丹後の地名プラス

そら知らなんだ

由良川の村々と社
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -38-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


帰化人と渡来人
志楽と阿良須
真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説
浦島伝説
羽衣伝説
竹野媛と丹波大縣
日葉酢媛と朝廷別命
徐福伝説
シンデレラ伝説
安壽姫伝説
古代の土器製塩(若狭・丹後)
億計・弘計二王子伝説
飯豊青皇女・市辺押歯皇子伝説
冠島と沓島
幻の凡海郷
母なる由良川
由良川舟運
由良川の水害
由良川の村々と社
福知山20聯隊の最後①
福知山20聯隊の最後②







『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

律令時代の由良川

『加佐郡誌』の郷域比定図↓



凡海郷

幻の凡海郷

大川神社(加佐郡名神大社)


案内板
大川神社由緒
開創は五世紀末顕宗天皇元年(四八五)四月二十三日宮柱を立て鎮祭したところから始まったとされます。
その後、天武天皇五年(六七六)には勅使をもって幣帛が捧げられ、さらに持統天皇七年七月(六九三)には「祈雨の政」が行われたことを伝えています。平安期に入ると、貞観元年(八五九)には神位の昇進があり、十世紀には延喜式内名神大社に列し、丹後国きっての著名な古社であります。
下って明治五年郷社となり、大正八年府社になり、大川大明神と尊称されて来ました。主神は保食神・相殿に句々廼馳命神(木神)・軻遇突智神(火神)・埴山姫神(土神)・金山彦神(金神)・罔象女神(水神)の五元神が祭祀されています。例祭は四月二十九日、大祭は十一月三日で、御幣渡御・種々の奉納行事があり、伝説も数多く、什物として室町時代「享徳二年(一四五五)の銘がある特異な形の鎌鑓があります。

『舞鶴市史』
大川神社
由良川筋(加佐)の大川に鎮座する大川神社は、「延喜式」において名神大の待遇をうけた。名神大とは国家の臨時祭の一つである名神祭に「あしぎぬ五尺、綿一屯、絲一く、五色薄あしぎぬ一尺、木綿二両、麻五両…」(延喜式・巻三)などの頒幣にあずかる神社をいい、全国二百八十五座、丹後国では七社が該当し、加佐郡では大川神社のみであった。よく世間にいう大明神の尊称は、この名神祭の頒幣にあずかる神々を指すことから始まったとされる。また同社は貞観元年(八五九)に従五位上、同十三年(八七一)に正五位下に神階が進められた(三代実録)。舞鶴地方一帯の神社境内には大川社の社額を掲げた境内社を見かけるが、この神の信仰の広がりを窺うことができる。
祭神は保食神(丹後田辺府志)、豊受持命(丹哥府志)、稲倉豊宇気持命(丹後旧事記)、五元神などと称し、他に大川大明神、正一位五社大明神(丹哥府志)、天一大川五社大明神(旧語集)ともいうが、明治政府編集の「特選神名牒」は祭神欄を空白にしている。社名や祭神は一社の長い歴史の推移によって、しばしば変化する例が多いから、大川神社の場合もそれが考えられないわけではない。しかし神名の変化はあっても、主として農耕に関する神であると思われる。同社の創建について近世の地方誌に引用の縁起を要約すると「顕宗天皇の元年三月に由良の漁師野々四郎に、金色の鮭に乗り五穀と桑蚕の種を持つ神が垂迹して、大川の地に鎮座したい旨の託宣があって、九月に社殿を造営した」のが始まりであると伝承されている。伝承の信憑性はしばらくおくとして、この縁起が説く祭神像は、明らかに農耕神であるが、おそらく、祭神は創建初期には人格神としての固有の名を持たなかったと考えられる。また魚類の背に乗って神が垂迹する型は他にも類例が多い。この伝承は承保元年(一○七四)に旭翁なる人物が採録したとされるが、伝承内容は〃大川の神〃の信仰宣場に大きな役割を果たしたと思われる。また同社の至近地点に古墳があり注目される。

『郷土誌岡田下』
この地方で神社と言えば、まずなにをおいても大川神社をあげねばなるまい。鎮座されたのは約千五百年前といわれ、氏子は由良川筋で三十五字、舞鶴湾沿岸で七字あり、その総鎮守として古くから尊崇の厚い大社である。
五穀豊穣、養蚕及び病除、安産の守護神として、近隣に有名である。
大川神社の氏子は次の通りである。
 大川 志高 富室 上漆原 下漆原 長谷 河原 下見谷 西方寺 岡田由里 滝が宇呂 地頭 大俣 小俣 高津江 三河 桑飼上 桑飼下 久田美 真壁 三日市 上東 下東 中山 水間 水間下 蒲江 油江 神崎 由良 石浦 和江 丸田 八田 八戸地 上福井 下福井 喜多 大君 吉田 青井 白杉
 ほかに外氏子として、清道 今田 十倉 城屋などがある。

『丹後国加佐郡旧語集』
九月廿八日氏子村々ヨリ狂言踊ヲ勤ル。氏子三河村上桑飼村ヨリ下東村西川筋ノ村々浦方白杉青井大君吉田喜多村迄村々順番ニ踊狂言ヲ掛ル。其外福井上下上安久東ハ清道南ハ今田十倉城屋迄此分ハ狂言ハセサレトモ宮造営ノ抔時分役儀ヲ勤。三月廿三日ハ日尽社参皆々氏子也此宮初ハ山上ニ在シ往来之船見通シニテタタリ有故今ノ所ニ移ス。今以大川八戸地村ノ者鮭ヲ不食川向三日市村ノ者ハ他所ニテハ食ス地ニテハ不食。八戸地村白髭明神ト云有大川之鍵取ノ神ト云伝ル由。


安産の神とされ、天一位大川神社ともいう。、天一は天目一箇神であろう。鍜冶神が祀られたものか。当社の神使は狼という。

『丹後国加佐郡旧語集』
天一大川五社大明神。
或夜至三更有一道光螢宛モ如昼見怪人乗鮭魚勧請之翌年正月廿三日達天聴勅許天一大川大明神。

『宮津府志』
大河大明神  在加佐郡大河村
 祭神 天保食持神
 楼門ノ額二天一位大河大明神ト書ス
国俗云當社の神使は狼なり當国近国にて田地へ猪鹿の属出て害を爲す時其村より當社に祈誓をかくれば必ず神使の狼其地に至て田地を護す猪鹿の属遠く逃げ去て害をなさずとなり、此外當社の神異奇瑞多しとなり。
,
「神名帳考証」三十八 伴信友
大川神社 名神大
在(横付の二)大川村水辺(横付の一)信友云今大河原大明神トイフ若狭国人猪鹿の田を傷ふを愁ひて此神に祈て狼を借るといふ事あり其祈願に詣でて帰らぬほどに既に其村へ狼来りゐるゆゑ猪鹿出ずかくて其定めて借たる日限をすぐれば一つも居らずと云ふこの事慥なる事なり


安産と狼と鍜冶屋には何か関係がありそうである。
古代の鍛冶集団が安産の呪術を持つと信じられ、狼も安産の守り神と考えられたことから「鍛冶屋の婆」「千匹狼」のような、鍛冶屋と狼を繋ぎ合せた物語が完成したのではないか、ともいわれている


志託郷


『丹後風土記残欠』
志託郷、本字荒蕪。志託ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王官軍ヲ以テ陸耳御笠ヲ攻伐ノ時、青葉山ヨリ墜シ之ヲ遂ヒ、此地ニ到ル。即チ陸耳忽チ稲梁中ニ入テ潜匿レル也。王子急デ馬ヲ進メ其稲梁ノ中に入テ、殺サントセントキ、即チ陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。南ニ向テ去ル。是ニ於テ、王子甚ク稲梁ヲ侵テ荒蕪(シタキ)為ス。故其地ヲ名ツケテ荒蕪(シタカ)ト云フ(以下十四行虫食)

地名の意味を荒蕪の地としている。「しだく」という言葉はほとんど使われることはない古い言葉だが、国語辞典などには
しだ・く(他五)カ(コ)・キ(イ)・ク・ク・ケ・ケ①荒らす。ふみにじる。②砕く。つぶす「ふみ-」
『広辞苑』には、
しだ・く 〔自他四〕(古くはシジタク)①荒れる。乱れる。堀河百首秋「大原の野風に-・く刈萱のしどろにのみも乱れけるかな」②(通例「踏み-・く」の形で)荒らす。にじる。蹂躙する。源橋姫「そこはかとなき水の流れどもを踏み-・く駒の足音も)③(通例「噛み-・く」の形で)砕く。つぶす。ひしぐ。浄、ひらかな盛衰記「ずんずんに引裂き、口に含んで噛み-・き」
とある。
今では使われることもない日本語だが、浮島丸事件の追悼歌に、
はまなすの花 咲きそめて
          韓 丘庸 作詞
2、踏みしだかれし 浜辺にも
  行きかう船の マストにも
  つらき涙の 港街 …
作詞者は北朝鮮の人であろうが、ナミの日本人以上の日本語ツウのようである。

長崎県上県郡峰町志多賀・千葉県香取郡山田町志高・福岡県築上郡新吉富村尻高(しだか)などの地名がある。

「和名抄」高山寺本は「之多加」と訓ずる。平城京出土木簡に、「□□郡志宅里猪食部装白米五斗」と記されている。「広隆寺来由記」に、広隆寺縁起に「今上皇帝有勅、永於当寺、勤修上件法会、故毎四時至今修焉、今上皇女御、以丹後国志高庄、而為薬師如来燃燈之料也」とあって、村上天皇の女御から薬師如来の燃灯料として広隆寺(京都市右京区)に寄進された。


伊智布西(いちふせ)神社(式内社)

伊智布西神社。舞鶴市字桑飼下杉ケ迫
由良川右岸に鎮座、桑飼下遺跡の碑がある。府道脇である。祭神は道振命(丹後旧事記)、あるいは伊奘諾尊・伊奘冉尊(伊智布西神社取調書)などの説がある。「延喜式」神名帳の加佐郡伊知布西神社に比定される。旧村社。江戸時代には市布施明神(旧語集)、市布施神社(丹哥府志)と称され、桑銅下村の氏神であった。境内社に神明神社・稲荷神社・三柱神社・兵主神社・水無月神社・地主神社があり、末社に原谷神社がある。

『加佐郡誌』
祭神 伊奘册尊
由緒 延喜年中帝都雷鳴烈しい際御祈願に依って同五乙丑の年御造営になつたものであるが、其の頃は当村名を伊智布西村と称していたのによつて伊智布西神社と號したのである。
境内神社 神明神社(祭神 国常立命)
     稲荷神社(祭神 保食神)
     三柱神社(祭神 奥津彦命 奥津姫命 火産霊命)
     兵主神社(祭神不詳)
     八坂神社(祭神 素盞鳴尊)
     水無月神社(祭神不詳)
     地主神社(祭神不詳)

『舞鶴市史』
桑飼下に伊知布西神社があって、延喜五年(905)の創祀と伝えられている。祭神は道振命(丹後旧事記)、伊奘諾尊、伊奘冊尊などと混乱がある。「丹後国式内神社取調書」に道振命について、越前国敦賀郡の市振神社(式内社)を参考にあげているが、その経緯は明らかでなく、伊知布西と市振の字音の類似から引用したものと思われる。「特選神名牒」はこの市振神社は廃絶したとしている。なお、境内社の兵主神社は全国的に分布しており、奈良県の「穴師坐兵主神社」(名神大)が有名で、兵主神は穴師の神人により信仰が伝播されたらしく(折口信夫全集)、上安の高田神社にも同名の境内社がある。


近くに「桑飼下縄文遺跡」がある。












有道郷


『丹後風土記残欠』
有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食)

蟻通神社(丹生川上神社)を思い浮かべるような説話で、阿良須神社の裏山は確かに赤い。水銀が採れた地かも知れないが、しかし蟻(水銀坑夫)ではなく、ar地名が元ではなかろうか。というのは有道は十倉神社ばかりの地だからである。

アリチもアラスも同じ語源と思われ、対岸の在田(ありた)などとともに、古い渡来系の地名として注目されてきた。
『福知山市史通史編1』
由良川筋に有路・在田・荒河・荒倉・有岡等と、いわゆる朝鮮系の地名と思われるものが極めて多いことも一考すべきことであろう。
由良川沿岸には有路・阿良須・荒河・荒倉などar発する朝鮮系の地名が多い。

『由良川改修史』
由良川筋に有路・在田・荒河・荒倉・有岡等のいわゆる韓国系の地名の外に、河岸沿いに常津・天津・高津等の港を意味する地名も極めて多いことも一考すべきであろうと、芦田完先生は述べられている。

arの意味。ずいぶんと古い時代の、たぶん弥生時代あたりの当地の歴史を残す地名であろう。今では何の事やら見当もつきかねる化石のような地名となっているが、日本語ではないナと気付いた人の知性はスルドイ。アリラン峠のアリアラではなかろうか…
『記紀萬葉の朝鮮語』
「バル・アル」の例
 古代の東夷人は一様に君主やその始祖は「日の子」だと信じていて、族名や王の諱に「バル・アル」をつけている。「バル→アル」の「アル」は「日・光明」を表すのであるが「アル」はまた「卵」の訓とも一致していて、君主の始祖の誕生神話に卵生説話が多い。なおこの「バル」を古文献には、
「発・伐・弗・不・夫里・夫余・白・佰・百・貊・朴(以上音借)、「火・原・平・坪・評・佰・昭・明・弧」(以上訓言)などの字で表記されている。「バル」の国名-卑離国、加来卑離国、楚山塗卑離国
(以上馬韓)、巴利国、己百支国(以上倭国)
 「バル→アル」と音転した用例
 王威赫怒、渡阿利水…於利城・奥利城・也利城(好太王碑)
 阿利那礼河(日本書紀巻九・仲哀天皇九年)
 一離国、弁辰安邪国、伊邪国(魏志・東夷伝)

『新撰姓氏録抄』
未定雑姓。右京。
三間名(ミマナ)公。
 彌麻奈国主牟留知王之後也。初御間城入彦五十瓊殖天皇(諡崇神)御世。額有角人。乗レ船泊于越国笥飯(ケヒ)。遣人問曰何国人也。対曰。意富加羅(オホカラ)国王子。名都努我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。亦阿利叱智干岐(アリシチカンキ)。…
大加羅の王子、都怒我阿羅斯等(又名、阿利叱智干岐)が気比浦(敦賀市)がやってきた、ということである。アラシトとアリシチは同じ意味で、発音上の若干の違いと思われる。「シ」「ト」「チ」は何れも人(君主や始祖)に対する尊称、輝く人の意味である。日本語にすれば日子(彦)や日女(姫)であろう。

『青銅の神の足跡』
阿智という人名は阿利叱智の叱が省かれて阿利智となり、さらに阿智となったものと推定される。敦賀阿羅斯等の阿羅斯等も阿利叱智と同語であるといわれる。閲智(アルチ→アチ)は朝鮮で小児を呼ぶときの俗語だといわれている。この名はよく王名の後尾につけられている。
阿利叱智のシが落ちて阿利智となったとしている。有道はこの阿利智であろう。
「蟻道彦」はヒコヒコになってしまうが、輝く日子様という君主が統治されている地のことであろう。


阿良須神社(加佐郡式内社)


境内の案内看板
安産の神式内阿良須神社。阿良須神社は、町内唯一の式内社である。(丹後風土記残欠)には、天火明命(あまのほあかりのみこと)(海人族の祖神)が飢えてこの地に来た時、この土地の神に助けられ、この土神に蟻道彦大食持命(ありじひこおおけもちのみこと)という称号を与えたとのべられている。尚、この地にある神祠が蟻巣と言われ、転訛して阿良須となったと記されている。祭神は神吾田津媛命(かむあたつひめ)であるが、別名木花咲耶姫の名の方が有名である。この神は、日本神話によると、瓊瓊杵尊が高千穂の峰に天降った時、最初に出合った絶世の美人で山の神を代表する大山祗神の娘である。のち瓊瓊杵尊の妃となり、火照命(山幸彦)や火遠理命(海幸彦)を生んだ女神である。(丹後国式内社取調書)には、阿良須神社は(安産の神)と記され、古来(子宝・安産・女性の守護神)として崇敬されている。

阿良須神社は舞鶴市志楽にもあり、渡来系の地名とセットで見られる、京丹後市大宮町周枳の荒須。また山背国葛野郡に歌荒樔田(うたあらすだ)の地名が知られる。

『日本書紀』
(顕宗)三年の春二月の丁巳の朔に、阿閉臣事代、命を銜けて、出でて任那に使す。是に月神、人に著りて謂りて曰はく、「我が祖高皇産霊、預ひて天地を鎔造せる功有します。民地を以ちて、我が月神に奉れ。若し請の依に我に献らば、福慶あらむ」とのたまふ。事代、是に由りて、京に還りて具に奏し、奉るに歌荒樔田を以ちてす。(歌荒樔田は、山背国葛野郡に在り)。壱伎県主の先祖押見宿禰、祠に侍へまつる。
歌荒樔田は、宇多野駅(京福電鉄)や有栖川駅(嵐電)のあるあたり、宇多野と呼ばれるあたりから秦氏の根拠地である。嵐山もこの転訛であろう。これくらいのことは誰か先に書いているだろうと調べてみると、
『日韓古地名の研究』(金沢庄三郎)に、
有栖川の有栖はもと荒樔(あらす)で、後に嵐山(あらしやま)と書く、
とある、その通りであろう。
尚、阿良須神社も「室尾山観音寺神名帳」では正三位 有栖明神としている。
また同神名帳の「丹波郡二十九前」に「従五位上 有栖明神」の名が見える。この社はどこだろう。
『中郡誌槁』
字「アラス」といふは今城跡の形跡なし荒塩神社此所にあり或は神社より起りたる字名にあらざるか

荒塩神社がアラス神社であるよう。荒塩のアラはar、塩はシホでソホルのことであろう。アラス神社はar新羅神社が元の社名であろうか。
境内に古墳があるという。

十倉神社
『大江町誌通史編上』
町内における唯一の延喜式内社であり、祭神は神吾田津姫命(別名・木花開耶姫)である。付近には古墳跡もあり、境内からは須恵器も出土し、前面の水田には条里制遺構も確認され、古い由緒を裏付けている。この阿良須神社のある有路地区には四つの十倉神社があって、いずれも神吾田津姫を祭神とし、十倉五社と呼んでいる。

有道は十倉神社ばかりで、十倉五社と呼んで、二箇、矢津、五日市、南有路、北有路(阿良須神社)がある。
トクラと呼んでいるが、ジュウクラが本来の読み方で、それは叔羅(しくら)川や神楽(しぐら)神社と同じようにシフル=ソフル(新羅)を味していると推測される。
神楽、真倉、砧倉神社など(当シリーズの3を参照)

川守郷


『丹後風土記残欠』
川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原(今の千原)ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原(今の蓼原)ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山(大江山のこと)ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占(由良の石浦)ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食)

川守は蓼原のあたりが中心であったのであろう。蓼原は名物の「鬼饅頭」屋さんがあるあたりで、古くから水運の船だまりになっていた低い所である、今もよく水に浸かる。福知山方面から、当地まで舟で来て、ここから元伊勢詣り、あるいは普甲峠を越えて宮津方面へ向かう、そうした水陸交通の拠点集落であった。
津守は聞くが川守もあったのであろうか。ここに川守と呼ばれた警護の頓所が置かれていたのかも知れない。船戸神社は今は川からはずれた山裾にある。

案内板がある。


舟戸神社の由緒
祭神 舟戸神
 当地方の最古の伝説「丹後風上記残缺」に「日子坐王」の物語が収められている。(日子坐王は、崇神天皇の弟で四道将軍として派遣された「丹波道主命)の父。)
 崇神天皇の御代、青葉山中に「陸耳御笠」、「匹女」を首領とする「土蜘蛛」が人民を苦しめるので、勅命により「日子坐王」が討伐に来ました。
 「成生」、「匂ヶ崎」、「志高」、「千原」、「蓼原」、「河守」などで両軍は戦いましたが、「匹女」は「千原」で殺されました。その後、下流から「日本得玉命」が賊退治の加勢にやってきたので、「陸耳御笠」は川を越えて下流へ敗走しました。
 このとき忽然と一隻の舟が川を下ってきたので、「日子坐王」の軍勢はその舟に乗り「由良港」まで追いかけましたが、賊を見失いました。
 この舟を地元では「舟戸神」として、蓼原港に近い山腹に祭ったといいます。昭和四〇年、国道一七五号線の改修工事で社域を失い、冨士神社の社域に遷座しました。
  平成一五年一二月吉日

『由良川改修史』
河守(大江町)
 昔、由良川筋に“土ぐも”が住んでいた。日子坐命(ひこいますのみこと)が命ぜられてこれと激しく戦った。そのとき川下から得玉命が日子坐命に助勢するため攻めのぼってきた。これを見た土ぐもは由良川を渡って逃げようとしたか、日子坐の軍勢は“たて”を並べて川を守り、土ぐもはついに由良川を流れ去った。以来、このあたりを川守(かわもり)と呼ぶようになった-という伝説が地元に残っている。
 この川守る名は、古く和銅6年(713)にできた丹後風土記に、川守郷として見える。和銅6年といえば奈良に都が定められて4年目。河守はすでにそのころからひらけていたとみられる。
河守の地名はこの川守から来たという説以外に「神守」が変化したもの-という説もある。河守地区の北には天照大神をまつる内宮(通称元伊勢)がある。大江町史談会の伊田半治会長は、 「丹哥府誌などによると“神守”が転じて河守となったといわれている。昔、元伊勢のあるあたりを河守上、いまの河守を河守下と呼んだこともあり、元伊勢に守られた里という意味で“神守”の地名が出だのでは…と思う。しがし、““川守”も河守とは縁の深い由良川から出ておりいずれが正しいとはいえない」と話している。









 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石


  Die Loreley (deutsches Volkslied)



(403) ANDRE RIEU & JSO - DIE LORELEI - YouTube
(403) Loreley Lied, Loreley Rhine, Loreleylied, Loreley on Rhine, Loreley am Rhein, Song of the Loreley - YouTube
(427) Die Loreley (Text: Heinrich Heine/ Musik: Friedrich Silcher/ Arr:: Heinrich Herlyn) - YouTube
(434) Die Loreley (deutsches Volkslied) - YouTube

Die Legende der Loreley ドイツ語は何十年ぶりになるが、何かなつかしい気がするのだが、美しい所には、またオソロシイ話が伝わるもので、こんな所に麗し乙女がいれば、事故発生まちがいなし。ハイネが詞をつけてくれている。


うるわしおとめのいわおに立ちて
こがねの櫛とり髪のみだれを
梳きつつくちずさぶ歌の声の
くすしき魔力(ちから)に
魂(たま)もまよう

こぎゆく舟びと歌に憧れ
岩根もみやらず仰げばやがて
浪間に沈むるひとも舟も
くすしき魔歌(まがうた)
うたうローレライ


由良の「ローレライ」伝説
『舞鶴の民話4』より(挿図も)

由良の浜姫
 むかし市場村には千石船がありました。北前船といいました。又千石船より少し小さい貨物船もあった。小橋の港にも立ち寄りました。千石船の水夫たちが、何日も何日も海の面ばかりみて暮らしたあとに見るみどり輝く野山はほんとうに美しかった。特に港で働く女の姿はなつかしく、やわらかい体つき胸のふくらんだ姿は待ちわびていたものだ。
 越前の方へ向かおうとした千石船が、由良の沖を通りかかりますと、白砂のつづく浜は美しく、そう用事もなかったが浜の方へ船を向けました。ただ一人女人が立っています。だんだん近づくと、びっくりする程の美人が立っています。未だ見たこともない、殿上人か、天女のようであります。水夫たちはへさきに集まり、だれよりも早くその女に話しかけふれたいと思いました。その様子をみていた船頭は、静かに止めた。
 「みなさんよ、まちなはれ、この船には一日ものばすことのできない荷をつんでおる、船の上から、姿を見ただけにしておこうよ」
 しぶしぶ水夫たちは、口々に船頭にくってかかり、あるものは浜の女人にむかって大きな声で、美女だね、私の顔をおぼえておいてと、未練がましいことばを並べていました。すると女人はふところより、紙と筆をだし、さらさらと、何やらしたため、おいでおいでをする、水夫は小さい小舟をだして、一度浜の女人の方へいった。女人は鈴のような声で、
 「おいでなされ、みなさんに頼みたいことがあります。私の姉が敦賀にいます。この手紙をその姉に渡してほしいのです。姉は私のたよりを待っています。私は前から千石船がくるのを待っていたのです。時間がないのなら、この手紙もっていって下さい。姉もさだめし喜ぶでしょう。しかし、この手紙の封をわたすまで開いてはいけません。きっとこの約束は守って下さい」
 「ふしぎなことをいう美女だなあ、さだめし姉さんというのは美女だろう」水夫の一人が受け取り、船頭に渡した。船は静かに由良の港をはなれた。
 沖へ出てから、船頭は水夫たちにいった。
 「浜姫の手紙はとどけねばなるまい浜姫にちがいない、手紙のなかにかいてあることはあやしい、開いて読んでみようか」
 水夫たちは口々に「開くことはならぬ、私たちは浜姫と約束しました」と言う。しかし船頭はがんとして読まねばならぬと封をきった。
 「一筆まいらせ候、この船の者ども、体よくうまそうなれど、私と遊ばず逃げ候、口おしいことこの上なし、そちらに到着のおりは一人残らず召し上がり下さるようおねがい申し上げます 浜姫より」
 船頭は声高らかに読みあげました。水夫たちはおそろしげに身をふるわせ、「よかったね、よかったね、美女には注意せねばならぬわい」と口々に申し、船頭さんの年きのはいった処置に感謝しましたとさ。



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