丹後の地名プラス

そら知らなんだ

三宅(みやけ)
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -10-)


/https://775maizuru.jp/

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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ

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日子坐王と陸耳御笠
麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師
源頼光と酒顛童子
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丹後国神名帳(加佐郡編)
丹後国郷名帳
丹後国神名帳(与謝郡編)
丹後国の5郡
丹後国神名帳(丹波郡編)
丹後国神名帳(竹野郡編)
丹後国神名帳(熊野郡編)
天橋立伝説




『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


ミヤケとは


郡内に式内社三宅神社と三宅郷が見られる郡は、当地加佐郡の周辺(丹後国、丹波国、若狭国)にはない。当郡は何かそれなりに大和王権と強い由縁があるのだろうが、記録には何も見られず、大化改新前代の古い制度であり、不明のままで郷土史ではまるで存在しなかったかのように素通りしている。何か言えばヤマトの影響とか、ヤマトからもらったとか言いたがる割には、大事な歴史を見落としてはいまいか。
屯倉(みやけ)は、御宅・屯家・三宅・三家とも書いて、大和王権直轄の農業その他の経営拠点と見られている。郷名や神社名として『和名抄』や『延喜式』などの史料に残存しており、記紀が記すことのなかったミヤケの存在をうかがう貴重な史料となっていて、当地もこうした史料により、ミヤケが置かれていたことを知ることができる。
その設定は時代によって異なり、王権の膝下の畿内地域の大規模開発に始まり、その後地方にも設定されていったと思われる。その経営においては、中央から監督官にあたる「田領(たづかい)」「田令(たづかい)」が派遣され、「钁丁(くわのよぼろ)」が周辺農民から田部として徴発されたり、「丁籍(よぼろのふみた)」も作成され、中国朝鮮にならった当時の先進的な支配・経営方式がとられていたと見られる。
ワタシ風に言えば、プロトタイプ国府、元始国府的なもので、周辺と比べれば当時としては先進的な中央の政治行政、それだけではなく先端の文化も持ちこんだ地ではなかっただろうか。その文化遺産が残っているような地にミヤケは求められるのではなかろろうか。
以下手さぐり…

三宅神社(加佐郡式内社)

延喜式の加佐郡式内社に三宅神社が見られる。式内社三宅神社の鎮座地こそがミヤケの地であろうが、この社はイズコにあるのであろうか。

『丹後国風土記残欠』神名帳卅五座のなかに、「河邊坐三宅社」が見える。また本文にも「河邊坐三(二字虫食)(以下三行虫食)」とある。36座挙げられている、数え間違えか。
『観音寺神名帳』加佐郡七十七前には、「従二位三宅明神」と「正三位三宅明神」の同名社が二社挙げられている。これは重複でないかの見方もあるが、ワタシはそうではなく、三宅神社は少なくとも2社あったと見る。78座挙げられているが、どこかに重複があるか、数え間違いか。。
『丹後旧事記』に、「三宅神社。河辺中村。祭神 稲倉持命。」 とある「延喜式竝小社」と記載されていないが、式内社扱いの文中にある。

河辺の三宅神社




河辺八幡神社の祭礼に見られるノボリに「式内三宅神社」がある。西屋の練込み行列と、三番叟熱演の子供のうしろにそのノボリが見える(同じもの)。「三宅神社」「天照大神」「白髪大神」「須佐男大神」のノボリがある西屋こそミヤケの中心、河辺八幡社(河辺中)ではなく、西屋に三宅神社があったのではなかろうか。といってもすぐ隣りではある。

『加佐郡誌』
村社 八幡神社(式内)(東大浦字河邊中小字村下鎮座)
祭神 誉田別尊 猿田彦尊
由緒 古老伝えて曰ふ「当社は往昔三宅八幡宮と称したが中世社号を転じ八幡神社と称する様になつたのである」と、現今保存してある古幟の内には三宅社と記したものがある。丹波風土記で「河辺座三宅社」とあるは当社のことであって亦延喜神名帳に出た三宅神社であることも疑いない。創立年代は詳ではないとはいえ再建年代は至徳六年正和二年正慶六年寛永四年等であること今現に存する棟札に依って明らかである。


「京都府地誌」
八幡神社 村社々地東西二十七間南北三十間面積六百二十五坪村ノ東ニアリ誉田別尊猿田彦命ヲ祭ル里老云原ト三宅明神ト称セシヲ中古今ノ称ニ改ムト当社享保年度ノ幟ニ三宅神社トアリ祭日八月十八日境内末社三座アリ

「神社旧辞録」
八幡神社  祭神 誉田別尊・猿田彦命  同市字河辺中
 往古より三宅八幡宮と唱えて河辺谷の惣鎮守である。爾来三宅明神本地をここに当てる者も多い。古名正八幡宮

細川幽斎・忠興父子が丹後国主として治府中の天正十一年から慶応四年迄に田辺・宮津で「能」を施行した 五十回が「丹後細川能番組」として残されているが、第一番に「天正十一年癸未八月十五日於川辺宮」が見えるので紹介する。


『舞鶴の民話1』
おたかさん  (西屋)
 波静かな白糸湾沿いに「岸壁の母」で有名なかっての引き揚げ港を左に見ながら河辺の谷に入っていくと、右側の田んぼの奥に竹やぶがあり、円形の古墳が数多くあるそうだ。その一つを東高の生徒が調べたことがあるが、まが玉や矢じりが出土したそうだ。昔、この辺りまで海で、日本海で活躍した海の男や海賊の城があったようだ。
 河辺の八幡さんを過ぎるころから坂道となるが、この一帯の田園で収獲されるお米は深田であるだけにおいしいとの定評がある。…


『京都府の地名』
八幡神社 (現)舞鶴市字河辺中
 河辺中の東北端、空山の最西南山麓に立地し、老樹の繁茂する森の中にある。祭神誉田別尊・猿田彦尊。旧村社。
 草創時期については諸説あって判然しないが、当社に伝わる棟札の一に天養元年(一一四四)の年紀をもつものがあり、この時にはすでに存在したとするのが一番古い。
    大願主御代官左衛門尉藤原秀□氏 藤原光行
 奉修造岩津森□□天養元年六月四日河部村氏人等敬白
    大工藤原宗□ 権大工藤原宗吉
 ただしこの棟札の真偽については異論がある。また延慶元年(一三〇八)の棟札も残るというが確認できない。更に、「岩津森大明神□事」として「正和弐年歳次癸丑十月廿八日乙酉棟上卯時」という棟札もあり、至徳元年(一三八四)の年紀をもつ検札によればこの時上棟遷宮している。また神社本殿前に石灯籠があり、その竿に「貞和三年八月廿五日」の銘文があり、当社蔵大般若経の一に「丹後国加佐郡志楽庄河部村岩津森常住也文亀元年十月十九日」「文亀元年十月十九日是買取也」という奥書がある。
 なお伝承によれば、当社は往昔三宅八幡宮と称したが中世社号を転じて八幡宮を名乗った。「延喜式」神名帳に載せる「三宅神社」、「丹後風土記」残欠にいう「河辺座三宅社」とは当社のことであるというが、分明でない。
 江戸時代の八幡神社については、旧語集に
  正八幡 鍵取 新井
  中村 西屋 室牛 由里 栃尾 原 六ケ村ノ氏神
  御上御巡見之節ハ御子ヲ舞シ入御覧
とあるように河辺谷六ヵ村の氏神であった。中世にも志楽庄河辺村の鎮守として崇敬を受けていたものと推測される。…


「天養元年」は「至徳元年」(1384)の読み違えというが、これら棟札や石燈籠は古いものである。さらに大般若経600巻が残されていて、琵琶湖周辺にあった大般若経が取り合わされて、1500年頃若狭を経て当社に買い取られた、すでに仲介する商社のようなものがあったようである。
また平城宮出土木簡の庸米付札に「□敷郡〈青郷川辺里〉庸米六斗〈秦 □〉・天平二年(730)十一月」ある。この青郷川辺里は、現在の当地の一帯に比定され、古くは若狭であったようである。祭礼芸能は丹後よりも高浜町のものとよく似ていて同一の文化圏にあったと思われる。

干田(ひだ)古墳群と大波(おおば)古墳群
干田古墳群は、当社とは川を挟んだ対岸にあり、16基の10メートルばかりの円墳からなる終末期の群集墳。大波古墳群はその裏山の裏側、板ガラス工場がある側で、59基からなる同じような群集墳。この時期これだけの群集墳は丹後には見られない。大波に多いが、かつてはこの地も三宅であった可能性が考えられるかも、朝来(あせく)校倉(あぜくら)造りの倉があったからという地名伝説(「残欠」)があるが、そうした立派な倉があったのなら、まさに屯倉(みやけ)でなかろうか。

古墳時代の後は飛鳥文化で、仏教文化であり、古墳の後継宗教施設になる。
国際性溢れるもので、渡来人たちの活躍であった。現代人が見ても驚くが、当時の人々にはどれほどシビレルものであったことであろう。文化革命にとどまらず人々精神まで変えていくのを主導したのが大きい。
これがエンタシスの柱、ギリシャだよ。とか修学旅行か何かで教えてもらったことがあるが、遠くギリシャペルシャの文化まで取り入れた。

観音寺と多禰寺
観音寺は、山号補陀落山、真言宗御堂派。本尊千手観音。縁起(寺蔵)によれば、延暦5年(786)異人の持ち来たった千手観音・不動・毘沙門天を祀ったのに始まるとし、鐘楼・経蔵が多くあって伽藍を誇り、同7年には封戸50戸を賜ったという。

多禰寺は、山号医王山、真言宗東寺派、本尊薬師如来。寺蔵の縁起(享保2年成立)は「医王山多禰寺者密教嗣続之雪場而(中略)用明天皇即位二年王子麻呂子(割注・又号金麻呂親王矣)草創之地也」と麻呂子親王伝説と結び付けて草創を説き、本尊薬師仏は麻呂子親王七仏薬師の一、瑠璃光如来とする。
丹後最古の寺と言われ、仁王像は運慶作と伝わり国重要文化財、全国第3位の大きさである。

奈良東大寺、京都清水寺の仁王像に次いで全国3番目である。
東大寺南門の仁王さんが約8mだそうで、だんぜん一位、京都清水寺のもの、京都では一番大きいといわれるもので3.65m、これが第二位、次がこの多禰寺の上写真のもので、3.55と3.58mです。
東大寺や清水寺を知らぬ者はないだろうが、多禰寺は誰も知らない。清水寺にわずか10センチ低いだけ。そんな立派なものがあるとは目の前にあっても信じられないが、そんなものがこのお寺にはある。加佐郡の誇りのトップに掲げるべき仏像である。それが大浦半島にある。

と当サイトのHPにあるが、惜しいことだが舞鶴人も知らない、見たこともない。外を見ない舞鶴人には関心も薄い。世界に繋がる一人だという自己認識もない。
ただ大きいだけでなく、運慶かどうかは別としても、このド迫力、中央の名のある仏師によるものと思われる像である。当時の国家がからんでいるのでなかろうか、とは誰も考えもしない。

カンコーカンコーと、くだらぬ物に税金をムリに捨てるのではなく、こうした文化を生かしたいもの。
ご本尊とか信仰の対象ではない、仁王さんだから、強い光を当てるとかしない限りは写真もどんどん撮ってもらって宣伝してもらう方がいいのではなかろうか。第三位仁王様の写真がないように思う、歴史が埋もれてしまわないかと心配する。
歴史が忘れられ、文化が埋もれてしまえば、その先には、先はない、まさに滅亡であろう。地域を守り発展させたいなら、文化力を高めよう。
と言っても一朝一夕に高まるものではない、そこそこになるまでには、幅広い裾野と三代ほどの時間がかかる、簡単ではない。ゼニと根気と才能がマジメに続かなければ、終わる。少なくとも今あるものは失わないようにしたいものである。


そのほかの三宅神社

河辺の三宅神社周辺の古い文化のすごさを上回るような文化圏は加佐郡内にはない。ここがミヤコの国際文化香るミヤケであろうとワタシは推測するが、郡内には三宅神社はほかにもある。観音寺神名帳に2社見えるし、河辺坐三宅神社とわざわざ限定しているように、郡内にはほかにも同名の神社があったのだろうと推測はできるし、実際にいくつか今もある。

北吸の三宅神社
今の三宅団地のある谷が三宅と呼ばれる地で、三宅公園などがある。それほど広い谷ではない。河辺谷の10分1くらいもないかも知れない。
三宅という地名はあったが、三宅神社はなかった。



大門通りの西の突き当たり、北吸三差路の西の山腹、市役所の南側に三宅神社がある。もとは昔の北吸(三宅団地がある谷)にあった「三宝荒神」だが、明治の神仏分離令によって「北吸神社」となり、さらに同15年に「三宅神社」と改称した。これは延喜式内の三宅神社に比定したためで、石段下には「式内三宅神社」の石柱が立っている。明治24年、北吸は全戸が軍港用地になって立ち退かされ、糸谷や浜地区西部に移住し、「三宅神社」もここに移った。ノボリにも式内三宅神社とある。
案内板に、
式内 三宅神社
主祭神 豊宇気姫命
(衣・食・住ヲ司ル女神、広ク産業殖産ノ女神)
配祀  多遅麻毛理(菓子ノ祖神)
    白兎神(御本殿ノ守護神、緑結ビノ神)
御創建 延長五年(西暦九二七年)ノ延喜式撰上以前。
御由緒 元、市内北吸ノ三宅谷(現三宅団地附近)ニ鎮座ス。明治三十四年ノ舞鶴鎮守府開庁ニ先立チ、明治二十四年此処ニ遷座シ現在ニ至ル。
主祭神豊宇気姫命ハ伊勢ノ外宮ノ御祭神「豊受大神」ノ流レヲ汲ミ、古ク稲ノ神霊ヲ主祭シタ巫女ガ神格化シテ「命」ノ名ヲ得タト伝ヘラル。


『中舞鶴校百年誌』
 北吸には三宅神社が祀ってあったがこの北吸村は明治の中期、余部下村と同様舞鶴軍港設置のため全村移転したので神社も今の地に奉遷されたものである。
 この神社は「式内社」とされているが北吸在住の山崎久蔵氏(元北海道教育大学教授で大正の一時期本校の職員奉職)の説によると「式内社」に格付けするため河辺の「三宅八幡」と混同したものらしいとのことである。



西方寺・猪藏神社の境内社の三宅神社

『加佐郡誌』
猪蔵神社

境内神社 大川神社(祭神 五元神)
       三宅神社(祭神 火武主比神ホムスビ (素盞鳴尊 稲蒼魂命)


境内社がたくさんあって、神額がハゲていたり、なかったりしてどれが三宅社なのかわからなかった。


喜多・宮崎神社

『丹哥府志』は喜多の宮崎神社に比定する。
【三宅神社】(延喜式)
三宅神社今訛りて宮崎明神と称す、祭六月十八日

写真のたぶん左側の祠。


『日韓古地名の研究』(金沢庄三郎)
アガタは縣にして、宣長はこれを上リ田即ち陸田の義に解す、御上田(みあがた)は即ち御料地にして、同じ御料にても御田(みた)は屯田とも書き、武戴國荏原作御田(美多)などこれなり。書紀にこの御田の御倉を屯倉その官衙を官家と書きで、いづれもミヤケと訓み、地名には三宅と書く、御家の義にして、大家(おほやけ)と同じく官所(つかさどころ)をいふなり。縣の字は懸の古文にして、郡縣といふは、郡に懸るよりの名義なり。廣韵に楚莊王滅陳爲縣、縣名自始也とある如く、諸侯の他国を征して己の領とするを縣にすといひ、始皇の封建を改め、天下を統一して郡縣とせるなどの意より推して、我國にても朝廷御料のアガタにこの字を充てたるなり。通繿、府昭宗紀の注に唐時宮中率呼天子宅家、又群小呼官家とあれば、書紀の官家(みやけ)もこれ等に據れるものなるべし。
家をヤケと訓むのは音訓兩點と思はれるが、公私の公(おほやけ)も大家(おほやけ)である。下野國梁田郡大宅、上野國多胡郡大家はなほ官家といふに同じく、郡司の治する所の郡家の所在地であった。ミヤケといふ語もヤケの敬稱であるから、オホヤケと同じく官家の義であるが、官家には官倉があって、國家の米廩であつたから、屯倉、屯家をもミヤケといふ。垂仁天皇廿七年紀に屯倉此云彌夜気とあるのがそれであるが、?(竹冠に屯)は穀を盛る器で、屯をこれに通じて用ひたものである。筑前国那珂郡三宅、備前國児島郡三家(美也希)、武蔵國橘樹郡御宅(美也介)などは、いづれも官倉のあつた土地で、播磨國印南郡益気(ヤケ)には敬語が省かれてゐる。越後國頸城部板倉(以多久良)備中国賀夜郡板倉も公殼を納める板倉の所在地であつた。上古は國毎に田部を置いて官田を佃らしめた、武蔵國荏原郡御田(美多)、伊賀國阿郡郡三田などがそれである。

『丹哥府志』は、
【郡立大明神】
丹後旧記云。元明天皇和銅六年夏四月丹波五郡を割て丹後の国を置く、始め郡を分つ時先づ加佐郡河守庄より始めて竹野郡網野庄に終る、両所に公庄村を置く蓋し始終を示すなり、其終る處に一社を建つ蓋し帝を祀るなり、延喜式に云ふ生王部神社是なり、今郡立大明神といふ。
 愚按ずるに、公庄といふ村の名は此両所にかぎらず往々是をきく、いまだ必ずしも郡分に限らず、但神の名に郡立といふは少し珍らしく覚ゆ、され共実に元明帝を祭ると旧記の據審ならず。


意外な歴史が隠れていそうな地名だが、大宅(おおやけ)(おおやけ)というのも三宅のことという。大江町公庄(ぐじょう)、漢字から言えば大宅の庄であり、ここも三宅神社があるのか。

三宅神社(大江町公庄)
『丹後史料叢書五』「丹後国式内神社取調書」
【丹後国式内神社考】三宅神社 天眞名井孝ニ公荘村ニアリ今村中ニ三社アリ其中ニ熊野若宮社イト古シ社伝記ニ麻呂子親王ノ臣等ヲシテ御造営アリシ由其後今ノ地ニ遷座云々

鬼退治伝説を伝える斎宮神社もある。
公庄は天田郡との堺である。



三宅郷


加佐郡三宅郷は和名抄には見えない郷だが、『残欠』には、
加佐郡郷合九余戸壱神戸壱里 (以下虫食)

三宅郷 今依前用

と三宅郷があったことを記している。
『加佐郡誌』
今左に本郡の郷名を挙げて見る。但し書物により異同ある故、其の中より先ず正しきものと思われる丹後風土記所載のものを選んで置く。一、志楽郷 須知(シラク)又は設楽(シタラ)。二、高橋郷 高梯 高椅。三、三宅(ミヤケ)郷。四、大内(オホウチ)郷。五、田造(タツクリ)郷。六、凡海郷(オフシアマ)。七、志託郷 荒蕪シタカ。八、有道(アリチ)郷 蟻道(アリミチ)。九、川守(カハモリ)郷。外に、余戸(アマベ・アマリベ)゙。神戸(カンベ)。…異説 和名類聚抄には、一、志楽。二、高橋。三、大内。四、田造。五、凡海。六、志託(シタカ)。七、有道。八、川守。外に、余戸及び神戸とあって、三宅郷を記していない。
三宅郷は、今の東大浦村河辺川流域の称であらう、と思はれる。何となれば、丹後風土記に「河辺に座せる三宅神社云々」の文字が見えているから、斯う憶測しても差支へなかろうといふのである。


史料的にはこれしかない。
その郷域は今の河辺を中心にその周辺ではなかろうか。


そのほかに、
京都府京丹後市丹後町に三宅の地名が残る、国道482号(間人街道)の竹野川に架かる三宅橋がある。
しかし何も古代に遡れそうな史料は残されていない。この時期だろうかとも思われる古墳が少しあるくらいである。

丹波国の蘇斯岐屯倉(そしきみやけ)
安閑2年紀に、
五月の丙午の朔甲寅に、筑紫の穂波屯倉・鎌屯倉、豐國の腠碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大抜屯倉・我鹿屯倉、火國の春日部屯倉、播磨國の越部屯倉・牛鹿屯倉、備後図の後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉、婀娜國の膽殖屯倉・譫年部屯倉、阿波國の春日部屯倉、紀國の経湍屯倉・河邊屯倉、丹波國の蘇斯岐屯倉近江國の葦浦屯倉、尾張國の間敷屯倉・入鹿屯倉、上毛野國の緑野屯倉、駿河國の稚贄屯倉を置く。

安閑(あんかん)天皇は勾大兄(まがりのおおえ)といい継体の長子。母は尾張目子姫。用明のオジさん、聖徳太子のオジイちゃん(世代)の人になる。この頃に全国に大量に屯倉が設けられたようである。この条以外にも見られ、その数は43箇所にのぼる。
丹波国(丹後国を含む)の蘇斯岐屯倉は今のどこにあたるかは不明とされる。
いやいや蘇斯岐屯倉は舞鶴ですがな、の説もある。蘇斯岐とは今の白杉(しらすぎ)で、安閑(勾大兄)を祀る白杉神社がありますやろ。それから、それから…という。(「突拍子もない話」岡野允氏)
郷と式内社がある丹波国内のミヤケは舞鶴しかないから、どこかに記録されていてもおかしくはない、白杉と蘇斯岐は同じ意味であろう。
しかし白杉神社は元は蔵王権現といっていた、裏山に白杉鉱山があり、金ケ崎という半島状になる山である、蔵王と安閑とは習合して同一視されることもあり、あちこち安閑を祀る社があるが、たいていは元は蔵王であったと推定されている、白杉の場合も社名を改めたときに祭神の蔵王を勾大兄命としただけのことかも知れない。ほかの根拠はコジツケ的にも見えるのだが、市教委までも老人嶋神社の祭神は尾張目子姫とするようになった、今もそう言っているのかは知らないが、いかに魅力的なハナシとはいえ仮説に引きずられて現実を換えるというのはいかがなものか。








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 El humahuaqueño :花まつり



(93) El Humahuaqueño - YouTube
(93) ♪花祭り ウマウアケーニョ♪ - YouTube
(113) Soledad Pastorutti - El Humahuaqueño - YouTube

現地ではスペイン語で、El humahuaqueño(ウマウアカの人)と呼ばれている。
「ウマウアカの谷がお祭りだ、チョリータさん。太鼓叩いて笛吹いて、踊ろう」といった歌詞だそう。チョリータというのは踊っている女性が来ている服装、その服装の人のことのよう。

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