『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
丹後の鳥取
鳥取 ①
各地の鳥取
鳥取郷や天湯河板挙命を祀る社(手元の資料にあるもののみ)
鳥取郷(今亡)(越中国新川郡)
大鳥神社(上野国勢多郡)
鳥取駅(下総国印幡郡)
鳥捕駅(参河国)
鳥取神社(伊勢国員弁郡・式内社)
鳥取山田神社(伊勢国員弁郡)(員弁郡東員町山田)
河桁御河辺神社(近江国神崎郡)
川田神社(近江国甲賀郡)
鳥取池(精華町北稲八間)
砥取村(奈良県宇陀郡室生村砥取)
鳥取郷(河内国大県郡)
鳥坂郷(河内国大県郡)
鳥取郷(訓注・止々利)(和泉国日根郡)
鳥取郷(丹後国竹野郡)
和奈見神社(但馬国養父郡)
中嶋神社(但馬国出石郡)
久々比神社(但馬国城崎郡)
鳥取郷(因幡国邑美郡)(鳥取市)
鳥取郷(備前国赤坂郡)
鳥取郷(肥後国合志郡)
鳥取部
記紀に鳥取部の記事がある。
『日本書紀』垂仁天皇23年条
二十三年の秋九月の丙寅の朔丁卯に、群卿に詔して曰はく、「譽津別王は、是生年既に三十、八掬髯鬚むすまでに、猶泣つること兒の如し。常に言はざること、何由ぞ。因りて有司せて議れ』とのたまふ。
冬十月の乙丑の朔壬申に、天皇、大殿の前に立ちたまへり。譽津別皇子侍り。時に鳴鵠有りて、大虚を度る。皇子仰ぎて鵠を觀して曰はく、「是何物ぞ」とのたまふ。天皇、則ち皇子の鵠を見て言ふこと得たりと知しめして喜びたまふ。左右に詔して曰はく、「誰か能く是の島を捕へて獻らむ」とのたまふ。是に、鳥取造の祖天湯河板擧奏して言さく、「臣必ず捕へて獻らむ」とまうす。即ち天皇、湯河板擧〔板擧。此をば拕儺と云ふ。〕に勅して曰はく、「汝是の島を獻らば、必ず敦く賞せむ」とのたまふ。時に湯河板擧、遠く鵠の飛びし方を望みて、追ひ尋ぎて出雲に詣りて、捕獲へつ。或の曰はく、「但馬國に得つ」といふ。
十一月の甲午の朔乙未に、湯河板擧、鵠を獻る。譽津別命、是の鵠を弄びて、途に言語ふこと得つ。是に由りて、敦く湯河板擧に賞す。則ち姓を賜ひて鳥取造と曰ふ。因りて亦鳥取部・鳥養部・譽津部を定む。
『古事記』垂仁天皇段
其の御子を率て遊びし状は、尾張の相津に在る二俣椙を二俣小舟に作りて、持ち上り來て、倭の市師池、輕池に浮かべて、其の御子を率て遊びき。然るに是の御子、八拳鬚心の前に至るまで眞事登波受。〔此の三字は音を以ゐよ〕 故、今高往く鵠の音を聞きて、始めて阿藝登比〔阿より下の四字は音を以ゐよ〕爲たまひき。爾に山邊の大タカ(帝+鳥)〔此は人の名なり〕を遣はして、其の鳥を取らしめたまひき。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木國より針間國に到り、亦追ひて稻羽國に越え、即ち旦波國、多遅麻國に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海國に到り、乃ち三野國に越え、尾張國より傳ひて科野國に追ひ、遂に高志國に追ひ到りて、和那美の水門に網を張りて、其の鳥を取りて持ち上りて獻りき。故、其の水門を號けて和那美の水門と謂ふなり。亦其の鳥を見たまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事勿かりき。
是に天皇患ひ賜ひて、御寝しませる時、御夢に覺して曰りたまひけらく、「我が宮を天皇の御舎の如修理りたまはば、御子必ず眞事登波牟。〔登より下の三字は音を以ゐよ〕」とのりたまひき。如此覺したまふ時、布斗摩邇邇占相ひて、何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟は出雲の大神の御心なりき。故、其の御子をして其の大神の宮を拜ましめに遣はさむとせし時、誰人を副へしめば吉けむとうらなひき。爾に曙立王卜に食りき。故、曙立王に科せて、宇氣比白さしめつらく、〔宇氣比の三字は音を以ゐよ〕「此の大神を拜むに因りて、誠に驗有らば、是の鷺巣池の樹に住む鷺や、宇氣比落ちよ。」とまをさしめき。如此詔りたまひし時、字氣比し其の鷺、地に堕ちて死にき。又「字氣比活きよ。」と詔りたまへば、更に活きぬ。又甜白檮の前に在る葉廣熊白檮を、宇氣比枯らし、亦字氣比生かしき。爾に名を曙立王に賜ひて、倭者師木登美豐朝倉曙立王〔登美の二字は音を以ゐよ〕と謂ひき。即ち曙立王、莵上王の二王を其の御子に副へて遣はしし時、那良戸よりは跛盲遇はむ。大坂戸よりも亦跛盲遇はむ。唯木戸ぞ是れ掖月の吉き戸と卜ひて出で行かしし時、到り坐す地毎に品遲部を定めたまひき。
故、出雲に到りて、大神を拜み訖へて還り上ります時に、肥河の中に黒き巣橋を作り、假宮を仕へ奉りて坐さしめき。爾に出雲国造の祖、名は岐比佐都美、青葉の山を餝りて、其の河下に立てて、大御食獻らむとする時に、其の御子詔言りたまひしく、「是の河下に、青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず。若し出雲の石クマの曾宮に坐す葦原色許男大神を以ち伊都玖祝の大廷か。」と問ひ賜ひき。爾に御伴に遣はさえし王等、聞き歡び見喜びて、御子をば檳榔の長穂宮に坐せて、驛使を貢上りき。爾に其の御子、一宿肥長比賣と婚ひしましき。故、竊かに其の美人を伺たまへば、蛇なりき。即ち見畏みて遁逃げたまひき。爾に其の肥長比賣患ひて、海原を光して船より追ひ來りき。故、益見畏みて、山の多和〔此の二字は音を以ゐよ〕より御船を引き越して逃げ上り行てせましき。是に覆奏言ししく、「大神を拜みたまひしに因りて、大御子物詔りたまひき。故、參上り來つ。」とまをしき。故、天皇歡喜ばして、即ち莵上王を返して、神の宮を造らしめたまひき。是に天皇、其の御子に因りて、鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定めたまひき。
誉津別命(本牟智和気命・品牟津和気命)は、実在の人物というよりは伝説上の人物ではなかろうか。稲城の焼かれる火中で生まれたという。また応神天皇は誉田別(品陀和気)といって、どこか似た名である。
誉田別の誉田は今の大阪府羽曳野市誉田の事だと言われる。誉田は今田と書いたりするが、今田なら舞鶴や伊根町にもある。
素盞嗚命は大人になっても泣いてばかりであったという。統治を委任された海原を治めようとせず、成人してあごひげが胸元に届くほどになっても、泣きわめいてばかり。それはすさまじく、青山を枯らし、川や海を干上がらせるほどだったという。
また『出雲国風土記』の阿遲須枳高日子命(味耜高彦根神)には、よく似たコワイ話が記されている。
神門郡高岸郷
天の下造らしし大神の御子、阿遲須枳高日子命、甚く夜晝哭きましき。仍りて、其處に高屋を造りて、坐せて、印ち、高椅を建てて、登り降らせて、養し奉りき。故、高崖といふ。
仁多郡三澤郷
大神大穴持命の御子、阿遲須枳高日子命、御須髪八握に生ふるまで、夜晝哭きまして、み辭通はざりき。その時、御祖の命、御子を船に乘せて、八十嶋を率て巡りてうらがし給へども、猶哭き止みまさざりき。大神、夢に願ぎ給ひしく、「御子の哭く由を告らせ」と夢に願ぎませば、その夜、御子み辭通ふと夢見ましき。則も、寤めて問ひ給へば、その時「御澤」と申したまひき。その時「何處を然いふ」と問ひ給へば、即て、御祖の前を立ち去り出でまして、石川を度り、坂の上に至り留まり、「是處ぞ」と申したまひき。その時、其の澤の水活れ出でて、御身沐浴みましき。故、國造、神吉事奏しに朝廷に参向ふ時、其の水活れ出でて、用ゐ初むるなり。此に依りて、今も産める婦は、彼の村の稻を食はず、若し食ふ者あらば、生るる子已に云はざるなり。故、三澤といふ。即ち正倉あり。
出雲の鉱毒、今でいう鉱山公害の地で生まれた人であろうか。現在でも隠してばかり安全安心で~すと言っているが、あるのだから、知識のない時代に、当然そうしたことはあったであろうと思われる。
その出雲で鵠を捕らえたと『書紀』はいうが、出雲のどこであろう。
『新撰姓氏録抄』
右京神別上。天神。
鳥取連。
角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也。垂仁天皇皇子誉津別命。年向二三十一不二言語一。于レ時見二飛鵠一。問曰。此何物。爰天皇悦レ之。遣二天湯河桁一尋求。詣二出雲国宇夜江一。捕貢レ之。天皇大嘉。即賜二姓鳥取連一。
出雲の宇夜江というところであった。宇夜江は荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡に挟まれたところにある。西ヘ200メートルほどで荒神谷遺跡、東ヘ2㎞ほどで加茂岩倉遺跡がある。
荒神谷遺跡(島根県簸川郡斐川町神庭西谷) 「荒神谷遺跡」
358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅鉾
加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町岩倉) 「加茂岩倉遺跡」
39個の銅鐸
この宇夜江のあたりこそが、鳥取氏発祥の地と見る説がある。
『古事記』によれば、大国主神の6番目の妃は、鳥取神(鳥耳神、鳥甘神)という。八島牟遅能神の娘で、大国主神との間に鳥鳴海神を生んだ、という。
鳥取之河上宮
『日本書紀』垂仁天皇
三十五年の秋九月に、五十瓊敷命を河内國に遣して、高石池・茅渟池を作らしむ。
三十九年の冬十月に、五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、劒一千口を作る。因りて其の劒を名けて、川上部と謂ふ。亦の名は裸伴〔裸伴、此をば阿箇播娜我等母と云ふ。〕と曰ふ。石上神宮に藏む。是の後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神寶を主らしむ。一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の莵砥の河上に居します。鍛名は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。是の時に、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、并せて十箇の品部もて、五十瓊敷皇子に賜ふ。其の一千口の大刀をば、忍坂邑に藏む。然して後に、忍坂より移して、石上神宮に藏む。是の時に、神、乞して言はく、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とのたまふ。因りて市河に命せて治めしむ。是、今の物部首が始祖なり。
八十七年の春二月の丁亥の朔辛卯に、五十瓊敷命、妹大中姫に謂りて曰はく、 「我は老いたり。神寶を掌ること能はず。今より以後は、必ず汝主れ」といふ。大中姫命辭びて曰さく。「吾は手弱女人なり。何ぞ能く天神庫に登らむ」とまうす。〔神庫。此をば保玖羅と云ふ。〕五十瓊敷命の曰はく、「神庫高しと雖も、我能く神庫の爲に梯を造てむ。豈庫に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰はくつ、「天の御庫も樹梯の随に」といふは、此其の縁なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部逹等、今に至るまでに、石上の神賓を治むるは、是其の縁なり。昔丹波國の桑田村に、人有り。名を甕襲と曰ふ。則ち甕襲が家に犬有り。名を足往と曰ふ。是の犬、山の獸、名を牟士那といふを咋ひて殺しつ。則ち獸の腹に八尺瓊の勾玉有り。因りて獻る。是の玉は、今石上神宮に有り。
『古事記』垂仁天皇段
印色入日子命は、血沼池を作り、又狭山池を作り、又日下の高津池を作りたまひき。又鳥取の河上宮に坐して、横刀壹仟口を作らしめ、是れを石上神宮に納め奉り、即ち其の宮に坐して、河上部を定めたまひき。
五十瓊敷命(印色入日子命)は日葉酢媛の長子である。垂仁天皇の長子だから天皇に即位していたとする説もある(景行は架空という)。高石池・茅渟池・狭山池とか、これらは和泉や河内のほうだが、大和による河内和泉開発を行ったということのようである。
また石上神社に一千口の剱を納めたという、358本の銅剣を思い浮かべるが、石上神社は物部氏の総本山のような社であり、物部氏とも関係が深そうである。母親は丹後なので、丹後とも何か関係が深そうである。
菟砥川上宮(鳥取河上宮)は、大阪府泉南郡阪南町(和泉国日根郡鳥取郷)の自然田のあたりに比定されている。和泉鳥取氏の本貫地であろう。
「菟砥川上宮(鳥取河上宮)」
この地より南に多奈川(谷川)という川が流れているが、それについて、
『地名辞書』は、
谷川
今多奈川村に改む、泉州の最西南にして、紀淡海峡加太瀬戸の東北に在り、俗に田川と呼ぶ、鳥取連祖天湯河桁は此地の人なりしか。又土佐日記云、ぬしま(淡路沼島)と云所を過ぎて田無かはと云所をわたる、辛くいそぎて和泉のなだと云所に至りぬ。○按ずるに桁は此地方の古名なるべし、淡輪は桁の洄なるべく、谷川は桁川なり。日本書紀に「五十瓊敷命、遊茅渟居菟砥川上宮」とある注に「一云鍛名川上」と記入せり亦此辺なり。
また、河内国大県郡に鳥取郷(柏原市青谷)、鳥坂郷(柏原市太平寺・安堂・高井田)があり、河内鳥取氏の本貫地と見られている。式内社の金山彦神社、金山媛神社、金山孫神社、鐸比古神社、鐸比売神社や、天湯川田神社と宿奈川田神社などがあり、何かなければおかしいような所だが、実際ここには古代の畿内最大の鍜冶工房跡がある。
鐸比古神社、鐸比売神社は鐸石別命(沼帯別命)を祀っていて、彼は渟葉田瓊入媛の子で、日葉酢媛の甥になる。その地は鳥坂郷に北接する地(大里郷)になるが、大県・大県南遺跡といい、稼働は、5世紀末~6世紀という。丹後の遠所遺跡より100年以上は早い。
「大県製鉄遺跡」
大和川が奈良盆地から河内へ流れるが、この川が 金剛山地と生駒山地の間の亀の瀬狭窄部を横切って流れる、その大和と河内をつなぐ、海外と大和をつなぐ場所であり、古代からの水陸交通の要衝(竜田越)の北岸一帯の地が鳥取、鳥坂郷である。川下に古市古墳群や百舌古墳群がある。
南岸に松岳山古墳(前方後円墳、全長約120メートル、4世紀後半)がある。当墳の石棺前後に立てられた大型の有孔板石は日葉酢媛陵にあるものと同種だという。丹後とすれば、何かこの地とも関係がありそうに思われる。
捕鳥部萬と物部氏と犬
のちの話だが、『書紀』崇峻即位前紀によれば、
萬は物部守屋の資人。用明天皇2年(587年)の丁未の乱において物部方に属して戦い、守屋の難波の邸宅を守備したが、主君の守屋が討たれたのを聞いて、茅渟県の有真香邑の妻の家を経由して山中に逃亡、首を小刀で刺して自害したという。萬が飼っていた白犬は萬の頭を咥えて古い墓に収めると、萬の頭のそばに臥して横たわり、やがて飢死したと伝わる。
物部氏との関わり深い軍事氏族的な面が見られる。また犬は土中の宝を見つける動物なので、この氏族の生業との関わりが伝えられるように見受けられる。
鳥取氏は弥生期からの古い時代の、出雲出自の青銅や鉄の氏族ではなかろうか。
(参考)
『郷土と美術79』「暖流と湖の文化」(井上正一)
往古の日本人は白鳥を神の使いとしめと言って神聖視し、そのころ多くいたコウノトリ、クグイなどは殺したり捕えたりしなかったと言われています。ところがこれを捕えなければならぬ事件が生じました。『書紀』垂仁天皇二十三年条に、悲劇の皇后狭穂の遺児として残されたホムツワケの皇子が成人してもモノを言わず、クグイを見てはじめて口をきいたという物語があります。この神話にクグイを捕えて皇子に献じた功により、鳥取部の連の姓を賜わった功臣としてアマノユガワタナ(天湯河板挙)という人物があります。この人が当地に来られ、この湖にワナミを張って白鳥を捕えたのでこの地を網野というようになった(竹野郡誌-網野神社明細帳)と言われています。この周辺では網野神社(式内社)をはじめ五カ村の村社に、境内社ではあるが、速尾神社などの社名によってユガワダナの神が際祀されています。但馬の円山川の沿線にもこの神を祭神とする式内社が二社ありますが、丹後では当地湖の周辺に五社あるだけでほかに例がないようです。これは鳥取部の部民たちがその祖神として際祀したものと考えられます。新撰姓氏録鳥取部の項によると鳥取部の祖神としてユガワタナをあげており、この神は角凝魂命十三世または三世の子孫とされています。これらの神はいずれも倭文部シトリベの祖神となっていますので、ユガワタナの神も倭文部の祖神の一人であると考えられます。このシドリのいうのはシズオリの約でこの部民たちは山野にひろく自生しておりとくに川や湖の周辺に多い野生のカラムシ、カジの木などの幹の皮から繊維を採取して、これを原始的な織機にかけて粗い布をつくっていたものであるといいます。このユガワタナが倭文部から鳥取部への移行については「歴史研究」第238号の東京の芦野泉氏が註記されているし、氏はわざわざ当地へも調査に見え直接いろいろ伺う機会を得ました。とにかく当地にユガワタナの神の際祀が集中していることに興味をもち、今この地が丹後織物の主産地として発展していることは古代人たちの願望が強く残されているものと理解しております。…
音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
Resistiré
(1033) Resistiré 2020 - Video Oficial - YouTube
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(1033) DÚO DINÁMICO canta "RESISTIRÉ" (TVE, Noche de fiesta,
junio 1999) - YouTube
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アルゼンチンのエントレ・リオス州警察の音楽バンドだそう。
Resistiréはresistanceに通じる言葉。メゲないぞ、とガンバル抵抗者への応援歌。困難はコロナだけでもないよう、サボリ抜いたツケが回ってきた、いよいよ大変な時代になっていくのかも。最悪の悪夢はコロナ感染80%、ズルズルと次の戦前時代が始まっていく。スペインのパルチザンといえば「誰がために鐘は鳴る」を思い浮かべるが、さてJapónのresistanceは、彼らのように地獄への流れを食い止めようとするのだろうか。
軽快なリズムに似ず、歌詞は根性のかたまり。
戦いに全部負けたとしても、夢がことごとく粉々に砕け散ったとしても、出口が閉ざされても、人生の逆風に強く吹き付けられたとしても、孤独の闇に脅えても、そんなことはしょっちゅうあること、困難に耐えるんだ、折れ曲がっても立っている雑草のように、強くなるんだ、正面から立ち向かうんだ。
今年も頑張りましょう! Resistiré!Resistiré!(レジスチレ!レジスチレ!負けないぞ!負けないぞ!)
関連情報
放送の合間にこんな曲が流れます(予定)
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