丹後の地名プラス

そら知らなんだ

大蛇伝説①
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -59-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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丹後の古代寺院①







少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

大蛇伝説①(舞鶴市与保呂、池内、高野地区)

 与保呂の蛇切岩伝説と日尾池姫神社
『舞鶴市史』
蛇切岩  (与保呂)
 昔、多門院の黒部に、姉をおまつ、妹をおしもという美しい姉妹がいた。姉は十八、妹は十五でともに黒部小町とうたわれ、村の若い者はひそかに胸を焦がしていた。しかし、言い寄る者はすべてはねつけられ、嫁にといわれても断られるので、果てはおまつは片輪ではないかとさえ陰口をたたかれたが、それでもおまつは頑強に情なしで通していた。これには大きな理由があった。
 おまつ、おしもの二人は、いつも仲良く姉さんかぶりのかいがいしい出で立ちで、黒部から与保呂の奥山へ草刈りに出かけて行った。そこには美しく澄み切った池があった。ある日、いつものように二人出かけて、美しい池の面に姿を浮かべながら芝草を刈っているうち、おまつがホッと一息ついて腰を伸ばした目の向こうに、異様な姿を見出した。そしておまつの頬にはさっと薄紅の紅葉が散った。異様な姿、それはこの地方ではついぞ見かけぬ若衆姿だった。年のころは二十一、二か、くっきりと白い頬に明星のように輝く目、魅せられたように自分を凝視する若衆の姿はおまつの胸から永久に去らぬものとなった。
 それからおまつば、妹と一緒に出かけるのをいとうようになった。いつか一人で出かけては美しい若衆と相語らうようになり、末の契りまで結んでしまった。その時も時、おまつに縁談が持ち上がった。愛する若衆があることも知らず自分に結婚を強いる親がうらめしく、いつも言葉を濁していた。ある日、どうしても妹おしもとこの池へ出かけねばならないことになった。若衆は例の如く池の畔でおまつを待っていたが、おしもが一緒にいるのを見てさも驚いたように姿を消した。おまつはハッとしたが、もう遅い。かねていいつけられていたおしもは、この秘密の恋に酔いしれている二人の仲をはっきりと悟った。さてこそこのごろ自分と一緒に山に来ない姉の心が分かった。嫁に行くのを拒む姉の気持ちもうなづけた。
 おまつは「私は今日限り家に帰らぬから、あんた一人で帰っておくれ」と言い出した。おしもはびっくりして「そんなこといわないで一緒に帰ろう」とすがってみたが、姉はどうしても帰ろうとはいわなかった。姉妹が袖を引き合っているうち、おまつはさっと袖を引き離したかと思うと、あっという間もなく身を躍らせて、池の中へ飛び込んでしまった。おしもが驚いて、身を引くと同時に、空がにわかに曇って雨がざあっと降り出した。いままで静かだった池の水が波立って来たかと思うと、そこに池一ぱいになった大蛇の姿が忽然と現れ、おしもの方を見守ったあと、間もなく池底深く姿を消してしまった。
 おしもは、ただごとならぬ二度までの出来事に卒倒せんばかりに驚いた。宙を飛んで馳せ帰り、一部始終を父親に告げた。父親は驚き「情けない。そのような姿になったか。因縁ならば詮ないが、やはりいままで育てた娘である。どうしても娘の姿を見ずにはおられない」と、取るものも取りあえず、与保呂奥の池畔まで駆けつけ「おまつ、おまつ」と娘の名を呼びながら泣いていると、またもや池の水が騒ぎ立って現れたのがおしもが見た通りの大蛇であった。父親をうらめしく見やりながら姿はそのまま池の底へ-
 それから池の主の大蛇がなんの恨みがあったか、付近に仇するとの噂が伝わってきた。事実、蛇に悩まされることが多かった。このまま放っておいては、どんなことが起こるかも知れぬ。与保呂村の人々はいろいろと相談の結果、大蛇は殺してしまうほかはない、ということになった。しかし、その手段がなくて困っていたところ、一人の村人が「自分が見事に退治してみせる」といい、モグサで大きな牛の形を造り、その中に火を点じておいて池の中へ投げ込んだ。大蛇は好餌とばかりこのモグサの大牛を一口に呑み下した。モグサの火は次第に牛の体一面に広がっていった。見る間に一天にわかにかき曇り、豪雨が沛然と降り出した。池の中の大蛇は、腹中の火に苦しんでかもがき回り、のたうち回り、それにつれて池の水は次第に水量を増して溢れ出し、洪水となって流れ出した。
 恐ろしい勢いで流れ出した大水の中に、ついに倒れた大蛇の死体が見つかった。それが下手の岩の所に突き当たると、水勢のためか大蛇の体は三つに切断されてしまった。村の人の驚きは一方ではない。おまつの化身だおまつのたたりだ。このまま放っておけないとあって、三つに切れた大蛇の頭部は奥の村の日尾神社に、胴のところは行永の橋付近の田んぼの中にあるどう田の宮に、尻尾は大森神社に祭った。そして大蛇の当たって切れた岩を蛇切岩といった。
 以来幾百星霜、いまなお不審なのは、与保呂村の神社の境内に限って松の木が一本もない。それから日尾神社向こう側の山(宮山)の一部だけには、松の木がどうしても生えない。それからいま一つは、蛇切岩の割れ目の所に絶えず白い姫蛇がいて、優しい姿を見せている。それがちょうど、天気予報のように、天候によって色を変える。晴れの日にはぎわだって色が白く、雨の日には茶褐色を帯びるというのである。

『倉梯村史』
蛇切岩
 與保呂の奥深く棲みし大蛇あり或る年大洪水のため濁流に流されて巨岩のため三つに切断当れ頭は與保呂に留りて池姫社と祀られ胴の部分は行永上に止りて胴の宮…胴の宮…となり尾は大森に至りて尾森…大森なりとぞ。



与保呂の「蛇切岩伝説」はよく知られた伝説で、現在も生きている。←↑与保呂校所蔵のもの。いずれも卒業生が製作したもの。
伝説のつながりはかなり広く、発祥の多門院黒部から、与保呂下流の行永の堂田神社や森の大森(弥加宜)神社、さらに高浜町の青海神社のあたりまでひろがる。
演劇で使われた蛇↓



現在の「与保呂の浄水場」(岸谷貯水池)のさらに上流、1キロ足らずばかりのところに蛇切岩神社↑がある。
そこからさらに300メートルばかりに、桂貯水池(明治33年に完成した舞鶴軍港に停泊する艦艇へ水を供給する軍用水道の貯水池)がある。
このあたりを小字「蛇切岩」と呼び、、三国山や黒部へ通じる道が通る。もともとはこのあたりの伝説と思われるが、今は人家はなく熊がいるくらいである。

伝説の蛇切岩は、このダムのあたりの川縁のどこかにあるものと思われるが、現在は不明である。ワタシのオヤジは大正2年生まれ、与保呂の出だが、「蛇切岩はどこにあるかわからん」と言っていた。生まれた時にはすでにこのダムがあり、このダムの下流ではなく、ダム湖に沈んでいるか、ダム建設で破壊されたのではなかろうか。

与保呂小学校の校歌の一番に、「三国の峰の 空はれて みどりいろます ふもとべに …」と歌われている。与保呂の人でも、三国山は与保呂の山でないだろう、あれは多門院とか祖母谷側の山だろう、というくらいであるが、三国山こそが与保呂のふるさとの山であることが、この校歌でわかる。伝説の美しい姉妹が与保呂の人でなく、多門院の人であるのも、与保呂も多門院も元々はおなじ一つの村の分かれであったのだろうと推測させられる。三国山は名のとおり、丹後、丹波、若狭にまたがる山で、元々はこの山の大蛇伝説であり、もっと広いふもとべに伝わった伝説でなかったかと思われる。

青海神社(大飯郡式内社)
青海神社の栞
…舞鶴市の森の弥加宜神社(大森さん)、余保呂の神社、当社の三社は兄弟神さんだと言われ、当社も大森さんと言われております。

『若狭高浜むかしばなし』
空を飛んだ蛇
 昔むかしのことである。青葉山のふもとに大きな蛇が住んでいた。その蛇は、里人たちが山を越えようとすると、必ずといっていいほどその無気味な姿を現し、長い舌をチュルチュルと出して、行く道をさまたげるのだった。そんな時、里人たちは山を越えようにも越えられず、あきらめて引き帰すことがたびたびあった。
「あの蛇さえ出てこんかつたらなあ」
「もっと安心して山を越えられへんやろか」
里人たちが集まると、いつもその蛇の話で持ち切りだった。
 そんなある日のこと、いつものようにみんなが蛇の話をしている時、突然ひとりの男がいった。
「いっそのこと蛇退治をしようや」
それを聞いてびっくりした里人たちは、
「あんな大きな蛇をどうやって退治するんや」
とぶつぶつつぶやいた。
 しかしそのうちに別の男が、
「わしも蛇退治に手をかす」
といいだしたので、続いてみんなも賛成していった。そうしてそれからの数日間、里人たちは蛇退治の計画を着々と立てていった。
 さて、いよいよその日。里人たちは長い刀を携え、不安と緊張の入り交じった顔付きで出かけていった。計画通りに山を越えるふりをして、蛇のすみかをおそるおそる取り囲み、じっと蛇が出てくるのを待ち続けた。そして蛇がニョキッと姿を見せたと同時に、四方からみんなで寄ってたかって、えいっと刀で切りつけたのである。
 ばらばらになった蛇は、尾っぽの部分だけが行方不明になってしまった。しかし、その後二度と、蛇が里人たちを悩ますことはなくなったという。
 一方青海神社では、ある日突然空を飛んできた蛇の尾つぽをどうしたものかと考えていた。飛んできたのが青葉山の方角からだったので、
「もしかすると、山の神さまと何か関係があるのかもしれない」
と思って、その蛇の尾っぽをおまつりすることにした。その蛇を入れる場所としてつくった井戸は“みそぎの井戸“と呼ばれている。
 今でも毎年七月一日には、井戸さらえという神事が行われているという。

市内の大蛇伝説は当地(日尾池姫神社)のほかに、池内地区(池姫神社=千滝雨引神社)や高野地区(雨引神社)にも伝わっている。各社の名前まで似ている。
『舞鶴市史』
同社(雨引神社)の社頭を流れる高野川の上流を日浦ヶ谷に入ると、大蛇退治で有名な森脇宗宗坡(巴)が弘治年間(一五五五~一五五八)に娘の仇を討つために騎乗した馬が残したと伝承される馬蹄の跡と称するものを、岩の窪みに見ることができる。この岩は影向石と同じであり、神の憑り代で、恐らく雨引神社の原型をなしたものではなかったかと考えられる。伝承に従えば、娘を呑んだ大蛇を討ったあと、これを三断にして頭部を祀ったのが城屋の雨引、胴部は野村寺の中ノ森、尾都は高野由里の尾の森の各神社となったといわれる。
 揚松明はこの大蛇の供養、または大蛇の物凄さを象徴したものとされるが、この起源説は揚松明に付会したものと思われる。
 一方、雨乞い説は、旱天が続き農民が困窮していたところ「一偉人(中略)辛シテー神池ヲ発見ス又神ノ告ヲ得テー松明ヲ点シ大ニ神ヲ祭リ以テ雨ヲ祈ル 是ヨリ風雨順ニ五穀豊熟ス 村民依テ其神霊ヲ祭リシト云フ」 (各神社明細書)とあり、これが起源説となっている。なお雨乞いのために火を焚く習俗は全国各地に見られる。
 大蛇退治と類似の伝承は全国に分布しているが、当市では布敷の池姫神社の創祀、与保呂の日尾神社にまつわる蛇切石の伝承、地理的には二社の中間に位する上根の船繋岩の伝承などがある。これらの伝承は大蛇(竜)がモチーフになっていて、大蛇の威を鎮めることにより農耕が進捗する様子を伝えている。そして、ともに岩が大きな役割を果たしていることが注目される。
 先の雨引神社の祭神は水分神といい、非人格神の性格が強く、池姫神社は市杵比売命とするが、「旧名千滝雨引神と号之(中略)祭神は竜神」(加佐郡誌)とし、「丹哥府志」 (布鋪村の項) にも同様のことを伝えている。この神もまた明治以前には固有の名を持だなかったと考えられる。そして伝承内容はやはり雨水に関係している。
東地域与保呂の日尾神社は、現在も日尾池姫神社の標石を社頭に建てている。「池姫明神 与保呂 本之下 常村ノ氏神」(旧語集)とも、「笶原神社は今池姫大明神を称す」(丹哥府志)とも記しているが、これはまぎれもなく日尾神社のことである。ただし、祭神を「天日尾 国日尾 天月尾 国月尾」の四神とする文献(丹後風土記・残欠)もある。
 また更に、右の三社創祀説話として、大蛇(竜)を殺害、または岩に封じ、その身体を分断して祀ったとするのもある。日尾神社には異説もあるが、頭部が同社であり、尾部が弥加宜神社であると民間には伝承されている。ただし、弥加宜神社の通称大森神社をオノ森として説話に付会したものであろう。池姫神社の場合は、大蛇の死により「八面之鷹となる是志鳥明神也、体ハ池姫明神と崇」(旧語集・上根村)むとあるが、志鳥明神とは倭文神社のことである。
 これらの神社所在地は、高野川、池内川、与保呂川に接しており、寸断した大蛇を同一流域内の集落に祀ったとする伝承の背後には、旧村落の相互連帯感をうかがわせるものがある。
 さらに祭祀上の問題をいえば、右に述べた各神社の上流域に必らず伝承に関する岩が存在する。これらは雨引神社の場合と同様に、社殿祭祀以前のより原型的な信仰形態としての神の憑り代(磐座)であったと推測することができる。

 布敷の池姫神社(千滝雨引神社)
千滝雨引神社は室尾谷観音寺神名帳に正三位千滝雨引(チタキアマヒキ)神社と見える。

社前の案内板
池姫神社
祭神 市杵島比売神
此の神様は「古事記」にある宗像三女神の一柱で安芸の宮島厳島神社の祭神で水の神様航海守護の神様弁財天の社として全国各地に祀られている。
抑 当地池姫大明神は旧名千滝雨引神(センタキアマビキノカミ)と号し正三位の社であって祭神は龍神である。往昔草昧の時、龍蛇この奥谷に棲み土地の人偶々之れを見るに恐怖のあまり疾病にかゝる者が多かった故に口谷の開墾をする時も敢えて奥谷に入る者は無かった。
そこで土地の人は大変これを心配し衆議して手力雄神に祈ったところ神の霊夢に「これは我が力の及ぶところでない、素盞嗚雄神に祈れ」とお諭しがあった。それから土地の人は更に滝水に身を清めて七日七夜の間素盞嗚雄神にひたすら龍神の祟りを免れることを祈願したところ不思議にもそれから龍神は神徳を感じて滝水の下に隠れその影さえ顕すこと絶えて無くなった。それからは土地の人は奥谷の開墾にも成功したが此際水田に水を引くの便宜に奇瑞のあるばかりでく偶々旱魃に会っても此の神に祈れば必ず雨に恵まれることが出来たので「是は龍神が素盞嗚雄神稲田媛之命の神意を克く奉じて田畝に水を灌く事を司どり五穀成就を助けるもである」と皆にこれを称え信仰は益々厚くなった。
昔時は素盞嗚雄神稲田媛之命を上の山に祀り滝の下に此の神を齋き祀ったのであるが人皇四一代持統天皇の五年卯辛六月(西暦六九〇年)大洪水のため両社共流失した。その後この地に再建され雨引の社として布敷の名と共に池内に永く存することゝなった。

『舞鶴市民新聞』(20160101)
池内歴史探訪
…池姫神社本殿にはヘビを描いた額がかかっている。神社は龍神を祀っている。
昔、大蛇がこの地域の開墾の邪魔をし、農民たちはその姿を見るだけで疫病にかかったそうだ。そこである娘が身を投げ出し、飲み込もうとした大蛇の喉元に刀を突き刺し殺した。村は無事開墾ができるようになったが娘は大蛇の祟りでなくなったため、娘と大蛇の魂を供養するため神社を建てたという。
 この地域には石引き行事が伝わっている。祭神の龍神は雨をおこす神であり、池姫神社は「雨引の社」とも呼ばれる。日照りが続くと、村人たちは池内川上流から大きな石を藁で編んだ綱で神社まで引っ張った。1939(昭和29)年9月9、10日に石を引き大雨が降ったとの記録があり、写真に殘っている。
その池内川の五郎の滝の下流域には大きな岩がいまもゴロゴロと殘る。近くの五郎山が7日間降り続いた大雨と地震で山崩れを起こし、岩が落ちてきたという。自然が織り成す景色で、参加者たちを驚かせていた。…

「我が郷土」池内尋常高等小学校)-昭和七年
池姫神社
一、所在地 字布敷小字森田
二、祭神  市杵比売神
    池内村字九字の中今田を除いた八字の氏神
三、由緒
不詳であるが、本社社記と称する古記に依ると、抑当地池姫大明神は旧名千滝雨引神と称へ、正三位の社であって祭神は龍神である。往時草昧の時龍蛇此奥谷(岸谷方面と考へらる)に住んでゐたが、土地の人偶々之を見ると恐怖の余り疾病に罹るものが多かった。故に口谷を開墾する時にも敢へて奥谷には入る者がなかった。そこで土地の人は大変之を心配して衆議して手力雄神に祈った所、神の霊夢に是我が力の及ぶ所でないから宜しく素盞鳴雄神に祈れよと御諭しがあった。これから土地の人は更に滝水に身を清めて七日夜の間素盞鳴命に只?龍神の祟りを免れて奥谷の地を開墾し成就した、ところが不思議にも夫れから龍神は神徳に感じて滝水の下に形を?して其の影さへ顕すこと絶えてなくなった。水田に水を引くの便宜に奇瑞のあるばかりでなく偶々歳の旱するに会しても此の神に祈れば大雨の来ないことがなくなったので、識者はこれは龍神が素盞鳴雄神稲田姫命の神意を克く奉じて田畝に水を漬ぐ事を司り五穀成就を助けるものであると称へたから成程とそれから土地の人の信仰は益々厚くなった。
昔時は素盞鳴雄神稲田姫命をも地を卜して上の山に祭り滝の下に此の神を斎き祭ったのであったが、人皇四十一代持統天皇の五年辛卯六月に洪水のため両社共に流失してしまった。其後再建したのであったが世変の星移って素盞鳴雄神の社には其の跡ばかり、口碑に止め雨引の社は布敷の名と共に池内に永く有する事となった。そして此の谷の在る限りは後人が雨引の神を信仰する前に素盞鳴雄神及び稲田姫命の御神像を仰ぐ様にしなければならぬと鍵取福地某の古書に書かれてゐたが近時享保二十年乙卯八月水害に罹って其の留書も流失したやうである。
四、社格 村社
五、行事 祭典 十月十七日
     石引き
石引きは旱魃つづく年、雨を呼ぶために行はれる特別行事にして其の祭典は近郷にひびく。此の前に行はれたのは六七年前にして、それ以後は旱魃なきため行はれてゐない。(昭和七年五月記)

岸谷の文楽人形  大正初期ごろまで、池姫神社の祭礼に奉納されていた。太刀振・カツコウ踊あり。

『加佐郡誌』
布敷には池姫神社がある。今田以外の八ケ字の氏神である。之は参考一に記した湖に棲んで居た大蛇に毒を入れた人形を食はせ退治した後其骸を祭ったものであるといはれている。

『丹哥府志』
【池媛大明神】(祭八月)
【五老の滝】
五老の滝は池姫大明神と相隔つ僅に三四丁、凡歳旱する時は則ち池の内八ケ村相集りて五老の滝より大いなる岩を引て宮の傍に至る、如斯する時は雨降るといふ、蓋滝の上は川なり、其川岩にせかれて流るる事能はず、よって昔は沼なりといふ、其沼に大蛇すみて人を害す、於是磐別命其岩を開きて流を通し其大蛇を捕へ是を斬る、後に其蛇祟りをなす、よって是を神に祭り池姫大明神といふ、於是其岩を取る時は必ず雨降る、蓋其亡魂なりと伝ふ。

『丹後国加佐郡旧語集』
池姫大明神 堀・池之内下村・布敷・別所・白滝・岸谷・上根・寺田 右八ケ村氏神毎年順番振物踊狂言ヲ勤。本祭ハ六月十五日夜祭。踊リ有リ。

『まいづる田辺 道しるべ』
池姫神社と石引き 雨乞いの石引き
 布敷村内には、池内八ケ村の氏神として池姫神社がお祀りされている。
 祭神には大蛇(竜神)が祀られ、年によって日照りが続き、稲作の不作となると百姓達にとっては死活問題であり、こぞって氏神に雨乞いの祈祷を行うのである。
 それでも、なお雨が降らないとなると、池内九ケ村が相い集まり、最後の雨乞神事である五郎の滝の大石を村中総出で池姫神社まで石引きを行えば、必ず雨が降ると古来より信じられ、昭和初期まで、旱魃の年には雨乞いの石引きを行う神事が池姫神社で継承されてきた。
 この様に池姫神社には古来より大蛇にまつわる伝説が伝えられ、これを裏付される史料及び地元伝説を記して見る。
 最も古い史料としては、紺屋町の笶原神社に残る史料の中に出てくる伝記に、
○奈良時代の天平宝字元年(七五七)秋七月
 古老がいうのには、
「昔この池の中に大蛇がすみ、人々に害を及ぼした。そのため毎年この池に生贄を捧げて大蛇をなだめていた。時に、一人の娘にこの生贄の役が当たった。娘は懐に利刀をひそませ、大蛇が呑みこもうとした時、娘はその刀で大蛇を刺した。大蛇を殺すことができたが娘も毒に当たって死んだ。
 このことは直ちに神祇伯石川朝臣年足卿に報告された。卿は娘の霊を祀るために社を創設し、これを地主神とし生贄霊社(いけにえのみたまのやしろ)と名づけた。
 この年に山を切り崩し、池を埋め、新しい田を拓いた」と記している。(文化財めぐり)
○元文二年(一七三七)丁巳八月
 磯田閑水老人の手記によると、
「当社の旧名は、千瀧雨引社と号し、祭神に龍神を祀る。
 往昔、草昧(天地の開けはじめ)の時龍蛇此奥谷に住み、土地の人偶々之を見て恐怖の余り疾病に罹る者多し、土地の人は大変心配し、手刀雄神に祈った所素盞鳴雄神に折れとの御諭があり、瀧水に身を清め、七日夜只管龍神の祟りを免れ奥谷の地を開墾成就することを祈願したところ、不思議に龍神は其影さえ顕さなくなり、奥谷の開墾が出来る様になる。素盞鳴雄神を山の上に祀り、瀧の下に此神を斎き祀った。 人皇四十一代持統天皇五年辛卯六月に、洪水により両社共に流水、その後再建された。
 昔、鍵取福地某の古書にあるのを見たが享保二十年(一七三五)乙卯八月水害にて留書を流失し、後考のために私記して置く」(加佐郡誌略記)
○享保二十年(一七三五)に書かれた旧語集には、
 「昔この池の湖に住んでいた大蛇の遺骸を祀る」とあり、
○天保十二年(一八四一)に記された丹哥府志によると、
 「五老の瀧は、池姫大明神と相隔つ僅に三、四丁、凡歳旱する時は、則ち、池の内八ケ村相い集りて五老の瀧より大いなる岩を引て宮の傍に至る。
 如斯する時は雨降るという。蓋瀧の上は川なり、其川岩にせかれて流るる事能はず、よって、昔は沼なりといふ。その沼に大蛇すみて人を害す。於是磐別命其の岩を開きて流を通し、其の大蛇を捕へ是を斬る。後に其蛇祟りをなす。よって、是を神に祭り池姫大明神という。
 於今、其の岩を取る時必ず雨降る。蓋其亡魂なりと伝ふ」
 この外に岸谷には次の様な伝説もある。
 「岸谷の鬼住池に住む大蛇が人々に害を及ぼすため、岸谷の五衛門が弓で大蛇を退治し、其の頭部を池姫神社に祀る」と地元では伝えられている。
 このように、池姫神社には古くより数々の大蛇伝説があり、我が国では古来より、水田耕作や農耕儀礼にもとづき、竜神は水の神として崇められ、水害や旱魃は竜神のしわざとされ、恐れられ、旱魃の時には、竜神、水神に雨乞いの祈願をすれば必ず雨が降ると信じられてきた。竜神は又、岩や石とも結びつき人々の信仰を集める様になり、池内の雨乞いによる石引きについても、五郎の滝の大石を池姫神社まで引く神事は、雨乞石に祈願すれば必ず雨が降る信仰にもとづくものであったのか。
 或いは、五郎の滝の大石を取ることにより池の水が無くなり、池の竜神を怒らせて雨を降らせる石引きであったのか。
 これ等の伝説については定かではないが、いずれにしても、この様な珍しい雨乞いの石引きが行われている所は、ここ池内以外では見聞されず、当地にのこる唯一の無形文化財と思考され、往時の石引きの実態が知りたく調査していた処、幸いにも布敷の川崎隆先生の祖父川崎与三郎氏が昭和十四年に行われた雨乞いの石引きの様子を詳細に記録として残されており、なお当時の写真もあり、川崎先生のお許を得たので記載する。
 旱魃は日照りの仕業と考えられ、神に降雨を祈願する風習は古来より我が国では行われていた。
 江戸時代田辺藩では日照りが続き凶作ともなれば、百姓は勿論のこと藩に於いても死活問題であるため、日照りが続くと村々ではお宮へ参り雨乞いの祈願を行った。藩に於いても被害が深刻化すると村々に対し雨乞いの祈祷を促すと共に、藩主みずからも雨乞いの祈祷を行っていたことが史料などにより明らかになっている。
 池姫神社に於ける雨乞いの石引きが行われた起源については定かではないが、江戸時代に遡ることは間違いなく、川崎隆氏が所有されている昭和十四年に行われた池姫神社に置かれていた数多くの大石写真からもそのことを窺い知ることができます。
 これ等の大石は、その後池内川の河川改修により埋められ今は見ることはできないが、現在川の中に二個の大石があり、石引きされた石ではないかといわれている。
 池姫神社の石引きが昭和十四年九月十日、池内九ケ字(村)によって行われたのを最後に途絶えてしまっており、今ではこの石引きの様子を知る人は地元の古老だけとなる。
 この最後の石引きについて川崎与三郎氏が書き留められた詳細な記録にもとづき、当時の石引きの状況を記述させていただく。
 昭和十四年の歳は、六月頃より九月まで日照りが続き池内の各字(村)では、それぞれの村宮に振物を奉納して雨乞いの祈願を行っていた。
 布敷に於いても川の水が無くなりはじめると「線香番」と称する水引きが行われていた。これは線香の火が消えるまでの間自分の田へ水を入れる番をすることであり、この間にも村人達は、池姫神社に万灯篭、太刀振などを奉納し雨乞いの祈祷を行った。
 それでも尚、雨の降る気配が無いとなると、池内九ケ字(村)では、いよいよ最後の頼みである五郎ノ滝の大石を池姫神社まで引く雨乞いの儀式を行うことが決められる。

九月九日 今日も炎天なり、各字(村)より役員十名が集まり、池姫神社の上流約六、七百メートルの所にある五郎ノ滝に於いて、音頭取が二人乗れる重さ数十トンの大石二個を選び、ご神意の御神籤によりその内の一個が選ばれる。
 村の衆は、各村より藁を持ち寄り、太さ四~五センチ、長さ数百メートルの石を引く綱を作る。この外に石を運ぶ台、修羅を神木である樫木を伐って来て作り、運搬に必要な「テコ」「コロ」なども準備す。
九月十日 今日も炎天なり、いよいよ石を引く日である。
 各字からは、子供から大人に至るまで男衆は鉢巻、フンドシ姿で涸れた河原にぞくぞくと集まってくる。
 女の人達は飯出しやお茶の接待にかかる。
 綱を引く子供達は先頭に、後方は大人達が引っ張る。
 音頭取の二人は、注連縄が張られた大石の上で鉢巻を締め、扇子を振りかざして音頭の掛声をかける。
 「ヤーレ綱の衆、テコの衆も」
 「ハー ヨイトセ」
 「ヤーレ 気合いを揃えて頼むぞよ」
音頭取の大きな掛け声は周囲の山々にこだまし、さすがの大石も揺れだす。
 音頭取の掛け声は益々高まり、これに合わせて綱を引く男衆も力が入り全身の力をこめて引く。
 応援している人々も綱引きと一体となり、音頭に合わせて必死に掛声をかける。
 「あ、 動き出したぞ」
 「ハー ヨイトナ」
 「あ、 動くぞ」
 「ヨイトヤサ」
石を引く河原には、村々から集まった人、人であふれかえっていた。
 綱を引く人々の顔は、赤くなる者、青くなる者など様々であり、掛け声は、益々河原に響きわたっていく。
 さすがの大石も少しずつ揺れるかと思えば動き、動くかと思えば止まり、ジリジリと、少しずつ、少しずつ進む。
 やがて池姫神にたどり着くと、神社では、天狗の面を高だかと差し上げ、法螺貝を吹きならし引石を迎えてくれる。大石は定められた宮ノ池畔に安置される。
 その後皆んなで神社に詣で雨乞いの祈祷を繰り返し奉納して神事は終り、降雨を待つばかりとなる。
 この石引きは、年によっては数日かかったこともあったといわれる。
 九月十三日 九ケ字の雨乞いが神に通じ大雨が降る。
 村中挙って降雨を喜び合い本日は村中お休みとなる。


五郎の滝↑ この少し下流側には大石がゴロゴロしている。大石ゴロゴロだからゴローの滝というのかも…
その大石を引くというのは、大きな岩も押し流すほどに雨が降ることを願った予祝行事の一種であろうか。

 城屋の雨引神社
『舞鶴市史』
揚松明   (城屋)
「高野村現勢調査書」による説
 「高野村城屋の雨引神社で行われる毎年の行事であるけれども、その起源は詳でない。古老の伝説を聞くと、昔本村開拓の際に田圃稍開けて人民が多く来て住んだ。然るに、日照りが長く続いて少しも雨降らず、遂に五穀は皆枯れようとした。それ故人民どもは非常に困っていた。時に一人の偉人があって之を憂い、自ら日浦ヶ岳の水源を探し荊棘を啓き、辛うじて一神池を発見した(現に池ヶ谷といって一つの小さな池がある)。また神の吉を得て、一大松明をともし、大に神を祭り雨の降ることを祈った。是から風雨は順調に来て五穀は豊熟した。それで村民はその神霊を安置して雨引神社としたということである。
 降って中頃天保年間に大に旱した。旧藩主牧野侯は近郷(加佐郡中深十九ヶ村)の民をして、共同して大松明を奉らしめたのに、神霊の感応があって、大雨沛然として来た。領主及近郷の者は挙ってその神徳を称えた。それより参詣する者は常に絶えない。毎年七月十四日この大松明を点火して例祭とするのである」。
 「舞鶴」による説
  「舞鶴町を西南に距る里余、高野村城屋に雨引神社といって水分神を奉祀した村社がある。俗に「蛇神さま」と称え、毎年陰暦七月十四日の夜揚松明の行事があって、その伝説には実に奇なるものがある。
 今を距る三百余年前、後奈良天皇の弘治年間に一色氏の遺臣森脇宗坡という郷士が、この村字女布に住んでいたが、その長女が何鹿の郷士赤井氏に嫁し、三日の里帰りのため、城屋の日浦が谷を越したところ、この谷に褄む大蛇のために喰われた。そこで宗坡は大いに怒って、直ちに馬に乘って城屋に馳せ、日浦が谷に至り、岩の根に駒の蹄を止めて、谿間に蜿蜒たる彼の大蛇を射た。ところが、大蛇は忽ち爛々たる眼を怒らし、毒焔を吐いて宗坡に向って押し寄すると、見る間に暴風は脚下に起こり、霹靂は頭上を掠め、猛雨は沛然として臻り天地晦暝山谷鳴動して、物凄いこと到底名状することも出来ない。宗坡は止むを得ず轡をめぐらして隠迫というところへ退き、その谿間に身を構えて、猛り狂うて追って来る大蛇を射止め、これを三断した。すると、雨は霽れ風は収まり、夕陽は赤く宗坡を照らして、さながら勝ち誇る郷士を擁するが如くに見られた。かくて宗坡は大蛇を退治したが、たとい愛娘の仇とはいえ、すでに討ちとつた以上、大蛇の霊は天に帰したのであるというので、その菩提を弔うため三断した頭部を城屋に祀り、腹部を野村寺に祀り、尾部を由里に祀ることにした。その城屋に祀られたのが即ち雨引神社で野村寺のが中の森神社、由里のが尾の森神社であるという。そしてその大蛇の鱗片は、今も宗披の後裔に伝え蔵せられているとの事。
 これから雨引神社が雨乞いの神として崇敬せられ、また宗坡が蛇を退治たという陰暦七月十四日には、大蛇が焔を吐くのに因んだ揚松明の祭典が行われることになったのである」。


伝説の岩↑ 奥城屋からまだだいぶに川をさかのぼった「奥の院」にある。

揚松明↑
なぜ火を焚くの、それは次の機会にとりあげる予定。

綾部市志賀里内久井の伝説。
奥城屋から綾部市へ越した所が内久井だが、『丹波負笈録』は面白い意外な伝説を拾い書き残している。、
内久井村 家敷七十軒同ヒウラ峠奥山あり 志賀郷十三ケ村入込所 奥深山なり 谷氏御領所 右深山の中に蛇池あり 昔志賀に夜アラシ云地侍の娘を此蛇にとられ 後彼池へ右の蛇を捕と名乗て弓を放つ体ニで向ひけれハ小蛇出 又夜アラシ申けるハ本体をあらはすべしと云 大蛇の頭をフタ立向けるを大雁俣にて一眼を射殺す (書方質朴にしてわかちかたし 其まゝいつれにも此書様をくわへす 外皆是にならふへし) 此故に夜アラシ子孫代々片眼なり 今ハ家絶たり 志賀の夜アラシとハ同所町梅原氏の士にて強力の弓とりなり 物部に分家あり

城屋の森脇宗坡の大蛇退治伝説と似ているというか、共通のもののようだが、しかし当地の方が古い。片目のヘビとか、その子孫が片目とか、城屋や女布にはない古い要素を残している。このあたりの鍜冶家伝説のようである。
昔の伝説ゆえによくわからない、スジが通らないハナシたが、勝手に解釈し合理化して書き改めたりせずに、現地で書かれたものをそのままを書き残します、皆様もこのやり方にならってくれ、と注釈している。ワシほどカシコイ者はおらんのじゃと、バカはすぐこの逆をやるが、それは過去の記録を破壊し、永遠に地球上から消してしまう大罪を犯すことになりかねない。自分にはよくわからないハナシだからといって、粗末にしてはならないのである。
負笈録がこの精神を貫いてくれたおかげで、ワレラは大蛇伝説の意外な過去を知ることができる。片目は鍜冶屋の象徴であり、蛇は鍜冶屋の神であった、片目で一本足の神は蛇の姿をしていたのでなかろうか。
蛇が水利の神と理解されるのは、後の農耕社会になってからの話であって、後の知ったかぶりの説明では、も一つ腑に落ちないところが残るのは、この過去の重要な側面を見落としているためなのかも知れない。


(参考) エントン引き

今田の「エントン引き」↑
「えんとん」は何か。円頓寺(久美浜町)は七仏薬師の1という。
『舞鶴市史』
えんとんびき
今田では毎年十二月、古くから行われて来た「えんとんびぎ」という子供達の年中行事がある。これは藁で作った大蛇を持って各戸を回り、悪魔払いをするのであって、その時は必ず門口から入って裏口へ通り抜けることになっていた。子供達には欠かせない行事になっていたが、作り方も難しいところがあり、大人達の協力も得られないことが多く、次第にさびれていく状況だという。

『森の神々と民俗』
エイトン引きの民俗
 これらの龍蛇伝承地には、年中行事として藁製の大蛇を村中ひきまわす、エイトンビキ・エントンビキ・エトンビキ・アクマバライと呼ばれる子供組の民俗行事が、毎年九月一日(八朔)に行われている。ここでは別所・上根・大波上の事例を紹介しよう。
エントンビキ(舞鶴市別所)
 むかし、大蛇が里に現われて娘に巻きつき、さらって行くことがあった。その際、逃げまどう娘たちを土蔵や便所に隠した故事により、毎年九月一日にこの行事を行っている。
 大蛇は八月三十一日夜に準備をする。体育振興会とPTAの役員たちが公民館に集まり、持ち寄った七、八束のモチ米の藁を綯って、約十二、三メートルの蛇体(ジャ)を作る。頭部はサンダワラを二個あわせ、ナスビ・ホオズキ・ミニトマトで目玉を、ハランで舌をトンガラシで牙を作り、ミノグサの髪をたらして、榊と御幣を頭にさす。完成した蛇体は床の間の三宝の上に祀っておく。
 翌日午後、学校から帰宅した子供たちが公民館に集合し、「エントンビキじゃ、ワッショイ・ワッショイ」と掛声をあげながら村通りをひきまわし、各家を訪れてお駄賃をもらう。大蛇にかまれると幸運にめぐまれると言われており、子供や老人の頭を「健康で長生きしてください」と言ってかむ。以前は腰にトンガラシをさし、女の子を見つけると追いかけまわし、無理やりトンガラシをねぶらせた(なめさせた)。古老によれば、これは女性を男性(ジャ)に従属させるウラの意味があるという。エントンビキの表向きの理由としては、稲作に甚大な被害を与える風の神の退散と五穀豊穣、村びとの無病息災を祈る八朔の行事であると伝えられている。現在は子供の数が減ったため、女子も参加するようになった。
 村中をひとまわりすると、仲井・谷家の荒神がある裏山へ藁蛇をかつぎあげ、椎の巨木の根元にまきつけ、行事は終了する。荒神はカブの先祖を祀るとする伝承があり、土地の売買によっても祭祀がひきつがれる。たとえば城代茂樹家の前庭の垣根には荒神を祀る小祠があり、南無妙法蓮華経の札と自然石を安置する。もともと谷九左ヱ門家の屋敷地であったが、購入後も屋敷の先祖さん、土地の守り神として手厚く祀っているという。
エトンビキ(舞鶴市上根)
 池内川上流にある上根では、毎年九月一日の八朔の日に少年団によってエトンビキが行われる。以前は男子の行事であったが、近年子供の数が減少しているため、女子も参加する。
 その由来譚としては、むかし、疫病がはやり村中が困窮することがあった。魔除けと五穀豊穣を祈って、藁蛇を毎年かついでまわると伝えられている。
 大蛇の胴体は稲葉とススキ(サバイ)とキビを三つ編みにして、約三メートルの縄を綯い、頭はサンダワラ二個を重ね、バランで舌をつくる。牙はトウガラシ、目玉はナスビとホウズキ、耳はビワの葉を用い、藁製の刀を口にくわえさせる。尻尾には必ず青い稲穂をまぜて綯いあげることとされている。別所とちがい、藁製の刀とフサを二本の笹竹につるし、それをかついだ子供が大蛇を先導する。下地から上地まで、約三十戸の家々を「ヨイーサ、ヨイーサ」と掛声をかけあってまわり、頭を持った上級生が戸口に立って「ヨイヤカノウ」と祝言をのべる。お駄賃をもらい、時には「かましたげる」と言って、長命を祈り老人の頭をかむ。昔はタカノツメ(トウガラシ)を竹の先につけて振りまわし、女性を追いかけてなめさせた。全戸をまわりおえると、池内川の左岸にある山の神に参拝し、小祠の左横に藁蛇を奉納する。腐ったままの藁塚がうず高くとぐろ状に積みあげてある。二本の笹竹は山の神の両脇に立て、行事を終了する。
アクマバライ(舞鶴市大波上)
 青葉山麓の旧朝来村の大波上でも、エントンビキに類似する「アクマバライ」を、毎年九月一日に行う。当日午後、舞鶴市東公民館大波上集合所に子供たちが集合し、子供会の責任者が行列に随伴して行事を指導することになっている。
 ヘビ、ジャ、リュージャと呼ぶ藁蛇を、昨年の稲葉を用いて前日までに作りあげる。全長二・三メートル(頭部三○センチ、胴回り三五センチ、尾回り二○センチ)の蛇体に、ビワの葉の耳、ナスビの目、アカトウガラシの牙、バランの舌、稲穂のヒゲを飾りつけてある。「フンドシ」と呼ぶシメナワ(七七センチ)を二本持って藁蛇の行列を先導し、「アークマバライヤーイ」と威勢よく掛声をあげ、下の集落から順次各戸を回る。戸口でジャに頭をかんでもらうことを「オハライ」と言い、シメナワを下半身にぶつける。シメナワにはシイラギ(ヒイラギ)の枝がさしてあり、当るとチクチクと痛いことから、子供たちはこのシメナワを「チクチクボンバ」と名づけている。「ボンバ」とは爆弾のこと。お駄賃として各家から千円とお菓子をもらい、後で配分する。以前は娘を見つけると追いかけまわし、トウガラシをなめさせた。「狐狩り候」でふれたように、その報復としてキツネガエリの際に、娘たちは若衆に向けて雪玉を投げつけるのである。「アクマ」をいっぱい付着したジャは、全戸をまわりおえると青蓮寺(禅宗)の参道口にある「大乗妙典一石一宇塔」(寛政十成年)に奉納、シメナワニ本も六台地蔵に供えることになっている。
 このほかに、今田・布敷は現在もこの行事を伝承しているが、岸谷は三十数年前にエントンビキを中止した。エントンビキ・エトンビキ・エイトンビキの語源は古老に訪ねても不明であるが、あるいは「干支引き」の意か。大波上の「アクマバライ」はエトンビキと内容がほぼ同じとはいえ、龍蛇退治の伝承地とは離れている。別所・今田・布敷・上根・岸谷はいずれも旧池内村に属し、池内川の流域に点在する集落である。しかし、エトンビキの民俗は池姫神社の龍蛇伝承とは直接関係があるわけではない。むしろ、八朔のタノミの節供の行事であり、全国各地にみられる藁綱の民俗である。大波上と山一つへだてた大浦半島の東海岸に位置する、福井県大飯郡高浜町日引では、毎年九月一日に気比神社の境内で八朔綱引きを行う。尾には青い稲穂を綯いこむこととされており、稲作の収穫祭の要素が認められる。エトンビキやアクマバライの藁蛇には、まるでジュゼッベ・アルチンボルドの二重映像のように野菜を用いて目や牙を形象することから、これらは稲作ばかりではなく畑作の収穫儀礼としても位置づけられよう。
 藁蛇が各家を訪れて災厄を払ってくれるとする民俗は、小正月の来訪神行事に対応しており、いずれも子供組の行事となっていることから、通過儀礼の側面を有している。
 エトンビキが池姫神社の龍蛇伝承とは直接関係がないとはいえ、大波上のアクマバライにしても、岡安の池ケ首や上佐波賀の蛇島の伝説が身近にあり、古来龍蛇と人間の神話的な関係が集合的無意識下に埋めこまれて、今日まで伝承行事が継承されてきたと私は考えている。藁蛇が最後には荒神や山の神の森へ奉納されるのも、龍蛇と森神の相関関係を象徴していよう。
 大波上のアクマバライを先導する二本のシメナワは、注連縄の起源が雌雄の蛇の交合の形象化にあることを指摘した吉野裕子の説を補強する事例であろう。環境考古学の安田喜憲は『蛇と十字架』のなかで「私はそのお話を聞いて脳天を打ち割られる気がした。そして長い間抱いていた謎が一気に解けたのである。『しめ縄は交合している雄と雌の蛇』という、この吉野先生の教えが、私に創造への情念の炎をはげしく燃え上がらせたのである」とのべている。
 以前、山里の田んぼで蛇の交尾する様子を、たまたま垣間見たことがあった。蛇をクチナワとも言うが、まさしく雌雄の蛇がひとすじの縄を綯うように、植えたばかりの早苗の間を、しなやかに水面をすべるようにネッキングしながら交尾をする様は、しばらく見とれるほど美しい情景であった。もっともその代償として、「蛇の交尾を盗み見た者は三年以内に死ぬ」という、タブーを侵したものへの天罰が用意されているのだが。
 もう一点、舞鶴市における藁蛇の民俗について指摘しておこう。池内水系のエントンビキであれ大波上のアクマバライであれ、八朔という本来は農耕儀礼を主とした行事でありながら、厄払いの要素も加味されており、とりわけ女性(性)への可虐的な行為が注目される。トウガラシを無理やりなめさせて男性に服従させるという男性原理の儀礼は、たぶんに性的な遊戯性もあって行事を熱狂させたと考えられるが、根底にはやはり女性をけがれた存在とする習俗の負性がひそんでいよう。大波上のアクマバライでは、ヒイラギをさしたシメナワを女性の下半身に当てて「アクマ」を払う所作にゲカレ観がよくあらわれている。








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