少年易レ老学難レ成、一寸光陰不レ可レ軽
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい
友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
元伊勢の伝承
一般に元伊勢とは、伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地(伊勢神宮)へ遷る以前に一時的にせよ祀られていたという伝承を持つ神社や場所を言う。
天照大神(内宮)も豊受大神(外宮)も、初めから伊勢に祀られていた神ではなく、幾つかの地を経て今の地に鎮座されたものである。この神々が伊勢に遷られる前にお祀りされていた所という意味で「元伊勢」と呼ばれている。
元伊勢は全国にはいくつもあり、丹後にもあちこちにある。当ページは丹後の元伊勢だけを取り上げる。
舞鶴で「元伊勢さんに初詣に行ってきたデ」という場合の元伊勢は、↑この大江町内宮の皇大神社を指していることがほとんどである。
しかし全国的によく知られているのは、天橋立の付け根にある丹後一宮籠神社である。↓
なんでこんな所が元伊勢なんよ、伊勢神宮は天皇陛下の祖先を祀る神社でしょ、丹後と何の関係があんの、とか言う人もあるが、それは少しおベンキョーしていただくより手がない。先を読んでいただこう。
元伊勢内宮
簡単に言えば、伊勢神宮内宮の祭神・天照大神は天皇氏の祖神であり、10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわち皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、11代垂仁天皇の第4皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて伊勢の現在地に遷座したと伝承される。
天照大神は元々は天皇氏(大和大王氏)の氏神で、この氏の私祭の神様であって、最初から国家神、公的な神様であったわけではない。天皇氏の力が強くなるにつれて何とか、天皇氏としては、自分の私神を国家神としたいわけだが、そうは簡単にはいかない。同じように強い力を持つ諸豪族がひしめき、王権といっても初期は持ち回り的で、どの豪族が最終的にトップに立つかはまだわからない。「三種の神器」も各豪族も持っていたもので、何も天皇氏だけにしかない神器でもなかった。ここは急いては事をし損じる、ノラリクラリ作戦で、流れに乗ってチャンスの到来を待つより方法がない。
遷座の経緯について、『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、『倭姫命世記』には、より詳しく記されている。
『皇太神宮儀式帳』や『倭姫命世記』など伊勢神宮(外宮)に伝わる書の重要なものを「神道五部書」と呼ぶが、それは文治年中(1185~90)以後、弘安年中(1278~88)に至る間の成立と言い、ずいぶんと後に編まれたもので、実際の年代と書かれた年代が開けば開くほど、その書かれた内容はアヤシイものとなる。記録どころか文字がない時代のことであり、神社といっても今のようなものではなく、神籬や磐座であったから、第三者的学問的立場の歴史書というよりも、豊受をヨイショするための縁起物的、度会神道の経典的なものだろうといわれる。はっきり言えば、ハナシとしては面白く、まったくのウソでもなかろうが、そのまま信じてよいというものではない、とされる。
しかし古いことはこうした形でしか伝わらないので、真偽の程は別として、一応は知っておくべきであろうかと思われる。偽書だとすべてを否定してしまっては元も子も、すべてを失うことになるかも知れない…
『日本書紀』には、
(崇神天皇)五年に、國内に疾疫多くして、民 死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす。
六年に、百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。其の勢、徳を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までに愓に易りて、神祗に請罪る。是より先に、天照大神・倭大國魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。亦、日本大國魂神を以ては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ、然るに渟名城入姫、髪落ち體痩みて祭ること能はず。
(垂仁天皇二五年)三月の丁亥の朔丙申に、天照大神を豊耜入姫命より離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ。爰に倭姫命、大神を鎭め坐させむ處を求めて、莵田の筱幡に詣る。更に還りて近江國に入りて、東美濃を廻りて、伊勢國に到る。時に天照大神、倭姫命誨へて曰はく、「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜し國なり。是の國に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随に、其の祠を伊勢國に立てたまふ。因りて齋宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります處なり。
但波乃吉佐宮
天照大神は、皇居から出て、よき鎮座地を求めて、放浪することになる。まずは大和の笠縫邑、ここに33年いて、やがてそこを出て、次にやって来たのが「但波乃吉佐宮」であったという。
『倭姫命世紀』に、
(御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神))の卅九年壬戊三月三日。遷二幸但波乃吉佐宮一。秋八月十八日。作二瑞籬一積二四年一奉レ斎。従レ此更倭国求給。此歳。豊宇介神天降坐奉二御饗一。
その吉佐宮はいずこ。
吉佐宮という神社はない。吉佐という所が、後の与謝郡域内になるのか、それとも後の郡域より広く吉佐と言っていたかは正確にはわからない。だいたい与謝郡内かその付近だろうくらいしか見当つけようがない。
4年しかいなかったというので、仮に実際に吉佐宮があったとしても、私祭の神様のことであり、社殿があったわけでもなく、簡単な神籬と瑞籬であったと思われる。神籬や瑞籬は今の地鎮祭などで使われているような、臨時的な簡単な祭壇と囲いで、当時の地元の人々の記憶には大きく焼き付くようなものではあるまい。
「但波乃吉佐宮」と言葉にすれば、立派そうに聞こえるが、その実態は、右図のようなものであったろう。帝国海軍掃海艇と呼んでいたが、実態は漁農家所有のポンポン船を徴発したものであったようなことであろうか。
そうしたことで確かなことはわからないが、一応はこれまでからの推測や主張に挙げられているのは、…
籠神社 (京都府宮津市大垣)
皇大神社 (京都府福知山市大江町内宮)
真名井神社 (京都府宮津市大垣)
「匏宮」はヨサノミヤと読む
橋立神社 (京都府宮津市文殊)
天橋立の磯清水にある神社である。橋の上にあるような社は古いものであろう。文殊堂よりも古いものでなかろうか。文殊堂(智恩寺)にも吉佐宮旧地の伝承がある。
笶原神社 (京都府舞鶴市紺屋)
「魚居匏宮 総社笶原」とある。マナイヨサノミヤである。
竹野神社 (京都府京丹後市丹後町宮)
本殿に天照大神を祀る。
など
元伊勢外宮
外宮(豊受大神)の本地は丹後であり、 丹後で元伊勢という場合は、天照大神を一時的に祀った神社よりも、丹後は伊勢外宮の本地という意味のことの方が重いと思われる。
天照大神の元伊勢内宮は22箇所もあるが、豊受大神の元伊勢外宮は丹後しかない。
『古事記』の天孫降臨の段に
次に登由宇氣神、此は外宮の度相に坐す神ぞ。
とあり、日子番能迩迩芸命と一緒に降臨したようだとされている。先に記述のある豊宇気比売神と同神なのかも知れない。
『日本書紀』には記載がない。
いつの時代に丹後から伊勢へ遷座されたのかは、いろいろと伝わるが、『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世記』によれば、21代雄略天皇の時代に天照大神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。
『倭姫命世紀(下巻)』
泊瀬朝倉之宮御宇天皇。即位廿一年丁巳冬十月朔。倭姫命之御夢尓教覚給久。皇太神吾。如二天之小宮坐一尓。天下尓弖一所尓不レ坐。御饌毛。安不レ聞食爪丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主王子八乎止女乃奉レ斎御饌都神。止由気皇大神乎。我坐国欲止。誨覚給支。
雄略天皇の21年、倭姫の夢に皇太神(天照大神)が現れて、自分一人では食事も安らかにできないので、丹波国与佐之小見比沼之魚井之原坐道主王子八乎止女が齋き祀る御饌都神・止由気皇大神を、私がいる伊勢ヘ呼んでくれといった。という。
この神託を受け雄略天皇22年7月7日 、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大神を迎えて祀った。外宮の鎮座は内宮の鎮座から484年後のことであるという。これが伊勢神宮外宮の鎮座の由来となっている。
伊勢外宮の豊受大神はその元の鎮座地の「丹波国与佐之小見比沼之魚井之原」に「道主王子八乎止女」が祀っていたところから遷られたという。ここが豊受大神の元伊勢ということになろうが、そこは現在の何処になるのであろうか。
これもまた確かなところは、丹後のどこかくらいしかわからないが、これまでの推測や主張によれば、
比沼麻奈為神社 (京都府京丹後市峰山町久次字宮谷)
「式内比沼麻奈為」の石柱が立つ。丹波郡式内社比沼麻奈為神社の比定は当社と藤社神社がある。「沼」と「治」の文字が似ているため、本当は比治真名井でないかとする説もある。比沼と書いてヒチと読むこともある。裏山一帯が比治山、久次山、咋石山などと呼ばれる豊宇加能売の降臨地である。このあたりこそが元伊勢外宮の元々の地ではなかろうか。
藤社神社 (京都府京丹後市峰山町鱒留)
奈具神社 (京都府京丹後市弥栄町船木)
竹野郡式内社。豊宇加能売の安住の地である。
豊受大神も初めから大神というような立派な神であったわけでなく、豊宇加能売のような天女から成長していったものであろう。
磯砂山(比治山・比沼山とも)には真名井もあるから、元々の原郷はこの山かも知れない…
真名井神社(籠神社摂社) (京都府宮津市字大垣)
当社は吉佐宮(元伊勢内宮)の地ともされる。そのときに豊宇介神も天降り坐したとも伝わるので元伊勢外宮の地でもあることになる。
豊受大神社 (京都府福知山市大江町天田内)
舞鶴で元伊勢外宮という場合は、たいていは当社を指している。背後の山を舟岡山といい、そこに社殿が建つ。「府の岡」であろうか、何か古代の府があった地なのかも知れない。
参考
元伊勢内宮
『大江町誌』(図も)
倭姫命世紀(抄)
凡神倭伊波礼彦天皇以往九帝 歴年六百卅余歳 当此時 帝与神其際未遠 同毆共床 以此為常 故神物官物 又未分別焉 御間城入彦五十瓊殖天皇即位六年己丑秋九月 就倭国笠縫邑 殊立磯城神籬 奉斎天照大神及草薙剣 令皇女豊鋤入姫命奉斎焉 其遷祭日 宮人皆参 終夜宴楽歌舞 然後大神之教 国々処々大宮所乎求給 天皇以往九帝 同殿共床 然漸畏其神勢 共住不安 改令忌部氏攣石凝姥神裔 天目一箇神裔二氏 更鋳造鏡剣 以後身御璽焉 是今践祚之日 所獻神璽鏡剣是也 謂内侍所是也 三十九歳壬戌三月三日 遷幸于丹波乃吉佐宮 秋八月十八日作瑞籬 積四十年奉斎矣 従此更倭国宮居求給 此歳豊宇介神天降坐 奉御饗焉 四十三年丙寅九月 遷干倭国伊豆加志本宮八年奉斎焉
その大筋は、神武天皇から九代の間は神と天皇とが同殿同床であったが崇神天皇の六年、大和の笠縫邑に神祠を立て、天照大神と草薙剣を祀った。崇神天皇の三十九年、丹波の吉佐宮に遷座、ここで四年間祀ったのちさらに大和に宮居を求めたが、この年に豊受大神が降臨されて御饗を奉った。同四十三年には、大和の伊豆加志本宮に遷り、ここに八年間祀ったという内容である。
こうした天照大神奉斎地の遷座については神宮古記録の一つ「太神宮本記」に次のように記されている。
「積四十年奉斎」とあるところは、四年と見られている。「太神宮本記」は倭姫命世紀のことである。
(1)倭の笠縫邑→(2)但波国の吉佐官→(3)倭国の伊豆加志本宮→(4)木乃国の奈久佐浜宮→(5)吉備名方浜宮→(6)倭国の禰和乃御室嶺上宮→(7)宇太乃秋宮→(8)佐々波多宮→(9)伊賀国の隠市守宮→(10)穴穂宮→(11)敢都美恵宮→(12)淡海国の甲可日雲宮→(13)坂田宮→(14)美濃国の伊久良河宮→(15)尾張国の中島宮→(16)伊勢国の桑名野代宮→(17)鈴鹿小山宮→(18)阿佐加藤方片樋宮→(19)飯野高宮→(20)佐々牟江宮→(21)伊蘇宮→(22)瀧原宮→(23)現在地
以上の遷座地を現在地に比定すると左表のようになるのではないかと思われる。(この遷座地の調査にあたっては、小橋英世 岡田信雄の教示に負うところが大きい。なお異説の多いことを付記しておく)
(1)笠縫邑
奈良県桜井市三輪 桧原神社
(2)吉佐宮
京都府加佐郡大江町内宮 皇大神社
(3)伊豆加志本宮
奈良県桜井市初瀬 玉列神社
(4)奈久佐浜宮
和歌山市毛見 浜ノ宮神社
(5)名方浜宮
和歌山県海南市名高 井引ノ森大神宮遺跡
(6)彌和乃御室嶺上宮
奈良県桜井市三輪 桧原神社
(7)宇太乃秋宮
奈良県宇陀郡大宇陀町大字迫間小字吾城野 阿紀神社
(8)佐々波多宮
奈良県宇陀郡榛原町大字山辺小字宮山 篠畑神社
(9)隠市守宮
三重県名張市鍛治町 蛭子神社
(10)穴穂宮
三重県上野市上神戸 神戸神社
(11)敢都美恵宮
三重県阿山郡伊賀町大字上拓植 都美恵神社
(12)甲可日雲宮
滋賀県甲賀郡甲西町三雲 立志神社
(13)坂田宮
滋賀県坂田郡近江町字宇賀野坂田 岡神社
(14)伊久良河宮
岐阜県本巣郡巣南村居倉 天神宮社
(15)中島宮
愛知県一宮市今伊勢町本神戸字宮山 洒見神社
(16)桑名野代宮
三重県桑名市大字江陽神戸 神館神社
(17)鈴鹿小山宮
三重県亀山市布気町 忍山神社
(18)阿佐加藤方片樋宮
三重県津市大字垂水 加良比神社社
(19)飯野高宮
三重県松阪市射和 神山神社
(20)佐々牟江宮
三重県多気郡明和町根倉 竹佐々夫江神社
(21)伊蘇宮
三重県伊勢市磯町 磯神社
(22)瀧原宮
三重県度会郡大宮町大字野後 皇太神宮別宮瀧原宮
音の玉手箱
精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
Cyganeczka Zosia:シガネチカ ゾシア
(205) ♫ Creative Band ♫ - Cyganeczka Zosia - YouTube
(221) zespół azyl - cyganeczka Zosia.mp4 - YouTube
ジプシー娘ゾシアという意味だと思うが、歌詞の意味はワタシにはよくわからない。
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