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そら知らなんだ

笶原神社
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -4-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

笶原神社



笶原(やはら)神社は、西舞鶴市街地の西にある愛宕山の麓にある。郵便局の横の道を愛宕山に突き当たった所、桂林寺の北側にある。
マチの人は普通は「神明さん」と呼んでいる。ヤハラ(あるいはヤブ)と正しく呼ぶ人はまずいない、エバラ神社とかエミハラさんとかとも呼ばれている。笶と笑の文字を間違えているようである。神社下の紺屋町という百軒足らずの地区だけが氏子の神社で、今ではほぼ忘れられているようだが、この社は西舞鶴にとどまらず、丹後古代史上でも大変に重要な神社である。
古社はたいてい資料が残されていない場合が多く、解明するにも手も足も出ないところが多い。しかし当社はわりあいに資料が多い、しかし多ければまた、その資料は本物かの疑いも生まれる。その当時に生きていて見ていたわけでもないはるか後世に生きる者には、何ともカンタンにはいかないものである。残された文書を手かがりに推測に推測を重ねて過去にせまっていくより手がない。一代や二代ではムリであろう、以下資料の手探りと、推測である。


神明鳥居に掲げられた神額には、「総社笶原魚居匏宮(そうしゃ・やはら・まないよさみや)」と書かれている。清仁親王(花山天皇の一子)の揮毫と伝わるという。そうなら西暦1050年くらいに書かれたものになる。国府のエライさんでもなければ依頼することもできない雲の上の人である。

総社(そうしゃ)というのは、惣社とも書くが、古代の国司が、任国国内の神祇を祭るにあたり、国衙の近くに諸神をまとめて勧請し、参拝の便をはかったことから成立した神社といい、祭祀者は国府であった。
なにともズルを考えたものだが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたという。
制度化される以前からそうしたズルが行われていたのかも知れないが、丹後国には総社という社は当社しかない。籠神社が総社を兼ねていたのではの見方もあるが、そうかも知れないがそれは後の話であるしまた確証があるわけではない。
当社がそうした総社なら当社近くに丹後国府があったことになる。
『和名抄』に、国府在加佐郡、行程上七日下四日
昔から余佐郡の間違いだろうと言われているが、与謝郡府中に国府があったことは間違いはない、彼地には国分寺はあるし印鑰社もある。…まだ文もみず 天橋立。と詠われるように、天橋立近くに国府があったことは事実であるが、丹後国の最初の頃はそうでなかったかも知れないのである。
「丹後国風土記」逸文に、
 与謝郡。郡家の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。此の里の海に長く大きなる(さき)あり。…
速石の里は府中の地であって、もし当地に丹後国府があったのなら、こうした書き方にはならないだろう。丹後国府の地が速石里で、そこには大きなるサキがあり、それが天橋立である、とかそうした書き方になるであろう。
与謝郡家は野田川か加悦かそのあたりにあったと思われ、何も遠く離れたその郡家から天橋立の位置を説明したりはしないであろう。
逸文風土記は伊予部馬飼の筆になると言われる、この人は丹後国最初の国司であっただろうと言われる。丹後国は713年(和銅6)の成立で、その当初は府中に国府はなかったのではなかろうかと推測できるわけである。
小式部内侍も1000年くらいの人だから、その時代には府中に国府があったと思われ、ここの「総社」はそれ以前の過去の社格を書いたのであろうか。
総社は国府の総社だけでなく、のちにいわば勝手に誰かが寄せ集めて総社と名をつけるということもあるそうだが、勝手にキリストの墓でもあちこちにあるそうだで、そうしたこともあるのであろうが、古代丹後国発祥とかかわりありそうで官社的性格が強そうな当社の場合は、その証拠でもあれば別だが、一応は原義のとおりに見ておきたい。
当初の丹後国府は当社の近くに置かれていたということになる。
国府からあまり離れない位置に当社があったと思われるが、当社は現在地ではなく元々は背後の愛宕山(笶原山)の頂上にあったといわれ、この山の麓のどこかであろうか。府中の国府跡もわからないくらいだから、その前の国府跡を見つけるのはむつかしい。
地名から考えれば、京田(興田)あたりかも知れない、裏山は白雲山といい、これは磯砂山の別称である、古代丹後の象徴のような山名を残している。

今の笶原神社の本殿は元は拝殿で、本殿は裏山の忠魂碑があるところにあったという。本殿は崩れてしまい再建できず、ご神体は拝殿に祀っているのだそうである。
ここには神明山古墳がある。
『舞鶴市史』によれば、
丘陵陵、径40m 高4m、完存。
紺屋の神明山古墳も忠魂碑などの建立で旧観を失っているが、外形は大形の前方後円墳状で、北側に葺石らしい場所を見ることができる。


笶原神社は古くは愛宕山(舞鶴山、天香山、笶原山)の頂上にあり、山全体を境内地としていたと言われる。
境内の案内板
笶原神社
社格 無格社
祭神 天照大神 豊受大神 月夜見神
由緒
当社ハ延喜式神名帳所載ノ神社デアッテ其ノ創立年月ハ明カデナイケレドモ歴朝ノ御崇敬深ク霊験顕著ナルコト慶長年間領主細川家御再建棟札標文ニ詳デアル
寛文年間領主牧野家入国以前ハ地方民ノ崇敬深ク大社ノ古跡デアッタガ漸ク世ノ変遷ニツレテ頽廃衰微シ僅カニ小社ヲ存スルバカリトナッタ然シ古来ノ餘風ヲ残シテ朝代神社ト同様其ノ祭典ニハ各字総代等祭場ニ参列シテ神饌料を供ヘ神事終了後直会ノ儀式ヲ行フノヲ例トシタケレドモ明治維新ニ際シ両社共其ノ祭事中絶シタノデアル其ノ今ニ存続シテイルノハ例祭ノ当夜各町各字カラ境内ニ神燈ヲ奉ツテ尊崇ノ誠意ヲ表シ稍往昔ノ遺風ヲ伝ヘテ居ル



『丹後風土記残欠』
田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで(ヒチ)の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原(ヤブ)山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)


祭日(6/15)には、真名井の清水が納められている。笶原山は天香山ともいい隣の桂林寺の山号ともなっている。
ヒサゴ(匏。ヒョウタン)には盛られていないが、風土記世界が今も生きている。当社が真名井吉佐宮であるまぎれもない証拠みたいなものになる。
風土記やそれを編じた国府と関係の強い社の性格を窺わせる。細川忠興の時代までは政治権力の強い庇護を受けていた。政略的に権力が崇拝保護してくれる間はよいが、それがなくなれば困ったことになったのではなかろうか。地元の元々の村は遠くへ移住するし、権力の勝手な都合でその庇護も失う。当社は踏んだり蹴ったりで、やがて朝代神社の方へ人々の信仰の中心は移動していったようである。
麓の村は八田村といい、この村は田辺城下建設のために多くは由良川筋へ移動させられている。白鬚や松尾を祀る村なので、渡来系の村と思われる。当社を祀っていたのかはわからないが、八と矢だから、八田ともいい笶原ともいった村だったのかも知れない。村名はヤ、これでは何ともわからない。矢田神社は久美浜町海士(あま)にある式内社で、海部氏発祥ともされる社である。安田という所にあったといわれ、ワタ、アタがヤタになったものかも知れない。海人の地のことかも知れない。

今は田辺というが、和名抄刊本は田造郷としている、残欠も勘注系図も田造である。天孫本紀などでは、天香語山命は天降ってから手栗(たくり)彦命としていて、田造はあるいはこの手栗のことかも知れない。


慶長五年(1600)細川忠興の社殿再建の際の棟札。
漢字ばかりでどう読めばいいか、私には分からないところ多いが、誰も読んでくれていないので、私流のだいたいのところ。
丹後州神座郡田邊城外西嶺に笶原神宮が有る、
豊受大神神幸の古跡で、所謂眞名井原與佐宮の三處の一を爲す、此の嶺は別に天香或は藤岡の名がある。
崇神天皇即位世九壬戊歳、豊鋤入姫命を使わせ天照太神、草薙劔、月夜見神を此の地に遷し、一年三月奉齋した。
後に御霊は又與謝九志渡島に遷し奉齋した。此時始めて與佐郡の名が有った。
當宮の霊験は著しい。一二を以って示すと後世の社記に曰く、
文武天皇慶運三丙午歳夏、久しく旱魃で一露も降らず災火で山は悉く焚けた爲、萬民手足を置くことができなかった、阿部朝臣眞君と副使中臣朝臣人足等を使わして種々の当宮に神宝幣帛を進めた、雷聲忽ち応えて火災は自ら滅した。
高岳親王は当宮に詣で神詫で清光殿を建てた宮地に遂に戒言、自愼を奉った。
花山帝は子無しであったが當宮に祈り即ち感応が有りて、清仁親王が生れた。
後醍醐天皇は當宮に於いて蝮蛇の患いを免れることを祈り、邦高親王もまた此神に祈り御脳は忽ち平癒し世を蒙いた。
神明の威徳は数知れず、歴代の帝は此の神の徳を崇め幣帛を進め賓殿を修理した。
しかれども星移り物代り雨露は疵は古くなった。慶長五年秋八月石田三成方の人・小野木重勝方が當城を囲んだ時、父藤孝は一首の歌を詠して奉り、籠城した
その歌に云、天照神のますカサ郡なれば 荒振る者をヤライ賜りますよう 既に感応が有り、太神は夢中で長歌で詫び、智仁親王は之を天子に奏した、天子は驚き直ちに、勅烏九岩廣卿西三條實條卿加茂松下大宮司等を下し、小野木等に囲を解いて退くよう命を下した。是故に父は出戦し一國を得た、是は我に非ず神の徳なり、神明の妙助なり、と尊敬を益した、其の神徳に自ら幣帛を捧げ吾の姓祖・清和天皇之霊ために神領九町七段百九十歩を寄附し又其宮地山林は西は馬谷の尾崎、圓隆寺の境に接し南は桂林寺の境に至る地、茲に宝殿を新営し神主海部真正に當城鎭護國家安全五穀成就武運長久を祈らせた、
  慶長五年庚子冬十一月十四日
        再建願主當國城主  細川越中守忠興謹誌


これもニセモンだの説もある、ニセだ偽作だと当時生きてもいなかった、当時を知るはずもない遙か後世の者がシッタゲーに言うのは、愚者の思い上がりでなければよいが。
当社は一般の庶民の社でなく、官社の性格が強いことがだいたいわかる。この書が、本当の過去を伝えるものなら丹後古代史はひっくり返るようなハナシになる。元々は当社が与佐宮で、それが後に天橋立(与謝九志渡島)に移った。それで与謝郡と呼ぶようになったという。
また勘注系図天叢雲命の注文に
丹波國眞名井三處、久志比・矢原・伊去奈子是也
とある。矢原とあるのは当社、久志比は天橋立、伊去奈子は具体的にどの社に当たるか不明。真名井は、伊去奈子→矢原→久志比と移動し祀られたものという、さらにはヨサ地名も同様に移動したかも知れない(磯砂山は真名井山とも呼ぶが、さらにヨサ山とも呼んだとか何かで読んだ記憶があるが、何の書だったか思い出せない)。


魚居匏宮
豊受大神を比治真名井から移して、田造の真名井の水で神饌を調した。真名井の傍らに天吉葛が生えていたので、それに水を汲んだ。だから魚居匏宮というと説明されている。
天吉葛(あまのよさつら)というのはヒョウタン(瓢箪、匏)のことで、匏と書いてヨサと呼んでいる。残欠に
與佐郡 本字 匏
とある。
そうするとヨサの地名は元々は当地にあったのかも知れない、当社近くに吉原、吉田、吉井とヨシの地名が見られるが、ヨサであったのかも知れない。吉佐宮と呼ばれていたとしても特には違和感はない。もっとも元元元のヨサは伊去奈子であったろう。
この匏宮(吉佐宮)はのちに最終的に天橋立に移ったようで、智恩寺のあたりとか、橋立神社だとか、籠神だとか言われる。

「真名井原吉佐宮」は今は「元伊勢さん」と呼ばれている社である。これも何がなにやら、どれが本当のことなのかわからないのであるが、
『与謝郡誌』
吉佐宮趾
 崇神天皇の朝皇女豊鋤入姫命が皇太神の御霊代、即ち三種神器の内八咫鏡と叢雲剱を奉じて大和国笠縫邑より當國に御神幸あり。社壇を橋立の洲先に卜して宮殿を御造営あらせられ、吉佐の宮と申し霊代を奉安神事せらるゝこと四年、のち伊勢国五十鈴川上に奉遷し、内宮皇太神の神都に奠め給ひしといへる舊社にて、我国體上最も尊厳の地位を占むる霊蹟なれば、伊勢に御遷幸の後にても依然宮殿を存置して皇太神を奉祀せしも、文殊堂の雪山和尚が諸堂拡張の爲めに、切戸を渡して橋立の厚松内に宮殿を移したるが今の橋立明神なり。文殊境内なる宮跡は今本堂の東北なる本光菴の前に當れるが、古来神聖の境域として苟くも汚穢不敬等のことある無く、約四坪計りは厳然として保存せられ今要目樹壹株を栽ゑられてあり。尤も吉佐宮に就ては種々異説ありて倭姫世紀には「奉天照太神於笠縫邑遷之于旦波與謝宮今加佐所在内宮即其處居焉四年又遷于伊勢五十鈴川上號曰内宮、事在垂仁天皇二十五年機歴十代至雄略天皇祀豊受皇于伊勢所謂外宮是也云々」と載せ神社啓蒙には「與謝宮在二丹後国與謝郡川森一所祭神一座」と云ひ和漢三才図会には「與佐宮在二與謝郡川守一云々」となし又大神宮御遷幸図説には丹波吉佐宮今丹後に属し丹後の神森云々と云ひて河守に比定し、加佐郡舞鶴町紺屋天香山鎮座笶原神社慶長五年庚子冬十一月十四日国守細川越中守忠興再建の棟札に「丹後州神座郡田辺城外西嶺有笑原神宮焉豊受大神神幸之古跡而所謂為真名井原與謝宮三處之一而此嶺別有天香或藤孝之名焉、祭神天皇即位卅九壬戌歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙剱月夜見神于此地以奉斎一年三月矣然後鎮其御霊代又遷與謝郡九志渡島以奉斎此時始有與謝郡名焉云々」と録し、日本地理志料には「豊鋤入姫命斎皇太神於丹波吉佐官云々吉佐趾在文殊村郷名取此云々」と載す。丹後細見録、丹後舊事記及び丹後州宮津府志には孰れも「橋立大明神余社郡天橋立、祭神豊受皇太神宮、祭神天皇三十九年天照皇太神宮を崇め奉る、與謝宮倭姫の垂跡なり」と云ひ、神祇志科式外論神の部に「等由気太神與謝郡切戸にありて與謝宮と云ひしを後世僑立に遷して改て橋立明神といふ。(按與謝宮旧趾今切戸に在り何頃よりん其近傍に文珠堂ありしが奸僧雪山なる者其仏の栄えるまにまに遂に本社を今地に遷して其趾に文珠堂を構へたりしなりといふ甚だ憎むべき所業なりと云ふべしさて古は切戸より橋立の内府中真名井までも悉く本社の境内なりしといふ云々)天照太神の御饌都神等由気太神を祀る。雄酪天皇御世大御神の御教に依て此大神を伊勢の度会山田原に遷坐奉らしめ総ひき云々」と掲げ、尚ほ皇太神四年鎮座考(吉佐宮考)には「皇太神は籠神社に四年間御鎮座ありて後伊勢の五十鈴川上に御遷幸」の由を記す。其他諸書の載する説もおのづから異るものあり、又皇大神と豊受大神即も内宮と外宮とを混同せる向もありて一定せず。按ずるに此の両者は倭姫世紀にある如く判然別個にして、皇大神を吉佐宮に斎き奉るのとき、典御饌神に丹波郡の眞名井原に降臨御鎮座あらせられたら豊受大神を橋立近辺に迎へ奉り(今府中村に豊受大神を祀る真名井神社は其宮なりと伝ふ)皇大神の伊勢に御遷幸の後は祭祀も頽れしを、雄略天皇の朝に皇大神の御託宣により真名井原へ勅使を御差遣(此の真名井原とは府中の真名井原か或は其故地たる丹波郡の真名井かを知らず)伊勢の度曾に奉遷したるが豊受大神なれば、吉佐宮は内宮の皇大神なるは謂ふまでもなし。.

今の舞鶴で元伊勢さんと言えば福知山市大江町の内宮(皇太神社)を言っていて、当社も元伊勢と知る人はまずいない。


笶原神社
神額には竹冠にモと書かれているように見える。笶とは書かれていないのかも知れない、何と読めばいいのか不明だが、先人たちは皆そう読んでいるので一応笶原と読んでおくが、ひょっとすると籔原かも…
延喜式神名帳に笶原神社があり、ヤハラノの訓注がある。
式内社「笶原神社」の比定には、当社のほかに2社の説がある。
『地名辞書』(吉田東伍)
笶原(ノハラ)神社は延喜式に見ゆ、今田井の西野原に在り、…
笶原と書いてノハラとも読む、讃岐国香河郡笶原郷・笶田郷には能波良、乃波良の訓注がある。矢の竹の部分をノというのだそうで、矢をノと読んでも間違いともいえないが、当社は八田村があったから、ヤハラであろう。

『丹哥府志』
◎與保呂上村 (以下二村與保呂谷といふ、森村の東)
【笶原神社】 (延喜式)
 笶原神社は今池姫大明神と稱す。

与保呂の神社も古社ではあるが、ヤハラとか式内社とかは何も伝わらない。

風土記残欠の神名帳はだいたい地図上の位置の順番に記載されているが、笠水社(公文名)と伊吹戸社(結城神社、青井)の間に笶原社は記載されていて、当社以外には比定しようはない。

ヤハラの意味。ヤハラ、ヤフル、ヤブあるいはヤタとも呼ばれたのであろう。天香具山の麓であるから、ずいぶんと古い由緒ある地と思われる、天日槍の拠点地であろう。伊佐津川をさかのぼると何鹿郡八田郷があるが、当地と何か関係があるのでなかろうか。


地元豪族と海部氏系図
丹波国造海部氏系図(勘注系図)を見ると、海部氏の古い時代の祖は、どこが本貫ともわからぬ人が架空を疑ってしまう人も多いが、判明する人は意外にも加佐郡関係の人が多く見られる。
四世孫笠水彦、五世孫笠津彦、十六世孫丹波国造大倉岐、十七世孫明国彦は加佐郡の人であろう。
残りの人は熊野郡で、加佐郡よりやや遅れて十四世孫川上真稚、十五世孫丹波大矢田彦、十八世孫丹波国造健振熊宿祢が見られるが、熊の名があるのでここにもってきたのかも知れないが、しかしこの人はワニ氏であろう、たぶんワニ氏とは深い関係が氏族ではにかろうか、その児丹波国造海部直都比が見られる。
丹後の東の端と西の端から集まったような感じの加佐と熊野を主要な構成メンバーとした複合氏族のようで、天橋立あたりに単一の氏族があったのではないのではなかろうか。丹波国造といっても元々の丹波の中枢部(丹波郡、竹野郡)の人はまったく見られない、竹野媛の日葉酢媛もない、天皇の后になってるのに、女権の強かった時代の后だから、その権勢の強さがしのばれるだが、その記載がない。丹波道主王とか3大古墳の被葬者を想起させられるような人の名もない。関連するような系図とか文献とかあればいいのだが、ポツンとこの系図しかないので、何とも信じるか疑うかの二つのなってしまうのであるが、加佐郡関係の人は地元でも祀られているので実在性は高そうである。
海部は半分は海賊みたいなものだっただろうから良港を持っている所が有利だったのだろう。後には日本海側唯一の軍港になったくらいで、加佐郡海人も甘く見てはならない。。
允恭の時代(海部直都比の児の時代)に加佐郡の海部氏は凡海連(おおしあまのむらじ)を名乗るようになり、本宗家として海部氏はようやく与謝を拠点にするようになったと思われる。
(むらじ)だから、王権に服属して、海事や軍事、祭祀など職能を専管する地位にあったと思われる。与謝の海部直氏は丹波国造とは名ばかりで、すでにその実権は失い、籠神社の祝職だけの職能しか有していない。丹後国はそもそもの誕生から主体性を奪われていて、王権に服属した国であった。
直は、渡来人や、国造などの地方豪族に与えられた例が多い。語源は、朝鮮の古語で「上長」を意味するものであったという。天皇と同等の力で地方政治を取り仕切っていた国造を「あたひ」と呼んだことに由来するようである。という。
分派が連で、本体が直というのも何か釣り合わない、まして后を輩出した丹波王国末裔の丹波国造家なら大臣(おおおみ)とまではいわなくとも(おみ)であるべきでなかろうかと思える。また海部と言う名も合点がいかない、その名なら王権に服属している名であり、そうでないのなら丹波とか海とか名乗るべきだと思うのである。

勘注系図では海部直千成を笶原神社祝部祖也とし、養老五年(721)より天平八年(736)まで仕えたとある。丹後国ができた時には海部氏が祝をしていた。
それ以前から当社はあったし、たぶんそれ以前から地元の誰かが祀っていたのであろう。天香語山命を祖とする人、天日槍系の人々であったのだろう。
天香語山命は天日槍の別名だろうの説もあるくらいで、チト渡来系色すぎるということか、やがてその父を火明命として、父とした火明命を祖神と祀るようになり、本来の祖神である天香語山命はスコーンと忘れられていった。

若狭大飯郡の式内社に香山(かごやま)神社がある。「若狭木津高向宮」というのはこの社でなかろうか。おそらくはこのあたりの人達が天香語山命を奉じて西の舞鶴へと移動してきたのではないかと思われる。
この勢力はさらに西ヘ宮津へと移動する。「しかるのちに、香語山命(亦名手栗彦命)は百八十軍を率いて、之を退き、余佐郡久志備之浜に到った」(籠社所伝の天香語山命条『元初…』)という。
宮津と舞鶴には同じ地名がたくさん見られる。天香山、笶原・矢原、真名井、藤岡、九社・久志浜、吹飯浦・九景浦、笠松山、枯木浦、倉橋山、倉橋川、白糸、溝尻、吉原、…これらは「百八十軍」の移動の痕跡かも知れない。神社も(かご)神社であり、恐らく本来は火明命でなく天香語山命を祀っていたでなかろうか。
やがて国府も移動し、その地元があまりに若狭湾系天香語山命系が強くなりすぎるのを恐れた権力側は熊野郡系を引き入れ中和を図っていくのでなかろうか。


坂根氏、坂根修理亮

『元初の最高神と大和朝廷の元初』
加佐郡の国造氏人は、籠名神社祝部氏系図に見える海部直千嶋、及び千足の弟千成の後裔と伝えられる。この氏は、近世、姓を坂根と改めたが、歴世相ついで、今尚存続して、同郡にある。
西舞鶴には坂根サン、嵯峨根サンが多いが、海部氏の一族だという。笶原神社世襲の祝職も坂根サンである。(今は白糸浜神社の神職を勤めておられる)

坂根修理亮は中世の武将で、この坂根氏の族長のよう、この地の地頭であったといい、当社の神主でもあったよう。名は襲名して何代かあったと思われる。
『加佐郡誌』
後花園天皇の御宇中筋村字伊佐津の佐武ヶ岳に城を構へてゐた坂根修理亮滿親(足利義政の庶子であるとせられてゐる。坂根氏の由緒は年代不當)の子孫池内村字今田から來て、一時城を作って住んでゐたが間もなく歸農して坂根九郎左衝門及片倉吉平などの諸氏に分れたやうである。今城の段、城山なとの地名が殘ってゐる。之等は坂根氏以前此地に住んでゐた某豪族の城地であったが一色氏(或は細川氏であるともいふ)に攻め滅ぼされて僅かに昔の面影を存してゐるばかりである。字名は之等の事實に因みて城谷村といってゐたのを細川氏の時から今の字に改められたとのことだ。
舞鶴だけでなく、丹後にも見られるが、舞鶴坂根が移動したもののよう。.
『石川村誌』
坂根氏
亀山に住す、紋丸に橘。加佐郡左武嶽の城に宝徳年中に楯籠りし坂根修理亮の子孫竹野郡島村の城に居り落城後子孫一は其地に残り一は宮津に移りて大久保稲荷の宮守となり今一は本村亀山に來りしものなリと云ふ、坂根家はもと藤原鎌足の裔にて遠く天兒屋根命に出づと傳ふるが其の戦国時代居城の当時は田邊府志、丹後一覧集、宮津事蹟記などに載せたり、今坂根源佐衛門氏を本家として六戸あり。


神明神社
竹野神社の脇の大きな前方後円墳を神明山古墳と呼ぶが、彼社も天照大神を祀っていて、このような呼び名があるのであろう。当社も同じように天照を祀るので、神明サンと呼ばれる。
庇護権力を失い地元八田村なども移転しまい、坂根氏なども移動していき、神社の古来の成立基盤を失った。
神明宮と呼ぶようになったのは江戸期になってからであろう。古い由緒のある笶原神社であったことは忘れられていった。今もスコーンと忘れられている。
『丹後国加佐郡旧語集』
神明宮。正五九月十五日ヨリ十六日祭。大鼓斗巫持 前 宮内  今 式部。天照皇太神ヲ勧請ス紺屋町中程ニ有。此宮元来伯山ト云山伏守護ニテ浄土寺門前ヨリ道有シ由、後巫ノ持ニ成宮内巫迄四代之由、道モ以前トハ付替ル成。今寛政十戊午年写之比ハ宮内総式部也。清水姓ヲ名乗。

『丹後田辺誌』
神明宮 紺屋町 巫清水氏持
旧語集曰元来伯山と云フ山伏守護ニテ浄土寺門前ヨリ道アリシ由其後神子持ト成今ノ宮内迄四代ノヨシ道モ付替  宮内伝


『丹哥府志』
【神明宮】(紺屋町)

舞鶴市内には当社以外にも神明神社がある。










『京都新聞』(01.07.28)
*5棟の倉庫群遺構出土*舞鶴の女布遺跡*
*柱など等間隔で配置*
*飛鳥-奈良時代前半 官衙関連施設か*

 舞鶴市女布にある女布遺跡の発掘調査を行っていた市教委は二十七日、飛鳥時代(七世紀後半)から奈良時代前半(八世紀中ごろ)にかけての五棟の倉庫群の遺構を見つけた、と発表した。柱の間隔などをそろえ、整然と配置された倉庫群の出土は府北部で初めて。
 宅地開発に伴い、女布遺跡の第三次調査として五月下旬から市教委が、遺跡の中心部で下森神社東側の耕作地約千五百平方㍍を発掘していた。
 倉庫跡は調査地の北側に二様ずつ等間隔で並び、一棟だけ南側で離れて見つかった。五棟とも十六本の柱のある同タイプで、一棟の長さは八・一㍍、幅は五・四㍍。柱穴は四隅が丸い方形で、底部分の直径は二十-四十㌢。柱穴から遺物の出土はなかったが、遺跡内で採集した遺物などから、飛鳥から奈良時代前半と特定した。また、同時代の掘っ立て柱建物跡二棟も見つかった。
 こうした規格性をもって配置された倉庫群は、一般的に官衙(役所)の関連遺跡とされ、市教委は郡衙か郷衙に付随する倉庫群の可能性が高いとして「律令体制下で整えられていった地方の官衙関連遺構の様子を示す貴重な資料」としている。
 また、調査地では弥生時代中期から後期にかけての竪穴住居跡七棟が見つかり、西舞鶴地区では初の出土という。


女布といっても京田といってもよいような地点で、郷衙などあったのか知らないが、郡衙はたいていは地元豪族の私邸であって、これらの建物はあるいは国衙跡かも知れない。



音の玉手箱 精神に翼をあたえ、想像力に高揚を授ける、音の宝石

Tango, L'amour C'est Pour Rien  Enrico Macias
丹後と名のある何かイメージソングがないかと探すが、アルゼンチンタンゴもコンチネンタルも合わない。与謝野鉄幹も合わない。
タンゴというか、シャンソンというか、アラブというか、オリエントな旋律を含むこの曲は日本人にはたまらない、丹後にマッチするかも…。


L'amour C'est Pour Rien:Love is For Nothing:愛は何のためでもない、という副題がついている。何か目的があれば不純かも、何のためにもならないかも知れないが、売ることも買うこともできない、灰の中から生まれ、その炎を消すこともできない、せめて生まれ育った所くらいは愛して下さい。
ラムール セ プール リアン それとも、無駄なことさ、何になる、自分さえよければいい、の破滅への外道をバクシンするか。
日本では「恋心」の題名になって、歌詞は日本人向けに大幅に修正されている。
(5) 岸洋子 恋心 - YouTube
(5) 菅原洋一 恋心 1965 / L'amour C'est Pour Rien - YouTube

これはオリジナル歌詞に近い。
(5) 越路吹雪 恋ごころ 1965 / €€L'amour C'est Pour Rrien - YouTube
Enrico Maciasはアルジェリアの人だが、曲はアルジェリア独立闘争の中で生まれたものだという、祖国愛とか郷土愛を歌うもので、男女の恋心の歌ではないよう。





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