そら知らなんだ

爾保(にほ)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -8-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ

帰化人と渡来人
志楽と阿良須
真倉と十倉
笶原神社
九社神社と加佐(笠)
枯木浦と九景浦
女布
爾保崎
丹生
三宅
日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
元伊勢内宮と元伊勢外宮
丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説





『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

爾保崎


今は匂崎(におがさき・においがさき)(匂崎公園、匂ケ崎集会所)とか二尾(にお)(バス停の名)、二尾ノ奥(小字名)、仁尾(郵便ポストの所在地表記)と言うが、本来は爾保崎(にほざき)と呼ばれていた。

ニホ(ニオ)という地名は、ありそうなものと思うが、丹後丹波では意外にも当地しかない。京都府下では宇治市の宇治川の上流に二尾(にお)の字があるだけ。
今はニオは当公園の周辺だけを指す地名だが、残欠は十二月栗神社(長浜に鎮座)も爾保崎にあったような記述がされていて、爾保崎に含まれた地は五老岳の北から西の麓を広く呼んだ地名だったかも知れない。
『舞鶴の民話2』に、
京大の水産研究所のある当りは、むかし長浜といって、いくらかの家があり漁業、農業を営む人があった。そのむかしこのあたりを爾保といっていた。
また匂崎遺跡という60㎝もある銅鐸二個の出土地でもある。
今は海面が埋め立てられて舞鶴国際埠頭が作られている。海軍基地用地に大事な海岸線を多くとられ、その跡地は今は海自や米軍も使っているよう。
当公園も陸軍の演習砲台があった場所だが、戦後市に払い下げられたものである。

舞鶴国際埠頭(最初は和田埠頭と呼んでいた)↑コロナの影響?いつも船の姿はない。

『丹哥府志』に、
◎和田村
【赤土】(名産)
赤土に四種の名品あり、一は赤なり、一は紅なり、一は薄紅なり、一は茶色なり、皆壁にぬる極て佳なり

興味尽きない古地名だが、『丹生の研究』(昭和45)は当地に触れていない、地元史界の文献には、丹哥府志と小牧進三氏以外には何もない、松田博士は何度も舞鶴を訪れておられるが、地元ガイドの力不足が見てとれて、爾保崎は誰も案内する者もいなかったのであろうか、爾保崎の資料分析をしてくれたことであろうに、惜しいことである。今の観光ガイドさんたちもこれを「他山の石」として、広く世界に目をひろげ、歴史科学の最先端を見据えてド性根入れてがんばられよ。大事なチャンスを逃さぬように…
当地の水銀分析値があれば地名の意味が確定できたであろうに、何も今頃ワタシが取り上げるまでもなかったのだが、しかし今となればしかたなし手探りしてみよう。

『丹後風土記残欠』
爾保崎。爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ潮水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チにほ鳥忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。(以下五行虫食)
にほ鳥の「にほ」は原文では、辟+鳥の一字、或いは辟+鳥、イ+虎+鳥の二字になっている。ニホと読んでいるようである。(にお)鳥のことで、今でいうカイツブリのことである。
舞鶴湾内の静かな入江にはカモなどがいることがある、中にはカイツブリ(鳰)もいるのかも知れないが、海鳥でないから、海はニガテなのか、だいたいは川の河口近く、群れることない単独行動派、潜水能力高い肉食系、定着しているものも渡ってくるものもある、それは秋に渡ってきて、桜咲く頃には姿を消すという。夏羽、冬羽に生え代わる。鳰の脂肪は、刀のさび止めに使われたという。
「潮水」は残欠の版によっては「湖水」としている、淡水のことであろうが、舞鶴湾は言うまでもないが海水である。どちらが本来の記述か不明だが、「湖水」「鳰」は当地には不適当な表現で、どこかにあった文章をそのまま引いたものかも知れない。
そうしたこともあって、鳰湖(におのあわうみ)(迩本杼理能淡海、にほとりのあわうみ、琵琶湖のこと)とか、鳰鳥の息長川…(万葉集。鳰鳥は息長に掛かる枕詞)とかを思い浮かべて、当地のニホは琵琶湖、近江や息長氏と関係があるのでないか。
日子坐(ひこいます)王は開化天皇の子だが、母は、記は「丸邇(わに)臣の祖、日子国意祁都(ひこくにおけつ)命の妹、意祁都比売(おけつひめ)命」、紀では「和珥臣の遠祖姥津(ははつ)命の妹姥津(ははつ)媛」としている、対岸の和邇(わに)氏とも関係がありそうと、まずは推測して考えていくこととしてみよう。
建部(たてべ)山、額田部(ぬかたべ)喜多(きた)の旧名)が湾を中に西側にあるが、これらの氏族はいろいろあるが、近江系、息長系にも見られて、あるいは当地ニホと関係あるのかも知れない。
爾保は先に取り上げた女布、売布系とは、発音は区別できないほどに似ているが、それとはまた違う開発主体があったのではなかろうか。


「和名抄」の近江国野洲郡迩保(邇保)郷。訓はないが、「有南北(在南北)」とあり、南北にかなり広い郷であったと思われる。
『丹生の研究』
現在,郡境を超えて近江八幡市に編入され,市の西端部に孤立している十王町は,国鉄東海道線の篠原駅から北に,日野川(郡史にいう蒲生川)を渡って水田地帯を行くこと2km半に位する。町の北はずれの江頭には日吉神社があって“長命寺船道”の標石を留めている。これによっても,また江頭という地名から推しても,郡史がいうように往古この地点が湖に臨んでいたことは明白であるのに,現在の湖岸線はさらに2km以上の北にある。そのように,もとは日野川(蒲生川)河尻の三角洲に所在したこの土地も,地情の転変がはげしく,かつ周辺が悉く水田化されているために,往古の表土は求めがたい。私は昭和39年11月2日にここを訪れてみたものの,茫然として空しく手を組むばかりであった。思いなおして私は,日野川の上流にむかって直距離6kmを距てている鏡山(385m)に着眼し,その南裾の入町および出町から鏡の部落にかけて調査を進めてみた。これは成功であった。花崗岩から成る鏡山の山肌には,水銀鉱染の土壌が点々と露頭していた。また花崗岩が水銀ガスのために腐敗してカオリン化した部分も顕著であって,手に入れた試料からは実に0.0027%の水銀が検出されたのである。なおこの鏡山は,その東裾の山面(やまづら)および西裾の小篠原からそれぞれ銅鐸が発見され(「野洲郡史」上巻p.47),古代文化の一中心がこの一画にあったことを告げている。思うに,この鏡山の朱砂が日野川の水に運ばれて河尻に堆積するのを,採取していた一群の民があって,その住地を邇保と呼び,のちにそれが仁保と書かれたのであろう。しかも往古の邇保郷がいかに広大であったかは,「倭名抄」にこの郷に“南北あり”とし,邇保南郷と邇保北郷が存在したと告げていることから推測できるであろう。

日野川は下流を仁保川と呼び、同川に架かる「仁保橋」近くの十王町(近江八幡市)は、御上神社まで8㎞ほど、辻村や穴村はそれより少し先、野洲市の銅鐸博物館まで5㎞、鏡山(額田王の里ともされる)まで6㎞、建部大社までは18㎞ほど、対岸の和邇までも同じくらいの息長氏の地である。このあたりが邇保郷であった。


そのほかのニホ、ニオ地名
意外と少なくて、松田寿男氏の研究などによると、というかこの書しかないが…
福岡県飯塚市仁保
遠賀川の中流。松田博士も訪れていなく、資料なし、詳細不明。

山口市仁保町
周防国吉敷郡多寶・爾宝郷(山口県山口市仁保上郷・中郷・下郷)
仁保川とか仁保小学校がある。
『丹生の研究』
仁保は地名として周防・安芸・備前と近江とに見出される。別に周防には仁保谷(山口県都濃郡鹿野町)がある。なかでも周防から備前にかけて所在する3つの仁保は,瀬戸内海の北岸にほとんど一直線を描き,この海の南岸を東西に走る中央構造線(メディアン=ライン)と平行し,その線上に多くの朱産地を散布するという,まことに注目すべき在り方をもっている。
仁保線の最西地点である周防のものは,山口県吉敷郡大内町に属する旧の仁保村である。山口市から国鉄山口線で北に7.5kmを距てた仁保(にほ)駅がそれを表示する。駅の西約1kmに仁保路の名があるが,仁保郷の主体は反対に駅から東2kmの仁保川のほとりにひろがっている。駅から東に,ゆるい坂を下っていくと,まもなく仁保市という集落がある。そこからさらに進んで,高野部落をのせた丘陵地を横切ると,仁保川の本流に出会う。この地点を仁保中郷とし,河上を仁保上郷,河下を仁保下郷と呼びならわし,河に沿って上流に5km,下流に4kmの地域にわたっている。私は昭和37年12月8日にこの村を訪れる機会をえたものの,村域はかくも広く,かつ河畔や平地の水田では地表の観察に望みをかけられないために,かなり苦労したが,ようやく高野部落の人家をまばらに散らす前記の丘陵面で水銀の鉱染を認めることができた。それは水銀0.0004%を含み,仁保の名がそこから起っていることを首肯させた。


広島県広島市南区仁保
猿猴川の下流、昔は海でなかったのかと思えるような所。
『丹生の研究』
さて中間の安芸の仁保は,実に広島の市中にある。広島市の東南角が海につき入るところに,たった一つ三角の頭を高々と掲げている山がある。これを黄金山(212m)といい,この山を主とする一画を仁保(にお)町とする。この一画は江戸時代の中期まで海中にあって,仁保島と称されたが,昭和38年10月28日に私が訪れたときには,この黄金山は第2の変貌を余儀なくされつつあった。それは山頂にテレビ塔が建てられるとかで,新しいドライヴ・ウエーが造られつつあり,山肌は散々につき崩されていた。この土木工事が私に幸して,私は山体を構成する地相を余すところなく目に入れることができた。そして6合目から8合目にかけて絶好の試料を採ったが,それには0.0014%の水銀が含まれていたのである。仁保という島名,ないし町名が,この種の土壌から起ったことは,まったく明瞭ではないか。しかも黄金山の北裾にまとわる本浦の部落には,その北はずれに山を西に負って,木立に包まれた邇保姫神社が鎮まる。仁保と邇保とが共通であったことが判明するが,同時にこの女神がニフヅヒメ(にうづひめ)であることも明白である。この種の朱砂姫信仰については後文で改めて詳考したい。

岡山県赤磐市上仁保・下仁保
『丹生の研究』
第3の備前の仁保は,岡山県赤磐郡山陽町の仁保(にぼ)である。私は広島の仁保島を調査した足を数日後にはこの地点に向け,昭和38年11月1日に県立瀬戸高校の横山甫教諭と瀬戸町の土井澄夫氏の協力をえた。国鉄山陽本線の瀬戸駅から西北に,下市を経て約7kmの地区であった。瀬戸の町なみから砂川に沿い,船廻(せんまわり)と呼ばれる関門を北にぬけると,砂川が開いた盆地が湖床のたたずまいを見せて展がる。この一帯はいま山陽町といわれ,旧山陽道がこれを東北から西南にかけて貫いているが,そこには両宮古墳や西山古墳,さては朱を用いた土器が沼の底から発見されたので有名な南池などの重要遺跡があり,国分寺と国分尼寺の址もその西南隅に指摘される。古代の吉備にとって,なかなか重要な一画であったにちがいない。仁保とは,この盆地の西北辺の山添いを占める地名であって,上仁保・下仁保・西仁保などの部落に分れている。私たちは上仁保からだらだら登りに上地山(318m)にとりついて,地蔵院(真言宗)の周辺をさぐり,さらに北側の東殿妨山(202m)の東裾にまわって斗有(とあり)にかけて踏査した。採取の試料は水銀含有0.0018%を示し,仁保の名が丹土に因んでいることを明かにした。なお仁保から正北に,砂川について12km奥に進むと仁堀という土地がある。また仁保と反対の,東側の山添いには二井(にい)という部落もある。仁掘とは,“に”すなわち丹土を採掘することから生まれた地名であり,二井は朱砂を採る竪穴からの命名であろう。それは,横山甫氏が私のために二井附近から採取された試料が0.00312%の水銀含有を教えてくれたからである。“仁”と“二”は共通であり,広島市が例をもつように,また“邇”とも書かれ,すべて丹を意味することが,このようにしてはじめて腑に落ちたのである。

兵庫県南あわじ市福良丙に「仁尾」というバス停がある。
『丹生の研究』
仁尾と称する地点は,淡路・讃岐・土佐などに見出される。仁は丹(に)であるが,このばあい尾の字になにか特別な意味があるかに受取られよう。しかし,しばしば説いたように日本の古地名を解く原則は“始めにコトバありき”であるから,この名称もまた,丹尾と同様にニホ(にお)を漢字で表記したもの,つまり仁保の異字と認めねばならない。
 淡路の仁尾(兵庫県三原都南淡町福良の西)が一に鳰(にほ)と書かれたのは,その証拠であって,この鳰は前記の近江の仁保のばあいと同様に,雅字と考えられる。ところで,この淡路の仁尾の北に隣接して伊加利(いかり)がある。現在は三原郡西淡町の一部になっているが,もとは一村をなしていた。そして私の調査の足は,むしろこの地名に注目した結果として淡路島に向けられたのであったが,その理由は前章で論じたように,吉野出身のイカリ(井光)族による開発を考慮したからである。昭和38年8月3日に私はこの伊加利村で水銀0.0005%を含有する試料を得,ここで古代人が朱砂を採取していた可能性を確かめた。またこれによって,山南に位する仁尾,そしてそこから福良湾口に突出して現在国民休暇村に指定されている入島が,一連の鉱床群上にあり,ニホまたニフと呼ばれた古代の現実を裏切らないことを知った。なおこの入島については,豊後の大入島(おおにうじま,大分県佐伯市,後述)や駿河の入島(にうじま,静岡市,旧の安倍郡梅ケ島村)などを参考すべきであろう。


香川県三豊市仁尾町仁尾
『丹生の研究』
讃岐の仁尾(香川県三豊郡仁尾町)は,瀬戸内海の燧灘に臨む明媚な風光と塩田とで知られている。その塩田会社の社長塩田忠左衛門氏と県立観音寺高校の石川巌教諭との協力を受けて,私がこの町の内外をそれこそ余すところもなく調査できたのは,昭和39牢10月12日であったが,その結果この地区が表土においてさえ0.0007%の水銀を含有することを確認した。この町から隣接の観音寺市の母神山(水銀含有率0.0005%)にかけて古代人の重要な基地があったことを頭に描きあげてから,私は琴平に出,ここで土讃線の列車を捕えて土佐山田町に赴いたが,こんどはこの南国の町の附近に仁尾島および仁尾ケ内と呼ばれている地点を見出したのである。

高知県香美市土佐山田町 仁尾
『丹生の研究』
土佐山田町では,南国市に住む中田善水氏と町田守正町長に迎えられ,一方ならぬ援助を受けた。問題の仁尾島は,この町と物部川をはさみ,その対岸にあった。現在では河口から5kmを離れた河畔の小集落にすぎないが,往古は明かに物部川の三角洲上の一小島であって,それには,ちょうど前述の広島市仁保町がもと仁保島であったのとまったく同様な事情が考えられる。かつこの仁尾島も,安芸の仁保島と同じく朱砂の採堀に名を得ている。そのことは,土佐山田町の周辺に入野・仁井田・後入(ごにう,中後入・西後入・大後入に分れている)と呼ばれる諸地点が散在し,どれもそろって,それぞれ表土から水銀0.0007%が検出されたことで明白であろう。

舞鶴の爾保はこうした地からは飛び離れた日本海側にあるが、距離から見ても、三遠式銅鐸から見ても、やはり近江国野洲郡邇保郷と弥生時代から関係があるのではなかろうか。


舞鶴の今の爾保崎周辺(匂崎)には、関係するような神社も伝承もなく、どうした神を奉じた地であったのか不明になっている。
『丹後風土記残欠』
十二月栗神、祠無し。木を奉り神と称す。古老伝えて曰く、往昔、稚産霊神の植るところにして、歳毎の十二月朔日に、花生、二十日に至り実を結ぶ。正月元日に其実を取り、太神に奉る。今に至るも其例たがへず。蓋し是れ神験の奇乎。

これでは稚産霊神となっているが、版によっては稚彦霊神となっている。よく混同され同一視される、もしかして稚日女神なら爾保都比売命や丹生都比売命と同一神ともされる。これらの神々ははたして別神なのか同神なのか説は分かれる。だからもしかするとここに祀られているのかも知れない。

←十二月栗神社は今は長浜の高倉神社の境内にあるが、元は今の京大水産学部の正面東側にあったという。


高倉神社は、高倉八幡神社と呼ばれ(旧語集、丹哥府志)、観音寺神名帳の「正三位高鞍明神」であろうか、祭神は誉田別尊(八幡神)、天児屋根尊、菅原道真。長浜、和田、下安久、北吸、余部上、下六ヶ村の氏神、八月十五日祭という(加佐郡寺社町在旧起)。本来はあるいは応神の母親の息長帯比売(神功皇后)が祀られていたものかも知れない。さらに本来は爾保都比売であったかもと推測したくなる。

坂根正喜氏『心のふるさと丹後Ⅱ』より↑(高倉神社の正面)
氏子圏が広いから御輿巡幸も大変で、昔は泊まりがけだったそう。担ぎ手の多くはアルバイトに頼らねばならないとか。当社は元々は背後の山頂にあったという。十二月栗社は本殿の左側にある。
当社氏子圏がだいたいの爾保崎の範囲に重なるのではなかろうか。伊佐津川の川口から市役所あたりまで、今は中舞鶴と言っている一帯である。ひょっとすれば伊都国の流れも加わった息長氏系の地であったのかも知れない。


爾保都比売命と邇保姫命
爾保を冠した女神が知られている。
邇保姫(にほひめ)神社
『丹生の研究』
安芸の仁保島(広島市仁保町)に鎮座する邇保姫神社であろう。この神社に関する旧記は,現在ほとんど失われ,ようやく明治12年に当時の社掌渡辺伊穂理が書き留めたメモが保存されているだけである。それによると,社地は安芸国安芸郡仁保島皇后山と表示され,祭神は帯中津日子・品陀和気(応神天皇)・息長帯日売(神功皇后)の3柱で,正八幡宮とし,神功皇后が三韓征伐から帰陣の折に一夜泊りをされたのが縁起であると書かれている。祭神3柱のなかにこの神社の看板である邇保姫が欠けているのは,往古の脇役神功皇后が,後代に主役となった結果にほかならない。そのためにニウヅヒメは排除され,朱砂の女神の祠から二次的に八幡宮と化したことが知られる。しかも初次の主神の邇保姫と,この黄金山の旧称の皇后山とを結びつけて考えるならば,そこには「播磨風土記」に保存されたニウヅヒメとオキナガタラシヒメとの交渉のひとこまが,あまりにも明瞭に浮かびあがるではないか。またこの神社は黄金山の北の裾にあって,その部落を本浦と称しているが,この部落名から見て,この一画が旧仁保島の中心であったことは論を俟たない。その主邑にこの神社が鎮まることは,仁保にニウヅヒメ信仰が伴ったみごとな例であるとともに,「播磨風土記」に見える漢字表記のままのニウヅヒメ信仰が,丹生系のものとは別に流行した証拠となるであろう。
爆心地から4㎞と離れていない。この社も被爆したという。
邇保姫神社

爾保都比売(にほつひめ)
「播磨国風土記逸文」に、
爾保都比売命
播磨の国の風土記に曰はく、息長帯日女命、新羅の国を平けむと欲して下りましし時、衆神に祷ぎたまひぎ。爾の時、国堅めましし大神のみ子、爾保都比賣命、国造 石坂比売命に著きて、教へたまひしく、「好く我がみ前を治め奉らば、我ここに善き験を出して、ひひら木の八尋桙根底附かぬ国、越売の眉引きの国、玉匣かがやく国、苫枕宝ある国、白衾新羅の国を、丹浪以ちて平伏け賜ひなむ」と、此く教へ賜ひて、ここに赤土を出し賜ひき。其の土を天の逆梓に塗りて、神舟の艫舳に建て、又、御舟の裳と御軍の着衣とを染め、又、海水を攪き濁して、渡り賜ふ時、底潜く魚、及高飛ぶ鳥等も往き来ふことなく、み前に遮ふることなく、かくして、新羅を平伏け已訖くて、還り上りまして、乃ち其の神を紀伊の国管川の藤代の峯に鎮め奉りたまひき。


この話の地は今はどこになるのか。岩波本は明石郡と見ているが、赤い石なのでそう見たものなのだろうか。『丹生の研究』は、神戸市兵庫区山田町の丹生山(515m)あたりだとする、山頂に丹生神社がある。ここは元々は播磨国美嚢(みなぎ)郡であり、この逸文は美嚢郡のものだろうとする。今は兵庫県神戸市北区山田町坂本になるが、丹生山の表口は西側の志染(しじみ)側だという。志染と言えばオケヲケ伝承の地で、舞鶴とは関係ありそうな所になる、三木刃物の地で舞鶴あたりでも愛用する人がある。直線距離は近江国野洲郡邇保郷と同じくらいである。
丹生神社
オケヲケは多氏と関係がありそうで、多氏は息長氏とも古くは同族というから、息長帯比売命とも関係する地であるのかも知れない。爾保都比売の地だというから、元々は爾保といっていた地なのかも知れない。

『丹生の研究』
私は昭和37年11月2日に,この山頂で丹生神社への奉仕を長年続けている山下定吉翁に遇い,山頂一帯を調査し,試料を採るのに絶大な便宜をえたが,その試料は0.005%の水銀含有を告げ,丹生の名が事実に則したものであることを確認させた。
 丹生山の西北の裾は,前述したように昔の志染郷で,その東部は現在三木市の戸田であり,そこには入寺(にうじ)という部落がある。また丹生山の北裾の淡河(おおご)地区は,いま神戸市域に加わっているが,むかしは播磨国美嚢郡に属していた。そしてその西隣のもとの細川村(現・三木市域)には入野(いりの)の土地が見出される。

戸田の入寺で得た試料は0.0001%の,細川の入野でのそれは0.0003%の水銀含有を示した。したがって丹生山を主体とし,その南の山田川流域(山田村),その北側の淡河村,西側の志染村・細川村にかけての一帯を朱産地とし,これを「播磨風土記」美嚢郡の爾保都比売伝説の発祥地と見ることには充分の確信がもてた。つまりこの一画は本来は爾保都比売の形におけるニウヅヒメ信仰をもつ朱産地であったのである。

爾保都比売が国造のイワサカヒメの口を借りてオキナガタラシヒメ(神功皇后)に赤土(朱砂)の効用を説いた次第が語られている。その文中に,神名を爾保都比売と表記していることが,いまのばあいとくに注意を要するのである。それは,記録の古さや伝承の始原的な点を楯にとるわけではないが,このように表記された神名の原音こそ,朱砂の女神の本然の呼び名であったと考えられるからである。


神功皇后(息長帯比売命)は名のとおりに息長氏だが、
『丹生の研究』は、
神功皇后の伝説にはふしぎなほど朱砂がまとわりついている。それらは,おそらく息長族が朱砂の採取や処理に特技をもつ一族であり,それが国内の朱砂資源の開発にとって,かなり大きな働きをしたことを反映しているのではあるまいか。息長族は,天日鋒と同様に外来民族ではなかったかと疑われる(注1)。そして水銀文化の発達に外来民の一団が大きな力となったことも想像にかたくない。しかし,それ以上に想像を発展させることは,もはや私の領域外である。
注1)「延喜式」巻10,神名帳,豊前国田川郡3座の1に“辛国息長大姫大目命神社”がある。「三代実録」巻10,清和天皇貞観7年2月の条は“辛国息長比咩神”に作る。また「続日本後紀」巻6,仁明天皇承和4年12月の条は“辛国息長火姫大日命”とある。これらが神功皇后を指しているか,どうかは別の問題にして,ここではオキナガ大姫をカラの国出自と伝えている点に注目しておこう。
さすがに松田博士様である。早い時期の水銀には息長氏が関係していたとおもわれる、もっとも後にも息長丹生真人とか見られ、水銀開発と関係を持っていた氏族と思われる。

海部氏の祖という笠水彦命(西舞鶴の笠水神社の祭神)の父は倭宿禰だが、勘注系図の注文に、
倭宿禰命(三世孫)
亦名御蔭命、亦名天御蔭志楽別命、母伊加里姫命也、神日本磐余彦天皇【神武】御宇參赴、而獻從祖神傳來天津瑞神寶(息津鏡・邊津鏡是也)以奉仕矣(彌加宜社、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也)此命遷坐於大和國之時、娶白雲別神女豐水富命、生笠水彦命、(笠水訓宇介美都)

とあり、亦名を御蔭(みかげ)命といい、豊水富(とよみとみ)(伊加里姫)との間に笠水彦が生まれたという。御蔭といえば東舞鶴の弥加宜(みかげ)神社を思い浮かべるが、近江の三上氏の祖であり、この氏は息長氏である。だから爾保崎(中舞鶴)、行永(東舞鶴)だけでなく、西舞鶴の中心地あたりも息長氏であったのであろう。

播磨国風土記逸文には、のちにその爾保都比売命を舞鶴爾保崎に祀ったというハナシはないが、「其の神を紀伊の国管川の藤代の峯に鎮め奉りたまひき」と伝える。そこはどこになるのか。
『丹生の研究』
紀伊国の管川は…現在の和歌山県伊都郡高野町の筒香に相当し,その藤代の峰は「丹生大明神告門」にいう“川上の水分(原文は水方)の峰”であって,大和と紀伊との国境となっている。この部分が,鉱床学から見て水銀産地としての資格を具え,かつ大和・紀伊にわたるニウヅヒメ祭祀始原地と認められる…紀和国境の山こそは,大和系丹生神社の祀神としてのニウヅヒメの誕生地にほかならない。
おそらく紀和国境地帯ま朱砂が注目を浴びはじめたころ,この地はそれにちなんで“ニフ(にう)”と呼ぼれた。そこで採鉱に従事していた一群の民は,自らをニウウと称し、中国筋(註・日本の中国地方のこと)で朱の女神として祭祀されていた朱砂の女神(ニホツヒメ)を迎え入れて守護神としていた。やがて日本に漢字が輸入されると,その一群の民は自らの呼び名を丹生氏,その活動する土地を丹生と表示し,かつ守護神の朱砂の女神をも丹生都比売と書きあらわし,丹生氏の祖神としたのであろう。

その場所は現在の高野町上筒香の東の峰に比定され、丹生川の水源地にあたる。また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから現在の鎮座地・天野への移転の経緯は明らかではない。
今の丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ・にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある名神大社。紀伊国一宮。
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。この社や祭神は真言密教と融合し、大和の国家権力とも融合し、のちの由緒はややこしい。
丹生都比売神社
こうしたことで、爾保都比売命=丹生都比売命とみられ、爾保は丹生よりも古い時代の呼び名でなかったであろうか。また紀氏、丹生氏も古くは息長氏の一族であろうか。
また爾保都比売が祀られた所は紀伊国伊都郡であり、古い伊都国と関係があるかも知れない。京都府舞鶴市字浜糸が伊都国と関係ありはしないかと前にも述べた、あるいは笑った人も多かろうが、こうした地名は意外とバカにはできないものなのである。


匂崎銅鐸(舞鶴銅鐸)
郷土資料館にこの銅鐸のレプリカがある、
『舞鶴市史』(←写真・図も)
舞鶴市発見の銅鐸については、昭和十四年、字下安久小字匂ヶ崎で二個発見されたというが、京都大学の調査により実際の出土状況は、単なる偶然の出土であることが判明した。出土銅鑼は、早速手続きを終え、東京帝室博物館(現東京国立博物館)へ移送される途中、京都大学で実態調査が行なわれたが、大要次のように報告されている(写真34・図41)。
     舞鶴市発見の銅鐸
見出された二個の銅鐸は共に破損して完全な形でなく、特に其の一つは現在もとの器形の約四分の一を残すに過ぎない。いま先づ形の見られる前者から解説する。
 仮りに第一号鐸と呼ぶことにした此の鐸は、現在鉦頭及び身の下半に稍々著しい欠損を見るが、現高二尺○六分の大形品であって、高さ一尺六寸五分ある其の鐸身は円筒形に近いが、而も割合に内反りを示して居り、現在一般に行われている銅鐸の形式分類からは明に第三類袈裟襷文の通性を具へ、通じて薄手に鋳上げられて鋳掛けなどない。尤も現在では両面共若干磨滅して、鋳上りの特に鋭い方ではない。主要な袈裟襷文をなす其の鐸身の格子目文は、目の細かなもので、その横帯四条をば先ず上下に配し、然る後に縱帯を容れていて、而も各の界線に突起した目立った突線を付すること、此の類に多い式に依り、その左右の鰭また下端から若干上った部位よりはじまって、小判形の鈕につづく所も違っていない。但し本遺品では右の鰭は縁こぼれがあり、また鈕の周囲もすべて破損しているので、いま飾耳の有無を明にし得ない。
 破損の多い第二号鐸また残存部からすると前者と同式の大形品であったことが知られる。即ち上部はないが下半の残った鈕にそのもと小判形であった名残をとどめて居り、また鐸身上半の示す処も円筒形に近く、作りも薄い(厚さ一分弱)。側面に印した図文は横の突線帯を構図の基本として、それに縱の線を配し、依って袈裟襷文をしている事亦相似ているが、本例では前者と違って、其の横帯文は上辺を除くとすべて一種の綾杉文から成る所に差異があり、なお鋳上りも鮮鋭である。而して鈕と身との接する部分の鰭の縁にもと小さな耳を作ったこと一方にその名残りをとどめているので知られる。いま右の残存部から試みにもとの形を復原して見ると(略)高さ二尺内外となり示す形の第三類中所謂三遠式に近いことが知られて興味を惹くのである。序に付記するが、本遺品の破断面の示すところ、すべて既に古色を着けていて、破損の今次の出土の際でなかったことをそれ自体から推されることである。
  昭和十五年一二月三十日
             (「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告」第二十冊)


『舞鶴市民新聞』(00.05.19)
*由良川 考古学散歩72**忘却の聖地*
昭和十四年(一九三九)に海岸の丘陵東側裾で二個が発見された。ただし瓦礫の清掃中に発見されたものであり、この場所にもともと埋められていたものではないという。銅鐸はいずれも突線紐六区袈裟襷文鐸と呼ばれるもので、模様の特徴から、一号銅鐸は近畿で、二号銅鐸は三河・遠江(愛知県東部・静岡県西部)で作られた可能性が高い。


『丹後の弥生王墓と巨大古墳』「弥生大形墳墓出現前夜の土器様相」
舞鶴市匂ヶ崎遺跡でも、近畿式に加え、三遠式銅鐸が出土しており、若狭西部から丹後にかけての地域は、後期銅鐸が密に分布する地域として注目される。とくに匂ヶ崎で出土した三遠式銅鐸は、弥生時代後期に濃尾平野において製作された可能性が高いとされたもので、この銅鐸は三遠式の分布域の西端の例である。三遠式銅鐸が、山中式後期の段階に、様式の分布境に埋納されたと考える赤塚次郎氏の説に従えば、丹後は若狭を介して、後期後葉~末に勢力を飛躍的に拡大した東海西部とも、接点を持ちうる位置にあり、東海との関係も注意されねばならない。

丹後弁と尾張弁が似ているという不思議な事実と何か関係があるのかも知れない。それは弥生時代の頃からそうなのかも知れない。
突線紐3式銅鐸

匂崎出土の三遠式銅鐸。
大岩山からはもっと大型の三遠式銅鐸が出土しているが、舞鶴はこの型式の西端になり、舞鶴との間にはこの型式の銅鐸は出土していない。ポーンと外れた位置にある。京都府宮津市由良からも銅鐸が2個出土したという記録が残されている(丹哥府志)が、現物は残っておらず、詳細不明である。


銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館
御上神社の近くに「銅鐸博物館」がある、当館がある所が銅鐸出土地の大岩山である。ワタシは10年以上も昔に一度訪れたことがある。
大岩山銅鐸の特徴
大岩山からは、1881 (明治14)年に14口、1962 (昭和37)年に10口と合計24口もの銅鐸が発見されている。それらのうちの1つ、高さ134.7cmの銅鐸は、現存する最も大きな銅鐸である。
銅鐸は、いずれも弥生時代中期末~後期に属する新段階の銅鐸で占められ、大きくて装飾性に富んでいる。銅鐸も新段階になると、近畿地方を中心に分布する「近畿式銅鐸」と三河(愛知県東部)から遠江(静岡県西部)に集中して分布する「三遠式銅鐸」に分かれるが、大岩山ではその両方をみることができ、更に同じ銅鐸に両方の特徴を兼ね備えたものもあって、近江型の銅鐸と位置づけることもできる。
銅鐸は、本来内部に振り子をとりつけて揺り鳴らす「聞く銅鐸」であったが、弥生時代の後期には、地域的な祭器「見る銅鐸」に変質し、両者はふつう共に埋められることはない。しかし、大岩山のみ「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」が共に埋められている。このように、大岩山銅鐸は、単に全国の銅鐸出土数の約5%が埋まっていたことにとどまらず、きわめて特筆すべき存在なのである。





銅鐸博物館の展示↑
突線鈕式銅鐸は銅鐸としては最も新しい型式だが、上の図の右から2つ目の物は、野田川町の比丘尼城銅鐸(梅林寺銅鐸)である。丹後では銅鐸は加佐郡と与謝郡しか出土がない。この2郡は何か大岩山周辺と関係が強いのかも知れない。。









音の玉手箱 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

 La Reine de Saba:サバの女王  Raymond Lefevre楽団の演奏が有名。


Michel Laurent自身が歌っているもの
(16) Michel Laurent _ Ma Reine de Saba - YouTube

(82) シバの女王 ポール・モーリア  La Reine de Saba  Paul Mauriat - YouTube
「サバの女王」または「シバの女王」(Ma reine de Saba、La Reine de Saba)は、1967年にチュニジア出身のミシェル・ローランが作詞・作曲し、フランスで発売されたシャンソンの楽曲。
女優の母親とバイオリニストの父親のブルジョア家で育ったそうで、家族楽団などで早くから音楽に親しんでいたという。1961年のチュニジアの政変の後、パリへ移住したそうである。


 Hymne a l'amour :愛の賛歌


父親がアルジェリア系というEdith Piaf(1915-1963)の代表曲。大正4年の生まれになり、私のオヤジくらいで、戦中世代になるが、子供のころから娼婦や売春宿の客と接触をもち、それが人格や人生観に強いインパクトを与えたといわれ、数々のナゾと伝説を残す、20世紀最大のシャンソン歌手とされる伝説の人。説明などは不要かと思われる。
若い頃だったが、「愛しなさい」とか言った彼女の語録を見て、どこかの国の精神の遅れ方のひどいことを知った、先進国とか言われる中ではたぶん最末端であろうかと考えた。あの当時はネットなどないから、この歌を聴きたかったが聴けなかった。

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