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そら知らなんだ

源頼光と酒顛童子
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -13-)


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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

丹後の鬼退治伝説3:源頼光と酒顛童子

大江山のモニュメント↓


鬼伝説は全国あちこちに伝わるが、とりわけ有名なのは、大江山の酒顛童子。

『大江町誌』
現代では、大江山伝説を知らない人がふえいまや大江山伝説は忘れられたものとなりつつある。伝説は、民衆がつくり育てたものであり、民衆の夢や願望が秘められているといわれることの意味をいま一度問い直しながら、祖先が育み受けついだ伝説をさらに後世に語り伝えていきたいものである。

とし、町あげてその努力をされている。
丹後の民衆がつくったというハナシではなかろうが、夢や願望をこめて育てたてきたものではあろう。

大江山のあちこちにモニュメントがある、しかし頼光と酒顛童子ばかりである。麻呂子親王、日子坐王の伝説の地でもあるが、そのモニュメントらしき物は見当たらない。

『大江山絵詞』の酒天童子


鬼伝説の宝庫・大江山(吉佐大山、千丈ケ岳。丹後、丹波境の山)↓



歴史書に残っている話ではなく、中世の絵巻が現存する最も古い資料とされる。
その物語は多数残されているが、知られている中で最古とされる稿本は『大江山絵詞』(『大江山酒天童子絵巻』。南北朝後期から室町初期頃。逸翁美術館所蔵)のもの。これは、下総香取神社の大宮司家旧蔵本で、従来よりの通称として「香取本」と呼ばれている。重要文化財。欠損部分がある。文字はないが、陽明文庫本によって補完できる。
麻呂子親王の大江山鬼退治の清園寺絵巻とそう大きくは前後しない時代の作であり、両伝説が並んであったものか、どちらが前後するかは厳密には確定できないという。
大江山酒天童子絵巻物
その概要は(『酒呑童子の誕生』(高橋昌明)による)
一条帝の時代、都の若君・姫君の多く失踪することがあった。安倍晴明の占いによって、大江山に住む鬼王の仕業と判明。追討の武将として四将が指名されるが辞退、改めて源頼光・藤原保昌が選ばれる。両将は八幡・日吉・熊野・住吉の神々に加護を祈り、必ずしも勢の多きによるべからずと、頼光が四天王、保昌は大宰少監ばかりを連れてゆくことになった。
長徳元単(九九五)大江山に向かい、深山幽谷に分け入り、とある山のほこらで老翁・老山伏・老僧・若さ僧の四人に会う。一行は老翁の言で、山伏姿に身を変え、岩穴を抜け川辺に出たところで、洗濯中の老女に出会う。老女は鬼王と城の様子を語った。
さらに登ると立派な門にいたり、案内を乞うと、童子姿の鬼王が登場、惣門の傍らの廊に入れられる。この間土御門の姫から聞かされたのは、童子の恐ろしさ。再び現れた童子は、酒を愛するため酒天童子と呼ばれる、伝教大師や桓武天皇に比叡山を追い出され大江山に住んでいる、などと語りはじめる。頼光は持参の酒を飲ませ、やがて酩酊した童子は寝所に入った。
日暮れになると、眷属の鬼どもが一行を誑かそうとつぎつぎ現れるが、頼光の鋭いまなざしに圧倒され、あれは都人の恐れる頼光に違いないと退散する。頼光・保昌は、老翁の助けをかりて姿を消し、城内を偵察、囚われの身となった藤原道長の御子や唐人たち、また鬼の屯する様子を見た。二人はもとの廊に帰り、戦闘準備を整え、まず眷族をけ散らす。
童子は堅固な寝所に恐ろしい鬼の姿で寢ていた。一行は老若二僧の力でなかに入り、若憎より、鬼王の手足を押さえつけている内に、頭一所をねらって斬りつけよ、と指示される。斬った首は天に舞い上がり、頼光の兜に食いつくが、一足早く綱と公時の兜をかりて重ねかぶっていたので、ことなきをえた。
鬼の死骸を焼き、囚われ人を解放して、鬼王の首を運び出すが、洗濯の老女は山を出る前に死ぬ。大江山のもとの道まで帰りついた時、助勢の四人が別れをつげたので、形見のとりかわしがあった。四人こそ往吉・八幡・日吉・熊野の霊神だった。
頼光一行は鬼の首とともに都に凱旋。両将は道長のはからいで、身にあまる賞にあずかる。頼光が石清水八幡宮にお礼のため参詣すると、宝殿の御影前に老僧に贈った兜があり、大江山で彼が老僧から形見にもらった数珠も、御影のものとわかった。頼光はさらに日吉社に、保昌も住吉社に礼参にゆく。
解放の唐人が帰国を願い出たので、九州博多に下し、神崎の津より船出させた。


古いものとしては、サントリー美術館蔵『酒伝童子絵巻』(因幡池田家旧蔵、古法眼狩野元信筆) は、室町時代成立になるとされるが、鬼ヶ城は大江山でなく伊吹山千町ヶ嶽なので、ここでは省略する。

絵空事の物語とはいえ、まったく何もないところに新たにゼロから創造することはできそうにもない。物語の誕生に先立って、何か芽になるものがいくつかあったと思われる。
「大江山酒天童子絵巻」と名が付けられているが、その大江山や酒天童子とは何を指しているのであろうか。
日本の古代から中世社会の伝統的民俗的、呪術的精神世界に深く分け入らないとつかめそうにもないし、また国内だけてなく外の世界の多くの要素も溶け込む物語でもある。

←岩波現代文庫版の高橋氏の書のカバー絵にもある『大江山絵詞』逸翁美術館所蔵の一部である。左の人物は鬼ケ城の酒天童子、右は渡辺綱という。
鬼ヶ城は、一見和風の建物だが、よく見ると中国式かのようにも見える絵もある。
鬼は中国から入ってきたイメージでなかろうか。酒呑童子には唐代の小説『白猿伝』や、明代の『…失妻記』などの影響は否定できそうにもない。
失妻記の白猿は「斉天大聖」と称していたといい、セイテンがシュテンに変化したのではないかと高橋氏は推理している。


童子は、ワラベのことで、ワラシでワル(悪)、マリオ・ワリオみたいなことで、悪者(わろもの)を連想させられるし、もっとさかのぼれば神官などは髪を結わないままのワラワの姿であったので、神様の姿であったと思われる。○○童子とか鼠小僧とかは、ワルと神性の両方の意味があるのであろう。
酒顛童子とその配下の鬼どもの髪型。↓→


大江山
古くはミヤコで“大江山”と言えば、今の老ノ坂(おいのさか)大枝山(おおえやま)のことであった。『和名抄』の山城国乙訓郡大江郷(訓注・於保江)(今の京都市西京区大枝(・・)沓掛町一帯)にある山である。老ノ坂は〝大枝の坂〟が転訛したもの。桓武天皇の祖母の氏である土師氏は改め大枝朝臣。同天皇の生母高野新笠(たかのにいがさ)の大枝陵がある。丹後のほうから国道9号を行くと、老ノ坂トンネルを抜けたその先である。あのあたりへ行くと「どれが大枝山か」と車の中から探すが、高い山はなく、はっきりとはわからない。
小式部内侍(こしきぶのないし)
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
ミヤコから見て、生野(福知山市)より手前だから、この大江山は、老ノ坂の大枝山である。大江町の大江山は彼女の母の和泉式部(いずみしきぶ)が … としのみこゆるよさのおほ山 と詠んでいる。藤原保昌は内侍から見れば義理の父になる。
西暦1000年の頃はミヤコで大江山といえば、老ノ坂の大枝山であった、丹後の大江山は与謝の大山と呼ばれていた。
能の「大江山」の舞台は「都のあたりにほど近き」となっていて、これは大枝山であろう、この能本は早ければ15世紀前半の成立という。
しかし上の『大江山絵詞』の大江山は丹後の大江山だそうで、室町初期前後(1336頃)には、大江山といえば大江町の大江山となっていったようである。大江山といっても、ある時点でパッと切り替わったわけでなく、並行している時期があり、その後に丹後の大江山となっていったのであろう。

元々の“酒呑童子”の原形となる物語は、ミヤコにほど近い、今でいう西山で誕生したものであったと見られるが、その物語は今に伝わらない。元々の“酒呑童子”の性格は、山賊とかいったものでなく、ミヤコで恐れられた疫病(えきびょう)神(特に疱瘡(ほうそう)神)やたたり神(御霊(ごりょう)怨霊(おんりょう))であったろうとされる。そうした悪霊は西北の方向から入ってくるとされ、大枝山や愛宕山のあたりは、その侵入を防ぐまつりの場になっていた。神道、仏教や陰陽道や修験道、民間信仰などを総動員してマジナイで立ち向かう、江戸期でも疱瘡は日本人の死因の第一位であったといい、疫病に対しては無能無策であった。道切りをし、塞の神を祀り、道饗祭、四角四堺祭などを国家あげて厳重に行ったという。スンバラシイ国であった。あったと過去形でいうべきなのか、しかし現在も同じで人口が多い大都市の抱える根本問題である、弱者から見殺しにされる、まずは底辺から切り捨てられ棄民とされる、そして次はチミの順番であるが、そう気づいた時はもう遅い。何百年も昔と比べれば、多少はマシになったのかも知れないが、21世紀の現代人も彼らを決して笑えない、似たようなことである。密にならないようにして下さいくらいしか対策がない、東京オリンピックがギリギリまで近づいたので慌ててワクチン接種を急いでいるが、今更に急いでみても、必須数には足りない、そして祭が終われば、終わらなくとも観客を入れてウィルスを拡散させ、終われば病院ツブシをまた始め、公衆衛生対策をまた弱めるのであろう。日本社会の伝統的無能ブリ、公衆衛生不備ブリをしっかり引き継ぎ、性懲りもなく繰り返して、アホ丸出しで「病院をつぶせ」「医者をなくせ」「看護師もなくせ」「原発再稼働だ」とか叫ぶことであろうかと見える。過密過疎問題を解決できない資本主義社会の根本矛盾を理解せず、目先だけのゼニ勘定でアホな判断をしてはなるまい。ペストのようにネズミやノミをやっつければいいというものでない、ヒトから感染するので、ヒトが密にならないよう社会のあり方から見直さねばならないようなことであるし、将来もまた必ず似たようなものが大流行するものであろうから、一国の政治屋さんや経済屋さんまかせにせずに長い先を見据えたグローバルで科学的な医学的な、予算に糸目をつけない対応が求められる。ワレラは伝統的に頼りない対疫病精神を共有している、右も左も、どこもかもが頼りない、頼りない者のくせにしっかりした者かのように思い違いをしている。
私の住む所でも、村の入口になる橋の袂の地蔵様だけが頼り、コロナ来るなと防いでおられるのだろうが、世話が大変なので近い所へ移したら、などの声もある。社会の安全とか衛生とか、そんな事は生まれてこのかた一度も考えたこともないのが一般である。
酒呑童子はそうした社会に住むヒトの薄い脳髄に生まれた架空の鬼だが、どちらが鬼かは簡単なことではあるまい、自分の姿をあたかも他者であるかのように見ているだけのことかも知れない。オニが、ネズミ男が、いるはずもないモノを精神に異常をきたした者が見たとか言うようなことかも…

物語の主人公の退治された酒顛童子の実在性がないのだから、退治した側の人物の実在性もあやしいことになってくるが、源頼光(みなもとよりみつ)藤原保昌(ふじわらやすまさ)は、歴史上に実在する人物である。
しかし物語の語る人物像は、実際の彼らの実像とは大きく異なっている。

源頼光
『大江町誌』
源頼光
大江山の鬼退治物語はあくまで伝説であって史実ではない。しかし、この伝説に登場する一方の主人公である源頼光は確実に実在する人物である。頼光は、源氏の正系満仲の長子として、天暦二年(九四八)に生まれ、治安元年(一〇二一)に七四歳で没した。父の満仲は摂津国多田荘に本拠をもち、いまこの多田には満仲・頼光を祀る多田神社がある。頼光は、一般には摂津守頼光と呼ばれるように、満仲のあとをうけて摂津多田の地へ入ったといわれており、父ゆずりの一定の武力は持っていたであろう。しかし、頼光の生涯をたどるとき、そこに明確に武士団の存在を認めることはまず無理で、大江山で鬼退治をした話をはじめとして、頼光は武略にたけた人物という印象を与えるが、これらに要するに検非違使や衛府の官人として盗賊を捕えたという域を出るものではなかったといわれる。
 頼光が史料に出てくるのは、永延三年(九八八)「日本紀略」にみられるのが最初であるといわれるから頼光四〇歳のときであり、それ以前の頼光については不明であるが、その後備前・美濃・伯耆・讃岐・尾張・但馬・伊予などの国司を歴任している。歴任した国司の大半は遥任(実際には任地に行かず収人だけを得る)で、自身は平安京に住んでいたことが多く、京都市松原堀川の来迎堂町は頼光堂の転じたもので、ここに頼光の邸宅があったのだという。
 頼光の壮年時代である十世紀末から十一世紀初の時期は、道長が栄華を極めた藤原氏全盛の時代で、国司の任免権も摂関家である藤原氏の手中にあった。頼光の生涯は、諸国の国司を歴任することによって得た財力で藤原氏にとりいって、都にあって摂関家の警護役を果たし、武士としてよりもむしろ貴族生活になれ親しんだ生涯であったといわれる。このことは、頼光の三人の娘が摂関家若しくは上級貴族と結婚していることでもうかがえる。後一条天皇即位のときには、正四位下に叙せられ昇殿を許されている。
 このように、頼光の一生は摂関家との関係の密な平安京の貴族としての生涯であり、酒顛童子退治の物語に登場する武勇衆にすぐれた名将とは程遠い人物像が浮かびあがる。ところが、「平家物語」や「源平盛衰記」の時代になると、武勇たぐいなき名将として描かれるようになる。人物叢書「源頼光」の著者鮎沢寿は、その中で大江山鬼退治伝説の成立にふれ、「御伽草子の作者が、その物語の最後を『かの頼光の御手柄ためし少き弓取とて、上一人より下万民に至るまで感ぜぬ者はなかりける』と結んでいるところから察せられるように、源氏の嫡流の頼光を賞讃することに主眼をおいたのではなかったろうか。作者は、そのために 「源平盛衰記」や「太平記」などを参酌しつつこの物語を創作したものと考えられる」として、大江山鬼退治物語を源氏の功名譚として位置づけている。

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頼光の実像とは、多田銅山の銅や官人としてクスネた財力で道長に取り入り、カネをばらまいて出世した、武人というより汚いカネにまみれた平安貴族であるようである。
多田源氏(清和源氏)の二代目なので、重く見られてこの物語に取り入れられたものか、あるいは頼光(ライコウ)の名が雷光・雷公をイメージさせたものか。
酒顛童子は鬼であり、人間よりもはるかに強い、人間にかなうような相手ではない。
雷は鬼の姿をしている、頼光も鬼であり、退治される鬼よりもチトは強い鬼でなければ、リクツからいっても退治できない。目には目を、鬼には鬼を、それがふさわしい。そうしたことで頼光が選ばれたものかも知れない。
京都は盆地で、周囲には取り囲むように山があり、その山を越える風は上昇気流となって雷雲を発生させやすい、南以外はどの方向もそうしたことで、夏期の雷の発生が多い都市として知られている。それらの雷には名前まで付いていて、丹波太郎、山城次郎、比叡三郎という。特に西になる丹波の方向から来るイカヅチ様が恐れられていて、そうしたことからも丹波にはモノスゴイ鬼がいると見られていたのでもあったよう。
頼光の四天王とされる、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時は、「今昔物語」などで知られるが、親分の頼光からしてそうしたことであり彼らも、実在した人物かはわからない。


藤原保昌
丹後国守を勤め、和泉式部の夫として知られた人物。
『宮津市史』
藤原保昌の家系と経歴
摂関時代の丹後守の中でもっとも著名で、多くの逸話を残しているのが、藤原保昌である。彼の在任は治安三年(一〇二二)の前後で、すでに道長は摂政を退き出家していた時代に当たる。年代から推して、先述した源親方の前任と考えられる。
 この保昌は藤原武智麿を祖とする藤原南家の出身で、北家が主流となった藤原氏の中では傍流に属する。曾祖父菅根は文章博士であったが、祖父元方は大納言にまで昇進し、娘祐姫を村上天皇に入内させ、運良く外孫の皇子に恵まれながら、藤原北家の師輔によってその立太子を阻まれてしまった。傍流の悲哀というべきであろう。彼は、恨みを抱きながら世を去ったが、その後師輔や娘安子が相次いで死去したうえに、師輔の外孫冷泉天皇が病弱だったことから、彼が怨霊として祟ったという噂が生まれている。
 また、叔父には貪欲な国守の代表の一人陳忠がいる。彼が任国信濃からの帰途、谷に転落しながらも、茸を採集して京における蓄財に備えたという『今昔物語集』の逸話はあまりにも有名である。当時、強引な徴税を郡司・百姓から訴えられた尾張守元命とともに、受領の貪欲さを代表する人物とされる。さらに『尊卑分脈』によると、弟保輔こそは平安京を震撼させた大盗賊袴垂だったとされる。
 なかなかの曲者を輩出した系統だが、摂関家の栄光と対照的に、貴族社会の中で衰退・没落の危機に瀕した一族が必死に生き延びる道を模索している様子がうかがわれる。保昌は、そうした血筋を受けていたのである。
 保昌の経歴をたどってみると、官職の上では日向・肥後・大和・丹後・摂津の国守を歴任して正四位下に至った典型的受領であった。こうした地位を保持できた背景には、藤原道長に政所別当である家司として奉仕し、道長の「一子のごとし」と称されるほどの信任を受けたことがあったと考えられる。道長に仕えた縁で、後述するように道長の娘彰子の女房和泉式部と結ばれることにもなるのである。その一方で彼は、右大臣藤原実資にも家人として伺候するという世渡りの巧みさを見せている。
武人としての保昌
さらに、「兵の家に非ずといえども、心猛くして、弓箭の道にいたれり」と称された武勇も、彼の大きな特色だったのである。保昌はたまたま子孫に恵まれながったために「兵の家」として名を成すことはなかったが、『今昔物語集』に、当時の大盗賊袴垂に付け狙われながらも、ついに隙を見せなかったという説話かあることは周知の通りであろう。もっとも、先述のように袴垂を弟の保輔とすると、説話の信憑性も問題になるが。その妹は多田満仲の室となり、先にもふれた頼光を生んでいる。彼の一族の武勇は、源平の武将に匹敵するものだったと考えられる。『今昔物語集』によると、丹後守在任中も郎従を引き連れて鹿狩に明け暮れていたという。…
国守としての事績
…離任後には丹後の封物の未済や相撲人の選抜を怠ったことを責められる有様(『小右記』万寿元年十月九日条)であったから、とうてい模範的な国守とはいいがたく、他の受領だちと同様に収奪に努めて私腹を肥やすことに奔走していたことは疑いないだろう。
 また、丹後守在任中に兼任していた左馬頭も解任されている。左馬頭とは、宮中の軍馬を管理する左馬寮の長官のことで、解任の理由は左馬寮の破壊がことに甚だしかったためとされる(『小右記』万寿一系二月一日条)。これも収奪に専心して京の政務を怠ったことを物語るのではないだろうが。
 『今昔物語集』に、受領離任に際して不正な書類の改ざんをおこなった際、この職務を担当した国衙の下級役人書生を殺害した悪辣な日向守の逸話かおる。物語ではその姓名が抹消されているものの、『都城市史』は実はこの日向守こそ保昌だったと推測する(野口実氏執筆部分)。武人として荒々しい気質をもつ保昌には、自身の悪事を隠蔽するために平然と殺人を犯す酷たらしさもあったのかも知れない。

武智麻呂の孫にあたり、貴族のくせに多少の武力も持っていたというカッチョいい保昌もその実像はクソのようで、ソンタクとワイロと無法し放題のようである。今の官僚どものよき手本になっているのかも知れないが、彼もその名、ホウショウから選ばれたものと見られている。国民の多数の正当な声をソンタクするというのなら問題ないが、一部の権力者ボケナスの声だけをソンタクすると国民は当然にも怒る。
←方相氏(ほうそうし・ほうしょうし)
金の四ツ目の方相氏が鬼を祓うという、平安神宮の大儺之儀。平安時代に宮中の年中行事として行われていた追儺式を復元したものという。
元々は中国の周の時代の儀式というからずいぶんと古いもので、季節の変り目に、方相氏が宮中から疫鬼や魑魅魍魎を追い払ったという。
今の節分の、鬼は外の豆まきの原形のようなもので、方相氏が鬼を逐った。
この方相と保昌の名が同じために、物語の主人公として彼が選ばれたともいわれる。また疱瘡=方相≒保昌の関連も考えられて、酒顛童子という鬼や疱瘡神を逐うのは藤原ホウショウということなのか、彼もまた語呂合せのダジャレによる人選ということで、まったくの無意味なものか、それとも疫病から全世界を救うか…


なぜ大枝山から丹後の大江山に舞台が移動したのか。これは誰も正確な答えがない。山は腐るほどもあるのに、なぜ丹後の大江山か?大江山の酒顛童子も疱瘡神か、これらの問題の解答は将来に待つより手がない。

伽草子(とぎぞうし)

全世界に大江山の酒顛童子を有名にさせた書。物語の根は古いが、刊行されたのは江戸中期。
「お伽草子」は一般的に、14世紀から17世紀のあいだに誕生した400種類程の物語群を指す。そのうち世に知られている物は100編強だともいわれ、酒顛童子や浦島太郎などもある。室町物語や中世小説と呼ばれる事もある。お伽草子と呼び始めたのは江戸時代で、当時の人々は「物語」や「絵草紙」などと呼んでいた。 御伽草子の名で呼ばれるようになったのは18世紀前期、およそ享保年間に大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として23編を刊行してからのことである。特徴は、短編であることと絵入り物語であること。主に絵巻本と冊子本に分かれる。ほとんどの作品について、作者はわかっていない。
酒顛童子は詳しくは岩波書店の古典文学大系本があるが、かなり長いので、図書館で借りて読まれればよいかと、挿絵だけを…


日本語で書かれているのだが、古い日本語なので、現代人には何かどこかの外国語でも読むときのように、読むだけでもかなりのエネルギーを必要とする。ここでは『舞鶴市史』が現代文にまとめられたものを…
酒呑童子「お伽草紙」
むかし丹波の大江山に鬼が住んでいて、日が暮れると近国に出て珠玉財宝をかすめ取り、都に出ては美女を連れ去った。そのころ、中納言国隆の十三歳になる一人娘が行方知れずになった。中納言夫妻は悲歎の涙にくれていたが、占いによって大江山の鬼どもの仕業であることを知り、直ちに参内してその由を天皇に申し上げた。
朝議が決まり、源頼光に鬼退治の命令が下った。頼光は碓井貞光、卜部季武、渡辺綱、坂田金時、藤原保昌を集めて相談し、なお八幡、住吉、熊野の神社に祈頼をこめた。そして主従六人は、山伏姿に身をやつして丹波の国へ急いだ。大江山に着いて千丈嶽を指して進んで行くと、途中、三人の翁に会ったが、一人は摂津の国、一人は紀の国、もう一人は山城の国の人であった。この三翁は先に祈頼した三社の神であって鬼を討つ方法と、鬼を酔いつぶさせる酒を授けた。
川に沿って行くと、血のついた衣を洗っている姫がいた。姫の教えに従って行くと、ほどなく厳重な鉄の門に着いた。そこで頼光は、自分達は羽黒山の山伏で、大峰山に参籠して都に上る途中、道に迷うてここに来たものである。どうか一夜の宿をかしてくれよ、と頼むと、番の鬼どもが酒呑童子にこの由を告げた。童子は、これは珍しい、こちらへ通せという。頼光ら主従六人は童子の前に通され、童子は自分を害する敵とは知らず饗応し始めた。頼光は彼の神翁から授かった、人が飲めば勇気百倍し、鬼が食めば五体の自由を失うという不思議な酒を笈の中から取り出して、自分も飲み、鬼どもにも勧めた。鬼どもは良い酒である、珍しい酒であると非常に喜んで飲んだので遂に、酔いつぶれてみんな眠ってしまった。
頼光ら主従は、ころやよしと互に笈の内から甲胄を取り出して身を固め、童子の寢所の鉄の座敷を窺うと、童子の姿は昼とは全く変わり、身の丈、二丈(六メートル)余り、髪はあかく、髪の間から角が生え。鬚も眉毛も茂り合い、足手は熊のようで見ただけで、身の毛がよだつほどであった。
頼光は神々を伏し拝み、刃を振って、まず童子の首を斬った。首は跳ね上がり、頼光を目がけて噛みつこうとしたが、甲胄の威に恐れをなしたので頼光は事無きを得た。これを知った鬼どもは上を下への大騒ぎをしたが、頼光たちにみんな征伐された。
頼光は、とらわれていた姫君達をそれぞれ親に返し、参内して悪鬼平定の旨を報告した。これから後、国土安全長久に治まる御代になったという。



鬼ヶ茶屋本「酒顛童子由来」


江戸時代の酒顛童子絵巻は多数伝わるが、丹後でよく知られているのは、鬼ヶ茶屋本であろうか。
普甲(ふこう)道。丹後の宮津と丹波、都とをつなぐ大江山普甲峠の道。これは新普甲と呼ばれた道であるが、この街道沿いに鬼ヶ茶屋さんがあった。二瀬川渓流に沿う特に美しい道で、どこに鬼がおるんじゃ、と言いたくなる道である。ここに鬼がおるのなら、花の巴里も、全日本のクソのような大都市も鬼だらけ、いや鬼も棲まないかもしれないようなクソではなかろういか。

今は府道沿いに鬼ヶ茶屋さんがある。営業されていないような様子に見えた。
鬼ヶ茶屋は桝屋といい、主人の桝屋宇(卯)右衛門が、弘化2年(1845)に、「大江山千丈ケ嶽酒呑童子由来」を初版している。
これは丹後大宮町谷内の岩屋寺に伝わる「大江山千丈ヶ嶽酒顛童子由来」を写したものという。この岩屋寺の「大江山鬼退治絵巻」は古法眼本「大江山絵詞」を写したものであるという。(古法眼本「大江山絵詞」は、大江山絵詞の中では最も新しいものといわれ酒顛童子絵巻・酒顛童子物語・酒顛童子追討図などとも呼ばれる)
鬼ヶ茶屋さんは、当時盛んであった酉国三十三か所めぐりの巡礼たちが成相寺へ向かう途中、最大の難所であった普甲峠の茶屋の主人として、大江山鬼退治伝説を郷土のこの地に定着させようと努力した。「鬼の足跡」「頼光の腰掛岩」とか付近で適当な石を選んで名所にしたものであろう。
岩屋寺本は『京丹後市の伝説・方言』に集録されているが、これも長く読みつらいので、『大江町誌』が現代文にまとめたものを紹介しておこう。
鬼ヶ茶屋本
酒顛童子は越後国蒲原郡の百姓の子で胎内に一六か月もいた。生まれながらに歯が生えぞろい、よくものをいい、歩み走り、五~六歳の幼児のようであった。成長するにしたがって乱暴をはたらくようになり、親からも見はなされていたが、同国久上村の悪僧から邪法を学び悪事をかさねた。ついに賊の頭目となって大江山にこもり、妖術をつかってあばれ廻るようになった。
時は一条天皇の永延三年八月七日辰の刻、都の空にわかにくもり、風がおこり、民家の神殿仏閣の屋根が飛び、家がたおれ、おびただしい死傷者が出た。人々みな驚き、朝廷では国々の神社へ使を出して祈願をした。博士阿部晴明は、「西山に妖鬼住み、王法をたおそうとしている」と占った。そこへ丹波国目代の藤原保友から、大江山に酒顛童子という賊がこもり、通力自在の手下をつかい、多くの人を殺し、女をぬすんだが、首領は同月上旬茨木童子にその城をあずけ、七~八人の手下をつれて丹後国千丈ヶ嶽の岩窟へうつったことを知らせ、すみやかに官兵をもって討たれたいと言ってきた。
そこで鬼賊追討の勅令が、源頼光に下った。頼光に縁故のある藤原保昌は、願い出て行を共にすることをゆるされた。頼光は、一子源頼国をはじめとし一二〇〇騎の軍卒をひきっれて出発したが、道々思うには、このたびの敵は通力自在であるから神仏のたすけがなくてはかなわじと、途中軍をとどめ、日頃念じている八幡・熊野・住吉の三神に祈願した。そして、しばしまどろんだころ夢の中に八幡大菩薩が現れ、「今度の討伐は、小勢で奇策を用いよ」との神託をさずかった。それで頼光は病気と称し、軍勢の総大将には一子頼国を任じて軍を進めさせ、自分は、藤原保昌並びに四天王の面々確井貞光・卜部季武・渡辺源吾綱・坂田公時を伴い摂州多田の居城へ帰る風をよそおった。こうして主従六人は、大峰修業の山伏に姿をやつし、首領酒顛童子のかくれすむという千丈ヶ嶽に向かったのである。時に正暦元年三月二十一日であったという。一行はその日のうちに福知山につき、そこから三岳山によじのぼり、山上の蔵王権現に願文をささげ、四方をうちながめたところ、東北の方はるか彼方に岩山がありかすかに煙が立ちのぼっていた。あれが童子のすみかにちがいないと道をいそいだ。途中元伊勢外宮・内宮・岩戸へも祈願をこめて山を分けて進んだ。谷をわたり岩壁をよじのぼり、どこが道ともわからぬまま、しばらく休むところへ三人の老人がしおしおと通りかかった。渡辺綱が怪しんで声をかけると「われわれは、このあたりの者であるが、妖鬼に妻子をとられ、あまりの悲しさに共にとられて死出の道づれにしようと思い鬼ヶ岩屋へ行く。」とのこと。保昌は、「われらもその鬼に用事あるもの。案内を頼む」と老人を先に立てて道をいそいだ。老人たちは、深い谷には大木を渡して案内した。麓より三里ばかりも来たと思うところの岩かげに、遅桜の咲きこぼれる下で花をめでながらしばらく休んだ。その時三人の老人は、「向うの岩窟が童子のすみかである。この鬼酒を好み顛倒するゆえ酒顛童子というのである。さてまた我等が持つ酒は、神変奇特酒とて、こちらが用いると力を増し、鬼賊が飲むと毒となって動くことができない。またこの兜は神明御守護の御兜である。それぞれが鬼賊に用があるというのは追討ちの御使者と思われる。しからば童子は我らが為にも敵なれば、この品をゆずるものである」といいおいて一陣の風と共に消え失せた。これまさに三神のお助けと勇気を増して進むうち川のほとりに出た。川の水が血に染まっているので不思議に思いながら川に沿ってしばらく行くと、官女と思われる婦人が血に染まった衣を洗っているのであった。頼光が、「都の人であろう」とたずねると、婦人は大いによろこび様子をくわしく語った。そこから官女を案内に岩窟についた。そこには高さ二丈ばかりの石門があり、扉は石で囲ってあった。怒る門番をなだめ奥の方をうかがうと、身の丈八尺ばかりの童子と思われる大男が、髪はかぶろになで下げ、一丈ばかりの鉄棒を杖にして立っていた。そして、「こんなところまでやって来るのは、きっと討手であろう。」と、頼光をにらみつけたが、頼光は少しも動ぜず、「山伏修業の道は、深い山や毒獣悪鬼の難もいとわないものである。このたび大峰三山で修行をおわり、伯耆の大山へ参るのであるが、途中、岩かげの桜に心ひかれ都からたずさえた酒をくみかわすうちに日暮れとなり、この岩屋の烟をめあてによじのぼったのである。一夜の宿をたまわれば、夜もすがら酒宴をして御物語を聞かせてほしい。」と、言葉をつくして頼んだ。酒宴ときいて童子たちの心もやわらぎ、一夜の宿が許され酒もりとなった。六人は笈の中から酒をとり出してすすめた。鹿猿のそのまま焼いたものなどが出され、頼光も扇子をひらいて舞をまうなど、みなみな興じて時をすごした。やがて童子は奥の一間に入り、手下どもは正体もなく酔い臥してしまった。この時主従六人甲兜に身を固め、頼光は神から授かった兜をかむり、鬼切丸の名剣を抜いて童子の胸板を突き通した。あわてて逃げようとする手下共は、待ちかまえた四天王がなんなく討ちとった。童子も、もうこれまでと頼光をハタとにらみ、「かく運命尽くる上は是非に及ばず。たとい命尽くるとも魂魄首にとどまり、禁廷へ飛び入り恨みを晴らさん」と眸んだ。頼光が首を打ち落とすと、その首は空中に舞い上り、舞い下り、頼光の兜にかみついた。頼光がそれを切りはらうと、首は再び空中に舞い上り、火烟をふきながら都をさして飛んでいった。そして丹波山城のさかいの大江の坂に落ちた。頼光の兜は七枚まで鬼神の歯がとおっていたが、あと一枚で無事であったという。
一方、源頼国も茨木童子をせめて、これを打ち亡ぼし、鬼の城を焼きすて凱歌をあげて帰路についていたが、鬼の首の落ちたのを見て、千丈ケ嶽の首領も亡びたことを知った。その首を鎗の先につきさし、厳重に守らせ、父頼光を待ちうけ、共に都へひき上げた。首は京中の大路を引きまわし、七条河原に七日間さらし、大江の坂に葬り、首塚明神と名づけ地蔵堂を建立した。
この功により頼光は肥前守に任ぜられ、保昌は丹後の国守に補せられた。(鬼ヶ茶屋本大江山千丈ヶ嶽「酒呑童子由来」による)


敗れた抵抗者の英雄、金属神の性格


酒顛童子は酒呑あるいは酒天とかとも表記されるが、彼は何者であろうか。

酒顛童子とは天皇か
酒顛童子は白猿とか疱瘡神としてだけでは何ともくくりきれない所がある。猿や疫病だけでは日本人知らぬ者なしの人気はなかろう。丹後人も誰一人としてそれでは納得しかねるだろう、そうは見ていないのでなかろうか。
それではどうなのか。問題はまた出発点に戻ってくる。ネット検索も多いテーマである。以下にワタクシ風に考えてみる…


彼には謀反人、レジスタンス、パルチザンとしての抵抗者の英雄的性格があるのでなかろうか。明智光秀的、ゲバラ的な、敗れたとはいえよくやった、またやったれよ、どっちが勝ったのか本当のところはよくわからないようなことであり、体制に苦しめられている民衆の応援人気というか「夢と願望が秘められている」ようにも見える。

酒顛童子がパレードの先頭を行く、彼は猿や天然痘ではあり得ない。この位置に置き換えられるのは天皇しかなかろう。
大江町ではゼッタイに酒顛童子が英雄で、頼光などはクソである。

頼光などは屁でもない、その存在自体が完璧に忘れられている。酒顛童子の対極にあるものは頼光や保昌程度の小者ではない。

パレードに締太鼓が見られる。青い山伏姿の人が手に携えている小さな太鼓↑である。これは上野条(かみのじょう)御勝(みかつ)八幡宮に奉納される紫宸殿田楽(ししんでんでんらく)に使われるもので、この太鼓をシテテンと呼んでいて、紫宸殿田楽のシシンデンはこの太鼓のシテテンから出たかとも言われる、どちらが先だかわからないし、この田楽は上野条発祥というものでもなかろうが、このシテテンあるいはシシンデンが酒顛、あるいは四天王の語源でないかとワタシは考えたりする。御勝八幡宮は茨木童子の子孫が祀る社であるという。
退治された者と退治した者は同じ者である、の伝説を考える場合の一つの定理のような見方に従えば、天皇と酒顛童子は同じ者、かも知れない。どちらが鬼だかわかったものでないからよう気をつけなされよ、の物語作者の醒めた精神とスルドイ批判根性が隠されているものかも…
酒顛童子は、紫宸殿におられる方のことですよ、何も難しいハナシではないでしょ。酒顛童子とは紫宸殿童子。お手前はその子分の赤鬼青鬼黒鬼白鬼ですかな、自分の姿をよく見てみなされ、ハハハ、と笑っているような感じ…
崇神とされる御肇国(はつくにしらす)天皇の誕生と同時に三つもの鬼物語が次々に生まれた、天皇をトップにいただく当時の国家体制が強まる時期の裏返しの物語群。鬼がこの世から消滅するのは天皇がこの世から消滅する時であろうか。天皇さんも民衆自身も気づいていないのかも知れないが、そうした日が来るようにの「夢と願望が秘められている」のかも知れない。それならば酒顛童子は、民衆の「夢と願望が秘められている」自身の分身の姿でもあろう。
いやいやワシは天皇以上の存在だと勝手に思い違いしているようなバカも実際に世の中には多い。天皇は屁だと酒顛童子も顔負けするような考えをする者もいることから見れば、酒顛童子こそワシの姿ととらえるむきはまだ可愛ゆいかも。
(紫宸殿は、内裏の正殿。紫宸殿は本来は天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つであったが、平安時代中期以降、大内裏の正殿であった大極殿が衰亡したことにより、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で行われるようになったという。)

酒顛童子は金属神か。
また、物語の前面には出ていないが、さらにプラスして金属神の属性がありそうに思われる。猿や疱瘡が金棒を振り回すだろうか。たとえば御勝八幡宮の「勝」は鍜冶でなかろうか、土蜘蛛・陸耳御笠の土蜘蛛とは鉱山師のように思われる。
こうした性格は日子坐王の陸耳御笠、麻呂子親王の鬼の性格ともつながるものと思われ、特に丹後の大江山はその感がある。丹後は金属生産の国であったのであろうか。

酒顛童子は中国の蚩尤(しゆう)伝説ともつながるといわれるところである。
蚩尤は中国の古い神話に登場する神である。獣身で銅の頭に鉄の額を持つという。また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる鬼というか怪物。。
黄帝から王座を奪おうと乱を起こして、無数の魑魅魍魎を味方にし、風・雨・煙・霧などを巻き起こして黄帝とタク鹿の野で戦ったが、捕え殺されたという。蚩尤は「反乱」というものをはじめて行った存在で、赤い色は蚩尤を示すともされ、赤旗を「蚩尤旗」と言い、のちに劉邦がこれを軍旗に採用したともされる。
兵主(ひょうず)神は日本でもあちこちで祀られるが、蚩尤が「兵主神」とされ、戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢など優れた武器を発明、あるいはそれらに金属を用いるようになったのは蚩尤であると伝承され、鉄製の武器を作る金属神とされている。
兵主神社はヒボコの中心勢力がある但馬に多いが、舞鶴でも雨引神社や高田神社の境内社に祀られている。ヒボコと共に入ってきた神かも知れない。
酒顛童子のこうした性格は興味尽きないが、これからの研究をまとう。

なぜ大江山か
丹後町竹野の「鬼神塚」↓

この付近にあったものをここに集めたという。天保八年(1837)の銘がある。そう古くはないが、何代目かの塚なのだろうか。

鬼の棲む異界は、いずれもワレラが郷土であるのはなぜか。におうがごとく花咲くミヤコの対極に位置する恐ろしくけがれた魔界が、いずれの物語でもワレラのふるさとが設定されているのはどうしたわけであろうか。ワレラの郷土とはそうしたところなのか。
三物語ともに、慧眼スルドイ郷土人へ興味とともに課題と宿題つきつけてやまない物語群であろう。



『大江町誌』
酒顛童子伝説は、大江山の北麓である加悦町、西麓に当たる福知山市にも残る。なかでも雲原、金山、三岳地区(いずれも福知山市)に残されているものは比較的民間伝承の色が濃いのが注目される。その概要を紹介しよう。
 頼光の一行は、まず三岳山に登り、ここから大江山を見立てたということで、この山を見立山とよび、のち三岳山と転訛したものだという話は広く知られているし、上佐々木から登山路と喜多からの登山路が合するあたり、鳥の尾というところには、「頼光のサカサ杉」の伝承がある。頼光が使った杖を逆さに立てたところ芽をふいたという話である。頂上には、「ごとく岩」といって頼光だもの一行が飯を炊いたと伝える石も残っていたという。
 上野条には、往路頼光が祈顛し、鬼退治ののち、再び立ち寄って「御勝」の神号を奉り、紫宸殿で奏されていた田楽舞を献じたという故事により、今も二五年ごとの大祭には、この紫宸殿田楽舞の奏される「御勝八幡宮」、頼光にかも栗を献上した老婆を賞でて頼光が愛用の笛を与えたものと伝える堂城家の「山透しの笛」、そのほか、「鬼の首塚」「頼光の御手洗池」などが伝わる。
 大江山の西裾に当たる天座にも多くの伝承が残る。坂田公時が斧で彫ったという仏像(大年神社蔵)、頼光が書写したと伝える六〇〇巻の大般若経(福知山市指定文化財)、頼光らの一行が背負ってきたという熊野十二社権現をまつると伝える尾崎神社などが有名だが、最も興味深いのが、「東光望はんと鎌止め」の伝承である。この地にあった頼光が、ある夜、怪光を見たので、その光の方へ行くと大きな岩があり小祠があった。ここで二一日間祈願した満願の夜、天照大神、大日如来らが夢枕に立ち、八月十日をもって鬼退治をせよとの啓示を受けた。そこで頼光らは勇んで大江山へ進み首尾よく鬼退治に成功する。この岩を今も御座岩という。天座の地名もこの故事から出ているといわれ、天座につづく大江町の橋谷は、頼光に地名をきかれた古老が、御座岩のある峠の下には天の浮橋のようにつづく谷があるといったところから由来した地名だと伝える。御座岩から橋谷へ通ずる古道には、御座岩を拝するところ、ハイバラ(拝原)という地名が残るという。天座では、酒顛童子が討たれた日といわれる旧暦八月十日を「鎌止め」といい、この日は一切鎌を使わない日となっており牛も小屋から出さない風習があった。これは昔、里人が大江山へ草刈りにいったとき、真赤な顔をした怪物があらわれ逃げかえったという故事によるもので、鬼の亡霊をしずめるためにはじまった行事であると伝える。
 このような大江山周辺の鬼の伝説をみるとき、それらは大筋において当時流布していた物語の枠内にとどまっており、作為の感が強く、宮本正章が指摘するように、修験者たちと在方の人々との交流の中で育まれたものとみるのが妥当なように思えるし、麻呂子親王伝説との混合を感じさせる部分も多い。しかし、反面で、例えば酒顛童子らの鬼たちへの親近感が基調にあって、鬼に対する敵視感情があまりみられないこと、かつて地域で素封家といわれた家と伝説とのかかわりがみられることなども注目される。
 ところで、最近、鬼退治伝説を鉱山開発、特に採鉱冶金の視点から検討してみようとする試みがなされている。従来の伝説研究が、主として人間の精神的な面を中心になされてきたのに対し、いわば、人間生活を支える物質の面がら捉えようとする考え方であるともいえるわけで、非常に興味深いものがある。
 酒顛童子のたてこもったとされる大江山も、頼光の本拠摂津の多田荘も古来有名な産銅地帯であった。偶然の一致といってしまえばそれまでだが、酒顛童子伝説を色濃く残す大江町仏性寺は、つい最近まで日本鉱業河守鉱山があったところだし、旧三岳村にも古い鉱山跡が残る。また上野条や天座の含まれる地域は、鉱山を連想させる金山郷と呼ばれたところである。最近出版された「鬼伝説の研究-金工史の視点から-」の著者若尾五雄氏は、こうした点について、興味ある提起をしている。特に注目すべき点を抄記する。
 酒呑童子は、シャチノミ童子である。シャチは幸(サチ)と関連がある。幸とは海幸、山幸というように宝物の意味で、中部日本の一部では幸をシャチといい、東北では、シャチノミは獲物の肉のことを示す山詞となっている。このようにシャチは、狩人の幸運に関連のある言葉であり、鉱山師も狩人と同様山人であり、鉱山を採掘することを狩るというように、金銀銅をとることは、鉱山師にとって狩人の獲物に当たり、酒呑童子は幸の実童子なのではないか。
というものである。同氏は、さらに徳川家康御判「御山例五十三箇条」を紹介し、その中で興味ある事例として、
   一、山師、金掘師を野武士と号すべし
   一、山師、金山師は、人殺しのものも逃げこんだものは働かしてもかまわぬ
   一、鉱山をはなれて在所に下ったものは、三日以上里に居ってはならぬ
   一、見立山-これは試掘の山である。 ことなどをあげ、当時の山師、金山師は修験者であって、総本山大峰山を金峰山ともいい鉱産が多いのをはじめ、修験の山々には鉱山が多いことを例証している。山師、金山師は人殺しをしたものも届け出せずとも働かせてよいということは、逆にいえば、大昔の鉱山は犯罪者のかくれ住む場として好適なところであったといえる。山を降りても三日以内に帰れということは、山師、金山師が一般の人々と隔離された存在であったことがうかがえ、鬼の集団=鉱山労働者説がそう奇想天外な考え方ではないと思われる、
 こうした観点から大江山をながめるとき、その中腹大江町字北原に古いタタラ(製鉄所)の跡が残るのが目をひく。このタタラの跡は、奥北原から大江山へむかう旧道東側の谷の奥で、通称魔谷といわれるところにある。付近には鉄をふきわけたカナクソが残り今もかすかに確認できる。この北原は、別章「郷土の修験道」でふれているように、修験道の遺跡や伝承を多く残しているところである。
 ところで、「関東御教書」に次のような記事がある。
 侍所沙汰篇追加八
 鈴鹿山并大江山悪賊事、為近辺地頭之沙汰可令相鎭也、若難停止者 改補其仁 可有静謐計也 以此趣相触便宜地頭等
 可被申散状也、以仰執達如件
  延応元年七月廿六日
     前武蔵守泰時判
     修理大夫時房判
   (北条重時)
  相模守殿
   (北条時盛)
  越後守殿
とある。延応元年(一二三九)といえば鎌倉時代であるが若尾氏は、「鬼伝説の研究」の中で、こうした公文書があるのだから、鎌倉時代に、大江山に賊がおり、討伐があったことは間違いない。この悪賊が少人数の追剥ぎ程度のものでないことは、もし退治ができない時は役人を替えてやれというのだから賊の数もたくさんいたと考えざるを得ない。そうだとすると、そのようなところは、何もない山中でなく、多数の無頼の徒が集まるべき要素があるところ、たとえば鉱山のごときものが付近にあったのではあるまいか。大江山も鈴鹿山も鉱山地帯である。鉱山は、屈強な無宿の若者たちが集まるところであって、こうした者が賊に変ずることはあり得ることである。時の政権に反抗する実力は備えており、ことに宗教的訓練を受けた修験者に率いられていた人々は、少々のことで屈服するものでない。盗賊という言い方は、時の政権をもった方から言うことであって本当に盗賊であったかどうかわからない。」と述べ、鎌倉時代に大江山の悪賊退治があり、その対象となったのは修験者に率いられた鉱夫たちではなかったかと暗示されている。
 以上、大江山鬼退治伝説をいろいろな角度から見てきたが、この酒顛童子物語は、中世に御伽草子で世に出て以来、近世には浄瑠璃や歌舞伎によって民衆の間に流布していき、近代に入ると小学校の国語の教科書にのせられて全国的に広がっていった。そして時代によって、この物語の果たした役割もまた異なっていたように思われる。中世には、源氏の功名譚という色彩が強かったと考えられるし、近世の民衆たちは、苛酷な封建支配のもとでの不満や抵抗の心情を、人間くさい酒顛童子に託していたのではないかと思われる。また、この物語は、一種の宗教説話的な性格も持ち神仏の加護のおかげで鬼を退治することができたとして、神仏への素直な信仰の必要を民衆に浸透させようとした面もあったのではないかと思われる。近代に入って小学校の教材となったのは、天皇制のもとで幼ない子供たちに、おもしろい不思議な物語として興味を持たせながら、社会の秩序を乱した酒顛童子が天皇の命によって討ちとられ、めでたく世の中がおさまっていく内容と結末をもっていたことが、時宜を得たものであったからであろう。
 現代では、大江山伝説を知らなし人がふえいまや大江山伝説は忘れられたものとなりつつある。伝説は、民衆がっくり育てたものであり、民衆の夢や願望が秘められているといわれることの意味をいま一度問い直しながら、祖先が育み受けついた伝説をさらに後世に語り伝えていきたいものである。









 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石


 Миллион алых роз:百万本の真っ赤なバラ


アニ ロラック。名といい、顔立ちいい、ロシア人というよりも、エジプトの王女様だが、ウクライナ生まれのフォーク歌手だそう。
日本でもよく知られている曲。
(201) миллион алых роз на японском - YouTube
(201) 百万本のバラ 【久保田早紀】 (高音質) - YouTube

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