丹後の地名プラス

そら知らなんだ

息長①
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -53-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹後の息長氏①

息長氏は、近江・越前を基盤として継体天皇の擁立にあずかったとする説が有力で、今の天皇さんまで続いている天皇氏族ということになる。それ以前の気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)を母とした応神朝も、あるいはそうであったかも知れない。
香春岳の辛国息長大姫大目(からくにおきながおおひめおおめ)命がこの氏族名の初見と思われ、それなら宇佐氏の支族であろう、辛国は加羅(加耶)国、あるいは韓国(からくに)のことで、その地の出自であろう、大目は片目で鍜冶氏族ということであろう。実質的には天日槍と同じでないかともいわれる。
息長氏は天皇氏や天日槍と近く、弥生期以来の長い歴史を持ち全国に分布する。
ここでは、丹後とのかかわりをとりあげてみる。

行永(舞鶴市)

行永(ゆきなが)は今は国立病院機構舞鶴医療センター(旧国立病院、海軍病院)があるあたり、与保呂川の中流域の両側あたりである。

与保呂川河畔の舞鶴でもめずらしく桜の美しい所で、医療センターは↑その東側にある。

与保呂川は元々はここを流れていたのではなく、もっと西側を流れていて、明治42年に瀬替を行い現在位置を流れるようになったという。今も行永古川町があるが、そこを流れる狭い川で、暴れ川だったという。
上の写真のあたりが今の行永だが、元々は与保呂川の川上、支流に椿川があるが、その川上にあったという。椿谷(つばきだに)とか池辺(いけのべ・いけべ)と呼ばれる地である。
『倉梯村史』
倉梯郷森は字船越を発祥地とす、元戸数も僅少なりしが元亀天正(1570~92)の頃より漸次現在の森地域を開きて移動したるが如し。鎌倉時代(1185~1333)の當地方交通系統を考證するに西池内谷より池の部を越え與保呂川の上流に逆り青路を堂奥に越え小倉に出づるを西国街道順禮路となしたりしを見れば蓋当平坦部一帯は千古の森林にして交通は海路の外になかりしは寺院の移動灌漑用水池の開鑿等によりても略推知するを得べし舊石高七百五十石。
行永は一時幸野村と称し現時の池の部及椿谷に聚落せしが大永年間(1521~28)…古名行永に改め=地名行永は道主命の御母息永水依姫の御名息永より出づとの説あり=この頃より漸次移動を始め、荊棘を開き砂礫を除きて現時の安住地を創めしが如く今池の部に元屋敷と称する處を存じ小字名となれり。舊石高千百四十七石八斗餘 一説に曰く行永部落の池の部より移動したるにあらずして土豪池部重房=此の池部氏は後池田氏と改称せしが如し-一族を率ひて移住したるなりと、併し農耕を主として自給自足の生活を敢てせし往時の往民は交通の便よりも生活の資料を得んが爲めに重に山麓の水利を求めて住居せし傾向に徴しても余は前説を認めんとす。殊に前述の西国順禮道又は與保呂川氾濫のため行永平野は一般に荒蕪地なりきとの説と合せ考へて地名の打木、井関、橋垣、竹道等は往時の住民が或は開墾し或は水を防ぎし名残なりと思ふ時一層前説を首肯せしむるものあり。
*今の行永幸野(ゆきの)町は行永公民館があるあたり。


行永が息長だというのは、氏神として式内社・弥加宜(みかげ)神社(祭神・天御影(あまのみかげ)命=天目一箇神。行永、森、浜が氏子圏)を祀っているから、間違いはないと思われる。
天御影命は野洲(やす)郡式内社・御上(みかみ)神社に祀られている。安国造(やすのくにのみやつこ)のもとで御上神を祭祀した御上祝(みかみのはふり)は、「古事記」に「近淡海の御上の祝がもちいつく、天之御影神の女息長水依比売を娶して…」とみえ、開化天皇の子・日子坐(ひこいます)王が天之御影神の女を妻としたとある。安国造や御上祝は天日槍系になるが、その一族の中には息長を冠する支族もあった。息長も遡れば天日槍系と思われ、両者は混じりやすいかと思われる。その息長を冠する御上祝の支族が丹後の当地へもやってきたと見られる。行永だけでなく、森も浜も息長であったし、息長水依比売の息子が丹波道主命だから、当地ばかりでなく、丹波一円にも広ろがっていったものと思われる。天御影命は天津彦根命の子であり、御上祝氏は鍜冶氏族である。三上神社は大岩山の24口銅鐸出土地から3キロばかりのところにある。

加佐郡倉梯(高橋)郷

行永の地は古代の倉梯(高橋)郷になる。倉梯といえば、今は倉梯小学校がある与保呂川流域の行永の地を指すが、元々の倉梯(高橋)は、今の祖母谷川(倉梯川)の流域、とくに上流域と見られる。
『丹後風土記残欠』に、
高橋郷。本字高椅。高橋と号くる所以は天香語山命が倉部山(庫梯山・倉梯山)の尾上に神庫をつくり、種々の神宝を収蔵し、長い梯を設けてその倉のしなと為したので、高梯と云う。今なお峰の頂に天蔵と称する神祠があり、天香語山命を祭る。また、その山口(二字虫食)岡に祠があって、祖母祠と称する。此国に天道日女命と称する者があって、歳老いて此地に来居まして、麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えたので、山口坐御衣知祖母(やまぐちにますみそしりそぼ)祠と云う。
庫梯(くらはし)山 倉部山別称也

祖母谷
(そぼたに)
の一番奥に多門院黒部(たもいんくろべ)というところがあり、倉部(くらべ)山(庫梯山)はその裏山、即ち今の三国山と思われる、この頂に天香山命を祀る天蔵神社があったという。その社は今は麓に下ろされている。梯木林(手前携帯アンテナの山)背後は三国山天藏神社(舞鶴市多門院)
三国山は丹後、丹波、若狭の三国が交わる地点なので、三国山と呼ばれる、古くは倉梯山、倉部山とも、あるいは天香山命を祀った山になので天香具山とも呼ばれていたと推定できる。この山が東舞鶴の天香具山と見ていいと思われる。

クラハシとは、


↑加悦町の古墳公園、はにわ資料館に展示されている「はしご」。
弥生時代1世紀頃の温江遺跡出土のもの、粘土とりの深さ2メートルの穴から出土したという。これは上の部分が欠けていて1メートルばかりしかないが、元は2メートル以上はあったのであろう。こうしたものを今はハシゴと呼ぶが、古くはハシと呼んでいた、天橋立のハシである。
同公園には高床式倉庫が復元されて、ハシゴも復元されている。
蔵の入口に架けられたハシ、まさにこれが蔵梯(くらはし)である。高いハシゴだから、高梯(たかはし)とも呼んだ。

このハシゴのように、垂直に近いような険しい山を倉梯山とか高橋山、あるいはハシゴを立てかけたような山だから、橋立山と呼んだ。
各地にもあるが、大和の倉橋山は万葉集にも詠われ、『古事記』にもある。
梯立の 倉橋山を 嶮(さが)しみと 岩かきかねて 吾が手とらすも

梯立の 倉橋山は 嶮(さが)しけど 妹とのぼれば  嶮(さが)しくもあらず
(梯立は倉にかかる枕詞)

舞鶴の倉梯山の麓を開いた天香語山命とは、すなわち天日槍のことで、天道日女命は彼の母というが、「麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣を製る道を教えた」という、いかにも天香語山命的な伝説が伝わる。天道はおテントさんのことで太陽のこと、阿加流比売の変形か。
倉梯山の天日槍は、与保呂や池部の谷に広がり、今の東舞鶴市街地も開発していった、海まで達していて、その海は枯木(加羅())浦、白糸(新羅)湾と呼ばれていた。

祖母谷・溝谷・溝尻・曽布谷

天香語山命を祀る地なので、倉梯(高橋)は、元々は天日槍の地である。祖母谷のソボはソボル、即ち新羅や伽耶のことであろうか。

溝谷
溝尻の「溝」はミゾのほかにソボとかシボとかとも古くは呼んだという。『風と火の古代史』(柴田弘武1992)に、
竹野川を下れば溝谷(みぞたに)で、ここに式内溝谷神社があります。この神社は「ソボタニ」神社とも呼ばれていました(『丹後国内神名帳』)。ソボは「ソブ」で鉄の古語です。事実この境内には天香山(あまのかぐやま)命(天目一箇神の別名)が祀られています。

当サイトで紹介している国内神名帳では、「従三位上 溝谷(シボタニ)明神」となっている。この資料のルビは何時の時代の何者によるルビかはわかっていないが、シボタニと読んだ時代のルビであろうかと思われる。
溝尻と書かれていればミゾシリとしか普通は読みようがないが、当地古代では案外に何でもないソボシリということであったのかも知れない。シリは志理都彦命のシリであろう、シラ、シロの意で、新羅のことか。あるいは溝尻をソボリと読むのかも…
丹後国国内神名帳の原典を見ないので何とも判断しかねるが、恐らく「ソ」か「シ」か判断しにくい文字が書かれているのではなかろうか。もっともカタカナの「ミ」「シ」「ソ」「ン」「ヲ」「ラ」「レ」等はよく似た文字なので、かすれて消えかけた文字を正確に読むこともむつかしいと思われる。「ゾ」「ボ」は間違えそうにないから、ソボ、シボ等とも呼ばれていたのかも知れない。
「ソボは「ソブ」で鉄の古語です」とあるが、溝谷神社は、『丹哥府志』に、
外村
【溝谷神社】(延喜式)
溝谷神社は今新羅大明神と称す、
とあるように、ソボはソボルのことで、新羅のことと見たほうがいいのではなかろうか。
←同社には今もこんな神額がある。現存の「新羅大明神」の神号額は織田信長の寄進と伝えるそうだが、写真のものかは不明。
この神額を見れば、ソボ谷とはソブル谷、即ち新羅谷の意味としか、とらえようがないように思われる。
しかし鉄とも関係深い名と思われる。当社の少し奥に等楽寺があるが、その等楽寺の鋳鉄の湯舟↓が成相寺にある。正応3年(1290)の銘があり、このあたりで作られたものと思われる。


曽布谷
←浦島太郎の弟・曽布谷(そふたに)次郎乃屋敷跡の碑
この石碑が伊根町の宇良神社や来迎寺近くにある。しっかりと文字が読めるので、そう古くはない碑であろう。碑が建っている所はもとの福田の地と思われる。
曽布谷は当地の小地名にもある。祖母と曽布は関係が深そうである。
舞鶴の祖母谷には今は貴布禰(きぶね)神社があり、その境内社に浦島神社がある。
『加佐郡旧語集』に、
貴布弥明神。氏神元来正一位の宮成しか或百姓京江上り貴布祢の神を勧請申帰村に祠を建たり。後々村中尊敬し正月に者家々に松にて嶋の形を作り藁ニて鬼を拵祝ふ也。昔鎮西八郎為朝嶋江渡り鬼を退治平安成なせし因縁を云伝ふ。此コトは貴船勧請せしものの縁者の者に聞たり。
「藁にて鬼をこしらへ祝ふ也」。鬼の神社のようである。宇良神社の氏子圏には「鬼の送り」という伝説もあり、鬼と関係がありそうに思われる。
多門院には国重文の毘沙門天立像がある。

←宇良神社の延年祭の賞品
「福棒」がある。(円筒形の筒)
これは「吹く棒」、火吹き棒ではなかろうか。本来は桐でできているそうで、そうなら真ん中に穴があるはず。(これはない)
火と言えば、風や火吹き竹を連想しなくなった現在の生活だが、火には必要なものであった。

日下部首は、いつか取り上げる予定。

溝野(みぞの)(網野町木津)
『謎の古代氏族鳥取氏』
余談になるが、細野町の南西、日和田の集落と西の溝野の集落とのほぼ中間に標高二八七・八メートルの「トッサカ山」と呼び伝えられている山がある。このトッサカにどの漢字が当てられるか判らないが、仮に「鳥坂」の字を当てるとすると、鳥取氏族の本宗のある河内国大県郡鳥坂郷、そして氏寺の鳥坂寺が想起される。そしてさらに、この山の西側の大きく開いた谷口に溝野の集落があるが、ここから俵野集落を経て浜詰海岸に流れ込む川の溝野、俵野両集落付近の至るところには、おびただしい量の砂鉄の堆積が認められるから、この地における湖沼、海岸の砂鉄は当然考慮しなければならないだろう。
俵野(たわらの)廃寺

俵野廃寺の塔の心礎石↑ これは半分だけだか、直径180㎝もあり、ワタシがこれまでに見たことがある心礎石ではもっとも大きな立派なものである。
丹後最古の唯一の白鳳寺院といわれている、丹後国分寺よりも古いというからスゴイものであるが、これを築いた富はこの砂鉄であったのかも知れない。
溝野川↓

あるいはこの岩がトッサカ山の元か↓(俵野~溝野の間、道縁にある)

鶏の鶏冠(とさか)に似ている。やがて拡大され移動し、付近の高い山の名になったものかも…

溝尻(宮津市)
金山、梶原の小字。【金谷山長徳寺】(浄土宗) 妙見宮
国分寺の鬼面、鬼石

オニがいて、こうした地名が残る。

行永池辺(いけのべ・いけべ)

祖母谷の西部、与保呂川の流域に行永や森、浜がある。今はこの地が東舞鶴の中心となっている。

行永の故地とされる池辺は、与保呂川の支流・椿川の源流の地である。
与保呂川と椿川の合流点、与保呂川↑        亀岩橋の下を流れる椿川↑


亀岩橋を渡らずに府道51号を菅坂峠の方へ進むと、すぐに民家が途絶えてしまう。
南舞鶴デイサービスセンターの建物の先は、今は一軒の民家もなく、田畠や林となって、楽天モバイルの中継アンテナが立っているくらいである。
菅坂峠や見月峠への登口で、府道51(舞鶴和地線)が通っている。ここが行永や森の旧地である。池辺とか椿谷と呼ばれているが、こちらは桜はなく、ヤブ椿が多少はあるが訪れる人もない。

池辺神社
谷の一番奥に池辺神社(祭神・大山祇神)がある。↓

手前を流れる椿川、この川をさらに遡れば上根の何谷というのか知らないが支谷(舞鶴若狭自動車道が通る)へ出る。たぶんこの路が古代の松尾寺巡礼道でなかろうか。花山天皇(花山院)もこの路を歩かれたのではなかろうか。院は永延年間(987~89)当地より与保呂へ出て、堂奥から小倉へ向かわれたという。
もう少しその路を復元してみると、ここから弥加宜谷へ入り、今の京月東町へ出て、ワタシの茅屋のすぐ裏手を山路が通るが、これがその花山天皇巡礼の路でなかろうかと推測している。池辺の奥から北へ行くと森の故地という船越の地になる。
与保呂に池姫神社、布敷にも池姫神社、このあたりの山地一帯は古くはイケと呼ばれていたのではなかろうか。福知山にも池田、池部があるが、イケは池でなく、古く天日槍語では鉱山地帯を意味したのでなかろうかといった感じがする所である。
最近でも大正期に別所・寺田・上根・白滝にかけては、銀・銅・硫化鉄が採掘され、鉱山景気に沸いたことがあった、しかし昭和初期には廃坑となっている。儲かって儲かって笑がとまらないとはいかなく、採算がとれるほどではないが、なくはないようである。

藤森神社(椿天王社)(行永弥加宜183-1)

与保呂の京月(きょうげつ)団地のすぐ奥側、池辺谷の入口には、南ヘ入る支谷があって、弥加宜(みかげ)谷と呼ばれている。この谷をさかのぼると見月峠を経て池内の寺田に出る。見月はミツキと読むのだろうが、あるいはミカゲと読むのかも知れない。京月もあるいはそうかも…
この弥加宜の地に式内社・弥加宜神社が奉祀してあったが、開拓により現在地の森へ移転したという。今は白鳥街道沿いにあり大森神社と通称されているが、その弥加宜神社に当地より通じる馬場参道といわれる道がある。
『倉梯村史』
藤森神社   行永椿谷鎮座  無格社
崇道天王を祀る、依て天王社と称せり。大永年間…凡四○五年前…土豪池部重房山城国紀伊郡藤森神社を崇敬の餘り勧請奉祀せるもの、共後重房の後と称する池田氏一家祭祀を司りしが如し、奉掲の神額は牧野侯八代節成の舎弟作成の筆。

当社が弥加宜神社の故地と言えるかは別として、この谷のどこかに弥加宜神社があったのであろう。おそらくこの路をず~っと行った所にあったのではなかろうか。

『舞鶴市史(各説編)』
…農耕にかかせない役牛の守護神としては、行永と女布のテンノウサン(牛頭天王)が有名であった。行永の天王は椿のテンノウサンといわれ、近郷の村々のみでなく若狭地方の人たちにまで信仰されていた。与保呂では、田植えが終わり大休みになると、農民は首には飾り繩、背中にはござを負わせた晴れ姿の牛をつれてお参りし、境内の笹をもらって帰り食べさせた。登尾では、代参者が神札を受けて帰り、これを各マヤ(厩)小屋に貼って祭った。

この谷の入口に今は新興住宅地があるが、谷には民家はない。畑と荒地になっている。高架は舞鶴若狭自動車道の東椿川橋。


倉橋池辺寺

花山院もお参りされたかも知れない「池辺寺」。

池辺の地にあったのであろう、その名残かこんな石仏群がある(八反田南町)↑
『舞鶴市史』
丹後国分寺の再興
 丹後における西大寺系律宗の具体的な活動がよくわかるのは、「丹後国分寺建武再興縁起」(以下「縁起」)によってほぼその全容がわかる丹後国分寺寺の再興である。
 天平一三年(七四一)に聖武天皇の発願によって各国ごとに金光明四天王護国之寺(国分僧寺、略して国分寺)と法華滅罪之寺(国分尼寺)とを建立することとなったが、なかなか進捗しなかったらしく、国家的保護の及ばなくなった平安時代以降、その多くは退転してしまったようである。

「縁起」では鎌倉時代末期の丹後国分寺の様子を次のように述べている(原漢文)。
 最初に合力の僧衆(略)わずかに草の庵を結び、郁々たる雲霧を防ぎ、ただ柴の戸を編んで颯々たる蕭瑟を遁るるばかりなり。(略)伽藍は荒廃して狐狼の薗となり、仏閣は乱墜して雉莵の棲となる。しかる間、ある時盗人ありてこの金堂の尊容(丹後国分寺)を取り奉り、京都においてある人にこれを売りおわんね。(略)(注、中興の祖宜基上人が)先年旅行のついでをもって、当寺の荒廃の体を見るに、荊棘は路に埋るるなり、給孤独の露は袂を温す、松柏は砌を残すなり、那蘭陀の月は肝を摧く、寺舎の頽落を見るごとに再興の思いは誠に切なり、尊像の破壊を拝むごとに興行の願いはいよいよ深し。(略)しかる間、星霜は頻りに改まり、陵谷はやや移る、紺殿や紫閣の基いは礎石に跡を残し、金鐘や玉磬の響きは梵宮に聞くをやむ、塁聖の勅願は空しく失墜し、諸尊の照鑑はそれいかん。(略)
 丹後国分寺を再興した宜基上人については、嘉暦三年(一三二八)十月に四二歳で二二年咩の夏安居を送って後、当時に移り住んでいる(「丹後国分寺建武再興縁起」の江戸期の写本による)ので、生年は弘安九、一〇年(一二八六、七)年ごろとなる。「縁起」のなかの血脈図では、「律法再興根本高祖」である思円房叡尊の弟子に、極楽寺の良観房忍性と並んで同じく極楽寺の円真房栄真があり、その栄真の弟子として「宜基 円源房丹後国分寺」となっている。「本朝高僧伝」では相模国極楽寺の栄真について、始め和泉国成願寺に住して、のちに鎌倉に移り住んで忍性の跡を嗣いだことになっている。そして宣基については、「有弟子一人、諱宣基字円源、住丹後国分寺、広説開遮、緇白崇神」とあり、栄真-宣基の師資関係を裏付けている。「広説開遮」 「緇白崇信」ということは、宜基が丹後国分寺にあって、律宗の教義を説いて僧俗を合わせ広く崇信を集めていたということであろう。
 宣基が国分寺再興を思い立ったのはこれより早く、嘉暦元年三月十八日には宣基が再興の大願を発して諸国を回歴して勧進活動を始め、同二年四月十四日後醐醍天皇により国分寺興行の綸旨が下されたという。以下同五月八日に手斧始め、同九月四日に柱立があって、七年近くの歳月を費やして建武元年(一三三四)四月七日に上棟、当日夕方に本尊移徙の儀があり、翌八日には明日の法要の本番に備えて試楽があり、さらに大谷寺衆徒の沙汰として余興に延年舞が演じられた。そして九月九日には国分寺長老で中興願主宣基上人を導師とし金堂の落慶供養が盛大に執り行なわれた。この時、鎌倉極楽寺の末寺であった近郷の金剛心院長老である朝円上人が呪願師となり、丹後各地を始めとして奈良からも律僧らが参集し、法要の僧衆六〇余名におよぶ嘉儀であった。
 いま金堂落慶の法要に参加した僧侶の名と寺院名を書き上げると次のようになる。
丹 後  国分寺   円源房宣基(長老)・智円房・性円房・寥空房・円観房・智本房・重如房
     金剛心院  順律房明円(長老)・□妙房
     成願寺   浄諭房・鏡心房・空心房・浄宣房・覚印房
     大谷寺   覚聖房・聖観房・楽順房・南栄房・覚空房・義乗房・寂浄房・寂乗房
     伊根寺   十賢(玄)房・良印房
     恒吉寺   真観房(長老)
     浜 寺   仙了房(長老)
     長法寺   静円房(長老)
     倉橋池辺寺 勇律房(長老)・賢智房
奈 良  西大寺   摂生房・帰覚房・岩妙房・覚智房・易覚房
     白毫寺   観舜房・鏡智房・思源房
     般若寺   浄律房・本地房・褝空房・僧妙房
     大安寺   仙光房
     惣持寺   現覚房
不 明  新宮寺   舜覚房・真乗房
     金剛寺   良道房
寺名不名       本識房
 丹後国分寺の金堂落慶法要に丹後から八か寺の多くの住僧等が集会し、奈良からも西大寺以下五か寺から多くの僧侶等が参会していたことがわかる。
 永享八年(一四三六)以降に書かれた「西大寺坊々寄宿諸末寺帳」には、「丹後成願寺」 「丹後志楽庄内泉源寺」「丹後国ヒオキ金剛心院」「丹後国国分寺」の四か寺が載っている。右記の金堂落慶法要に参加した大谷寺以下倉橋池辺寺の六か寺については、西大寺の末寺帳には記載がないのではっきりしたことは言えないが、伊根寺以下五か寺は丹後国内の小律宗寺院であった可能性がある。新宮寺・金剛寺については、所在が不明であるが、これも丹後国であったかも知れない。
 志楽荘内の泉源寺が西大寺末寺となるのは、暦応四年(一三四一)に志楽荘が足利尊氏によって西大寺に寄進されてからであるので、建武元年の丹後国分寺の金堂の落慶法要には参会していない。なお、明徳二年(一三九一)九月二十八日に書き改められたという「西大寺諸国末寺帳」には丹後金光明寺を載せ、別の末寺帳では志楽金光明寺としているが詳しいことはわからない。成願寺については「第十五長老御時 応安六□」とあり、西大寺第十五世興泉和尚(応安三~康暦元年)の時の応安六年(一三七三)に西大寺の末寺になったことがわかる。現在の丹後では宮津市小田宿野と竹野郡丹後町に成願寺があるが位置関係がら考えておそらく前者であろう。
郷土資料館の近くに今も礎石が残っているが、あれが再建時の礎石と言われる。


行永金屋
丸山町を流れる「かな川」

鋳物師・椿氏、国松氏

『市史編纂だより』(55.10)
「式内弥加宜神社の周辺と流出鰐口考(3)」編纂委員 井上金次郎
鋳物師椿氏について
 …この神名帳(室尾谷観音寺のもの)が書写された元亀三年(1572)は、倉梯郷では丹波より進出してきた上羽丹波守が、与保呂の亀岩山域を本拠として大浦地方にまで勢威を張った時代で、田井地区の豪族倉内越後や、同民部と共に「大工、藤原朝臣家次」として同地の海臨寺に梵鐘を鋳造させて寄進した年でもあった。
 この梵鐘は、其後破損して天和三年(1683)の再鋳時の大工は「冶工 藤原朝臣家次 五代孫椿八兵衛」と称して同寺の「鋳鐘施主勧化之分」と墨書した冊子にその名をとどめた人である。もともと加佐郡の鋳物師は、室町から江戸中期にかけては倉梯郷の字「椿」地区を本貫地とした椿氏が、藤原朝臣を称して斯業に従事していた。これは西地域の見樹寺の現住鐘銘に「寛文三癸卯年正月七日 冶工 丹州加佐郡住 藤原朝臣 椿甚兵衛」と刻していることからも推測することができる。
 この冶工椿氏は倉梯地区の椿谷に鎮座する椿天王社(藤森神社)や椿川とも何等かの関わりをもっていたと思われるが、今なお鋳造に由来する地名の金屋(金谷)地区に土着して、鋳物師の伝承を残しているものの、関連文書は既に散亡してこれらを証することができないのは遺憾である。
 一応、以上僅か四個ではあるが、その遺存資料を総括すると、倉梯地域の鋳物師の編年事跡は次の様になるが、この椿氏は江戸期になってはじめて居住地を苗字としたらしく、それ以前は作事地名の「金屋」または単に出自氏姓の藤原朝臣とのみ刻名したとも考えられる。
   ①氷禄4 金屋藤原朝臣両大工 鰐口 1561
   ②元亀3 大工藤原朝臣家次  梵鐘  1572
   ③寛文3 丹州加佐郡住
        藤原朗臣 椿甚兵衛  楚鐘 1663
   ④天和3 冶工藤原朝臣家次
        五代孫 椿八兵衛  文書 l683
 この事例を見ると、氷禄四年の鰐口は、その銘文にある「金屋藤原朝臣両大工」の一行だけを採り上げて、若狭国金屋地区の鋳物師所製とする「小浜市史紀要」の所説は、多少強引に通ぎるきらいが残る。(「田辺藩寺社史料案その三」所収)。).

鋳物師・国松氏
椿氏や国松氏は近江辻村から来たと伝わるそうである。
近江辻村(蒲生郡、栗太郡。栗東市)は、御上神社とは野洲川を挟んで向かい側・西側の村で、御上神社から2キロほどの所にある。『滋賀県の地名』などによれば、
古くは津知(つち)村と称して鋳物業に従事する者が多く存在した(栗太志)。村境に濠の一部を残し、主集落では環濠集落の景観をとどめ、年中行事などに中世的な惣村の形態を残す。
当村鋳物師は、特に梵鐘の製造が有名で、県内外の寺院のものはこの地の産が多い、江戸時代には各地に出店し活躍していたが、享保4年(1719)蒲生う)郡豊浦村(安土町)の東南寺の鐘鋳造をめぐり、多賀村(近江八幡市)へ出店していた当村国松伊兵衛と、真継家の支配下の蒲生郡金屋村(八日市市)の鋳物師との間で相論が起こった。同12年課役負担をいっさいしないと決めたうえで、真継家支配に入った。綸旨を与えられた鋳物師12家が神田講(東・中・西の三座よりなる)を組織し、毎年11月3日に祭礼を営んだが、のち分家し享保13年には48家に増加している。出店地は伊勢・三河・美濃をはじめ遠江・駿河・越後・加賀・出羽や江戸など広範囲にわたっていた。彼らは醤油醸造・酒造業などにも手を広げ精力的に活躍していった。今は全て廃業したという。

近くに辻遺跡(古墳時代前期から奈良時代)がある。中日新聞によれば、
ガラス小玉の鋳型など見つかる 滋賀県内で初、栗東の「辻遺跡」
 古墳時代の住居跡が残る「辻遺跡」(滋賀県栗東市)で発掘調査を進めている同県文化財保護協会(大津市)は12日、本年度の調査で、県内では初の出土となるガラス小玉の鋳型のほか、製鉄道具の「ふいご」などが見つかったと発表した。渡来系の技術とみられることから、同協会は「古墳時代、栗東市域が手工業の先進地域だったことが、改めて分かった」としている。
 調査は国道8号のバイパス建設工事に伴って2018年度から実施。19年度は同遺跡の1万2千平方メートルを対象に行った。
 ガラス小玉の鋳型は土製で、5センチほどの破片が出土した。表面に直径3ミリ、深さ1~2ミリほどの丸穴が多数あり、裏側が炭化していた。表側の穴に串を刺した上でガラス片を入れて、裏側を火に掛けるなどして、ドーナツ型のガラス玉を効率的に生産していたとされる。ガラス玉は、首飾りなどに使われたと考えられている。
 ほかには、金属を高温で溶かす時に使う送風機の「ふいご」や、渡来人に関係するとされる「韓式系土器」も見つかった。調査では、古墳時代前・中期の竪穴建物が約30棟見つかっており、鋳型などは建物内や周辺から見つかっていた。
 大阪府弥生文化博物館の禰ぎ田佳男館長は「在来の技術にはないガラス小玉鋳型の出土は、渡来人の関与が考えられる。大和(奈良)、河内(大阪)だけでなく、近江においても地域の開発に渡来人の技術が用いられたと考えられるのは興味深い」とコメントした。

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 Waltz No. 2



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(967) HAUSER - Waltz No. 2 (Shostakovich) - YouTube
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(967) Ksenija Sidorova: D. Schostakovich - Waltzer nr. 2 (ZDF Klassik live im Club, 16-4-2017) 1080p, HD - YouTube
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