少年易レ老学難レ成、一寸光陰不レ可レ軽
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい
友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
古代丹後の郷名
当ページでいう「郷」とは、
大宝元年(701)に大宝律令が完成し、律令制度による政治のしくみがほぼ整ったとされる。地方組織 は、全国が畿内・七道に分けられ、さらにその下に国・郡・里が置かれた。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷に改称し、郷の下に新しく設定した2~3の里を置く郷里制に改めた。しかし里がすぐに廃止されて郷のみとなったため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。郡は大宝律令以前は「評」であったと見られている。
平安時代の諸国の郡名は、延長5(927)年に完成した『延喜式』によって知ることができる。『倭名類聚抄』には、さらに郡の下の郷名が載っている。
源順が初めて全国調査したというものでなく、国の役所のどこかにあった資料かと思われる。
『倭名類聚抄』とは、
『和名類聚抄』は平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931~ 938)、勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した。略称は和名抄。
今でいえば、国語辞典や漢和辞典、百科辞典のようなもので、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。
巻数は十巻または二十巻で、その内容に大きく異同があるため「十巻本」「二十巻本」として区別され、それぞれの系統の写本が存在する。
二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅しており、この点の基本史料となっている。二十巻本も写本がたくさんあって、お互いに異同がある。
下のリストに引いているのは、吉川弘文館昭和45年増訂初版発行の池邊彌氏『倭名類聚抄郷名考証増訂版』により、
「高山寺本」は、平安時代末期写・巻六~十のみ(天理大学附属天理図書館蔵)で、最も古い写本という。
版本もつくられていて、「刊本」というのは、最も古い元和古活字本で、元和3年(1617年)刊・那波道円校訂のものである。
「二十巻本倭名類聚鈔古活字本」。八巻に丹後国の郷名が見える。
「国立国会図書館デジタルコレクション」の四巻に丹後国の郷名が見える。↓
加佐郡
加佐郡は丹後国5郡の中では最も郷が多い。それは人口が最も多かったということである。少なくとも『和名抄』の作られた頃(10世紀前半)には、加佐郡が丹後国内では最も大都会だったということになる。人が多いということは従って文化や政治、経済の中心地であったと思われる。
古代の遺跡も古墳もたいしたものがなく、いつも肩身の狭い思いの加佐郡であるが、古代の終わりの時代にもなれば一番の「都会」であった。何ゆえにこれだけの人口がいたのであろうか。丹後国内でどうした役割を演じたのであろうか。誰も未だ解明はしていない。古代史における加佐郡を見直す時がきているのかも知れない。
『和名抄』にも、丹後国 国府在加佐郡行程上七日下四日和銅六年割丹波国五郡置…とある。国府があったのでなかろうか。
与謝郡
『和名抄』
高山寺本 |
『和名抄』
刊本 |
中世文書 |
備考 |
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宮津 |
宮津 |
宮津庄(田数目録) |
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宮津市上宮津 |
日置 |
日置 |
日置郷(田数目録) |
日置里(風土記) |
宮津市日置 |
拝師 波也之 |
拝師 |
拝師郷(田数目録) |
速石里(風土記) |
岩滝町男山 |
物部 |
物部 |
物部葛保(田数目録) |
物部神社(延喜式神名帳) |
野田川町物部 |
山田 |
山田 |
山田郷(田数目録) |
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野田川町上山田・下山田 |
謁叡 阿知江 |
謁叡 |
謁江郷(田数目録) |
阿知江神社(延喜式神名帳) |
加悦町温江 |
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神戸 |
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丹波郡
『和名抄』
高山寺本 |
『和名抄』
刊本 |
中世文書 |
備考 |
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大野 |
大野 |
大野郷(田数目録) |
大野神社(延喜式神名帳) |
大宮町大野 |
新治 |
新沼 |
新治郷(田数目録) |
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峰山町新治 |
丹波 |
丹波 |
丹波郷(田数目録) |
丹波里(風土記) |
峰山町丹波 |
周枳 |
周枳 |
周枳郷(田数目録) |
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大宮町周枳 |
三重 |
三重 |
三重郷(田数目録) |
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大宮町三重 |
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神戸 |
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大宮町河辺 |
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口枳 |
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竹野郡
『和名抄』
高山寺本 |
『和名抄』
刊本 |
中世文書 |
備考 |
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木津 岐都 |
木津 |
木津郷(田数目録) |
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網野町木津 |
?野 |
納野 |
網野郷(田数目録) |
?野神社(延喜式神名帳) |
網野町網野 |
鳥取 |
鳥取 |
鳥取郷
鳥取庄(田数目録) |
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弥栄町鳥取 |
小野 |
小野 |
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不明である。 |
間人 |
間人 |
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丹後町間人 |
竹野 |
竹野 |
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竹野神社(延喜式神名帳)
竹野比売(古事記) |
丹後町竹野 |
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舟木庄 |
舟木郷(平城宮出土木簡)
船木里(風土記) |
弥栄町船木 |
熊野郡
『和名抄』
高山寺本 |
『和名抄』
刊本 |
中世文書 |
備考 |
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田村 |
田村 |
田村庄(田数目録) |
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久美浜町平田の周辺 |
佐濃 |
佐濃 |
佐野庄(田数目録) |
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久美浜町佐野 |
川上 |
川上 |
川上郷(田数目録) |
丹波之河上摩須郎女(古事記) |
久美浜町川上谷 |
海部 |
海部 |
海士郷(田数目録) |
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久美浜町海士 |
久美 |
久美 |
久美郷(田数目録) |
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久美浜町久美浜 |
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藤原宮出土木簡に「熊野評私里」
平城宮出土木簡に「丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄[ ]納一斗丘升」 |
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熊野郡私部郷は、『和名抄』にはないが、藤原宮出土木簡に「熊野評私里」、平城宮出土木簡に「丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄[ ]納一斗丘升」で存在が知られる。キサイベと読むがどこにあったものかは不明である。
『久美浜町史・史料編』
平城宮木簡に「熊野郡私部郷」と記すものがあり、この地名が七世紀以前にさかのぼることも、藤原宮木簡に「熊野評私里」とあることで確認できる。また、天平勝宝元(七四九)年一二月に丹後国司が奴婢四人を進上しているが、そのなかの一人は熊野郡戸主大私部広国の奴倉人であった。私部というのは、后妃の私有民(部)で特定の職能を通じて物や労働力を提供する人々のことで、『日本書紀』にも、垂仁天皇の後宮に丹波(当時)から五人の女性が入ったことが記され、こうした伝承とも熊野郡の私部地名は関連する可能性がある。ただ、私部は大化改新四五年)で廃止され、私部の供給と関連する地名としての私部郷の名もその意義を失った結果、郷名としてのこらなかったと考えられる。
東史郎氏の陣中日記に木佐一君という戦友が出できた。ルビはなく、何と読むのかキサハジメ君だろうかと思っていたが、キサイチと読む苗字であった。
木佐一サンは2010年の電話帳によれば、丹後に20軒見えるが元々は丹後町此代だそうで、全国的にもきわめてめずらしい、というかここにしか見られない苗字だそうである。開化妃の竹野媛の地元だから、このあたりにも私部があったのかも…
音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
Mozart・ Turkish March
(288) トルコ行進曲 ❀ 辻井伸行 Greatest Hits ❀ The Best Of辻井伸行 Of All Time ❀ - YouTube
シューベルト・軍隊行進曲
(288) シューベルト/軍隊行進曲/piano duet/ピアノ連弾/Schubert/Militärmarsch/Duo A&K/Saturday
Night Duo no.13 - YouTube
モーツァルトとシューベルトの軍隊行進曲。こうした曲も軍歌と呼ぶものだろうか。シューベルトの軍隊行進曲は私は確か中学校の音楽の授業で習った記憶がある、運動会でも鳴っていたように思うが、軍歌なら学校では歌わせたりはしないだろう。
こんな曲を奏でながら、もし敵兵が攻めて来たなら、もう一目散に逃げるしかなかろうが、文化性高く芸術の域で野蛮性がなく、向こうから攻撃を仕掛けて来そうな気配はないようには感じられる。しかし一瞬にして内部から文化力で支配されそう。
手前から大戦争を仕掛けておいて大敗し、自分の野蛮性を顧みることもなく、相手側を野蛮人のようにクソミソに言うのは米帝か日帝くらいであろう。自分に勝つような相手なら、本物のサムライは敬意をもつもので、そうした品性ゲレツなことはしない、それは自分をもクソミソにしてしまう、決してマネはしないようにしよう。
史上最強の米帝といえども、むき出しの暴力では、何百万の破壊と殺戮だけでは誰も支配できない、自国民からすら見放されて敗北する。歴史が教える通りである。
武力やその崇拝や宣伝や観光化にゼニカネをほかすことよりも、しっかり文化の力を高め、諸国民の友好と平和を築いていくことに税金を使うのがワレラの勤めであろう。
ちなみに現行の「律令」は、その最高理念を次のように定めている。
日本国憲法
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
先の大戦の痛切な反省にたって、主権在民、人権尊重、平和主義を掲げている、世界に誇れる立派なものである。しかし主権者にこれを尊重する気持ちが弱く、指針を見失うと、せっかくの崇高な条文も空文になってしまい、いつか来た危険な道のアホばかりを繰り返す、羅針盤を無視するうつろな船、それが現状かも。。
世界でも最も貧しい国であろうアフガンに負けて撤退し、次は世界No.2の中国に勝つのだそうである。どこかの国の大本営のテンシンーみたいなハナシで、ワレラの大将は頭がおかしいようだから、その尻馬にのらないようチト気をつけようではなかろうか。。
関連情報
終戦記念日
よく取り上げる中学校教科書(日本文教出版)は、10年ばかり以前のものだが、
8月14日、ついにポツダム宣言の受諾を決め、翌15日、昭和天皇がラジオ放送によって日本の降伏を国民に伝えました。こうして、第二次世界大戦は、全世界では約6000万人、アジアで2000万人にのぼる犠牲者を出し、特に一般市民の犠牲が多数であったことなど、深い傷あとを残して終わりました。
2発の原爆、ソ連参戦を受けて8月10日の御前会議でポツダム宣言受諾をめぐり3対3で結論が出なかった、天皇の聖断で受入が決まった、天皇はここは偉かった、8月14日は相手国政府に受諾の通知をした日であり、8月15日が大戦の終結の日である。しかし8月15日は天皇が戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日であって、これを戦争の終結日とするのはたぶん日本だけのハナシである。(韓国ではこの日を光復節、北朝鮮は解放記念日としている、これは日本の植民地支配が終わったという意味で、当時は日本領であったので戦争の終結とは直接には結びつかない)。戦争は相手国があり、その終結(停戦、休戦、講和)を決めるのは、対戦国政府間での合意だけである。
昭和20年9月2日に、東京湾にいた米戦艦ミズーリー艦上で、日本政府はポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。この日をほとんどの国の政府が大戦の終結としている。
これだけではまだ半分で、昭和27年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、国際法上、連合国各国(といっても日米安保とセットであり、従って片面でソ連等を除く)と日本の戦争状態が終結した日となる。旧ソ連などとはいまだにそうした条約はない。
宣戦布告もなくいきないはじめて、いまだにその後始末もできず残されている。何とも勝手な無責任なの非難は避けられそうにないし、それにしてもあまりにも代償が大きく、いかに愚かなことであるか思い知らされる。その賛美やまねごとをすることすら、超愚かな行為であろう。。
官僚主義
日本国は律令体制が長く日本を支配してきたためか、その弊害が今の日本にも強く残っている。中央集権的官僚主義である。それならまだしも中味カラッポ無責任な強権国家になりやすいことであろう。
何をさせても心通わぬ、実情に迂遠なお役所仕事で、創造性や文化性の高い仕事はできない、秘密主義、わずらわしい手続優先主義、先例踏襲、画一主義、形式主義、すぐ派閥をつくる、縄張根性、役得利用、それでいて、下には傲慢きわまりなく、上にはソンタク、別に役所だけでなく、大企業とか大組織とか、そうした所でよく見かけられる集団的な傾向を非難を込めて官僚主義と呼ぶ。お役所やで、お役所仕事やで、あそこは倒産の心配がないでなと、皆がブースカと言うところになる。役所はしっかり守備をしてくれればいいのでジミでよい、専守防衛に徹すればそれでよいが、それすらアナだらけ、その上に何か花形的な先端的なお仕事を期待するのがムリであろうと思うが、それをスーパーマンのように思い違いをするのか、官僚ほどすばらしくものはなく、エライものはなく神様のようなものと思っているフシで、これに対置される自治主義がまず見られないといった点であろうか。
死刑制度などに見られるが、自治主義的な観点からは死刑はあり得ない、たとえどんな者であれ市民に市民を殺す権限はない、非常事態下の正当防衛であったとしても殺すまでは容認されるかはわからない、最高刑は追放で、今で言えば終身監獄に入れておく刑くらいであろう。アメリカでも一部の州くらいで、先進国というような国ではまず死刑はないか、あったとしても停止されている。日本はヘーキで死刑がある。
西洋流にいえば、国家や法律といえども人が作ったもの、それに人の命を奪う権限まではなかろう、日本はもう超強権国家である。そういえばカッコいいが簡単に言えば野蛮国である。人のイノチを軽く見るのは人権意識弱く文化程度低いということである。
律令体制のお手本は中国で、その中国には今も死刑がある、これも彼の国の文化なのかも知れないが、日本もそのお手本からいまだ脱してはいないのかも…韓国は日本以上に中国文化の影響が強いが、死刑は停止されているとか…
ともかく古い過去の律令の縛りから脱して自治主義的な観念と行動を強めていかないと、どうにもこうにも先行きどうにもならなくなることであろう。
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