天橋立伝説
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 天橋立伝説丹後を代表する観光地、というより日本を代表する、知らぬ人もない観光地である。 海に浮かぶ約4キロの白砂青松。天上界に繋がる天橋とされる半神仙界の空間。 伝説は数多いが、それらは互いに関連したものであろう。 一見バラバラのように見えるが、それらの統一理論私案とでもいったものに沿って紹介してみよう。 天上世界とつながるハシゴが倒れて出来た天橋立誰もが知る伝説で、 『丹後国風土記逸文』(古典文学大系本) 天椅立 これは8世紀の頃に当時の事情に合わせて、古い伝説が合理化されたもののようで、世界樹の伝説の変形ではなかろうか。 世界樹が倒れて出来た天橋立天橋立の裏山↑(鼓ヶ岳・成相山)のテッペンに大きな神木(世界樹・宇宙樹・生命樹・知恵樹)が生えていた、それが倒れて、海に落ちて出来たのが天橋立。とする伝説があったものと推測される。 『京都の伝説 丹後を歩く』(淡交社・平成6)に、 蛇谷の大杉(伝承地 与謝郡岩滝町蛇谷) 昔、岩滝村字男山の大杉の谷というところに杉の大木があった。中郡地方はこの木のために日光がさえぎられ、作物のできが悪くていつも不平を洩らしていたが、ついに抗議を申し出てこの木を切るよう要求した。村人たちは、神木として尊崇する霊樹を切ることは耐えられないことであるが、中郡地方の人々の抗議ももっともなことであって一概にしりぞけるべきでもないと考え、やむをえずこの木を切り倒した。ところが、驚いたことに、この木は、男山から海を渡って、その先端が宮津町の西端にまで達していた。それで、そのところに杉末という町名をつけたのだと言い伝えている。(『岩滝村誌』) 【伝承探訪】 この話は巨木伝説と呼ばれているものである。古くは記紀・風土記のなかに多く見出される。たとえば、『古事記』仁徳天皇条には、免寸河(現大阪府高石市)の辺りにあった大木はその影が朝日には淡路島まで届き、夕日には八尾市の高安山を越えたとあり、その木を伐って船脚の通い船を造り、さらにそれが朽ちた後は琴に作ったとある。今に伝わる伝承においても、全国に同型のものは多い。丹後地方にあっても、大宮町明田などに同様の話が伝えられている。 『岩滝村誌』に載る話では、巨杉の生える地を大杉の谷と呼んでいるが、岩滝町男山などでは蛇谷のことだと伝えている。 『岩滝町誌』(昭和45)に、 杉の木 昔、男山の大杉というところに杉の大木があった。加悦谷、中郡地方はこの杉の木のために日光を遮られ、作物ができないので常に不平をもらしていた。遂に我慢ができなくなり、例の杉の大木を伐ってくれと要求してきた。 男山の人々は神木として尊崇して来た霊樹を伐った後のたゝりを恐れてすぐには返事ができなかった。しかし、加悦谷、中郡方面の人々の抗議にも道理のあることで一概に拒絶することもできず村人達相談の結果これを伐り倒すことにした。 この杉の木、想像以上に大きく、その尖端は男山から海を越えて宮津町の西の端に達した。それからこゝに杉の末という町名がついた。また、元の方の枝が地中につきさゝって出来たのが今の阿蘇海であるといわれている。 記紀ばかりでなく、 「肥前国風土記」 佐嘉の郡 郷は六所(里は一十九)、駅は一所、寺は一所。 昔、樟の樹が一本この村に生えていた。幹も枝も高くひいで、茎葉はよく繁り、朝日の影は杵嶋郡の蒲川山か蔽い、夕日の影は養父の郡の草横山を蔽った。… 「播磨国風土記」 速鳥 播磨の国の風土記にいう、-明石の駅家。駒手の御井は、難浪高津の宮の天皇(仁徳天皇)のみ世に、楠が井の上に生えて、朝日には淡路島に陰をおとし、夕日には大倭島根を陰にした。そこでその楠を伐って舟を造った。その迅いことはまるで飛ぶようで、梶のひと掻きで七つの浪を越えて行く。それで速鳥と名づけた。ここに、朝夕この船に乗って天皇の御食事にそなえ奉るためにこの井の水を汲んだが、ある朝、御食事の時期に遅れてしまった。それで、歌を作って止めにした。歌っていう、… 「筑後国風土記」 三毛の郡 公望の私記にいう、考えるところでは、筑後の国の風土記にいう、-三毛の郡。云云。昔、棟木か一本、郡役所の南に生えていた。その高さは九百七十丈である。朝日の影は肥前の国の藤津の郡の多良の峰を蔽い、夕日の影は肥後の国の山鹿の郡の荒爪の山を蔽った。云云。それで御木の国といった。後の人は訛って三毛といった。今は郡の名としている。… 日本の伝説というよりも、元々は広く世界に分布する古い伝説で、人類共通の、我らの遙か遠い祖先が樹上で暮らすサルであった頃からの、マコトに悠久の伝説であったものであろうか。 Wikipediaには、(図、ユグドラシルも) 世界樹(せかいじゅ、World tree)とは、インド・ヨーロッパ、シベリア、ネイティブアメリカンなどの宗教や神話に登場する、世界が一本の大樹で成り立っているという概念、モチーフ。世界樹は天を支え、天界と地上、さらに根や幹を通して地下世界もしくは冥界に通じているという。 世界樹神話の例として、ハンガリー神話のアズ・エーギグ・エーレ・ファ、テュルク神話のアアチュ・アナ、モンゴル神話のモドゥン、ゲルマン神話(北欧神話を含む)のユグドラシルやイルミンスール、スラヴ神話・フィンランド神話・バルト神話のオーク、ヨルバ神話のイロコ、中国神話の建木、ヒンドゥー神話のアクシャヤヴァタ(インドボダイジュ)などを挙げることができる… 天橋立の別称に錫杖島 如意島がある。 世界樹は魔法樹でもある、ハリーポッターが持っている杖や僧の持つ錫杖、孫悟空が持っている如意棒もこの世界樹のカケラからできているものと推測される。 ジャックと豆の木のように、この樹の幹や枝は天上世界まで通じている、磯砂山のサンネモの蔓草もそうで、これは藤の蔓。 丹後一宮・籠神社の春例大祭(葵祭)では、宮司たちは藤の花を冠に刺していて、藤祭とも呼ばれる。 籠神社のマコトの祭神は世界樹・藤の木であるのかも知れない。 知恵樹。日本三文殊、知恵の文殊菩薩を祀る智恩寺がある。 天橋立はヘビが海に入って死んでできたもの世界樹はまたヘビとも見立てられていた。前掲の伝説でも大杉が生えていた所を蛇谷としている。世界樹は大杉のような巨木とも見られているが、また蔓草とも見られている、豆の木や藤の木の類で、これはまさに蛇ではないか。 エデンの園でイブが蛇に誘われて知恵樹の実を食べる。この実を食べると神様なみの知恵が身につく。 ←イラストでは知恵樹と蛇は別のモノのように描かれているが、本来は同じもので、樹であり蛇だと見られていた。 『みやづの昔話』に、 成相山の大蛇 中野 松井ぬい これな、ほんまにあったことだで。成相山のつくった話だなしに、なあ、あのいく分かな、尾や鰭がついてはおるか知らんけえど、実際にあったことの話だ。 あそこに、あの今はな、あの底なし池言うとったけえど、今は底なし池だない、お茶屋がでけたりしとりますけぇな、弁天山の下に。そこにな、成相に小僧さんがおってな、その小僧さん、ここのかまいりがくると、たらいに乗って、あそこの底のない大きな池だって、ほて、蓮の花を切りにいくのに、小僧さんに、あの、お上人が小僧さん乗せて花切りに行くのに、毎年そのたらいに乗った小僧さんを蛇体が飲んだんだ。蛇体いうて、淵におろうが。 底なし池におるおおぐちなわが毎年飲んでどもならんで、小僧さんがかわいそうだで言うて、ほて、あのわら人形こしらえて、衣きせて、その腹の中に、煙硝玉をな、仕掛けて、花切りに行かせなはった。ほたら、そなこと知らんで、いつものおおぐちなわが出てきて、その小僧さんを頭から飲んだ。飲んだら、あの、お腹の中ではじいてな、ほて、破れたんだな。ほいで、あの熱いもんだでな、じゃあと山から国分寺いうところに、下り坂になるな、国分寺は、このつづきだし。ほて、そこにおりてな、もはや、どこらへんまできたんだろう思うて、ひょいと頭をもちあげてみたらな、国分寺のな、その、吊り鐘の下に頭がはいってな、ほて、ぬこうしても、あの、吊り鐘が深いで、ぬげなんだ。 それから、そのまんま、鐘をかぶったなり、じゃあとおりて、この内海に入って、向うが見えんいうし、ほいで、行ったら、文殊さんの、あの、細うなったところにな、あの、行ったら、ほたら、そのお腹が破れたところからな、水が入って、どないにもいたたまれんようになって、そこで、沈んだというてな。それが、あの、この内海からあっち、大天橋の方へ出るところにな、あの、浅瀬があって、そこにお腹がつかえて、そこに沈んでしもうたんだって、その蛇体が。そこは、いまでも浅いだいうて、私ら子どものときにな、文殊さんに旅するのに、その浅いところを通らんで、こっちゃの深いところを通って行ったもんだ。そこに行くと、昔のお爺さんが、ここらじ沈んだだろうで、ここは浅かろうが言うて。ここらへんは、あの、波の静かなときには、「蛇体の死骸が見えるかもわからんで、あんばいのぞいてみい」言われちゃあ、「ほんまかしら」思うて、舟ばりに指じゃいづいて、「今年も見えなんだ。蛇体が今年も見えなんだ。来年になったら見えるかしらんだあ」言うて、「そうかな」言うちゃ、毎年文殊祭りに行くのに見たけど、何年のぞいて見ても、蛇体の死骸どもあへん。あそこ、あの、沈んだことはな、沈んだ言うて。いろいろの話してもろうたけど。 成相山(鼓ヶ岳)にいた大蛇が海に入って死んで出来たものが、天橋立だという伝説だと思われる。大杉が倒れて天橋立になってという伝説の変形であろうか。 天橋立の付け根になる成相山の麓にはヘビの地名が見られる、波見や板列、はななみの里であるが、これらはヘビの古語でなかろうか。天橋立はハミと呼ばれていたのではなかろうか。鼓ヶ岳(成相山)のツツもヘビの意味でなかろうか、ツチノコ、カグツチのツチやツタ(蔦・葡萄の一種)と同じで、ミは巳でヘミだろうか。鼓ヶ岳は蛇山の意味かと推測する。 今はヘビとは呼ばないが、龍と見立てられることは多い。 文殊菩薩が悪龍を改心させたという伝説となっているが、文殊堂近くの切戸の渡で毎年「出船祭」で催される。 「文殊堂出船祭」 文殊堂(智恩寺)は、何とはなく古い知恵樹の信仰があったのではないかの思いを起こされる。古い柱、たぶん過去の文殊堂の心御柱が残されているというし、境内にはこんな霊木がある。 成相寺の左甚五郎作「真向きの龍」とか、龍はあちこちに見られる。 江尻の江之姫神社は龍女を祀るといい、展望台を飛龍閣(文殊側)、昇龍閣(傘松側)と呼ぶように天橋立は龍と見立てられる。 知恵の餅橋立名物はこれ。これにもそれなりに古い由緒があるわけで、これは世界樹(知恵樹)の実を食べていることかも、聖書世界ならリンゴの実、当地は餅であるのかも… しかし、いくら食べても、何千個、何万個たべても、毎日毎日たべても、ワタクスの場合はチイとも賢くなりそうにもない。おかげで、神から見れば堕落することもなく、エデンの園を追われることもないのかも… 「知恵」にもいろいろあるので、そのまま無警戒に信用していいというものでもない。生半可の「知性」なるものに溺れて、思い上がると堕落が待っているかも、これは地獄よりもまだコワイ… さらに、「丹哥府志」には、 【文珠茶屋】
文珠堂山門の前西の方に茶屋軒を並ぶ是を文珠の茶店といふ。名物三品、一は思案酒、一は才覚でんがく、一は智恵の餅なり。 さすがに知恵の樹の天橋立茶屋さん、何か知恵のつきそうな土産物ばかりのよう。 天橋立の迎講迎講は普甲寺で行われていたが、室町中期の『?嚢鈔』に、「寛印供奉は大聖文殊の化現也と云共、親聖衆の来迎の儀を随喜せしめ、衆生利益の為に此の迎講の儀式を、丹後の国府の天の橋立に移して、三月十五日、毎年是を行れける也」と記される。 「麻呂子親王の鬼退治伝説(そら知らなんだ ふるさと丹後12)」 迎講とは、簡単にいえば、念仏行者の臨終に際して阿弥陀如来が諸仏とともに極楽より来迎する、その迎えに来るさまを演ずる法会のことで、どうしてその場所が天橋立なのかが問題になる。それは天橋立が仏の世界とつながる橋と見られていたからではなかろうか。だから阿弥陀如来はここに現れ、迎えてくださると見ていたのであろうか。 杉末神社と赤ちゃん相撲体育の日に行われる「赤ちゃん相撲」。赤ちゃんの対戦相手は杉末神社(式内社、左手の社)の神様である。当社の本来の祭神は天橋立世界樹でなかろうか、そんな神様の力を赤ちゃんに授かろうとしたもので、その来歴はずいぶんと古いとワタシは推測している。 申し込み赤ちゃんと応援団が列をつくる。 「赤ちゃん相撲」 橋立小女郎天橋立は異界とつながる橋なので、向こうの世界のありがたい仏様ばかりでなく、こうしたヘンゲの妖魔や魑魅魍魎の類も出没する。古い由緒ある伝説が劣化するとせっかくのありがたい神様も頽廃し、落ちぶれ狐狸になっていく。それは伝える人間の側がダラクし零落しみじめでつまらぬ魂に成り下がり果てていったということでもある。 巨木に限らず木はすべて聖木、神木とする観念を完璧に失い、すぐ木を切ってしまう、どこかのマチのアホな人々などは堕落の完成体かも知れない。 これを止めるのは人間の価値が高められる社会の建設しかないが、いつのことになるのであろう… 元々の古来の伝説としては、村の幸運な若者が天橋立で神仙界の天女(天羽衣か乙姫様のような)と出会って夫婦となりましたよ、といったものであったと思われる。橋立の付け根に印鑰社があり、それは元は奈具社であったという、そこの神話であったものかも知れない。その天人女房が、その語部と運命を共に零落して、イラストのような姿にヘンゲしていったものであろうか。この姿は人間性から疎外されたワレラの姿を写し出し語ったものでもあることになる。 小女郎にだまされたというハナシは多い。空間的には半異界であるし、時間的に「逢魔が時」に、ここを歩くとヤバイ。宮津の方でゴッツォになり、ミヤゲを下げ微酔機嫌で、橋立の上を府中の方へ半分千鳥足で歩いていると、この世のものとも思えぬような美女が現れる。気が付けば、ミヤゲのゴッツォをみな喰われていた、といったもの。何ともせっかくの夢幻空間の舞台が台無しになるようなオチになる、もうチイと芸術性を高めたいゾ、人間から疎外された「人」達。 『丹後の民話』 むかし、橋立に一匹の狐が住みついており、女の姿に化けては、そこを通る人や、舟で仕事をしている人たちを、毎日のように、たぶらかしておった。 女にしか化けないということから、人々はその狐を、橋立小女郎と呼び、「橋立で声かける女衆がいたら、それは、きっと橋立小女郎だで、化かされるな」と、いつもいいあっていたが、小女郎の方が一枚上手なのか、あいかわらずだまされては、みんなが腹をたてておった。 その悪さも、だんだん、だんだん、ひどくなってきたので、成相寺の下の方に住む若者が、何とかこらしめてやろう…と考えた。 ある夕暮れ、その若者は、狐の大好物の油揚げを持って橋立へ行った。そして、明神さんのあたりまで来た時、案の上、ひとりの娘が声をかけてきた。若者は、<br> 「お前は、小女郎だろう。化かされる前に、この油揚げをやる」といって、松の根っこのところへ置いてやった。小女郎は、何かたくらんでるなと、若者をにらんでおった。 「な、小女郎、わしをずうっと化かさんと約束できるなら、その油揚げを、むこう十日間、毎日持って来てやるが、どうだ」小女郎は、油揚げ十枚という、その言葉にぱっと狐の姿に戻り、 「約束する。油揚げ十枚だな。きっとだな」 といって、油揚げをくわえて素早くかくれてしまった。 あくる日から、若者は約束通り、毎日毎日油揚げを橋立明神のそばまで運んでやった。 そして五日日になると、そのうまさが待ち遠しいのか、明神さんの前で小女郎が待つほどになり、若者への警戒心もなくなっておった。 そして、十日目。最後の一枚を持って来た時に、若者が聞いた。 「な、お前は化けるのが、本当にうまいが、どうして化けるんじゃ」 小女郎は、油揚げを食いながら、ちょっと考えていた。食いおわると、 「目をつぶっとれ」 そういうて、どこから出したのかきれいな玉を見せてくれた。 若者は、これが噂に聞く狐の玉かと思ったが、 「この、きれいな玉は、何だ」 と聞いた。狐は、 「これは明神さまからもらった玉じゃ。これ持っておるから、人間に化けられるんじゃ」 そういうた。 まってましたとばかり、若者がいうた。 「な、小女郎、その玉を一日でええから、貸してくれ。そうだな…、そのかわり、約束の油揚げはもうしめえだが、ん、明日、いっぺんに三枚もって来たるで」 小女郎は、明日から、もうもらえんと思っていた大好物を、三枚もいっぺんにもらえる嬉しさのあまり、 「一日だけだぞ。きっと。油揚げ三枚だぞ」 といって、玉をひっこめた。 あくる朝、約束通り油揚げ三枚と狐の玉は交換された。若者は家へ飛んで帰り、その玉を、わからないように隠した。 そして、二日目の朝がすぎ昼になった。小女郎は若者が返しに来んのでおかしいと思いはじめ、夕方になって、はじめてだまされたと気ずいた。何としても取り返さねばと思ったが、玉がないから化けられん。そこで人が寝しずまる夜中をまって村へ行き、若者の家をさがして、その天井にひそんでおった。 次の朝、若者が出かけると、小女郎は家の中をひっかきまわして、そして、やっと玉を取り戻した。帰ってきた若者は、玉が取り返されたと知ると、「しやあねえ、こうなりゃ、あの手だ…」 とつぶやいて、近くの神社へ走り、神主さんに訳をいって、神主さんの衣裳と御幣を借りた。 それをかかえて橋立まで行き、木の陰で神主さんの衣裳をつけ、顔は目だけをだして白い布でつつみ、ゆっくりと松並木のあいだを歩いていった。そして、明神さんの前で立ちどまり、おごそかな口調で、「小女郎、おるなら、出ませい」といった。小女郎は、何ごとかと思って、そばの穴から、ぬうっと顔を出した。とたんに、「頭が高い」 と御幣で頭をひと打ちされた。びっくりして穴にひっこんだ小女郎に、「そのほうに授けた大切な玉を、人間に貸すとは不屈千万。今かぎり玉を取りあげる。玉を差し出せ」と強い口調でいった。 小女郎は、明神さまだと信じて疑わず、穴の中から手だけが、そおっと出て玉を置いた。若者は、おもむろに玉をふところに入れて、又、ゆっくりと帰っていった。 それ以来、橋立で狐に化かされたという話は、もう聞かんようになった。 (俵野・井上正一様より 天橋立の股のぞき天橋立といえば、これ。 なにゆえに、このようなことをするのであろうか。何か伝承がありそうなものだが…、あまりハッキリしたものがないのは、それなりの理由があるのであろう。もともとが生命樹だからであろうか。こたえのようなものは善良の風俗を犯しそうで公共の放送にはのせられそうにもない。どうしても知りたい方は次を参照 「股のぞきの民俗学」 ピンとこないのは、現代人の堕落ズレか… こうした姿をよく見かけるのもそれなりに理由がありそう… 久志備之浜、久志浜、阿蘇海、与謝海これらは渡来系の聖地名で、成相山を久志備之岳(久士布流岳)と呼んでいたのではなかろうか。その麓の籠神社があるあたりを久志備之浜、真名井神社を久志備之真名井、あるいは久志浜宮と呼んでいる、このクシビはのちに久志浜と呼ばれる。橋立を挟んで内海を阿蘇海、外海を与謝海としていたのであろう。 クシヒ岳はクシフル岳のことで、天孫降臨の聖山(久士布流岳とかクシビのソの高千穂岳とか)の名と同一のため、ここは遠慮ソンタクして書かなかったのでなかろうか。 地元の古代豪族の先祖が天降ったとされた山なのでなかろうか。いずれもソフルの変形で、彼ら(というか我らというか)の故地(新羅や伽耶)の名をつけたものであろうか。 切戸を九世戸とも呼ぶ、回旋橋が架かっている狭い海峡だが、古くは今よりもずっと広くて、磯清水があるあたりまては海であったのだが、この九世戸も久志浜のクシが転訛したものであろうか。 日本では降臨神話と世界樹伝説は結びつかないが、本来は結びついていたようである。それは古朝鮮の壇君伝説を見ればよくわかる。 『図説韓国の歴史』(写真も)に、 神話的にいえば、韓(朝鮮)半島の古代王国は天孫によって開かれた。天孫には王になる資格が与えられていたのである。耽羅国(いまの済州道)の三人の始祖が三姓穴(地下の三つの穴)から姿を現わしたという神話伝説を除けば、全部の始祖が降臨の形をとっている。その典型的な形が檀君神話である。短い話なので、主要な部分を訳載してみよう。 昔、天帝の桓因の庶子に桓雄という神かいた。桓雄はいつも地上の人間界におもいをはせていたが、それはいつしか父の桓因にも通じていた。桓因は天空から地上の三危太伯を見下ろしながら、人間たちに救いの手をさしのべることにした。そこで桓雄に天符印を三個授けて天降って人間界を治めてみよと命じた。 桓雄は三〇〇〇の供を率い、太伯山の頂きに祀ってる神壇樹という神木に天降り、そこを神市と名づけた。それで桓雄を桓雄天王というようになった(中略) そのとき、同じ洞窟のなかに一匹の熊と虎が住んでいて、桓雄に願い事があると申し出た。自分たちをどうが人間の姿にしてほしいという願いを聞いて、桓雄は神艾一束と蒜二〇個を与えて、「これを食べながら一〇〇日間日光をさけておこもりをせよ」と告げた。 その日から二一日目に熊は女の姿になり、虎は人間になれなかった。女の姿になった熊女は神壇樹に詣でて、子を授けてほしいと祈願すると、桓雄は熊女と情を交わし、熊女は男の子を生んだ。その子を檀君王倹と名づけた。 のちに、唐の高(堯)が即位して五〇年の庚寅に、平壌に都邑を開き国号を朝鮮と名づけた。その後、都邑を白岳山の阿斯達に移し、その地を弓(方の字も用いる)忽山または今旅達といい、国を治めて一五〇年栄えた。 中国の周の虎(武)の王が即位して巳卯年に、箕子を朝鮮に奉じた。檀君は王位を箕子にゆずった。(略) と、『三国遺事』の物語を紹介している。五千年前の話だとかされる、そこまで古いかは異説も多いが、ニッポンの天皇さんよりは古そうではある。 太伯山は北朝鮮の妙香山だといい、その頂に神壇樹という世界樹が生えていて、そこへ天降ったという。天降ったというか、世界樹をつたって降りて来たのであろうか、伊射奈藝命が天橋立をつたって降りてきていた、という風土記の物語と同じ。 摩尼山開天祭 一〇月三日は壇君の古朝鮮建国の日に定められている。その日、暫城壇で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。 扶餘、高句麗、百済、新羅、加耶すべての朝鮮古代国家は天孫によって開かれたと伝わる。その北の騎馬遊牧の民族がみなそうなのだが、日本でも、天孫族という言葉を使う、日本神話において天から降臨し大和王権を開いたとする古代勢力の総称のことで、簡単に言えば天皇さんを頂点にいただいた集団であるが、それもこうした流れのはてにある。天孫族とは言葉を換えれば朝鮮族ということとなろうか。ニッポンは世界に唯一の、万世一系の天皇によって統治された神国だ式の神話の信者などにとってはオソロシイ神話である。 ウウウ、ウソだろう、アンビリバボなと思われる向きもあろうかと思うので、『騎馬民族国家』(江上波夫)を見てみよう …いいかえれば、血統の原理による天皇の地位は終始保たれたのである。ここにわが国の皇位継承法におけるもっとも根本的なものとして、天皇は天孫の血統(天皇氏)の者にかぎるという大原則があったことが明瞭であろう。 そうしてこの点も、大陸騎馬民族国家における君主位継承制のばあいにまったく等しい。そのことについてはすでに第一部の「突厥」のところでかなりくわしく言及したので、ここではくりかえさないが、要するに、大陸騎馬民族国家でも、君主位の継承者は、その国家の建国者の男系の子孫にかぎるという大原則があり、その自然な結果として、大陸の騎馬民族国家では、王朝はほとんどすべて一系であり、国家の存続と王朝の存続とが終始しており、中国におけるような禅譲放伐による王朝の交替はないということである。日本皇室のいわゆる万世一系は、まさに大陸騎馬民族国家のそれであって、中国・エジプトなどの農耕民族国家には、このような王朝のあり方はたえて見ない。 一方、大陸の騎馬民族国家にあっては、君主位継承制の血統の原則は、実際上の問題として、その範囲をせばめていって、ついに王の近親者に限定するようになったばあいが多いが、王の氏族-建国者の男系子孫の親族集団-のメンバー-はすべて君主位継承権をもつというのが、その原則の本意であった。したがって王の近親範囲からかなり離れた者でも、王位を継承したばあいがあり、匈奴第一三代の単于握衍ク韃などは、その好い例である… 天孫の血統でないと天皇にはなれない、ただし、かなり離れていてもなれる。だから丹後海部氏の祖が神武天皇になったとか、伝わるのは、同じ天孫族、同じ天皇族の血統であるならばこそのハナシなのである。磯砂山の麓の五箇の郷土史家氏も、神武天皇は当地の出です、とかいったハナシをマコトげに話されていたのを聞いた覚えがあるが、こうした地名からも、ある程度はうなづけるハナシなのである。大和天皇氏から見れば、丹波王国は親藩国であったものと思われる、仮にその誰かが天皇になったとしてもおかしくはない氏族の資格があったのだろう。継体即位前の話だが、武烈のあと皇位継承者がなく、丹波桑田郡にいた倭彦王を迎えにいったという記事が『日本書紀』にある、彼は仲哀5世孫となっているが、仲哀が実在したかあやしいので、丹波王家の人かも知れない、それでも血統がつながるので、天皇の資格があったものなのかも知れない。本当にこんなに離れていてその資格があったものかはわからないが、13代離れていてもOKの匈奴の例が挙げられているから、一応はあったのではなかろうか… 丹波王国は大和天皇家の有力な親藩国であった、皇后を何代か輩出していることからも、そのことがわかる。別に丹後ばかりではなく、あっちにもこっちにも天孫族が見られるニッポンのようである。 壇君神話のおかげで、天橋立神話の本当のところが復元できそうである。 今の天橋立の後の山(鼓ヶ岳・成相山)には、天上世界に通じる橋(ハシゴ)があった。それを天の橋、あるいは天橋立といった。山名は天の橋山、あるいは天橋立山と呼んでいた。その橋はある日、倒れて海に落ちた、そうしてできたのが、今の天橋立である。 だいたいはこうしたことではなかったかと推測されよう。 また八仙女は比治山羽衣伝説の天女八人を思い浮かべる。サンネモがツル草を登っていたハナシが伝わるので、磯砂山(比治山)の頂上にも世界樹があったことがわかる。この伝説も、その流れの遠いはてなのであろうか。 音の玉手箱
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