丹後の地名プラス

そら知らなんだ

丹後のオニ伝説②
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -58-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


帰化人と渡来人
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真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
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飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
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福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②
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与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
田邊・田造郷②
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拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)②
民族大移動の跡か!?
鳥取①
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幻の倭文
伊吹①
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息長①
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奥丹後大震災①
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丹後のオニ伝説①
丹後のオニ伝説②
大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
火祭②
福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
子供組
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村の年齢集団-青年団
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舞鶴の古墳②
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網野銚子山古墳
神明山古墳
丹後の弥生期-日吉ヶ丘遺跡 他
扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡
大風呂南墳墓と赤坂今井墳墓
奈具岡遺跡
函石浜遺跡
平遺跡
玉砕の島①
玉砕の島②
仏教伝来①
仏教伝来②
国分寺創建①
国分寺創建②
幻の古代寺院
丹後の古代寺院①







少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


丹後のオニ伝説①」より続き

鬼は通常は世に害なすものとして恐れられ憎まれ、忌避され排除され退治されるものであるが、そうではなく、逆に歓迎され愛され、神のように祀られる鬼もまた見られる。これはまたどうしたことであろうか。
鍜冶屋と関係がありそうに思われる。

④天一・大原神社の場合は「鬼は内、福は外」の節分祭が行われる。
3月3日の同社の節分祭

「鬼は内、福は外」の掛け声で、豆がまかれる。
やがて境内から鬼があらわれて、あばれる。

その鬼は改心して福になり、豆をまく。


動画

大原は山深い里ではあるが、イナカではない。「どうぞ、どうぞ社殿の中へもどうぞ、中へ入って撮して下さい」と、外来人にも考えられないほどに親切である。知らぬ者は近寄るな、口もきかない、のけ者にする式のイナカではなく、開かれた都市人の感覚を持った集落である。街道筋の宿場街であったものだろうか。
ここ4年ほどは当社節分祭の追儺式はコロナで開催されていなく、写真や動画などが撮影できなく、この↑動画を使わせてくれのメールが毎年のようにどこかの報道機関から寄せられる。

福知山市三和町大原の大原神社は、産小屋のあるところで知られるが、そこに鎮座する。

案内板
天一位 大原(おおばら)神社
祭神  伊奘冉尊 天照大神 月弓尊
  例 祭 五月三日(二日宵宮)神輿渡御
  恒例祭 節 分 節分祭 追儺式
    摂社火之神神社鎮火祭
 由緒
社伝によると第五十五代文徳天皇の御世、仁寿二年三月二十三日(八五二)北桑田郡野々村樫原(現南丹市)の地より遷座、国司大原雅楽頭社殿を造営同年九月二十八日遷宮される。 元亀大正(一五七三)の項明智日向守領主となる際、戦禍に遭遇、社殿消失するも明暦年間(一六五五~五八)に旧態に服す。現在の社殿は九鬼氏領主として綾部に封せられてより累代の庇護により寛政八年(一七九六)再建される。安政二年(一八五五)千年祭、平成十四年千百五十年祭を斎行する。
唐破風の龍の丸彫は天保三年(一八三一)中井権次正貞の作であり、拝殿頭貫の絵様彫刻、兎毛通の鳳凰、持送りの菊の籠彫は天保八年正貞の父久須善兵衛政精中井丈五郎正忠の作である。
茅葺の絵馬殿は丈久三年(一八六三)の再建で舞台では浄瑠璃、農村歌舞伎等が演じられた。
和五十九年に本殿等、京都府指定有形文化財の指定となる。
 当社に参詣することを「大原志(おばらざし)」といい俳句の季語としても詠まれ、近松門左衛門の浄瑠璃にも採り上げられる。安産・万物生産の神として信仰を集め公卿諸侯の参拝も多く、社記に公家清水谷家、北大路家、日野大納言家、宇和島藩主伊達家等の安産祈願が記される。江戸時代には社勢を延ばすため配札所が設けられ山城地域の配札拠点として綾小路(現京都市下京区善長寺町)の大原神社が担った。
川向にある京都府指定有形民俗丈化財「産屋」は古代の天地根元作りを模倣しており古事記の「戸無き八尋殿」を想わせる。産屋を神、先祖との連続した魂の再生の場、聖なる時空と見て、内部の砂は「子安砂」として安産の信仰対象となっている。

しかし江戸期の文献には「節分祭追儺式」はなく、九鬼氏のこともない、書き漏らしていたのでなければ、この追儺式や九鬼氏との関係などは比較的最近になって繰り込まれた祭礼や由緒話ではないかと思われる。

『丹波志』
大原大明神  古六部郷  河合村 大原ニ建
祭神伊奘冊尊  祭礼 正月廿八日 朝戸開ノ神事 三月廿三日 御遷座神事 御輿出 六月十日 初夏神事 九月廿八日 御殿造立ノ月日神事 御輿出流鏑馬二疋 西ノ方御旅所有 貳町斗当日七時也 白丁著持之
文徳帝仁寿二年三月廿三日桑田郡野々村ノ内西ノ方樫木原ニ鎮座也 于今此所ニモ神社アリ 天田郡河合村ニ斎祭ハ後宇多帝弘安二年九月廿八日ナリ 其後ニ後小松帝応永四年十月十三日造立ノコト有
本社 午未向上屋有 拝殿 三間三間 華表 天一位大原大明神ト篇セリ 舞殿三間三間 下馬札
 小野道風朝臣筆跡ト云
按先ニ北村継元書之 今于爰上ノミ天一位ト篇セシコト甚不審 社家ノ説モ不分 位階ニ正従ノ外可有ニモ非ス 日本国中大小神祇分テハ 皇祖ノ神ニ冠位を授ラレシ例多カレト不及聞事也 道風ノ筆跡非ルコト論之 道風ハ延喜ノ比ノ人ナリ 延喜以前ニ一位ヲ授ラレシ神社ハカソヘテ不知 然ハ正従ヲ訛リテ天トセシニモ非ス 一位授ケラレシ神社ノ神名帳に載ラレサルヘキニモ非ス 又八王子トハ天照大神ト素戔烏尊ノ天ノ安川ヲ隔テ誓ノ内ニ生マセン五男三女ノ神ヲ称シ申セハ伊奘冊尊ヲ斎奉ル社ナランニハ不審ノ事ナリト書タリ 今ハ額ヲ神殿ニ納置テ見ルコトナシ
当社ハ八王子ノ号ナルコト社家嫡々ノ相伝ノ神秘極秘中ノ秘ナル故縁起ニモ略之ト云
 継元按ニ和漢三才図会云伊弉諾尊天照太神ヲ合祭三座トス 春秋祭奠甚怪微ニシテ唯粢?ヲ礼トス神社啓蒙ニ?道ヲ天下ニ示スモノカト書リ 又社家ノ説ニ 鮭 -元魚+生ト書リ和名抄改之 ノ魚数千年領セリ 大神遷座ノ時天児屋根命宮地ヲ尋巡リ水門ノ瀨ニ当リ玉フ時水底ヨリ金色ノ鮭魚浮出テ申テ曰 非水底ニ住 此山ヲ守ルコト数千年也 嶺ニ白和幣青和幣アリテ毎時光ヲ放ツ実ニ大神ノ鎮リ玉フヘキ霊地ナラン 又川水清潔ニシテ不浄ヲ濯キスルコト上津瀨下津瀨ノコトク相合故ニ此所ノ河合ト云リ サレハ此地ニ悪事アラントテ此淵ニ鱒魚点シ 又不浄ノコト有ンハ鮭ノ魚浮出ル事有是自然ノ祥也 則鮭魚ハ末社ニ斎祭リテ飛龍峯明神ト号スト云々 今ニ至ルマテ鮭鱒ヲ食セスハ此故ナルヘシ 此説ヲ聞 継元按ニ天児屋根命ハ天孫瓊々杵尊天降玉セシ時天照太神高皇産霊尊ノ勅ヲ請テ太玉命ト同ク神事ヲ司リ玉ヘリ 神武天皇ノ東征ノ時ナヘモ其孫種子命坐ケリ 文徳天皇ノ此 社地ヲ尋巡リ玉フヘキニ非スマシテ文徳帝ノ比ノ勧請ノ地ハ桑田郡野々村庄ナリ 河合勧請ハ後宇多院弘安年中ナリト云リト書タリ可考 按ニ安永ノ于 今至テ毎歳野々村庄樫原村ノ社家来テ此祭事ニ預ルコト不違 午ノ時祭礼アリ 大原明神桑田郡野々村庄樫原村且天田郡河合村トモニ両社幣串ニ神秘有ト云ヘリ
人小野氏六代ノ書キ物在之 明暦年中女御ヨリ百人一首ヲ奉納シ玉フ 又古ノ御太刀在ト云
奥宮 日ノ宮大明神ト云 境内ニ薬師堂在 此所ノ釣鐘ニ六人部庄ト記セリト云
末社大概
大原町ハ社ノ西ニ在リ東西エ一町半斗西入口ニ坂有テ中低シ 西ノ入口左ニ御旅所在 本社ノ左廿間斗ニ奥院ト云フ日ノ社 巳向一間余四面 此社ノ右ニ小祠六社アリ 是本社ノ人足ノ神ト云 西向 内一社磯部大明神 俗ニ瘡ノ神ト云 本社ヨリ右ノ向ニ天王社 丑ノ方向 此天王ハ鮭魚ノ化神ニテ飛龍峰明神ト云 本社左ニ大河大明神ノ社 俗ニ是狼ノ社ト云 西向 此右ニ小祠三ツ 西向 一ツニ上屋アリ 本社ノ右御輿屋 同向ニ舞殿 拝殿 華表下馬札在 山ニ裾右ニ水門大明神 戌向 左ノ向ニ恵比須ノ社有 又水門ノ社ノ鳥居アリ 水門ノ祭神ハ天児屋根命不浄除ノ神也ト云
俗ニ大原神社ニ詣スルヲ大原指ト云習セリ水門社ヘ先ニ参リ身を清メ本社ニ向エハ掌ニ指コトク願成就スト
境内巳ノ方ヨリ戌亥ノ方エ凡百五十間未申ヨリ寅ノ方エ凡五十間
   奥院  社家   大原 和泉守
        社役人  大槻六太夫
  水門同断         浅十郎
大原ノ内畠高三石毎月御供料綾部御代々寄附 但 内貳石和泉壹石六太夫
同所御供田社ノ西町并社ヨリ奥ニ中ツコト云所又谷ト云所四ヶ所ニ在民家有

天一社
「天一」とする社は当社ばかりでなく、その元宮とする美山町の樫原神社や加佐郡名神大社の大川神社もそうであるし、近い所を探すと
綾部市高倉町の高倉神社
綾部市睦合町の葛礼本神社
福知山市奥野部の御土路神社
がある。

「天一」は、陰陽道の方角神の一つに「天一神」があるが、それではなく、天目一箇神のことであろう。目一つの神、片目の神で製鉄神、鍜冶神と見られる。
天一社というのは、鍜冶神を祀る社と思われる。今はどの社も鍜冶神を主神とは見ていないが、おそらく元々はそうであったのだろうと思われる。今では「天一」のマコトの意味が忘れられて、天一位といった神階のように理解されている。しかし正一位とか従一位はあるが、天一位といった神階は公式には存在しない。、

天一は片目の鍜冶神、この神を祀っていたのであろう、しかし、それは忘れられていき、片目も忘れられ、ただ普通の鬼として、当社の神とされていたのであろう。
「鬼は内」は、そうした由来か隠されていそうに思われる。

実際には鬼といったものは此の世には存在しない、人間の脳髄のなかの観念上のものであるが、それでも節分(鬼遣らい)はしない、鬼は内の風習が、此の世に残るのは、かつては、その地あたりでは鍜冶神(鬼)を祀っていたといった史的な物的な根拠がひとつあったのではなかろうか。



参考


『三和町史』
大原神社の創建と縁起
大原神社は字大原にあり、安産の神として広く信仰を集めている。創建は『丹波志』によると仁寿二年(八五二)三月二十三日、桑田郡野々村(北桑田郡美山町字樫原)に鎮座、弘安二年(一二七九)九月二十八日に大原へ遷座、応永四年(一三九七)十月十三日に社殿が整ったとされる。
同社には、「大原神社本紀」という大原神社の縁起を書き綴ったものが五点残されている。成立年代はそのうちの一点に寛支十一年(一六七一)とあることや、他にも「寛文年中」の物は虫喰いが激しいから明治二十五年(一八九二)に書き改める、などの奥書があることから、同年代の成立であろうと思われるが、全体として非常に創作の感が強く疑問も残るので断定はできない。
「本紀」によると、大原神社が安産の神として信仰を集める所以を次のように記す。
 伊弉諾・伊奘冊尊二柱の神、天地万物の性霊を生ミなし給へは、則天下万物乃父母にしてましますゆゑに、天下太平・国土安穏・宝詐長久・五穀能成・万民農饒を守護し給ふ事、余社に勝れたまふ、天下万民を生ミなしたまふ御神なれハ、殊に以て女人乃安産を守り給ふ
とあり、伊邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、ことに婦人の安産を守る神なのである、としている。
 遷座については、
当社に斉ひ祭る水門大粥神と申は、春日大明神にはましますなり、御大神乃御神託によって、天児屋根命、宮地を求めんと尋巡見たまひて、仁寿二年三月廿三日に、此天田部大原山乃麓、白波立水門の瀬に留り給ふ時に、水底より金色の鮭魚忽然と浮ひ、大明神に言て曰、吾此地を久領せり、此水底に住居て此山を守る数千載なり、嶺に白幣・青幣有て、毎時光を放つ、実に大神の鎮め賜へき霊地ならん、また此所の名大原と云
 此大神万物胚胎して生産たまふ、其神乃鎮地なるがゆゑ大腸という同訓なり また此川乃清潔は流転の不浄を濯き、亦上津瀬・下津瀬の如く逢合が故に、鮭を河合ともいへり、庶幾ハ大神爰に御鎮座ましまさは我則永く久く大神乃末社と成て仕奉らんと云々
として、天児屋根命が宮地を求めていたときに、水門の渕から金色の鮭が現れて、ここに鎮座して欲しいと頼んだというのである。また、
最初、御大神此地江御遷座の時、黄牛に乗りて御遷幸なし給ふ、此故に今に河辺の平石乃上に牛の蹄の跡あり、また当社の産子、黄牛持すといふは比謂なり、河辺と云ハ大神の山内にして、今爰を御釜といふ、(中略)又遷幸の御時、和知といふ処にて休給ふ、今其在所に大木一本あり、此木を祝て明神休木といふ、是其処に大御神休給ふといふ験なり
と、神が黄色い牛に乗ってやって来た遷座のようすを伝え、「お釜さん」に牛の蹄跡があるとしている。また、遷幸のときに和知で休憩をとったとあり、船井郡和知町大倉では、その休憩場所が今も口碑として伝承されている。
 本紀により、もう一点ふれておくと、大原神社は「天一位」という社号をもち、江戸時代には札にもそう刷り込まれていたが、天一位という号は、なにゆえの号であろうか。本紀にそれを示唆する一文がみられるので参考までにあげておくと、「一乾天の方位に御鎮座成ましまし、此謂を以て其位を尊て天一位大原大明神と社号を崇奉るものなり」とある。乾の方位とは北西の方角にあたり、その基準は平安演をさすのであろうか。陰陽五行の方位からの命名であろうことは想像に難くないところであろう。
 以上、本紀の一部をここでは取り上げた。本紀の伝承は、現在も伝えられているものも多いが、作成年代であろうとした寛文十一年(一六七一)は、後でも述べるように綾部藩九鬼氏が初めて大原神社にたいして高三石の地の寄進状を与えた年でもあることから、藩主の庇護による社格の上昇と一層の信仰を集めるためにまとめられたものではなかろうか。
九鬼氏の信仰と大原神社
 綾部に九鬼氏が所領を拝領するのはほ寛永十年(一六三三)であるが、寛文十一年(一六七一)に藩主隆孝から黒印地として高三石の社嶺が保障された。隆季の代には、菩提寺である隆歩興寺や、正暦等・綾部若宮八幡宮・了円寺・高津八幡宮などにも社領の寄進がなされたが、これらは九鬼氏の信仰と同時に領内の撫民と敬神・敬仏を兼ねていた。
 社伝によると、大原神社の社殿や古記録は、明智光秀が福知山に拠ったころに兵火に罹り消失したと伝えられ、九鬼氏によってその社殿が旧態に復したという。『天田郡志』には「明応三年(一四九四)十二月廿三日、綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理」とあるが、これは大原神社文書の中にある明応三年と年号が書かれた願文の奥書の「従五位下九鬼式部少輔隆季修造華表、同三年(以下略)」部分を抽出したものと思われ、明応三年に九鬼氏が存在するわけがないのであるからこれは明らかに誤りである。この願文は奥書の部分に追記する余白がとられ、そこに本文と同筆で書かれていることから、明応三年に書かれたものを後に写すさいに追記したか、明暦三年(一六五七)に作成したさいに年号を間違えたか、どちらかであろうかと思われる。しかし、どちらにしても寛政八年(一七九六)の社殿の再建までの間に九鬼氏の援助により社域が整備されたであろうことは十分に考えられる。
 歴代藩主の参詣も頻繁で、江戸への参勤の中途は通行路でもあるので必ずお参りし、旅の安全祈願をおこなったようである。明和四年(一七六七)九鬼隆貞の参勤にあたっては次のような対応がおこなわれた。社参の様子は、二月六日の四ツ時(午前九時半)ごろに大原村へ。まず、茶屋へお入りになって、上下一〇〇人が弁当をとる。殿様のお迎えとして大原村庄屋が、塩ケ崎(大原と台頭の境界付近)まで出向く。社参終了後、下向の節も同所までお見送りをし、川合組大庄巌は大原蔵の下(お旅杉の下辺り)まで見送る。神主の和泉と目の社祢宜六太夫は宮坂口で出迎えて、町はずれの御蔵の下まで見送る(大原神社文書)。
 藩と大原神社の関係の深さは、藩の年中行事にくみこまれた年始の挨拶にもうかがうことができ、綾部藩寺社奉行の享和年間ごろの成立と思われる「年中定式」(「藩政社寺要記」沼出家文書)によると、一月二日の五ツ半ごろ(午前九時前)神主兵庫と日社の祢宜兵太夫は藩邸へ上り、寺社奉行に挨拶し、藩主にたいしても年頭の御礼を申し上げる、とされている。
 また、綾部藩では、干ばつや飢饉、藩主や側室の病床のさいはかならずといってもよいほど代参を送り祈祷の執行を命じており、天保十年(一八三九)三月には江戸藩邸に大原神社が勧請されている。また、九鬼氏の縁故によると思われる諸大名や公家の代参も宝暦年間(一七五一~六四)ごろから社務記録には記載されはじめ、表37のように多数の代参・寄進があったことがわかる。代参の理由のわかるものはすべて安産祈願の代参で、一例をみると、寛政六年(一七九四)一月十七日「伊予宇和嶋大守伊達大膳太夫様奥方御安産御祈祷御頼、足軽両人率八方ニ一宿為致申候、御初穂銀壱枚金百疋被献候、大坂留守居頭横山勝左衛門殿ヨリ書状至来」(大原神社文書)とあり、宇和島藩伊達氏の奥方の安産祈祷のための代参が送られていろ。さらに、宇和島藩の家臣横山勝左衛門からは、五月二十日付で無事安産の報告の書状も届いており、「大膳太夫奥方妊娠ニ付、安産御祈祷御頼申候処、先頃被致出産、女子被致出生候、右之節差出候御守砂壱封御返申候間、御落手可被下侯」(西山氏所蔵文書)とあり、安産祈祷の参詣者には「守砂(もりすな)」がわたされ、出産後には返納されている。

本殿の建立
 現在の大原神社の本殿は、寛政八年(一七九六)に再建されたものである。ここでは、「社務記録」(大原神社文書)により、再建にいたる動きをみていきたい。
再建の記録は、天明四年(一七八四)の記事から始まる。「天明四辰秋ヨリ相談之上、御本社建立之願書差出候所、巳二月四日御免御座候」、天明五年(一七八五)の二月に再建の許可があり、氏子中へ再建許可の披露がなされ、二十日の晩から日待、二十一日には綾部藩川合狙七ヵ村の者一統が参詣した。三月の晦日には末社の大川社の上臣の棟上げが、若狭の大工二人によりおこなわれた。四月にはいると一日に大原村の再建の奉賀がよせられ、七貫九三五匁が集まり、六月二十日からは神主の兵庫と大原村の友八両人が、下川合村をはじめ郷中の村々へ奉賀初めに廻っている。十一月二十一日には長屋建がおこなわれており、長屋とはおそらく末社を連ねた社のことであろう。
 天明六年(一七八六)の暮れから、建立成就までの間、綾部藩から頂戴していた秋立ての運上米半分と夏立ての三斗と一斗は建立まで献上されるとあり、建立のための収入の一部となっていたことがわかる。また、七年六月十日には寄合を開き、建立の指図がされた。さらに、三月三日から十一日までかかり、材木小屋が建てられている。寛政元年(一七八九)十月六日には末社中へ、綾部藩の木戸恕庵・林理右衛門から額の奉納があった。同年八月二十八日からは、御普請大工杢三郎が十二月二十日まで取りかかるとあることから、本殿の作業の段取りにかかったのであろう。
 寛政二年(一七九〇)三月一日、思いもよらぬ事態となった。町垣内から出火し、本家も向かいの家も残らず焼失してしまうこととなったのである。仕方なく神主家では、台頭村の磯右衛門の宅を仮り住まいとして移築し、八日にこれに移っている。思わぬ火災にあったのであるが、本殿の普請の段取りは順調のようで、五月八日より大工杢三郎普請にかかる、とある。六月五日には神前の用心池と堀・橋の架けはじめがおこなわれた。
 寛政四年(一七九二〉十月六日には「地築」初めがおこなわれた。地薬は、地固め・土地の造成工事をさす。「地築」の初日には「祢込(ねりこみ)」とある。この「祢込」については、大原村のぼり・屋台、木挽より作り物、台頭より作り物、上川合より引き山、岼村より引き山、大身・加用・猪鼻からも引き山、下川合よりは「祢り物無之」、竹田三カ村からは「祢り込歌ふき」、さらに綾部から二〇〇人ばかり「祢込小供かふき」、他にも黒井や水呑、近江からものぼりや「祢り込」があったとされている。これらは、今日にまで伝わっている「練込み」のルーツにあたるものではないかと思われる。練込みの起こりがこれ以前にさかのぼれるという確証はないが、本殿の再建にあたっては大原村のみでなく、広く各地から引き山や幟、屋台が集まって、盛大に「祢り込」や歌舞伎がおこなわれた様子がうかがえる。
 翌五年(一七九三)二月末日から三日間、本殿の石場つきがおこなわれ、三月四日から上屋にかかった。本殿の建てはじめは三月十白で、二十二日までには荒建てが完了した。九月晦日には仮御殿へ遷宮し、四日までに古御殿の上屋を撤去し、古御殿は今の屋敷地へ引き、さらに十三日の夜には古御殿へ遷宮されて、十三日から二十三日までは拝殿の石場つきがおこなわれ、十一月十三日からは拝殿の上仮屋にかかった。十二月一日からは拝殿の建立がはじまり、二十日ごろには荒建が完了している。さらに寛政六年(一七九四)十一月一日には屋根の作業が完了し、八年二月十一日には神楽殿が完成した。
 寛政八年(一七九六)十月二十三日から二十五日までは、遷宮式が挙行された。遷宮式には京の吉田神社から鈴鹿播磨権守と大角勘解由の二人が参り、田辺や宮津、保津などの付近の神社からも神主が訪れて、神役を勤めている。
 天明五年の発起から本殿の落成までの入用は、表28の通りである。人足賃と材料費の内訳は不明であり、再建の支出総計も見当もつかない金額であるので「社務記録」の金額が実質の入用となるかというと不安が残るが、人足賃についてはかなり細かく記録されているので、ほぼ表の通りであろう。また、収入が支出に比して極端に少ないが、とくに造営の期間には公家や各藩からの代参も多く、お供えも多かったものと思われる。また、郷中からの奉賀については記されていないが、大原村からの奉賀額をみるとかなりの額であり、他村からも建立に十分あてることができる金額が寄進されたことと思われる。
年中神事と祭礼
大原神社では「恒例之神事」とされる神事が年に四回執行されている。正月二十八日の「朝戸開之神事」、三月二十三日の「明神遷座之正日」、六月十日の「初夏之神事」、九月二十八日の「直指之最初日」がそうである。これらの神事で現在に伝わるものはなく由来も定かではないが、三月二十三日の明神遷座の日は、野々村大原神社からの遷宮の日として神事が営まれていたことがわかる。
 文政四年(一八二一)の「年内社勤」(大原神社文書)の改正によると、まず元日には鏡餅を一重ずつ、三社様へ供える。三社様とは本社と火神社、水門社であろう。飯台一つの中へ榊の薬・ウラジロなどをしき、その上に三重(餅をカ)にならべ、添物に栗・柿・昆布・きわい豆・ゴマメなどを添えてあげる。他にイワシを月の数ほどを箱に入れで献じる。節分は三社様、天道日三神、月三神へお供えを三膳ずつ、末社へも同様で御菜はそのときのものを献じ、四度の神事も同様である。三月の節分には、ヨモギ・切粉餅に桃の花を添えて献じる。五月には、笹巻き五つずつ、ヨモギ・菖蒲を添えて献じ、他に山ノ芋も供える。七月七日は常の御膳を上げ、同日は古来から土用干しをする。九月の節句は栗・黒豆をまぜ、御膳を上げる。霜月・極月朔日の「講どふ」は、勤番の者がお供えはこしらえ、御菜に大根の輸切り・干蕨・黒豆を茹でて供える。他に、お釜さんで、雑魚を三すくいしてそのうち二匹を献じ、残りはかわらけへ大根・豆・蕨・雑魚四品を入れて地頭(綾部藩主)へ献上する。講をあとで勤めた者は、翌年の正月の神事の神酒一升と御菜八抱を講中の者へ引き凝ぐ。
 大原神社に参詣することは「大原指」(オバラザシ)と呼ばれ、現在でも俳句の春の季語として使われており、未得「をしなべて人の心や大原志」(『日本大歳時記』)などとも詠まれている。とくに祭礼の当日などには参詣者も多かったようである。参詣者の増加にともない、道中に悪さをする者があらわれたために、綾部藩では次のような達をだし、その取り締まりにあたった。
 大原明神年籠之節、参詣も多く、中には酒興之者も有之哉、道橋抔少々宛荒し候趣粗相聞、不埒之事ニ候、以来ハ年籠者勿論祭礼等之節も同様之事ゆへ、行違之節万一作毛并道筋之石垣等踏荒し候者早速其村役人共之内江改置、往来可致候(三ノ宮山内家文書-京都府立総合資料館所蔵)
年未詳であるが、在来の行き違いのときに路肩の田畑や石垣、橋梁などの通行の注意をうながしたものであるが、ほろ酔い気分での参詣の状況が目に浮かぶようである。
 安政二年(一八五五)三月十日から十四までの五日間、大原神社では大原神社一千年祭が執行された。一千年祭にあたっては、木版刷りで「一千年御鎮祭御寄進帳」が作られ、広く寄進を呼びかけている。その呼びかけをうけて、上川合村でも寄進が集められ、金幣一二匁-三人・銀幣八匁-八人・本御膳六匁-一人・常夜燈四匁三分-四人・白幣三匁-三〇人・御膳三匁-五口・御洗米一匁二分-三〇口、奉賀金集めの造用を引いて、しめて二六八匁六分が集やられた。集金には各垣内ごとに世話人がおかれて、それにあたっている(土井家文書)。
 さて、一千年祭の執行にあたっては、京の吉田神社から神官が招かれた。対応はじつに丁重で、三月七日に上川合村庄屋喜平治が代表として京へ出立、九日朝に吉田へ到着し、招聘予定の神官鈴鹿陸奥と大角雅楽にそれぞれ菓子料として二朱と一分が献上された。十日に出京の予定であったが、差し支えができて翌十一日出京、面々は鈴鹿・大角、他に侍七人、下部が四人で、荷物は長持一竿、両掛二荷、笠籠二荷が運ばれ、その日は園部で宿泊。十二日は朝、大原村から年寄徳之丞と和泉守伜縫殿が桧山のとうふ屋まで出迎え、戸津川峠や大原中津戸口でもそれぞれ出迎えた。大原での饗応役は大原村・下川合村・上川合対の各庄屋が勤め、料理は綾部のさらさ屋庄兵衛・森本屋弥次兵衛が受け持った。祭礼が終了し十四日には大原村を出立、帰途についた。桧山までは、人足として郷中の村々から二、三人ずつが出され、村役人二人も同道した(土井家文書)。このような丁重な応対をみるとき、幕末にいたるまで吉田神社の権威がいかに高かったかということがうかがわれるであろう。
 一千年祭が執行された期間は、雨が降り続いたので、参拝者のお供えが少ないのではないかと心配していたが、算用尻よりも二貰匁あまりもたくさん集まったので、その費用で神輿の塗り替えがおこなわれた(土井家文書)。
米が停止するという事態となった。この事件は次のように推移した。
「綾小路出入 綾部地頭ヨリ京与力衆へ内聞願書写」(大原神社文書)によると、京陵小路からは初穂運上として二石三斗四升ずつ、毎夏秋に運上されており、たしかに元禄年中までは上納されていたが、祖父の大原和泉守が死してのち、しばらく名跡がないうちに運上米を納めないようになり、享保四年(一七一九)に養子である大原土佐守が家督をついだのち、京綾小路へ催促をしたが、一向にとりあってくれなかった。そこで、享保七年(一七二二)に吉田神社へ訴えたところ、綾小路の社務森石見が述べるところには、

  私義幼少二而家続仕候処、左様之訳合曽而存不申、併申伝候者、以前老巫女を差置、丹州大原社之午王を賦候故、初穂米をも差出候得共、当時ハ相止、私親式部御許状申請候而ヨリ、土佐父和泉へ相対ニ而相済候後、京綾小路大原社之午王を賦り申候趣、其節御本所様ニ而被仰渡候者、丹州大原社之午王を賦り候著、初穂来をも可差出筈ニ候得共、綾小路大原社之午王を賦り候者、及其儀申間敷候旨
つまり、かつては初穂米を差し出していたが、その件については石見の父式部と土佐の父和泉の間ですでに了解したことである、とした上で、綾小路の札を配っているのであるから、上納はする必要はないとして、吉田神社の曖いにより、土佐は午王に「大原本社」と札に「天一位大原大明神」と書きつ見の連署の請書を享保七年三月十五日に吉田神社に提出した。土佐の息子の兵庫は、この請書の一件を「其頃土佐若年之義、殊ニ養子ニ而家続仕間も無御座候故、心底ニ者不相叶候得共、追而再御吟味御願も得不申上、右之通ニ而無是非御請申上」と、そのころはまだ土佐も若年で家督も間もないころであったので、やむを得ず承知したのだ、としている。この曖いにより、綾小路は山城国に配札の独立権を得たのである。

『福知山市史』
大原神社(元府社)
 古い記録ほど付会のところが少ないと思うので、例によって「丹波志」の記録に基づいて概説し、その後の変遷について注記することとする。
 大原大明神は古来の六人部郷の河合村(後川合村と書く。現三和町)字大原に鎮座する。丹波志が書かれたころの祭神は伊奘冊尊、祭礼は一月二十八日で、その朝戸開きの神事が行われた。三月二十三日には神輿が出て御遷座神事が行われた。
 六月十日が初夏の神事、九月二十八日は御殿造立(実は神社創祀の紀念日)の神事で御輿が出、馬二匹で流鏑馬が催された。御旅所は社の西の方二丁(約二百メートル)ばかりのところにあり、当日は七時に白丁(白布の狩衣を着た仕丁)が神輿をかついで御霊を遷座した。
 近年は五月三日に大祭を行っている。明治・大正のころは秋祭りもあったようであるが、現在は執行していない。
 文徳天皇の仁寿二年(八五二)三月二十三日、桑田郡野々村庄の樫木原(かたぎはら)村(現在美山町樫原)に鎮座した。現在樫原に同名の神社があり、大原ではそこを「元社(もとやしろ)」といっている。安永のころには毎年樫原村の社家(神主)が来てこの祭に参与したとあるが、現在はそのことは行われていない。天田郡川合村大原に移ったのは後の鎌倉時代の弘安二年(一二七九)九月二十八日であり、その後室町初期の応永四年(一三九七)十月十三日に社殿が造立された。境内の建物には本社(上屋付)と、拝殿(二間に三間)、舞殿(三間に五間)、華表(鳥居)、下乗札も立てられていた。鳥居には「天一位大原大明神」という篇額が上っていたとあるが、現在の額には「天一位」は省かれている。そしてその元のものと思われるものが拝殿の内側に、またそれを写して金文字にしたものが、境内の絵馬堂に掲げられており、やはり「天一位大原大明神」と、顔真卿流に似た肉太の字で書かれている。鳥居に掲げられていた額の字は、書道の三筆とうたわれた小野道風の筆蹟であると言っているが、これについては「丹波志」の著者古川氏は次のように述べている。
  先に北村継元が『太邇波記』に、「鳥居の額が小野道風の筆になるといわれているが、上に〔天一位〕と書いているのははなはだ不審である。社家の説明も明確ではない。そもそも位階には正従の外あるはずがなく、日本国中大小の神祇で、とくに皇祖の神に冠位を授けられた例は多いが、天一位というのは聞いたことがない。またこの額の字は道風の筆蹟ではない。道風は延喜年間(九○一~九二二)の人である。延喜以前に一位を授けられた神社は数えればわかるはずである。従って正従を訛って天(原文)としたものでもない。一位を授けられた神社が〔延喜式〕の神名帳に載っていないはずはない。また八王子とは天照大神と素戔嗚尊が、天の安川をへだてて誓われて産まれた五男三女の神をさすのであるから、伊奘冊尊を斎きまつる神社には不可解なことである」と述べている。
 今(安永のころ)は、額を神殿の中に納めてしまって見ることが出来ない。当社を八王寺と号することは、社家代々相伝の神秘であって、極秘中の秘であるから、神社の縁起にもこのことは省略しているのであるという。
 継元が調べたところ、「和漢三才図会」には、当社の祭神は伊奘冊尊の外に伊弉諾尊と天照大神を合わせて祭って三座とし、春秋の祭典がはなはだ軽微(簡素)であり、ただ粢?(米の餅と白米)を供えるだけである。そのことについて神社啓蒙(向井宗因著、寛文七年成、全国数百社の縁起や行事の解説)に謙遜の徳を天下に示すものかと書いている。(以上丹波志)一方「天田郡志資料」には当社の祭神を伊邪那岐尊、伊邪那美尊、天照大日ヒルメ貴尊、月読尊とあり、現在同社では祭神を天照大神と伊奘冊命と月読尊外の三神としている。

「鮭・鱒の話」
 やはり丹波志の文であるが、大原神社の記述のうち、社家の説として次のようなことがある。
 この山に鮭が数千年住んでいる。伊奘冊命を遷座する時、天児屋根命が宮地を探し廻り、水門の瀬をみつけた時、水底から金色の鮭が浮き出て来て申すには、「私は水底には住まず(原文判読)、この山を守ること数千年である。嶺に白和幣、青和幣(ともに神に供える麻布)があって、いつも光を放っており、この山こそ大神の鎮まりたもうにふさわしい霊地であろう。また川水は清冽であって不浄を濯ぐのによく、上つ瀬下つ瀬のごとく相合しているので、この地を河合(川合)と呼んでいるのである」と、だからこの地に悪事が予感されるときは、この淵に鱒がちらちら上って来、不浄の事がある前には鮭が浮いて出るのであろう。これが自然の祥(兆)である。そうしたことから当社では鮭を末社に斎き祭ってあって、飛竜峯明神と呼んでいるのがそれである。いま(安永)に至るまで、この地で鮭や鱒を食べないのはこのためであらう。
 注 上記水門(みなと)というのは、大原神社の真下の川岸に、石灰岩の断崖があり、その下に、川の浸食による洞穴があって、里人はこれを「オカマ」と呼んでいる。この穴は山をつき抜けて、船井郡瑞穂町の質志の鍾乳洞へ通ずるともいう。こういう神秘的な奇観を呈するところには、人々はいろいろの話をつくり、それが増幅されて伝説化していくのである。
 昭和の初めごろには、質志の鍾乳洞へ鶏を入れたところ大原神社の下へ出たという話も残っていた。それはともかくとして「オカマ」の下は真青な淵をなしており、ここを神聖な水門と呼んでいるので、ここにも民俗学者のいう穴に対する表現困難な微妙なマヂックを見ることが出来る。
 茂正は社家の説に続けて次のように記述している。
 継元(注、北村継元・大邇波記の著者)が、さきの金色の鮭が天児屋根尊に、伊奘冊尊の神鎮まります霊地を教えたという話を聞いて考えたことは、天児屋根尊は天孫瓊々杵尊尊が降臨されるとき、天照大神や高御産日尊の勅を請けて、太玉尊とともに神事をつかさどられたことがあるし、神武天皇御東征の時も、その孫種子尊が随従されたのであった。してみると文徳天皇の時に大原神社の社地を選定されたというのは解し兼ねる。もしそうだとしても、最初勧請されたところは、桑田郡野々村庄(現美和町)であり、川合村に勧請されたのは後宇多天皇の弘安年中のことであって、まだまだ検討の余地があるというのであった。とにかく現に今(安永のころ)、この大原神社の祭りには野々村庄樫原村の大原神社の神主が来て、式典に奉仕するのである。ちなみに祭礼は正午ごろに行われた。なお大原神社では、当社でも元社でも双方の社の幣串に何か神秘なことがあるといっている
 人は川合の大原神社には、小野氏(道風か)第六代の人の書物(筆蹟)が蔵せられているとか、明暦年中(一六五五~一六五七)に宮中の女御(中宮の次)より百人一首が奉納されたとか、古太刀があるなどとも言ている。同社の奥の宮は日ノ宮大明神といった。境内に薬師堂がありそこの釣鐘に「六人部庄」と記してあるという。

 大原神社の末社
当社の末社についてはそれぞれの細かい位置のことは省略して、一~二特色あるものについて述べると、その中の磯部大明神は瘡の神とある。俗に疱瘡(天然痘、転じてできものの神)といっている。本社の右に天王社というのが前述の飛竜明神(前には飛竜峯明神とある)であり、左に大河大明神があり俗に狼の神という。水門大明神は、天児屋根尊を祭るといい、本社に参けいする前に必ずこの宮に参拝するならわしである。俗に大原神社に参拝することを「大原指(おいばらざし)」という。今でも神主の話の中に、春指、秋指という言葉が出る。その意味は水門社に先に参り身を清めてから本社に参拝する。すると掌にさすごとく(原文)願いごとが成就するというので、指(そし)というのである。大原神社は毎月の御供料として、米三石が綾部藩主より認められ、内二石は神官大原和泉守分、一石が社役人大槻六大夫分であった。現在も御供田という地名がある。

  同神社崇拝の歴史
以上おおむね「丹波志」に基づいて、述べたのであるが、昭和の初めの「天田郡志資料」によると、「後小松天皇応永四年の社殿造営については、当時の領主大原雅楽頭発起寄進して本殿、拝殿、舞楽殿等整ふ。此時領主より近傍数村に令して、当村の産土(うぶすな)大神たらしめたという。その後元亀、天正の交大原氏滅び光秀本国を領す。当時火災にかかり社殿、社記の類悉く焼失す」寛永十年(一六三三)、「九鬼氏の綾部藩を治するや明正天皇寛永十一年(注、一六三四)始めて社領三石を寄進せらる。その間九鬼氏は事大小となく必ず当社に奉告せらるるのみならず、領内における百穀豊穣の祈願、旱天には祈雨等神楽を奉奏して神助を奉仰され、後土御門天皇明応三年(皇紀略、後西天皇、明暦三年〔一六五七〕の誤りであろう)十二月廿三日綾部藩主九鬼隆季華表修造同参道修理。後桜町天皇明和四年(一七六七)十一月六日の藩主親拝。仁孝天皇天保十一年(一八四○)十月神林に接続せる山林を寄進せらる。今の保安林是なり。当社は安産の守護神、穀物豊熟の大神としてその名漸く遠近に聞え奏者四時絶ゆることなし」とある。(原文皇紀は西紀に訂正)
次に社記に存する丹波内外の公卿、諸大名などの崇敬の記録を列挙してある。

安永年中       丹波園部藩主小出美濃守の代参
寛政二年春      公家清水谷家の代参
同 三年二月廿八日  公家北大路弾正少弼の代参安産御守砂拝借
同 年七月十五日   丹波国峯山藩主京極家より同前
同 年八月廿三日   日野大納言家より同前
同 十二年十二月七日 伊予国宇和島藩主世子夫人より代参安産祈祷
嘉永二年二月廿六日  丹後国宮津藩主本庄侯夫人奉賽として御供田四畝六歩寄進あり
当社の社殿は近郡にもまれな規模壮大なもので、寛政八年の建築であるが、第二次大戦後大修理が行われた。
この神社には民俗学的に興味がある伝説・俗説・付会の説・慣習などが多く、なお祭神を安産の神とするのは、その社名の発音に由来するものであろうし、末社大川神社を狼の神となすのも「オオカワ」から「オオカミ」に転じた可能性が多い。こういうことは、付近におおかみがいた昔、庶民の知識が一般に低かった時代に立ちかえって、素朴な信仰を想定する必要がある。

『京都新聞』(2006.2.3)
*赤鬼・青鬼*民家訪れ厄払う*大原神社一帯で*
地元の住民がふんした赤鬼と青鬼が民家を訪れ、家庭の厄を払う「鬼迎え」が二日夜、福知山市三和町大原の大原神社一帯で行われた。子どもたちは鬼の訪問にびっくり。大人は家庭内の鬼を引き取ってもらえるとあって、酒を振る舞って歓迎した。
 大原神社の追儺式は「鬼は内、福は外」と逆さにいうしきたり。かつてこの地域が綾部九鬼藩の領地だった配慮とされ、本殿へ追いやられた鬼は神様により改心する。十年前に、地元の「大原話し合いの会」が各家の鬼を迎える行事を始めた。
 全身を赤鬼と青鬼の衣装にまとった男たち六人は各戸を訪問。「悪い鬼はおらんか」と呼びかけ、おじけづく子どもの頭をなでた。果敢に豆をぶつける子どももいた。鬼はにぎやかに計七十戸を巡り、五色豆を渡して回った。








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 Manhã de Carnaval 映画「黒いオルフェ」より カーニバルの朝

FMまいづる77.5開局7周年記念特別番組「BRAZILIAN TALK & BOSSA NOVA LIVE 2023」が公開生放送で、浜のMUSIC BAR HAMOでありました(4/18)。
HAMOは舞鶴唯一のライブハウス、歌っているのは、FMまいづるのパーソナリティでもあるAkari(Carinho)さん。BOSSA NOVAの名曲「カーニバルの朝」も歌っておられた。画像はスマホのもので、もうチト綺麗なものを見たい方はWatch | Facebookで見ることができます。
オルフェはギリシャ神話のオルペウスのことで、竪琴の名手・吟遊詩人、彼の歌声は木や石の心まで揺り動かした。ヘビに噛まれて死んだ妻を冥界から連れ戻す途中で、「決して振り返ってはならない」の禁を破ってしまい、妻は再び冥界へ戻ってしまう。日本神話のイザナギ・イザナミの物語に似た神話が伝えられている。
「黒い」というのは、肌が黒いの意味と思われるが、chatgptに「ブラジルの黒人の歴史とブラジル音楽について」聞いてみると、
「ブラジル音楽は、白人、黒人、黄色人と様々な民族文化が混在する文化的背景を基に、 ヨーロッパ 、 アフリカ 、 インディオ などの伝統音楽の融合がもたらした、世界に類例も稀な多元的な音世界を構築している。アフリカ系ブラジル人は、16世紀から労働力としてアフリカ各地から連行された歴史があります。
ご質問の内容については、ブラジル音楽においてアフリカ系ブラジル人の影響は大きく、サンバやボサノバなどの音楽にも反映されています。」ということである。
人類はアフリカ原産なので、われら黄色のJapaneseも遠い祖先は黒かったと思われる、ボサノバが好きなのもそうした因縁かも。

(214) Manhã De Carnaval! - YouTube
(216) André Rieu - Manha De Carnaval ft. Carla Maffioletti, Carmen Monarcha, Kimmy Skota - YouTube
(214) 【ポルトガル語】黒いオルフェ - カーニバルの朝 (Manhã de Carnaval) (日本語字幕) - YouTube
(217) Manhã de Carnaval de Orfeo Negro - YouTube

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