仏教伝来②
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 仏教伝来初期の頃の舞鶴の寺院「和江の国分寺」舞鶴市和江の 国分寺跡と伝えられる堂の奥から礎石、毘沙門堂↑付近から布目瓦が出土している。国分寺跡と伝える所に隣接して小字国分寺の小地名も残る。寺院は天暦10年(956)火災で焼失したと伝える。国分寺跡には5・5メートル四方に礎石があり、平安時代のものと考えられる布目瓦が出土している。 「山椒太夫」伝説では、厨子王丸がかくまわれた国分寺と伝承している。 案内板に、 和江の国分寺址
この地方に残されている山椒太夫伝説では厨子王丸が山椒太夫の邸を逃げて山越しに此処にたどりつき、国分寺の僧にかくまれたと伝えられています。 此処の本尊は毘沙門天で、この国分寺はのちに、山椒大夫のため焼き払われ、再び建立されることもなく、今では毘沙門堂が残っているだけです。 この国分寺は「一国一寺の国分寺にあらず山号を護国山と言い、或いは佛国山と称した」と語られたり、俗には「府中に移るまでの国分寺」とか、「丹後ではまだ確認されていない国分尼寺ではないか」とこじつれるものもあるが、このようなものとかかわらず、率直に「和江の国分寺」として語り伝えたいと思います。 厨子王丸は、此処で追手の難をまぬかれ、国分寺の僧ら連れられて都にのぼり、時の帝の前で父の罪のぬれぎぬをはらし、丹後の国司をゆるされるきっかけとなる訳で、山椒太夫伝説-安寿と厨子王の物語の上でも極めて重要な舞台となっているところです。 尚、毘沙門堂由来書には「人皇四十五代聖武天皇天平年間国分寺を之の地に建立せられ当毘沙門天を安鎮し」と伝えているということです。 『丹哥府志』 【護国山国分寺】
三才図会云。国分寺の本尊薬師如来は行基菩薩の作なりとぞ、今廃寺となる。丹後旧記云。三才図会に国分寺は由良にありといふは誤りなり、護国山国分寺は与謝郡国分村にあり、則ち聖武帝の御宇に建立する處なり、今由良の南和江村に国分寺の寺跡あり仏国山と號す、一国一寺の国分寺に非ず、和銅六年丹波五郡を割て丹後の国を置く、是時宮を造りて元明帝を祭り郡立大明神と称す、又供養の為に一ケ寺を建立す蓋仏国山国分寺は其寺なりといふ。 和名抄は、国府在加佐郡、行程上七日下四日、延喜式でもそうあって、国府と国分寺とは隣接するとすれば、国府の所在とも合わせて検討する必要があろうとも云われている。 七仏薬師の寺 (以下№12の再録) 歴史書に記録されたものはなく、残されているものは、いずれも薬師仏奉祀の寺社の縁起として麻呂子親王の鬼退治伝説がのべられている。それぞれの縁起によって多少内容が異なるが、大筋はほぼ一致しており、これらが当地方に伝播する以前に、何かどこかに一つのオリジナルがあったのではないかとも見られている。 仏教文化が地方へ広がっていく最初の時代の伝説であろう。当地方の宗教改革がすすむ背景と当地方社会事情の間に何か衝突があったものかと思われる。 最も古いと見られている「清園寺縁起絵巻」 ←『大江町誌』より 大江町河守にある寺院。 絵巻が3幅伝わる。作風からだいたい南北朝期か室町期(14世紀末)に描かれたものといわれる。 清園寺薬師観音堂↑ 絵巻には文字はない。後に書かれた(江戸期)古縁起、略縁起と呼ばれる文書が伝わる。 何が書かれているかは、 「清園寺」 この絵巻から麻呂子親王による鬼退治伝説や七仏薬師信仰は、南北朝時代までには成立していたと見られている。 丹後の諸寺院に伝わる仏像類はだいたい平安後期のものと、それよりも古い8、9世紀の作風の仏像があり、あるいはその時代までさかのぼる伝承なのかも知れない。 その次が「等楽寺縁起」(室町後期・16世紀)と見られている。 「絵本着色等楽寺縁起」部分↑(『京丹後市の伝承・方言』より) これら以降は、だいたい江戸期に成立した縁起になる。 舞鶴は多禰寺 『医王山多祢寺』(パンフ) (開創 多禰寺は、密教嗣続の霊場で、第二十一代用明天皇の即位二年(五八七)、王子麻呂子親王(または金麻呂親王ともいう)が開創した寺であります。 与謝郡三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土熊の三鬼がこの地方の庶民を苦しめました。天皇はこれらの賊を退治し、人民を救済しようと鬼退治の将軍に諸宮の中から麻呂子親王を選ばれました。親王は、天性雄健で厚く仏教を尊崇していました。親王は、鬼賊の誅伐は容易でないと考え、出発にあたり仏陀神明の妙力を得る為、七仏薬師の法を宮中で修め、小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏として身につけました。また、伊勢神宮に詣でて神徳の加護を祈りました。七仏薬師とは、第一に善名称吉祥王如来、第二に宝月智厳光音自在王如来、第三に金色宝光妙行成就如来、第四に無量景勝吉祥如来、第五に法海雷音如来、第六に法海時慧遊戯神通如来、第七に薬師瑠璃光如来であります。 これより丹後の国に赴く途中、不意に白犬が現れて親王に宝鏡を献上することがありました。親王はこれは開運の祥瑞であろうと喜ばれました。ようやく黄坡、雙坡、小頚、綴方の四人の従者とともに鬼の巌窟にたどりつき、激戦の末、英胡、軽足の二鬼を退治し、逃げる土熊を追って竹野郡の巌窟に至りましたが見失ってしまいました。この時、さきの宝鏡を松の枝に掛けたところ、土熊の姿が歴然と鏡に映ったので、ついにこれも退治することが出来ました。 その後、宝鏡を三上ヶ岳の麓に納めて、大虫明神と号しました。 鬼退治が終わってから、親王は、神徳の擁護に報いるため、天照皇大神宮の宝殿を竹野郡に営み、これを齋大明神と言い、その傍らに親王の宮殿を造営しました。また、仏徳の加護に報いるため、丹後の七ヶ所に寺を建て七仏薬師像を安置しました。七仏薬師の寺というのは、加悦荘施薬寺、河守荘清園寺、竹野郡元興寺、同郡神宮寺、溝谷荘等楽寺、宿野荘成願寺、白久荘多禰寺の諸寺であります。 七仏薬師の本尊薬師如来は多禰寺に安置されましたが、その丈は三尺五寸(一一五・五センチ)、その胎内に一寸(三・三センチ)の護身仏を納めています。 造寺刻仏は、ともに麻呂子親王によってなされました。本堂は五間四方で南方を向き、前には弁天池がありました。 長い廊下は虹のようで、廻拝殿は旭日を映して美しく、二層の楼鐘は月にひびき、東西の両塔は雲にそびえ建っていました。求聞寺堂があって、国家安全を祈る勅願所として、香煙が山中にたなびいたといわれます。) 『舞鶴市誌』 丹後の七仏薬師信仰 丹後国には八、九世紀から一〇世紀にかけて、伝説と史実のあいだ、いろいろな説話が、それぞれかたちをがえて伝承されているが、それらのなかで多袮寺の縁起は宝永七年(一七一〇)田辺桂林寺の一七世、華梁霊重が上梓した「田辺府志」 (巻二)のなかの丹後七仏薬師の伝承を同一八世香邦叶蓮が享保二年(一七一七)二月漢文に書き改め清書したものである。この伝承は飛鳥時代、用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟麻呂子親王にまつわる鬼賊退治の説話で、時代的には多少錯誤はみられるものの九、一〇世紀にまでさかのぼる薬師信仰が丹後地域に浸透密着した。由縁を記したもので要約すると次のように述べられている。 丹後国加佐郡白久荘医王山多袮寺は密教の霊場で用明天皇二年、王子麻呂子(また金麻呂親王という)が創立した寺である。親王は与謝郡河守荘三上山(鬼城)に住む英胡・軽足・土熊の三鬼が庶民を害したので、それを征伐する将軍に選ばれた。親王は葛城直磐村の広子の所生で天性雄健でとくに仏教を尊崇していた。それで鬼退治の出発に当って仏陀神明の妙力を頼むため七仏薬師の法を宮闕で修め小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏とし、また伊勢神宮に詣り神徳の加護を祈った。丹後国に赴く途中不意に白犬が現われ親王に宝鏡を献上することがあり、これは祥瑞であると悦ばれた親王はようやく従者の黄披・隻披・小頚・綴方とともに鬼窟にたどりつき、首尾よく英胡・軽足は殺したが土熊は逃走して竹野郡の岩窟に逃げ込んだためついに見失ってしまった。このときさきの宝鏡を松の枝にかけたため土熊の姿がこれに歴然とうつり、そのため、これを退治することができた。その後宝鏡を三上山の麓に納めて大虫明神と号した。或説によると、この鏡は伊勢鏡宮の所変であったという。 鬼退治が終ってから神徳の擁護に報しるため天照皇太神宮の宝殿を竹野郡に営み、その傍に宮殿を造営した。これを斎大明神という。また仏徳の加護に報いるため、丹後国の七か所に、七仏薬師を安置した(「丹後の七仏薬師像」)。 縁記の大要は大体以上の様で、このあと七仏薬師を奉安したのは丹後国の、(一)加悦荘 施薬寺(現与謝郡加悦町滝)、(二)河守荘 清園寺(現加佐郡大江町河守)、(三)竹野郡 元興寺(現竹野郡丹後町願興寺)、(四)竹野郡 神宮寺(現竹野郡丹後町是安)、(五)溝谷荘 等楽寺(現竹野郡弥栄町等楽寺)、(六)宿野荘 成願寺(現宮津市小田宿野)、(七)白久荘 多袮寺(現舞鶴市多袮寺)、であると記している。 この七か寺の名称は他史料には、あるいは日光寺(現中郡大宮町)円頓寺(現熊野郡久美浜町)如来院(現加佐郡大江町)福壽寺(現与謝郡野田川町)などとなっていて一定していない。なお、縁記にある大虫神社は農作物に被害を与える害虫を神の仕業と考え、これを祭神として麻呂子親王ゆかりの神像を祀ったという加悦町温江の式内大虫神社で、斎大明神は同じ麻呂子伝承をのこす丹後町字宮に所在の式内竹野神社にあたる。 このほか「多袮寺縁起」には往昔、境域に東西両塔・二重鐘楼・求聞寺堂・二王門・熊野権現を勧請した鎮守や、寂静院・吉祥院・西蔵院を長寺とする八か寺などがあり山麓には伝教大師自刻の不動明王を本尊とした浄土寺があったと記している。延暦元年(七八二)五月に住僧奇世上人が薬師の神呪により桓武天皇の御脳を癒した。このため帝力の余裕を得て旧観に復したので奇世上人が中興となったという。爾後永正十一年(一五一四)十一月三日不意に来冦した逆党の賊兵のため山中の什宝が略奪され、この時古記録が失われて今では、本堂・僧房・庫裡・仁王門と二、三の古区をのこすのみと結んでいる。 この縁記は、はじめに日々庶民に暴虐をつくす三上山の鬼賊を退治するという前提があり、この山が大江山に連なる河守荘となっているため麻呂子親王と源頼光が混同され伝えられている例も多い。しかし、その内容は前者は七仏薬師法による仏力の加護を根底にして、伊勢太神宮の所変にかかおる皇恩の浸透が丹後の大虫・斎両明神にまで及んで、退治のあとは修法の本義に基づき、七か寺に七薬師を分置したと伝えており、後者は鬼賊退治後ただちに都に凱旋して、あとに何も残さないという一過性のもので異質なものとなっている。多くの土民に仇をなす鬼が朝命によって退治され、その恩寵の余波が七仏薬師となって各地に定着し、これを通じて九、一〇世紀のいわゆる皇威が各地に伸張してゆく状況を示唆する物語であるだけに、この仏教説話は古代の丹後を語る場合重要な意味をもつものと思われる。 薬師信仰の本願は普通・病苦・災禍を除き、心身の安楽を得るためのものとされ、中国随代から唐代にかけて成立した「薬師如来本願経」や、「薬師瑠璃光本願功徳経」が達磨や玄弉によって訳出され、順次我が国に渡来し修法の基本となっていたという。これに対して分身七仏薬師の造像をすすめる「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」は唐の義浄が新らしく訳出したもので、これが渡来してからは前後の二修法が行われたとされている。 こうしたなかで、これにかがわる初見は「天武紀」朱鳥三年(六八八)五月条の、癸亥(二十四日)から天皇の病篤く、ために川原寺に於て薬師経(薬師本願経)を説かせ、また宮中で安居させたという記事である。 「類聚国史」に出示する記事のうちで、大同四年(八〇九)秋七月乙已(一日)と同五年(八一〇)已卯(十一日)の平城天皇不予に対する修法は前者の「薬師本願経」で行われ、嘉祥元年(八四八)三月丁酉(十九日)の仁明天皇不予に関わる修法は、後者の「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」で行われ「丁酉。於二清涼殿一修二七仏薬師一画二七仏像一。懸二御簾前一」とある。このあと台密系寺院で多く修法される「七仏薬師法」は、鎌倉時代初期に成立した「覚禅鈔」によると、天暦十年(九五六)良源によって比叡山で行われたのが最初であったという(「八、九世紀の七仏薬師像」中野玄三)。 こうした一連の薬師信仰の史料を通じて多袮寺の縁記を見る場合、麻呂子親王と七仏薬師法渡来の時代的なへだたりから、その背景となっているものは天台系ではない八世紀か、またそれ以前の薬師法を考えなければならない。これらは後世の改宗を考慮に入れなければならないが、現在の丹後七仏薬師由縁の寺院には天台宗寺院が一が寺もないことからも、丹後の七仏薬師信仰は奈良時代前期にはすでに伝えられていた疫病を鎮める、ための御霊信仰的なものであったといえる。 丹後の大江山連峰につらなる三上山の鬼を退治するため、まず小金銅の薬師像を鋳造して入部し、ようやく目的を達して七か寺、二社に足跡をのこした麻呂子皇子の伝承は仏教と固有信仰との習合を物語り、こうした体験を経て、都の仏教文化がはじめて丹後一円に広く浸透していったと考えられる。 一覧(『京丹後市の伝承・方言』より)
成願寺(丹後町)、円頓寺(久美浜町)、仏性寺如来院(大江町)、長安寺(福知山市)、下野条公民館(福知山市)、無量寺(福知山市)、福寿寺(野田川町)、清園寺(市島町)などが知られているが、まだまだある… 麻呂子親王の時代に七仏薬師信仰はあったのか。 聖徳太子は、574~622の人であり、麻呂子はその弟だから、だいたいこの時代の人である。 「仏教公伝」は、『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。現在では『上宮聖徳法王帝説』の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に、538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多い。教科書ではゴミヤと習った。 その後、日本国内では仏教受入をめぐり大混乱が発生したという。 欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子らは仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西国では皆が仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようかとして、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだとして、寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。 その後、仏教受入を巡る争いは物部守屋と蘇我馬子の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは聖徳太子が馬子側に参戦していた。聖徳太子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(飛鳥寺、元興寺)を建立した。聖徳太子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。天武天皇は大官大寺(大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。百済からは仏教と寺院建築のために瓦などの建築技術が伝わった。最初に採用されたのは飛鳥寺であり、7世紀ごろまでは仏教寺院のみに用いられていた。 薬師信仰は、『日本書紀』 朱鳥元年686(五月)二四日、(天武)天皇の病気が重体になった。それで川原寺で、薬師経を講説した。宮中で安居した。 まで見られない。 それもそのはず、そもそも、 薬師如来が説かれている経典は、永徽元年(650)の このほかに建武~永昌年間(317~322年)の帛尸梨蜜多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の 七仏薬師信仰は、どんなに早くとも707年以前にはありえない、麻呂子親王が伝承の寺社に七仏薬師像を奉安したとは考えられないのである。 聖武天皇は、天平9年(737)に国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。 天平13年(741)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。 当地方に仏教が入るのは、これ以降と見られ、8世紀中頃から9世紀、丹後国分寺は薬師如来を本尊としていて、それが広まったと見られている。 実際の歴史はそうしたことであったものを、それを聖徳太子時代までさかのぼらせて説話化したものと思われる。 『田辺府志』 京極高知訓二誨庶臣一事 高知一日諸臣を召集訓教していわく、我国に移来りて熟(つくづく)其むかしを聞くに、人皇三十二代用明天皇大和磐余に宮居し給ふ時まで此国に鬼賊おほく鼠(かくれ)居まして生民をなやましくるしめる事叡聞にいりしゆへ、退治して蒼生を済(すくひ)給はんと叡慮をめぐらされ給しに諸官の内にて撰出あるべきとありしが、皇后の御腹に四子産し給ひ第一には厩戸皇子是聖徳太子の御事なり、第二には来目皇子、第三には殖栗皇子、第四には茨田皇子、又蘇我大臣石寸名嬪の腹に田目皇子をうめり、葛城直磐村女廣子の腹に麻呂子皇子を誕せり、勇健菖人にすぐれ材智世にたぐひなく、佛陀神明を尊崇ふかく官臣をめぐみ庶生あわれみ給ふゆへに、其徳宮城にもれ四夷におよべり、是によりて當国鬼賊退治の勅命ありし時麻呂子親王心慮をめぐらされ、我帝命にしたがひ彼国に馳向ふとも彼を追討して其功勲をたてざる時は其困労益なきのみにしもあらず、王道の瑕瑾(かきん)我身の恥辱たるべし、此上は佛陀神明の威神力をかり此運をとぐべしと、先宮中にて七仏薬師の法を修せらる、第一には善名称吉祥王如来、第二には寳月智巌光音自在王如来、第三には金色寳光如来、第四には無憂寂勝吉祥如来第五には法界雷昔如来、第六には法界勝恵遊戯神通如来、第七には薬師瑠璃光如来(七薬師異名あり、今は一説を記せり)右七薬師の法を勤修丹誠を抽(ぬきん)で鬼賊殺戮国家平治の堅誓をたて、小金體の薬師一躯を鋳させ護身佛に持受せられ、又天照皇太神に祈誓をぞ立給ひ、此度神力にて鬼賊を討果し諸願成就せばかならす寳殿を其所に結構し神徳をながく仰奉らんとふかくもちかひ給い、それより丹後與謝郡河守庄鬼賊棲家尋いり給ひしに、彼鬼窟に英胡、軽足、土熊 或説土車三なにごゝろなく居ませしに、無二無三に切籠給ひ三鬼のうちたやすく二賊を討留られしに土熊一鬼討漏し給へば逃去て竹野郡にかくれいりしを四臣を先魁としてまた彼所にいたり見給ふに岩窟にふかく竄れて見へざりし程に、路にて白犬奉し寳鏡を松枝に懸給へば鬼形明らかに照し露せし程に力を労し絵はす生捕らる、其時其松を鏡懸松となづけける、此時より国中安穏におさまりたり、是皆神佛擁護の力なれば七佛薬師の寳構を造立せんと、第一には善名称吉祥王如来は加悦庄施葉寺、第二には寳月智巌光音自在王如来は河守清園寺、第三には金色寳光如来は竹野元興寺、第四には無憂寂勝寳吉祥如来は竹野神宮寺、第五には法界雷音如来は溝谷庄等楽寺、第六には法界勝恵遊戯神通如来は宿野成願寺、第七には薬師瑠璃光如来は加佐郡白久(しらく)庄多禰寺(七所薬師の霊跡一説ならず、是は宮津城主信濃守尚長御改なり)如此七寺を建立ありて其後天照太神の寳殿を営建して勧請し給ひ、伊勢の齋女(いつきめ)に相順し熊野郡の中より士姓をゑらび少女を齋女にたてまつらる、側に別宮あり是則麻呂子の本宮なり、親王本より佛陀神明を信仰し給ふ事は父用明帝の御教にして、齋女を備らるゝも其時に酢香手姫の皇女を用明帝より伊勢太神宮にそなへらる、其風規により絵ふとなり。其後四百八十年の後人皇六十六代一條院の御年に当た、丹波大江山に酒顛童子住しが王城の方近ければとて別所に移り、大江山には茨木を第一の守衛として諸眷族を残し置、雨所同じく鬼窟として住籠り国人をなやましくるしめる、其事帝城にひざき叡聞にいりしゆへ源頼光に誅伐すべきよし勅命あり、正暦元年三月二十日に都をたって多田にくだり父満慶入道に御暇乞ありて、翌日は大井の光明寺に詣給ひ今度朝敵たやすく退治する擁護の力をくはへ給なば大磐若経六百巻奉納あるべきとて一紙の願書を捧られ、一夜参篭あって丹誠をこらされ、諸寺諸社におほせて秘法を修せられしに、八幡大菩薩の夢想を蒙り住吉大明神の先導にて心やすく彼童子を退治せらる、是皆佛神擁護の力なり。武威を天地にふるひ武名を万世にのこし海内の平安おもひなん身はかやうの先例を相考て其こゝろをはなつべからず、かならか私情にまかせ邪業異法をこのみて悌神を蔑にする事は蛍火の光にほこりて日月の明を欺にことならず、天下の理にしては天子は直に上天の主宰にかわり出給ひ、次に摂政将軍は天の四帝にそなわり出でゝ国家に執政して佛神の冥慮を頼み給へり、庶臣群民の類としていかんぞ私家に自法を立主君の政行を背べしや、ひとへに其分別なくして実行にこゝろをよせば家賊に同じ、我諸臣のもの表には武門の家風を本とし内には沸神の二法を信仰すべしといへり。 音の玉手箱
Der Lindenbaum |
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