少年易レ老学難レ成、一寸光陰不レ可レ軽
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい
友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
日本海側にも、いくつかの巨大な古墳が存在する。特に丹後にある巨大古墳は、日本海側のNo.1、No.2、No.3で、金銀銅を独占し、古代に丹後王国が栄えた地の考古学的証拠の1つと見られている。(文献的には何も知られていない)
それは(データーは少し古いかも)
網野銚子山古墳(京丹後市):
墳丘長: 約198メートル
築造年代: 4世紀末から5世紀初頭(古墳時代前期後半)
神明山古墳(京丹後市):
墳丘長: 約190メートル
築造年代: 4世紀末から5世紀初頭(古墳時代前期後半)
蛭子山古墳(与謝野町):
墳丘長: 約145メートル(蛭子山古墳群1号墳)
築造年代: 4世紀中頃(古墳時代前期後半)
これらの古墳は、丹後と日本海側の古代史と文化を物語り、その規模とナゾの歴史的地理的背景から多くの人々を魅了している。
日本海側の古墳概要
資料は主にネット上のものによる。
北陸
六呂瀬山1号墳--143㍍ (坂井市丸岡町上久米田)
坂井市丸岡町上久米田の丘陵上にの4基の古墳。1号墳は全長143m、3号墳は全長約90mの前方後円墳、北陸最大級の前方後円墳を含む古墳群です。
1号墳は4世紀後葉に造られました。墳丘は二段築成で、表面には石を葺いていました。また、後円部には石を葺かない張り出しをもちます。墳丘のうえからは埴輪が見つかっており、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家・よろい(短甲)の形を模した埴輪などが古墳のうえに並べられていたことがわかっています。また、笏谷石製の石棺のかけらも見つかっており、この古墳に葬られた遺体は当時の嶺北の権力者が好んだ舟形石棺に納められていたと考えられています。
3号墳は1号墳よりも後に造られており、5世紀前葉のものです。1号墳と同様、二段築成で、表面に石が葺かれており、そして後円部には石を葺かない張り出しをもつ前方後円墳です。3号墳でも墳丘のうえから、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家・よろい(短甲)・きぬがさ・盾・鶏などを模した埴輪が見つかっています。
本古墳群は、いずれも丘陵尾根上に築造されているため、自然地形の制約を受けており、墳形は必ずしも整美なものであるとは言い難い。
1号墳は、墳丘主軸がほぼ南北にそろう前方後円墳で、前方部を南に向ける。全長は140mで、北陸地方最大の規模を有する。後円部の径は78m・高さは13m、前方部の長さは52m・幅は58m・高さは11mを測る[1]。墳丘は2段築成で、葺石と埴輪(円筒・家形)を有している。後円部東部に、東西27m・南北15m・高さ4.2メートルの半円形の張出がある。後円部頂上には、盗掘坑があって、この周辺から凝灰岩製の石棺破片が採集されているので、内部主体は石棺であろうと推定されている。1号墳の築造年代は、墳形・埴輪などからみて、4世紀末から5世紀初頭にかけての頃と考えられている。
2号墳は、1号墳の後円部張出部の東方に、掘割を隔てて存在する古墳で、1号墳の陪塚と考えられる。不整形な方形をしており、東西16m・南北14m・高さ2.2mを測る。葺石と埴輪はない。
3号墳は、墳丘主軸をほぼ東西方向にそろえた前方後円墳で、前方部を東に向ける。前方部の上面前端は、1号墳の後円部西裾にほとんど接しており、前方部前面がないという特異な形をしている。全長は、85mで、後円部の径は48m・高さは11m、前方部の長さは37m・幅は48m・高さは9mを測る。墳丘は2段築成で、葺石と埴輪(円筒・家形・短甲形・衣蓋形・盾形)を有している。後円部北裾に、北に向かって東西11m・南北11m・高さ1.1mの張出がある。墳形や埴輪からみて、3号墳の築造年代は、1号墳よりやや遅れる5世紀前葉と考えられている。
4号墳は、2号墳の後円部張出部の北方に、浅い掘割を隔てて存在する古墳で、3号墳の陪塚と考えられる。不整形な方形をしており、東西13m・南北16m・高さ2.7mを測る。
九頭竜川の右岸に位置する六呂瀬山古墳群。
標高50~200mの丘陵上には、約130基の古墳があり、全体を総称して丸岡古墳群と呼んでいます。
また対岸(九頭竜川左岸)にも手繰ヶ城山古墳(国の史跡)をはじめとする松岡古墳群があり、一帯が古くから拓けた地であることがよくわかります。
六呂瀬山一号墳の被葬者は、手繰ヶ城山古墳(4世紀中葉頃に築かれた越前における最初の大首長墳/墳丘長129m)の後、4世紀後半から5世紀前半にかけて存在していた高志国(こしのくに/後の越国で、律令制時代に越前、越中、越後に分離)における大首長の墓と推測できます。
坂井市丸岡町高椋は、『日本書紀』、『古事記』に記される継体天皇の母・振姫の故郷とされますが、継体天皇が生まれたのは5世紀後期とされるので、六呂瀬山一号墳に眠る首長は、それ以前に高志国を統治し、ヤマト王権と密接な関係を保った首長ということに。…
『日本書紀』17巻 26継体
男大迹天皇 繼體天皇
男大迹天皇〔更の名は彦太尊。〕は、譽田天皇の五世の孫、彦主人王の子なり。母を振媛と曰す。振媛は、活目天皇の七世の孫なり。天皇の父、振媛が顔容姝妙しくして、甚だ?色有りといふことを聞きて、近江國の高嶋郡の三尾の別業より、使を遣して、三國の坂中井〔中、此をば那と云ふ。〕に聘へて、納れて妃としたまふ。遂に天皇を産む。天皇幼年くして、父の王薨せましぬ。振媛廼ち歎きて曰はく、「妾、今遠く桑梓を離れたり。安ぞ能く膝養ること得む。余、高向に歸寧ひがてらに、〔高向は、越前國の邑の名なり。〕天皇を奉養らむ」といふ。
継体陵と見られる今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した継体大王の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。平成9年度から10カ年にわたる確認調査により、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいし
く)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
若狭の古墳-上ノ塚古墳 100㍍ (若狭町脇袋)
脇袋古墳群
立派な古墳が集中するので「王家の谷」と呼ばれている、ここには前方後円墳4基(中塚、上ノ塚、西塚、糠塚)と円墳3基(荒塚、光塚、上下ノ森)とからなる。古来「七つ塚」と呼ばれてきたが、荒塚、光塚の円墳は消滅している。上下ノ森は脇袋丸山塚古墳と呼ばれている帆立貝式円墳。
上ノ塚古墳↑
水田の中にあり、原形もよく保存されている。5世紀初頭の前方後円墳。国史跡。扇状地上に立地し、3段築成の墳丘はほとんどすべて盛土による。全長100m、後円部径64m、前方部幅60m、後円部高9m、前方部高7m。若狭最大最古の前方後円墳である。葺石、埴輪を備える。昭和63年、周辺水田の圃場整備に伴い、前方部前方の周濠調査が実施され、周濠幅約10mと古墳基底が現水田面下約1.5mに埋没していることを確認した。埋葬施設および副葬品その他の遺物について知られていない。
但馬-池田古墳 136㍍ (朝来市和田山町平野)
和田山盆地北部の大倉部山東麓に築造された大型前方後円墳。明治40年頃の山陰本線敷設の際に墳丘が削平され、古墳域は宅地化し、墳丘中央には国道9号(和田山バイパス)が横断したため、旧状は大きく損なわれている。
前方部を北東に向け、3段築成。墳丘長は約136メートル、但馬では最大規模、兵庫県内では第4位の規模になる。墳丘外表は葺石で覆われ、円筒埴輪列・形象埴輪(水鳥形・家形・盾形・壺形・蓋形埴輪等)が認められるほか、左右くびれ部には造出を有する。埴輪のうちでは特に水鳥形埴輪が23個体を数え、古墳1基からの出土では全国で最多になる。墳丘周囲には盾形の周濠も巡らされており、埴輪・葺石・周濠を備えた古墳は但馬地方では池田古墳と船宮古墳(朝来市桑市)のみ。埋葬施設は不明。池田古墳の北西4キロメートルの高田地区など数ヶ所に長持形石棺の部材片が残るが、王墓に特有のこの長持形石棺が池田古墳に使用された可能性が指摘される。
池田古墳は、墳形・出土埴輪より古墳時代中期の5世紀初頭頃の築造と推定される。朝来市域では古墳時代前期の南但馬地方の王墓として若水古墳・城ノ山古墳の築造が知られるが、それらに後続する池田古墳は南北但馬地方を統合する最初の王墓に位置づけられ、その地位は茶すり山古墳(朝来市和田山町筒江)・船宮古墳へと継承される。
和田山町の古墳は総数159基を数え、昭和46年の国道9号和田山バイパス建設のため発掘された城の山古墳は、東谷字城山の小丘陵の頂部に営まれた直径30mを越える円墳で、組合式の箱形木棺、三角縁神獣鏡など鏡6面、碧玉製盒子・石釧・琴柱形石製品・玉類・鉄器など多数の副葬品を有し、4~5世紀前半の間に大和政権の支配が但馬地方に浸透した物証として注目されている。
平野にある池田古墳は全長136mの最盛期の前方後円墳で、但馬最大、県下でも第4位の規模を誇る。そのほか山陰道沿いには全長70mの長塚古墳、全長60mの小丸山古墳(県史跡)など前方後円墳を中核とし、大型の円墳4基を含む中期・後期の岡田古墳群がある。
兵庫県内の主な古墳
五色塚古墳(神戸市) - 墳丘長194メートル。
雲部車塚古墳(丹波篠山市) - 墳丘長158メートル。
壇場山古墳(姫路市) - 墳丘長143メートル。
池田古墳(朝来市) - 墳丘長136メートル。
輿塚古墳(たつの市) - 墳丘長110メートル。
玉丘古墳(加西市) - 墳丘長109メートル。
鳥取県の古墳、北山1号墳 110㍍ (鳥取県東伯郡湯梨浜町野花・長和田)
北山古墳(きたやまこふん、北山1号墳)は、鳥取県東伯郡湯梨浜町野花・長和田にある古墳。形状は前方後円墳。北山古墳群を構成する古墳の1つ。
前方後円形で、前方部を西南西方に向ける。墳丘長は110メートル、鳥取県および島根県域では最大規模。墳丘外表には葺石のほか円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪が認められている。
島根県の古墳-スクモ塚古墳(益田市久城町字須久茂塚) 96㍍
スクモ塚古墳は、石見はもちろん県内でも最大の前方後円墳です。前方部の上に壇状の高まり(「方形壇」)を設けているのが特徴。
後円部の上段斜面には石が葺かれ、後円部の墳頂とテラスおよび方形壇の墳頂には円筒埴輪を配列。出土した円筒埴輪から古墳時代前期末~中期初頭(4世紀後葉)に築造された。
方形部の両側に直径10メートル、高さ2.5メートルの小さな陪塚が存在していたことが確認されているが、ほとんど消滅。
山口県の古墳 仁馬山古墳(山口県下関市延行・有富) 75㍍
瀬戸内海側になるのかも
綾羅木川右岸の台地上に立地する全長75mの前方後円墳。後円部径47m・前方部幅23m、後円部は3段築成で葺石・埴輪を備える。前方部では濠の痕跡が認められ、その外側に陪塚と思われる円墳2基が存在する。埋葬施設は後円部中央に構築された粘土槨で、内部に直径約1m・長さ約6mの割竹形木棺が納められていた。4世紀後半の築造。
九州の古墳
1位 男狭穂塚(西都原古墳群)
形式:帆立貝形古墳
墳丘長:176m
場所:宮崎県西都市/西都原古墳群
築造の時代:5世紀前半中頃
史跡指定:宮内庁の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の陵墓参考地
男狭穂塚(西都原古墳群)
西都原古墳群の一部、男狭穂塚(おさほづか)は、墳丘長176m、後円部直径132m、後円部高さ18mの帆立貝形古墳で、九州最大の古墳。
1位 女狭穂塚(西都原古墳群)
形式:前方後円墳
墳丘長:176m
場所:宮崎県西都市/西都原古墳群
築造の時代:5世紀前半中頃
史跡指定:宮内庁の木花開耶姫(このはなさくやひめ)陵墓参考地
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)にある女狭穂塚(めさほづか)は、全長176m、後円部直径96m、後円部高さ15mで、九州では最大の前方後円墳。宮内庁は、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の陵墓参考地に治定しています。
3位 唐仁大塚古墳
形式:前方後円墳
墳丘長:140m
場所:鹿児島県東串良町/唐仁古墳群
築造の時代:4世紀末(古墳時代中期初頭)頃
史跡指定:国の史跡(唐仁古墳群)
唐仁大塚古墳
鹿児島県東串良町(ひがしくしらちょう)にある、墳丘長140mという九州第3位の巨大な前方後円墳が唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん)。130基の古墳で構成される唐仁古墳群(国の史跡)の主墳(1号墳)にもなっています。大隅半島、志布志湾に臨む
4位 生目三号墳(生目古墳群)
形式:前方後円墳
墳丘長:137m
場所:宮崎県宮崎市/生目古墳群史跡公園
築造の時代:4世紀中頃(古墳時代前期)
史跡指定:国の史跡(生目古墳群)
生目三号墳(生目古墳群)
宮崎県宮崎市の大淀川右岸の台地上にある生目古墳群(いきめこふんぐん)最大の古墳が生目三号墳。墳長137mの前方後円墳で、宮崎県でも西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次いで3番目の大きさ。
5位 岩戸山古墳
形式:前方後円墳
墳丘長:135m
場所:福岡県八女市/八女古墳群
築造の時代:6世紀前半(古墳時代後期)
史跡指定:国の史跡(八女古墳群)/筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓
岩戸山古墳
日本海側と言えるかはわからない、むしろ有明海に近いが、福岡県八女市にある八女古墳群を構成する岩戸山古墳は、北部九州最大の前方後円墳。6世紀前半(古墳時代後期)の築造。5世紀から6世紀にかけての古墳群が多い八女丘陵(八女古墳群/国の史跡)のなかでも、墳丘長135m、後円部径約60m、円方部幅92。雄大な墳墓の区域に阿蘇凝灰岩で造られた石製品を配列していることで知られる。
4~7世紀にかけての古墳300余り基からなる八女古墳群の一つで、九州北部における最大級の前方後円墳。日本の古墳は埋葬者が不明な場合がほとんどです。そんな中、この古墳は6世紀初め頃の有力者であり、ヤマト王権に反乱した筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓だということが分かっている珍しいケースです。出土品の円筒埴輪(はにわ)や、九州で特徴的に見られた石製品(人物・動物・器財)などがある。
岩戸山古墳出土の石人
八女市北部、八女丘陵上に展開する八女古墳群を構成する古墳の1つ。八女丘陵は東西10数キロメートルからなり、5世紀から6世紀にかけての古墳が数多く築かれている。その数は前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及び、当古墳はその中でも代表的なものである。
古墳は東西を主軸にして、後円部が東に向けられている。2段造成で、北東隅に「別区(べっく)」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するという特徴を持つ。築造年代は須恵器の年代観から6世紀前半と見られ、被葬者と推定される筑紫君磐井に関する記録とも一致している。内部主体は明らかとなっていないが、電気探査等で横穴式石室と推定される構造が確認されている。なお、墳丘脇には神社(大神宮)が鎮座しているが、古くは後円部墳頂に鎮座していた。
墳丘・周堤・別区からは一般に「石人石馬」と総称される当地周辺特有の石製品が100点以上出土しており、その数・種類は他の古墳を圧倒している。これらは人物・動物・器財の3種類に大別され、実物大を基本とするという特徴を持っている。なお、現在の別区には石製品のレプリカが大きさを縮小して建てられている。
墳丘
古墳総長:170メートル以上
墳丘長:約135メートル
後円部
直径:約60メートル
高さ:約18メートル
前方部
幅:約92メートル
高さ:約17メートル
別区
一辺43メートルの方形
古墳周囲には幅20メートルの周濠・周堤がめぐらされている。
被葬者
被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている。文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つである。
筑紫君磐井は『古事記』・『日本書紀』に反乱伝承が記されている。また『筑後国風土記』逸文(『釈日本紀』所収)には岩戸山古墳の状況や位置が記されており、別区では裁判を思わせる記述もある。同文によると、磐井は生前から墓を作っていたが、戦に敗れ放棄したという。
『筑後国風土記』逸文
筑後の國の風土記に曰はく、上妻の縣。縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各册丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて街頭と曰ふ。衙頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縱容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭あり。贓物と號く。贓物は盗みし物なり。彼の處に亦石馬三疋・石殿三間・石藏二間あり。古老の傳へて云へらく、雄大迹の天皇のみ世に當りて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃はず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄にして官軍動發りて襲たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、獨自、豐前の國上膳の縣に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき。士、怒泄まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち墮しき。古老の傳へて云へらく、上妻の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは茲り由るか。
音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
Дорогой длинною (encore)
Those Were The Days Le Temps des fleurs
annaさんは ucrâniaの人だそう。敵国の言語でも流暢なもの。(ロシア語も半分ほどのウクライナ人は使うという)
対岸に位置する隣国の国々の言語、ロシアや韓国・朝鮮、中国などの言葉は、舞鶴人には必須のもので、まったく関係のない言語ではない。あらゆる機会に、片言でも覚えたいものである。相手だって、そのような努力をそれなりにしている。しないとMaidzuruは文化が低いとお隣りからも低評価されよう。
いまからでも遅くはないが、死んでからでは遅い、死ぬまでには、遠い道を、月の夜を(дорогой длинною, ночкой лунною)、七弦ギターと共に(с
семиструнною)学ぼう…
ポール・モーリアPaul Mauriat /悲しき天使Those Were the Days (1969年) (youtube.com)
(45) 2 ACCORDIONS Аккордеонистки России дуэт "ЛюбАня" - ДОРОГОЙ
ДЛИННОЮ - YouTube
(45) Романс Дорогой длинною КЛАСС!!! beautiful Russian romance ИЗУМРУД
ПОДПИШИСЬ НА МОЙ КАНАЛ! - YouTube
Bonnie Tyler - Those Were the Days (youtube.com)
(45) LE TEMPS DES FLEURS - Dalida par l'Orchestre UFO ( Cover Live
) - YouTube
【和訳付き】長い道を(ロシア民謡)"Дорогой длинною" - カナ読み有 (youtube.com)
関連情報
放送の合間にこんな曲が流れます(予定)
「なごり雪」
「桜咲く国」 「花」(滝廉太郎) |
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