多禰寺と七仏薬師伝説
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 多禰寺大浦半島の大道山(多禰寺山)の南東中腹に位置し、舞鶴東湾を一望のもとに見渡す景勝の地に立地する。 由来(当寺のリーフ) 大浦の山裾海抜三百米に位する多禰寺はその名を医王山多禰寺と称し、当地方に初めて仏教をもたらした最古の寺であります。
今から凡そ千四百年の昔丹後丹波地方に君臨した三大豪族が大和朝廷に反乱を起こし、疾病の流行と共に人々は不安に戦いておりました。 伝え聞いた時の帝・用明天皇は深く心を傷め、鎮圧すべしと我が第三皇子聖徳太子の弟君麻呂子親王に追討の勅令を下されます。親王は自ら討伐の将に任じ、駒を進め大江山の砦に攻め入り激戦の末、打破り平定されます。 親王は貧病に苦しむ人々を仏法と医薬の力で救わんと、戦勝祈願の護持仏であった薬師如来を祠るべく、敗軍の雄、土熊を道しるべに従えてこの地に安置し、施薬の法を伝えると共に民心の安定を計るため、都の遥か北方の鎮護国家の道場として寺を創建し、多禰寺と名付けられました。 平安時代に入り傑僧奇世上人が現われ、桓武天皇に招かれ都に上り都造りに功績、宮中より、白久荘一円を寺領として賜わり、八寺十二坊僧兵を擁する七堂伽藍は天下に威風を轟かし、近郷の総菩提寺として栄えました。 時代は下り鎌倉、室町のうち続く戦乱の兵火に崩壊、時世の変遷の流れに没落、昔の壮観さは陰をひそめました。 古来七仏薬師の信仰は厚く、殊に眼と耳を癒して下さる仏様として知られ、地元の根強い力に支えられ今なお息づいており、静かなたたずまいの中に残る数々の文化財、薬草栽培跡地に立って眼下の美しい舞鶴湾の風光をとおして、栄枯盛衰の歴史を歩み続けてきた古刹多禰寺をうかがい知ることができます。 奇世上人について 『舞鶴市民新聞』 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈162〉*多祢寺「縁起と歴史」その4*奇世上人の入山で天皇の助力*応仁の乱後は若狭勢力の侵攻*
多禰寺は、山号医王山、真言宗東寺派、本尊薬師如来。草創についてはつまびらかでないが、寺蔵の縁起(享保2年(1717)成立)は「医王山多禰寺者密教嗣続之雪場而(中略)用明天皇即位二年王子麻呂子(又号金麻呂親王)草創之地也」と麻呂子親王伝説と結び付けて草創を説く、麻呂子親王が勅を奉じて鬼賊を退治したが、この時、宮中で七仏薬師の法を修した。その七仏中の薬師瑠璃光如来を勧請安置し、草創されたのが当寺である。麻呂子親王の鬼退治と七仏薬師縁起は、平安時代にはいり、つぎのようにつづいています。 「桓武天皇の御宇にいたり、百九十六年をへて、 さきに延暦元年(七八二)の五月、天皇に悩みごとがあり、日本国中に効験の明師を求められた。このとき、奇世上人にも詔(みことのり)があり、宮廷にのぼった。そこで薬師の神呪をとなえ三密の香水を奉ると、忽ち帝は快癒された。このことがあってから、上人の名が知られるようになり、朝廷の信任を得ていた。 奇世上人の入山によって多称寺は、天皇の助力がえられるようになり、山中に旧観を回復することができた。奇世上人は、多称寺中興の祖である」。 奇世上人は、桓武天皇に招かれ、平安京の都づくりに功績をあげ、そのために朝廷から白久荘一円を寺領として賜わったともいい、当寺多祢寺は、八寺十二坊、僧兵を擁し、天下にその名が知られる大寺院であったともいいます。 奇世上人については、たしかな資料がみあたらず、平安京の造営にかかわったという事実も明らかではありません。 しかし、すでにふれた宮津市普甲峠の廃寺、普甲寺を開いたとされる棄世上人と、同一人物ではないかともみられます。井上金冶郎先生にお聞きしたところによると、普甲寺関係の文書の中に、棄世を奇世と書いたものもみられるようです。 普甲廃寺は、奈良時代の金銅仏をのこす寺であり、七仏薬師伝説の鬼退治の舞台にもっとも近い古刹です。多祢寺と普甲寺が、同じ時代に寺基がきずかれ、また、同じ人物によって中興されたとしても不思議ではありません。 「それから七百三十二年たった後栢原院の御宇、永正十一年(一五一四)十一月三日に、逆党の賊兵がはいり、山中の什宝を略奪し、そのときに、斉田香料などの古記鐘をことごとく失った。六十七年後、正親町院の天正九年(一五八一)の十二月一日に、長岡兵部大輔藤孝がこの国を領して、供養田や山など六石余を寄進し、正印を一紙にのこした。 その後、代々の領主が寄進をかさね、その寄進状は、寺の重宝として櫃(ひつ)内に納められている」。 逆党の賊兵の記事は、応仁の乱以降の、若狭勢力の侵入がたびたびあったことをさしているようです。 のち桓武天皇が勅願所となり、奇世上人を中興開山に迎え、寂静院・吉祥院・ 寺蔵文書として、丹後守護であった一色氏の被宮人で、当地に勢威をふるっていた桜井豊前守の寺領安堵状がある(天正元年1573)。 天正9年(1581)にも、細川藤孝・忠興の連署状で、寺領を目録のごとく知行するよう安堵されている。 近世には中田・赤野・多禰寺3か村の寺とされ、代々の藩主から寺領6石余を安堵された。本堂・方丈・庫裏・地蔵堂・仁王門・薬師堂や毘沙門堂・金岡堂・権現祠などがあった。寺宝に金剛力士像2体(鎌倉期)・普賢菩薩騎象像(藤原期)・孔雀文磐(鎌倉期)がある。また境内本堂背後に多くは板稗式の石塔群があり、文安4年(1447)、永正11年(1514)の年紀をもつものがある。 国の重要文化財として金剛力士立像(二躯、木造、鎌倉後期)、市指定文化財として本尊薬師如来(坐像、木造截金彩色、鎌倉時代)のほか普賢菩薩騎象像(木造、藤原中期)・孔雀文磬(鎌倉時代)がある。 当寺の仁王さんは、奈良東大寺、京都清水寺の仁王像に次いで全国3番目である。東大寺南門の仁王さんが約8mだそうで、だんぜん一位、京都清水寺のもの、京都では一番大きいといわれるもので3.65m、これが第二位、次が当寺の上写真のもので、3.55と3.58m。二位と10㎝とは変わらない、ミヤコの優れた仏師が彫ったものか、迫力ありすぎ大きすぎ立派すぎのもの。 当寺を建てた民衆の後裔であろうが、今の舞鶴市民ではなんとも「宝の持ち腐れ」の感がある。あまりに立派すぎ、あまりに知らなすぎ、栄光の過去が眠ったままである。 すでに江戸期からそうであったのあろうか。『丹哥府志』は、「頑愚の僧徒らに古蹤の地に誇り紅衣を着て自ら尊大にす、いよいよ法運の陵遅する誠に可惜哉」と嘆いている、こうした嘆きは他には見られない、舞鶴人の欠陥をピシャリと言っているような文章である、痛い痛い。何も知らぬアホのくせに、エラそうに人を見下して、言うことを聞かない、十言ったら一くらいは聞け、十あったら一くらいは調べておけ、せっかくの過去があっても、これではいよいよ未来はなかろ。自分の無能を隠すために、滑稽にもそうした態度を取っているのだが、上がそうだと下はそれを真似る、それでいいのだと思ってしまう、罪は深い、こうして没落していったのかも。 今に残されているのは、西蔵院1院のみである。 こんなに人家より遠い 山中にどうして立派すぎる大寺院があったのか。これがナゾである。 多禰寺のタネは、砂鉄のことを言っていると思われる。砂鉄ではなくとも、金属鉱石で、精錬すれば金属になる、そのタネのことであろう。 海人は海が荒れる冬期には海に出られない、その時期は山に入ってカネを採るのである。 「伊根のなげ節」にも歌われている。 ♪ 伊根はよいとこ後は山で、 前で鰤とる、鯨とる。千両万両の金もとる。 漁師は前の海で漁師をし、後の山で千両万両の金もとった。冬期の海の荒れる季節は金属採集精錬鍜冶全般屋であったと思われる。今は山に入ったりはしないようで、行商とかに出かけているようである。漁師は漁師だけでほかのことはしないのではない。そうした初期の金属文化と関係があると思われる。 鎮守社は御劔社、由来や祭神はどの書にも記載ないが、御剣神社は各地にもあって、祭神はだいたい須佐之男命になっている。天日槍系の鍜冶神かと思われる。 『原日本考』は、 今日わが國内に御劍宮とか、御劍神社なぞと言つて、昔鐡産のあつたと覚しい河流地域に見られてあるが、更にその前代の名を止めるものとして、サブカハ塞川、サブタ寒田等のサブ、サムの附く古い神社、地名が全國に廣く撒布せられてゐるのを見る。 としているが、そうしたことであろう。 麻呂子親王に追われて、多禰寺あたりの鬼は竹野神社の方へ逃げていったと伝説はいう。齋神社が麓の平と大波上にある。あるいは竹野神社系の鬼であったのかも知れない、大江山の鬼と同様である。 鞭と多禰 先だって伝説の 大江山の鎌鞭山如来院とか金属に関わりありそうに思われるのだが、鞭は 時代が降り、それは零落して、何のことでもない鬼の大将にされていった。伝説とはこうしたもので退治した者と退治された者は同じ者になる。鎌鞭はどう訳すか、やってみて下され。ともかくタネと金属は関係あると見たのであった。 (参考) 「鬼退治の後裔」 古くは蛭子山古墳などの被葬者、加悦谷王家の末裔かも知れないし、そうでなくともなんらかの繋がりのある古い家系であろう。 王に宇都木(うすぎ)の鞭を献じたという石川の鞭氏(この鞭は如来院に納められている)旗をもって従ったという与謝の勢旗(せはた)氏、家臣であったという金谷(かなや)氏、公庄(ぐじょう)氏、竹野神社の神官である桜井氏はいまでもその姓や土地名として残り、与謝には宇豆貴部落、桜内部落、宇豆貴神社等がある。『丹後路の史跡めぐり』 石川の小林家は加悦谷でも名の知れた豪農だったで、村人たちは、「山田橋出て石川見れば、門が見えます小林の…」とうたわれとった。 昔、源頼光が大江山の鬼退治に行くとき、この小林家の薮で鞭をこしらえて行ったと伝えられている。それからは小林家を「鞭小林」とよんで、栄えていたそうな。『おおみやの民話』 石川の大命神社や慈観寺の近くのようだから、九州豊前の香春岳の銅山や息長氏とも関係がありそうと思える。 『丹哥府志』 【医王山多禰寺】(真言宗、寺領六石余)
『丹後国加佐郡旧語集』医王山多禰寺は麻呂子親王の開基なり、本堂薬師如来は則ち皇子の彫刻する所なり、所謂七仏薬師の一なり、左右に相並ぶ十二神将は定朝の作なり、二天は運慶の作なりとて活動の趣あり。堂の柱を萩の柱といふ、在昔伽藍建立の日寺の麓赤野村といふ處に萩の大木あり(萩のありし處を萩の尾といふ、今訛りてハンニウといふ)、皇子之を奇とし則ち両楹に用ゆといふ、皇子の夷賊を征伐せしは推古帝卅四年なり、其頃より元文五年に至る凡千百年余、能く修補して伽藍を相続せしめぬ、されども経歴既に久しければ殆んど破壊に及ぶ、於是伽藍を重修す是時の僧萩の柱の記を作る、其柱に題し之を宝蔵の内に蔵む、近世其柱の朽たる處を切り両楹を一柱に作り右の柱とす、其木理鉤栗と相似たり、好事の其木端を以て香合などに造る極て佳なり。辛丑の夏余赤野村より金岡の古跡を経て多禰寺に登る、其間の風景及古物の今に存するもの悉く之を見るに実に勝地なり、一度善知識を得て能く法輪を転ぜば地の復古に至る当に運すべし、但頑愚の僧徒らに古蹤の地に誇り紅衣を着て自ら尊大にす、いよいよ法運の陵遅する誠に可惜哉。 住持伝来写縁起ハ秘メ不出。多祢寺、西蔵院、医王山、慈恩寺金剛院末。…中田、赤野、多祢寺ノ寺。人王三十一代用明天皇即位二年王子麻呂又金麻呂トモ其草創也。王子金麻呂親王トモ云フ。欽明帝二十六乙酉トモ。…威光院 今は無寺。…。熊野権現、鎮守。荒神。弁財天。地蔵堂。権現祠。金岡堂、坂本ニ有 本尊不動明王。毘沙門…。二王門、両像運慶作。薬師堂。当テ桓武天皇御宇歴百九拾六年奇世上人住于此山于時延暦元壬戌年五月天皇有御悩遥奇世上人詔抽丹誠符薬師神呪奉香水叡慮忽快依之得帝力之余祐山中再復旧観是以中興開山トス
『丹後国加佐郡寺社町在旧起』五十七 多祢寺村
医王山多祢寺鹿原山金剛院末寺。本尊薬師如来。開基用明天皇御宇 本堂五間四方、僧房、西蔵院、威光院 二王門三間二間二王運慶作。 『随筆・ふるさと紀行』(常見隆哉) 舞鶴の多禰寺は病除けの寺として、特に眼病に霊験がある。と、伝えられている。薬師如来や金剛力士像など鎌倉時代の貴重な文化財を有する古刹である。海抜三百米の同寺は、夏でも涼風がほんのりと吹き寄せ、避暑地として親しまれる。
七仏薬師伝説薬師仏も元々は古代インドの仏教外(異教)の神様であった。古代バラモン教やヒンズー教の神様であった。仏教そのものが、何もない所から生まれたものでなく、お釈迦様以前からずっと存在し続けていた、そうしたインド国内の諸宗派教えの中からそれらを基礎に、釈迦自らの教えを付け加え、調整し、発展させた教えである。だから仏教外といっても厳密に、狭い意味で言えば、そうだということで、仏教と何も関係のない神様ではなく、仏教の母体のような、前仏教のようなものであった。これらの古代諸宗派なくしては仏教も誕生することはなかった。両親や祖父母なくしては何物も生まれることはない。日本全土の何十倍もある広大な面積と何千年と続く長大な時の流れの中で栄枯盛衰を繰り返して信仰されてきた神々であり、簡単に理解できるというものではない。日本には古代バラモン教や古代ヒンズー教などの古代インドやイランなどの諸宗派の神々についての知識はないので、どういう仏様なのか、その性格、属性や功徳は何とも理解しにくい。一般に(広く仏教圏全体では)、薬師如来の身体の色は瑠璃色で、釈迦と同じ印相を組み、左手に病を治す万能薬が入っている 薬師如来が住んでいるところは、阿弥陀如来が住む西方極楽浄土とは反対側の東の果てにある浄瑠璃浄土。そこは瑠璃が敷き詰められ、建物も瑠璃でできた美しい世界といわれる。 仏教から見れば異教徒の神であった神を取り入れているのだから、異教では人気の高い至高神であったと思われる。日光と月光の菩薩が脇侍なのを見ても、タダものではない。 仏教の薬師如来は、普通には薬壺を持ち病気を治す仏様として知られている、西方極楽浄土の阿弥陀如来に対して、薬師如来は東方浄瑠璃界(現世)の教主とされる。 阿弥陀如来は死後の来世の平穏を司る仏なのに対して、薬師如来は現世での苦しみを取り除き安泰を司る仏として扱われる。 如来になる前の菩薩の時代に「十二の大願」を立て、その大願を全て果たして如来になられたという。十二の大願の中には「病気の災いを除き安楽を与える」というものもあり、この大願を果たしたことから医薬を司る仏という意味で「医王」との別名がある。 薬師如来が説かれている代表的な仏教経典は、永徽元年(650年)の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(薬師経)と、景竜元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)であるが、そのほかに建武〜永昌年間(317〜322年)の帛尸梨蜜多羅訳、大明元年(457年)の慧簡訳、大業11年(615年)の達磨笈多訳が知られている。 薬師本願功徳経では、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集める。 密教経典としては「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」等がある。 真言宗では両部曼荼羅に記されていないが、東寺の金堂本尊であり、醍醐寺の上醍醐や薬師堂の本尊であり、国家鎮護の如来として多くの真言宗寺院の本尊として重視されている。「覚禅抄(東密)」において胎蔵大日如来と同体と説かれている。雑密系の別尊曼荼羅では中尊となる事も多い。 天台宗では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国(日本)の帝である天皇と結び付けられもした。「阿裟縛抄(台密)」で釈迦如来・大日如来と一体とされているが、顕教での妙法蓮華経に説かれる久遠実成の釈迦如来=密教の大日如来との解釈と、釈迦如来の衆生救済の姿という二つの見方による、という。 薬師如来の十二願とは、 光明普照(光明で大宇宙を照らし、すべての衆生を悟らせる) 随意成弁(衆生の心に合わせて、瑠璃の光をもって仏性を目覚めさせる) 施無尽仏(救いの手立てとして、必要な物品を全て施す) 安立大乗(人々を外道から正しい道へ導き、大乗へと導く) 具戒清浄(戒律を破った場合でも、清浄の世界に還るようにする) 諸根具足(身体的な障碍・病気・苦痛を癒やす) 除病安楽(困窮や病苦を治癒し、生活を安定させる) 転女得仏(悟りを得るために男性へ生まれ変わり、その後仏になる) 安心正見(正見できるように導き、徐々に修行を修習させる) 苦悩解脱(災難や刑罰などの絶え間ない苦しみから解放する) 飲食安楽(ひどい飢餓に晒された衆生の苦しみを取り除く) 美衣満足(困窮により衣類がなく寒暑や虫刺されなど悩まされる衆生に衣類を施す) 「転女得仏」。何よそれ。と今となれば言われそうな願であるが、古来女性が悟りをひらくことは難しいとされてきた、社会的な立場の弱い女性が男性と同様に成仏できるように援助するということであろう。 施無尽仏、諸根具足、除病安楽、苦悩解脱、飲食安楽、美衣満足 今の現世の政治屋さんのクソどもがスッコーンと忘れ、忘れたことすら忘れて久しい大願ではなかろうか。軍事大事、再軍備 核武装、万歳万歳、財界第一、米帝追従、市民無視などを大願とするようでは、ジゴクへ堕ちてもらおう。 七仏薬師伝説 七仏薬師の経典がインドでは見つからないそうで、あるいは中国で作られた信仰であったまかも知れないが、ともかく景竜元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七仏薬師経)が日本へ伝わってから、日本における七仏薬師の伝説ができたのであろう、従って麻呂子親王の創立は実際にはあり得なさそうである。 麻呂子親王は聖徳太子(574~622)の弟だから、義浄よりも100年ほども早い人であり、時代が合わない。 創建はどう早くとも奈良期の終わりから平安初期頃になろうか。 当地周辺に仏教の伝播の第一波は、それは薬師信仰を中心としてものであった、と言うことのようである。それ以降に伝説は作られていったものであろう。本当の歴史を遠い過去に加上させて。瑠璃寺とか東光寺とか、薬師を祀る寺院は最も古いものと見られる。 鬼退治の御礼として創立されたと伝わるが、本当は「鬼」が創立したのであろう。 鬼は金属精錬や鍜冶が仕事なので、強い光を見なければならず、目を痛める、年を取ればたいては一眼を失明するという。目に御利益がある薬師様はうってつけであったと思われる。 異教の神であった時代から薬師は大海原を支配する神であったという。自身も瑠璃色で水の属性を感じさせている。漁師で冬は鍜冶屋にはこれ以上の仏様はなかったのかも知れない。 音の玉手箱
Chopin Nocturne op.9-2 |
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