丹後大震災②
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 奥丹後大震災昭和2年(1927)3月7日、18時27分39.2秒に発生した地震。M7.3 北丹後地震、丹後大震災などとも呼ばれる。 峰山町、網野町、加悦町、岩滝町の被害が著しく、家屋倒壊率は70% ~ 90%に達した。地震発生時刻が夕刻だったために、暖房や炊事の火を原因とする火災が各所で発生した。特に網野町、峰山町、野田川町山田、市場地区では大火となり、合わせて8,287戸が焼失した。最大の被災地となったのは峰山町で、住宅や織物工場など家屋の97%が焼失した。人口に対する死亡率は22%に達した。死者2,925人(京都府内・2,898人)、負傷者7,806人、全壊1万2,584棟、半壊9,443戸、焼失8,287戸、全焼6,459戸、半焼96戸。 この地震で、丹後半島の付け根を南北に横断する郷村断層と、それと直角の方向に伸びる山田断層が現れた。『奥丹後大震災誌』より↓ この地震では、初めて科学的な断層調査が行われ、繰り返し地震を起こす可能性のある「活断層」という言葉が生まれるきっかけにもなった。北丹後地震で地表に現れた断層のほとんどは宅地や農地となって現在は見ることができないが、3カ所で保存されている。 救援活動。(『奥丹後大震災誌』より) 舞鶴町
舞鶴町では三月八日緊急町會を開き、救援方法につき協議をなした結果、とりあへず役場吏員と町會議員等六名を慰問使として派遣。罹災地の各町村役場を歴訪して慰問の辭を述べると共に被害状況を視察した。越へて十三・十四の兩日に至り水島町長及び役場吏員は再び慰問のため出張し罹災や救援敗状況視察する所があった。 義捐金は他の各町村と聯合の申へ千五百圓を寄附したが、更に町内・個人有志者から寄附したもの八千圓に及んだ。外に役場取扱で募集した救恤品は衣類及寢具等で箱梱包のもの二十箇(約二千點)、その他のもの五箇(約四百點)、澤庵漬三箇(四斗樽)に達し、それぞれ罹災地へ配給した。 舞鶴町醫師會は卒先五名の醫員で醫療班を組織して八日出發、十日まで三日間峰山町を中心として附近各町村の傷病者救護に従事し、その取扱患者實に千餘名の多きに及んだ。 更に舞鶴町消防組は五十名の救援除を組織して出動、三月十日から十四日に至る五日間、峰山町を中心として災後の跡始末に對する各種の努力奉仕作業に従事した。舞鶴町婦人會と女子青年會とは聯合で各慰問班を作り、慰問袋を携へて罹災町村を巡り、罹災者に配與する所があった。 町内東吉原漁業組合では、組合所有の發動汽船を物資輸送用として提供し、救援作業上に多大の便益を與へた。これ等汽船は組合員の漁業用のもので、これを借り上けられては、彼れ等の生業たる出漁をなすを得ず、殊に風浪高き日本海沖に航して荷物の積卸し等に従事するにおいては、船舶の破損も甚しく、所有者の受くる損害も決して少なくはない。従って初め警察から之が徴發方を交渉した際は、組合幹部でも多少躊躇の色があったが、署長等から事情を訴へて承諾を求めた結果、邃に組合員は多大の犠牲を拂ひ、一に罹災民に對する同情心の結晶から奮起してこれが交渉に應ずることとなり、所有船三十二隻を警察が要求のまゝに順次必要数まで提供すべく承諾し、第一回分として 芳遑丸、榮進丸、第二共進丸、芳榮丸、進取丸、青進丸。 の六隻を出航せしめた。これ等の關係から時には全員出漁を休止したこともあり、組合員全般の受くる損害は相當多大の額に上ったことは言ふまでもない。この損害を犠牲にして而も風浪高き難航に出で、物資輸送の任務につくした、吉原漁民の仁侠的態度はげにも賞揚に値ひするものと言はねばならぬ。 郷村断層の小池断層航空写真 ((坂根正喜氏『心のふるさと丹後Ⅱ』より→ この部分は「小池」断層と呼ばれ、国指定天然記念物。このあたりを震源としている) 本当は直線道路なのだが、このように断層に断ち切られて食い違っている。 右手は郷小学校、手前の広い道路は網野街道、奥のタンボの区割りがほぼ東西南北線で、北は左上になる。ここでの食い違い量は、水平に2.65m、手前側(西側)が0.62m隆起した。 当地のほかに、樋口断層、生野内断層がそれぞれ保存されている。 大きな災害を引き起こすような大地震は、そうしょっちゅう発生するものではない。 しかし、そのうちに必ず発生するものである。 太平洋海底プレートやフィリピン海海底プレートは毎年10センチばかり日本列島の下へ沈み込んでいる、10年で1メートル、100年で10メートル、1000年で100メートルも巨大な力で押されている。このエネルギーは止めることはできない。 地中に蓄えられた歪みが、やがて耐えられなくなり、どこかで地殻変動を起こして、蓄えられたエネルギーを解放しようとする、それが地震である。 異変を伝える地名あがり山(網野町字木津) 木津から浜詰方面へ向かう府道の海側に低い山(丘)が見える↑ 木津の上野地内に弘化4年(1847)の地変によってできたと伝える山。同年の瓦版(網野町郷土資料館蔵)に 此地に今年弘化四末の正月十一日の夜半の頃、震動 雷電して大雨車軸を流す。村民胆を冷し驚き怖く事限りなし、程なく夜も明け四方静まり、雨止み、空晴わたるに心安堵して漸やく外面に出るに豈料らんや、高さ五、六丈ばかりの山忽然とあらはれたり。衆人又もや打驚き前代未聞の事なり等と、其噂さ遠近に高く聞ゆ、 とあり、一夜のうちにできたという山の絵も載っているという。この上り山は、昭和2年の奥丹後地震によって、10メートルほど陥没し、その余波で東南側一帯の水田が隆起したという。 『丹後国竹野郡誌』 上り山 字木津にあり
(木津温泉誌)温泉場の西面なる一帯の砂山にして松林密茂し頂上は二十尺に達せず彼方は一面澎湃たる日本海にして右手に経ヶ岬、夕日港、左手に朝日港、久美浜湾を指呼し風帆の波を蹴って山涯に行くを数ふべく眺望濶如たり、口碑に元此地海中なりしも安政年間地変あり一夜に此丘を現出せりと云ふ松林には松露を多く産せり、 『ふるさとのむかしむかし』 上(あが)り山地変
上り山とは、国鉄丹後木津駅に立って西方を眺めると海手に見える砂丘であります。現在はそのあたりの砂を取り除いて地形を低くし、老人ホーム丹後園や、それにつづいて橘小学校や、橘中学校が置かれて、まったく昔の面影はなくなりました。 しかしこの地は一夜で隆起しててきた山なので誰言う享なく上り山と称しています。 事件のあったのは弘化四年正月十二日夜と言いますから、今より約百三十年前のことであります。 当時としては前代未聞の事変だとして関係庄屋はただちに飛脚をたてて藩の役所へ通報した。宮津藩ではその原因を追及したがわからず、「木津には温泉が出るのだから、硫黄の気が一時にふき出し土地を持ち上げたであろう」との評決であった。 一方この事件が、京の都へも伝わり、さっそく瓦版の記事になってばらまかれ、京すずめたちの話題となりました。その瓦版の一枚が今木津連合区に保管されて居るが、それによると、 「丹後の国に於て一夜の内に山湧出る次第(中略)ここに丹後国竹野郡木津の上の村といへる在郷あり、すなわち組(久美)より網野へ至る往還なり 此地に今年弘化四未の正月十一日の夜半の頃、震動蓄電して大雨車軸を流す。村民胆を冷して驚き怖くこと限りなし。ほどなく夜も明け四方静り、雨止み、空晴れわたるに心安堵でようやく外面に出るに、あにはからんや、高き丘、六丈ばかりの山忽然とあらはれたり。衆人又もや前代未聞の事なりなどと、 その噂遠近に高く聞ゆ、村老の曰く実にや宝永のむかしもかかる例ありて御代豊かに栄えしと聞く、正しく弘化の時にあたりて、世界全く弘く化す豊けき御代のしるしぞと悦び祝うと伝へ開て、そのままここにうつし侍ることになん」 と記され、おまけに紙面の大半を割いた挿絵入りであります。 この上り山が、昭和二年の丹後震災で一丈余も陥落し、さらにその頂上が削られて小学校や中学校つづいて老人ホーム丹後園もできて、おまけに附近を掘ったら温泉がこんこんと湧き出、これを丹後園はじめ附近の民家に配湯して文字通り温泉郷が実現します。これは瓦版でなく、新聞に詳しく報道されることと思います。 『ふるさと岡田中』 板戸峠 長之室から栗田へ所用のため、出掛けた男が運悪く大きな地震と津波におそわれ、命からがら逃げ帰った。恐怖さめやらぬ男は「若しも峠をこして海の水がきたらどうしようか。」と、すっかりノイローゼになって夜も日も心配で眠れなかった。そこで隣のお爺さん「村中から板戸を借り集め、峠に並べて堰止めてやから大丈夫だ。」と、言ったので、男はその夜から眠られるようになった。この話を聞いた村人はこの峠を板戸峠といった。
若狭湾の断層と地震、津波、原発天正地震(1586) M8.0 天正13年11月29日(1586年1月18日)および同年11月27日(1月16日)に中部地方で発生した巨大地震。主に前者の地震についてを天正地震、後者は天正越中地震と呼ぶ。例えば、近江の長浜城(城主・山内一豊。彼の娘が犠牲)や美濃の大垣城(城主・一柳直末)は全壊しました。また、尾張の清洲城も半壊。飛騨の帰雲城は山崩れによって埋没、城主内ヶ島氏理とその一族は全員行方不明。 津波で若狭の常神半島東部にあったクルビ村が全滅したという。 「天正地震」 寛文2年(1662)の地震 M7.5 寛文2年5月1日(1662年6月16日)に発生した。マグニチュードはおおよそ7.5、若狭国・近江国北部・京都では最大震度6以上。被災地域全体で死者約700~900人、倒壊家屋約4,000~4,800軒、小浜・京都・伏見 をはじめ近畿地方北部の都市に甚大な被害をもたらした。 近年の活断層調査 から福井県南西部(若狭国)の日向断層、滋賀県(近江国)西部の花折断層北部などの活断層が同時に 活動した可能性が高いと考えられている。 小浜の被害 関ヶ原の戦直後に京極高次が入国し、慶長 6(1601)年、北川と南川の三角州上に小浜城を築きました。 その後入国した酒井忠勝により町人地の海側の葭地(よしじ)を埋め立てて、町人地の拡張が行われました。 したがって、地震当時、小浜の町は中世以来の町人地以外は、非常に軟弱な地盤の上にあったと言えます。 小浜城は本丸をはじめすべての郭が損傷。武家地では、「侍屋敷大方潰れ」との記載が ある、家屋の倒壊は 少なかったようですが、地割れや液状化による噴泥がありました。舞鶴の東西の市街地もよく似た軟弱地盤の上にあるので、参考になるかも 三方五湖 日向湖・水月湖の東岸を南北に走る日向断層の地震によって、日向断層を挟んだ東側の地盤が幅数㎞の範囲で最大3~3.6m隆起し、その西側の地盤を沈降させた。このような地盤の隆起は、三方湖・水月湖・菅湖からの唯一の排水河川である気山川の河道を閉塞させ、三方湖南西岸の村々 と田地を冠水させた。冠水した村落の人々は避難生活を強いられ、緊急対応を迫られた小浜藩は、水月湖の湖水を久々子 湖へ排水するために、浦見坂の開削工事に着手した。難工事が続いたが、翌寛文3年5月初めにはようやく完工に至った。 原発災害 東日本大震災 平成23年(2011)3月11日(金曜日)14時46分18.1秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル (km)(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。Mw 9.0、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館 (MYG004) 観測点で記録された2,933ガル。 東北地方を中心に12都道府県で2万2318名の死者・行方不明者が発生した(震災関連死を含む)。これは明治以降の日本の地震被害としては関東大震災、明治三陸地震に次ぐ3番目の規模の被害となった。福島第一原子力発電所におけるメルトダウン発生は、全世界に大きな衝撃を与えた。復興庁によると、2023年2月1日時点の避難者などの数は3万884人で、避難が長期化していることが特徴的である。世界銀行の推計では、自然災害による経済損失額としては史上1位としている。 福島第一原子力発電所事故。 1986年4月のチェルノブイリ原子力発電所事故以来、最も深刻な原子力事故となった。国際原子力事象評価尺度(INES)において、7段階レベルのうち、当初はレベル5に分類されたが、のちに最高レベルの7(深刻な事故)に引き上げられた。レベル7に分類されている事故は、チェルノブイリ原子力発電所事故と、福島第一原子力発電所事故の2つのみとなっている。 音の玉手箱
|
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2023 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |