天橋立の誕生
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 天橋立の誕生現在の天橋立何とも美しく神秘的な海岸の景観である。 天橋立は日本三景だけでなく多くの名勝指定を受けている。 特別名勝、国定公園、日本の名松100選、日本の名水100選、日本の道100選、日本の白砂青松100選、日本の渚100選、美しい日本の歴史的風土100選、日本の歴史公園100選、日本の地質100選、重要文化的景観選定、海の京都観光圏認定。 京都府内では京都市内の次に観光客が多い観光地となっていて、日本人なら知らぬ者もない。 小天橋と言えば一般に久美浜の砂嘴・砂州をいうが、天橋立でも南ヘと伸びた砂嘴を小天橋と呼んでいる。現在のような、小天橋のある天橋立になったのは、幕末頃であったと言われる。 その当時は、大天橋とつながった、今よりも長い小天橋があった。もともとは大天橋と小天橋は繋がっていて、大天橋の延長として地続きにできたものであるが、明治5年7月の大洪水で、今の大天橋(橋の名)の所で60間(109メートル)にわたって決壊したという、堤防が決壊したような話である。 ここを切戸と呼ぶが、ここで切れて、さらに小天橋も途中で切れた、何時のころか記録にない、切れた先のほうを第二小天橋と呼んだ。やがて第二小天橋は陸地とくっついた。今の国道178号、宮津トンネルへ登る道と、旧国道が上下に交差するあたりに、海沿いに遊歩道が作られている。「第二小天橋」の案内板もあるが、そこの2、300メートルほどの松並木がその名残である。行きたいのだが、車を留める所はなく、訪れずのままだが、便利なことに 「グーグルストリートビュー」 で見ることができる。あるいは郷土資料館のリーフのカバー写真で見える(下にある)。 第二小天橋の地籍は 昔、男山の大杉というところに杉の大木があった。加悦谷、中郡地方はこの杉の木のために日光を遮られ、作物ができないので常に不平をもらしていた。遂に我慢ができなくなり、例の杉の大木を伐ってくれと要求してきた。男山の人々は神木として尊崇して来た霊樹を伐った後のたたりを恐れてすぐには返事ができなかった。 しかし、加悦谷、中郡方面の人々の抗議にも道理のあることで一概に拒絶することもできず村人達相談の結果これを伐り倒すことにした。 この杉の木、想像以上に大きく、その尖端は男山から海を越えて宮津町の西の端に達した。それからこゝに杉の末という町名がついた。 とあるが、大杉とは天橋立だろうから、まさに伝説通りのこととなっている。 また文殊側も、今の天橋立駅があるあたりは海であったという、智恩寺を乗せた小砂州が、大天橋を迎えるかのように突き出しているだけであったようである。 天橋立図。雪舟・室町時代・15世紀~16世紀・縦89.5cm:横169.5cm↑ 中世には小天橋はない。もともと300メートルぱかり切れている所を 天橋立もいきなり今のような姿で誕生したわけではなく、だいたい3000年ほどまえに産声をあげ、それは小さなものであったといわれ、それが少しずつ伸びていったものである。 「千金の磯清水」で知られる、磯清水の場所あたり、すぐ近くに天橋立神社が祀られている、地図でいえば途中の太くなっているあたりであるが、このあたりまで伸びてきたのは平安期であろうか。天橋立神社は吉佐宮の故地の伝承は、古くから今の位置にあったのなら成り立たないことがわかる。橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲まし 和泉式部とも言われるが、本当に和泉式部かは少々アヤシイ位置になる。 いずれも「丹後成相寺図」。上は初板本(元禄頃)↑。下は三板で幕末頃↓という。 『郷土と美術21』より。幕末頃から伸び出した様子がわかる。 宮津湾(与謝海)には反時計回りの沿岸流があって、北の波見川、世屋川、畑川が背後の山地から運んできた砂礫は、日置の平野を作り、さらに南向き沿岸流によって南ヘ運ばれる。そこで西から流れてくる野田川の流れとぶつかって堆積した結果、天橋立ができたものである、と言われる。 それなら一方方向で天橋立は伸び太るばかり、どこまでも伸び太るものと思われるが、昭和初期の頃から逆に天橋立が痩せ細るということが起こっている。 もしこの痩せ細り現象が3000年も続けば、天橋立が消滅することとなるかも… 突堤をたくさん作って、沿岸流を遮ったり、サンドバイパスといって、砂をよそから持って来て、橋立の付け根部分に投入する方法がとられて、今は何とか落ち着いているようである。 天橋立の誕生の秘密が判れば、死滅を回避する方法もわかるかも知れない。それがわかったようで、実はよくわからない。水の流れひとつにしてもまだよくわからず、橋立を生むかと思えば、削ったりもする、人間の知能には不思議で神秘なものに見える。 簡単におさらいそもそも日本海すら約2500万年前に、徐々に誕生したといわれているくらいだから、そんなに古くからあったわけではない。『京丹後市の歴史(中学校社会科副読本)』↑ さらに海水面の上下があった。 海水準の変化(ネットより) ほとんどの地質時代、長期間の平均的な海水準は現在より高い。例えば、白亜紀(グラフの記号では"K")には現在よりも200m以上高い時期があったことがわかる。現在よりも平均的な海水準が低かったのは、2億5千万年前のP-T境界(ペルム紀/三畳紀境界)付近の間のみという。 ペルム紀/三畳紀境界は古生代と中生代の堺目になる。地球史的には、めったにないほどの海水面が低い、2億5千万年ぶりの低さにあるのが現在の地球の海である。だいたいは今よりは100メートル以上は高かったようである。過去がそうであったのなら、将来もまた同じことが起きる可能性は高い。 古気候の研究者は現在を氷河時代とみなし、地質時代の中でも海水準は比較的低く、海水準の上昇と低下が頻繁に起こる時代と認識している。過去の記録から、およそ2万年前の最終氷期最盛期から6千年前までの間にかけて、海水準が120m以上上昇したことがわかっている。 氷河期と次の氷河期の間の気候が比較的温暖な時期である。現在の完新世間氷期は、約2万年前に更新世の最後の氷期が終わりを迎えるとともに始まった、という。 天橋立の海水面の変化 3300年前くらいに現在の高さにおちついて、その頃から天橋立が生成されはじめた、といわれる。合わせて波静かな内海の利用も活発になった。 港湾として内海の利用天橋立の誕生し、双子でできたのが阿蘇の海と呼ばれる内海である。阿蘇海のような内海をラグーン(lagoon)・潟湖(かたこ・せきこ)と呼ぶ、ラグーンは元々は南海の珊瑚礁で囲まれた内海を言うのだが、沿岸流の力で海岸寄りに形成された砂州や砂嘴によって、海の一部が切り離されて湖沼化したものを潟湖またはラグーンと呼ぶ。海水が供給されるため汽水で、水深浅く、防波堤天橋立があり波穏やか。 丸木舟に毛が生えた程度の古代の舟には都合の良い港となり周辺は栄えた。律令時代から中世にかけては当地が丹後国のミヤコであった。 阿蘇海北岸は今も府中と呼ばれ、こんな狭い所が(失礼)丹後国千年のミヤコであった。府中の最も広い所で、背後の山から海まで500メートルほどである。国分寺でも方2町(220メートル四方)くらいの寺域があるから、国府ならそれよりも広い、少なくともその倍はあろうと思われ、この場所を目一杯に使ったものだったのだろうか。 中でも有名な大風呂南一号墓(弥生後期)出土品↓。ブルーのガラス釧はカリガラス、鉛ガラスなら中国製だが、カリガラスの産地はアジアのどこかであろうが不明という、ベトナムあたりに似たガラスがあり、ベトナム産でないかと言われる。主体部は4.3メートルの舟底状木棺である。 『後漢書倭伝』『魏志倭人伝』に、 などとあるが、朱崖・儋耳は今の海南島(中国海南省)の古地名で、この島の東はトンキン湾である。もうベトナムであり、倭人の遠い故地の品ではなかろうか。ここで言っている倭人は純倭人で、今の日本人のことではなく、強く南方海人の香りがする。 同遺跡出土の鉄剣や朱は北からのものであろうから、南北が交じっている。海あっての、港あっての繁栄であったことがわかる。 (図の引用。勝手に使わせていただいたもの) 『新京都五億年の旅』『天橋立物語』『』 音の玉手箱
Chopin - Spring Waltz (Marriage d'Amour) |
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