伝統的郷土芸能⑤
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 獅子神楽『舞鶴市史(各説編)』 獅子舞い 伊勢神楽の系統を引く「獅子舞い」は、中世、伊勢神宮に奉仕した御師の家に伝わった神楽芸で、獅子の頭をかぶり、いかなる悪魔も被うという「祓え」の信仰が芸能化したもので、永い歴史のなかでいろいろな信仰が入り、徐々に全国的に流布したという。
これらの芸能が市内に流入してきた経路や、定着した時代は、これからの史料発掘によって次第に明らかにされるであろう。 『宮津市史(史料編5)』 神楽
神楽の分布 丹後、とくに与謝郡一帯には多くの地区で神楽が伝承されている。神楽とよばれる芸能は、巫女が舞う巫女神楽、神話を演じる神代神楽、伊勢信仰にかかわる伊勢太神楽などいろいろあるが、丹後に分布するのは伊勢太神楽系の獅子神楽であり、いずれも氏神の祭礼芸能として行われている。表Bは、宮津市域におけるその伝承地を一覧したものである。 よく知られているように、伊勢太神楽は伊勢のお祓いと称し、獅子頭を奉じて国々を巡り、獅子を舞わせた芸能集団である。由良では現在も毎秋まわって来るものがおり、家々を訪れ竈祓いをしてお祓い料を頂き、新築祝いその他で祝儀がでたときには、その庭先や社寺の境内などで特別に芸能を上演する。扮装は白装束が基本で、太鼓・小太鼓・笛・銅拍子の囃子で獅子舞を演じるが、御幣をかざし鈴を振り、刀で切り払い天地四方を祓い清めるといった式舞に続いて、獅子舞を見せ、ついで曲芸(放下芸)に移り、その高度な芸で人々を喜ばせる。 祭礼に行われる市内の神楽は、その式舞を中心に学びとったものである。基本曲は「カマドキヨメ」に、「鈴の舞」「幣の舞」「剣の舞」といった祈祷の神楽舞一~二曲、それに「乱の舞」などの獅子舞一曲を加えたものであり、太鼓・小太鼓(締め太鼓)各一と笛の囃子でそれを舞う。太鼓・小太鼓は荷長持に付けられおり、そこには祠がまつられている。この荷長持はもともとは担い歩いたもので、祠や獅子頭のほか所用具一式を収納する箱も兼ねていた。 神前でこれを演じるときには、まず始めに頭役が尾持ちを従え、右手に鈴左手に御幣を持ち、鈴を振りつつ優美に四方を舞い巡る 「鈴の舞」や、同じ姿で刀で切り払いつつ四方を舞い清める「剣の舞」などの神楽舞を舞い、最後に「乱の舞」などの獅子舞を舞うのが一般的な形態である。獅子舞らしくなるのは「乱の舞」などに限られ、「乱の舞」では頭役と尻役の二人が共にユタンをかぶり獅子舞を演じるが、その演技にはノミトリとかシラミトリと呼ばれる獅子らしい振りがつく。天狗面の獅子あやしが出てササラを摺って舞わせたりするのもこれらの曲で、祈祷の舞に対する余興の曲となっているのである。 一方「カマドキヨメ」は、神楽の舞の簡略形で、宵宮の日などに忌服の家を除く家々を一軒づつ清めてまわる専用曲である。 この神楽は、講的な仲間組織で行うところもあったが、多くの場合は村の青年組織が担当していた。年齢的な秩序のもとに義務として伝承されてきたわけであり、落山神楽などにその典型がみられる。それだげ過疎による影響も深刻で、後継者不足や高齢化のため休止に追い込まれるところが多くなっている。 神楽の歴史 神楽がいつどのようにして村々に定着したか、個々については明らかではない。民俗の常で史料を欠くからだが、幸にも落山や喜多(七・八区=南太神楽組)にその始まりを語る史料が残されている。 神楽の代表的な伝承である落山のそれは、文化十五年(一八一八)に伊勢太神楽がら学ひとり、資金を募って道具をそろへ、氏神の祭礼芸能としたものである。除禍招福の願いと芸能性あふれる太神楽の魅力がその動機であったと考えられる。それは喜多でも同様であろうが、喜多の神楽はそれより早く、安永三年(一七七四)に導入された。その史料「条々」(荻野家文書)によると、神楽は「諸願成就御祈祷」の目的で「若者講中」が企てたものである。愛宕神社の祭礼芸能として建立しようとしたが、新規では藩が許可しないということで「再建」の名目で、「掛銭其の外御信心の御志を以て取組み成就」にこぎつげ、上・下若者講中の申し合せでこの条々を定めたとある。同年六月に着手し七月二十二日までに完了し「祭礼賑々敷相勤申し候」ともみえるから、それ以前から実際は取り組まれてきたように思われる。寄進目録も残り、その寄銀は計一七七匁三分五厘、入用銀は計一八一匁五分七厘であった。「竈清メ」の他に曲名など芸能の詳細が記されないのは残念だが、現在の奉納曲「切払い」「鈴の舞」「乱」はこのときに導入されたものに違いあるまい。 このように、丹後では十八世紀後半から太神楽の祭礼芸能化が始まった。その後の沿革は明らかでないが、喜多や落山に息づいたこの神楽が近在に次第に流布し、多くの伝承がいまに残ることになったのである。ちなみに落山では、井室(伊根町)、与謝(加悦町)の神楽は落山から教えたものと言い伝えており、宮津祭りに雇われたこともあった。 板列(稲荷)神社(岩滝)-岩滝神楽 岩滝獅子神楽の由来と伝承、神楽組の歴史
岩滝神楽は、文政年間(1820年頃)に伊勢本流十二社中の一社である弥作太夫という人に伝えられたとされています。 昭和四十三年の岩滝町史談会の調査で、板列神社御輿倉に保存されている神楽道具の荷箱の裏に、文政十二年(1829年)峯山中町松葉屋甚兵ヱと墨書きされているのが見つかり、この頃が岩滝神楽の創始年代ではないかとされています。 この松葉屋甚兵ヱという人は、当時宮大工で、男山八幡神社のむね礼等にも名が残り、現在も峰山にその家系が残っています。また、当時の荷箱は、昭和三十四年頃迄使用されていたそうです。 弥作太夫は、岩滝村で生涯を送り、岩滝神楽の祖として称名寺裏の墓地に葬られ、昭和二年の丹後大震災迄は、当時の人々に供養されていたといわれています。この時代の遺物として、獅子頭一個、鈴一個、宮太鼓一個が残っており、この太鼓の胴の内側には、天保十三年(1842年)辰川守新町太鼓屋右衛と記されています。現在、丹後郷土資料館に保存されている嘉永五年(1852年)の大祭入用帳によると「定 一、七月十四日夜、若連中忽寄合い相談の上、十五日四丁之世話人相談申御役員へ願出可申候事 一、大祭入用割は、神楽連中には相掛り申間敷候事」とあり、これにより神楽連中の存在が確認されました。文久三年(1863年)八月の大祭入用帳にも、嘉永年間のものと概ね同じ記録が残されています。 時も明治に入ると、孫七という人が神楽連中を束ね、若者を指導したそうです。 明治七年に板列稲荷神社が創建され、板列稲荷神社礼祭での奉納となりました。 明治十八年に「鈴の舞」が奉納され、この時に作った鈴箱のふたの箱書きによると、「此代金八拾銭也、世話人大工定治良、此代金五銭也、神楽連中安全平造、市五郎、友造、作平、辨ヱ門」等と記されています。 この時代の人々により岩滝神楽の名声も大いに上がり、各地から伝承の希望が来るようになりました。明治二十年には弓木村へ伝承され、天野重吉、宮崎泰二、山添源治、堀口重ヱ門の各氏により弓木神楽組が組織されました。 明治三十八年頃には金屋村、後野村、温江村、須津村、香河村、中郡新宮村、中郡鳥取村等へ伝承されていきました。 明治後期から大正にかけ、糸井庄造氏が代表となり若者を指導しましたがその後、昭和二年の丹後大震災により一時中断されました。 しかし昭和五年には復活し、昭和七年に黒田信次、蒲田篤治郎、糸井栄吉、松本勝二の各氏により、三河内に伝承されました。 その後は青年団が中心となって行事を行うようになり多くの若者達が習い受けましたが、大東亜戦争により戦死したり、戦後、他町へ転出したりと岩滝神楽を伝承する人材が不足し、昭和二十三年には存続の危機でしたが、後の昭和二十四年、糸井栄吉、蒲田篤治郎、松本勝二、山本宣太郎の各氏によって神楽組が組織され、活動が復活しました。 その後の活動として、昭和三十八年には、宮津小学校にて開催された丹後民謡大会に出演しました。しかし神楽組も十人まで減って再び後継者不足となり、何とか文化遺産として価値を高めて活動協力を求める為、山本宣太郎氏が尽力し、町の文化財保護委員会に資料を出して、昭和四十三年に岩滝町から無形文化財に指定されました。 昭和四十九年に丹後地方の文化財関係の集まりが京都府庁であり、岩滝町史談会員でもあった会長、蒲田篤治郎氏と副会長、倉昭一氏が京都府の文化財保護課長に岩滝神楽への府からの補助と、中央での芸能出演を要請しました。府からは、岩滝神楽に関する資料の提出を求められ、この年に岩滝町史談会は、史談会報に岩滝神楽の由来と伝承という小文を発表しました。 また同年八月に京都府から調査に来られ、町より教育委員、文化財保護委員、神楽組より山本宣太郎、倉昭一両氏が出席し、ここにおいて正式名称を「岩滝獅子神楽」と決定されました。 昭和五十年三月には、京都府主催のふるさと芸能祭りに出演しました。 昭和五十一年に岩滝連合区において岩滝獅子神楽保存会(山添寛二郎会長)が組織されましたが、諸般の事情により保存会としてほとんど活動できない状態でした。 昭和五十三年に獅子頭を新調し、役場前御旅所奉納で全ての舞を奉納し、当時の京都映像による「岩滝獅子神楽」保存用ビデオ撮りを行いました。 昭和五十五年になり、岩滝獅子神楽保存会だけでは維持、継承が困難ということで岩滝連合区、各区において小学生の子ども神楽が組織され、屋台、子供頭、天狗面等一式が揃えられました。尺八の都山流奏者でもあった蒲田篤治郎氏が何とか子ども神楽で継承して行けるよう、尺八の譜面で保存用の囃子の楽譜を作成しました。 昭和五十五年~昭和五十七年に保存会が岩滝連合区の各区を指導しました。 昭和五十七年の祭礼前、東町会館において三河内の神楽衆を指導し、三河内神楽衆は、その模様をビデオに納め持ち帰りました。このビデオは現在も東町岩滝大神楽保存会の練習で使用されています。 昭和五十八年十月十五日には、宮津会館で開催された京都府北部芸能祭に出演しました。翌十月十六日、京都府推薦で京都市山科区笠原寺法要に招かれ出演しました。 以上が、岩滝連合区の中の立町区、浜町区、藪ノ後区、東町区の各区へ継承されるまでの記録に残る由来と伝承、神楽組の歴史です。 平成二十三年四月 東町岩滝大神楽保存会 資料提供 倉 昭一 元岩滝町史談会会員 旧岩滝獅子神楽保存会会員 もっと古そうな獅子神楽が見られる祭礼 籠神社の葵祭 尾張獅子-伊根町菅野の上山神社 太鼓太鼓-地頭太鼓・大俣太鼓 浮き太鼓 屋台芸屋台芸-子供歌舞伎(与謝野町後野・愛宕神社) 舞鶴市朝代神社 浄瑠璃人形浄瑠璃 『舞鶴市史(各説編)』 瀬崎に区有として残り、最近市に移管された浄瑠璃人形の「かしら」数十首は、近世の太棹三味線と「浄瑠璃語り」を伴った人形芝居から、その後義太夫節と一緒になって使われた淡路人形の「かしら」である。
この地への伝来等については、よるべき史料がないため一切不明であるが、その衣装には若狭、丹波の染め木綿が多いので両地方との交流がうかがえる。明治初年のころまで農閑期の娯楽として興行されていたことが東・西両域の辺地の古老達から伝えられている。 『舞鶴市史』(通史編上) 平成三年九月来現在、京都府に有形民俗文化財として登録されたものに市域の瀬崎人形浄瑠璃用具がある。これは、江戸時代末から明治初めにかけて村落社会に浸透した人形浄瑠璃盛行時の様相を如実に示す数少ない民俗資料として貴重とされているもので、用具は首・手・足、衣裳など一八五点で、このうち首が四〇個を占めている。その中には、天狗久と並ぶ阿波の名人形師、人形忠(一八四二~一九一二)(清水忠三郎)や明治初期に阿波で活動し、のち大阪文楽座の座付人形師に迎えられた大江順(大江順楽)の製作にかかる首が見られる(写真254)。
こうした用具は、田辺城下から遠く離れた僻辺の地である瀬崎村の若中(青年団)によって伝承されたといわれる人形浄瑠璃に使用されたもので、近代に入り急速に衰退し盛時の面影を用具だけに残して姿を消した珍らしい遺例であるといわれている。 『和知町誌』 浄瑠璃
浄瑠璃愛好の気風も、村芝居とその根を一にする。これは村芝居が村中の特定の芸能集団、浄瑠璃は奥和知に特に行われる。ともに郷土色豊かな遊芸の形と言える。奥和知と俗に呼ばれる旧上和知の村域に特にその傾向が強かった。このあたりは冬季の積雪期間も長く、交通も不便という生活の条件も手伝って、長い冬の夜すさびの形で、いつのころからか浄瑠璃が広まったものらしい。浄瑠璃の発展期はほぼ一八世紀初期以降で、上方に勃興・発展したものが丹波地方にも波及したと思われる。 (注)近松門左衛門・竹田出雲・竹本義太夫などといった人たちが歌舞伎や浄瑠璃の作者として盛んに活躍したのが、大体一六〇〇年代の後半から一七〇〇年代の前半(元禄末期から享保を経て宝磨年間)にはぽ集中している。それらの京・大坂の上方文化が、徐々に丹波あたりへも浸透してきた点がまず考えられる。既述の『日本九峰修行日記』の著者野田泉光院が、丹波福知山在の長安寺(現福知山市奥野辺)で宿を取ったところ、あいにく雨降りとなり近所の若者たちが集まってきて、「浄瑠璃本の素読を予に習わる、所々文句の知れざる所あり講釈を聞かる、在方と云ふものは面白きこと多し、昼飯馳走あり」と日記に書きとどめている。文化十一年(一八一四)秋のことである。いわゆる町民文化がこんな形で村々へ浸透しつつあった一つの例証と言えよう。 それに加えて、ほかの所(医事の項)でも触れるように、一八〇〇年代の初め(文化年間)あたりからは全国的に交通事情も急速に好転し、都市と田舎の往来が頻繁になっていくにつれて、実業や仕事の面だけでなく遊芸や文学の世界でもその伝播を早めてきたことが大きく影響していよう。「俳諧」の項でも取り上げたように、このころになると京都辺の俳諧宗匠と和知の俳人ともつながりが生まれている点にその傾向がうかがえる。参考までに、そのころから紙の生産量が飛躍的に増えてきたことも庶民文化の広がりに照応するようである。 紙は従来、宮廷や上流階級に主として用いられたが、江戸時代にはわずかながらそれ以下でも使用され出したと思われる。町内史料の上で見ても、京都や藩の役人への礼物や付け届けの品物にはいつも「杉原(紙)何々」と記録されていることでも、その間の事情の見当がつく。ところが、元文元年(一七三六)の資料によると、大坂市場での紙の取引量(金額換算して)が代銀六八五四貫とり、米の代銀八六三七貫や木材の代銀六九五五貫とほぼ肩を並べるまでになった(阪本太郎著『日本史』)。従来上・中流階級の専有物であった「紙の文化」が大衆化していく時代に向かい始めたのである。 現在、「和知人形浄瑠璃」として伝承されている民俗芸能も、正確な記録を欠くが、ほぼこのころから芸能集団としての形成を取り始めたと言い伝えられる。従来旧家に伝蔵されていた浄瑠璃本が、敗戦後多く転用・散逸され、残存するものは管見ながら現在、野間長八家(升谷)に残る稽古本は書き本(木版印刷でなく毛筆書のもの)で「神霊矢口の渡し」「宗五郎の子別れ」の二冊がある。同じく升谷の野間幸雄家の五冊の浄瑠璃本の芸題は次の通りである。 〇菅原伝授手習鑑(手習児屋の段) 〇絵本大功記(尼ケ崎の段) 〇鎌倉三代記(三浦別れの段) 〇日吉丸稚児桜(三段目) 〇花曇佐倉曙(宗五郎子別れ) この稽古本は大正十三(一九二四)~一五年、および昭和二年(一九二七)の書き込みがある。 以上のほか、和知人形浄瑠璃に現在も上演される演目は、次のようなものである。 〇艶姿女舞衣(三勝半七酒屋の段) 〇生写朝顔咄(宿屋の段) 〇御所桜堀川夜討(弁慶上使の段) 〇奥州安達ケ原(袖萩祭文の段) 〇義経千本桜(寿司屋の段) 〇傾城阿波ノ鳴門(巡礼内の段) 〇壷坂霊験記(沢市内の段・山の段) 〇伽羅先代穐(政岡忠義の段) 以上わずかな資料ながら、限られた地域において浄瑠璃が稽古され、上演されたことをうかがうことができる。 和知人形浄瑠璃 その伝承・経過 現在、「和知人形浄瑠璃」と呼ばれ、昭和六十年(一九八五)五月に京都府指定無形文化財となったこの民俗芸能は、それ以前は「和知文楽」と長い間呼ばれてきた。さらに明治・大正までさかのぼると「大迫人形」と称した時代もあった。そしてこの呼称の変化はそのまま芸能それ自体の今日までの発展の経過を示している。 元来、江戸時代の農山漁村は娯楽に乏しく、特に積雪地帯では農閑期には無聊に苦しむことが多かった。和知もそうした地域の一つであった。そうした中で和知の地に人形浄瑠璃がどのようにして根を下ろしたか、確かなことはあまり知られていない。伝承によると、江戸時代の末ごろ大迫村では農閑期には有志が集まり、粗末なものながら人形回しを楽しむ風習があった。きわめて素朴な作りであるが、当時使ったとされる人形の首も五個が保存されており、往時をしのばせる。 丹波・丹後の各地で見られる民間芸能の勃興同様、大迫の人々の手すさびがこの芸能の発生を促したのであろう。その時期は明確でないが、文化・文政期の年紀のある浄瑠璃本の伝存などから考えて、一九世紀初頭にはかなり一般化していたと考えられる。 初期のこうした人形浄瑠璃が同好の域を脱して芸団が構成されたのは明治初期と伝えられるが、本格的な活動に入った時期は日露戦争の終わったころからで、大正に入ってさらに活発化する。大阪文楽で修業したこともある堀伊織(三味線。船井郡日吉町佐々江出身で結婚して大迫に在住。昭和十二年没)が活動に参加するようになったのもこの時期である。 明治二十年(一八八七)前後には京都府下だけでも各地にあった人形浄瑠璃は二七座を数えたと言われるが、それらの多くが衰退をたどる中で、所々の人形の首なども譲り受け大迫人形は次第に発展した。 昭和に入って、さらに芸域の向上を図るため大阪文楽から吉田辰五郎・桐竹亀三らを招いて指導を受け(十一年)、十二年には舞鶴から多数のかしらも買い求めた。こうして次第に整備された首は現在六十余個、その中には名匠天狗屋久吾作の首も三〇個に達する。芸能の充実とともに次第にその名を知られるようになり、各地への出演も増え「和知文楽」と呼ばれるようになった。この時期、大田房吉・大田久吉・堀幸治郎らがその中心であった。 そして戦後に入るとさらに飛躍的な発展期を迎える。社会が娯楽文化隆盛の時期を迎えたことと、安積治郎(綾部市在住、品川製材㈱和知営業所長を長く務めた)が昭和二十七年からその活動に加わったことなどがその大きな理由である。安積は昭和二十九年から浄瑠璃指導のため「響声会」を組織して後継者育成に取り組む一方、積極的に公演にも参加した。当時の町外公演の足跡は府下一円は言うまでもなく、遠く但馬(兵庫県)・播磨(兵庫県)・若狭(福井県)にまで及ぶ盛況で、出演回数も昭和三十年代に早くも四〇〇回を超えた。堀仲雄・大田石之助・榎川数之助・陸田京村らが人形の中心であった(安積は民俗芸能振興の業績が認められ昭和五十九年度京都府文化功労賞を受彰した)。また、昭和三十七年には町長堀格太郎の主唱によって「和知民芸保存会」が結成され、人形浄瑠璃・和知太鼓・文七踊りの振興推進の体制が整えられた。 和知文楽は昭和五十四年に和知町指定文化財に、六十年には京都府指定無形民俗文化財となったのを機会に、名称も「和知人形浄瑠璃」と改め、初代会長に西村敏夫(元町教育長。日本顕彰会および文化財保蓄基金表彰)が就任、二代目は藤井儀平、現在は大田喜好(三代)が会長を務める。 和知人形浄瑠璃の特徴 最も大きな特徴は、基本的な人形操作を一人(一曲のうちのある部分は二~三人で操る場合もあるが)で行うという点である。人形の首も淡路型と呼ばれる種類で大ぶりのため、人形を操るのには相当の体力を必要とする。また、一人遣いのため、芸に制約が生じることもある。 上演に当たって、「義太夫」「三味線」「人形」の三業一体の形で進められるのは他の人形の場合と同様である。 現在、上演のできる演目は次のようなものである。 ・絵本太功記 (尼ケ崎の段) ・艶姿女舞衣 (三勝半七酒屋の段) ・傾城阿波ノ鳴門 (順礼歌の段) ・伽羅先代萩 (御殿場の段) ・生写朝顔咄 (宿屋の段) ・壷坂霊験記 (内の段・山の段) ・菅原伝授手習鑑 (寺小屋の段) ▽鎌倉三代記 (三浦別れの段) ▽御所桜堀川夜討 (弁慶上使の段) ▽新版歌祭文 (野崎村の段) (注) ▽印は近来あまり上演していないもの なお、新作として安積三響作「長老越節義之誉」があるが上演時間が長く、あまり公演されていない。 (付記) (1)研修場兼町内公演向けとして、民俗芸能伝承施設「大倉文化センター」(大倉)が昭和六十年に完成した。 (2)第三回および第四回、第五回(平成五、六、七年秋)全国人形サミットが淡路で催され、和知人形浄瑠璃も出演し好評を博した。 音の玉手箱
Schubert-Moments musicaux No.3 |
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