古代丹後の港=丹後王国王都
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後王国の港古代丹後王国には港があった、というか、その港こそが王国の心臓・王都(ミヤコ)であり、王家がここにあった思われる。その港は砂に埋もれてしまい、合わせてミヤコも埋もれ、王国も王家も埋もれてしまった。 丹後の港は、今は舞鶴港しかない。舞鶴港は丹後では唯一の港らしい港であるが、過去もそうであったわけではない。 阿蘇海「天橋立の誕生」竹野潟湖竹野川の河口部。三宅橋あたりから下流側は広い水田が広がっている所になるが、ここはかつては潟湖であったと言われる。水田は低く平らで、人家も道もない。人家や道は山ぎわにだけある。今も大雨だと水がつくだろうと思われる。 海水準を5メートルあげた図↓(青い部分)竹野川の土手だけが湖に残される。 竹野潟湖周辺の弥生古墳時代の遺跡図(『日本の古代3海をこえての交流』)↓ 潟湖あっての繁栄の跡か 『熊野郡誌』 (順国志)大県主油碁理は竹野里を国府となし館を造りし人なり。 *「順国志」は細川忠興著とされる。「天正府志」と同じものだろうか。その時代頃かと思われる。「丹後旧事記」も同じことを書いている。書いてある内容はともかくも、本当に天正(1573~92)当時の史書なら、超貴重な書だが、ほとんど重要視されていないのか、この原本が見当たらず、とりあげた書もまずない。 「丹後旧事記(丹後細見録)」は天明(1781~89)頃の峰山の町人・其白堂信吉の著。 網野潟湖(水ノ江。浅茂川湖・離湖)東から延びた八丁浜の砂州に遮られた大きな潟湖があった。 真ん中に網野銚子山古墳を乗せた半島が突き出していて、その西側は駅の辺りまで、東は離湖周辺が潟湖になっていた。この潟湖を水ノ江と呼んでいた。 福田川の河口部は浅茂川湖という湖になっていた。江戸後期にはまだあって、『丹哥府志』に、【湖】南北八九町東西五六町、湖の西南に弁財天を安置す、其西に愛宕の山あり。次に水神の社あり、次に薬師堂次に寺。寺の下より湖の流れ川となる、其川に橋を架す、橋の長サ廿間、川の東西に人家あり。 とある。昭和40年に埋め立てられて消滅した。 離湖( この潟湖には網野銚子山古墳という日本海側最大の古墳がある。 「丹後半島北西部の遺跡」(丹後郷土資料館)より ←木製の楯 浅後谷南遺跡 4世紀 高さ1m、幅50cm。横木を樹皮で綴じ付けた精巧なつくりの楯である。浅後谷南遺跡が王権の本拠すなわち王宮の跡であることを窺わせる貴重な資料である。 とある。他の出土物からも、同遺跡は、畿内の王権と繋がりある遺跡といわれる。 上の図で言えば、黄色(海抜10メートル)の部分、左から2番目の所、東側に位置する。 最近にも大宮町の幾坂古墳群40号墳(5世紀初頭)から漆塗り革盾2点が出土している。革盾は丹後では初の発見で、2点同時の出土は府内初。うち1点は文様が分かるほど漆の残存状態が良いという。当時の盾は木枠に革を張り、表面に漆が塗られていた。出土した革盾はいずれも木枠や革が腐っていたが、うち1点は幅約55センチ、長さ132センチの範囲で黒漆の皮膜が残っていた。古墳時代の革盾の出土は全国で50例ほどで、畿内中枢部に集中していることから、畿内政権と繋がり深いと見られている。 畿内と繋がりがあるし、朝鮮と繋がりがある。両繋がりがあって、もっとほかにも繋がりがあって、当地の繁栄も成り立っていた。 『網野町誌』 東丹国使、網野着 (史料三) 唐客称東丹国使、着丹後国、令問子細、件使答状前後相違、重令復問東丹使人等、本雖為渤海人、今降為東丹之臣、而対答中、多称契丹王之罪悪云々、一日為人臣者、豈其如此乎、須挙此旨、先令責問、今須令進過状、仰下丹後国已了、東丹国失礼儀、 (『扶桑略記』延長八年四月朔日条) これらの史料によれば、文籍太夫斐璆の率いる渤海からの使節団が丹後国竹野郡の大津浜という所に漂着したのは、延長七年一二月二三日のことであった。おそらく冬の日本海の時化によって方向を見誤り丹後国に漂着したものであろう。このことは地元の人々から早速に丹後国府の国司のもとに伝えられたであろう。国司らは年末から年始にかけて渤海使の一行九三人が到来した由を朝廷に報告し、これらを朝廷に召すかどうかで問題となった。結局は朝廷に召し出して、尋問をしたようである。彼らは「東丹国使」と称しており、子細を尋ねたが、その答えの前後のつじつまが合わないので再度尋問したところ、もとは渤海人であるが、九二七年渤海国が契丹(後の遼)に滅ぼされてからはその臣下に降っているという。ここで日本は初めて渤海国が東丹国に滅ぼされたことを知るのである。しかし彼らのいうことは契丹王の罪悪のことばかりである。いったん契丹の臣下となっていたものがどうしてこのようなことを言うのであろうか。丹後国司に命じてもう一度責問して過状(過怠を謝る書面)を提出させよというものである。 文籍太夫斐璆ら一行九三人がなんの目的で来日したのか詳しいことは不明であるが、おそらく渤海の滅亡後、一度は契丹の臣下に降ったものの、それを嫌ってかつて来朝渤海使として二度来日したことのある日本へ亡命を企ててやって来たのかも知れない。 大陸から我が国へやって来る人々は、必ずしも正規の使節だけではなかった。正式の来朝新羅使や来朝渤海使以外に、平安時代に中国や朝鮮から丹後国に流れ着いた漂着船をみると、その多くが竹野郡となっているのである。 久美浜湾潟湖と呼ぶよりは湾といったほうがよいが、入口に小天橋と呼ばれる大きな砂州が東から延びている。天橋立よりもすっと大きすぎ、立派すぎで、湾への入口は神戸の水道のみ↓。この20メートルぱかりの幅では1000トンクラスだと通行不可でなかろうか。現在の港湾としては使えそうにない。 江戸期には、郡内の御城米は久美浜・川崎浜・長柄浜の三津出倉に集められたが、湾口が狭く土砂の堆積・潮流がはげしいため、外海に面した旭港に停泊した本船に、艀で荷を運んだという。千石船は積載量150トン、重量200トンくらい、幅は7~8メートル、これが入れないくらいの水路であった。 本来の湾口は北東方向へ一直線の水路であったが、明治37年~大正2年の湾口改修によって宮津・間人・浅茂川・津居山などとの連絡が容易になり、大正3年に久美浜~城崎間に発動機船が就航したという。 しかし、ずいぶんと古くからの国際重要港湾であったことは、王莽の貨泉が出土しているこことからもうなずける。 『丹後旧事記』 神服連海部直。日本古事記日本舊事記に曰く神服連海部の直は皇孫六世旦波国造、但馬国造等の祖也、大日本根子彦太瓊尊治下御世(人皇七代孝霊天皇)此館跡今も川上庄海部の里に殿垣六宮廻といふ田地の字ありと細川少将忠興順国志にあり王代の人住を我名とせる事其例多し川上の庄は凡当国の国府の始なるべし。 木津木津というくらいだから、津(河口の港)があったことは間違いなさそう。砂嘴が成長して、両サイドから大きな砂丘が河口を塞いでいる、巨大な砂州になっているが、この砂、小天橋を作った砂と同じだろうが、ハンパな量ではない。これはどこから運ばれてきたものか、沿岸流は西←東のようだが、東に大きな川はない、木津川と木津と網野の間にある小河川の砂だろうか。 木津駅のあたりや俵野あたりは潟湖であったと思われる。 佐濃川がまっすぐ日本海に注いでいたらしい様子も見える 「和名抄」高山寺本は「岐都」と訓注がある。平城宮出土木簡に「丹後国竹野郡木津郷紫守ア与曾布五斗」とみえるほかは古代木津郷については不評。 『丹後旧事記』 橘庄唐櫃越。竹野郡木津庄箱石の法なり垂仁天皇の九十九年辛酉二月朔日帝御夢見玉ふに依て天日槍の孫君四道間守命をして常世の国に遣し橘実四道間守橘橘を求めて常世の国より帰朝す、景行天皇即位元年三月二日なり垂仁天皇崩じ玉ふと泣花にせしとかや此着船の津なるが故に橘庄といふ。唐櫃越の跡とて箱石といふ岩今も有木津は橘字の仮名がきなり又天日槍は唐土の人にて此国へ流され朝廷へ馬を献上して住める国を奉る馬国と名付るの人なり或は立馬又は但馬田道間等書り田道間守命はたじまの国の造にて物部といふ所にて初て国府を置く其後神功皇后の朝に執政し物部の但馬大連の祖なり。 『丹哥府志』 【木津の浜】 浜詰より久美の庄湊村に至る凡二里余、浜の広サ八、九丁、其間にうしあげ、川裾、上野の岡、おくこの、くり山、火箱山、地蔵山といふ處あり、皆砂山なり。砂山の間に川二筋あり、一は木津庄の川なり、一は砂山の中間より流れ出る、蓋かつたの池(俵野村にあり)より砂を漉して流るるといふ、其川の西に鶴の嶋及箱岩あり。日本紀云。垂仁天皇五十年辛酉二月朔日帝御夢見給ふに依て、天日槍の孫田道間守命(田道間守命は但馬の国造にして物部といふ處を国府とす、其子孫神功皇后皇后に仕へて但馬大連といふ)を常世の国に遣し不老不死の橘の実を求めしむ、景行天皇即位元年三月二日田道間守命橘を求めて常世の国より帰朝す。丹後旧事記云。此浜は田道間守命帰朝の時着船の處なり、此處に於て帝の既に崩御し給ふと聞き、深くこれを悲しみ遂に死す、抑も田道間守命橘を求めて帰りたる處なれば此庄を橘といふ、今木津といふは橘のかな也。 舞鶴浦入・三浜、小橋浦入は今は火電が建設されていて、この景観は失われた。小形のラグーンがあった。港として縄文時代から使われていた。 三浜・小橋も、今の水田になっいる所がラグーンであった。ここも縄文期から使われてきた。 小浜・敦賀白っぽい所が海抜5メートルで、このあたりがラグーンであったと思われる。 古代の舟浦入遺跡出土の丸木舟↑縄文時代前期後半の約5,330年前のもの。スギ製で船尾部分が残っており長さ4.3m、幅0.9m、深さ0.3m、厚さ5㎝。復元すると長さ8m~9m、幅1m弱の大きさで全国的にも最大級のものであり、出土した地点が海に面していることから日本海へ漕ぎ出していったことが分かる初の外洋航海用の丸木舟という。原料が天然の木材であるから、舟の大きさは天然の木材の大きさに制限され、これくらいのサイズで最大になった。 横に二人が並ぶには狭いと思われ、縦に並んで最大8~10名、片舷4~5挺の櫂でなかろうか。荷や水、食糧なども積み込まなくてはならないから、もう少し搭乗人数は制限されたであろうが、風なく、波も潮流もなければ快速舟であったと思われる。(快速といっても、長時間持続可能なレベルの人の筋力によるので、人の歩くスピード以下と見られている) 舷の高さ、水面から上甲板まで、甲板はないから、両舷の高さまでの寸法だが、15㎝もあったら上等という程度と思われ、それ以上の波があれば、舷を越えて波が船内に入ってくる。15㎝の波などは、ちょっと風が吹けば、すぐに立つので、穏やかな日を待って船出したと想像できる。近くの港で風待ち、潮待ちをして、時がかなえば出航、慎重に慎重に少しずつ少しずつ進んで行く。待って待って、あとはウンと神頼み、航海の無事は神に祈るしかない、天意を読み違えたり、甘い判断をすれば全員オダブツとなる。 「 瀬戸内海は特に潮の流れがよく変わることで知られる、潮目の変わりを待っている、潮に乗るタイミングを月の位置で知るのであろうか。待てば海路の日和あり、そんな諺もある。どんな荒海も年がら年中、荒れっぱなしということはない、そのうちに穏やかな日もある、その日がチャンスである。 舟というか、ボート。行楽池の貸しボートを少し大きくしたようなもの。 池ならまだしも、海で使うとヤバイ。ちょっと風が吹けば、潮流があれば、人力ではどうにもならず、沖へ沖へどんどん流されてしまう、鉄板の胸板、丸太の腕があって、死ぬほど懸命に漕ごうとも岸に戻れない、自然の力にはポパイの力でも無に等しい。この程度のボートはエンジンのついた助け船が用意してない所では決して海に出てはならない、どんなに穏やかに見えようとも沖にはゼッタイ出てはならない。 右はニゴレ古墳出土の舟の埴輪。ニゴレ古墳は、5世紀中頃とみられている。その当時といえば、丹後王国の大繁栄時代を支えた舟である。それが丸木舟とは… 準構造船と呼ばれるが、下は丸木舟で、両舷に波よけ用の板を付け足したものである。自然の木材の寸法によって制限される、だから長さは長くても10メートルほどか、丸木舟の舷に20㎝の板を貼り付けて、合わせて舷の高さ50~60㎝程度、幅は1メートルくらいのように見える。横に二人並んで櫂をとるようで、漕ぎ手は10名、片舷5挺の櫂舟と思われる。 当時の舟を彷彿させる舟が今もある。 「諸手船神事」より。↓ 美保神社の 下は丸木舟の準構造船である、腕の良い大工さんによって作られ洗練されているので、埴輪の舟のようなゴッツイ感じはない。横に二人並んで漕ぐ、片舷4挺に舵取りが一人いる。 丸木舟は素材が天然木だから、幅があって広く、かつ長い物はざらにはあるものではない、幅とのバランスがあって、ただ長いだけでもあつかいにくい、ならば何材かをつないで長くし、かつ使い勝手のよい物にならないか、 こうして少しずつ進化していったという。中世あたりまでは、こうした舟であった。 海人で舟こそがイノチのはずだが、必要がないと進歩しないようである。 (図の引用。勝手に使わせていただいたもの) 『新京都五億年の旅』『天橋立物語』『人類と気候の10万年史』『日本の古代3海をこえての交流』、ネット上のもの 音の玉手箱
世界に求む(王家に捧ぐ歌) |
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