丹後の古墳③-網野銚子山古墳
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 網野銚子山古墳(網野町網野小字宮家)丹後最大の古墳古墳の概要 網野集落東南の小高い丘の先端にあり、全長二〇一メートルと推定される丹後地方最大、京都府下最大、日本海側最大の前方後円墳。国指定史跡。 丹後三大古墳と呼ばれ、古代丹後の隆盛を物語る前方後円墳である 後円部は巾径一一五メートル、高さ約一六メートル。前方部幅約七〇メートルで前方部が北北東に面している。全体を三段に築き、一部分は一段低い畑地となっており、南東側には周濠があった。墳丘は三段に築成され斜面には葺石があり、各段平坦部と墳頂部に埴輪が並ぶ。四世紀後半~五世紀初頭の築成と推定されている。 崇神天皇の代に四道将軍として丹波地方に遣わされた丹波道主命の陵とか、また開化天皇の皇子日子坐王の陵との伝承をもつ(竹野郡誌)。 昭和60-61年、範囲確認調査(三宅遺跡第2次•3次調査)実施。墳丘基底部の葺石とテラス上の埴輪列が見っかり、墳丘テラスに巡る円筒埴輪はすべて口がすぼまった形である丹後型円筒埴輪である可能性が高いこと、墳丘の少なくとも南東半分には濠がめぐっていたことがわかった。 後円部背後の小銚子塚は陪塚と考えられ、ともに国の史跡に指定されている。 前方部前面の寛平法皇塚古墳も銚子山古墳の陪塚と考えられ、円墳で径一〇メートル、長さ二二メートル。竪穴式石室で墳丘の上に祠がある。「丹哥府志」は寛平法皇が諸国を巡遊した折、網野村で死亡したので火葬して京都に送り神霊をここに祀ったとの伝えを載せ、すでに当時塚の一部が崩れ、石櫃の角がみえていたこと、その後玄室内がうかがえる状態となり、枕石・太刀・陶器・勾玉などの副葬品の存在が知れたことを記している。 こうした形の古墳を「前方後円墳」と呼ぶようになったのは、蒲生君平の『山稜志』(文化5 (1808) 年・江戸時代後期)からであった。それまでは民間では、その形を身近な器物になぞらえて、車塚(くるまづか)、銚子塚(ちようしづか)、茶臼山(ちやうすやま)、瓢簞山(ひようたんやま)、瓢塚(ひさごづか)、二子山(ふたごやま)などと呼びならわしてきた。後円部が埋葬部、前方部はそこへの表通路(参道・墓道)で、また祭礼儀式の場であったろうと思われる。 銚子は酒徳利のことであるが、銚子といっても時代によって、その呼び名が変わり、恐らく元々は、これ←であろうかと思われる。 これは今は甁子(ヘイシ・ヘイジ)と呼ぶようである。 こうした形の小形の酒徳利の古い呼び名が「銚子」であろうかと思われる。 『京丹後市の考古資料』 網野銚子山古墳(あみのちょうしやまこふん)
所在地:網野町網野小字宮家ほか 立地:福田川下流域右岸台地上 調査年次:1985、1986年(網野町教委)2007、2008年(京丹後市教委) 現状:完存(国指定史跡) 遺物保管:市教委ほか 文献:B033.B110.C003 遺構 網野銚子山古墳は、日本海を見下ろす台地上に築かれた墳長198m、後円部径115m、同高16m、前方部幅10mを測る前方後円墳である。古墳の後円部側と前方部側には、それぞれ陪塚と考えられる小銚子古墳と寛平法皇陵古墳があり、両墳とも国史跡に指定されている。 墳丘は三段築成で、墳頂部の径36mの平坦面と二つのテラス上には埴輪列が並んでいるほか、墳丘斜面はすべて葺石に覆われている。葺石に使われた石材は、福田川河口付近の海岸から運ばれたものである。墳丘の北西側はすぐ自然の崖面になっているが、南東側には最大幅25mを測る周溝がめぐっている。古墳の範囲確認などの調査は行っておらず詳細は不明である。 また2007年から史跡整備に向けた資料を得るための発掘調査を実施しており、後円部東側と西側では、葺石の構造が大きく異なっていることが判明している。 遺物 出土遺物は、墳丘に樹立された円筒埴輪のみである。埴輪はいずれも頂部が内湾して丸く立ち上がり中央に円形の穴を開ける「丹後型円筒埴輪」と呼ばれるものである。 一段目のテラスに樹立された埴輪は約25㎝間隔で並んでおり、これから類推すると墳丘上には約2000本の埴輪が樹立していることになる。これらの埴輪は、底部が30㎝前後でヨコハケ主体の外面調整、交互に穿たれた長方形の透し穴、高い突帯など統一的で規格性の強い埴輪といえる。これらの埴輪に中には、龍のような図柄や弓矢を線刻したものも見られる。 意義 網野銚子山古墳は4世紀後葉に築造されたもので、神明山古墳と蛭子山古墳とともに丹後三大古墳といわれ、古代丹後の隆盛を物語る前方後円墳である。丹後では弥生時代後期および古墳時代前期後半にとりわけ有力な墳墓遺跡が展開しており、「丹後王国」とも言われる力を持った勢力が存在していたと考えられている。三大古墳はその象徴である。また、畿内の巨大古墳の佐紀陵山古墳(奈良市)と同一の設計企画で築造されているという見方があり、中央政権と丹後勢力との政治的関係を強く示唆する存在でもある。 『丹後国竹野郡誌』 銚子山 字網野小字大将軍にあり、一大車塚にして、附近に小銚子と称する円墳の陪塚あり
(伝説其一)崇神天皇の御代四遁将軍として丹波地方に遣はされたる、丹波道主命の御陵なり (大日本史)略 (伝説其二)開化天皇の皇子日子坐王の御陵なり (古事記)略 按、日子坐王は開化天皇の皇子にして崇神天皇の御代当地方の凶賊を伐も平げたまひたること古事記に見え、御子丹波道主命は四道将軍として、当地方に下りたまひたり、車塚の規模の大なるより位置の勝を占めたるより、開化天皇の妃竹野比売の御出生地たる、竹野郡に在るより考へ、御二方の内何れかの御陵たるは疑ふべからず、而かも御陵所在地の字名に大将軍、地主、上人、勅使谷、宮等のあるは参考とするに足る その後の発掘調査 現地説明会の資料によれば、 墳丘裾部分が後世に大きく削平を受け、正確な全長や外部を覆う葺石等の状況、さらに古墳を取り巻く周溝の構造がよくわからなかったが、 平成27年度からの調査でも数々誨査を行ったが、開堅等で削平が地中深くまで及んでおり、明確な構造をつかむまでにいかなかった。 その後の追加調査。 前方部側面の裾部を確認した。斜面に本来貼り付けられていたはずの葺石は失われていたが、盛土で構成された墳丘裾の立ち上りはおおむね残っているとみられる。過去の調査を含め、前方部墳丘側面の裾部を確認できたのは初めてのこと。 陸橋(渡り土手)と考えられる高まりを確認。地山を削り出して作りだされたもので、貼石等はなく、わずかに遺存している状態で、古墳への出入り口の一つがここにあったものと見られる。 後世の削平により本来の角度は失われていたが、標高21.3m付近で地山削り出しによる墳丘立ち上がり部分とみられる傾科を確認。中央部分に葺石の一番下に葺かれる基底石の可能性のある礫を2ヶ所で確認、共に標高21.3m付近。また、二の礫を挾むように小礫が一列に並ぶように検出された。以上から、前方部の側面裾の位置がつかめたこと、前面に至るコーナー部に陸橋が取りりくことが判明、前方部前端の位置については確定的ではないものの、基底石の可能性のある場所を確認できた。 前方部前面墳丘の調査 これまでの調査で前方部の墳丘裾は大きく削平を受けていることが判明している。墳丘裾の位置の確認が困難なことから、補足として段築テラス及び墳丘斜面のデータを得るために調査をした。 ○調査の結果、一部に葺石の残った斜面2ヶ所、テラス部分2ヶ所を確認た。 ○斜面の葺石は上段、中段とも上半部分は遺存していないが、下半では良好に遺存していた。中段斜面では、大ぷりの葺石が斜め方向に葺かれている状態が確認でき、区画列石と見られる。 ○上段斜面から中断斜面に至るテラス(2段目テラス)では葺石にかぶさるように新たな石組が組まれており後世になんらかの土地利用があったことを伺わせる。そのためか埴輪列・礫敷などテラスに伴う外表施設は全く失われていた。 以上から、前方部前端部の段築テラス面の位置・高さが判明した。テラス高さは1段目テラスで標高26.0m付近、2段目テラスで標高28.6m付近となり、1段目テラスから2段目テラスに至る中段斜面の傾斜角度は27度を測る。 前方部墳丘くびれ都付近の調査 ○斜面中央付近で、埴輪底部が据え付けられた状態を保った可能性の高い埴輪片が見つかる。2段目テラスに設置された埴輪列の一部と見られる。 ○墳丘斜面は上段斜面・中段斜面共に葺石は遺存していないが、上段斜面の基底石の可能性がある葺石が1点だけ遺存していた。 以上から、この地点での前方部側面2段目テラスの位置がおおむね判明し、高さが標高25.8m付近であるこ二とがわかる。 調査結果のまとめ (1)前方部南~東側で裾部の残存部分を初めて確認。これにより、前方部側面の位置がほぽ確定できた。 (2)また、前方部東側は、陸橋があったと推定される。 (3)前方部墳丘斜面と段築テラス面を確認し、墳丘傾斜角度、テラス位置、高さを確定できた。 (4)以上の結果と平成28年度に確認した後円部先端部の位置から、網野銚子山古墳の墳丘長は、約201mであるものと推定される。 発掘調査の結果、今残っている形ではなく、元は前方部が少し開いた形であり、その開き方から、蛭子山古墳より後の、神明山古墳よりは古い時期に築造されたものと思われる。この時期が古代丹後の最盛期であったであろう。 松原村、福田村について 福田は福田川に名残を留めている。 『丹後町史(昭51)』 大陸との交通について、この時代の異国人の来航が竹野郡誌のせられている。史料(三代実録)清和天皇の八六三年(貞観五)十一月十七日に細羅(さいら)国(新羅のこと)の国人五十四名が竹野松原村に到来している。
そのわけをたずねたが言葉が通じない。また文字で話合いをしようと思ってもそれも解せなかった。その長頭、屎鳥舎(しちょうしゃ)が漢書で答えて言うには「新羅の東方の別の島細羅の国人である」ことだけが分った。松原村は今の網野とされている。又同じ資料の中に陽成天皇八七九年(元慶三)三月十三日異国船一艘長さ六丈(約二〇m)広さ一丈五尺の船が漂着し、竹野郡に保管きれたとあるが、殆んど破損していたというから難波船であろう。又(日本紀略)醍醐天皇の九二九年(延長七)十二月渤海国(九二九年契丹に滅ぼされた)の使者が竹野郡大津浜に来着して九三〇年(延長八)正月に丹後の国から、渤海の客到来の旨を言上している。時の左人臣が丹後にきて、これをどう取扱うかについて召否の有無を取りきめたとあるが、九十三名という多い客人に驚いたことであろう。客舶修造料などを若狭但馬とも結審〔とりしらべる)の上、客をもてなしている。渤海の国というのは七世紀から十世紀初めまで、満州東南部にあった国である。大津浜は間人であったとされている。いずれにしても丹後の国は日本海をへだて、大陸との交通の一拠点になっていたことがわかる。 三宅遺蹟と林遺跡 『網野町誌』 林遺跡と三宅遺跡
平安時代の遺跡としては、網野の林遺跡と連続する三宅遺跡と長蓮寺遺跡、小浜の城山遺跡、島津の横枕遺跡などがある。このうち、発掘調査が行われた林遺跡と三宅遺跡からは平安時代の遺構や遺物が多数発見されている。住居跡そのものはみつかっていないが、集落跡であることは確実で、その当時ここに生活していた人々が使用していた土器や磁器などが出土している。土器は黒色土器と呼ばれ、水漏れを防ぐために椀の内側を煤によって黒色化し、器としての機能を高めたものである。この黒色土器は、椀のほかに小皿もあるが、いずれも日常使われた食器であり、当時の人々の生活がしのばれる遺物である。最近の研究によると黒色土器の年代は一一世紀前半(平安時代後期)から一三世紀初頭(鎌倉時代前期)の間と考えられており、この遺跡は長期にわたって営まれていたことがわかる。 また、中国製の白磁もかなりの量が出土しており、当時貴重品であった中国製磁器がみられることは、平安時代の文献にしばしばあらわれる大陸との交流を物語るものであろう。 このほか林遺跡からは、中世の各種の遺構も発見されている。遺体を納めた穴の上に石を積み上げ真ん中に石塔を立てて回りに石を積み上げた墳墓や集落をめぐる排水路と考えられる大溝、共同で使ったであろう井戸など、当時の生活をうかがうことのできるものである。 さて、この林遺跡のある低丘陵一帯は、銚子山古墳を中心にして式内社網野神社の元宮や浦島太郎の屋敷跡伝承地などがあり、網野発祥の地という言い伝えがあるところである。林遺跡に続く三宅遺跡の「三宅」は奈良時代の荘園管理施設と推定され、奈良・平安時代に東大寺の封戸であった可能性が強い。林遺跡発掘調査報告書によれば、丹後地方の海岸に近い集落遺跡の消長は砂丘の生成と因果関係にあることが多く、弥生時代中期に海岸の低地にあった遺跡が、海岸沿いに新しい砂丘が形成されたため後背湿地となり放棄されたと考えられる網野町松ケ崎遺跡の例や、弥生時代前期と古墳時代後期~中世まで集落が断続する久美浜町函石浜遺跡や、丹後町竹野遺跡などの例がそうである。この林遺跡の消長も海岸砂丘の生成との因果関係が考えられる。縄文時代から弥生時代前期までやや低地にあった集落が、新しい海岸砂丘の発達により、後背湿地化して、住みにくくなったため、弥生時代中期以後、周辺の台地や丘陵に集落が移動した。このため林道跡・三宅遺跡などの立地の集落が成立した。その後の長い年月の間に低地部の沖積化が進み、中世になると生活が可能となったため、再び集落が移動して、現在の網野町の前身ができたと考えられる。このことは、今回の調査結果、中世以後の集落の痕跡がなく、中世の包含層の上に○・六メートル以上の新砂丘の堆積がみられることや、網野神社の所蔵する享徳元年(一四五二)の棟札に、「網野神社の旧社地は園の宮山にあったが、砂に埋もれるため同年に、現在地に移ったとあることからも実証される」とあり、網野の村の推移がわかる。 『京丹後市の考古資料』 林遺跡(はやしいせき)
所在地:網野町網野小字園 立地:福田川下流域右岸台地上 時代:弥生時代後期~鎌倉時代 調査年次:1971、1976年(網野町教委) 現状:全壊(畑地) 遺物保管:市教委 文献:附B005、B027 遣構 林遺跡は、網野銚子山古墳の北東に広がる丘陵地帯に位胃する。1974年の土砂採取中に、石塔を持つ中世墓が発見され、その後、1976年のほ場整備に伴い本格的な発掘調査が行われた。その結果、竪穴住居跡では、弥生時代後期のものが2棟、終末期のものが1棟、古墳時代前期のものが2棟検出されたほか、中世の配石遺構、溝、井戸などが検出された。しかし平安時代の遺物に伴う遺構は、確認できなかった。これらの遺構からは、それぞれの時代の多数の土器(弥生式器、土師器、須恵器、黒色土器、輸入陶磁器、陶器、土錘)や若干の石器、鉄器のほか、各所から埴輪片も出土している。 遣物 弥生時代後期の住居跡から出とした大量の土器は、第Ⅴ様式に比定されるものであり、壺、甕、台付鉢、高杯、器台がある。このほか、わずかではあるが鉄器片や砥石、扁平石斧も出土している。また、古墳時代の住居跡から出土した土師器は布留式土器であり、壺、甕、高杯、器台がある。以上のほか包含層からも多くの遺物が出土しており、弥土器、土師器や須恵器といった土器のほか、砥石、大型石錘、敲石といった石器類もある。平安時代から中世にかけての遺構や包含層からは、黒色土器をはじめ土師器、須恵器、瓦器、白磁、青磁、緑紬陶器、陶器土錘などの土器類、刀子、釘、鎌、銅銭などの金属器、砥石などの石器類が出土している。 意義 林遺跡は網野銚子山古墳と同じ台地上に立地し、古墳築造以前から営まれた集落遺跡であるとともに、中世まで断続して営まれた複合遺跡である。また、遺跡の南西方向に広がる三宅遺跡や北東に位置する大将軍遺跡からは、林遺跡と同じ時期の遺構や遺物が見られることから、これらは連続する大集落遺跡とみて間違いない。天平勝宝4年(752年)の正倉院文書にある「丹後国九十戸 竹野郡網野郷」はこの林遺跡一帯であると考えられ、網野郷の消長の一端が発掘調査で確認された意義は大きい。また丹後地域における黒色土器研究の端緒となったことや鎌倉時代の集落の様相の一端を明らかにすることができた意義は大きい。 銚子山古墳がある所は、海面から20メートルほど高い岡の上である。ここに福田村があったという。網野神社の元宮がここにあったというし、浦島太郎の屋敷跡というものもある。網野の元村があったであろうかと思われる岡である。 この地形はどこか日吉ヶ丘や寺岡、途中ヶ丘、扇谷などと似ていて、弥生の大きな村落があったのでなかろうかの想像が湧いてくる。ここには弥生期の環濠集落があったのでなかろうか。方形の弥生墓が埋もれてはいまいか。 寛平法皇陵古墳出土の石棺の図が『宮津府志』にある。切山古墳の石棺に似ていてドキっとする、中仕切りがあって、石枕があって、切山石棺よりは長細いように描かれている。石板の厚さは切山とほぼ同じで、中仕切りを入れて7枚で作られた組合式石棺でなかろうかと思われる。(府志の図では刳抜式のように見える、もしかすると刳抜式家型石棺か、それなら銚子山古墳より新しい)。組合式なら、 切山より古形の石棺でなかろうか。もしそうならば、銚子山古墳の陪塚でなく、丹後最古の古墳になろうか。石室があったのなら後期であろうから、こちらと見ても陪塚ではない。円筒埴輪も知られていない、どう見ても陪塚でなさそうに思われる。 大将軍遺跡 離湖古墳と大王の石棺 音の玉手箱
乾杯の歌 Libiamo ne' lieti calici(La Traviata:道を踏み外した女) |
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