丹後の地名プラス

そら知らなんだ

由良川の舟運
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -36-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

由良川舟運


由良川は高低差の少ない、たいへんゆるやかな川である。川幅が広く、ゆるやかということで、洪水の原因にもなるが、水運に適しているという面もある。物を運ぶということだけでなく、人を文化を運んできた。
『由良川改修史』(建設省の発行、上手にまとめられている。筆者は土木系の技術官僚でないかと想像するが、歴史学者も舌を巻くような立派なものである。)
由良川の舟運
 由良川は、その流域とする奥丹波の文化、経済等の発展の動脈として、古代より近世まで重要な役割を果してきた。すなわち大陸方面からわが国に移って来た民族ないし文化は、古代一般に行なわれたように、主として河川に沿って内地に入って来たものと思われるからである。
 その文化が丹後方面から伝わったか、或いは瀬戸内海沿岸から加古川を遡って、竹田川を通じたものかは明らかでないが、由良川が重要な経路であったことは疑えないところである。
 ことに由良川筋に有路・在田・荒河・荒倉・有岡等のいわゆる韓国系の地名の外に、河岸沿いに常津・天津・高津等の港を意味する地名も極めて多いことも一考すべきであろうと、芦田完先生は述べられている。
 奈良・平安時代、由良川が丹後・丹波の交通運輸の幹線であったことは想像できるが、由良川の舟運が綾部、福知山地方の社会的、経済的に大きく活躍するのは、江戸時代に入ってからである。河口、由良港を舟継場として由良川流域の物資は馬関(下関)大阪、さらには奥羽、北海道へ送られるようになり、由良川の舟運は一層活溌になったとされている。
 貝原益軒(16 2 9~1 7 1 4)は西北紀行に次のように書いている。
  「……蒐原村を過、千束に至る。日既に薄暮なれば、爰に宿りぬ、(中略) 廿七日の朝つとめて宿を出ぬ、今日もまた雨降る、生野村名所なり、民家多し、大江山いく野の道のと、詠めるは、此所の事也、岩崎、長田名所なり、福知山に着く、山上に城あり、城下、町ひろからず、朽木伊予守殿居城也、大川其東北に流る。川舟多し、是より舟にのりて丹後の由良に下るといふ」
 福知山城下絵図をみると。現在の音無瀬橋附近は、由良川の代表的な舟着場であったが、明治年間の度々の洪水災害、或いは昭和2年丹後震災時の復旧として、石積三面張の特殊堤(岩沢堤)が築造されたが、その跡形はのこされていない。
 由良川の舟運は、丹波・丹後に鉄道開発が進むと共にその姿を消していった。

活発に利用され記録にも残るようになるのは主に江戸後期になってからである、

高瀬舟


由良川舟運に使われた高瀬舟↑
北有路にある「大雲の里」は、旧平野家で、由良川舟運などで財を成した豪商家である。

主に有路から上流で使われていた、吃水の浅い、平底のボート。
『大江町誌』
高瀬船
 有路高瀬船の大きさは、船役文書の記事ではわからぬが、長さ八間(一六メートル)、幅一間半(二・五メートル)で、積載量、上り荷約六〇〇〆、下り荷約一二〇〇〆との報告がある。(「大江町風土記」)積載量から判断する資料としては、油粕の積荷数が協定されており、それによると、「油粕一箇十四〆~十五〆のもの、壱艘に五拾箇積」というから七〇〇〆から七五〇〆くらいの積荷と判断される。
 また明治元年公庄村で待望の新造船を作ったが、これは高瀬に準じたらしく、「長さ七間、積高拾五石(約七〇〇〆)」(「庄屋記録」)とあって、高瀬船の「登穀物拾六石積、木綿八拾本積」にほぼ見合うものである。

『由良川考古学散歩』
高瀬舟
 かつて、由良川を何十隻もの高瀬舟が往来し、川沿いの村には船大工がいて船を造っていたようである。最近でも、洪水時の連絡や緊急避難用に高瀬舟が公民館などに備えられている。
 昭和六十年(一九八五)頃までは、福知山市川北で高瀬舟が造られていたが、今は船大工の方が亡くなられ、新たに高瀬船が造られることはない。
 高瀬舟は、平底で喫水の浅い船である。川底の浅い川で利用するために工夫された船で、固定式の舵はなく、棹で操作していた。櫓で漕いだり、帆を利用することもあったが、特に上りには縄をかけて引っばる必要があった。
 由良川中流域で使われていたものは、二十石船で、おおよそ幅二・五メー・トル、長さ十六メートル、積荷は上り六百貫(約二・二トン)、下り千二百貫(四・四トン)であった。船頭一人と水夫二人程度が乗り組んでいたようである。
 明治の写真や絵画に福知山近辺で帆を備えた船の姿が確認できるが、高瀬舟は船そのものの記録がほとんど無く、帆をどの程度利用していたものか定かではない。



『由良川子ども風土記』
さけののぼった由良川
  大江町・有仁小学校    荒本 泉
 …当時は、この由良川を通っている舟便に、高瀬舟というのがあった。横はば二・五メートルで、割方大きかったんやないかと思う。
 それから、この高瀬の半分位の半高瀬があった。これは、多分、由良⇄福知山まで行き来するような、遠々と続く長いきょりでなく、大部近きょりの輸送をやっていたのではないかと思う。だがら、高瀬を十二そう持っていた有路だけが由良⇄福知山まで行き来しても良いというような条文を持っていたのだろう。
 動いていた荷物は、由良から福知山の場合は、塩、石、油かす等で、これは福知山になく、しかも生活に必要な物だったのだろう。
 逆に福知山から由良の場合は、米、人、麦、着物、桐の実、はぜの実、うるし等だった。これは、米や麦は当然必要やけど、その他の物は必要な物というよりは生活に便利な物なので、舞鶴や由良にも、着物、桐の実、はぜの実、うるし等はあったんやないかと思う。もしもあったとしたら、それだけ福知山のほうは質が良かったのだろう。
 又、その他にもいろいろな点て高瀬舟は重要な役割をはたしていたのだろう。それは、一つは、今書いたように物と物の交流で、もう一つは人と人の交流で、急ぎの旅とか、見回りの役人、年貢の取り立て等で、特に上の身分の者にとっては絶対に必要だったのだろう。それか福知山と、舞鶴、由良等の交流はほとんど舟だったか、住む場所も決められ動けなかったので、なかなか今のように簡単に行き来して理解するというようなことは、領地の点でもできなかったのだろう。この高瀬のことで大騒動が起こったことがある。それは、
一、たで原が、高瀬を動かしたいと申し出た。
二、それで、たで原が由良へ行くとき、有路で止められてしまった。
三、おこったたで原が、有路の舟が由良川を上るときに止めたで原の大勢の人が周りをとり巻いてしまった。
四、そこで、それぞれ天領、有路、由良の代表が江戸へと向かった。
五、いろいろと調べた結果、たで原には、正式に届けてある舟が一そうもないという事で、これまでどうりに有路が動かすことになった。
 これは、オレンジ輸入自由化とか、牛肉の輸入ワク拡大に反対する今の農民にたいへんよく似ている。少し保守的な感じもするが、その有路、今の農民は、自分の生活がかかっているので、絶対に反対しなければ、どうにもならなかったのだろう。
 また、福知山の戸田という所が、新しい舟を造った時、有路の人がこわしてしまったという話も残っている。さすがに昔は、荒っぽかったんやなあと思うけれども、そうまでしなければ生きていけないような、生存競争がはげしい時代もあって、苦労して生きてこれたなあと思う。
 昔、舟改めというのがあって、荷物を確認するのが仕事だったという。
 その頃は、千原、有路、舞鶴の舟番所の順に、関所を通ってやっとその荷物が自由にできたという。ぼくは、この手間だけでもたいへんなもので、一日や二日は舟が動かせないということもあったんやないかと思う。
 最後に下りは、流してくれるでどうにでもなるけど、上りはいざとなったら、川岸に舟ひき道というのがあり、舟につなをつけて両方から引っ張るのだから、ものすごい重労働だっただろう。これを専門の職とした人もあったけど、そんな人は、貧しくて仕方なしにやったのだろう。そうでなければ、あんなえらい仕事をすすんでやる人は、なかっただろう。
 それから、大水等で舟ひき道がつぶれたら、直さなければいけない規則があったらしい。けれど、何の関係もない部落では、規則だけで、荒れ放題になっていたかもしれない。
 高瀬舟は話には聞いていたけれど、今日の事で詳しくわかった。
 今、舟戸という地名が大江町のあちこちに残っているということは、舟の停留所があった意味で、この当時の舟便を知る手がかりだと思った。

『由良川考古学散歩』
由良川の船運
 由良川は、中下流域が非常に緩やかで、洪水の原因ともなっているが、船運を行う上では有利な条件となっている。ただ、中流域では川底が浅く喫水の浅い小型の船(平底、高瀬舟)しか利用できない制約はあった。
 上りの場合、有路のあたりまでは、由良・神崎の比較的大型の船が遡上可能であった。二箇河原で有路の小型船に荷を積み替えて福知山を目指すことになる。
 もちろん動力は無く、櫓や棹を使い操船し、特に上りは引き綱をかけて引っ張る必要があった。そのため、川岸には船曵き道が設けられていた。
 福知由~由良間は四十五キロあり、所要日数は、下り一日、上り二日(有路か三河で一泊)。高瀬舟の大きさは、およそ二十~二十五石積み、長さ八間(十六メートル)幅一間半(二・五メートル)、積荷は上り六百貫(約二・二トン)、下り千二百貫(四・四トン)であった。
 船で運ばれた荷物は、上り下りで生活に必要な物資が補完する様な内容となっている。
□上り荷
米穀、大豆、塩、酒、しょうゆ、そうめん、干魚、身欠鰊、菜種、油粕、薪、材木、縄蓆、コモ、鉄、石、石炭
□下り荷
米、麦、大豆、芋、百合根、こんにゃく玉、茶、煙草、綿、柿、桐実、漆実、楮、木付子、竹、柴、材木、板、生蝋、桐油、桐粕、嶋木綿、炭

 水運が経済活動に大きな比重を占める江戸後期には、船運の運賃が重要な財源として、藩の収入源として組み込まれるようになる。組織的に整備され、自然発生的に行われていた各村・港による独自の運行は規制され、特定の村・港が特権的に運行を行うこととなった。具体的には、福知山城下から由良までの間の航行が自由に行えていたものが、藩の境界までに制限されるようになる。
 由良川河口部の由良・神崎の湊、中下流の接点に当たる有路は、田辺藩の領地であり、田辺藩の統制化に置かれていた。
 由良・神崎の船は有路までの航行に限られ、有路(弐ヶ村河原)で有路船に荷を積み替える、有路船は福知山で福知山船に荷を積み替える、福知山船によって大嶋まで荷が運ばれる。ただ、塩船に限っては、由良神崎船が直接、福知山まで遡上してもよいとされていた。こうして、藩内の船運を保護し、収入源を確保したのである。
 もちろん、他藩の船は河口部付近から上流への遡上は禁止され、由良・神崎で荷を地元の船に積み替える必要があった。
 この他、有路に残されていた船役文書には、船曳道を勝手に造ってばならない事、田畑を荒らしたり樹本を切ってはならない事、洪水などで船道が荒れたら修復する事、などが定められていた。


レーピンの「ボルガの船曳き」、由良川の船曳きの絵画がないので、参考までに
『大江町誌』
急流には船曳道がある。舟に繋いだ綱を船乗りや大夫がひき上る川べりの小道のことである。こういう苦労をしても通船できればよいが、洪水後など堆砂、堆石のため、通行し難くなった時は、復旧の「普請其元よりなされたい」同時に「川除として植えた薮や柳等はいっさい伐取らぬこと」など規定して輸送路維持に努めた。
 川沿いの村々には、昔川船が寄留したという伝承と、それにちなむ特有の地名が残されている。浸蝕や堆砂、改修等によって現況はその面影も留めぬ所もあるが、昔は積込みの構築物もあったという古老の証言もある。
例・弐ケ下や阿良須の米積場、(今コメツンバと発音)弐ケ下など大迫古墳の蓋石を運んで足場を造ったという。
 ・三河、南有路、蓼原、千原はいずれも船戸という地名を残す。これらの地点は聚落を通りぬけて、後方
の村への通路を持つ点が共通している。三河→内宮、南有路→物部、蓼原→小谷・二俣谷、千原→尾藤谷
 ・ききとり調査によると、「渡し場」という地名が残っているのは、夏間、在田、公庄、弐ヶ、三河などである。これらは渡船による人や物の運搬があった例証であるが、より広く川港の機能を果たしたものか否か、今はっきりしない。
 これら川港のうち、南有路村は特に丹波方面への積換え中継地であり、由良-福知山間の溯航二日行程の
休泊地であったため、船宿の地として賑ったとの報告がある。
ききこみ調査によって昔宿屋をした二軒が解かったが、船宿のキメ手は得られていない。旧フナト屋の土間には、常に大量の由良塩を積んでいたため、昭和五十七年の今日も当井戸の水に塩分がある(谷口健一談)という。

河口の由良湊は西廻り航路と内陸水運の接点として栄えた。由良~福知山間には20石積の高瀬船が上下し、上り荷は由良塩・西塩などの塩、酒、油粕、干肴、材木、薪、由良石などの丹後の特産物が多く、下り荷は米、ころび(桐実)、こんにゃく玉、漆実、はぜ実、つるし柿、苧綿などの農産物が多かった。
福知山藩は、福知山より下流の船は福知山までとし、 福知山の船は、そこから先の綾部市の大島堰まで上ることができることや、「船持定法」として船番所、舟継場に関すること、洪水・減水の際の通船は「年番」で決定することなど、さまざまの通船に関する規則を定めた。
また宮津藩主の参勤交代、大江町の皇大神社・豊受大神社に参詣する「元伊勢参り」などにも利用された。
近世には、大坂や京の商人も由良川に商業用の通船を計画し、京都町奉行や綾部藩などに願い出ているが、いずれも実現しなかった。これらの計画の中には、由良川支流の竹田川と加古川上流とを結びつけ、瀬戸内海と日本海を舟運で結ぼうとした案もあった。類似の計画は明治以後においても存在したが、やはり実現していない。舟運そのものは明治期にもなお盛んであり、明治32年には福知山~舞鶴・宮津間に由良川丸・阪鶴丸の蒸気船も就航した。
しかし明治32年の国鉄舞鶴線の開通によって汽船の運航は廃止された。さらに大正12年の由良川沿いの北丹鉄道の開通などにより、大正末期には由良川水運はほとんど消滅した。

『由良川考古学散歩』
本州横断の大水路
 本州で最も低い分水嶺として、由良川と加古川を結ぶ分水嶺は知られており、古代から日本海と瀬戸内・京阪神を結ぶ重要なルートとして利用されてきた。
 慶長十一年(一六〇六)角倉了以によって大堰川の通船路が開かれ、大堰川・淀川を通じ京都・大阪と丹波を結ぶ物資輸送路が確保された。
 一方、海路が開かれたとはいえ、大きく本州を迂回し、天候にも左右されることは避けられず、最短で日本海側と京都・大阪を結び安全かつ大量・安価に物資を運べる輸送路が求められた。そこで本州で最も低い分水嶺を抱える丹波の地は、由良川や加古川など舟運の発達とともに、日本海と京都・大阪を結ぶ船運による物資の大量輸送が企てられた。
 日本海と瀬戸内を結ぶ遠大な計画である。実現すればどの様になっていたものであろうか。
 また計画には、いずれも商人層が関わっている。新たな事業を開拓しようとする姿には、活発になった経済活動と力を蓄えた商人層の実力を見ることができる。
 由良川~大堰川間の計画では、丹波国黒瀬村(現丹波町)まで船道を新たに整備し、船井郡殿田村(現日吉町)まで陸送し、殿田から嵯峨まで再び船を用いるというものであった。
 由良川では、大嶋から上には井堰が設けられており、農業用水の不要となる八月~二月の間、井堰をはずして船を通そうとするものであった。また上流域は流れも急で岩礁により船道の確保は困難であった。一部で実際に開削を行ったようであるが、計画が実現することは無かった。



北丹鉄道の廃線跡↑
由良川舟運の後継手段となろうとしたものか、国鉄の西舞鶴-宮津線と結ぶ計画だったが、渡河地点が由良になったため断念し、河守から先がない盲腸鉄道となった。昭和46年運行休止。

現在の宮福線↓











 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

  Besame Mucho

父君と三姉妹という。どこかのマチあたりでも、これくらいの音楽レベルに達する家族が続々と生まれる日が、もしかしたら訪れるのを待とう。
(325) Princesses of Violin: Bésame Mucho - YouTube
(325) André Rieu - Bésame Mucho - YouTube
(330) 张韶涵《Besame Mucho+Despacito》- 个人精华《歌手2018》第4期 Singer2018【歌手官方频道】 - YouTube
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