六オで奥義を極めて帰国す)この頃から姓を祖父の梅田氏を昌し諱と定明と改められた。雲浜はその号である。 〃十二年 一八四一 二十七才 近江大津の仝学の先輩、上原立斉に就き更に研究しようとしたが立斉は雲浜の学問の深遠なのに敬服し、同友として遇し大津に湖南熟を開き、子弟を教授す。 〃十四年 一八四三 二十九才 六月、兄、矢部義宣江戸で病没す、九月大津を去り、京都に移り、望楠軒の講主となり、子弟を教育す。 弘化元年 一八四四 三十才 春、上原立斎長女信子と結婚 〃三年 一八四六 三十二才 長女竹子生まれる。 嘉永三年 一八五〇 三十六才 小浜藩に海防の必要に関寸る意見を申立てる。 〃五年 一八五二 三十八才 長男繁太郎生まれる。小浜藩政につき、再三、上書直言したため、七月士籍を削られ浪人となり、八月一乗寺村へ転居。 〃六年 一八五三 三十九才 正月京都へ転居。ペルリ浦賀に来航。 安政元年 一八五四 四十才 ペルリ再び浦賀に来航、吉田松陰、烏山新三郎等諸藩有志と対外策を協議し、引き続き水戸に武田耕雲斉等を訪ね、尊攘論を力説、更に福井藩を訪ね、各藩の情勢を告げ時局の急務を説く、露艦突然大阪湾に入港、近畿地方騒然となり、大和十津川郷士等雲浜を推して、露艦の撃滅を計る。雲浜は「妻臥病床児叫飢」の詩を賦し決死の覚悟で出かけたが、露艦退去ため果さなかった。 〃二年 一八五五 四十一才 妻信子の病勢増進し、三月二日没す(年二十九才)京都安祥院に葬る。六月、大和国村島内蔵進の長女、千代子と再婚す。 〃三年 一八五六 四十二才 長男繁太郎病死(安祥院の母の処に葬る)。僧月性と紀淡海峡防備について要談、月性を紀藩に派遣、防備施設の必要をすすめる。 十一月、長州萩に毛利家を訪ね、同藩の奮起を切望懇談かる。吉田松陰と面接、爲に松下村塾の額面を揮毫する。一月、青蓮院宮親王の信任を得て参殿、米国との通商条約許せられぬよう申し上げる。 〃五年 一八五八 四十四才 九月三日、旧藩主、酒井若狭守京都所司代に任ぜられ赴任の途中、藩主の所司代就任は朝敵となり、藩の危機に関すると直言す。 九月七日、勤王の首謀者として最初に捕縛される。六角の獄に移される。十二月、京都より江戸に檻送される。 〃六年 一八五九 四十五才 獄中、病気となり、九月十四日午前七時獄死す。 没後の光栄 … 臨済宗松源寺(小浜市北塩屋) ![]() 梅田雲浜先生墓所
梅田雲浜先生墓地由緒 梅田雲浜先生は、名を源次郎定明と称し、雲浜と号しました。幼少より文武の道を修め、藩学である崎門学に通じたばかりでなく、国学、兵学、漢詩、和歌をもよくしました。 時代はちょど幕末期で、勤王、佐幕、開港、攘夷の論紛糾して世情騒然とした頃でありました。先生は、勤皇攘夷論をもって王事に奔走し、多くの若い志士達の指導的役割を果しました、ところが安政の大獄で捕われ、江戸において惜しくも獄死されたのであります。 爾来、先生の墓地は、東京都台東区浅草の海禅寺境内にありましたが、郷土の有志相はかって、昭和四十五年六月、御遺骨を分骨移転、先生の御両親の菩提寺である本寺内に新墓碑を建立し、納骨して御霊をお慰めすることとなったのであります。 先生、生い立ちの地に還り賜い、永久に先生の御遺徳を慕う郷土の人々の上に光明を照らし賜うことと信じてやみません。 昭和四十五年 九月十四日 梅田雲浜先生分骨移転委員会 生誕地小浜に顕彰碑は、今はたくさんあるが、これらが建立されたのは、小浜公園の物が一番古く、明治30年で、そのほかのものはみな戦後になってからのものである。故郷小浜で理解され支援され顕彰されることはほぼなかった。キリシタンか由井正雪の類と思われ、藩を追われ、幕府に捕らえられた大悪人と見られ憎まれていたという。 同じく幕末志士のリーダー格であった、橋本左内は福井藩主の寵臣、吉田松陰も長州藩の支援があったのと較べると、まことに孤軍奮闘、故郷に容れられない人であった。いずれも安政の大獄の犠牲となるが、奇しくも維新初期の三大リーダーは皆が日本海側の出身であった。その中でも、当地あたりでは、時代への理解がまったくといってよいほどになく、旧態依然なのままなのが気になる。基本的には経済の遅れであろうか、雲浜もそう見たのか、交易を何度も藩へ提言するが、何を小侍が言うか、そんなことは商人の仕事だ、藩と豪商は癒着していて、今のままで甘い汁を吸うつもりの様子で、提言は蹴られた。長州は雲浜の提言を受け入れて、収入の24年分もあった借金返済し、のちの倒幕、維新新政府の中心になっていく財政豊かな藩となっていった。雲浜は維新の経済基盤も作っていったこととなるのかも知れない。(薩摩も借金に喘いでいたが、砂糖、清との密貿易、にせ金づくりで豊かになったという) ![]() しかし雲浜自身は貧乏浪人志士の代表格で、中でもどん底は京都一乗寺時代であろうか。 傾いた軒の二畳一間の家に暮らしていたという。 「二畳一間で暮らせるんですかね」 「人は起きて半畳、寝て一畳というくらい、二畳あれば最低限何とかなるんとチャイます、それ以上にあってもゴミばっか、イランモンだけです。便所風呂は共用でしょう。」 二畳一間に嫁さんは病で伏せっているし、児は飢えに泣いていた。 雲浜は志士仲間では最年長で、絶え間なく全国の志士仲間が尋ねてきた。なかには「ご内儀は琴の名手と聞く、一曲所望申す」などいう者もいて、質草になっていた琴を、自分の着ている着物を脱いで質へ入れ、琴を取り戻して、奏でたとか。(どこまで本当のハナシかはわからない) ![]() 雲浜は多才で、武術や朱子学(崎門学)はもとより、新しい蘭方医術、西洋の訳書を読んで知識を持っていたと思われ経済や国防(特に海防)に詳しかった。 書も上手、名筆だそう。松下村塾の表に掲げられた看板(←)は、吉田松陰の依頼で、雲浜の揮毫になるという。「松下邨塾」と書かれている。 何よりも実践者で、勉強したって論議したって、実践がなければ意味のないことの信念があり、忙しくて書いている時間がないと、彼は著作を残していない。 志士たちの論じる話は、分かりにくい理解しにくいのだが、政治の世界のことなので仕方はない。 尊皇攘夷と表向きは唱えているが、尊皇はともかくも、攘夷はムリな話である。中国(清)ですら、阿片戦争(1840)でイギリスに惨敗、莫大な賠償金(2100万元)は取られ、香港割譲、公州上海なども開港させらてしまった、マカオもボルトガルに割譲。大国の清ですらそうした負けようで、日本ももし攘夷戦争などすれば必敗、清の何倍もの損になることはアホでもわかる。多少の損があっても攘夷戦争よりはマシ、開国しかないは志士たちも知っているのだが、それは今ただちにではない、今やれば望まない不平等条約になってしまう、といっているのである。 吉田松陰も攘夷は一応は言うが、ペリーの軍艦見物に出かけ、あわよくば、アメリカに密出国しようとしているし、ロシア艦が来たときも同じような行動を取っている。日本は神国、万世一系の天皇が治める世界に唯一の国とか、別にそうであったとしても何か自慢になったりはしない、古代からの社会の停滞、遅れ、進歩なしを言うようなことで誇りにもならないことを誇って、毛唐のクソどもめ、と憎んだり毛嫌いするのではなく、彼らから多くを学ぶべきとしている。このレベルになると気違いじみちヘンな幻想よりも知性のほうが強い。 尊皇と一応はいうが、幕藩はクソというわけでもない、雲浜という名からして、小浜城(雲浜城)からとっているくらいで、政治の世界だから竹を割るように白黒とハッキリできない事柄も多い、志士といえども、流れに合わせて少しずつ理想とする方向へ向けていくより手はない。 社会や文化や政治の近代化は産業・経済の近代化あってはじめて達成できるものとされる。西洋の場合は産業革命(雲浜の時代より百年も前)を経て、重工業や市場経済が発展していた。石炭によるエネルギー革命、工業化、移動手段や情報手段の近代化、そして労働力の近代化、封建身分制に縛られない、土地から離れた「自由平等」な大量の労働者層が作られること、などである。 日本は石炭などエネルギーに目を向けたことはなく、鉄鋼すら自前で生産できず、封建身分制が解体されず強く残っているのだから(差別社会)、経済土台がこれでは日本の近代化は実際は難しい。西洋のように近代化して華やかな国にしたいと言っても、肝腎の土台の経済が農業主体の領主制のまま、自由な商品市場もわずかであり、世界貿易もなし。 雲浜さんたち志士たちの努力もあって、遅ればせながらもともかくも近代化への一歩をアジアでは最初に踏み出していくこととなった。 市民層・中間層の経済的文化的知的成長を支援するより近代化への道はない、赤レンガがそうした役割を担えたかは考えてみる要がある、雲浜さんがいたら何と言うことだろう。近代化遺産??何か考え違いがありませんか、とか言うかも知れない。 ![]() ![]() ![]()
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