丹後の地名プラス

そら知らなんだ

村の年齢集団(年齢階梯制)-子供組
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -72-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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国分寺創建②
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丹後の古代寺院①







少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。


年齢集団(年齢階梯制)

子供会、青年団とか婦人会とか老人会といった地域を基盤にしたほぼ同一年齢で作る組織が、だいたいそれに当たる。
もともとが農村社会の集団であり、過去にはどこでも存在したものであったが、現在の工業化社会ではほとんどが解体消滅している。
年齢集団は地域共同体運営に関する諸機能や役割を分担し、年齢に応じた年齢階梯を作り出し、その中で構成員は地域共同体員としての自覚と知識や経験を蓄積してきた。現代社会においても「青年会」のような組織が存在する地域もあるが、少子化やライフスタイルの多様化といった近代社会とともに、年齢集団は解体される傾向にある。
子供会にはいたことがあっても、青年団といっても経験がなく、自分が生まれ育った地域社会の歴史や知識や活動経験を積む機会がないままに、年齢を重ねてしまう人ばかりになる。子供会レベルのまま、成長することもなく老人になって行く。長老といえば村のことは詳しいはずで、自称は村の宝だそうだが、ワタシなどの同級生などが今はそれに当たる。しかし聞いても何も知らない。あれこれと聞くと「オマエなんでそんな詳しいんじゃ」と言われるくらいのことで、「マテよ、パソコンで調べたろ」などと引っ張り出してくるが、村のことなどはナニもヒットしまい。地域社会はその担い手・継承者が成長し継承していくシカケを失っている、それは地域社会の解体となり、やがては人間の崩壊となる。
同じ二十歳でも、それなりにしっかりした子供会や青年団や公立などの学校などがある地域社会で育ってきた青年と、そうではない、たいていの地域で、地域社会から離れてノホホンと大きくなってきた青年とを較べると、まるで人が違う。ワタシなどはその後者なのだが、それは愕然とするほどに、足元の大地が裂けて確かな踏み場を失ったような目眩がしてくる、一体オレはナニを生きてきたんだ、イッチョマエになったつもりでいたが、彼に較べたらマルッキリのバカではないか、彼の百分の一の知識も経験も心がけもない。知ったげなつもりでいたがアホでしかなかった。第一何の爲に勉強するとか、努力向上するとか、その目的がわかっていないではないか。
家族といっても核家族化し、3人くらいのもので、豊かな歴史ある文化を担う単位としてはひ弱さがありそう、また祖父とかいったより上の世代からの継承は得られない。その外郭集団になる地域社会も、二つ団子(親と子)だけの串団子集団である場合が多く、古い文化は引き継ぎできない。
彼らは常に「自分が育った地域社会の爲、その爲に学習もするし活動にも取り組む」「それ以外はありません。たまには断れずにテレビに出演したり舞台に立つこともありますが、そんな時間があれば、本当は地域で活動したいです」と、目的を持って行動しうわべにはテキトウに対処している。コテツら甘くないプロだと思う。自分が生まれ育った集団や社会で役にも立たない出来損ないが、ほかの地では役立つとは考えにくい、どこへ行っても所詮は役立たずでしかなかろう。根のない浮き草の人間たち、それらが作る砂上の“発展繁栄の国”、見かけ倒しの泥足巨人でないのか。レーニンだったと思うが「帝国主義は泥の足を持つ巨人であり、遅かれ早かれ崩壊するだろう」。別に資本主義の最後段階とする帝国主義だけでもなかろうが、巨大組織は意外に泥足で、巨大な組織を維持できるようには人は作られてはいないように思われる。今の社会も「頭は純金、胸と腕は銀、腹と腰は青銅、脚は鉄、足は半分鉄、半分は粘土でできている」のかも知れない。家族とか地域社会とか、身近な足元の集団は人間や社会や文化を育てる上で重要なものなんだ、とようやく気が付いたようなことであった。
近代社会の落とし穴であろうか。家族集団や第二の家族集団とでもいったものがないとか、あってもほぼないような、集団内で何も役割はなく、何もしなくて済むなら、それに越したことはないかも知れないが、人間はそう都合よくもいかない。やはりそれぞれそれなりに日頃から勉強や努力苦労もしてもらわないと社会も人間性も維持できなくなるのではなかろうか。大きな負担をしろというのではないが、地域社会に住む者の全員がそれぞれに、そうした心がけを普段から持たなければ、たとえば地震だ、放射能雲だの大事件が発生しても何もできず、自分の命すら失うことになりかねない。
建物でいえば土台の基礎基盤であり、そこがしっかりしてないと、上の建物は、遅かれ早かれ崩壊してしまう。建物が重くて、それを支える地盤が崩壊寸前のようなヤバイことのように思える。
年齢集団は今さらに復活はできそうにもないが、それもそれなりに存在意義のあったものであり、現在でも意義はありそうであり、少しふりかえってみよう…

年齢階梯制は日本では主として西南部にみられ、子供組・若者組・中年組・長老組などの制度がこれに当たる。若衆・中老・年寄といった三階梯区分が最も多い形態で、地域により差異はあるが、だいたい以下のように組織される。
上の年齢集団が下の年齢集団を指導する、とかよく書には書かれているが、それぞれが独立した組織なので、どこがどこを指導するとかいった関係ではない。教えてくれと頼まれれば、どうだったかいなと言いながら、OBとして教えるといった程度のことである。基本的にはそれぞれの集団は縦並びの集団ではなく、横並びの集団で、村祭のような多くの集団が共同で行うようなときに、どの集団が司令塔になるかは、慣例によっている。

今ではこんな階梯制は失われたと思われるが、かつて全村人が加入した典型的な年齢階梯集団の見本のようなものを示せば
【年齢階梯制】
~16歳:未成年・童子(子供組)
17~35歳:若衆組(若者組)
36~40歳:宿老
41~50歳:中宿老
51~60歳:大宿老
61歳~:年寄衆(長老組)
また、それぞれの組の内部でも階梯制があり、若衆組(若者組)でも階梯区分が存在する。
【若衆組内での階梯区分】
~16歳:未成年・童子(子供組)
17~19歳:走り使い(小若衆)
19~25歳:使い上がり(小若衆)
26~27歳:小中老
28~29歳:中老
30~32歳:頭脇
33~35歳:親方

太鼓打ち、太刀振りなどで、この順番ではないかな、と思われるような年齢順に行う所もある。もっと幼児から始まる。

子守唄

幼児のうちは、地域社会にナニか貢献できるほどのことはないが、小学校へ行くほどにもなると、大人顔負けの活躍をするようになってくる。

子供組


『舞鶴市史(各説編)』
年齡集団
(子供組)
 いまでは地域子供会、少年団など校外生活を中心とした新しい子供の集団がつくられているが、従前はそれぞれの村に、主に伝統的な祭祀行事を担当するものとして、その時々に随時組織された子供の集団があって、これを子供組といっていた。
 現在でも、祭祀行事に子供が独自の役割で参加する風習が、形式的にも方法的にも変化しながらなお受け継がれているところが多い。この集団には特に定められた規定があるわけでもなく、集団としての日常の活動もほとんど見られない不定型な集団である。これに該当する年齢は小学校に入る六、七歳ころから青年会(若者組、若衆組)に入るおよそ一五、六歳まで、が多く、また男の子を対象にしているところが多い。
 子供組が主となる行事は、民間信仰に属するものがほとんどで、左義長、狐狩り、嫁の尻たたき、盆行事、精霊流し、地蔵盆あるいは天神講、山の神祭りなどがあげられる。しかし、同じ行事でも所によっては青年と一緒であったり、村行事の一貫として行われたりしている。

子供組
七歳ないし十四歳(尋常小学校一年~高等小学校二年)の男児童のみで、「行者講」(野原)、「天神講」(登尾・朝来中・大波上・田中)、「山の神(講)」 (東神崎・西神崎・油江・蒲江・久田美・下漆原)などという神々を祭り飲食をして遊ぶ子供組、がある。油江・蒲江には、講に加入できない女児童がかわいそうだとして、大正ごろ、字や婦人会が援助しお雛まつりの組をつくった。
 また、右の年齢児よりも幼い子供の組のあるところもあり、たとえば、佐波賀には「コト」という四、五歳ないし十歳児の組、東神崎には「ヒラ」、西神崎には「シルスイ」という三、四歳ないし六歳児の組で、東神崎・西神崎の組は、兄たちの山の神宿に招かれて祭りの御馳走の相伴にあずかることができた。
どんど(左義長)
正月十五日行われるのがドンドである。この朝、注連繩や松飾りなどを各戸から持ち寄り、地区の決められている場所に集めて燃やし、また鏡餅を青竹にはさんでその火にあぶる。(十四日夕方行うところもある)。
 ドンドの灰は持ち帰って家の出入り口にまくと、魔物や蛇が入らぬといい、また厩にまくと牛が病気にかからぬともいわれ、魔除けのまじないになっている。子供達は書初めを燃やすが、それが高く舞い上がるほど習字が上達するといってはやす。
 その規模の差こそあれ、ほとんど全市的に行われている。加佐地域では規模がやや大きい。久田美では上地、中地、下地の三ヵ所に分かれ、村のまん中を流れる久田美川の川原へ下りてドンドを行う。子供の行事ではあるが、その段取りは大人や青年が世話をする。高さ数メートルの青竹を円錐形に組んで、山ほど積んだ飾りや、藁を燃やす。子供達は大声で「ドンドやドンドやカケラ餅焼いて食え」とどなる(岡田地区)。また十四日のお籠りの火を才の神の角に移してドンドの火の種にするところ(登尾)もある。
狐狩り(狐がえり)
小正月のドンドのあとに続いて狐狩りの行事が行われる。これは昔から害獣を除く目
的で行う予祝行事であるが、これも男の子供の行事である。しかし、ところによっては若衆組が主となり、子供が参加するところ(三浜、岸谷など)もある。これも広く行われていた。
 十四日夜から十五日の夜明けにかけて「狐がえり候…」と大声で唱え言をどなりながら村内を回る。丸田では、御幣をつけた青竹を担いで村の上から「狐がえり候、わいらなんじゃ候」と大声でわめきながら下へ送る。一年間使った「なべつかみ」などを竹薮目がけて投げつける。野原では、十五日の夜明けを待って一五歳になった男の子が勢子役になり、コルダ(松によく似たかぶれる木)の木を使い、村の端々で狐を追い回す所作をした。青井では、十四日提灯をつけて村境を回り、平では、村で宿をしてもらい、そこへ薪と正月の残りの餅などを持ち寄り、楽しく語らいながら食べ、午後九時ごろと翌朝四時ごろの二回、全員そろって「あすは地蔵堂の若宮の祭りとて…」と節長くわめきながら村内を一巡した。岡田中では竹の先に蛇形をつけ、火縄を振り回わしながら歩き、時々鉄砲を鳴らした。
嫁の尻たたき(嫁の尻張り)
正月十四日、狐狩りの行事に続いて、その夜または翌十五日朝、「嫁の尻たたき」と称する行事がある。これには狐狩り同様、男の子供が参加しているが、所によっては若衆組(青年)の行事となっているところもある(大丹生、佐波賀)。
 「嫁の尻張り」と呼んでいるところも多く(市場、朝来中、大波上、大波下、原、佐波賀、平)「嫁の尻祝い」(田井)、「嫁祝い」(大丹生)ともいわれている。
 前年嫁が来て、初正月を迎えた家へ行くのがならわしで、「御薪を削って作った粥杖や御薪の燃えさしで女の尻を打つと、男児を生むという俗信」(年中行事辞典)にその起源を求めることができ、かつては朝廷行事とされていたが、近世、民間でも全国的に流行した風俗であるという。
 嫁の尻たたきを受けると、お産が軽くて強い子が生まれる(大波下)、若嫁に祝意を表する(朝来中)、男子懐胎の縁起を祝う(佐波賀)と言い伝えているが、地域的には東および大浦地区に多く、子供達による山の神祭り(後述)が西および加佐地域に多いのと対照的である。
 粥杖や、御薪の燃えさしを使用したという朝廷行事も当地方では、藁打ち槌に丈余(約三メートル余)の繩をつけたもの(大丹生)、藁製の大きな酒樽につけた藁製の房(大波下)、藁を束ねて直径一尺ほど(約三〇センチ)にした太い棒状のもの(佐波賀)を使っており、「嫁さんの尻張りに来ました」(朝来中、大波上)、「嫁さんの尻を祝いましよ」(田井)、「嫁さんの尻を張らして下さい」(平)とかいって、その家を訪ねる。訪ねられた家では饅頭二個または二銭位(市場)、あるいは、昔は串柿一串に二、三銭、いまは十円から五十円(朝来中)、串柿二個ずつ(田井)、一包みのセンベイ(平)を渡したり、お膳をして接待し、子供には菓子(大波下)などを振る舞うところもあるが、若衆組である大丹生の場合は串柿二把が決まりで、家格によって酒一升が付けられたという。
行者講
野原では一月七日に行者講を行う。男の子ばかりが参加し、般若心経を唱える。茶の子は煎り豆と決まっている。「ノウマクサソバーダラ サンタセンダンマーカ ミョウタイショウ ソワカ」を何回も繰り返し唱える。
オナマイダンボ
西吉原では、地蔵祭りを八月十三日から十五日まで行っている。十一日の磨きもんに始まり、十六日のお供えの分け前に終わる。分け前の分配については一切子供まかせである。町内各組に一つずつ地蔵があり、いまでは町内の役員が世話をする。従来は男の子だけが参加した。
 祭りが始まると、子供達は大数珠と鉦を持って「オナマイダンボ」に各家を回る。「オナマイさせてもらえんか」と頼むと、各家では「どうぞ」と家に入れて仏さんを拝ませる。中心にいる子が「オナマイダンボ」と鉦をたたいて呼唱すると、周囲にいる他の子供達は大数珠を回わしながら「オナマイダンボ」と唱和する。最後に「オナマイケンチャラボ」といって鉦をたたいて終わり、お供えをもらって次の家へ行く。
地蔵盆
八月二十三日から二十四日にかけて、ほとんど全市域にわたって町内ごとに行われている。中でも、古い伝統をもつ旧舞鶴町内の地蔵盆は大へん盛んである。一般に町内の大人が飾りつけその他の世話をし、子供は祭りを楽しむ。
小橋の子供組「ショウライブネ」
子供組が、盆行事の精霊船を作ることから生まれた。小橋の若衆組はこの子供組の組織の上に連なっている。年齢階層はおよそ次の通りである。「カコノカコ」(一〇歳)、「カコ」(一一歳)、「小センドウ」(一二歳)、「中センドウ」(一三歳)、「大センドウ」(一四歳)。
 精霊船作りは次のような順序で行われる。まず「帆縫い」といって、これは八月十三日までに親が縫っておく。子供組の活動は、十三日早朝二時から開始される。「竹きり」は大センドウ、中センドウと大センドウの親が、ワカシラヤブヘ行って必要な竹を切り出す。「川ほり」は小センドウ以下が川へ行って、川底に(胸がつかるほどの深さまで)穴を掘り、俵で川をせき止める。この穴に持って帰った竹をつけ、石で重しをする(竹を細工しやすいようになめすためである)。
 「小屋つくり」は盆の行事をするための小屋で、大センドウの親が浜に作る。小センドウ以下を持つ家は、一戸についてむしろ一〇枚、タツ(稲本のこと)一本、繩一〇尋、麦藁を提供する。
 「ボンナゼ」(盆撫でか)は十三、十四日小セソドウ以下が二尺×一尺の板を用意し、浜に作った小屋の前に置き、その上にうしろ浜の汚れない白砂を取って来て載せ、手でカマボ形に固める。この砂が少しでも汚れていたり、また形づくる時一度でもたたいたりすると、砂を棄てさせられ、やり直しとなる(たたくことは禁忌とされた)。出来上がると村の人が参りに来て、これに線香を立てる。
 その後、ショウライブネの子供だけの相撲が浜で行われる。「ショウライ船流し」は八月十五日に行われる。
 その他、ショウライブネの組織の活動としては、毎夜凡時ごろ、当番を決めて火の用心の夜回りをする。若宮神社での肝だめし(月のない夜-新月-)を選んで一人で宮へ上がり鐘を鳴らす。他の者は下で待ち、鐘が聞こえないと何度でもやり直す。そのほか、若宮神社の清掃、村の中の道の清掃など、がある。
青井の宮籠り
正月の元日から一三日間、村の男の子が氏神結城神社の「たちや」(前のお堂)にお籠りをする行事である。いつごろ始まったものか分からないが、文化十年(一八一三)の「村方年中行事調べ」の正月元日のところに「今夕より子供(一三才より一七才まで)十三日まで毎夜御宮え御寵り申候」と記されていることをみても、かなり古くから行われて来たものと思われる。
 お籠りをする者を「こもり子」といい、数え年一三歳がら一七歳までの村の男の子は、家に「けがれ」のある場合を除いて全員参加することになっている(兄弟がある時は弟は不参)。「こもり子」逹は正月元日の午後になると、決まりの服装を整え、夜具一通りと莚で作った藁布団(敷代用)を持って「たちや」に集まり、昔から伝えられている厳しい仕来たりに従って、いろいろの「行」をする。
 この行事の起こりについては。昔、村中の男の子の育ちが悪いので、氏神様に祈願してこのお籠りを始めたところ、それから丈夫な男の子が育つようになったので、以来ずっと続けて来たと言い伝えられているが、行事の内容は大体が年の始めに当たって、村の豊作を祈顛するもののようである。
 「こもり子」の役割は、年齢によって順位が決められている。
たいしよう 一七歳の子 全般の指揮統率にあたる 上座である
つぎのぶ  一六歳の子 お目付け役 外部との連絡渉外の仕事など
ただのぶ  一五歳の子 こもり堂内部の片付け 掃除などが受持
ななし   一四歳の子 便所の掃除に責任を持つ
しんぱん  一三歳の子 新入りの子である いろり火の焚きつけ 茶釜の湯沸し 下足の整頓 末座である
おぶぎょう 前年「たいしょう」を勤めた村の若衆がこれを勤める 「こもり子」の相談相手で夜間「行」が行われるときだけ出て来て「こもり堂」で世話方を勤める 「こもり子」の掟には拘束されないし、また泊り込みもしない
音頭とり  かつて「こもり子」を経験した村の若者の中から「おぶぎょう」の意見などを聞いて「こもり子」が依嘱するもので二人が定めである 「こもり子」の主要行事である「つきぞめ」の音頭をとる歌の上手な若衆ということになっている
こもり子の掟  服装について=和服着用はもちろんであるが、羽織や半纏の類は着ることができない。ズボン下、パンツの類も禁じ、六尺褌をしめることになっている。またどんなに寒くても帽子、外とう、首巻き、手袋、足袋靴下など一切用いてはならないとしている。
 履き物について=竹の皮をよって作った鼻緒の高下駄以外一切足にしてはならない。
 言葉づかい=長幼の序列が厳しく、下級の者は上の者に対して敬語を用いねばならない。殊に呼びかけは「○○どん」(敬称)ということに定められている。
 座席について=籠堂の中では、設けられた「いろり」の周囲に焚火を囲んで過ごす時間が多いが、着座の場所は年齢順に定められていて、下級の者がみだりに上座を冐すことは堅く禁じられている。このことは各家庭においても期間中守らねばならないと定められている。
 「てんどん」について=これらの決まりは、籠期間中お堂の内外を問わず、堅く守らねばならないとされ、お目付け役の「つぎのぶ」が監視するが、これに違背した場合は罰を受ける。これが「てんどん」である。
 「てんどん」には早口言葉の暗唱をさせるとか、冷水を浴びるとかいうようなものから、闇夜、神殿の裏を何回か回らせたり、また村の共同墓地に行って石塔の苔を取って来させる、というような胆だめし風のものまでいろいろとあったようである。
 裸まいり  元日、二日、三日それに六日、十日と五回行う行事である。「こもり子」達は、その日午後になると風呂当番の家に出かけて入浴する。それから家に帰って早い目に夕食を済まし「こもり堂」に参集する。そのうち夕暮れになり「こうど衆」(一年交替で氏神の世話役を勤める村人)が神殿にお灯明を上げると「こもり子」達は褌一つの真っ裸になって「たいしょう」を先頭に列をつくって、神社から一〇〇メートルほど離れた池までみそぎに行く。この時「たいしょう」は社頭のお手洗鉢からひしやくを持って行き、池の湧き水をすくって「こもり子」達にふりかける。
 粉雪のちらつくような寒さの夕暮れ時、真っ赤な裸身に向い褌をきりっとしめた見るからに初々しい少年達が、冷水を浴びると、それまで胸に組んでいた両腕を広げて大きく振り回しながら、ワーツと逃げ叫ぶ様は一種の壮観である。
 みそぎが済むと、もとのように列を正し、腕を組んで黙々と「こもり堂」に帰り、素早く着物をつけて氏神を始め、脇宮などに参るが、このあと、社頭の石垣上に並んで「さあさあわい、わいわいわい」と声をそろえてわめく。これが何を意味するか分からないが「こもり子」逹の村中への挨拶だと伝えられている。
 つきぞめ(けいこ)   一〇日間を通じて中心をなしている行事がこれである。二日の朝起きると、昔からしまってある大きなあゆみ板(長さ四メートル。幅三〇センチ、厚さ五センチ)二枚を取り出し、これを並べて角材にしばりつけ、頑丈たたき台を作る。そうしてその夜からこの台の両側に列座して、あか木で作った特別の棒切れでこの台板を叩きながら、早稲、中稲、晩稲の歌を稽古をする。かねて頼んである音頭とりの指導を受けるが、着座の姿勢、棒切れの打ち方など、なかなか厳しい仕来たりがあって、下級の者などには最もつらい「行」となっている。(歌詞省略)。
 静かな寒の庭に、子供達の板打つ音が一つにそろって、神社の裏山にしやーん、しやーんとしみ通ってゆくこの稽古は、いかにも厳かな感じを覚えさせたものである。
 つきぞめ(しあげ)  村の年中行事によると、一月十一日は昔から「作り初め」ということになっている。この日の早朝、お籠り行事の総仕上げとして行う行事が「つきぞめ」であるが、これは「作り初め」が転訛したものではないかと考えられている。
 行事内容は、田作りの始めから稲の刈り取り、稲こき、俵仕事、米俵の積み上げなど、一年中の主な農作業をかたどったもので、一〇日間にわたって稽古を積んだ歌の流れにつれて進められるが、暁闇の氏神社前において雨戸もすっかり取り外し、美しく清められた籠堂からほの暗い御神殿に向かって捧げる少年達の純朴な振舞いは、この行事を見に来る村人達に、いかにも有難い感じを与えたものである。
 なお、神田は寵堂の横に模作され、十日の早朝、植える真似ごとが行われ、前年から用意したすすきの穂を稲穂に見立てて、木柱に巻きつけて置くようになっている。
 七草の行事  六日の朝起きると七草取りに出かける。かねて見ておいた所に行って取って来るわけである。取って来たものはまとめて神殿に供えておき、夕方七草の行事が行われる。
 この日午後少し早い日に参集した「こもり子」達は裸参りをすますと、神殿の周りにはだしになって集まり、まず「たいしょう」の合図で「とうどの鳥が!」と歌い始める。(歌詞は第五節「民謡」参照)。
 歌を終わると叩き板に大きく三回繰り返して行事は終わる。
 なお、お供えの七草は、翌朝各家に持ち帰って、七日正月のおかゆの中に入れることになっている。
 平外(へいがい)  お籠りの期間中、息抜きが二回ある。それが「へいがい」である。六日と十日で、この両日は裸参りを済ますと、後は万事解放で「こもり子」達にとっては最も楽しい日となっている。それぞれに御馳走を詰めた重箱を持参しているので、これを食べながら終夜無礼講で遊びあかす。
天神講
天神講は子供たちが集まって行う講として、学校が冬休みに入る十二月末に行うところが多い(大波下、登尾、成生、大丹生など)。天神様は学問の神様だとする考えが子供と結びつき、その意味での天神講と理解されている。
 市場では一六、七歳以下の子供で組織され、田中では小学校に上がると講に入り、大波上では毎年三月末に行い、布敷では男の子を対象にして当日朝、倉谷の天神さんまでお参りさせている。大波下では以前は当番によって民家で行っていたが、最近は公会堂で開いている。成生、大丹生も十二月下旬に行い、学童の楽しい行事となっている。
 登尾では明治末期までは村頭分の家で行った。当日は子供らが米や大豆を持ち寄って集まり、宿でもぼた餅のほか、一品ぐらいを振舞ったものである。大正初期ごろからは、年長者が冬休みに入ったころに期日を定めた。当番世話人は翌年学校を卒業する子供の父兄が順番に当たった。大正末から昭和に入ると、子供たちは春はふき取り、また一日タニシ拾いをし、それを当番父兄が煮て、各家庭を回って売り、その金を積み立てて講の費用とした。当日は年長児が立案して買物その他を定め、当番父兄に指示を受けて賄いをした。小豆、米、野菜集めも子供が行った。早朝から公会堂に集まって、まず天神様に一同参拝したあと、昼食後はにぎやかに遊び、夜遅くまで楽しんだ。昭和四十四年ごろから子供も減ったため休止状態となった。
山の神祭り
山の神というのは山を支配する神であるが、農民の信ずる山の神は、春には山から下りて田の神となり、秋の収穫が済むとまた山へ帰って山の神となるといわれている。しかし、山仕事(猟師、炭焼き、木樵りなど)をする人の信ずる山の神は、田の神と関係がないという。
 伝統的な山の神祭りの行事が、子供達の手で自主的に行われているところは次の通りだが天神講と異なり、西地域および加佐地域で行われているのが目立っている。
 高野では「ヤッサイモン」を作って夜半まで村中を担いで回り、福井では十二月、上東では十一月に一晩泊りで男の子が参加して行い、今田では子供が祠の屋根葺き、清掃など一切の世話をして大人には関与させず、また、岡田下では家々を回って野菜や、賽銭をもらって来るが、お白餅を作って賽銭をもらった家には振舞う。
祭りは十一月に行った。丸田では「ゴウ汁」や松茸の吸い物の料理を食べ、神崎では三月にこの祭りをしている。
 岡田地区での山の神祭りは大がかりである。
 上漆原では秋の取り入れが終わると、五、六歳から一五歳までの男の子が宿に集まって山の神祭りをする。一〇歳から上の子供は宿に泊まる。夜半になって「これから行を取る」の合図によって、みんな素っ裸になる。
まず神前で、各戸から寄進を受けた鈴につけてある干支を一軒々々「何の年の男、家内安全、息災なように」「何の年の女、家内安全、息災なように」と読み上げて回る。次には川へ下りて、この唱えをし水をかけ合う。これを三辺繰り返して行を終わる。そのころ夜が明け初める。昼食にはりんご、饅頭、みかん、ゆばなどの盛り合わせが出る。こうして山の神祭りは終わる。
 桑飼下では毎年十一月九日が例祭日で、前日から行事にかかるが、これも子供らが主に行う。八日は早くから集まり、世話人、子供宿なども頼んでおき、村中から薪、藁などを集めて、谷間に祭ってある小社の藁屋根をふき替え、藁の脚胖(ハバキ)、みの、草履を作る。
 草履は長さ一メートル近いものなので、外のものもこれに似合った大きさである。薪は小社より少し離れた場所に二メートルほどの高さに桟積みしておく。
 子供らは夜になるを待ちかねて、村内を一軒々々、米や、賽銭の喜捨に回る。戸口で大声を上げて「クンバーリ」と呼ばわるが、その意味は分からない。喜捨を受けると一同で「造りみょうがの良いように、商いみょうがの良いように、山行って怪我さっしゃらんように」と祈祷して回り、途中、喜捨米を持ち帰って洗米にしておく。
 村回りが終わって、洗米を臼でっぶし、お盆の上で木のしやもじで餅のように作るが、これはお白餅といって、山の神様にお供えする。出来上がるのは午前三時ごろで、直ちに神前へ参る。そして積んである薪に火をつけ、両方の山から山へ縄を張り、中ほどに藁束をくくり、それにも火をつけて高く引き上げる。これは山の神様が神無月に出雲大社へ行かれ、神々の会議が終わっても酒好きなために酒代が払えず、十一月になっても帰れないので、大火を焚いて神の火事に見せかけ、神様が驚いてすぐ帰って来るようにとの謀りごとである。
 子供らにはこの日は宿で御馳走もあり、年一度の大行事でとても楽しい一日である。
えんとんびき
今田では毎年十二月、古くから行われて来た「えんとんびき」という子供達の年中行事がある。これは藁で作った大蛇を持って各戸を回り、悪魔払いをするのであって、その時は必ず門口から入って裏口へ通り抜けることになっていた。子供逹には欠かせない行事になっていたが、作り方も難しいところがあり、大人達の協力も得られないことが多く、次第にさびれていく状況だという。



『わが郷土』(丸山小学校百周年記念誌)
“子供組”「ショウライブネ」 (精霊船のこと)
 子供組は、盆行事の精霊船を作ることから生まれた。精霊船作りは次のような順序で行われる。(戦前は親達に聞き自分達で造った。)
 「帆縫い」八月十三日までに親が縫っておく、十三日早朝二時から子ども組の活動が始められる。
・竹きり 「大センドウ」「中センドウ」と「大センドウ」の親は、「ワカシラヤブ」へ行って必要な竹を切り出す。
・川ほり 「小センドウ」以下は川へ行って、川底に穴をほり、俵で川をせきとめる。(胸がつかる程の深さまで堀る)この穴に持って帰った竹をつけ、石でおもしをする。(竹を細工しやすいようになめすためである)
・小屋つくり 盆行事をするための小屋を浜につくる(大センドウの親)「小センドウ」以下を持つ家は、一戸についてむしろ一〇枚、タツ(稲木のこと)一本、縄一〇尋、麦藁を提供する。
 十三日、十四日「ボンナゼ」(盆撫でか?)
 「小センドウ以下は、二尺×一尺の板を用意し、浜に作った小屋の前におき、その上にうしろ浜の汚れない白砂をとってきてのせ、手でかまぼこ形にかためる。この砂が少しでも汚れていても、また形づくる時、一度でもたたいても、砂をすてさせられやりなおしとなる。(だたくことは禁忌とされた)出来上ると、村の人が詣りに来て、これに線香をたてる。その後「ショウライブネ」の子どもだけの相撲が浜で行なわれる。これを
十三日、十四日くり返す。
 十五日「ショウライブネ」流し
 なお、その他に「ショウライブネ」の組織の活動として、次のようなことがある。
・毎夜八時頃当番をきめて、火の用心の夜回り
・若宮神社でのキモダメシ。月のない夜(新月)を選んで、一人で宮へ上り、カネをならす。他の者は下で待ち、鐘がきこえないと、何度でもやりなおし、以上は昔から続いている。
 他の行事として、若宮神社の清掃、村の中の道の清掃を行っている。


小中学校










 音の玉手箱
 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石


La Cumparsita



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Milvaの歌を聴いていると、美しい名曲とは真逆に、これはまた一体どんな強烈な地獄が歌われた歌詞が付けられているのかと気になってくる。
la cumparsitaは“仮装行列”の意味で、列を作って進んで行く終わりないみじめな仮装行列、苦痛の過去を思い出してなげき悲しみ泣きじゃくる心の病で今にも死にそうな病人の代わりとなって進んで行く…
questo tangoは違う歌詞だけれども、意味はこんなところにあるのかも。地獄といえるほどのものでもない、よくあるハナシである。
tango丹後の今年の仮装行列もいよいよ大詰め、どうかよいお年をお迎え下さい。


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