丹後国の5郡
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後国の5郡律令時代には、丹後国は5郡34郷となっている。郷は諸本によって数が異なり、34郷は高山寺本、刊本は36郷を挙げている。木簡や残欠も加えるとさらに多かったかも知れない、卅九郷とする史料もある。 中央集権下の地方行政区画で、丹後国といっても、その長官(国司)は、中央から任命された中級クラスの官吏で、6年(のちに4年)で交代した。従って何か特に独自性や独立性のある中味あるクニであったわけではなく、中央の行政上の単なる区分け単位で、旧国造時代の在地の国造を首長とする国ではなく、今の小選挙区の区割りのようなものに近いものか、丹後区と見たほうがいいのかも。 地方はやはり旧来の伝統的な在地勢力が強いし、事情に見通じているし、カオがきく、それと地方にうとい新興の中央勢力との当時の力関係による妥協点で、在地勢力は郡に分割して統治させ(或は、もともとがこれくらいの範囲が統治領域か)、国は中央派遣官でいくつかのそうした郡を統治させる方式のようである。 律令時代の地方制度: 8世紀初頭(701制定、702施行)の 日本の律令は、中国唐の州県郷里制に倣って、国、郡、里の3段階の行政区画を編成したが、唐制では、州司、県司ともに中央派遣官であったのに対し、日本では国司のみが中央派遣官であり、郡司には旧 郡と評 加佐郡とか「郡」は誰でも知っているが、これは古くは「評」であった。 郡や評は今はコオリと読むが、古語はコホリである。当サイトをお読み下さっている皆様なら、朝鮮語の 継体24年紀の任那に、 …毛野臣、百済の兵来ると聞きて、 古典文学大系本の頭注に 位置は不詳であるが、二十三年四月是月条に、新羅に掠められたと見える四村の中の背伐と同じかともいう。評は郡の意の朝鮮語で、日本でも天智朝ごろまでは、コホリに評の字が用いられた。 また中国正史にも、高句麗に「内評・外評」(『北史』・『隋書』)、新羅に「琢評」(『梁書』)という地方区があったことが記されているという。 有名な「郡評論争」があるが、藤原宮などの発掘調査によって大宝律令制定以前に書かれた木簡の表現は全て「評」と記されており、逆に「郡」表記のものが存在しないことが明らかとなった。『日本書紀』といえどもそのままに信じていいものでないことも明らかになってくる。大宝律令の制定によって「評」は「郡」に改められることになるが、単に名前が変わっただけではなく、その際に統合・分割などの再編成が行われていたとも考えられている。 郷と里 末端の郷里であるが、これも変遷が何度かあったことが知られている。チトややこしい。 郷里制(25年ほどで廃止となった) 大宝律令によって定められた国郡里制を、唐の州県郷里制に倣って国郡郷里制の4段階としたもの。『出雲国風土記』総記に「依霊亀元年式。改里為郷」とあり、715年(霊亀1)に里(1里=50戸)を郷とし、郷を新たに2、3の里に細分し、郷長、 『出雲国風土記』 右の件の郷の字は、靈龜元年の式に依りて、里を改めて郷と爲せり。其の郷の各の字は、神龜三年の民部省の口宜を被りて、改めぬ。 古典文学大系本の頭注に これまでの「里」の字を「郷」の字に改めた意。播磨・常陸両国風土記に「里」とあるのが出雲国風土記(及び豊後・肥前両国風土記)の「郷」とあるのに相当する行政区画単位であることになる。民戸五〇戸で一里(一郷)を編成する実質には変りない。ただし「里」を「郷」に改めて、郷(さと)」を構成する下部単位として「里(こざと)」を設けたので、郷時代の「里」と、郷時代以前の「里」とは同じでない。 この郷里制は、739~740年(天平11~12)には里は廃止されて、国郡郷制となった。 もともとは里であったものが、それはやがて廃止されて郷となったといった感じになる。 もっと知りたい方は、『続日本紀』の古典文学大系本の補注に、 郷里制は、大宝令制の五十戸からなる「里」を「郷」に改め、その下に二ないし三の「里」を置き、郷長と里正とを置いたもので、出雲国風土記に「右件郷字者、依二霊亀元年式一、改レ里為レ郷)とあることから、霊亀元年に成立したと考えられる。この郷里制の成立と同時に、一郷を構成する単位としての戸(郷戸)の下に、さらに小規模な二-三の房(房戸)が設定され、課役免除などの際の単位とされた。戸籍の六年一造の年次からいうと、前年の和銅七年(七一四)が籍年にあたるが、次の造籍が七年後の養老五年(七二一)に行われているのは、和銅七年の戸籍が未完成のうちにこれらの改革が行われたために生じた異例であると考えられる(岸俊男「古代村落と郷里制」『日本古代籍帳の研究』)。中国唐代の制は、一〇〇戸を里とし、五里(五〇〇戸)を郷とするものであった。日本における郷里制の成立は、この時期の他の政策にも見られるような、中国の制に外面的に少しでも近づけようとする意図によったとも見られるが、同時に、浄御原令制以来の五十戸一里制の枠を、人口の増加、耕地の増大などその後の社会の変化に適応させるため、里を郷の下に設定して人民を把握しやすくしようとしたとも考えられる。しかし新しい郷里制の里は、五十戸一里の里を機械的に二、三に分割したものであるから、自然村落とは無関係であり、存立の基盤は弱かったと推測される。 続日本紀では、霊亀元年以前においても、和銅四年三月辛亥条を始め、本条のほか、和銅六年七月丁卯条、同七年十一月戊子条などに、行政地名として「郷」を用いた例がある。このことから曾我部静雄は、霊亀元年式は出雲のみを対象とした施行細則であり、郷制は和銅の前半にすでに制勅として発布されたものとしている(「我が律令時代の里と郷とについて」『史林』三三-五、「我が国の郷制実施の時期について」『日本歴史』九六)。しかし、坂本太郎が指摘するように、正倉院宝物中の調庸関係墨書中に、「甲斐国山梨郡可美里日下部〔 〕アシギヌ一匹 和銅七年十月」(銘文集成三二二頁)と記したもののあるほか、平城宮出土木簡にも、国-郡-里の表記で和銅七年の年紀をもつものがあり(例「尾張国愛知郡〈物部里白米〔 〕/大□二斗〉和銅七年二月十七日」平城木簡既報六-六頁)、霊亀元年以前の記事に「郷」と見えるのは、坂本の言うように、続紀編纂上の不手際に由来するとみるのが正しいであろう(「出雲風土記霊亀元年式の意義について」『日本古代史の基礎的研究』下)。本条の[諸国郡郷名]の表記も、この日の制に由来するとみられる民部省式上には「諸国部内郡里等名」とあり、やはり続紀編纂時の変改かと思われる。 郷里制に関する史料は、天平十一年(七三九)までで終る(岸俊男「古代村落と郷里制」)。岸俊男は、郷里制廃止の時期を天平十一年十一月十二日-同十二年六月三十日の間と推定し、当時の政治社会情勢を分析して、それが橘諸兄政権による地方行政機構簡素化の政策の一環であり、自然村落と関係を持だない郷里制は、早くその存在意義を失って二五年で消滅したとしている(「郷里制廃止の前後」『日本古代政治史研究』)。 律令制下の地方の最末端の単位であるが、この戸は今の戸とは違う。今は「1戸」と言えば、1軒とか1世帯1家族を言うが、当時の1戸は、1軒1世帯のこともあるかも知れないが、たいていは、たぶん血縁関係のある複数軒、複数世帯である。 戸は、行政的、税制的、軍政的な公的な単位で、戸主とその下に編成された 1里に家長の中から50名の戸主を選任し、その戸主を中心として1戸あたり4人の丁男(成年男子)が戸の成員である戸口として含まれるそれぞれ一定規模となる戸編成が行われたとみられている。更に4人の丁男のうち、1人が兵士として徴発されていたまた、5つの戸からなる五保も導入され、内部の相互扶助と相互監視を行わせた、という。 丹後国には当時の戸籍は残っていないが、 現存する他国の戸籍から推定される戸の実情は平均20数人の大家族形態を取り、戸主を中心に血縁など親族関係でつながる人々、更に戸主との続柄が不明な これは当時の上層階級家族構成、あるいは手本の中国の家族構成ではなかろうか。下層はもっと小さい家族で丁男は1人でなかろうかと思われるが、ムリに上層に合わせた実態に合わない単位であったのかも知れない。 何度も制度変更が行われた。例えば、霊亀元年から天平12年(715-740年)にかけて、本来の戸(郷戸)とは別に戸の内部を細分化して数的制約の緩い小規模な房戸が2-3前後設けられたのはその一環であるという。 『続日本紀』の古典文学大系本の補注に、 郷戸と房戸 大宝・養老令制で採用された地方行政組織は国-郡-里であったが、そのうちの里は、編戸された戸五〇を以て構成される。これを五十戸一里制という。しかし国-郡-里の制は霊亀元年式(出雲国風土記所引)で改められて、里を郷と改称し、その下にさらに二-三の里を設ける郷里制(これにより国-郡-郷-里の制となる)、五十戸一里制の戸は郷戸と称された。また郷里制の採用に並行して、一郷戸を構成するものとして二-四の小さな戸を設けた。これを房戸という。しかし天平十二年に郷里制が廃止されて国-郡-郷の制になると、それにともない房戸も制度的には廃止されたと推定されている(岸俊男「古代村落と郷里制」「律令制の社会機構」『日本古代籍帳の研究』)。 なお、五十戸一里制の採用されたのは、伊場遺跡出土の辛巳年(天武十、六八一)の紀年のある本簡に書かれた「柴江五十戸」(伊場木簡三号)によって天武朝にさかのぼるのは確実であるが、飛鳥京から出土した天智朝のものと推定される木簡に書かれた「白髪部五十戸」の五十戸を、五〇戸で編成された里とみなして五十戸一里制は天智朝にさかのぼると考えるか、この五〇戸は名代を五〇戸ごとの貢納単位に編制したことを示すもので五十戸一里制とは直接の関係はないと考えるかで、その採用時期については意見が分れている。 丹後国の成立丹後国は律令制によって設けられた国。 『続日本紀』和銅6年(713)条 夏四月(癸巳朔)乙未(三日)、丹波国の五郡を割きて、始めて丹後国を置く。備前国の六郡を割きて、始めて美作国を置く。日向国の肝坏・贈於・大隅・姶羅の四郡を割きて、始めて大隅国を置く。大和国疫す。薬を給ひて救はしむ。 これは岩波の新日本古典文学大系本で、 写本がちがうと、国史大系本には、 夏四月乙未(三日) 丹波国から、加佐・与佐・丹波・竹野・熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した。 とある。 ( 丹後国の読み方は、「和名抄」高山寺本に「 新日本古典文学大系本の補注に、 丹後国の丹波国からの分立 のちの丹波国は、桑田・船井・多紀・氷上・天田・何鹿の六郡よりなり、いわゆる丹波高原、現在の京都府および兵庫県中央の山間部を占めるが、本条は元来丹波国の一部であった現在の京都府北部日本海側の地域を割いて丹後国としたもの。神亀三年の山背国愛宕郡雲下里計帳には、丹波国を「丹波前国」と記した例(古一-三七〇頁)がある。丹後国を構成したのは、以下の五郡である。 加佐郡 和名抄に国府の所在地とするが、創設時の国府は与佐郡か。書紀天武五年九月条に丹波国訶沙郡、藤原宮跡出土木簡(藤原宮木簡一-一五五号)に「丙申年(持統十年)七月旦波国加佐評」と見える。現在の京都府舞鶴市・加佐郡。 与佐郡 延喜式・和名抄では与謝郡。書紀雄略二十二年七月条、顕宗・仁賢即位前紀に丹波国余社郡、藤原宮跡出土木簡(藤原宮木簡一-一七九号)に与射評、天平九年度但馬国正税帳に丹後国与射郡と見える。現在の京都府宮津市・与謝郡。 丹波郡 開化記に「旦波之大県主」が見える。近世以降は中郡と称した。現在の京都府中郡。 竹野郡 和名抄に「多加乃」と訓む。藤原宮跡出土木簡(藤原宮木簡二-五四六号)に「旦波国竹野評」と見える。書紀開化六年正月条に丹波竹野媛(開化記では竹野比売)、同垂仁十五年二月条に丹波五女の一人として竹野媛が見え、また開化記では、開化皇子建豊波豆羅和気王を丹波之竹野別等の祖とする。現在の京都府竹野郡。 熊野郡 藤原宮跡出土木簡(『藤原宮』一○号』に「熊野評私里」とあるのは、平城宮跡出土木簡(平城木簡概報六一八頁)に「丹後国熊野郡私部里」と見えるので、この熊野郡。現在の京都府熊野郡。 史料(『宮津市史』より孫引) 「和名類聚抄」 巻第五 日本古典全集 丹後国〔国府在二加佐郡一、行程上七日下四日、和銅六年割二丹波国五郡一置二此国一 管五 田四千七百五十六町百五十五歩本穎四十三万千八百束〕 加佐 与謝〔与佐〕 丹波 竹野〔多加乃〕 熊野〔久万乃〕 「律書残篇」 史籍集覧 丹後国〔郡五、郷卅九、里百十九、去レ京行程九日〕、介、掾、大目、五位以下也、 「国造本紀」 先代旧事本紀 国史大系 丹波国造 志賀高穴穂朝御世、尾張同祖、建稲種命四世孫大倉岐命定二賜国造一。 丹後国司 諾良朝御世和銅六年、割二丹波国一置二丹後国一、 ※「国造本紀」は大同二年(八〇七)以降、延喜六年(九〇六)以前に成立。 「拾芥抄」 中 本朝国郡部第二十三 新訂増補故実叢書 山陰道八箇国 (略) 丹後〔中近〕五郡 加佐〔府〕 与謝〔府〕 丹波 竹野 熊野 ○田五千五百卅七町 〝丹後〟の命名について 丹波は丹後に丹波郡丹波郷があり、古く開化記にも「旦波之大県主」が見えるように、本来は竹野川流域のあたりに「旦波之大県」があった、その旦波であったものが、のちに丹波国全体の広い範囲を呼ぶ広域国名となったものである。 元々の丹波の地であるにもかかわらず、それを丹後とするのはスジが通らんワイとする、もっともな主張がある。丹前・丹後ならまだしも、丹波・丹後は納得しかねるという。 丹後国司とその名簿 古い時代の日本は、もともとは在地勢力である やがて古代の律令制度下の地方官が、中央から諸国に赴任し、在地勢力である管内諸郡の郡司を統率して一国の政治を行った。 国司とは、広義には四等官全体をさし、狭義には守のみをさした。平安時代には莫大な収入を目的に国司になることを望む者がふえ、 税金取るだけで、それも上ヘあげるわけでなく、自分のポケットへ入れる、地方開発などまともにする気も能力もなく衰退の一途、コロナ対策すらまともにできない。どこかの国の末期と似ているのかも… 丹後国の国司は『舞鶴市史』に、 国司の員数は国級にしたがって定められ、中国である丹後国の国司は、守(政務を統轄する。)一人、掾(国庁の取締り、公文書案の審査を掌る。)一人、目(文案を起草し公文を掌る。)一人、 諸史料に見える丹後国司の名もあげているが、もとより全名簿ではない。 それらの中でも、よく知られている丹後国司は、 七世紀末と考えられるころの国守に伊余部馬養がある。「丹後国風土記」逸文に、 丹後の国の風土記に曰はく、与謝の郡、日置の里。此の里に筒川の村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。為人、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼の子といふ者なり。 是は、旧の 宰伊預部の馬養の連が記せるに相乖くことなし。故、略所由之旨を陳べつ。(略) ( 「釈日本紀巻十二」。原漢文。訓読は日本古典文学大系「風土記」による。) とあって、馬養が在任中に当国で伝承されていた水江浦嶋子の説話を採録した事績を知ることができるが、彼は「撰善言司」(歴史物語を題材にした美談集の編纂官)や「皇太子学士」(皇太子の教師)に任ぜられたり、大宝律令の選定に参与するなど文人として著名であった。 歴史上の著名人で、丹後国司に就任した人物の一人にに藤原保昌がある。彼は武勇衆に勝れて、平維衡・源頼信・平致頼とともに世に四天王と袮されたり、「今昔物語集」および「宇治拾遺物語」所収の盗礼袴垂との話ででも名高い。また、和泉式部の夫としても知られる。「小右記」によれば、万寿二年(一〇一五)二月、丹後守に補任されているが、彼が丹後国へ下向時のこととして、「宇佐拾遺物語」は次の説話を収めている。 一三五 丹後守保昌下向の時致経父にあふ事 巻一一ノ一一 これも今は昔、丹後守保昌、国へくだりける時、与佐の山に、白髪の武士一騎あひたり。路のかたはら〔なる〕木のしたに、うち入りて立たりけるを、国司の郎等共「此翁、など馬よりおりざるぞ。奇恠なり。とがめおろすべし」といふ。爰に国司のいはく、「一人当千の馬の立てやうなり。たゞにはあらぬ人ぞ。とがむべからず」と、制してうち過ぐる程に、三町ばかり行て、大矢の左衛門尉致経、数多の兵を具してあへり。国司会釈する間、致経が云、「爰に老者一人合奉りて候つらん。致経が父、平五大夫(注)に候。堅固の田舎人にて、子細をしらず、無礼を現じ候つらん」といふ。致経、過てのち、「さればこそ」とぞいひけるとか。 (日本古典文学大系) 注、平致頼のこと。上記、四天王の一人。 また、保昌が丹後守在任中の鹿狩りにかかおった説話「丹後守保昌朝臣郎等射テ母ノ成鹿卜出家語第七」が「今昔物語集」にみえる。 著名人で他の一人に一○世紀後期の国司、曽禰好忠がある。彼の生涯はつまびらかではないが、丹後掾に就任したので曽丹後・曽丹ど呼ばれたという。彼は歌史上の一異材として知られ、その清新な歌風が後代の歌人に大きな影響を与えたが、歌は家集「曽丹集」のほか「後拾遺和歌集」・「新古今和歌集」などに収められている。由良の戸や天橋立・与謝の海に託して心境を詠んだものに次の歌がある。 与謝の浦に老の波かず算へつる あまのしわざと人も見よとぞ うちわたし岸べは波にやぶるとも 我名は朽ちじ天の橋立 よもの海にきつゝなれにしをとめ子が 天の羽衣乾しつらむやぞ 由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行方も知らぬ恋の道かな 与謝の海の内外の浜のうらさびて 世をうきわたる天の橋立 与謝の海とすまの島にもあらねども 雲間を過ぐるほどぞかなしき (「好忠集」日本古典文学大系) 大化5年(649)頃、地方豪族である国造の「国」が廃止され、評が置かれて旧国造は、評造・評督などと呼ばれる地方官に任命された。(孝徳制評) 701年(大宝元年)に編纂された大宝令により、評が廃止されて郡が置かれ、郡司として大領・少領・主政・主帳の四等官に整備される。特に権限が強かった大領・少領のみを差して「郡領」とも言う。中央の官人が任期制で派遣されていた国司と異なり、郡司は、旧国造などの地方豪族が世襲的に任命され、任期のない終身官であった。更に養老律令の官位令には郡司が官位相当の対象とされておらず、更に公式令(52条)では郡司が職事官ではないことが明記されており、律令法に基づく制度でありながら実際には律令官制の体系には属さないという特殊な身分であった。 郡司は徴税権のみならず、保管、貢進、運用、班田の収受も任されるなど絶大な権限を有しており、律令制初期の地方行政は中央派遣の国司と在地首長としての権威を保持していた郡司との二重構造による統治が行われていた。やがて中央は郡の分割や郷の編入などで郡の再編を進め、豪族の勢力圏と切り離した行政単位としての郡の整備を進める。また、郡内に複数の豪族が拠点を置く場合は、持ち回りで郡司に任命するなど、特定の豪族が郡司を独占しないように配慮したという。 『舞鶴市史』 郡司は国司と同じく郡の等級に応じて四等官に定員があり、加佐郡は中郡であれば、 丹後国の5郡丹後国5郡の位置(だいたいで、郡界は当時と少し異なるところもある) 加佐郡当時の 加佐郡の郡域のだいたいは、今の舞鶴市と福知山市大江町、宮津市由良になる。 藤原京跡から「丙申年七月旦波国加佐評□〔 〕」と読みとれる木簡が出た。丙申年は持続天皇10年(696)と見られている。 また藤原宮出土木簡に「丹□国加佐郡白薬里大贄久己利魚・《月遍に昔》膳一斗五升和銅二年四月」がある。和銅二年は709年、白薬里は志楽かと見られている。 『舞鶴市史』 文献に見えるに加佐郡名の初出は、のちの知識で記述されている箇所もみられるが、「日本書紀](成立、七二〇年)の天武天皇五年(六七六)九月条に、 (天武天皇五年九月)丙戍。神官奏曰。為二新嘗一卜二国郡一也。斎忌〔斎忌む。此云二踰既一。〕則尾張国山田郡。次〔次。此云二須岐一也。〕丹波国訶沙郡。並食レ卜。 とある記事で、その内容は新嘗祭の神饌用の稲を供進する両斎国に、悠紀は尾張国山田郡、主基は丹波国訶沙郡をいわゆる国郡卜定したとの神祇官の奏文であるが、文中の「訶沙郡」は当郡のことである。なお、これよりさき、天武天皇の践祚大嘗祭にも丹波国は両斎国の一つであったことが、「扶桑略記」天武天皇二年(六七四)十一月条に「大嘗会丹波播磨供二奉其事一」と見え、また、大嘗祭を終って丹波国の郡司・人夫らに禄を賜ったことが「日本書紀」には左のとおり記されている。 (天武天皇二年)十二月壬午朔丙戌。侍二-コ奉大嘗一中臣。忌部。及神官人等。并播磨。丹波二国郡司。亦以下人夫等悉賜レ禄。因以郡司等各賜二爵一級一。 『和名抄』や『拾芥抄』は国府所在としているが、その遺跡も郡家についても不明。 「加佐郡」 与謝郡だいたいの郷域は、今の宮津市、与謝郡伊根町、与謝郡与謝野町に当たる。藤原京跡出土木簡に、「与射評大贄伊和〔 〕」とある、伊和…はイワシ(鰯)かという、年代は不明だが、これが史料的には最も早く、文献では『日本書紀』雄略天皇22年7月条に「餘社郡」、顕宗即位前紀、仁賢即位前紀に「余社郡」。『続日本紀』和銅6年(713)4月3日条に「與佐」郡、同書宝亀7年(774)閏8月28条に「与謝郡」。天平10年(738)但馬国正税帳(正倉院文書)に「與射郡」。『釈日本紀』に「丹後国風土記曰、與佐郡…」、『三代実録』元慶2年(878)3月23日条に「與謝郡」、『延喜式』神名帳、『和名抄』高山寺本に「與謝郡」などともさまざまに表記された。訓は『和名抄』刊本は「与佐」と訓じている。 『拾芥抄』は国府所在としている。国分寺や印鑰社などもあり、官道駅路からも当郡の府中の地に丹後国府があったことは疑いようはない。しかしそれはどの時代かはいまだによくわからない。 『宮津市史』 与謝郡 現在の宮津市域は、大部分が与謝郡で、一部が加佐郡に含まれていた。郡の用字は大宝律令以前は「評」であり、藤原宮跡出土の木簡には、与射評、加佐評などと記されている。與謝(与謝)の用字は、「與射」、「與社」、「與佐」、「餘社」などと書かれ、後に「與謝」(与謝)に統一されている。おそらく和銅六年(七一三)五月甲子の制で、畿内七道諸国の郡の名に好字を付けさせたこと(『続日本紀』)によって「與謝」と定められたのであろう。 郡家の所在については、「丹後国風土記」逸文、天橋立の項に、郡家の東北隅に速石里ありと記されており(別掲一一〇)、天橋立の付け根というべき、現在の府中の西南に郡家の所在が想定できる。なお、丹後国の国府や駅路については、次節で詳しく述べられるのでそちらに譲りたい。 平城宮跡出土木簡 与社郡謁□〔叡ヵ〕郷□原里土部古→・三斗丹波直筆手二斗合五斗 地名の意味 ヨサやカサの地名は、飛鳥時代とかに初めてできたものでなく、もっと古い地名のようで、弥生か古墳時代の渡来系の人々の名付けたものと思われる。何でも知っているつもりの現代人にはまったくチンプンカンプンである、ワレラが見落としている大事な過去があったのだろうという推測くらいは立てられる。 『与謝郡誌』(大正12)は、 本郡は北方に開きて遙かに朝鮮を望み、日本海環流によりて両者の関係を密接ならしめ彼此相往来して出雲に於けるがごとく我が太古の幾部を形成せしものなるべきも、今はそれにつきては全く知ることを得ず。 金沢庄三郎『日鮮同祖論』(昭和4)は、 丹後国加佐郡のことであるが、丹後国は和銅六年に丹波国の五郡を割いて始めて置かれた国であるから、天武天皇白鳳五年紀には丹波国訶紗郡と見え同国与謝郡も顕宗天皇紀に丹波国余社郡とある。この与謝の地は四年間天照大神の鎮座ましました処で(倭姫世紀)、天椅立は伊射奈芸大神が天に通ふため作り立てたまうものといふ古伝説(丹後国風土記)もあり、此辺は古代史上研究すべき値の多い地方である。天橋立は、嘉祥二年三月興福寺の大法師等の奉賀の長歌にも匏葛天能椅建践歩美、天降利坐志志大八洲と詠み、又釈日本紀にも兼方案之、天浮橋者天橋立是也といっているが、丹後国風土記には与謝郡郡家ノ東方ノ隅方ニ有二速石里一、此里之海ニ有二長ク大ナル石前一、長二千二百二十九丈、広サ或所ハ九丈以下、或所ハ十丈以上、二十丈以下、先ヲ名ケ天椅立、後ヲ名二久志浜一、然云者ハ、国生大神伊射奈芸命、天ニ為二通ヒ行ント一而椅ヲ作リ立タマウ、故云二天椅立一、神ノ御寝坐間ニ仆伏キ、仍怪二久志備坐一、故云二久志備浜一、此中間云二久志一、自v此東ノ海ヲ云二与謝海一、西海云二阿蘇海一と見えて、二神の故事を語り伝へている。この由緒ある土地に、加佐郡・久志浜・与謝海・阿蘇海など、天孫降臨の筑紫にあると同型の地名を発見することは、偶然の暗合とは考へられない。 はっきりとは書いてはいないが、クシフル系の地名だろうと見ていたようである。渡来人たちの上陸橋頭堡。ヨサフル、カサフルのフルの落ちたもので、ソフルのこと、新羅、加耶の意味であろう。渡来人といっても古い、天日槍系の人達の残した地名であろう。 「与謝郡」 丹波郡少し前までは中郡と称していた、今の京丹後市の峰山町、大宮町に当たる。 開化記は、 此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比賣を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。 その 律令国家以前、木簡や文献以前に、すでに当地を中心にかなりの勢力をもつ政治的領域が形成されていたことをうかがわせるが、その文書などは記紀のほかにはまだ知られていない。 天平10年(738)但馬国正税帳に「丹後国小毅丹波直足嶋」、「続日本紀」延暦2年(783)3月庚寅条に「丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養任国造」とある。 「丹波郡」 竹野郡今の京丹後市の丹後町、網野町、弥栄町にあたる。神明山古墳、銚子山古墳の日本海側最大の200メートル巨大古墳がある。古墳前半期に大規模な古墳を築造できたほどの権力を有した勢力があったことを物語る。「丹波王国」の中心地か。 開化記は、 此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比賣を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。 竹野比賣の名も見えるので、旦波大縣、「丹波王国」は丹波郡、竹野郡を中心としたものでなかろうか。 藤原宮跡出土木簡に「旦波国竹野評鳥取里大贄布奈」と見える。 「竹野郡」 熊野郡今の京丹後市の久美浜町にあたる。 郡名は藤原宮出土木簡に「熊野評私里」とみえるのが初出で、平城宮跡出土木簡には「丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄《》納一斗五升」と見える。「和名抄」刊本には「久万乃」と訓じられる。 貨泉出土の函石浜遺跡、金銅装双龍環頭大刀出土の湯舟坂二号墳など、当郡は面積的には広くはないが、ナカミはすごい。 開化記に「其の美知能宇志王、丹波の河上のを娶して生める子、比婆須比賣命。次に真砥野比賣命。次に弟比賣命。次に朝廷別命。〔四柱〕」とある。 比婆須比賣は垂仁天皇の皇后となっている。河上は熊野郡川上郷、摩須郎女のマスは今の須田と見られている。 「熊野郡」 音の玉手箱
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