丹後の地名プラス

そら知らなんだ

息長②
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -54-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
シリーズ


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由良川舟運
由良川の水害
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加佐郡は新羅郡
与謝郡は新羅郡
田邊・田造郷①
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拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)①
拝師(速石)郷(丹後国与謝郡)②
民族大移動の跡か!?
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息長①
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大蛇伝説①
大蛇伝説②
火祭①
火祭②
福知山二十聯隊の最後③レイテ戦と二十聯隊の全滅
福知山聯隊の最後④インパール作戦と15師団
伝承郷土芸能①
伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
産屋
子供組
村の年齢集団-小中学校
村の年齢集団-青年団
舞鶴の古墳①
舞鶴の古墳②
日本海側の古墳
蛭子山古墳
網野銚子山古墳
神明山古墳






少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹後の息長氏②

よりの続き

弥加宜神社(大森神社)

行永の氏神の弥加宜神社。



参道両サイドは古木の並木になっている。鳥居の神額には「正一位大森大明神」とある。普通はオオモリ神社と呼ばれていて、ミカゲ神社と言っても通用しないかも知れないが、祭のノボリには「彌加宜大神」とある。

拝殿・本殿は杜清水↓と呼ばれる湧水池の脇、あるいはその上に建てられている。

杜清水の水位が最近は下がったとかで、今は本殿が水に浮いているの感じはないが、そうした造りになっているのは理解できる。

富持神社(大宮町上常吉)がこんな感じである(拝殿だけであるが)。

『加佐郡誌』
祭神  天御影命 相殿 誉田別尊
由緒  当社は崇神天皇の御年11年丹波道主之命の御祭りになったものであって、延喜式内の御社である。御祭神天御影命は又の名を天目一箇命と申し、神代に於て武器刀斧等を造り始め給うた大神で天孫瓊瓊杵尊が天降り給うた時防衛をなして仕え奉られた32神の一神に座す武徳の高い大神であらせられるのである。
崇神天皇の十年秋十月丹波道主命が都を御出発あらせられる時、当国青葉の山中にて土蜘蛛陸耳の御笠といふ強賊が居て、地方人家を暴し民を伐ひ国内の害を蒙る事甚だしとの報があったので、命は御父彦坐王の御力ををもお借りに名つて此の地に来給ひ、遂に賊の巨魁を逐ひ払はれて国内を御平定になり翌十一年四月になって朔戎夷を平定せられた状を上奏になったが、同時に国家鎮護の御守神として、御祖父神に当らせられる武徳御盛大の天御影命を御親祭あらせられたのである。然して当社は往昔字ミカゲ谷に鎮座ましましたのであるが、中世(年代不詳)今の地に遷し奉つたものである。此の様に由緒の深い御社であるから古来国司国守領主の御欽仰一通でなかったが、特に田辺の城主細川兵武大輔藤孝崇敬篤く昨大正11年まで境内に存した一の鳥居は藤孝の寄進立せられたものである。社中及び境内二箇所に神泉があって清いことは麗鏡の様に四時水の増減することがない。依って世俗は之を霊水と称している。杜の清水と號せられるのはこれであって、1200年前の丹後風土記に記載せられている通り今に伝わって少しも変っていないのである。

『倉梯村史』
彌伽宜神社  森鎮座 郷社
当社は遠く人皇第十代崇神天皇十年…二〇二一年前…丹波道主命によってその祖父神、武威広大なりし御影神を祀られしに創る。延喜式…二〇二七年前…に「杜坐彌伽宜社在神祇官」とあり。初め現時の行永小字彌伽宜谷に奉祀せられしが、聚落の移動交通の発達に倶ひ再遷三遷遂に現神域に奉祀せられたりとの説あれども其年代更に詳ならず、果して然りとすれば、土地の沿革聚落の発達交通系統等より考へて蓋永禄…三七〇年…以後の事か
丹後風土記…一二二〇前の物…加佐郡残欠と称する文献に曰く。
「彌伽宜社は往古丹波道主の王の祭り給ふ所也(以下虫食)杜中に霊水あり世に杜清水と号す(以下虫食)」
と。今の社殿は慶長年間…凡三二〇年…領主細川藤孝の崇敬厚く土豪高橋氏の協力によって造営し、延享年間…凡一八五年前…大に修理を加へたるが如し。当事の社領百石摂社二十一を有し、社地の南方遠く馬場参道等を控へたりしが如く、地方住民崇敬の中心たりしは明なり。慶長五年…三二二年前…小野木縫殿介の変に当時の神官出雲守は神霊を奉じて若狭に難を避けたり、依て京師吉田司家の指図により臨時に八幡宮を奉祀せりとの記録あり、社殿の左右に森八幡宮神前と刻せる石燈篭あるはその為か。細川忠興の寄進せりと伝へる大鳥居は神域を飾りしも遂に朽ちて大正十一年別に築造せしは惜しむべし。昭和六年新たに社務所を営造して社府昇格の機運熟せんとせり。境内千七百五十七坪。

「広報まいづる」(H11.6.1)
*ふるさとの文化財と伝承
 第26回 弥加宜神社*
*水をまつる社
 金属加工の技術集団が開く*
森・行永地区の住宅地の中、豊かな森を持つ彌加宜神社は”大森さん”と呼ばれ、古くから地域の氏神として親しまれています。
また、水をまつる社とし、本殿は井戸の上に建ち、境内から杜清水と呼ばれる霊水が涌き出ることでも知られています。
《祭神の子孫が行永を開く》
開創は丹波道主命で、祭神は、その母の息長水依比賈の先祖である天御影命。同神は”古代製鉄〟の神で、御上神社(滋賀県野洲町)の神と同じです。丹波道主命の母系の息長氏は、金属加工の技術を持った集団でした。
最近の研究では、東市域一帯を開き、古代倉梯郷を本拠とした製鉄集団・息長氏の神まつりの場が〝森〟であり、”行永〟は息長に由来すると考えられてきています。

旧社地(弥加宜谷)との関係
旧社地と現在の弥加宜神社は南北に直線距離で約2㎞ばかり、現在も参道でつながっている。
早くから2社あったものと思われる、発祥の鉱山の地・弥加宜谷と杜清水(西舞鶴の真名井のような聖地であったものと思われる)のほとりにも祀られていたが、弥加宜谷に住人がいなくなって、旧社は廃絶したものと思われる。それがいつの時代かは確かな資料はない。


(参考)
御上(三上)神社(滋賀県野洲市)

三上山↑  その西麓、国道8号を挟んで御上神社↓が鎮座。



三上山の西麓。祭神は天之御影命(御上神。天目一箇神の別称とされる)。古代・中世・近世の史料では三上社とみえる。野洲の地は古くから安国造の本貫地とされ、三上山山麓をとりまいて古墳が群在している。安国造の先祖となり、御上神を祭祀した御上祝(みかみのはふり)について、『古事記』に、
近淡海の御上の祝がもちいつく、天之御影神の女、息長水依比売を娶して、生める子は、丹波比古多多須美知能宇斯王(丹波道主命)。次に水之穂真若王。次に神大根王。亦の名は八瓜入日子王。次に水穂五百依比売。次に御井津比売。
とみえ、開化天皇の子・日子坐王が天之御影神の女を妻とし、生まれた子が丹波道主命とされるから、丹後とは関係深い神社になる。三上山は神体山で、現社地は古代の山麓の祭祀地(遥拝所)であったと考えられている。
『先代旧事本紀』に、天之御影神は孝霊天皇六年三上山に降臨したという。以後御上祝により祀られ、養老年中(717~24)三上山に群生する榧を用いて社殿が造営されたと伝える(「三上神系図」御上神社文書)。
「日本霊異記」下巻第二四(修行の人を妨ぐるに依りて、猴の身を得し縁)には「野洲郡の部内の御上の嶽」に神社があり、その名は「陀我の大神」というと記し、当社と犬上郡の多賀大社との混乱かも?
また三上山は神仏習合の信仰の地であり、当社の本地仏は阿弥陀如来とされる(明応三年六月修理棟札勧進状写)。三上山山麓には当社社殿のほか、北方妙光寺山・東光寺山にかけて朱鳥元年(686)の創建と伝える東光寺の諸伽藍が散らばっていたという。

三上山 ムカデ退治
大岩山銅鐸
東光寺

のちに戦国の世に革命をもたらした鉄砲鍜冶の近江国友村(長浜市)。

三日月(みかげ)神社(彌加宜神社):福知山市大江町内宮

福知山市大江町内宮にも弥加宜神社がある。


『加佐郡誌』『大江町誌』によれば、祭神は大筒木垂根命。
『丹哥府志』には三日月大明神とある、内宮村、仏性寺村と毛原村にあったという。
◎内宮村 (二俣村の次)
【内宮天照皇太神宮】(元伊勢太神官といふ)
 境内八幡宮、春日社、構現社、八十末社。
 【附録】(三日月大明神、山神、荒神森)
【御 霊 社】
  【附録】(三宝荒神)
◎仏性寺村(内宮村の北、是より千歳嶺に登り宮津に出る)
【岩戸社】(出図)
日裏嶽の麓、二瀬川の崖の臨みてあり。
【鎌鞍山仏性寺】(真言宗、如来院といふ)
【鬼茶屋】
在昔源頼光鬼賊退治の砌ここに憩ひ、二瀬川に人の死骸の流るるを見て賊の住所の近きをさとり、大江山に登りしこと中茶屋の条下にいへり。
 【付録】(三日月大明神、三宝荒神)
○毛原(仏性寺村の枝郷)
 【付録】(三日月大明神)
伊能忠敬測量日記(文化11年2.7)にも、
宇治橋三間二尺 右二町斗山添森中ニ三日月大明神
とあり、現在地とは違い、五十鈴川を挟んだ対岸側にあったという。
『大江町誌』の注に、
三日月大明神は現内宮村氏神 弥加宜神社の前身である。もと川を隔てて梅ヶ平山麓に鎮座。明治二年「御一新ニ付」弥加宜神社と改号。明治十四年現在地に遷された。(棟札・区有文書)当然、測量隊は道の右二町に見たわけである。
とする。

どうやら、天御影命を祀る社とは見ていないようである。
皇大神社(内宮)の境内社の中には、三上神社、三日月神社がある。



大江山は三上山(岳)と呼ばれている。
七仏薬師縁起などには、
麿子皇子勅を奉じて三上山の夷賊を征伐す。
とあり、三上山とは今の大江山を言っているようである。
当社の奥には河守銅山があり、最近まで稼働していた。また鬼伝説の本場でもある。



河守銅山は、銅を主とする鉱床とクロム鉄鉱鉱床を有し、埋蔵量もかなり多かった。
最盛期を迎えた昭和三十六年には、月産八○○○トンの重選併用全泥優先浮遊選鉱場を新設し、昭和二十六年に開さくを開始していた搬出入用の第六竪坑は四四○メートルの深さに達した。この竪坑が、目標の地下五○○メートルに達したのは翌昭和三十七年のことである。向山の竪坑は昭和三十九年に開さくをはじめて四十年六月に終了している。
鉱山の規模は拡大され、従業員住宅は山内にたちならび鉱山人口は増加していった。売店・映画館・グランド・保育園・医療機関などの諸施設も整備されて、河守鉱山は京都府第一の銅鉱山として活気に満ちあふれた。
昭和三十八年の年間産出粗鉱量は一一万八○○○トンにも及んだ。昭和四十一年の河守鉱業所「採鉱慨要」によると、従業員数は二一九名で世帯数は一六二である。坑道延長は六万九九二四メートルに達し、産出した精鉱の累計(昭和一二~昭和四一年末)は、銅鉱一四万四三九四トン、硫化鉱三万四一六六トン、クロム鉄鉱二六○○トン、銀推定一四トンとなっている。これらの精鉱は主として九州の佐賀関精錬所に送られた。という。

当社の祭神とされている大筒木垂根王は、『古事記』によれば、丹波大縣主系の人になり、今の綴喜郡の銅鍜冶と思われる、どうして当社に祀られているのかはわからない。確かな伝承なら丹波大県主氏も天日槍や息長氏とつながりある氏族なのかも知れない。
旧綴喜郡の今の京都府京田辺市には普賢寺という所がある。『和名抄』の普賢寺郷であるが、そこに今は観音寺がある。
『綴喜郡誌』
眞言宗 觀心山、觀音寺
 綴喜郡普賢寺村大字上にあり、一に息長山普賢寺と云ひ、又大御堂観音寺と云ふ、往古は筒城大寺と稱せり。
 由緒、人皇四十代天武天皇除病延命の勅願、義淵借正の開基なり、僧正自ら藥師釋迦二佛を彫刻し、之を安置し奉りて勅願所とし、觀心山親山寺と號せ。觀心寺の額今尚存す支那沙門雪摩の筆也。
 其後人皇第四十五代聖武天皇の勅願、良僧正の開基にして、天平十六年甲申年、更に伽藍を増築して、息長山普賢寺と號せり。…

ずいぶんと古い寺院であるが、その山号が息長山、.このあたりにも息長氏がいたのである。
普賢寺から西に5㎞くらいの所に、枚方市楠葉という所がある。ここは継体天皇の楠葉宮があったところになり、同天皇の即位の地でありミヤコであった、という。このあたりの一帯も息長氏の勢力がつよかったものと思われる。
また同天皇は楠葉宮の後に筒城宮に都を遷している、511年から518年にかけて継体天皇による都が置かれた、 『日本書紀』によると、継体天皇は樟葉宮にて即位した後、511年10月に皇居を筒城宮に遷し、7年間この地で過ごしたという。
『綴喜郡誌』
筒城都跡
普賢寺村字多々羅の西北凡そ五町、地名都谷と云ふ、南北は、連山圍繞し、自然の彊域を爲すものゝ如し、日本書記(卷十一)更還山背興宮室於筒城岡角南而居之、又(巻十七)繼體帝朝、五年多十月遷都山背筒城とありて、都趾たるを證するに足る。
〔大寺賢堅流記に、此地者、仁徳天皇被建行宮還皇磐之姫命之舊地、然後 繼體天皇五年辛即十月都遷此地、號筒城宮云々、風土記に、地坐神玉奴手喜神健角見命祭之、宇頭宿禰息長宣蚊等祭儀之。〕
按ずるに、仁徳天皇二后の宮室、繼體天皇の御宇と、大に時代の異なれば、宮殿の位置同じからず、恐らくは皇 筒城宮は、大御堂の邊ならんか、尚ほ  繼體天皇の皇居地は、大字多々羅小字都谷を以て正鵠に近しとす。

その後、同天皇は弟国宮に遷ったという。
継体12年(西暦518年)に「弟国宮」に遷都、その地は長岡京市北部だと考えられている。同天皇は、古くから淀川水系の交通の要衝として栄えた地にミヤコをおき着実に勢力を拡大してヤマトへ向かったと考えられている。
「日本書紀」によれば、継体天皇の宮室ははじめ河内の樟葉に、次いで山背の筒城に営まれ、継体天皇12年3月に筒城から同じ山背の弟国に、同20年9月に大和の磐余の玉穂に遷すまで存続した。「古事記」はこの宮に触れていない。
そこはどこかといえば、井ノ内・今里付近が本来の狭域としての乙訓であったようで、垂仁紀に、垂仁天皇にめされた丹波の5人姉妹のうち姿が醜いとの理由で帰されることになった竹野媛が葛野まで来て「自ら輿より堕ちて死り」、故に「堕国」という地名がうまれ,そこが弟国になったという説話を載せている。弟国・乙訓のもともとの地点が丹波への道=古山陰道に沿っていたことを記紀の編者が認めていたことを示すと見られる。弟国を流れる小畑川をさかのぼると老ノ坂に出るので、丹波とも近い。竹野媛(丹波大県主家)の系統のルーツがこのあたりにあったのかも知れない。
垂仁3年紀に、
…、天日槍、菟道河(うぢがは)より(さかのぼ)りて、北近江國の吾名邑(あなのむら)に入りて暫く住む。復更(また)近江より若狭國を經て、西但馬國に到りて則ち住處を定む。是を以て、近江國の鏡村の谷の陶人(すゑびと)は、天日槍の從人(つかひびと)なり。…
宇治川はこのあたりで淀川に合流していて、天日槍は、このあたりを拠点として近江から北陸、さらに若狭、丹後、但馬へと勢力を伸ばしていったと思われる。継体天皇の勢力と、天日槍の勢力はピッタリと重なっているように見える。

普賢寺郷の氏神は、観音寺の鎮守社は式内社の朱智神社である。
『綴喜郡誌』
郷社 朱智神社 延喜式内
 祭神 迦爾米雷王
  配神 素盞嗚命
 綴喜郡普賢寺大字天王小字高ヶ峰にあり、未智大寶天王と稱せり、開化帝の皇子彦坐命の子、山代の大筒城眞若王の子、迦爾米雷王を祭る。息長帯比賣命(神功皇后)の祖父なり、素盞鳴命を配祀す、勧請剏立の年記詳ならす。…
朱智というのは、京丹波町の須知(しゅうち)と同じで、当サイトのページでも触れたが、ここに引くと、
須知という日本語らしくない超古い地名から判断して弥生、古墳時代の古代から栄えた古い地であろうか。シュウチ、シュチ、スチ、シチなどは、人名というか国王・首長・ボスを意味する渡来語で、エライ人でかなり大物の称号で、今の日本語だとだいたいは「王様」の意味合いである。
阿利叱智干岐(『姓氏録』)、都怒我阿羅斯等・角干阿羅斯等(記紀)とかのシチ、シトで、漢字では須珍、須智、叱智、設智、朱智、,臣智などと記される。
阿利叱智のシが脱落して阿利智となり、さらに阿智となったものか。阿利智は大江町の有路、福知山市興の式内社・阿比地神社、丹後加悦町の式内社阿知江イソ部神社、阿比地神社の祭神とされる「アリヲチ」もアリシチと私は見るが、これらも須知と同じであろう。漢氏の祖とされる阿智使主。
『後漢書』の「韓伝」に、
もろもろの小さな別村には、それぞれ渠帥(首長)がおり、〔そのうち〕強大なものを臣智といい、つづいて倹側・??・殺?・邑借の順に〔官名がつけられて〕いる。
東洋文庫本の注には、
臣智は朱智(国王)の意味で、倹側は早岐(小国王・有力貴族)、??(?)は不例(首長・貴族)、邑借は新羅官位名の烏知にあたり、日本語の長(おさ)にあたる。
とある。
『魏志東夷伝』「韓伝」にも
それぞれ〔の国には〕長帥(権力者)がいて、権力の大きな者はみずから臣智といい、それに次ぐ者は邑借という。
須知とは、これら漢籍の臣智(シンチと読むものか)のことである。チは大己貴のチにあたり尊称という。
後漢や魏の時代だから、渡来人でもずいぶんと古い、加羅や新羅からの渡来人集団で天日槍系弥生人、古墳人か。弥生古墳時代に新技術を我国に伝え広めた国土開発のユウである。
須知郷の西隣は出鹿(いずしか)郷で、式内社に出石鹿イソ部(イソは山偏に石)神社、今の何鹿(いずしか)神社がある。
淀川の支流、桂川を遡ると、船井郡園部までやってくる、そこから観音峠を越えると須知である。
こうしたシュチ、シチ、スチなどの地名の残る所や、田辺もあるいは息長氏と関係があるかも、の思いになってくる。

普賢寺郷の東隣が綴喜郡田辺郷になるが、舞鶴の田辺も何か息長と関係があるのかも知れない。真倉は田辺郷の発祥の地にようなところになるが、伝説に
『わが郷土まぐら』
大森神社 (大森) 祭神・久々能智神。例祭日、十一月二十七日。
通称〝大森さん〝と呼ぶ。府地誌に「大森神社、社地四履欠ク面積十坪余、本村字大森ニアリ久々能智神ヲ祭ル創立年紀及上祭日詳ナラス。」 古いところでは、元和元(一六一五)年の迫田家文書に「みやけ谷、此所かい道ノ下田中 大森明神有リ」とある。また、明治十年の区文書に「字大もり、三百七十七番 大森社 壱畝歩 村社」とある。昭和二十四年、国有地であった境内地が区に無償譲渡されたが、その時の図面には反別七畝八歩(台帳坪数二一八坪)とある。
 昭和六十二年十月、神殿改築時発見された元文五(一七四○)年の棟札を紹介する。この棟札には大森の人と思われる六名の名前が記されているが、現在のどの家の人か分っていない。大森の人達で何かを祈願したものと思われる。棟札の他に金属製鏡(径九センチ)も保存されている。
  大森神社のお仕えしめはキツネという。各地で行われた「キツネ狩り」の行事は、害獣を除くという目的で行われたが、真倉では「キツネがえり」といわれた。一時期、下地区(大森・下近)で行われた事があって、この時、村に多くの病人が出たり、人にキツネがついたり、村に大異変が起ったのであった。これは大森神社のキツネのたたりというので、それ以降、下地区では行わなくなり上地区だけの行事として、昭和三十八年頃まで続いた。
 東舞鶴の弥加宜神社は「大森神社」の別名の方が知られているが、真倉の大森神社との関連を年輩の人は次のようにいう。
 「昔、ここいらへんに飢鐘があって、真倉の者の食べ物が無いようになって飢え死するとゆうんで、〝東の大森さん〝の稗三俵と真倉の大森さんの御神体を交換し村人を救ったんやそうな。」と。事実、弥加宜神社には今も稗蔵があるという。また、「昔は大森さんの祭りには、必ず真倉に招待があり、真倉の者が到着せんと祭りが始まらなんだ」ともいう。しかし、両大森神社の継がりを証明する文献等は何もないようである。
 このように、村人を救うために身売りした真倉の大森神社にも御神体の一部が祀られているといい、十一月二十七日が例祭日で午後から近所(七組と八組の一部)の人達により参道・境内の掃除が行われ、引き続き祭典を行う。御神灯をつけ、神酒と参拝者が持ってきたお菓子などを供え、全員神殿前で心経(三回)を唱える。その後、神酒をいただき、お供えした菓子などを参拝者に均等に分け持ち帰る。これは金比羅神社と同じ習慣である。また、各戸の古い御札類はこの日境内で燃やし処分される。
 昭和六十二年の例祭日には、再建立落成式か盛大に行われた。
何か古い伝承のようでよくわからないが、何か関係があることを伝えるものかも知れない。

大江町の弥加宜神社のずっと下側、大江高校のあたりに金屋の地名がある。麻呂子親王の家臣が住んでいたと伝わる。


天御影命とは、
天津彦根の子とされる。
『新撰姓氏録』に、
左京神別下。天孫。額田部湯坐連。 天津彦根命子明立天御影命之後也。…などとある。
『古語拾遺』や『新撰姓氏録』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子とする。
そうしたことで、天御影命=天目一箇神と見られている。
天目一箇神とは片目の神ということで、鍜冶神である。



御蔭石
下鴨神社の境外摂社に御蔭神社


以下は③④へ

麻良多神社
丹波道主命
額田
日下部
寒川神社
粟田
林田
佐々木
菅野
建部
大野
大分
など








 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

 Funiculì Funicula



(121) Luciano Pavarotti & Aqua - Funiculí, funiculà - YouTube
(128) "Funiculi, Funicula," Emma Baker & Richard Noel, Accordion "Duo Virtuale" - YouTube
(129) Funiculi Funicula - André Rieu - YouTube
(129) Flash Mob della canzone napoletana alla Stazione Marittima di Napoli - YouTube
(129) Funiculi, funiculà with maestro Villazón - YouTube
(129) Flashmob Funiculi Funicula Cd. Victoria Tamaulipas - YouTube
(156) Amira - Funiculi Funicula 2018 - YouTube
(128) «Funiculi, funicula» by Luigi Denza (2019) HD / «Фуникули, фуникуля» Луиджи Дэнца - YouTube
(128) フニクリ・フニクラ(日本語字幕 / カナルビ付き)/ Funiculì Funiculà - YouTube

ベスビオ火山はポンペイを埋めた火山で、登山鉄道(フニコラーレ=フニクリフニクラ)も1944年の噴火で破壊されてしまい、登山鉄道は今はない。何が起こるかわからない、自然には勝てたりはしない、ヤシもイカサマも通用しないからご用心。
市民の火山級の大仕事アゲイン、自浄力なきやる気なきクソの議会に、無給の一般市民のほうがよほどに良い仕事をするようなことが何度も見られた無能の議会に、次は議会に風と光を、希望と夢を!


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