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そら知らなんだ

田邊(田造)郷②
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -44-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹後国加佐郡田辺(田造)郷、つづき

田邊(田造)郷の郷域は、旧・真倉川、高野川流域と、下福井、上福井、喜多、吉田、青井、白杉あたりと見られている。古代からの加佐郡の中心地である。当地は新羅人の集住地であったと見られ、今も新羅だらけである。皆が見落としてきたが、面白い古代がゴロゴロと転がる宝の山である。拾ってみると…

八戸地(はとち)白髭(しらひげ)神社
今は由良川筋にある集落だが、元は田邊の紺屋町のあたりにあったという。
『八雲のれきし』
天正八年頃(約四一〇余年前)細川藤孝が、田造郷八咫村(現舞鶴市字北田辺)に築城を計画して、その区域内にある民家に移転が命ぜられた。
 当時私たちの祖先は、現紺屋町に住み農業を営んでいたが、築城のため田畑を失い止むなくその代替地を求めて、あちこち詮策に当ったに違いない、当時早くから開けていたと思われる大川村地内と丸田村地内とにそれぞれの適地を見定め、永年住みなれた故郷をあとに、この二か所に分れ分れに移転した。
 この二つの集落を八田村と称し、凡そ一八〇年の間一つの邑として栄えてきた。その後双方とも人口が増加し、また分家等によって戸数も増え次第に大村となった。
 そのため、互に勢力的な問題や、そのうえ二つに隔った不便さ等諸々の問題が重ってか延享年間分村の機運となり「八田村」の名称をそのまま継いだ現八田と、新しく「八戸地村」と名乗った現八戸地とに分れ、「八田村」は土地、行政とも完全に二つに分離した。
 八戸地村の起りについては詳かでないが、最初この地に八戸の農家が移り住んだので、「八戸の地」即ち八戸地となったとも言われ、また「八田の内」と云う意味から八田内が訛って八戸地となったとも考えられている。

『丹哥府志』
○八戸地(大川村より宮津の道、八田村の枝郷)
【白髭大明神】
 【付録】(蛭子社、辻堂、薬師堂)

『丹後国加佐郡寺社町在旧起』
十九 八田村
 松尾大明神社あり、八戸地村は八田村の内なり、白髭大明神氏神なり、この村鮭の魚を喰わず。


集落の向かい、府道を挟んで、山腹に白髭神社↑がある。この社は元々は紺屋町あたりにあった。

上福井にも白髭神社がある。公民館の向かい↑。
この社もたぶん紺屋町あたりから移転したものと思われる。上福井・下福井はお寺がなく、桂林寺の檀家だそうで、桂林寺下のあたりから移転した村でなかろうか。お寺がそうしたことなら神社もそうかも知れないと想像するが、そうした記録は何も残されていない。
下福井とは一つの村だったのを天正の頃に分村したそうである。そうするとあるいは下福井もこの社であったものかも知れない。
柳田国男も、白髭明神は新羅神なるべく候へば…などと述べているが、白鬚社の多く分布する近江や武蔵北部・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるかといい、新羅彦(しらひこ)が白髭となったものか。
舞鶴も意外に白髭社が多い、たいていは忘れられもう崩壊消滅寸前のホコラのようなものが多く、マトモに究明しようとする書も見当たらないが、当地もまた渡来人が多かったことを物語るものであろうか。村を開いた祖神である可能性が高く、大切にされますように。
「私は白髭が好きで興味があるんです」という方が尋ねてこられたことがある。ワタシの手元のデーターベースによれば吉坂、河辺中、下佐波賀、上福井、八戸地、漆原に二社、久田美、ご研究をモノにして下さい。


(参考)
日本の神話体系の中には見えない、組み込まれていない神で、外来の神であろう。近江最古の神社とか、高島郡に本社がある。比良明神という。

前は琵琶湖、後が比良山系の狭い所にある。比良はシラ(新羅)のことであろう。従って白髭神社は新羅神社と見られている。

 (ついでに)
高島郡は丹後から見れば内陸になるが、面白い所のようである、後に継体天皇を輩出する地となるが、ここの資料館で環頭太刀を見た。ワタシは素環頭と双龍しか知らなかったのだが、いろいろあるのを知った。そこの案内に、

金銅製単龍環頭大刀把頭           北マキノ2号墳出土
 環頭は7.2㎝x5.7㎝の楕円形で、外縁にも向かい合う龍を2匹肉彫りしています。
 環内の龍は頭部のみで、牙を持つ口から舌または雲気を出しています。目や頸毛などは極めてシャープに肉彫りされ、鱗の表現も龍の向きに揃えて忠実に表現されており、文様に崩れがほとんどみられない精巧な作りです。また、眉の上と口には孔があること、冠毛や角が外環から離れていることから単龍環頭としては古い様相を呈しています。
 滋賀県内で出土した環頭大刀はこれ以外に3例あります。玉をくわえた単龍環頭が竜王町の鏡山古墳から、朝鮮半島製とされる双龍環頭が鴨稲荷山古墳から、三葉文環頭は新旭町二子塚古墳から出土しています。
 龍を装飾する環頭大刀は、日本では大半のものが6世紀中頃以降の古墳から出土しています。そのうち、単龍のものが80%を占め、西日本を中心に関東からも出土しているのに対し、双龍のものは日本海側に偏る傾向があります。朝鮮半島での出土事例などから、単龍環頭は百済系、双龍環頭は高句麗系、三葉文は新羅系といわれ、それぞれの系列の豪族が製作や配布に関係していたのではないかと考えられています。

鴨稲荷山古墳出土の環頭太刀は金銅装で、丹後の湯舟坂古墳のものと似ている感じで、湯舟坂もあるいは継体やその後継の飛鳥権力とも何か関係があるのかも、朝鮮との間には強いつながりを感じさせられる。(古墳が造られた時期(6世紀末か)と太刀を手に入れた時期とはズレがあると見て)

←同古墳出土の冠
こんなキンキラキンは、日本の物とも思えない。
高句麗か騎馬民族かの感がある。



八田(はった)の松尾神社
今は大川橋を渡ったところにある集落が、元は田邊城のあたりにあったという。
『加佐郡誌』
八戸地はもと八田の一枝邑であったが桜町天皇延享年間(将軍徳川吉宗及び家重)に独立した。
八田は細川藤孝が舞鶴に築城の際同町字紺屋在住の農民を移して作った所である。其氏神松尾社又八戸地の氏神白髭神社は当地移民が奉遷して来たものである。
朝代神社の境内社↓にもあり、この社が田邊にありしころの名残であろうか(さてどれか)。


八田は(はた)氏のことなのか、あるいは何鹿郡八田(やた)郷のことなのか、わからないが、松尾神社↓を祀っている。

松尾神社といえば、京都嵐山の松尾大社を思い浮かべる、秦氏の総氏神である。マツオ、マツノオと読んでいるが、ショウビとも読めて、シビならソフルのことであろう。松尾大社を勧請したものかは不明だが、どちらもたぶん元々の意味は新羅神社のことであったのでなかろうか。


田邊郷の式内社
日原神社(女布)

千石山の東麓。ヒバラとするが、九社の一であり、千石山なので、シハラ神社であろうか。祭神は天日槍かも。このあたりこそがシハラ発祥の地かも

笶原神社(紺屋町)

何度も取り上げるが、笶原山の東麓、今は紺屋町というが、そこに鎮座。シハラと読むのが本来の読み方か。元々は笶原山の頂にあったという。
近くには、元々は白髭や松尾の社があった。


地名の考察
神社ですら、古くなるとコジツケのようなハナシになってくる。地名となるとますますその感が強まるかも知れないが、地名が語るオドロキの歴史に目を向けてみよう。

真倉・十倉はすでに取り上げた真倉・十倉

吉原
新裏町ともいったそうだから、シハラにヨがついたのが吉原であることがわかる。
元々は高野川河口の海沿いにあったが、大火があったため、享保13年に現在地に移転したという。
『角川』の地名辞書に
享保12年の丹後国田辺之図には「東吉原町五十四間家数不知、西吉原町東西六十八間幅浜まで八間家数不知、新裏町とも云」とある。同年大橋以東の城下が火災で焼失したため、翌13年伊佐津川右岸の下安久村地内に9反14歩の替地が与えられた(田辺藩土目録)。同16年の「丹後国加佐郡寺社町在旧記」には「猟師町は東西二町」に分かれていたとあり、もと東吉原とは魚屋・丹波両町の町尻を指したと考えられるが、下安久村に移転後は、東西が逆になり、西側に旧東組が、東側に旧西組が位置することになった。
東西というか南北に並んでいて、北が東吉原、南が西吉原になっている。
だいたい藩政期には国道175号のあたりか、それより少し北側にあったと見られる。
しかし地名ができた当時は海はもっと入り込んでいたと見られるが、どのあたりが海岸線であったかはわからない。そのあたりをヨシハラとかシハラ(シウラ)と呼んでいたと見られる。

吉井・吉田
これらのヨシもヨシハラのヨシと同様で、シハラの変形であろうか。

伊佐津
西舞鶴駅やバザールタウンがあるあたりであるが、津というのだから、あのあたりが河口にできた湊であったことがわかる。地名ができた当時は、駅あたりまでが海であったのであろう。イは接頭語でイサとはサのこと、シハラのシのことであろう。
そんなハナシはウソに決まっていると思われるかも知れないが、福知山に石原(いさ)というところがある。イシハラと書いてイサ、イサ=イシハラであることがわかる。イはたいした意味もない接頭語であり、(イ)シハラ。シハラに意味がある。

白杉
新羅(シラ)(スキ)の意味か

四所(ししょ)
今は上福井に丹鉄の四所駅↓がある。

明治22年から四所村があったのだが、名の由来は、かつて当村域に福井・喜多・大君・吉田の4か村があったため(加佐郡誌)とも、大君・吉田・青井・白杉の海浜を四所ケ浦と称したため(維新以前民政制度沿革調)ともいうそうである。
また、志楽庄にも四所浦があって、『加佐郡誌』は、「佐波賀は千歳、大丹生、瀬崎と所謂四所浦を成せるもので東南蛇島に城址がある。」としている。
四つの浦を四所浦と呼んだものやら、あるいはシウラでシハラと同意かも知れない。
城崎温泉の守護神に四所神社がある。角川の地名大辞典には、「桃島の桃島神社の祭神は、新羅から日本に渡来し、但馬に定着した天日槍の供人の一人で、この地にとどまって漁労を業とするようになった神といわれる。このような供人伝承は湯島の四所神社や来日の久流比神社にもあり、当地は天日槍の勢力が濃厚な地域であったと思われる」とある。
日本語だとシは死につながり、避けたい地名になろうかと思うが、それをそのまま使っているのは、遠い先祖の渡来語をそのまま使っているためではなかろうか。しかし本来の意味は完璧に忘れてしまったのであろうか。

笠水神社再考


笠水神社(公文名)↑
舞鶴にとっては因縁の社で、もし舞鶴でなければ、当社の社名が町名となっていたという歴史もある。
『舞鶴史話』
町名変更の経緯
軍港談設置以来一路発展の途をたどり来つたわが舞鶴市の市名は明治初年以後の改称で、それまでは田辺と称したことは周知の通りであります。しかし誰が舞鶴の名を選定したのか、又いつから舞鶴と改めたのかは従来漠然としていましたが、舞鶴出身の老画伯藤山鶴城氏によってこの間の消息が判明しました。同氏の話によりますと舞鶴の名附親は舞鶴市明倫小学校の一初代校長だった河村真六翁で、翁が少壮江戸藩邸に在勤していた時田辺は紀伊にもあり、山城にもあって紛わしいので改称するよう大政官より沙汰があり、藩邸ではその候補名を河村翁に諮問しました。そこで河村翁は同僚幸山順吉氏と相謀り「笠水」「舞鶴」の二名称をもって奉答しました。「笠水」というのは現在舞鶴市字公文名にある笠水神社にゆかりのある名であり、舞藤は旧田辺域の城名であります。丁度その時故片山淳吉氏が来邸したので河村翁は「この二つはどうぢや。」と前記の二地名を示すと、片山氏は「マヒヅル」は訓ではおいらんの名のようだ、音で「ブカク」というか、おれは笠水をとるといったということであります。その後官辺で評議の結果片山氏がおいらんの名のようだといった舞鶴にきまったのでありますが、なぜ笠水がとられなかったかというとこうであります。当時牧野氏と同姓の牧野貞寧氏が常陸の笠間藩知事であったので、田辺を笠水とすると大へん又紛わしくなるので、舞鶴にきまったというのであります。又いつから舞鶴と改称したかについては著者の調査によるととの如くであります。
『牧野弼成氏が亡父誠成氏の遣領をもらうために東京へ出発、参向したのが明沿三年六月十七日で、同二十日藩知事に任ぜられ「同時に朝旨あり以後〃田辺〃を〃舞麓〃と改められる」とありますから舞鶴と改称したのは前記の通り明治二年の六月三十日と考えられます。江戸が東京となったのは同年九月八日でありますから舞鶴の改称の方が東京より二ヶ月あまり早いわけであります。』

恐らく郡名も当社周辺から出たものであろうし、当地方開闢の歴史を、その名に秘めている社である。

丹後海部氏との関係
笠水神社の笠水彦・笠水姫

『丹後風土記残欠』に、
笠水(訓宇介美都)。一名真名井。白雲山の北郊に在る。潔清は麗鏡の如し。たぶん豊宇気大神の降臨の時に湧出た霊泉であろう。其深さは三尺ばかり、其廻りは百十二歩である。炎旱に乾かず、長雨にも溢れない、増減を見ない。其味は甘露の如しで、万病を癒す麗機がある。傍らに二つの祠がある。東は伊加里姫命或いは豊水富神と称する。西は笠水神即ち笠水彦笠水日女の二神である。これは海部直等の祖神である。

海部氏勘注系図によれば、
始祖・彦火明命-天香語山命-天村雲命-倭宿禰命-笠水彦命-笠津彦命-建田背命-…
とあり、神話的で他地方でも見られる人物(神)を除くと、何ともローカルな、舞鶴人でも知らない、日本中知る人もないであろう、笠水神社の祭神である笠水彦こそが丹後海部氏の始祖であることになっている。
火明命は天皇系・物部系・尾張系、天香語山命は渡来系、天村雲命は度会氏の祖でお伊勢さん外宮系、倭宿禰は浦島太郎さん系と、立派な神々のミックスジュースの次にようやく姿を見せるが、浦島さん系と笠水神社系こそが海部氏の本当の始祖でなかろうかと、系図を信ずるならば、そのように思ってしまうのである。
それぞれ無関係ではなく、何んらかのつながりはあるのだろうが、詳細はよくわからない。
建田背命は、天孫本紀に、始祖・天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の六世孫建田背命。神服連、海部直、丹波國造、但馬國造等祖なり。とある。

勘注系図注文には、
笠水彦命(四世孫)
母豐水富命、亦名井比鹿也神渟名川天皇(綏靖)御宇、以天御蔭之鏡爲神寶、以奉仕矣、此命娶笠水女命、亦名與志美別、生笠津彦命矣(笠訓宇介)、御蔭之神事、今俗稱葵神事
笠津彦命(五世孫)
母笠水女命也此命娶笠津姫命、生建田勢命矣


笠津彦・笠津姫は陸耳御笠か
『丹後風土記残欠』
青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。
青葉山に祀られているとされる。
青葉山と言えばも陸耳御笠の本拠地とされる。同書には、
甲岩。甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク
陸耳御笠と笠津彦。同じ人でなかろうか。反乱伝承のある人なのであろうか。残欠や勘注系図は「笠」をウケと読めとするのも何かそうした意味があるのかも、(あるいは勘注系図に、真名井亦云宇介井とあって、笠水とは真名井の水のこととみて、ウケミズと読めというのか)、よく知られている勘注系図のほかにも籠神社には伝承系図がいくつもあるそうだが、それらには笠水彦や笠津彦がよく隠されているそうで、こうしたことも何か関係あるかも知れない。何も資料はなく、想像するだけであるが、青葉山から、海辺、西舞鶴湾、由良川筋と勢力があったのかも知れない、大和勢力と大喧嘩も辞さない人であったのであろうか。
どうもカサというところはヤバイと見たか、あるいはそういうこととして、大和勢力はやがて笠から与謝の久志備之浜へと引っ越し、丹後の中枢へ入っていったようである。

海部氏は丹波国造家とするので、そういうことなら、舞鶴どころのさわぎでなく、大タニハの中心家がここにあったこととなる。
クシ(九社・九重)やカサ(加佐・笠・カサミ)の名は、それにふさわしい格がある。天孫降臨の久士布流岳のクシ、初代大王とされる神武即位の地・樫原のカシ、周囲はシハラだらけ、あるいは舞鶴人も腰抜かす過去があったものかも知れない。。



「笠百私印」の製塩土器支脚(写真・図は「浦入遺跡発掘調査報告」より)



この「笠」は、当社と関係あると見なければなるまい。こうした支脚はほかでは見られなく全国唯一の物である。支脚の長さから見て、奈良から平安初期くらいか、どう関係があるかは不明である。


田辺史(たなべのふひと)氏について、

『舞鶴市史』(通史編上)に、
田辺郷
 高山寺本は「田辺」、刊本は「田造」とするが、ともに訓を欠く。ただし、高山寺本は伊勢国度会郡の田辺郷には「多乃倍」(たのへ)と訓付けしている。
 右の寄進状案文のほか、次の元暦二年(一一八五)の「丹後国司庁宣」(「島田文書」)にもその郷名がみえるが、大内郷の西側すなわち高野川流域の旧高野村・中筋村・舞鶴町(江戸時代は田辺という。)に、地勢や他郷との関係からして、旧四所村(福井川流域)も当郷域に入っていたものと思われる。

  下  丹後国田辺郷
   可早充行給田弐町事
    雑色 千与久
   右件給田、以五斗代内、停止万雑事、可充行之状、所仰如件、以下
    元暦二年五月  日
  大介藤原朝臣(花押)
         「平安遺文」第八巻)
 また、「東大寺奴婢帳」が記す天平勝宝元年(七四九)の「丹後国司解 申進上奴婢事」(二七九頁、「丹後国の奴婢」参照)の署名中に、「以二年正月十日検取已訖、判官田辺史 真人」とあるのを指してのことか、「大日本史(志)」は「田辺(略)古田辺史所居《東大寺奴婢籍帳》」と、田辺史を当郷の豪族とみているが、如何なものか。

当時の丹後国国庁に田辺史真人(たなべのふひとまひと)という文官がいたことは確かだが、この人が加佐郡田辺郷の人なのかは不明である。
「史」姓だから渡来系の人と思われるが、田辺史氏といってもいろいろあり、学者によって一流としたり、二流としたりしているようで、『続日本紀』文武天皇四年(700)六月甲午の条に大宝律令の撰定に加わった19名の名が列挙されている。これはおもだった人だけで、この下に多くの人が加わっていたであろうが、そこに記されているのは次の人々になる。
刑部親王・藤原朝臣不比等・粟田朝臣真人・下毛野朝臣古麻呂・伊岐連博徳(B)・伊余部連馬養・薩弘恪(C)・土師宿禰甥・坂合部宿禰唐・白猪史骨(B)・黄文連備(B)・田辺史百枝(B)・道君首名・狭井宿禰尺麻呂・鍛造大角・額田部連林・田辺史首名(B)・山口伊美伎大麻呂・調伊美伎老人(A)
AとかB、Cというのは、『帰化人』(関晃)が付けているのだが、それによると…A古い帰化人、B大化以前の新しい帰化人、C百済亡命者を注進とする大化以後の新しい帰化人、としている。
また、「懐風藻」の漢詩の作者はすべて65人で、その作者目録はそのまま当時の文人のリストになるわけで、そのうち帰化人と考えられるものだけを列記すると次の通りである。
僧弁正(A)・調老人(A)・荊助仁(C)・刀利康嗣(C)・田辺百枝(B)・山田三方(B)・吉智首(C)・黄文備(B)・背奈行文(C)・調古麻呂(A)・刀利宣命(C)・百済和麻呂(?)・吉田宜(C)・麻田陽春(C)・伊支古麻呂(B)・民黒人(A)・葛井広成(B)…A古い帰化人、B大化以前の新しい帰化人、C百済亡命者を中心とする大化以後の新しい帰化人,としている。
天日槍ほどは古くはないが、中国や漢字知識の豊かな超一流の大化以前の渡来人、後の飛鳥や奈良の文化を築いた、さらに後の日本国家や日本文化なるものの基礎を人々になろうか。

田辺史氏はたぶん今の大阪市東住吉区田辺(摂津国住吉郡田辺郷。田辺駅というメトロの駅がある)の田辺が本貫地かと思われる、当田辺も広くて、南の方を南田辺というが、そこはかつての百済郡の地と見られていて、百済系渡来人であろうか。
しかし田辺の地名は、舞鶴や京田辺の例から、彼ら以前からの新羅や伽耶系の渡来人の残したものであろうか。

『新撰姓氏録抄』に
左京皇別下。
上毛野朝臣。
 下毛野朝臣同祖。豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也。大泊瀬幼武天皇(諡雄略)。御世。努賀君男百尊。爲阿女産聟家夜而帰。於応神天皇御陵辺。逢騎馬人相共話語。換馬而別。明日看換馬。是土馬也。因負姓陵辺君。百尊男徳尊。孫斯羅。諡皇極御世。賜河内山下田。以文書。爲田部史。宝字称徳孝謙皇帝天平勝宝二年。改賜上毛野公。今上弘仁元年。改賜朝臣姓。続日本紀合。


右京諸蕃上。漢。
田邊史。
   出漢王之後知惣也。
     右第廿三巻。









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