伊吹①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 丹後の伊吹神社青井集落の中ほどに鎮座。「結城」はユウキと読まれている、旧仮名遣いではユフキ。茨城県に結城市がある、結城紬で有名な所という、このユフは 青井の結城神社は、 『丹後風土記残欠』の伊吹戸社である。伊吹戸はイブキドと読まれるが、伊吹神社ならイブキベと読むのがいいのかも、あるいは戸は何度も転写を繰り返す過程で発生した衍字か。 『加佐郡旧語集』 郷中古来ヨリ九社明神と云
『丹哥府志』に胆吹明神 青井村 また青井村 胆吹明神 九社之内。 青井村 【膽吹大明神】
『丹後国加佐郡寺社町在旧起』青井村
膽(胆)吹のイフキがユフキと訛って、結城と書かれるようになったものと思われる。膽吹大明神 九社の内、薬師堂あり。 『加佐郡誌』 結城神社 春日大神 八幡大神 大日霊貴神 字青井
としている。社名と祭神が合わないが、本宮の伊吹神社の祭神がよくわからない。伊吹山の神様といい、夷服岳神、気吹男神、伊富岐神とも書くのだが、『近江国風土記逸文』に、 竹生島
「古典文学大系」本の頭注に、多々美比古命とは「竹生島縁起に又 もっともこれは、近江でも浅井や竹生島がある近江東北部の、息長氏側(伊吹山の南西麓、姉川の上流の坂田郡式内社・伊夫伎神社。息長川や息長小学校があるところの10㎞ほど北。いずれも今は米原市になる)のハナシであろう。伊吹山の南東側にも伊富岐神社(岐阜県垂井町・美濃二宮)があるが、祭神はよくわからないという。南宮大社(美濃一宮)もあって、金山彦を祀り、当地の「関孫六」は名刀剣としてよく知られている。 そうしたことで全国すべての伊吹神社が多々美比古命を祭神とするものかはわからない。 舞鶴の結城神社の北側は槙山で、その一番北側の海に突き出しているところを金ヶ崎といい さらに白杉鉱山があった。マキという山名も何か金属と関係があるのかも知れない。 『舞鶴市史(各説編)』に、 白杉鉱山 金ヶ岬南南東の海岸にある。10米内外の二本の坑道によって、昭和三十一年ごろ採掘されていた。接触交代鉱床で、鉱石は、黄銅鉱、磁硫鉄鉱、黄鉄鉱などである。
とりあえず、ここはこれだけにして、このほかの丹後のイブキ神社を見てみよう。 久美浜町の海に近い所に何社も見られる。 『丹後旧事記』 意布伎神社。意布伎村。祭神=油池大明神 大御気都姫命。垂仁天皇の朝旦波道主勧請。延喜式竝小社。
天正府志曰後小松天皇嘉慶年中山名時氏当国押領時此神山相戦是時神殿破倒仕年久敷過行其後意布伎大明神棟札同郡三方之村移祭奉山宗氏神。 斯のごとく破壊して此社今油池村になし此山天正の頃小国若狭守が城地と成佐野備前守牧左近等松井四郎右衛門と戦ひ落城古跡の部に記す。 『熊野郡誌』 意布伎神社 式内村社 海部村大字油池小字宮地鎮座
祭神=気吹戸主神。 由緒=延喜式内社にして其の創立最も古く、元神座(カウザ)に鎮座ありしが、後小松天皇嘉慶年中山名時氏当国押領の節此の神山に戦ひ、神殿為に破壊せられしが、後現地に社殿を営み奉安せりといふ。而して油池は元意布伎といへりしが、和銅年間郷名は好字を撰び二字と為せるより油池となせしなりと。 氏子戸数=二十戸。 境内神社。清水神社。祭神=稲田姫命、大山祗命、中筒男命。 天満宮。祭神=菅原大神。 鎮座地の 中世末の丹後国御檀家帳に「ゆうけ 家百軒斗 大なる城主也 佐野殿」とあり、以下、小坂又次郎・山内左京亮・山内新左衛門・藤田喜三郎の名が記される。 「山内」の名が気になる、あるいは鍜冶屋さんであろうか。鍜冶遺跡があれば、式内社と見られよう。 意布伎神社(久美浜町三分小字上地) 小字上地に鎮座する意布技神社は、もと油池村の意布伎山腹小字神座に鎮座したが、嘉慶年中(1387~89)の戦火で焼失し、のちに三分村に祀られるようになったという。 『丹哥府志』 【意布伎神社】
意布伎神社は元意布伎村(今油池村)にあり嘉慶年中山名時氏押領の頃如何の訳にや其棟札三分村に来るよって其頃より意布伎神社を此村に祭る。 『熊野郡誌』 意布伎神社 村社 田村大字三分小字上地鎮座
祭神=気吹戸主神。 由緒=当社は垂仁天皇の朝旦波道主命の勧請せられし処にして、式内村社たり。天正四年十一月村中大火に際し神社も類焼の厄に罹り、文書宝物等一切焼失せりといふ。海部村大字油池にも伊吹神社あり、元油池に鎮座せるを嘉慶年間兵火の為め頽廃せるより、字三分に移転せりとの説あれど、徴証すべき正確の文書乏しければ、其の正否を断する事困難なり、而して当社殿は明治二十二年の改築にして、明治四十年三月幣帛神饌料供進神社として本郡村社中第一位に指定せられし処なり。 氏子戸数=八十戸。 境内社。愛宕神社。祭神=迦具土命。 稲荷神社。祭神=倉稲魂命。 寒川神社。祭神=寒川毘古命、寒川毘売命。 住吉神社。祭神=上筒男命、中筒男命、底筒男命。 由緒=四社共不詳。 道田神社。祭神=猿田彦命。由緒=当社は元小字上地に鎮座ありしが、明治四十三年境内へ移転せり。 伊吹神社(久美浜町三原小字石) 『熊野郡誌』 伊吹神社 村社 田村大字三原小字石鎮座
祭神=気吹戸主命。 由緒=創立年代等詳ならねど、川上麻須深く信仰ありて三原里に鎮祭し給へりといひ伝ふれば、分霊を茲に祀れるにや。 氏子戸数=六十五戸。 境内社。稲荷神社。祭神=倉稲魂命。 丸子神社。祭神=不詳。 由緒=両社共に明ならず。 意布伎神社(久美浜町湊宮468-10) 湊宮といっても東側の函石になる、社殿は確かにあるが、神社の文献資料が見当たらない。たぶん函石の集落と共に新しく出来た社なのであろう。親村の社の分社と思われる。 南宮神社(久美浜町壱分) 『熊野郡誌』 大阪陣の落武者を祀れりとは一般に伝ふる処にして、木村家の祖神なりといふ。宝暦三年四月十二日付南宮左中将信輝郷次男南宮左一輝久に、向後十六曜の菊五七桐相付候義赦さるる文書あれば、恐らく此の南宮左一輝久を祀れるものにてはなきか、暫し記して後証を俟つ。崇敬者=六十人。
とある。いずこに祀られているものかわからなかった。同地には持田神社がある。峰山五箇にも餅白鳥に化する話(柳田国男) 正月が來るたびに、いつも思ひ出すばかりでまだ根源は知らぬのだが、伏見の稲荷樣の一番古い記録に、餅が鳥になって飛び去ったといふ話がある。
都が山城國に遷された以前、今の稲荷山の麓の里に秦中家忌寸の一族が住んでゐた。その家の先祖秦公伊呂具の時に、あった事としてその話は傳へられる。伊呂具富裕にして粟米充ち溢るゝまゝに、餅を用ひて的としたところ、その餅白き鳥に化して飛び翔りて山の峰に居り、其處に稻が成生した。社の名もこれに由って起り、さらに山を隔てゝ北の方、鳥部野島部山の鳥部といふ地名も、その餅の鳥が飛んで来て、とまった森の跡だからといふのであった。この話の永く世に傳はった理由、即ちこの物語が古代の人々に供した繪樣は、今我々がこれに由って感受するものと、大分の相異があったのでないかと思ふ。いはゆる白い鳥の何鳥であったか、何故に不思議がその鳥の形を假りて、よく人間の驚歎を深くし得たかといふことは、すでに日本武尊の御墓作りの一條に於いても、決しかねた問題であったが、この場合は殊にその點がはっきりせぬと、昔の心持をたどりにくいやうな感じがする。 福島縣の苅田嶺神社は、近世の學者によって、日本武尊を祀ると説明せられてゐるが、土地の口碑を聽けば明白に滿能長者同系の物語で、天子の御寵愛を受けた玉世姫と、その王子の尊霊とを神に仰いだものである。さうしてこの神の御使はしめの白い鳥は、ハクテウ即ちSwanであった。豊後の田野長者の故跡と稱する山間の草原には、以前は年ごとに二羽の鶴来り遊び、それを長者が飼ってゐた鶴だと謂うたために、或ひは「豊後風土記」の中にもある同じ話、即ち餅が化してなったといふ白い鳥を、鶴ではないかと思ふ人もあるかも知れぬが、勿論これによって即斷をすることは出来ぬのである。 「豊後風土記」の餅白鳥に化する物語は、これを繰返す必要もないほど、最初に擧げた「山城風土記」の逸文とよく似てゐる。この二つの風土記は文體から判斷しても、出来た年代に若干の差があるらしいから、一方の話がひろく世に行はれて、後に九州の方でもこれを説くに至ったのかも知れぬが、それにしてはあまりに根強く、新しい風土に適應し、かつ年を追うて成長してゐる。或ひは今一つ古い時代から、この民族に持ち傳へた空想が、何ぞの折にはかうしてそちこちに、芽を吹き花を咲かせる習はしであったのではないか。 気吹戸主命・気吹戸とは伊吹戸主神・気吹戸主神は、よくわからないが、基本的には風の神(空気を吹く神)のようで、登由宇気神の荒魂(御鎮座次第記)や伊吹戸主またの名を神直日神・大直日神と曰う(倭姫命世記)、また「大祓詞」に見えて、祓戸四柱の神の一神で、海原に強風を生み出し罪穢を吹き払う神とされ、「気吹戸に坐す気吹戸主といふ神、根の国底の国に気吹き放ちてむ」とある。 「大祓詞」 イブキ社を祀ったとされる丹波道主命は、父は日子坐王(彦坐王)、母は天之御影神の娘の息長水依比売。丹波道主命は息長系の血を引いている。丹後のイブキ神社は、伝えの通りなら息長系の伊吹神社であるのかも知れない。 川上摩須(郎女)はその奥様である。久美浜町須田の鉄の豪族であろう。 丹後のフキやフクの神社や地名(主なところ)イブキは伊吹や意布伎、伊富貴とか伊福などと記されるが、そのイは接頭語あるいはイキ(息)のことかと思われる。フキとかフクが語根で、これは「鉄を吹く」とか、「銅を吹く」とか、「吹屋」とか、今でもいうが、鉱石を溶かして金属を分離させる、精錬するの意味である。その「吹く」のことである。そうした金属工業の地であり、鍜冶工人の地であったと思われる。丹後だけを少し見てみると…福来は「吹き」であろうと思われる。村の中ほどを「いもじ道」が通り、天清川との交点に「いもじ橋」がある、近くに鋳物師の集落があったのであろう。すぐ南にには薬師を祀る観音堂がある。福来村は行永村からの分かれと伝わる。 『まほろば逍遙』 鉄を熔かすには甑炉に砂鉄と木炭を入れ、たたらといわれる大きな鞴で空気を吹き送るのですが、「たたら吹き」は“地団駄を踏む“ように何人もが何時間もたたらを踏まなければなりません。福来村の「ふき」はこのたたら吹きからきたともいわれています。
福来には古い神社や寺院がないので、あるいは行永からの分村から始まった近世開発の地であり、フキもその時代の地名でなかろうかとも思われるが、しかしもっと古そうだと気になる古代地名的な名である。この地域には「いもじ道」「カジヤ前」といった小字も残り、佐武ヶ獄に山城があった頃に麓に村落があったに相違ありませんが、よくわかっていません。十七世紀初め頃、大道(だいどう)と称する刀工鍛冶集団が居たが、京極氏に従いて宮津へ移住したと伝えています。 福来には大光寺、ダンという小字があるが、この大光寺(日光寺)が七仏薬師の寺と伝わっている。鬼退治伝説と結びつく古寺院であり、この地にカネを吹く「オニ」がいたのでなかろうかとも思われる。フキはその時代の古代地名かも知れない。 「福来の日光寺廃寺」 国立病院のあるあたりを行永という、 福来の善照寺記録第一号に、福来の始まりは慶長10年(1605)に行永村より分村したるものなり、とあり、善照寺は当初、今の余内校の南にあったという。行永は福来の親村で、息長と吹きは関係がありそうなハナシである。オキナガはイキナガのことで、長く吹くという意味と見られている。 蛇綱行事や今福の滝で有名な所。 今福の「今」はnewの意味で、新福のことであり、どこかからこの地に移転してきた村ではなかろうか。ではどこが元福かといえば、このあたりはフクばかりだが、どことも伝わっていない。 今福の裏山は舞鶴市との境になり、赤岩山があるが、このあたりの山々を古くは 加佐郡の内宮から宮津へ大江山越えの道を普甲道、普甲峠といい、今の府道9号である。古い石畳の旧普甲道も残っている。 この山中に、与謝郡式内社の 福田川 網野町の真ん中を流れる川だが、この河口あたりにかつて福田村があった。今はないが、網野銚子山古墳のあるところは少し高台になっているが、あそこに広がる畑地(一部荒地のような)を「福田の園」と呼ぶそうだし、旧網野村は松原村と福田村という二つの村にわかれていたという。福田の園の麓から網野神社旧社地あたり(網野南校あたり)に福田村はあったのではなかろうかと思われる。 京丹後市のHP「網野銚子山古墳」より↓ 浦島伝説が同じくある伊根町にも福田がある。 『伊根町誌』 筒河庄福田村寳蓮寺
宇良神社と来迎寺は300メートルばかりの距離だから、福田村は宇良神社に隣接する地にあったと思われる。宇良神社の駐車場や公園、小学校などがあるあたりかと思われる。宇良神社に所蔵されている数多くの宝物の中で、最も貴重な古文書に「続浦嶋子伝記」があり、その奥書に「永仁二年甲午凡月廿四日。於二丹州筒河庄福田村寳蓮寺如法道場一。依レ難レ背二芳命一。不顧二筆跡狼藉一馳二紫毫一了。」と記録されている。「続浦嶋子伝記」は撰者及び成立年代ともに不詳とされているが、冒頭に「承平二年壬辰四月廿二日甲戌。於二勘解由苜局一注レ之。坂上家高明耳。」と承平二年(九三二)に坂上家高明か注記したとあり、本文中に「続浦嶋子伝記」の成立は延喜二十年(九二〇)八月一日に作成されたとある。 … この奥書に見える「丹州筒河庄福田村寳蓮寺」について推考すると、宝蓮寺は真言宗の寺院で、この古文書によって中世には来迎寺の前に、宇良神社の別当寺として福田村に所在していたことが知られるが、現在福田村の範囲も、宝蓮寺が建立されていた位置も定かでない。福田の地名は現在は本庄宇治に小字名が残されているが、これは由緒のある福田の地名を後世に伝えるために、明治時代になり土地台帳作成の時に名づけられたものであり、もとの地とは異なっている。宇良神社前宮司宮島茂久氏の控え帳に福田の地はもと本庄村曽布、谷東側にあって「宝蓮寺畑」の名が残っていると記録されている。 なお、浦嶋伝説をもつ網野町にも福田の地名があり、網野神社の付近も元福田村とよばれ、流れている川は福田川と呼ばれている。 この福田が「吹く」と関係するかは、当地だけではないが、地名か神社があればきわめて幸運で、鍜冶関係の文献資料や遺跡はまず見当たらない。伝説か昔話にでもないかと探しても見当たらない。ここは地名だけで推測するよりなさそう。 各地のイブキ②へ 音の玉手箱
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