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そら知らなんだ

徐福伝説
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -27-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


新井崎神社

新井崎(にいざき)

伊根湾の北、「新井(にい)千枚田(せんまいだ)」で知られる新井集落の東ヘ突きだした岬を新井崎と呼ぶ。

新井崎の空撮↑(『心のふるさと丹後Ⅱ』(坂根正喜氏)より)
今は新井崎と呼ぶが、古くは「子日(ねひ)崎」と呼んでいたようである。
『宮津府志』
子日ノ崎  同じ辺のよし。(萬代の浜)
 智恩寺妙峯和尚の説に、子日の崎は新井崎の事なるべし
子日新井(ネヒニヰ))こえ近ければなり、新崎は鷲崎より外にて此地よりは五里余も北なり是非をしらず。一説には日置高石の辺なりといふ。
 夫木鈔
  はるかなる子の日の崎に住む海士は
     海松をのみ引やよるらん        よみ人不知


『丹後旧事記』
子の日崎。俗に新崎と云明神は秦の徐福を祭る此地肥饒にして七尺の艾を生ず。


『丹哥府志』
新井崎】(出図)
平賀源内の考に、丹後の経ケ崎程北海へ出たる處はなし、此處には定て磁石あるべしといふ、されども経ケ崎には石の色白ふして鉄気あるべき岩を見ず、独り新井崎は誠に黒々としたる岩斗なり、源内の考たる處定て此處ならん。


ネヒ、ニイは、あるいは伊根湾の耳鼻(にび)などは、丹生のことであろう。徐福(じょふく)が求めた、不老不死の仙丹(せんたん)、その()があったのであろうか。
しかし一見したところ、そうした物などはありそうにもない、真っ黒けの溶岩でできた小さな岬である。

新井崎神社(徐福を祀る)

集落の東の外れ。鳥居の先に、沓島(左)冠島(右)が見渡せる、(両島の真ん中あたりが真東になる。春分、秋分の日のあたりは、ここから日が昇る)。この配置からは、元々は両島を祀る社なのかも知れない…
社殿は左に、箱岩は右にある。新井崎神社は、冠島を正面に見る岬の断崖上にあり、秦の始皇帝の命令で不老不死の薬を求め、東海の蓬莱山へ旅立った徐福を祀ると伝えている。

岬の東を向いた断崖斜面に社がある。



朝妻祭といって、朝妻地区各神社合同で行われる。希少な青年などは全員参加だという。4月15日(地区によって若干異なる)の祭礼には太刀振と花踊が奉納される。
新井崎神社の祭礼

箱岩
新井崎神社から少し南に箱岩(はこいわ)という徐福上陸の地と伝わる所がある。


境内に案内板がある。
新井崎神社
 祭神である徐福が登場するのは中国の歴史書「史記」である。
 奉始皇本紀二十八年(BC二ー九)徐福は始皇帝に上書した「海中に三神山があります。ここに仙人がおり、不老不死の薬を練っています。身をきよめ童男童女と共にこれを求めたいと思います。」
 始皇帝は徐福と童男女を海に出して仙薬を求めさせた。
 時代は人皇七代孝霊天皇の御宇徐福はこの地を易筮によって予知した。上陸したところはハコ岩。求めた仙薬とは、黒茎の蓬と九節の菖蒲であった。徐福はよく邑人を導いたので邑長となり死後、神として祀られた。
 神社の創建は長徳四年(九九八)場所は今の愛宕さんの付近だったが、前を通る舟に異変が続いたため、神意に逆うとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。
御神徳は海上安全漁撈満足そして病気の平癒、特にハシカの神として有名である。

『伊根町誌』
新井崎神社 新井小字松川(旧村社)
祭神 事代主神・宇迦之御魂神とされているが、元三宝荒神を祭り、現在地区の住民は徐福を祭るとしている。御神体は木像約三○センチ余の男神・女神(童男・童女)像である。
例祭 四月十五日
古くは陰暦九月二十日であったが、陰暦七月六日となり、昭和五年(一九三○)より陽暦四月十五日となる。昭和三十四年(一九五九)に伊根町の祭日は八月三日に統一され、昭和四十八年(一九七三)ふたたび四月十五日となり現在に至っている。
沿革 創建年代は一条天皇の関白藤原道兼の時代にあたる長徳四年(九九八)七月七日とされているが、記録としては文禄年間(一五九二~一五九五)に建立された社を、寛文十一年(一六七一)四月再建に着手し、同年九月十六日に完成している。(棟札に祢宜野村仁兵衛、別当玉林寺、大工手間二三五人とある)その後石段をはじめ境内が整備され、現在の建物は昭和三十六年(一九六一)四月、本殿の修理と上屋が再建された。
  小狛犬  天保 七年(一八三六)八月 若連中奉納
  大石灯籠 天保十一年(一八四○)五月 大阪橘屋清三郎寄進
  石灯龍・狛犬 明治四十三年(一九一○)嵯峨根孫兵衛寄進
  大狛犬    明治四十五年(一九一二)大阪市大平安、嵯峨根孫兵衛、広島県佐々木市郎寄進
  新井崎神社碑 明治四十五年(一九一二)建立
神社の別当としては、代々玉林寺の住職が管掌していたが、明治以降神社法施行後は宇良神社の神官が兼掌している。
徐福伝説 紀元前二二一年、中国の統一に成功した秦王の「(せい)」は、新たに皇帝の位をつくり始皇帝と名のり、咸陽(かんよう)(今の西安)に都した。この一世の英雄秦の始皇帝は方士徐福を召して不老不死の霊薬を求めることを命じた。当時神仙思想が流行し、仙丹に七返八還の法があって、この仙丹を服すると不老不死となることができるといわれ、権勢のある者はこの霊薬を求める者が多かった。仙丹は三神仙(渤海にある蓬莱・方丈・瀛州)に仙人が仙丹を練り、不死の薬を蓄えているといわれた。始皇帝はこの神山にいたことがあるという方士(神仙の術をよくする道士)徐福に、仙丹を求めることを命じたのである。伊根町字新井には古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を産土神として祭り、新井崎神社の祭神として崇拝している。
 伝承によると『七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士徐福がこの地を易筮によって予知し漂着した。漂着した場所は新井崎のハコ岩で、長途の船旅と波浪によって疲れ果てて岩の上で休んでいると、時の澄の江の邑長(むらおさ)がいぶかって来意を聞いた。徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都咸陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住みついた。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の(からよもぎ)」である。
 徐福はその後里人をよく導いたので、推されて邑長となり、里人の仰慕の的となって、死後産土神として奉祀されるに至った。』と伝えられている。「からよもぎ」は普通のよもぎ(綿蓬)と異なり、葉の裏にある白毛が少なく、草餅(よもぎ餅)にするため早春に蓬をつむとき、特に「からよもぎ」をえらんで若葉をつみとる。成長した葉は「もぐさ」にもなる。「からよもぎ」は当地方では新井崎海岸(のろせ海岸)に多く自生しているが、近年、道路の改修、土地基盤整備等により少なくなったが、現在なお自生している。
 「童男童女宮(とうなんかじょぐう)」 新井崎神社は徐福を祭り新井崎大明神とよんでいるが、縁起に童男・童女の渡来を「童男寡女」と記したことにより、住民は「とうなんかじょぐう」とよぶようになった。御神体が男女二神であるのは、徐福とともに渡来した童男・童女をあらわしている。
文献-新大明神口碑記
原夫丹之後州与佐郡澄江里新大明神者震旦奏始皇帝奉侍之童男女也実当(二)本人王第七代孝霊天皇御宇(一)焉蓋始皇帝好学(二)長生老之仙術(一)其方也朝服(二)金丹石髄(一)暮飲(二)酒瓊醤(一)以欲(レ)求(二)真人不死之神薬(一)九茎薬草九節菖蒲不老延齢薬餌也故勅(二)命童男寡女(一)而言曰域丹後奥郡澄江里與(二)龍宮城(一)同所而異名也汝等去此真人之霊薬可(二)尋得来(一)儻不(レ)然則勿(レ)帰焉童男寡女承(レ)勅而得々航(レ)海来著(二)岸干澄江(一)時澄江村長怪而且問云答以(二)上件事(一)矣頃間談(二)成陽宮等事(一)日先始皇帝都京也云々(下略)
   維時嘉永五(一八五二)龍次壬子孟夏日禺居
         澄江里金剛山下写焉氷子(花押)
祭礼
 宵宮には青年と若家主が中心となり、手丸提灯をもって参拝する。本祭は三柱神社(三宝荒神社)・新井崎神社・龍権さん・老人島(おびとじま)神社・愛宕社・恵比須社・本尊さん(玉林寺)・金比羅社に太刀振りと花踊りを奉納し、翌日(後宴)に宇良神社・秋葉社に祭礼を入れる。.

『与謝郡誌』
新井崎神社
 朝妻村字新井小字松川、村社、祭神徐福、秦の始皇童男童女に命じて不老不死の藥を此地に求めしめたりなどの傳説あり、明治六年村社、氏子六十戸、例祭九月十五日、外に無格社三寳荒紳、金刀比羅社、愛宕社等あり。

『丹哥府志』
【童男童女宮】(新井崎、祭七月六日)
童男童女宮村人訛りてトウナンカジュクウという、其訛りに習ひて誰が書きたる縁起や童男寡女宮と記せり如何なる謂をしらず、古来秦の徐福を祭るなりと申伝ふ、俗に新井崎大明神といふ處なり。聴雨記続編朱子不註尚書處引、或説曰。日本有真本尚書乃徐福入海時所携者余初未之信也後観陽公日本詩有云徐生行時書未焚逸王百篇今尚存令岩不許伝中国挙世無人識古文先王典蔵夷貊蒼波浩蕩無通律則外国真有其本鴎陽之言未必無據朱子之不註者豈以是耶云。又始皇本記に徐福の事を載せたれども慥と日本にはあらず、然れども諸書を以て参考すれば徐福の日本に来る明なり、されども何れの御宇に来りて何れの国に居り如何様なる事をなしたるや、又其漂着せし處は何れの浜なりや其事蹟詳ならず、京洛西の大秦宮は徐福なりといふ秦の字をかけばなり、又紀州にもありと聞く、皆正史にのせたる事にあらず。
新井崎の徐福の宮初は疑ひしが其地を踏みて聊か信ずる事あり、新井より以西十里内外の處に湊あり、次に浦浜あれど波あれば着する事能はず、大洋より来りて勝手も知らざれば爰より外に着處はなかるべしとも覚ゆ、又其宮たる村より離れて四五町斗も山を下りて新井崎の恐ろしき處北海に向ひて神籬を建つ、尋常の宮造りにあらず、又其随神といふものを見るに、浦島などの随神と同じ形にていづれも千年にも及ぶものなり(冠服元製並年所を歴たる模様、大和などにある所と参考して記とす)、其等を参考して千年以前より斯童男童女宮と伝へ来ればたとひ正史に洩れたりとも虚といふべからず、たとひ徐福の漂着せし處にあらずとも其携へ来る童男女の由緒あるべし。王父柳街の話に蔓荊子のある處は皆昔唐船の着處なり、蓋蔓荊子は唐種なればなりといふ、此處蔓荊子のある處あり、なる程丹後も唐船の着し處なりと見へて往々唐船の話あり下に出す、尤朝鮮は略地の向ひ合ひたる處なれば折々朝鮮人の漂着するものあり、是等も地理に於て徐福の来る考にもならん。

(にい)大明神口碑記(境内)
新大明神口碑記の由来
安政六年新井の村で四十六人が亡くなった。
村人は祖先神新大明神を祀り、この難局窮地からの脱出逃避を祈願した。
時の玉林寺住職延利氷峯子需に応じて、その口碑を著わし初めに新大明神を始皇帝奉侍の童男女であるとし、その時を人皇七代孝霊天皇の御宇と断じている。更に始皇帝の命を受け眞人不死の神薬を求める史記に触れる。次いで来意をきく村長との問答の中で、咸陽宮や龍宮城の體為が語られ、最後に古伝に倣って素盞嗚尊と牛頭天王を習合、その上に新大明神を重ねて避邪避病の神を出現させている。
これには贅記があるが省略した。尚碑文中に延利氷峯子とあるのは振宗三十三世玉林寺法地開山弌山玉峯大和尚をいふ。
建立 平成十九年丁亥弥生
奉納蓬莱庵石倉昭重
石工峰山町平井雄一
文責奉納者
口碑記はその隣にある。(クリックで拡大)



中国の史書
『史記』
(せい)の人徐市(じょふつ)(徐福)ら書を(たてま)つりて言う、海中に三神山有り、名づけて蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)と曰い、僊人(せんにん)これに居る。請う、斎戒し、童男女と之を求むることを得ん、と。是に於て始皇は徐市を遣わし、童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ。

海上に
()い、北のかた琅邪(ろうや)に至る。方士の徐市ら、海に入りて神薬を求むるも数歳得ず、(つい)え多くして(とが)められんことを恐る。

乃ち
(いわ)りて曰く、蓬莱の薬は得べし。然れども常に大鮫魚(だいこうぎょ)の苦しむ所と為り、故に至るを得ず。願わくは善く射るものを請いて(とも)(とも)にし、見れば則ち連弩(れんど)(石弓の連射)を以て之を射ん。

始皇、夢に海神と戦うに、人の
(かたち)の如し。占夢博士に問うに、曰く、水神は見るべがらず、大魚・蛟竜(こうりゅう)を以て(しるし)と為す。今、上(始皇帝)は祷り祀ること(つぶ)さに謹めるに、此の悪神有り。当に除去すべし、而ち善神致すべし、と。乃ち海に入る者をして巨魚を捕うるの具を(もたら)さしめ、而して自ら連弩を以て大魚の出づるを候い之を射んとす。琅邪より北して栄成山に至るまで見ず。之罘(しふ)に至りて巨魚を見、射て一魚を殺し、遂に海に並いて西して平原津に至りて病む。

秦始皇本紀
天下を(あわ)するに及びて、天下の徒の送詣するもの七十余万人。山泉を穿(うが)ち、銅を下にして(かく)を致す。宮観(きゅうかん)百官、奇器珍怪、蔵を(うつ)して之に満たす。水銀を以て百川江河大海を為り、機相灌輸(あいかんゆ)す。

『三国志』呉王伝
春正月…将軍衞温(えいおん)、諸葛直を遣わして甲士万人を将い、海に浮びて夷洲(いしゅう)及び亶洲(たん)を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老伝えて言う、秦の始皇帝は方士の徐福を遣わし、童男童女数千人を将いて海に入り、蓬莱神仙及び仙薬を求めしむ。此の洲に止まりて還らず、世々相承けて数万家有り。其の上の人民、時に会稽に至りて布を(あきな)うこと有り。会稽東(冶)県の人、海に行き、亦た風に遭い流移して亶洲に至る者有り、と。


徐福伝説


『丹後伊根の民話』
新井崎神社のいわれ
 秦の始皇帝の家臣の徐福いう人が、新井崎神社にはお祭してあるんです。その徐福という人は、秦の始皇帝が具合が悪うなったときに、
「お前は、東方に蓬莱の国があるさかい、そこへ行って不老不死の薬を求めてこい。そこにはあるさかい」
いうことを言うて、ここへ来たんです、取りにねえ。
 たまたま荒れに遭うて、うまいこと上がれなんで、それがために辛苦したんだけど、まあ上がったと。上がって不老不死の薬を、なんぼう仙薬ぅ求めたんじゃけどなかなか求まらなんだと。分からなんだと。へだけど、どうやらこうやら、これがそうだろうというものが分かった。それがなんだいうたら、お宮さんの下にある()節のよもぎと、菖蒲と、もう一つなんだったか、いまの()コだというけど、そりょうさがし当てて、やれやれと思っておったけえど、ついに去ぬる機会がのうなってなあ、海が荒れたりなんかいして、ここで成仏することになったと。
 そんだけえど、その人が、なかなか支那から来たぐらいで、支那は日本より文明が先に進んどるでなあ、ほうで産業の方も力を入れて、ここの一般人民からたいへん慕われたと。それがために、新井にお祭したんだと。漂着したんださかいいちばん海岸ぶちに、その人をお祭して、新井崎神社としてあがめたと。
 新井崎神社は、ものすごう気高いんで、沖を帆掛け船が通ったら帆が折れたとな。帆が折れて、もうどの船も先が航海できんのだって。それでなあ、下の段に神社があったんだけど、上ぃ上げた。
 徐福が支那に帰らなんだのは、始皇帝があんまりわがままで、あんなわがままな王さんにされては、人民が困るで、私は、この薬を求めたけど帰らんいうてねえ、それで帰らなんだともいうんだと。 
        (新井の石倉勘兵衛さんに聞く)

注 黒節のよもぎ=よもぎの節の黒いもの。からよもぎ。新井崎付近にあるという。
注 クコ=薬草のクコ。クコ茶にして飲用する。

『宮津市史』
徐福伝承
徐福は中国秦の時代の方士(神仙の術をおこなう者)で、始皇帝に申し出て、不老不死の仙薬を求めるため、童男女数千人を連れて海中の三神山に船出したと『史記』に伝えられている(別掲一○二)。また我国の中世の『神皇正統記』には、始皇帝が長生不死の薬を日本に求めたと記されている(別掲一○三)。そのためか、徐福は佐賀県有明海一帯や和歌山県熊野付近など日本各地の約二○か所に渡来したとする伝承地があり、丹後もその一つに数えられている。すなわち、与謝郡伊根町新井の新井崎神社は、徐福の渡来地といわれ、徐福を祭神としている。この神社は、日本海に面しており、切り立った海岸の崖の上に、徐福が上陸したと伝える「箱岩」があり、その下を日本海の荒波が洗っている。
 また、伊根町新井からは少し離れるが、同じ与謝郡の加悦町滝の施薬寺には徐福伝承を題材とした与謝蕪村の「方士求不死薬図」の屏風(京都府指定有形文化財)があることも付け加えておこう。
 日本各地の徐福の渡来伝承は、総じてそんなに古いものではないと考えられているが、与謝の地には次に見る浦島伝承など、神仙思想に関連するものが多いのである。


別掲一〇二 【史記】 秦始皇本紀二十八年
斉人徐市等上書言、海中有神山、名曰蓬莱・方丈・瀛州、僊人居之、請得斎戒、与童男女上レ之、於是遣徐市発童男女数千人、人海求僊人
※『史記』秦始皇本紀三十五年・三十七年、准南衡山列伝などにも同様の記事あり。

別掲一〇三 【神皇正統記】 孝霊四十五年
第七代、孝霊天皇(略)四十五年乙卯、秦ノ始皇即位、此始皇仙方ヲコノミテ長生不死ノ薬ヲ日本ニモトム、

徐福
伊根町新井崎の徐福伝説を記すもっとも古い文献は、延宝五年(一六七七)に宮津藩主水井尚長に同行した儒臣和田宗允(静観窩)が書いた「与謝巡遊記」(『天橋立集』収載)の次の記載である。
  又往而海岸有森建童男寡女宮、世伝秦徐福上書始皇、請与童男女五百人入海求三神山不死薬、而得海島、
  遂留不還、所謂蓬莱三山者、吾朝尾州熱田、駿州富士、紀州熊野也、未知其迹在丹後国、蓋五百男女
  所々散在而然乎、想尋常古蹟、所伝処々尚有之、况於異域流落之輩乎
 中世の史料では、新井崎の地名は明記されていないが、春屋妙葩が丹後滞在中(一三七一-七九)に作った漢詩の連作「丹陽十題」のなかに、次の七言律詩がある(第七章第三節参照)。
  福島白沙
 先生采薬得悟霊  奉使秦皇為避秦
 不向桃源徒問路  遠探蓬島此願神
 白沙猶照鬢糸雪  丹竃未寒和気春
 緬想天山楼上月  夜深呼夢鶴声頻
 明らかに徐福伝説を詠んでいるが、島も砂浜もない新井崎の情景とは考えにくい点がある。「丹陽十題」は、浦島伝説を詠んだ「鮫宮玉箱」も含むが、天橋・成相・普甲・千歳・九世など宮津湾岸の名所を詠んだ詩が多い。あるいは、蓬莱島と呼ばれたと『丹後州宮津府志』(宝暦十三年〔一七六三〕)『丹後名所案内』(文化十一年〔一八一四〕)などに見える獅子村沖にあった小島のことを詠んだものかとも思われる。
 また、智海が文明年間(一四六九~八七)ごろ撰述した『丹後国一宮深秘』(七五八)には、次の記述がある。
  亦古伝二蓬莱ハ此国ニ有ト見ヘタ□、昔秦皇帝漢武年々ニ霊薬ヲ海水漫々トメ覓二処ナシ、不覓得蓬莱  ヲ否不帰云々、童男寡女終船中ニテ老タリ、誠蓬莱ハ名ノミ有テ無実云ヘリ、機縁熟シヌレハ見事無疑  ト云々
 ここには具体的な丹後との関連づけはないが、当時、丹後の宗教界の中枢にいた智海が徐福に関する知識を持っていた事実は注目され、やはり宮津湾岸に徐福の伝承があった可能性をも示唆していよう。
 中世後期に流行した幸若舞の『屋嶋軍』ては浦嶋太郎と童男寡女の船が並んで登場する(林晃平「浦島と四季」『苫小牧駒沢短期大学紀要』一九)。徐福については、無住の『雑談集』、北畠親房の『神皇正統記』(古代・別掲一○三)、「太平記」などに記載があるほか、熊野の伝説を無学祖元・絶海中津ら禅僧も漢詩文の題材として取り上げ、中世の知識人にはすでに馴染み深い逸話であり、浦島伝説との習合もはじまっていた。
 新井崎は浦嶋神社の氏子圏にあり、浦島伝説の影響のもと冠島信仰が蓬莱山と結びついて不老不死の霊薬への関心をともない、早ければ南北朝期以前、遅くとも近世初期までに徐福漂着伝説が定着したと思われる。

『郷土と美術84』
丹後の海の伝説 井上正一
徐福の社
 今をさる二千二百余年前、中国の秦の始皇帝の命をうけて東海に不老不死の薬草をもとめて出港し、漂流の末、日本のこの地に流れついたといわれる徐福を氏神としてまつったのが新井崎大明神であり「丹哥府志」という古書にもこの社を調査した記録を載せ「初は疑ひしが其を見て聊か信ずる事あり」と記している。
 これは大陸からわざわざ日本列島に不老不死の薬草を求めてやって来たというのだが、竹野郡網野町木津(橘)の伝承では、垂仁天皇の命をうけた田道間守が不老不死の霊果(橘)を求めて大陸にわたり、霊果を得て本土に着船したのが木津の港であったと伝えている。オホーツク海あたりから南下する寒流は、日本海中央部を通り、逆に沖縄辺で二分されたクロシホの暖流は日本列島にそい、沿岸を洗って北流する。これは昔も今もかわらない。徐福は暖流に乗って大陸から丹後半島の新井崎まで漂流したであろうし、浦島子や田道間守は日本海中央部を寒流にのって大陸に着いたであろう。次項のつぎにしるす弥一たちもやはり寒流に流されて漂流したのではなかろうか。…


(かんむり)島・(くつ)島との関係 (左が沓島(小島)、右が冠島(大島))


:境内の案内板に、
新井崎と冠島
◆黄金の桜
新井崎神社の境内に桜の古木があり、冠島の老人島神社にも同じ種類の桜があった。
その桜の間に黄金の橋がかかっていて、毎年この桜は七色に輝いて花を咲かせた。
村の子供達が、その花を手折ると腹痛を起すといって親達が神社へ行き、七色の桜の花を咲かせないように頼んだところ翌年から普通の花が咲くようになった。この桜はここでいう黄金の桜の裔である。

◆新井崎の黒い岩
新井崎の黒い岩はその昔、蝙蝠山の噴火の際の火山岩である。
昔、大島から新井崎へ黄金の橋かかかっていた。大島の男の神様は逢瀬を楽しんで、新井崎の女神のところへこの橋を渡って通っていた。
ある時、思いがけない男神の来訪を知った女神は化粧の最中だったが、あわてて口につけようとしていたおはぐろを落とした。それで岩が黒くなった。

◆まれびとの来訪
この地に住んだ先人は海の向うから流れてきたものを素直に受け入れ、その流れつくところを聖なる場所と考えた。その代表が徐福であり、ハコ岩であり、その沖合いの目印が冠の島であった。

地元の伝承としては何も伝わらないが、「冠」「沓」の島名は、道教の神仙思想と関係があると言われている。
道教の宗教的理想は得仙、即ち不老不死の仙人に成ることであった。仙人になるといっても天仙・地仙はじめいくつかのなり方があり、その中で尸解(しかい)により仙を得る尸解仙は、一旦は外見上の死を示し、実は本身は剱などの器物をその身代りとして後に残し、死せずして他所へ去ること、蝉や蛇がぬけがらを残すごとくであり、自らは高次の生命を獲るという過程を取るものだと信ぜられた、という。
尸解仙のそのヌケガラの冠と沓だと見られるというのである。
推古12年紀に、
十二月の庚午の朔に、皇太子(ひつぎのみこ)、片岡に遊行()でます。時に飢者(うゑたるひと)、道の(ほとり)(こや)せり。()りて姓名(かばねな)()ひたまふ。(しか)るに(まう)さず。皇太子、(みそなは)して飲食與(をしものあた)へたまふ。(すなは)衣裳(みけし)()きたまひて、飢者に(おほ)ひて(のたま)はく、「(やすら)()せれ」とのたまふ。(すなは)ち歌ひて(のたま)はく、
  しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ 親無しに 汝生(なれな)
  けめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て (こや)せる その旅人(たひと)あはれ
とのたまふ。辛未に、皇太子、使を(つかは)して飢者を()しめたまふ。使者(つかひ)(かへ)(まうき)(まう)さく、「飢者、(すで)(みまか)りぬ」とまうす。(ここ)に皇太子、大きに悲びたまふ。(すなは)()りて()の處に(をさ)め埋ましむ。墓固封(つかつかかた)む。敷日之後(ひへて)、皇太子、近く(つかへまつ)(ひと)を召して、(かた)りて(のたま)はく、「先の日に道に臥して飢者、()凡人(ただひと)(あら)じ。必ず眞人(ひじり)ならむ」とのたまひて、使を遣して()しむ。(ここ)に、使者(つかひ)、還り(まうき)(まう)さく、「墓所(つかどころ)に到りて()れば、(かた)め埋みしところ動かず。(すなは)ち開きて見れば、屍骨既(かばねすで)(むな)しくなりたり。唯衣服(ただみけし)をのみ(たた)みて(ひつぎ)の上に置けり」とまうす。(ここ)に、皇太子、復使者(またつかひ)を返して、其の(みそ)を取らしめたまふ。常の如く且服(またたてまつ)る。時の人、大きに(あやし)びて()はく、「(ひじり)の聖を知ること、其れ(まこと)なるかな」といひて、逾惶(いよいよかしこま)る。
ここで皇太子とあるは、聖徳太子のことで、道教の尸解仙は、早くから日本でも知られていたことがわかる。

日本は世界一の長寿国!
しかも丹後は100歳以上が全国平均の3倍! 世界有数の長寿地域として知られる

徐福伝説は日本には20箇所ほどあるという。伝説といえども、何も関係ない所に発生して、それが長く語り伝えられるものなのであろうか。伝説とは歴史事実と無関係な、根も葉もない、あやしげな、何の意味も持たないハナシなのであろうか。20箇所もあると聞くと、所詮は伝説と軽く見たくもなるのだが…
舞鶴市福来(ふき)にも、徐福が来た所だから福来という、という伝説がある。これは地名に附会したものと見られるが、新井崎と徐福はどうつながるのであろう。
日本は弥生時代の中期、何も記録はなく、このあたりに当時の遺跡も知られていない。記録もなく物的証拠もない。明刀銭が函石浜遺跡から出土したというから、もしもう少し大型の斉刀銭が、新井あたりから出れば、徐福が来た確かな証拠といえるかも知れないが、今のところは500年後の卑弥呼や耶馬台国以上に、まったく手かがりがない。残念ながら、確かなことは、皆目わからない。それでは伝説はウソかと言えば、そう決めてかかるのも何とも軽率なことかも、もしかして信じられないような過去が誰知れず眠っているかも知れない、丹後だから何が眠っているかわからない。
記録も遺跡も知られていないが、健康長寿の地として知られている。徐福が不老不死の霊薬を求めてやってきたという伝説があるのも、何かゆえあるかも…

日葉酢媛が嫁いだ11代垂仁天皇の陵は、宝来山古墳(蓬来山古墳。前方後円墳、227m)で、宮内庁により「菅原伏見東陵」として垂仁天皇陵に治定されている。
垂仁天皇は、あるいは中国の道教や、それが求める水銀にも関心があった人なのかも知れない、そうした天皇と丹後は何か強い関係がありそうにも思われる。

道教の方士(道士)は、日本でいえば神社の宮司さんと医者と漢方薬屋さんを兼ねたような仕事をしている。神様の力を授かろうとするマジナイだけでなく、「薬」を売っていた。
徐福が求めた「不老不死の霊薬」は、本草(ほんぞう)薬には「黒茎(くろくき)(よもぎ)」とか「九節(きゅうせつ)菖蒲(しょうぶ)」とか、漢方薬にもあるもので、こうした薬草が、実際に、この地にあるといわれる。司馬遷は何もそうしたことは書いていないので、本当にそうした草を求めていたかは不明だが、不老不死とまではムリとしても、何か薬になりそうな草なら何でも求めたのではなかろうか。
しかし「くろよもぎ」はアヤシイかも。『史記』が記す、海中の蓬莱が日本のことだとするのだが、蓬莱の「蓬」はヨモギ、「莱」はアカザという草、莱は藜とも書いて、黎には黒の意味があり、そこから「黒ヨモギ」などと考えたものかも知れず、黒ヨモギ説は漢字の意味をとって言っているだけのことかも知れない。風土記では「蓬山」と書いてトコヨノクニと読んでいるが蓬莱は元々の意味はペンペン草の生えているだけの不毛の荒地のことであろうか。
不老不死の霊薬のもう一つ、というか本命は石薬(せきやく)で、これは鉱物から作られるものである。その最高薬が金丹(きんたん)であった。これを一粒飲めば、あらゆる病気も怪我も衰えも、何もかもがイッパツで治るとされた。どうして作るかはわからないが、西洋錬金術でいう「賢者の石」を使うのだろうか。漢字から推察して原料は金と水銀であろうか。金は金歯は身体によいとか金職人は長生きとか、今でも実際に言われるとおりだし、水銀は今は殺虫剤や防腐剤に使われるくらいで水俣病の原因で毒と見られるいるが、古くはこれが石薬の原料としては最高のものと見られていたようである。実際はそうした「不老不死の霊薬」を飲んで死んだ皇帝は数知れずというから、こんな「薬」は間違っても飲まないように…
徐福は、薬草と金と水銀、これらを求めて丹後へやってきた、主たるネライは水銀であったのであろうか、始皇帝陵には百の川江河大海があり、水銀が流れている、と司馬遷が書いている、彼が言うのだから本当のことであろう。不老不死薬として水銀を求めていた。
だいたい水銀と金は元素表で見ても隣同士の金属で、金は79、水銀は80であり、陽子が一つ多いか少ないかだけの物理元素的には似た金属のようである。水銀があるところは金もあるはず…
水銀を示しているのは、新井という地名と、与謝郡国内神名帳の従二位(にい)明神(新井崎神社)と従二位売布(めふ)明神(荒神社(新井崎神社の元宮)か)の神名であるが、このあたりを一見したくらいでは水銀がありそうな感じはない。こうした地名や神社があっても、それはどこでもそうで、土壌成分の微量分析をしないとわからない。ppm(百万分の一)レベルの微量のため、人間の感覚では、とらえることはまずムリである。









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