村の年齢集団-青年団
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 青年団日本各地の村々に古くからあったもので、子供組を卒業した者が加入した、だいたい結婚するまでの間は、ほぼ全員が加入した。村々には古くからあったもので、青年団とは呼ばれなかった、若衆組、若者組とか青年会とか地域によって呼び方はいろいろ、組織の仕方もいろいろ、全国統一の基準というものはなく、記録も古いものはまず残っていない。 明治期からのことになると、小学校高等科の義務教育を終えると、村では進学する者は多くはない。次男三男などはテッチ奉公などで村を出た。だいたい後取りで村に残っている長男坊中心の団体であった。 舞鶴の悪口ばかりで申し訳ないが、舞鶴は若者を大事にしないマチに一般に感じられる。大事にしないと育たないと思ってもらう必要がある。「因業な町でねぇ…」と保守の親分さんでも言うが、女の尻を追っかけ回しているだけのクソと因業周囲社会が思い込むと、本当にそうなってしまう。若者は社会の希望だから、そう思って大事に育てる気心を持ち続けることである、そうすれば、必ずよい若者が育ってくる。 『網野町誌』 若者組の活躍
上の『網野町誌』は、昔の村の青年団についてのピカイチの記録であろうか。これまで述べてきた、人々の生活を潤すために大きな比重を占める諸行事や「遊び」の部分において、村内で最も血気盛んな者たち、つまり若者たちがきわめて重要な役割を果たしていたことは容易に想像できるところである。そこで、ここではその若者組、近世では「若者中」「若連中」などと呼ばれていた年齢集団について触れてゆきたい。若者組については民俗学の成果によってさまざまな機能、内部秩序などが明らかにされているが、ここでは町内の村々に残されている史料に基づき、特に村・公儀とのかかわりに注目していく。 若者組は通常一五歳前後になった男子が全員、あるいは家の跡取りの長男が加入し、結婚、もしくは二五歳前後になると自動的に脱退するというのが一般的な理解である。しかしこれには地域差があり、近世網野町域においてどのような形態をとっていたかは明らかでない。ただし浅茂川村では嘉永七年(安政元年=一八五四)、古頭六人、新頭五人をはじめ合計九〇人の構成員がいたことがわかっており(浅茂川区有文書)、当時同村の男子の人口が約四五〇人だったこと(慶応四年には四四四人)や、嘉永六年の名寄帳に若者組構成員の名が出てこないことなどから考えると、次三男を含めた全員加入の、一軒前でない独身者の集団であったことが推測される。高橋村の場合でも天保一二年(一八四一)、若者仲間から村役人にあてて出された振舞規制の請書証文の中に一八人の者が名を連ね、四一人の小前百姓が連印していることから(これに村役人四人を加えた四五人がそのまま高橋村の家数だとすれば同村の人口は二〇〇人程度、その内男は一〇〇人程度となり、若者組構成員の人数は村内全男子の二割弱を占めることになるので)、ここもおそらく一家の長男だけではない、全員加入の組織だったと思われる。(高橋区有文書) 若者組に加入したものは若者宿・若衆宿と呼ばれる建物の中で共同で寝起きするのが習わしであった。ここでの飲食については下和田区の文書に、安政四年(一八五七)九月作成の「夜食見舞帳」が残されており、溝野村や俵野村の若者から弁当、酒、菜の差し入れを受け、合同で夜を語り明かした様子がうかがえる。また、同史料には「女若中」の夜会の飲食についても記されており、未婚女性によって構成される「娘組」が存在し、活動していたこともわかり興味深い。網野村でも、明和五年(一七六八)七月一三日、「女中講」による、題目を千部唱えたことを記念して建てられた碑が残っており、娘組の活動を知ることができる。 さて、次に若者組の果たした機能についていくつか述べていきたい。 村の休日 まず第一点は、村の休日取り決めに対する一定の関与である。日和田村では天明六年(一七八六)、村内の休日についての定書を作成したが(日和田区有文書)、これを見ると若者組が村の定める休日の決定に大きな役割を果たしていたことが明らかになる。 … 祭礼・芝居など 若者組の役割として挙げられる第二点は祭礼・芝居など諸行事への主導的なかかわりである。 この点については若者組の活動を規制する諸法令のなかでしばしば触れられているが、そこでは祭りが華美に流れ、また、訪れた他村の者といざこざを起こす張本人としてのみ登場しているのがほとんどである。当然このような側面を一方で持っていたことは事実であるが、それ以上に祭りそのものを支える重要な役割を担っていたことを見逃してはならない。人々の生活に潤いをもたらす「ハレ」の場である祭 りが華やかに行われることは、領主にとって許すべからざることではあっても、村にとってはむしろ地域の繁栄を賭けた行事として重視し、領主にとがめられない範囲内で許容していたのである。 木津庄和田上野分では毎年七月の盆になると六斎念仏といわれる一種の踊り念仏を行っていたが、これには若連中が中心となって準備実行がなされていた。下和田区に残されている文書によれば、彼らが準備のために太鼓を借りたり緒(飾り付けや太鼓・鉦につける紐のことだろうか)を調達したりしていたことがわかり、また文政一三年(天保元年=一八三〇)、節を付けて唱える時にお囃子として使われる鉦を彼らの名義で橋木村(現中郡峰山町)の若連中から二四匁で買い取っている。(下和田区有文書) また、浅茂川村では嘉永六年(一八五三)、毎年の祭礼で使われる神輿が破損したため、再建費用を若者組が中心となって調達した。その経緯は以下の史料(浅茂川区有文書)の如くである。 … 内容を要約すると次のようになる。嘉永六年(一八五三)、若者組は神輿修復の願いを提出して翌年三月 に村から認められた。しかし、折しも嘉永六年は旱魃に見舞われ、また、浦賀にペリーが来航し国中が混乱状態にあった。そのため諸物価が高騰し、あおりを受けた縮緬業界も深刻な危機に陥り、とても勧化だけで資金を調達できるような状況ではなくなってしまった。そこで若者組は村に願い出て八五〇匁の資金の半分村入用から出してもらい、残り四二五匁を材木の売り上げ、若者組の構成員自身の拠出と勧化によって調達することにし、これによって恙なく神輿を再建することができた。同時に若者組はこの神輿のむこう二〇か年の管理を村に約束した。 この時実際若者組の活動で集めた資金は、まず九〇人からなる構成員自身で出し合った額が一一七匁五分、材木の売り上げが七〇匁、そして勧化の内訳として村内の女房一九人から八六匁八分、娘組と思われる 「女中」のうち六一人から四〇匁、他村から慟きにきている奉公人のうち女性一三人から七匁一分をそれぞれ集めた。… 治安維持・警察機能 若者組の機能の第三点は、彼らによる治安維持・警察機能である。殊に山林の維持・管理において若者組は大きな役割を果たした。寛保二年(一七四二)二月、日和田村は山林維持のための「村中入込山仕置帳」なる帳簿を作成したが、これは二冊つくられ、一冊を庄屋が保管、そしてもう一冊は若者に渡して管理に当たらせている。さらに明和四年(一七六七)秋からは村内の家主からの依頼で、彼らに半日の休みを与えることを条件に山林の見回りに当たらせた。(日和田区有文書)浅茂川村でも文化一四年(一八一七)、若者組がため池を囲う山林を村から譲り受け、日和田村と同じくその管理を任されている。(浅茂川区有文書) このように山林管理に若者組が密接にかかわったのは、単に村内の違反者を取り締まるためだけではない。近世を通じて繰り返し起こった村境争論のなかで最も厳しい争いの場となったのがまさに山林であり、村は境の侵犯者、入会秩序の違反者を取り押さえるために若者の力を頼りにしたのである。弘化二年(一八四五)に起こった高橋村と新庄村との山論では両村の若者によるけんかに発展しているが(新庄区有文書)、このような事態を招くこともある意味では避けられないことであったといえよう。 ほかにもさまざまな役割を指摘することができるが。以上に挙げた事例だけでも若者組が近世の村においていかに重要な役割を果たしていたかがわかるだろう。しかし村は無限定に若者組の活動を認めていたわけではない。しばしば彼らの突出した行動に手を焼き、規制することも多かった。… 一方、領主側はというと、こちらは一貫してその存在を認めない姿勢を取り続け、幕府・藩ともに禁令を出して取り締まろうとしていた。文政一一年(一八二八)の若者組禁止令(「公裁録」)などはその代表例であるが、このようないわゆる「お上」からの取り締まりに対して村はどう対応したのだろうか。 先にも触れたように、神輿の修復をするなど村人に多大な貢献をしていた浅茂川村の若者組をみてみると、同村は安政二年(一八五五)、宮津藩から若者組停止の触を受け取った。本来であればこれを受けた村が若者組を解散させるところであるが、以下のような興味深い対応をして若者組の存続を図った。(浅茂川区有文書) … これは「輿連中」と呼ばれる集団が村方に誓約するという形式を取っているが、表題を見てもわかるとおり「輿連中」はまさに若者組そのものである。その事情について本文では、御公儀様より若者組禁止が仰せ付けられたが、村方は若者組に対し博奕番・山番を行う「輿連中」とするように命じ、彼らもありがたく承った、とある。そして誓約の内容は、規定を守って規律を正すこと、博奕番・山番を怠りなく勤めること、どこかに見物に出掛ける時は質素倹約を守り、自村、他村に限らず決してけんかや口論をしないこと、村から御用を命じられた時は直ちに出向くこと、これらの諸点である。 こうした内容を見てもわかるように、若者組がこれまで担っていた役割はそのまま認められているのである。つまり浅茂川村では、宮津藩による若者組禁止令を「若連中と唱えること」の禁止だと都合よく解釈し、名称だけを「輿連中」と変えて藩の目をくらまし、若者組の実質的な存続を図ったわけである。ちなみに文久四年(一八六四)の史料をみると、再び「若連中」の名称が復活している。藩の監視の目が緩めばすぐに元の名称に戻るところにも、村の若者組重視の姿勢、若者組の強靱さを読み取ることができよう。 「若者組に加入したものは若者宿・若衆宿と呼ばれる建物の中で共同で寝起きするのが習わしであった。ここでの飲食については下和田区の文書に、安政四年(一八五七)九月作成の「夜食見舞帳」が残されており、溝野村や俵野村の若者から弁当、酒、菜の差し入れを受け、合同で夜を語り明かした様子がうかがえる。また、同史料には「女若中」の夜会の飲食についても記されており、未婚女性によって構成される「娘組」が存在し、活動していたこともわかり興味深い。網野村でも、明和五年(一七六八)七月一三日、「女中講」による、題目を千部唱えたことを記念して建てられた碑が残っており、娘組の活動を知ることができる。」 若者宿というものがあって、若者達は全員そこに集まりそこで寝起きして、同じ議題について論議をかわした、例えば今なら村の図書館をどうするか、とか。吉田松陰の松下村塾↓のようなやり方、というか松下村塾が若者宿のやり方を真似たのであろうか。座長が松蔭のようだとスゴク立派にお互いがお互いを教育していく。松蔭が一から十まで教えなくとも彼ら自身がお互い学びあい、若者だけに急速に成長していった。時期が時期なら革命集団にもなっていった。丹後一円のどの地も同じであったかはわからないが、だいたい似たようなことであったと見てよいのではなかろうか。 自主的な学習機関であるとともに、村の保安官であり、消防であり、土木事業所であり、権力側と対決する場合はその最も強力な武装一揆集団である、宮係であり祭礼の執行役、暦まで決める、村の最高権力者ではなかろうか。権力が忌避するのは当然であろう。村はこれを手放すわけはない、江戸期の村の方が利口だったのか、旧勢力などはのんでかかっている、革命前夜の村人であろうか。その後は権力側が利口になったものか、もしオロカにも村が青年団を手放すと彼らは軍国主義権力者の手先となって他国を侵略する兵士となってしまう。学校と同様に青年団もどちら側がにぎるかによって国の運命が決まる大事な集団である。団とかに組織されていなくとも青年は国の運命がかかっている。 何千万もかけて、大事に育てて、やっとそこそこになったら、ハイどうぞ、とどこかの企業に差し出して、何をしとることかわかりませんで。親はだいたいこんなこと言っている、子も突然に郷土と断ち切られてしまい、これでいいんかいな、と何か本意ない気が残る。今は軍国主義よりも資本、ゼニ集団が村人の対立勢力であろう。なかなか悪賢く時の流れでもあるので、これが主敵だとは見抜けない。村や人を良くしてくれるかのように思い違いをしていて、ワクチンがない、あっても受け付けない。アメにダマされ、もっともっとやられないと気付かないのか、かつての軍国主義にやられてしまった村の二の舞となってしまうのかも… 『舞鶴市史』 青年団
内務省は明治三十八年九月地方青年団体の向上発達に関する通達を、また文部省は十二月青年団の設置奨励および指導に関する通達を出した。さらに大正四年九月には青年団体の指導、奨励、発逹に関する内務、文部両省の訓令を出し、これに基づいて京都府では、十一月郡役所あてに青年団体の設置標準と指導方針を示した。 本市内においても従来各字ごとに若連中もしくは若者組として社交団体があったが、明治の末期から青年会、青年団と称する組織に改めていった。 舞鶴青年団は明治三十八年一月の創立で、舞鶴町青年会の名称で寺内の集会所を本部として、有志の手によって発会式を挙げた。当時会員は二五〇人で、舞鶴町の発展促進を目的としていた。大正四年会則を変更して改組し、町在住の満十六歳以上満二五歳までの青年をもって左の支部を設けた。 青柳会(大内、北田辺、南田辺、本、職人) 緑星会(丹波、竹屋、平野屋、魚屋、真名井) 鶴西会(寺内、松陰、新、宮津口、西、紺屋) 革新会(京口、堀上、引土、引土新、朝代) 村落にあっては、明治のころには各字ごとに若者組、青年会があって、村の氏神祭礼、夜学会、農産業振興等に活躍した。 岡田下村では明治三十七年ごろに各字ごとの青年会が誕生し、同四十五年には岡田下青年団と発展し、岡田上村では京部同志会と西部同志会が明治四十一年に生まれ、小学校を中心にそれぞれ活動していたが、大正十一年に至り岡田上青年団を結成している。このほか倉梯、志楽、朝来においても、明治末期におのおの青年団を結成しているし、大正期に入って中舞鶴青年会は青年団と改称し、吉原地区では従来の若連中を大正六年青年会と改めたが、同十年吉原水産補習学校生徒を中心に静溪会を組織し、また先輩の努力と会員の自覚によって、翌十一年吉原青年団を結成した。 大正元年八月には加佐郡連合青年団が結成され、団長には舞鶴町長、加佐郡長、舞鶴中学校長が就任し、副団長に団員が就任するのは昭和期に入ってからであった。昭和六年には加佐郡内の各町村青年団二七団が加盟し、団員は一、九三〇人となっている。 大正四年京都府の青年団体の設置標準と指導方針によって、字中心に発足した若年組もしくは若連中、青年会が、次第に小学校区単位あるいは町村単位の青年団組織へと指導されていった。 女子青年団 終戦前にあっては青年団員とは男子に限られていたので、女子のためには別個の団体を組織しなければならなかった。 市内における女子青年団体の組織は、当初は処女会という名称を用い、後には女子青年団と改称しているものが多く、また結成は大正末期が多く、各町村に結成されていた。 また、加佐郡中部処女会(舞鶴町、中舞鶴町、余内村、中筋村、池内村、高野村、四所村)は大正十一年に、加佐郡連合処女会は同十四年にそれぞれ創立した。 前記の女子青年団のほか、同十四年当時は各小学校単位にほとんどの地区に、青年団と同様にこれらの団体が結成されていた。 青年団と女子青年団の全国組織としては、同年に大日本連合青年団、昭和二年に大日本連合女子青年団が創立したが、戦時体制に突入するに及んで、同十六年一月前記二団体のほか、大日本少年団連盟、帝国少年団協会をも結合して、大日本青少年団を結成した。 青年団(青年会)
大正元年八月創設の加佐郡連合青年団は、第一回各町村青年大会を明治四十三年十一月に、第二回を翌年十月に開催して、大正元年に至って連合青年団の結成をみたものである。 その年十二月、第一回総会を開いて団則を制定し、役員を決定した。初代団長には舞鶴町長が選ばれたが、その後は加佐郡長が大正十五年府立舞鶴中学校長が就任するまで歴任している。昭和六年には郡内各町村青年団二七団体が加盟し、団員一、九三〇人を数えた。聖旨を奉戴し、本郡内青年相互の協同和親を計り、健全な発達を期するを目的として活動した。毎年春秋二回の総会、運動競技選手権大会、幹部講習会等を事業として掲げている。 加盟の町村青年団は、従前各字に組織されていた若衆組・青年会が校区や町村単位の青年会に発展し、更に青年団と改組したものが多く、大正期になって結成されたものである。高等小学校卒業の年から満二五歳までの男子青年を構成員とし、運動競技・修養・社会奉仕・勤労奉仕などを主な事業としていた。 連合青年団の主催する運動競技大会は、加佐郡を東・中・西三部に分けその対抗競技とした。東部を例にとると、東部では新舞鶴・倉梯・与保呂・志楽・朝来・東大浦・西大浦・中舞鶴八か町村の青年団が東部連合青年団連合運動会を新舞鶴町三条海岸や浮島グラウンド(昭和六年八月開設)などで開催した。 この外、青年団の運動競技大会としては、丹後五郡(加佐・与謝・中・竹野・熊野五郡)競技会、京都府青年団競技大会や明治神宮陸上競技場で開かれる全国大会があった。また、朝来・志楽・与保呂三村のような近隣の青年団対抗運動会などがあったが、この三村対抗運動会は昭和初年から同十六年ころまで続けられてい た。舞鶴青年団(大正五年改称)は大正九年八月、加佐郡優勝野球大会を主催して、毎年八月の盆休みのころ に明倫小学校校庭で開いたが、これも昭和十六年まで継続した。 加佐郡連合青年団の動きを小学校日誌には次のように記している。 (大正十一年)四月九日 日曜 晴天 郡青年団総会 午前九時ヨリ講堂ニテ郡青年団春季総会開会 午前中団員五分間演説午後討論 及講話午後三時四十分閉会 来校者 郡青年団役員及団員五百名 来賓岡本少将外数十名 九月十日 日曜 晴天 午前八時ヨリ重砲兵大隊営庭ニ於テ郡青年団丹後五郡出演予選会開催 (大正十五年)六月二十四日 木曜 晴天 午後一時ヨリ舞鶴中学校ニテ本郡各町村青年団長会 九月十四日 日曜 曇雨天 丹後五郡青年団競技会 於舞中 与謝郡優勝 (明倫小学校日誌) 昭和十一年八月、舞鶴町外五か村合併が行われたが、これに伴い関係町村青年団の連合組織結成について、次のような新聞記事がある。またこの後、舞鶴市・東舞鶴市(昭和十三年八月)の誕生、更に同十八年五月の両市合併による舞鶴市の発足によって、その都度関係青年団においても改組を行った。 舞鶴町聯合青年団 舞鶴町外五ヶ村の合併当初からの計画であった各青年団聯合組織について、二十七日午後八時から舞鶴駅前集会所で各団 長会を開いて協議した結果、旧舞鶴・吉原・中筋・池内・高野・余内・四所の七青年団が連合して舞鶴町聯合青年団となり、団長には川北町長を推し、事務所は町役場内に置くことを決定した (昭和一二・六・二八 大阪朝日新聞京都版) 明治以来、青年団は内務省の所管であったが、昭和三年平月以後文部省の所管となった。大正十三年十月、大日本連合青年団成立、日華事変後、青少年団の統合が進められていたが、昭和十五年、新体制運動の展開によって、翌十六年一月、大日本青少年団(大日本連合青年団、大日本女子青年団、少年団連盟・帝国少年団協会を統合)が結成された。この組織は、文部大臣統轄のもとに地方長官を道府県青年団の団長とし、青年学校長及び小学校長をそれぞれ単位団の団長と定め、一般団員は二〇歳、指揮者は二五歳までを認めるとしたものである。 新発足の大日本青少年団は青少年に対する統一的な戦時的訓練と活動を次々に展開した。なお、同十七年六月、大政翼賛会強化に際し、大日本青少年団もその傘下に置かれ、一層時局的活動を要求されることになった。 青年団も戦争に全面協力する団体へと変質されていった。 青年の時代 『美山町誌』 青年の時代
公職追放により村政にかかわったほとんどの大人が活躍できずにいたので、新しい村づくりは青年たちの手によるところが多かった。復員してくる青年たちをむかえて青年団運動が活発であった。芝居を上演したり運動に汗を流したりした。演劇は格好の娯楽で青年のみならず村中が楽しんだ。知井の青年の演劇は他の村々からも見に来ていたというし、鶴ヶ岡青年団は遠く京北や和知まで呼ばれて公演に行っている。弁論大会や農業研究会なども盛んにひらかれた。 「戦後の青年団は、復員してきた若者たちで演劇や体育活動が活発であった。二十二年に帰郷して青年団に入る。創立期の先輩たちは、結婚等ですでに退団していたが、それでも野添支部だけで十六名はいただろうか。年中行事として墓の草刈りや、盆踊りも青年が担っていた。冬は演劇の稽古、夏は運動練習と仕事の終わってから多く、ハードなスケジュールだったけれども楽しかりた。(中略)運動練習は学校へ行くのも時間が掛かるので、口中店の前(松田自工の隣に農協の支所と並んであった)の道路でよく走ったものである。その頃は自動車も少なく道路が結構、グランドの代わりに使えた。演劇の稽古は深見寺を借りて行った。二十三年の冬の出し物は野添支部では忠臣蔵。口中庄太郎氏が蔵之助で磯部久栄さんがリク、私が主税であった。他に女子数人で踊りもあった。(中略)演劇も二十三年頃から映画の方が盛んになって、上映に力を入れその収入を活動資金とした。 「湯ノ町エレジー」の上映のときには小学校に入りきれない程の人であふれた。又弁論大会も盛んで次のような記録も残している。(中略)青年弁論大会には三十六名参加して一位は男子 外田敏夫、女子 岸本美代子となっている。 こうして、文化活動や、社会活動にも分野を広めて、二十四年には定時制高校の設立を団を挙げて取り組むことになる。三月十八日支部常会で全員入学を決めて、四月二日の入学式にはみんな出席した。この開校にはその以前から岸本幸夫君らが中心となって勤労学徒運動があってこの定時制が制度化されたのであるが、平屋ではそれまでからみんな学習意欲も高く、団の冬季講座、村の夏季大学、明星クラブ等の夜学集団などの底地と、平屋青年団員の全員入学と言う団結力が実を結び、北桑田高等学校北部分校平屋教室として出発した。当時中学校も統合されておらず、小学校の西側の教室を充てていたので、そこを仮校舎として開校された。(中略) 青年団は二十五年に規約を改正して部制をしき、文化、産業、社会の各分野に視野を広めて活動した。戦後の芝居と体育オンリーでなく自己研修の場もつくった。新聞を毎月発行したり講座を開く等思い出が多い。」(東秀一氏著『百姓記』) 盆踊りは青年達の娯楽の場で。日をずらしてあちらこちら踊ってあるいた。恋愛の場でもあった。踊りは今とは比べものにならないぐらい盛んで夜を徹して踊った。 平屋村では、青年達が平屋民主青年会をつくり、選挙にもでた。全国でも珍しい、山林日雇労働者の組織平屋山林労組を最初に組織したのもそのメンバーであった。後に農村労組として発展する。青年たちは畑の土が水を吸い込むように、新しい思想を吸収していった。 音の玉手箱
|
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2024 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |