伝承郷土芸能①
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 河辺八幡神社の郷土芸能東大浦の河辺地区。引揚記念館から野原・田井の方へ向かう府道561号線沿い、河辺川沿いの谷筋にある。写真右手の青葉山の向こうは若狭国であり、若狭あるいは近江的な感じがする。というか当地は若狭であった時代もあったと見られる。 平城宮出土木簡の庸米付札に「□敷郡〈青郷川辺里〉庸米六斗〈秦 □〉・天平二年(730)十一月」とある。この川辺里は、現在の当河辺谷の一帯と見られるし、文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案によれば「青郷六十町八反百廿歩 除田井浦二丁八反四歩定」とあり、田井浦2町8反4歩も若狭に属していたが、同田数帳案によれば田井浦は丹後国加佐郡志楽荘に押領されているとあり、中世の国境が定まることにより、田井浦は丹後国に属したことが知られる。川辺とか田井の地名は今の大飯郡側には見当たらず、今の舞鶴市田井も古くは若狭に属していたと見られる。 青郷はJR青郷駅があるが、青海神社のある一帯で、三宅田の小字もあるという。 3年に一度の「大祭」の様子 今は、、河辺中、西屋、室牛、河辺由里、河辺原、栃尾と河辺谷5字の氏神。 練り込み、太刀振り、三番叟、これらの大祭奉納の芸能もさることながら、スゴイのは「王の舞」(鉾の舞)であろうか。舞鶴で「王の舞」が見られるのは当社だけである。これは普通年の例祭に奉納されるというが、ワタシはいまだに見たことがない。河辺八幡神社の祭礼を参照して下さい。 『舞鶴の文化財』 八幡神社の祭礼芸能
毎年9月15日の祭礼に行われる芸能で、鉾の舞・獅子舞・太鼓の舞・膝ずりの四種類から構成される。氏子から十一人の男子が選ばれて、代々神事を司る山田市左衛門家と蝶勢利右衛門家の指導により行われる。 鉾の舞は王の舞であり、二人で行い、前の舞人(サキ)は鼻高の面をつけて鉾を持ち、後の舞人(アト)は土俗的な面をつけて扇子を持ち、サキを真似る。 獅子舞は、伎楽系の獅子舞である。 太鼓の舞・膝ずりは、田楽躍の流れをひく芸能である。太鼓は、締太鼓二人、編木数人の踊子と笛の構成をもつ。 膝ずりは、当日、役の者全員があたり、片方の膝をついてしゃがみ、片手を目の高さに上げ、掛声で進み、三回行う。 王の舞・獅子舞・田楽をセットにする芸能構成は、中世的な祭礼芸能のあり方をうかがわせ、この宮は正和2年(1313)ほか数枚の棟札を残す古社であり、その芸能構成とあいまって、これらが鎌倉時代までその発生をさかのぼり得ることを物語っている。若狭の王の舞に田楽を加えて伝えられてきたものであろう。 なお、道具箱に明和5年(1768)、編木に天明5年(1785)の墨書銘がある。 『舞鶴市史・各説編』 田楽舞い (河辺中)
河辺中の八幡神社に残っている「田楽舞い」については、その関係史料がない上、未調査部分も多いので全貌を明らかにすることはできない。しかしこれは、福井県三方郡に伝来して存続する、近江系の「王の舞い」と「田楽」が複合した祭祀行事と同一形式であることは確かである。 またこの行事は、史料「加佐郡旧語集」に「御上御巡見ノ節ハ獅子ヲ舞ヒ入御覧」と記してあって、「田楽の舞」はこれを奉祀する特定の人々によって、古くから守られ受け継がれてきたが、これに供奉する氏子もまた地元六ヵ字の決まった家筋の人々であるという。 「王の舞いは、普通神幸の前駆となっている猿田彦と同じような鼻高の面をかぶり、鉾をふり回して舞うもの」(若狭の民俗)で、この「王の舞い」に続き「田楽」がビンザサラと横笛を伴奏として奉納される。次いで「獅子舞い」が演じられ、最後にまた鼻高の面をかぶった猿田彦が顔をかくして神前を拝して終わる。 若狭で行われているものは猿田彦に供はつかないが、ここの場合は普通の男形面をつけた供者一人がつく。これらの用具を入れる木箱の蓋裏には「太かぐら箱□入用銀之覚」の墨書があり、その入用銀を分担した八ヵ村とその金額を記し「明和五戊子年(一七六八)八月十一日」と書いている。 また、のみ痕を残す木製面二面と木製鉾は、ともに地方作で中世のものと思われる。 (参考) 河辺村 河辺はカワベとかカワナベと呼ばれていて、今は普通には河辺川の流域をいう。 〔中世〕河部村。村域は広く河辺川流域、のちに河辺谷と称される一帯か。舞鶴市丸山の丸山小学校旧蔵沿革誌(大正3年編纂)には年未詳河部村半済方御年貢米銭納帳写が収載されており、そこでは赤野・平・野原・小橋・三浜・原・栃尾などの諸村が河部村のうちとなっている。明治の東大浦村が河部村に当たるようである。 〔近世〕河辺谷。赤野・平・多禰寺・中田・河辺中・西屋・河辺由里・室牛・観音寺・原・栃尾・大山の12か村を総称する(丹哥府志)。 干田古墳群。河辺中 干田古墳群の調査 加佐郡式内社・三宅神社 明治十三年のノボリには、このように書かれている。↑ 「享保年度ノ幟ニ三宅神社」(京都府地誌) 『丹後旧事記』に、「三宅神社。河辺中村。祭神=稲倉持命。」とある。 「丹後風土記」残欠に「河辺坐三宅社」とある。 棟札・鰐口から鎌倉時代から江戸末期まで「岩津森神社」と称していた。 石燈籠 「貞治三年八月二十五日」と銘を刻んだ石燈籠(市指定文化財)がある。北朝年号で1364年。 棟札 16件の棟札類が残されている。肉眼では判読不能なものが多い。最も古いものは至徳元年(1384)。棟札群は、質量ともに全国的にもまれな内容を誇りうるものである、という。 大般若経600巻 琵琶湖周辺にあった大般若経が取り合わされて、文亀元年(1501)若狭を経て河辺谷へやってきた。中主町矢放神社所蔵の大般若経(滋賀県指定文化財)とかつて一具であったものが含まれている。わずかながら志賀町小野神社、野洲町大笹原神社、土田町地福寺の経との同具経も見付かったす。「嘉暦二年(1327)今津若宮社」と記されたものもある。別当観音寺は大般若経購入やその後の補修補巻などに大きく関わったと考えられ、この寺には今津町酒波寺のものであった経が入っている。 能施行 細川幽斎・忠興父子は天正11年(1583)から慶長4年(1599)迄に田辺・宮津で「能」を施行した。五十回が「丹後細川能番組」として残されている、第一番に「天正十一年癸未八月十五日於川辺宮」が見える。 別当寺・観音寺 山号補陀落山、真言宗御堂派。本尊千手観音。 江戸時代になった縁起(寺蔵)によれば、延暦5年(785)異人の持ち来たった千手観音・不動・毘沙門天を祀ったのに始まるとし、鐘楼・経蔵が多くあって伽藍を誇り、同7年には封戸50戸を賜ったという。田辺藩主、京極氏・牧野氏も当寺を保護し、牧野氏は寺領7・23石を寄付している(寺蔵文書)。 永和年中(1375-79)の年紀をもつ懸仏があり、裏面に「永和□年□□二二月二二日 為伽藍安穏十六諸壇 息災安穏所奉鋳造也 天満大自在天神 大願主沙門曇□(花押)」と墨書銘がある。また中門の左手にある石灯籠に文亀元年(1501)の銘がある。 平八幡神社の郷土芸能『田辺府志』に、河辺浦四ケ村氏神とある。 同神社は平、中田、多祢寺、赤野の総氏神で、安政5年(1858)平の全村に近い63軒とともに神社も全焼したが、神像三体は無事だった。神像は三体とも一木造で、男女神一対は平安後期の優品、もう一体のやや小さい女神像は表面に鉈彫のあとがある素朴な作品。村の人たちが、家の床に間にかかげる氏神の掛け軸には、中央に「八幡大神」向って左に「日森大神」右に「斎大神」と書かれている。「日森大神」とは多禰寺創建の伝説がある麻呂子親王で、「斎大神」は天照大神とされており、竹野神社であろうか。 『舞鶴市民新聞』(061110) 3区の伝統芸能を奉納
平八幡神社・秋の大祭・振り物、神楽、三番叟・平・中田・赤野 大浦平地区の平八幡神社(坂根章宮司)で三日、五穀豊穣を祈願する秋の大祭が営まれた。府の無形民俗文化財に登録されている平、中田、赤野区の三区のそれぞれの伝統芸能が奉納され、多くの参拝者でにぎわった。 奉納された伝統芸能は、平区が振り物、中田区は神楽、赤野区は三番叟。平区では、朝から飾り付けた櫓屋台を引き、笛や太鼓を奏でながら区内を巡行、氏神や区長宅でも振り物を奉納した。 宮入りを前に、三区の氏子が平区の入口に集合。平区を先頭に幟を立て笛や太鼓で囃子を奏でながら、神社まで約三百メートル巡行した。境内で太鼓の打ち合いの後、神事が営まれ、本殿前の舞台で伝統芸能が演じられた。 まず赤野区の三番叟が古式豊かに奉納された。能の「翁」に準じて天下太平と五穀豊穣を祈る儀式で、一番叟をはじめ鮮やかな衣裳を着けた舞人が四つ舞を披露した。続いて中田区の神楽があり、二人の舞人が裏っ赤な顔の獅子頭をあやつり、「鈴と御幣」などの祓い神楽曲と「寝獅子」などの獅子舞曲を、地に這い天に舞い上がり優雅に演じた。最後の平区の振り物では、幼児や若衆を中心に、「露払」から「大薙刀」などの太刀振りが、笛や太鼓に合わせて力強く演じられた。 音の玉手箱
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