丹後の古代寺院①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 民間信仰の古代寺院西国三十三所観音霊場の寺 令和元年「日本遺産」の1つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された。 西国三十三所は、観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場で、日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も参拝者が訪れている。 「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳にあずかるために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。 いつから始まったものか。伝承によれば、 養老2年(718)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった。 徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院(安和元年〈968年〉 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたという。 しかしながら、札所寺院のうち、善峯寺は法皇没後の長元2年(1029年)創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実でないという。 西国三十三所の前身に相当するものは、院政期の観音信仰の隆盛を前提として、11世紀ごろに成立していた。史料上で確認できる初出は、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「行尊伝」の「観音霊場三十三所巡礼記」と「覚忠伝」の「応保元年(1161)正月三十三所巡礼則記文」である。行尊の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在するが、これに次ぐ覚忠の巡礼は確実に史実と考えられているという。 青葉山松尾寺松尾寺所蔵の仏像などは、平安後期~鎌倉時代のものである。この時期には三十三所巡礼霊場として隆盛していたことが知られる。では、それ以前は存在しなかったのであろうか。 松尾寺案内に、 時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(七〇八年)と伝えられる。
諸書によれば、松尾寺は、西国三十三所観音霊場第二九番札所。慶雲~和銅年間(704-715)の創建で、開山は威光と伝える。山号青葉山、真言宗醍醐派。本尊馬頭観世音菩薩。爾来、今日まで千二百九十年を経ているが、その間、元永二年(一一一九年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。 その後、織田氏の兵火によって、一山ことごとく灰燼に帰したが、天正九年(一五八一年)細川幽斉の手によって復興をみ、京極家の修築等を経て、享保十五年(一七三〇年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。 当寺は、西国第二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。 草創についてはつまびらかでないが、徳治3年(1308)成立の縁起(願文か)写や大永4年(1524)成立の丹後国青葉山松尾寺縁起があり、後者の伝えでは、平安中期の正暦年間(990~995)に再建したという。同縁起によればその頃青葉山北麓の一漁師春日為光が海難に遭遇し、一浮木で助かった。海辺に漂着の後、 彼浮木忽変白馬向南山行、為光亦忍馬諦行白馬遂留山中、又変元浮木在焉、本堂御前也、為光向浮木前流感涙礼拝恭敬、即剃髪被黒衣改名於光心唯一心饗香華弥励懇誠厥後命仏工以此浮木刻馬頭観音尊像安之、貴賤伝聞奔波敬礼捧一筆供一番結搆不日而成焉、従爾以降奇瑞聞天下霊験秀海内、僧坊並軒倍増顕密之教而送百九十七年之星霜矣 為光がわが国の馬頭観音の総本地と称される本尊を造像したと記す。近世の旧語集も同様の縁起を記すが、多少の異同が認められる。 『丹後国加佐郡旧語集』 真言宗遍明院青葉山松尾寺。本寺上醍醐、三宝院門跡。…寺僧云縁起唯在之若州ヨリ認来不委大永四甲申年鏡尊坊乗秀、六十四才、記置タル書面之由写之左之通。
人王六十代醍醐天皇御宇延喜元辛酉年。本尊観応影向青葉山権現勧請。其頃北ノ麓ニ壱人ノ魚夫春日姓惣太夫為光ト云若州甲野浦ノ人也、常ニ観音ヲ信シ日々観音経ヲ読誦ス、一日惣太夫強風ニ吹放サレ乗タル舟損ス。然時浮木流レ来ル為光是ニ飛乗命無恙シ、ツミノ浜ニ寄此浮木ヲ取上持チ甲野浦ニ帰ル。其道スカラ光有テ昼ノ如シ、翌日置タル所ニ浮木不見怪思ヒ尋ルニ人告テ曰白馬来リ負テ行タリト云、因玄馬ノ爪跡ヲ尋行見ルに当山ニ在リ、仍テ為光爰ニ草庵ヲ結居其後天童降告有故此木ニ観音三体彫刻壱体ハ讃州四渡寺ノ観音、中ハ当山ノ尊像、三ノ切ハ若州青葉山中山寺ノ尊像也。中山寺モ当寺ノ別レ也。…。本堂本尊、馬頭観音、丈三尺二寸北海ヨリ出現。…。三十三所順礼二十九番札所也。二十五年目ニハ開帳有。毎年四月八日会式也。中ニ観音ヲ置、大日弥陀、釈迦、六体ノ仏面ヲ当テ仏舞在リ、皆此寺中山伏勤ム、是ヲ松尾祭ト云習ス。…(漢文) 縁起は諸書に引かれるが、どれも漢文のままで、超ムズ、 『舞鶴の民話4』 惣太夫。惣太夫(松尾)
西国二十九番の松尾寺は、青葉山の中腹にあり大がらんがあった。文武天皇の慶雲元年(一三○○年前)中国の威光上人が仏法を広めるため、対馬海流に乗って、苦労の末日本へ渡来した。各地の名山霊地を回っているうちに、丹後の国へたどり着き、空高くそびえている青葉山をながめていると、何か中国の馬耳山に似ているので、霊峰であると、供と共に草木をわけ頂上めざして登った。その中腹に平地があり、その中央に松の大木が生えていた。上人はその下に座を構え、供のものと法華経を読誦していること久しきに及んだ。すると不思議なことに天人が持ってきたように、金色まばゆい馬頭観世音像がいつのまにか、上人の手に渡されたのである。上人はここぞ仏法を修める最適の地と庵を結びこの尊像を安置した。これが松尾寺の縁起であり、境内にある千年の松の大樹は、山号青葉山も、寺号松尾寺もこの松の瑞相による。 又、若狭の神勝浦の古老の話によると、この地はむかし七戸の部落であった。この浦での舟の主は為光惣太夫といわれていた。村の若者と共に漁に出た。海はないでいるが、少しも魚がとれない。それで沖へ沖へとろをこぎ進んでいった。空をみあげると西の空がどんより曇り、生暖かい風が吹いてきた。柴紺だった海の色も黒緑にかわり、波が強くなってきた。それに雨がぽつんぽつんと降ってきた。突然に栓を抜いたように大雨がどっと降り、風が強くなり、船は木の葉のようにゆれ、まさに難破の危機にあった。風は益々きつく、雨が甲板をたたきつけた。船員たちは、船にはいる水を手や、船板でかいだしていた。しかしその効なく、船は上り、下り、船は傾きひっくり返ってしまった。乗組員は四散し、海に浮かんでいたが、いつのまにか一人又一人と海に沈んでいってしまった。惣太夫も一生懸命泳いだ。波はようしやなく彼をあっちこっちへと流した。突然一片の丸太が流れてきた。彼は必死にそれをつかみ、波に身をまかせた。波はやがて彼を無人の島に運んだ。岩にしがみつき全身の力をふりしぼってはい上がった。島に上がった彼は、足をひきずりながら、岩穴を見つけ、そこにはいった。ここだと雨風がしのげる。彼はそこに横たわった。疲れが一度に出たのであろう。夢の中にひきこまれた。「惣太夫、ここは鬼蛇の住む島なるぞ。ここにいるとそれのエジキになってしまうぞよ」はつと目がさめた。彼は立ちあがると、浜に向かって歩きはじめた。野には小さい蛇がじっと彼を見つめている。浜につくとそこにさきほどの丸太がころがっといる。どうにでもなれ、彼は丸太に乗り海に乗り出した。丸太は真白い馬と化し、波をけり、暫時のあいだに故郷の浜の岩についた。馬は岩にヒヅメのあとを残して、砂地に立った途端に、もとの丸太になり海の方へ波と共に浮いている。惣太夫は両手をあわせてお礼をいった。家にかえると、家の人はびっくりした。死人だと思っていた惣太夫が家の前に立っている。かけつけた親族は、荒海から帰ってきた彼、姿変わりばてた彼をみてよろこび、あやしんだ。しかし白馬の話をきき、お通夜はよろこびの大酒宴に変わった。惣太夫は「わたしを助けてくれた丸太にお礼をせねば気がすまい」と急ぎ、もとの浜べに引きかえした。丸太は浜辺に人まちげであった。惣太夫は「よっこらしよ」と背おって、高見の畑にやってきて、「見晴らしがよいでここにおまつりしよう」と、あとからついてきた親族たちと相談した。すると丸太が「ここは流れみちじゃ、流されて又海にいかんなん、心配じゃ、ここはいやじゃ」 山の坂道を丸太をかついで進み、鳥越のところにきた。ここがいいだろう、と下ろすと「見はらしのよい所じゃが、このすぐ近くにコワショウの清水がある。こんなコワイところはいやじゃ」 とおっしゃる。さらに坂道をくねりながら行く。丸太は気持ちよさそうにだかれている。松尾の里にきた。寺にもうて、丸太を下ろした。丸太は、 「ここじゃ、ここじゃ」 と大声でさけぶ。丸太はいつのまにやら、岩の上にあがり白馬となったという。 どこまでが史実なのか不明だが、伝承によればということで正確に知ることができない。創建に関わったとされる。i 威光、為光。威光上人、為光惣太夫、みなイコウと読むのであろうが、 2番札所の紀三井寺も唐僧・為光上人によって開基されたという。 紀三井寺は、今からおよそ1250年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の宝亀元年(AD770)、唐僧・為光上人によって開基された霊刹。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って中国(当時の唐国)より到来されました。そして諸国を巡り、観音様の慈悲の光によって、人々の苦悩を救わんがため、仏法を弘められました。行脚の途次、たまたまこの地に至り、夜半名草山中腹に霊光を観じられて翌日登山され、そこに千手観音様の尊像をご感得になりました。 上人は、この地こそ観音慈悲の霊場、仏法弘通の勝地なりとお歓びになり、十一面観世音菩薩像を、自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置されました。それが紀三井寺の起こりとされています。(Webより) また威光寺(伊根町、福知山市)もあるし、舞鶴には威光山もある。 何とも創建については、確かな過去が見えてこない。 平安期の終わり頃以降になると、ほぼ確かなことのようである。 寺伝によれば鳥羽法皇・美福門院の崇敬厚く、時の惟尊上人に勅して伽藍および一五宇の坊舎を再建せしめたといい、封戸・田地を付したという。前天台座主行尊の三十三所巡礼手中記(寺門伝記補録)に一六番松尾寺が許され、久安6年(1150)の長谷僧正の参詣次第(塵添がい・嚢鈔)に二八番としてみえるなど、すでに平安末期には観音霊場の一として知られていたことがわかる。 以降、観音信仰の高まりのなかで、第二八番成相寺(現宮津市)とともに丹後の観音霊場として衆庶の信仰を集めた。中世末から近世初期にかけての様相は寺蔵の松尾寺参詣蔓茶羅によってうかがわれる。これには本堂を中心とした七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、中世庶民信仰と風俗を物語るものとして貴重である。 中世末期の連歌師紹巴が永禄12年(1569)閏五月京都を出発し七月に帰洛した天橋立遊覧の旅行記「天橋立紀行」6月20日頃の条に「うかびたる雲を見より厳き、阿弥陀の国を願ひ行なへ、松尾をおがみて、志楽の地中と云所より航せんとおもへるに」と記される。 その室町時代のものとされる「松尾寺参詣曼荼羅」↓ 近世になると歴代田辺城主の外護を受け、天正9年(1581)細川藤孝により本堂が改築、慶長7年(1602)京極高知により修復された。その後寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の両度の火災で本堂などを焼失し、享保15年(1730)牧野英成により大修復されたと伝える。 野田泉光院「日本九峰修行日記」に、文化11年(1814)8月17日に青葉山を訪れたという。 雨天。市場宿出立、朝辰の上刻。青葉山と云ふに赴く、市場より二里、麓より十三丁登る、廿九番西国巡礼札所納経。本堂未申向、六間に十間、仁王門あり、本坊真言宗、当山派修験寺数多し、田辺の袈裟頭支配にあらず、因て松尾年番中とあり。 とあるという。(ワタシがもっている書では、市場泊から先は省略したのか松尾寺の話がない。゜(゜´Д`゜)゜。) 国宝の普賢延命像一幅(藤原時代、絹本着色)、重要文化財の孔雀明王像一幅(鎌倉時代、絹本着色)、法華蔓茶羅図一幅(鎌倉時代、絹本著色)、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代、快慶作、寄木漆箔)があり、市指定文化財に終南山里茶羅、松尾寺伽藍落慶式古図(松尾寺参詣蔓茶羅)一幅、地蔵菩薩坐像がある。 卯月8日(現5月8日)には仏舞(市指定無形民俗文化財)が行われ、近郷からの松尾寺詣が盛んである。当日民間では天道花と称し、屋敷内にフジ、シキビ、ツツジ、シキダラ、フウキンの花束を長い竹棒に結びつけて立てる行事がある。仏舞の起源は不詳であるが、「楽舞の菩薩」といわれるものを基本とした緩慢な旋律の舞楽で、奈良時代の宮廷舞楽が遠心的に広がり民間芸能として松尾寺に定着したものと推定されている。 仏舞の江戸時代の様子を「丹哥府志」は 松尾寺の会式は毎年四月八日なり、其会式の日に僧徒集りて仏舞といふ舞をまひぬ、其次第始めに警固のもの八九人本堂の左に座す、次に和尚列を正し本坊より出で、本堂に上り席に就く、次に春日惣太夫といふもの和尚の次に座す、春日惣太夫は若狭 と記し、旧語集には「中ニ観音ヲ置、大日、弥陀、桝迦、六体ノ仏面ヲ当テ仏舞在り、皆此寺中山伏勤ム」とある。現在用いられている楽譜は安永7年(1778)書写の「四月八日所作」によるという。 『舞鶴市民新聞』(2021/1/26) **松尾寺・発掘調査で大きな成果**古の栄華に思いはせ**今につながる信仰の歴史**歴史の全容解明に期待*
松尾寺の仁王門解体修理に伴う発掘調査で、平安時代後期の整地跡や建物の基壇跡などが確認された。かつては4千石の寺領を有し、寺坊は65を数えたと伝わる同寺。今回の発見により鳥羽天皇が七堂伽藍を寄進したとされる伝承の裏付けに近づく可能性もあり、今後の調査研究の進展による歴史の全容解明が期待される。 市文化振興課による今回の調査は、2020年12月3日~2021年1月15日に行われた。仁王門の建っていた約60㎡の調査個所から、様々な遺構や遺物が確認された。 西国三十三ヵ所二十九番札所として発展する同寺は、和銅元(708)年に開山したとされている。寺伝によると、鳥羽天皇、美福門院の崇敬が厚く、伽藍および15の坊舎を再建したとされている。 市指定文化財に指定されている同寺所蔵の「松尾寺参詣曼荼羅」(室町時代)=資料①=では、威容を誇る境内の様子が記録されているが、これまでは往時の寺の様子につながる物証はなく、山門や本堂の存在も伝承の域を超えるものではなかった。 同寺の発掘調査は今回が初めてで、現仁王門の前身の門の存在や、古代や中世に遡る境内の様子を知る手がかりを求める目的として実施されたが、その結果、出上した遺物は約550点、遺構も多数検出されるなど、大きな成果を上げた。 *仁王門建立の地鎮祭で実際に金貨銀貨を埋納* 今回の調査地点からは、平安時代初頭(9世紀)の整地跡が見つかった。山門の遺構と断定できるものではないが、同寺の創建年代を考える上では非常に重要な発見となった。 また、平安時代後期にかけて建物基壇が造成されるなど、境内の整備が行われていたことも分かった。調査地点は「松尾寺参詣曼荼羅」下部の山門がある場所に該当する。見つかった基壇跡は改修されながら中世以降も引き継がれ、江戸時代前期頃まで機能していたことも分かり、歴代の山門がこの位置に建てられていた可能性に近づく結果となった。 また鎌倉時代から江戸時代前期にかけて、参道跡と考えられる精緻な整地が少なくとも4回以上繰り返されていることも分かった。 こうした発見を通じて市は、「とりわけ中世以降に盛んになった西国三十三ヵ所巡礼の隆盛や、歴代領主の帰依を受けて発展した様子が、整備の頻度からもうかがえる」としている。 一方、現在の仁王門の前身とみられる旧仁王門の遺構も確認された。これは地鎮祭の痕跡と見られる遺物(土師皿2枚、寛永通宝12枚、元禄二朱判金、元禄豆枚銀)=資料③④=の出上から、旧仁王門の建立に伴う地鎮行為と判断したもの。この時埋納された二朱判金は、元禄10(1697)年に鋳造が開始されたもので、旧仁王門はそれ以降の建立になると考えられる。このことから、旧仁王門は現仁王門の建立年である明和4(1767)年までの比較的短期間だけ存続していたことが分かった。 今回のように意味のある形で金銀貨が出土することは府下では類を見ないことだという。市は、「同寺が当地での信仰の拠りどころとして大きな存在であったことを示す発見」だとし、今後の調査研究進展に向けて意欲を見せている。 今回の発掘調査について市は、新型コロナウイルス感染症防止のため、現地説明会は開催しないとしている。資料は郷土資料館で配布する他、写真と説明資料は市ホームページで掲載する。 成相山(世野山)成相寺高野山真言宗、本尊・聖観音菩薩。西国三十三所観音霊場の二八番札所。 寺伝によれば慶雲元年(七〇四)真応の開山、文武天皇の勅願所という。かつては現在地より上の通称 今の本堂横に駐車場があるが、そこから裏山を登ると道縁にある。 それ以前は、世野山の山号が残るように、宮津市上世屋の臨済宗世谷山慈眼寺の奥に成相寺の奥院とされる観音堂がある。成相寺はもともとはこの辺りにあったという。世屋高原ハイランドがあるあたりである。熊ゴローがゴロゴロとおります。気をつけて行って下さい。 『丹哥府志』 【観音堂】(三間四方) 此観音堂は成相観音の旧跡にて俗に成相の奥院といふ、今慈眼寺の支配となる、然れども成相寺は爰にあり(文武天皇十三年成相へ移す)、世屋山成相寺者本尊聖観音文武天皇十三年建立当国世屋山移于此處云、蓋其世屋山といふは此處なり。堂の東に麻谷といふ上世屋村の端郷あり、人家五、六軒斗もあるなり、麻より七、八丁斗行て瓔珞阪あり、瓔珞阪より又一丁斗も行て観音阪あり、昔此處より今の成相へ移し玉ふ時瓔珞の落し處なりとて今に瓔珞阪といふ、観音堂といふは観世音の厨子を休め玉ふ處なりと今口碑に伝はる、よって元伊勢、元善光寺に習ふて元成相といふとかなり、成相奥院といふは非なり、慈眼寺より観音堂に至る、凡二、三丁斗も山に入り幽邃の處に堂宇を建つ、いかにも霊場なりと覚ゆ、堂の裏に銚子の滝あり。 『梁塵秘抄』(平安末期)に 四方の霊験所は、伊豆の走湯。信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山 丹後の成相とか。土佐の室生戸、讃岐の志度の道場とこそ聞け とあり、平安時代から修験の霊地として知られた。また観音霊場として知られ、「今昔物語集」巻一六に「丹後国成合観音霊験語」がある。 御伽草子(鎌倉時代~南北朝時代)の「梵天国」に、主人公は久世戸の文殊に、その妻の梵天国の姫が成相の観音になったという話を記す。 本願寺三世覚如の行状を絵巻物にした「慕帰絵詞」に、貞和4年(1348)4月覚如が天橋立を訪れた際のことを記す。 . 延文2年(1357)7月26日、丹波和知郷の地頭職をもつ片山虎松丸が成相寺城ほか丹後の城を攻略(片山文書)、成相山が戦場となったこともあった。その後の応永六年七月一〇日、足利義満が地蔵院道快をして、成相寺別当職および惣持院院務職、同寺領などを管領せしめている(前田家蔵文書)。 「実隆公記」延徳三年(一四九一)二月二一日条に、 師富朝臣来、丹後国与佐郡世野山成相寺鳥井修造勧進帳清書事所望、彼聖名字真盛云々、草師富朝臣先年書之云々、再三之命難黙止之間領状、及晩則染筆遺之了。この頃鳥居修造の勧進が行われている。 寺領は丹後国田数帳に、与佐郡のうち散在二八町四段九六歩、豊富保に二町一反五四歩(ただし無知行)、波見保に一一町三段二四八歩、細工所保に三役、日置郷に成相寺惣持院二町七段三〇二歩が記される。近世には寺領二二・三六九石であった(天和元年宮津領村高帳)。 文化11年(1814)野田泉光院は、「日本九峰修行日記」八月一三日条に 樋置村出立、朝辰の上刻。直ちに一の宮へ詣づ。本体豊受大明神也。納経す。当村より西国順礼廿八番成相寺へ参る。山中へ登る事十八丁、因て此村へ笈頼み置き登る、門前茶屋二軒あり。本堂未申向、納経す。真言宗。当山に稀有の事あり。申の極月廿五日より寺の床の下山割れ掛り、段々広くなる故早速寺を毀ち二丁程下の方へ移す、割れたる土地は長さ二丁計り、広さ二間計り也、地震にてもあらぎるに如斯は珍らしき事とぞ、 鐘楼は天文17年(1548)の建造とされ、俗に「撞かずの鐘」とよばれるが、「于時慶長十三年戊中年九月廿四日、本願当時惣持院賢長」と記される。 鎮守は熊野三所権現で、寺伝によると延宝4年(1676)堂を建立したという。現本堂は安永年間(1772~81)の建立で、そのほかの建築物はそれ以降のものである。 寺蔵の紙本塁書丹後国諸庄郷保惣田数帳目録(丹後国田数帳、一冊)は重要文化財。丹後五郡の大田文で荘園・公領の面積・領有関係などを記している。正応元年(1288)の大田文を基礎にして15世紀中頃の状況を記したものと考えられている。 絹本著色紅玻璃阿弥陀像(一幅)は重要文化財。南北朝か室町初期の作。 成相寺古図は、紙本著色、縦149センチ、横127センチ。中央に本堂を、上部左右に日月を描き、画面上半分に五〇棟ほどの堂舎を、下方に民家・店棚・船・籠神社・文殊堂などを描いた参詣曼荼羅の図である。室町時代の作。 工芸品に境内水船に使用している鉄造湯船一口があり、径上端169.5センチ、高さ65センチ。文殊堂にあるのと同様のつくりで鋳鉄製。正応3年(1290)竹野郡等楽寺(現弥栄町)のものとして物部家重が願主となり、山河貞清が鋳造したものである。 成相寺の身代わり観音 『今昔物語集』 丹後の国の成合観音の霊験の語第四
今は昔、丹後国に成合と云ふ山寺有り、観音の験じ給ふ所也。其の寺を成合と云ふ故を尋ぬれば、昔し、佛道を修行する貧き僧有て、其寺に籠て行ける間に、其の寺高き山にして、其の国の中にも雪高く降り、風嶮く吹く。而るに、冬の間にて、雪高く降りて人不通ず。而る間、此の僧、粮絶て日来を経るに、物を不食ずして可死し。雪高くして里に出で、乞食するにも不能ず、亦、草木の可食きも无し。暫くこそ念じても居たれ、既に十日許にも成ぬれば、力无くして可起上き心地せず。然れば、堂の辰巳の角に、簑の破たる、敷て臥たり。力无ければ木を拾て火をも不焼ず。寺破れ損じて風も不留ず、雪・風嶮くして極怖ろし。力无して経をも不読ず、佛をも不念ぜず。「只今過なば、遂に食物可出来し」と不思ねば、心細き事无限し。 今は死なむ事を期して、此の寺の観音を「助給へ」と念じて申さく、「只一度、観立の御名を唱ふるそら、諸の願を満給なり。我れ、年来、観音を憑み奉て、佛の前にて餓死なむ事こそ悲しけれ。高き官位を求め、重き罪報を願はゞこそ難からめ、只今日食して、命を生く許の物を施し給へ」と念ずる間に、寺の戊亥の角の破たるより見出せば、狼に被敢たる猪有り。「此は観音の与給ふなり。食したむ」とと思へども、「年来・佛けを憑み奉ち、今更に何でか此を食せむ。聞ば、『生有る者は皆、前生の父母也』と。我れ、食に餓へて死なむと□□□肉村屠ぶり食はむ。況や、生類の肉を食人は、佛の種を断て、悪道に堕つる道也。然れば、諸の獣は人を見て迯去る。此を食する人をば、佛もぼさつも遠く去り給事なれば」、返々す思ひ返せども、人の心の拙き事は後世の苦びを不思ずして、今日の飢への苦びに不堪ずして、剱を抜て、猪の左右のももの肉を屠り取て、鍋に入て煮て食しつ。其の味甘き事无並し。飢の心皆止て、欒き事无限し。 然れども、重き罪を犯しつる事を泣き悲て居たる程に、雪も漸く消ぬれば、里の人多く来る音を聞く。其の人の云く、「此の寺に籠たりし僧は何が成りにけむ。雪高て人通たる跡も无し。日来に成ぬれば、今は食物も失にけむ。人気も无きは死にけるか」と、口々に云ふを、僧聞て、「先づ、此の猪を煮散たるを、何で取り隠さむと」思ふと云へども、程无して、可為き方无し。未だ食ひ残したるも有り。此を思ふに、極て耻ぢ悲び思ふ。 而るに間、人々、皆、入り来ぬ。人々「何にして日来過しつるなど」云て、寺をめぐて見るに、鍋に檜の木を切り入れて、煮て食ひ散したり。人々、此れを見て云く、「聖り、食に飢たりと云ひ乍ら、何なる人か木をば煮食ふ」と云て、哀れがる程に、此の人々、佛を見奉れば、佛の左右の御ももを新切り取たり。「此れは、僧の切り食ひたる也けりと、」奇異く思て云く、「聖り、同じ木を食ならば、寺の柱をも切食む。何ぞ、佛の御身を壊り奉る」と云ふに、僧、驚て佛を見事るに、人々の云が如く、左右の御ももを切り取たり。其の時に思はく、「然らば、彼の煮て食つる猪は、観音の我を助けむが為に、猪に成り給ひけるにこそ有けれと」思ふに、貴く悲くて、人々に向て事の有様を語れば、此れを聞く者、皆、涙を流して、悲び貴ぶ事无限し。 其の時に、佛前にして、観音に向ひ奉て白して言さく、「若し、此の事、観音の示し給ふ所ならば、本の如くに□□□申す時に、皆人見る前へに、其の左右のもも、本の如く成□□□。人皆、涙を流して□泣悲ずと云ふ□□□。此の寺を成合と云ふ也けり。 其の観音于今在す。心有らむ人は必ず詣で、可礼奉き也となむ語り傳へたるとや。 音の玉手箱
Que sera sera |
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