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そら知らなんだ

天橋義塾
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -99-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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天橋義塾
藩校





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

橋立義塾の誕生、自由民権運動の誕生

明治17年の天橋義塾


ここに天橋義塾があった、今の宮津小学校↓

宮津城の「太鼓門」が学校正門に使われている。↑
校舎の南側、グランド側に跡碑がある。

そこに立てられた案内板には、
天橋義塾跡
 今から百年あまり前、明治八年七月、天橋義塾の開業式がこの場所で行われた。当時、宮津には二つの小学校が開かれていたが、その上級の学校はなかった。そこで有志の人々が相談して開いたのが天橋義塾であった。それはあくまでも有志の人による私学枚であった。開校に尽した人には、粟飯原曦光・小室信介(初めの名は小笠原長道)・沢辺正修そのほかすぐれた人材がおおぜいいた。校舎は最初はもとの宮津藩校礼譲館(当時文武館)の跡を使い、ついで中橋を渡ったところにある小笠原の家を使い、最後はいまの宮津小学校運動場北がわに新築した。
 天橋義塾の設立には、明治の世をむかえて新しい勉強をしたいという青少年の願いと、封建政治を倒して新しい政治を求める人々の願いにこたえるという二つの意味があった。当時その新しい政治の運動を由由民権運動といった。天橋義塾はその中心であった。明治の政府はこのような政治運動を押えようとした。そのため集会条例を制定したり、教育制度を改めたりしてきびしくとりしまった。それでもここに集まった教師と生徒は容易にひるまなかった。全国の由由民権運動がうちのめされるころになって天橋義塾もついに閉鎖においこまれた。明治十七年のことである。
 この宮津の土地に、役所からは一円の金も貰わず、自ら金を募り、自ら学んで新しい学問と政治を開こうとした天橋義塾があったことは誇りといってよい。
宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会

小学校の創立
廃藩置県(明治4年)
学制の頒布(明治5年)

明治6年(1873)
倉梯校(倉梯小学校) 含章校(志楽小学校) 登尾校・大波校(朝来小学校) 明倫校(明倫小学校) 立敬舎(余内小学校) 横山校(池内小学校) 順正校(中筋小学校) 福井黌(福井小学校) 陽明校(高野小学校) 鸕溪校(岡田上小学校) 共立校・漆原校(岡田中小学校) 志高校(岡田下小学校) 中山校(八雲小学校) 神崎校(神崎小学校)
明治7年
与保呂校(与保呂小学校) 田井校(田井小学校) 平校(平小学校)
明治8年
原校(原小学校) 大丹生校(大丹生小学校) 静溪校(吉原小学校) 青井校(青井小学校) 久田美校(岡田下小学校) 八田校(八雲小学校)
明治9年
丸山校(丸山小学校) 余部校(中舞鶴小学校) 野原校(野原小学校)




教育令(明治十二年) 改正 再改正

就学年限

この時代は、長くても4年くらいの就学であった。
教育年限は基本的に8年であるものの、最短で16ヶ月通学すればよいと規定された。 第17条において、「学校に入らすと雖も別に普通教育を受くるの途あるものは就学と做すへし」と規定されていた。
学校といっても、校舎は近くのお寺を借りたもので、一年半もせずに卒業であった。
(学舎が立てられるのは明治22年の市町村制になってからであった)

天橋義塾創立(明治8)
宮津市役所の裏側にある柳縄手通↓

そこの案内板に、
大村邸跡  宮津市字柳縄手
 ここから南へ六〇〇メートル余の通りを柳縄手という。藩政時代の武家屋敷である。慶長七年(一六〇二)の検地帳には柳町と記され、その後柳繩手というよび名が漸次定着した。本庄(松平)藩時代江戸末期には、この場所の北に郡会所、その向い側に米会所があり、柳蝿手全体に三十五軒の武家屋敷と六ヵ所の武家長屋があった。さして大身の居住地ではなかったが、明治になって宮津天橋義塾を中心とする民権運動の高揚期には、この通りからその指導者・後援者が多く排出した。沢辺正修・小室信介もここの出身である。…


案内板
沢辺正修旧跡
 沢迎正修は丹後宮津柳縄手のこの場所で安政三(一八五六)年一月十日に生まれた。彼の三代前の淡右衛門(号北溟)は藩儒としてひろく名を知られ、藩校礼譲館の興隆に尽した。正修は礼譲館を卒業して数え十三歳のとき、同館の句読師補に進んだ。
 明治三年(一八七〇)京都遊学、同五年(十七歳)山城綴喜郡田辺校校長となった。同九年宮津に一時帰省したとき、小室信介と民撰議院設立に努めることを誓ったという。この年田辺校を辞し、以来十か年、官憲の圧迫に屈せず闘い続けた。この地の天橋義塾は自由民権運動の拠点であったが、彼は社長に推された。同志とともに各地をめぐって懇親会を開き、国憲制定・国会開設の請願運動を行い、国会期成同盟や立憲政党の活動に席の暖まることがなかった。明治十七年ころから肺結核に侵され、明治十九年(一八八六)六月十九日最後の療養地熱海で若い生涯を終った。享年三十一歳。私擬憲法「大日本国憲法」は彼が中心となって作成したものと考えられている。
宮津市文化財保護委員会



案内板
小室信介旧跡
 小室信介は丹後宮津柳縄手のこの場所で嘉永五年(一八五二)七月二十一日に生まれた。宮津藩砲術家小笠原長縄の次男で長道と称した。明治八年十一月岩滝村出身小室信夫の長女幸子と結婚して小室信介と改めた。信介は藩枚礼譲館に学んでのち数え十六歳のとき礼譲館助教となり、その後京都に遊学した。
 明治五年(二十一歳)山城綴喜郡井手校教師となった。同八年帰郷、その年彼を結社人として天橋義塾が設立された。養父小室信夫は岩滝の豪商山家屋一族に属し、文久三年の足利尊氏木像梟首事件や、明治七年の「民撰議院設立建白書」に名を連ねている人である。信介は天橋義塾の経営に深く関与して結社人にもなったがいっぽう、明治十二年以降は大阪日報・朝日新聞等に入社し、民権伸張の論陣を張った。同十四年以降は立憲政党創立に参加し、大阪日報を買って日本立憲政党新聞と改題した。その間各地に遊説を試みた。著書に「東洋民権育家伝」がある。
 明治十八年六月病にたおれた。享年三十四歳。
宮津市文化財保護委員会

『丹後の宮津』
天橋義塾の跡
 宮本町のカトリック教会から上へあがって、柳縄手の中橋へでると、その正面が宮津小学校である。ここは旧藩時代は藩校「礼譲館」のあったところで、一時は「文武館」や「文学所」などと改称していたのを、明治五年学制が発布されたのにもとづき、翌明治六年三月から「宮津校」とした。ところで、ここにいう「天橋義塾」は、その宮津校に関係なく、旧士族の子弟を中心に、明治革命後の自由民権思想がたかまって、小室信介・沢辺正修・粟飯原義光らの青年がたちあがり、自由民権の基本的な教育をさづける道場として、明治八年この宮津小学校々庭の北寄りに、「天橋義塾」を建てて、ひろく地方の向学の青年をあつめ、右にいった教育をさづける道場としたのであった。その後、この「天橋義塾」は発展して多くの青年に、新時代の息吹きをあたえ、大いにその名をうたわれた。ことに小室信介・沢辺正修たちは、板垣退助らの天下の志士とともに東奔西走、明治政府はためにその弾圧を考えるにいたった。
 おりから、小室・沢辺の二人は無理がたたって、病気におかされ、明治十七八年にあいついでたおれた。しかも一方明治政府は、「京都府立宮津中学校」建設を理由に、この「天橋義熟」を解散させるにいたったので、過去十ヶ年間の名誉ある自由民権の道場は閉じられたのである。今日、日本における明治前期の自由民権史をかたる場合、わが「天橋義塾」はかならず注目される存在であるが、このことはいかにその十ヶ年の意義が大きかったかを十分に示している。
 現在、宮津小学校の正門をはいって自彊館(じきようかん)へ向う右手に、「自由民権之道場・天橋義塾の跡」という立札をたて、このことを説明している。

『丹後宮津志』
天橋義熟
 宮津に於ける中等教育は旧禮譲館なる宮津藩学文武館が、明治四年廃藩によりて廃滅に帰せるを慨嘆するもの数師出身者ともに多く、就中粟飯原曦光、小室信介、沢辺正修等主として学館創設に努力し、明治八年時の管轄庁豊岡県の認可を得て宮津校西南隅旧文武館訓導室の一棟を校舎に充て粟飯原曦光を教頭として開校し命じて天橋義塾といふ、之れが経費は一口五圓一千口の資本講と生徒の月謝とによりて維持する事とし、学科は漢学を中心として授業せしも明治十一年九月英学科を設け、爾来漢学の外刑法治罪法等を講義して法律に関する知識の養成に力め当初塾生五十四名のもの漸次増加して百名以上に達し狭隘の爲のに一時小笠原長孝邸内に支塾を設け生徒の自炊入塾を許し後校舎を新築して之れに移る、然るに明治十八年京都府立中学校を宮津に置かるゝに及び義塾を解散し校舎器具機械を挙げて府に引継ぎ此に終焉せり。郷土誌 曰
旧宮津藩校禮譲館廃止せられて以来明治八年有志者小室信介沢辺正修氏等の主唱により地方人士の醵金を以て天橋義塾を創設し高等普通学科を教授し来りしが明治十七年に至り府下郡部に三中学新設の議ありて一は南部山城に一は丹波亀岡に一は宮津中学校と称し當地に設立明治十八年より授業を開始せられ天橋義塾の校舎敷地は挙げて此中学校に寄附せられたり云々。

『郷土と美術84』
天橋義塾と小室父子   中嶋利雄
 天橋義塾は丹後地方に開かれた私塾であるが、それを生み出し支えた人々に三つの階層を考えることができる。一は旧宮津藩士族、二に岩滝・宮津に根をはる商業資本、三が在郷地主・富農層である。ここでいう小室父子は父信夫とそのむすめ、さきのむこ信介であるが、父はその二を代表し子はその一を代表するものといえよう。
 そもそも天橋義塾は明治八年七月一日開業式を行ってより、同十七年九月閉鎖にいたるまでおよそ十か年、その輝かしい足跡を丹後に残したのであるが知る人はまことにすぐない。発足当時は旧宮津藩文武館訓導室(現宮津小学校敷地内)の一棟を借りて校舎にあてたが、まもなく小室信介の生家、実兄小笠原長孝邸(現宮津小学校前中橋を西へ渡った北のかかり)に支舎を設け、更にその長屋を寄宿舎にあてた。翌年七月には借り塾舎を引きあげて小笠原邸に移転したが明治十年十一月には中ノ丁(現宮津小学校校庭北辺)に新塾舎を完成し翌十一年一月移転式を行った。生徒数は当初五、六十人であったが数年ののちには百人程になり、丹後を中心に各地から遊学した。学習は漢字・歴史・作文・算術・法律・博物等多岐にわたった。教師は明治十六、七年ころの決算表をみても月に教師給三十六円とあるところからみると三、四人がせいぜいというところらしい。それで昼夜二部制をこなしていったのである。
 義塾開業の精神は明治八年十月天橋義塾塾則(結社人小笠原長道=小室信介)に「人材培養ハ論ナシ小学教育ヲ保護シ民権ヲ暢達スルガ為ニ創立スルモノナリ」とうたっていることに尽きているといえる。明治五年八月三日「学制」がしかれて小学校の普及に伴い、教員の需要は急速に大きくなり、豊岡県(当時宮津は豊岡県に属していた)にも教員伝習所がつくられたが小笠原長道は官制伝習所は「生徒ヲ教授スルノ方法ヲ教フルモノニシテ自己ノ才学ヲ達スルモノニアラズ」と考えた。民権伸長の場においてこそよき教師が養われるというのが根底の思想であった。一般人材の養成もまた然りとした。豊岡県ではいったん開塾の許可を出したものの、翌九年八月この地方が京都府に編入されたころにはこの義塾の存在は官側にとっては、好ましいものではなくなっていた。陰に陽に官憲の圧迫が加わった。このような状況下でとにかく日本の民権運動の衰退期をむかえるまでこの塾が生きつづけたということはある意味では驚異といってよい。十年の歳月は決して短命といい切れぬものをもっている。それでは、かようにこの義塾の生命を強固にしたものはいったい何であったであろうか。第一に両丹・但馬にわたって民権伸長をめざして展開された広汎で組織的な政治活動に支えられていたことである。しかもその政治活動は常に全国的な民権運動と深く結びついていた。以上の意味では学塾天橋義塾は政社天橋義塾というもうひとつの顔を見落してはならない。第二に、資本講(千人講)維持講等財政組織の下からの結成に成功し、それがそのまま義塾を支持する連帯感を強固にするのに役立ったということであろうと恩う。
 小笠原長道は明治五年府下綴喜郡井手村(現井手町)小学校の教師であった。同八年同校を辞し義塾の創設に尽した。義塾の指導陣には彼のほかに沢辺正修・粟飯原曦光ら多くの人材があった。概念的にすぎるかもしれないが学塾天橋義塾の顔を粟飯原とするならば小笠原・沢辺は政社天橋義塾の顔といってよいだろう。その両面の運用よろしきを得て組織力を発揮したのが小笠原(小室信介)であったともいえよう。しかし彼の活動は変化に富み必ずしも丹後に腰をおろして義塾の経営に専念するというわけにはいかなかった。先ず当時もっともすぐれた民権政治家小室信夫との出合いは彼の生涯に最も大きな影響を与えた。小室信夫は与謝郡岩滝村の最大の糸商・廻船業の山家屋一統で信夫自身も京都に支店を構え活躍していた。維新ののち徳島県大参事等歴任して明治五年にはヨーロッパ視察に赴きロンドンに滞在した。翌年帰国してより民権運動家と交わり明治七年一月「民撰議院設立建白書」の署名人の一人でもある。愛国社の結成にも参加した。
 小笠原長道は小室信夫に見込まれて小室家に入った。その後の彼の生涯は多彩であった。西南の役当時は拘留されたこともあった。明治十二年~十四年ころは大阪日報・朝日新聞等にも関係をもって民権の主張を鼓吹した。その後も大阪日報の後身日本立憲政党新聞に関係をもちながら山陰各地の遊説に奔走した。明治十五年九月立憲政党員登録当時の住所は大阪であった。翌十六年三月立憲政党は解党を決議した。彼は東京に赴く旅の途中であった。翌年九月天橋義塾も解散を決めた。当時信介は清国に出張していた。彼が大阪以来書きかけていた『東洋民権百家伝』の刊行を終ったのはその年の六月であった。その書物は十二月、義塾創設以来の功労者に慰労として贈呈された。


自由民権運動
明治十四年(1881)
『舞鶴市史』
四月十四日の京都新報は舞鶴の民権運動の状況を次のように報じている。
 又舞鶴の通信をみるに、当地は山陰の一佳港にして頗る繁盛なるも、いかんせん人民挙って進取活溌の気力に乏しく、或ひは一、二の民権を説くものあれば、之を忌んで殆んど視て土芥の如く侮りて、交際を絶つ等の弊害ありしが、さきに小室氏等の一行来って例の雄弁にて頗りに演説鼓舞されしより、一般大民は恰も夢の覚めたる如く、近頃に及びては甲処に自由を談じ、乙処に民権を唱へ、到るところヒヤヒヤの声を聞く。特に壮年輩は一の会を結び、名けて鶴鳴会と云ふ。専ら従来の弊風を去り、各自の智識を交換し、天聞の幸福を全うするを目的となし、約り宮津の天橋義塾其他有数の社会と気脈を通ぜんと、自今勉強中なりとか、僻邑と雖も斯くまで自由説を談ずるに至れるは、抑気運の然らしむるとはいえ、真に末頼もしき光景にぞある。
明治十四年末から十五年にかけて、眠っていたような「僻邑」で「人民挙って進取活発の気力に乏し」かった舞鶴が時代の流れに目覚めた様相をよく描いているが、その結果として、一つの組織「鶴鳴会」が出来たともいう。また、四月二十七日付けの同紙には
  舞鶴にて立志会団結のことは曽て記載せしが、今其概則を聞くに、専ら智識を交換し、天禀の自由を拡張し、地方の改良を図るを目的となし、会員最も奮発せりと云ふ。
 と報じており、当時舞鶴に鶴鳴会と立志会の二つの組織が結成されていたことがうかがえる。
 このような動きは、丹後一帯はもとより丹波、但馬に大きなうねりとなって波及し、それがまた大阪に本拠を持つ立憲政党に活力を与えた。この結果、十月に発行の党員名簿には六四〇人の氏名が掲載されるほどになった。しかし、実践的な活動家がいなかったのか、舞鶴、加佐地方の人士の名は見当たらない。また、鶴鳴会と立志社のその後の活動は、一切報道されていない。


『宮津市史・通史編』
天橋義塾と自由民権運動

一 天橋義塾の創設
 小室信介と天橋義塾
 丹後における天橋義塾の結成は、明治八年(一八七五)、小笠原長道(ながみち)という二十三歳の一青年の行動から始まる。小笠原長道こと小室信介(こむろしんすけ)は、宮津藩士小笠原忠四郎長縄の第二子として、妻路子との間に、嘉永五年(一八五二)七月二十一日、宮津城下の柳縄手に生まれた。父の忠四郎は砲術家で禄高八○石、兄の長孝は天橋義塾の創始者の一人である。信介は、幼名を金+帝吉、やや長じて少(わかな)と称し、後には長道と通称したが、ここでは小室信夫(しのぶ)の養子になってからの通称信介で通すことにする。
 信介は、「幼にして慧敏(けいびん)、すこぶる学を好み」、八歳から藩校礼譲館(れいじょかん)で生涯の友沢辺正修(さわべせいしゅう)の父淡蔵らに学び、外舎生、内舎生、上舎生と進んでいる。彼は、慶応二年(一八六六)七月に藩の車台熕手(こうしゅ)に任じられたが、砲術の師は十一歳ちかく年長であった兄長孝であった。翌三年二月、信介は十四歳七か月で礼譲館の助教になっている。一説では、藩主本荘宗武の命で京都に遊学し、儒者「中沼了三に師事した」といわれているが、根拠は定かではない(原田久美子「小室信介とその時代」『郷土と美術』」八四号)。
 信介は、明治二年には、有吉三七らと「藩の執政」伊従(いおり)数馬(伊織左近)の暗殺を計画し、伊従の失脚によって未遂に終わっている。しかし、藩主宗武は、翌明治三年一月二十七日、伊従を権大参事の職から罷免し、沼野内蔵介(半太郎)を後任にすえているところから、信介ら改革派が勝利したことがわかる。明治三年初頭の藩上層部は、鳥居誨(かい)(大参事)、川村政直(少参事)、有吉三七(少属)ら改革派の手に握られており、信介の兄長孝も大属として参加している。明治三年以降の数年間の信介の伝記には不明が多いが、同年三月から西京の儒者山口又左衛門(正養)の盍簪(こうしん)家塾に学び、明治五年十月から山城国綴喜郡井手小学校の句読教師となっている。明治八年一月、休暇で郷里に帰った信介は、廃藩置県によって職を失った元宮津藩士族の惨めな生活を目にする。とりわけ藩校礼譲館(明治四年には文武館と改称されていた)の廃止後、「十五年以上二十年前後の少年、教えを受ける所がなく、遊惰の風が日」増しに強くなっていく姿をみて、粟飯原曦光(あわいばらぎこう)・粟飯原鼎(かなえ)・神谷広生・岩城親雄らと私塾天橋義塾の創設を計画する。「いずれの年にか、彼らが薩摩・長州・土佐・肥前の人らと肩をならべることがあるだろう」と彼らは語り、信介が「規則」を制定して、豊岡県十三大区区長鳥居誨に計るが、鳥居もこれを承諾した。しかし、信介は山城に帰らざるを得ず、事を粟飯原・神谷等に託した。

創立期の天橋義塾
 明治八年六月、天橋義塾は 創立委員鳥居誨ら三五人、生徒は木村栄吉ら二一人の体勢を整備し、七月一日、「小学予科の名をもって」宮津学校内の西南隅一舎(旧藩校文武館訓導室)に、粟飯原曦光を教師として開業した。開業式に会した者五四人、生徒をあわせて九○余人が参加した。粟飯原曦光が義塾開業の趣旨を演説し、社員一同、その目的を永く貫徹することを誓って役員を選出した。
 八月一日、天橋義塾は小室信介を迎え、信介が塾則を編成するが、その総則大綱の一節には、「それ該塾は、一人一己の単力に依りて結社せるものに非ず。衆人愛国義務心の小分子、集合凝結してもってこれを組成す。ゆえに将来これを維持するも、また集合力に依らざるを得ず。よって毎月一日をもって社員会合の日と定め、集会決議の上事務を改良進歩せしむ」として、集団討議をうたっている。
 社員らは「天橋義塾開業願添口上書」を豊岡県に提出したが、豊岡県参事田中光儀(みつよし)は、「書式布達は触るゝあるをもって許さ」なかった。そこで再提出すると、今度は権参事大野右仲(うちゅう)が信介を呼びだして尋問したが、信介はこれに答えて、「その許可の速かならん事を請」い、大野は信介の回答に満足し、「再び書を作り上願」するよう指示したので、八月二十七日に提出した。
 その後、九月には天橋義塾幹事の神谷広生、河南雪三が辞職し、社長に鳥居誨、副社長に岩城親雄、幹事には小笠原長孝、横川規、粟飯原鼎らが公選された。すでに会計掛には、辞職した鈴木直徳の代わりに高橋亀八が選出されていた。
 十月二十四日、義塾は支舎を小笠原長孝邸に置き、四○余名の寄宿生が、自炊生活を送っていた。そして同年十月二十九日、豊岡県は天橋義塾の開塾を認めた。翌九年七月から天橋義塾は、宮津学校内の建物を返上して、社主の小笠原長孝邸に移り、九月からは、中ノ町に土地を求めて塾舎を新築するための建築講を起こした。この講は、当時、この地方で広くおこなわれていた頼母子講の一種で、一本を四円として五八本を募った。
 そして翌明治十年十一月には塾舎を竣工した。塾舎は、三一○坪(一○二三平方メートル)の敷地に、二階建ての家屋(五九坪)で、一階が教室として使われた。二階は総畳敷で、平日は生徒の学習室として開放されていたが、時にはさまざまな会合に使われていた。
 天橋義塾の運営は、社員の醵出金(月収の一○○分の三、収入のない者は月一○銭)と月謝によってまかなっていたが、相当の財政難であった。小室信介は、旧藩主の本荘宗武に寄付を要請しているが、宗武はこたえなかったようである。そこで天橋義塾は、明治九年五月、千人講と称して、一本五円、総籤数千本として、丹後の農民や商人に加入を呼びかけた(四-一八三)。翌十年十二月に開かれた最初の資本講には、三○○余人の人が集まった(四-一八四)。ただ、同年の加悦町の資本講関係の史料を見ると、さらに一本を細分化して総勢二一人が出資している(加悦区有文書)。
 その後、明治十五年には別の資本維持講(一本一二円、五〇〇本)が創設され、同年七月九日付の加入者名簿では、三六八人が加入している(六一○本)。十七年度の天橋義塾の年間経費は収入八八五円三六銭余、支出八四六円五八銭余で、収入のうち四八六円四○銭は維持講金(五五パーセント弱)であった。この株主が社員となり、社員として年二回の大会に出席し、株主として年一回の資本講会に出席した(原田久美子「自由民権政社の展開過程」『資料館紀要』一号)。)

天橋義塾の人々
天橋義塾は、明治八年十一月から官令により社主を置き、社員総数を届け出て、社主には小笠原長孝がなっている。六月時点での天橋義塾の構成をみると、すべて宮津藩の藩士とその子弟である。社員の年齢は、天保末年以降がほとんどであり、社長の鳥居誨をはじめ三十歳前後が主力である。平田敬信・原田直行らが二十歳以下と若い。社員の宮津藩時代の役職を見ると、社長の鳥居誨は権参事、副社長の岩城親雄は権大属であり、旧藩主の本荘宗武まで参加している。藩士時代は文武掛句読師に属している者が多く、藩校礼譲館の人脈が濃厚である。
 一方、生徒の方は、万廷元年(一八六〇)前後に雄まれ、開塾時には十五歳前後の人びとが圧倒的であった。初期の生徒もまた、丹後の教育界で活躍し、その後ほとんどの人物が天橋義塾の社員になって義塾を支えてている。小室信介の明治八年八月二十七日付の「天橋義塾開業添口上書」を見ると、義塾開業の目的を、「人材培養し「小学保護の一助」と語っている(四-一七五)。義塾の社員は、「与佐郡中小学教員の集合せるものと、学齢外に在りて小学教官とならん事を志欲するもの等」(四-一七四)が入社しており、義塾は小学伝習所に入るべき学力を講習する所だとしている。
 十三大区学区取締の神谷広生は、旧藩士の子弟が、「その年いささか長じ、既に小学齢外にあるものは、小学生徒と伍する事を恥じ、志学の年齢をもって、終身の(手偏に毎)ママに附するもの多し」という添書を付けて、豊岡県権参事大野右仲に提出している。このように神谷が語っているように、創立期天橋義塾の性格は、旧藩士族の子弟の教育機関であった。義塾の授業料は、束修一○銭、謝儀一○銭であった。
 教師には粟飯原儀光(四十一歳)があたったが、儀光は、宮津藩士尾兄亀之助に経学と漢学を二○年間学び、同梶川作左衛門(景典)、小浜藩士人沢雅汀郎、綾部藩士近藤東作に経学や漢学を学んで、維新後に京都の中沼了三と出雲路定信に短期間であるが遊学している。儀光の師尾見亀之助は、藩命で江戸に遊学し、梅田雲浜の師でもあった小浜藩の儒者山口菅山の門人となり、川崎闇斎学に傾斜した。藩校礼譲館は、尾見が塾頭になってからは、崎門学(闇斎学派・浅見絅斎派)に転じたが、儀光は尾見の高弟であった。
 京都府の監察掛高木文平は、儀光が「生得左足不具、歩行不自由にして干尤(武器)を探るの器にあらず。よって若年より学に志し」と悪意のある書き方をしているが、「当国において漢学の名誉あり」とその学識は認めている(「探索書」京都府庁文書)。儀光は、創立期から九年間、教育者としての円熟期の四十年代を天橋義塾の教育に専念した。後年は、京都府高等女学校教諭に「十五年余、満七十二歳まで元気に奉職され」、その間に京都第三高等学校などの倫理科講師を務め、明治四十四年十月三日、行年七十七歳で逝去した(『資料 天橋義塾」。

天橋義塾の教育
 明治八年十月、結社人小室信介が、豊岡県権参事大野右仲に提出した天橋義塾の「塾則」(四-一七六)には、第一章として「該塾は人材培養は論なし、小学校教員を保護し、比権を暢達するが為に創立するものなり」とある。これには京都府への合併後、高木文平によって「小学校教員を保護するは、私塾の権にこれあらず」、「許可したるの意解き難きなり」という付箋が貼られている。高木らが、天橋義塾を警戒していたことがよくわかる。そして、「該塾は、元と一家一人の単力によりて成るものにあらず、有志輩の集合力より起こり、将来これを維持するもまた、その集合力によらざるを得ず」(第四章)と集団主義を明記し、「着席の順序」は、「学力により」定めるなど、実力主義がうたわれている。
 教科目としては、初期の普通学科で読物輪講(読講)・問答・作文・算術の四科目、明治十五年二月の高等普通学科では、修身・読書・習字・算術・作文・討論の六科目であった。教科は意外と少なく、近世の藩校以来の伝統が踏襲されている。また等級制は当初から採用されており、創立当初の仮課業表では上下各五級の十段階、明治十五年では六級から一級の六段階に分かれていた。変則英学科でも、設立時には第七級から第六級まで六段階に分かれていた。正課を修めた者に、定期的に試験をおこなって進級させているが、もっとも修学年限を定めていないので、足かけ五年在学する者もあれば、数か月で退塾する者もいた。そして教員など昼間働いている者のために二部制をしいた。創立の頃から、小室信介と宮津校の教員たちは、十一歳の「唖者」の少年に、「聾唖教育」を始めているが、これも早い例である。
 教科書としては、ミルの『自由之理」やスマイルスの『西国立志編』、福沢諭吉の『民間経済録』などが使われている。『左氏春秋』や『孟子』などの漢籍の本からフィセリングの『性法略』、ボアソナードの『性法講義」、ブルンチュリの『国法汎論』などの法律書が目立っている。また「仮授業表」を見れば、下等五級で竹中邦香の『民権大意』が使われおり、三・四級で新聞体の作文が要求されている。そして、教科書の書籍は貸し出されており、明治十四年二月改正の社則には「書籍出納規則」があって、天橋義塾が地域の図書館として機能していたことがわかる。
 天橋義塾に学んだ生徒の回想をみると、林清志は「後世の枝折」のなかで、上等小学校を中退して義塾に入学し、「経書の講義、諸訳書の講習ハ中軒沢辺正修先生に、英語は綾部文蔵先生に、算術ハ松本秀三郎先生に授かりける」としている。そして、
  昼ハ終日教場に出入して暮しつ、夜ハ十時を限りとして、楼上なる学寮にて同窓の人々と復習などに励  みける、学寮こそ同学の世界なれバ、社則の許さるゝ限り、自ら万の事を執り行ひけり(中略)此頃土佐  より、筑前より説客訪ひ来て、国会開設請願てふことを我が宮津の重立たる人々に説き勧めけるが、中  軒先生は毎に主として応対し玉ひぬ。
と語っている。林が学んだ変則英学科は、明治十一年九月に開設され、慶応義塾卒業生の綾部文蔵(高知県士族)を教師として招いていた。林の回想からも、生徒の自主的な学校運営、自由民権運動への参加がうかがわれる。
 なお天橋義塾は、宮津から離れた地域にも支舎を置き、明治十年には京都(責任者佐久間丑雄)、奥丹後では熊野郡の同に会が運営にあたったと報道されている。京都支舎には、後年弁護士として活躍する立川雲平らも学んでいる。

西南戦争と天橋義塾
 明治十年二月、西郷隆盛らが挙兵して西南戦争が勃発すると、天橋義塾の指導者たちの上にも弾圧が加わった。三月中旬から三月上旬にかけて、小室信介・小笠原長孝・鳥居誨・沢辺正修・横川規らは、鹿児島県士族有馬純雄・同県士族喜入嘉之介・同県平民立山吉左衛門、滋賀県士族大海原尚義、熊本県士族佐治博暉らとともに、突然、「国事犯」の嫌疑で逮捕され、五月には佐治が病死した。
 この事件について信介は、次のように供述している。「自分儀、明治九年六月より東京表において英学修行中」であったが、私学校党の挙兵を知って、「立憲政体の規模実践せらるゝは、実にこの時」と考え、政府に建白しようと親友有吉三七・松本誠直に相談した。だが、「天橋義塾の社員に計り公論に随」うよう言われたので、明治十年二月十四日、信介は一人で東京を出発、横浜より汽船に乗って十六日神戸に着き、汽車で京都入りしている。ここで信介は、室町通四条下る旅籠渡世の中嶋国方宅へ立ち寄り、鳥居誨に会ったことだけを語っているが、同旅籠には本荘宗武・小笠原長孝・横川規も止宿しており、西南戦争の原因となった大久保利通・川路利良らによる西郷隆盛暗殺計画の実否について話し合われた、と他の人びとは供述している。
 十七日に宮津に入り、十九日午後二時より社員を集め(「四十名計集合」河原政庸供述)、「建白に用うべき公論を承り度申聞候得共、郷里においては」「いたって事情疎き土地柄に付」、「公論を為す者もこれ無き候間、建言の儀は追っての模様に致すべき」となった。そこで兄の小笠原長孝と協議して、平田敬信・河原政庸の二人を但馬・鳥取へ調査に行かせた、と語っている。因州に行かせたのは、「島根県下鳥取表の儀は、かねて不平徒もこれ有る趣」で、平田・河原は、二十二日に但馬へ出、二十六日より鳥取の河端三丁目米屋善四郎方に止宿するが、「異状これ無く」、三月十二日、該地を出発して帰郷の途についた。
 信介は、三月一日に京都府から召喚され、即日宮津を発って四日に京都に着いたが、政府の嫌疑によって直ちに拘留された。「三月十五六日の頃、臨時警察署へ御引出」、また四月四日も引き出しのうえ会田警部より仮口供書を読み聞かされる。ここで信介は、「民権論を確立し、圧制政府の顛覆する為め自分瞬息帰郷し、天橋義塾社員を鼓舞し、政府に迫らんと評議したる等の趣に認めこれあり、実に意外の至り、かつて覚なき儀に候とも」と反論している。自分が供述していない政府転覆計画が、警察によってデッチあげられた、というのである。しかし、柳田泉は、信介らが「自由民権を名とした一大反政府運動を起こそう」としていたことを検証している『政治小説研究』)。
 信介は、明治十年十月二日、義兄佐喜造預かりとなるが、翌十一年四月十八日、「鹿児島賊変の際、道路の風雪を信じ、妄に政体を非毀する者」として「禁固三十日」の刑を言い渡された。「然しこれも数日の実刑で後は責付(執行猶予)となり、寛大な処置で事が済んだのは、陰に養父信夫の手が動いていた」と柳田は推理する(同)。
 それでも身体の弱かった信介には、この京都「六角の牢獄」での禁獄体験はそうとうこたえたらしく、明治十一年五月三十一日と六月一日の「大阪日報」に「獄窓の夢」という手記を発表している。結局、五月四日には保釈されており、八日間の体験であったが、さすがに信介は、「ああ、もう拘留や禁獄はこりごり」と語っている。この裁判では、信介の兄小笠原長孝は禁固二十日、鳥居誨・河原政庸・平田敬信・有吉三七・本荘宗武は無罪、沢辺正修・横井規らは不起訴となった。

二 宮津の自由民権運動
自由民権運動への途
士族子弟の学習結社であった天橋義塾が、民権結社に変貌していったのは、明治八年(一八七五)の暮れから翌年の初頭頃であった。その契機のひとつは、明治八年末ごろから阿波(徳島県)の自助社の分社である淡路洲本の自助社々員白川敏儒が書簡を寄せてきたことである。天橋義塾は自助社に塾則・教科書を送り、自助社は天橋義塾に社則・教科書を郵送してきた。
 また、先述したように明治八年木ごろ与謝郡弓木村の機業家木崎清二が、若井茂吉を通して「千人溝」を義塾の幹部に提案し、粟飯原鼎や横川規らはこれに賛成している。この「千人溝」の周旋人集会の時に配られる予定であった、天橋義塾の扇子が残っている。表には、橋立の絵と漢詩二篇が書かれ、裏には趣意書に相当する文章が、扇面一面に書かれている。その末尾には、「紀元二千五百三十六年五月 豊岡県丹後国宮津天橋義塾 小笠原長道」という信介の署名がある。その内容は、「天ツ下に一といふ名をも得ばや」との心意気で、天橋義塾を創設したこと、「民権といふ、おおやけにたいらなる理を知らしめん」として、同社の兄弟たちが奮闘していることを強調し、「共にそこはくの力をそえたまいなば、いかばかりか皇国の幸ならん」と述べている(四-一八○)。「勤王=民権」論という当時の信介の思想がよくわかる。
 そして、第二節で述べたように、丹後における地租改正は、一度決定した地租を引き直すばかりか、第十三大区々長の鳥居誨を免職した。また第七小区戸長兼地券総代人の石川三郎肋を捕縛し、入獄させるという強権的なものであった。この地租改正での強権が、士族インテリや農民たちに、大きな影響を与えている。
 明治九年正月、沢辺正修が宮津に一時帰省し、信介と語って、「自由主義を執り、民撰議員の設立」を誓い、山城綴喜郡に帰ってからも、大いに「民権自由の説」を広めたという。これにたいする懐柔策として豊岡県は、四月、社長鳥居誨を区長に任じて但馬出石郡に行かせ、その後も幹事粟飯原鼎を学区取締人に任じて熊野郡へ、副社長の岩城親雄を副区長に任じて加佐郡に行かせた。
 信介は東京遊学中のため、義塾は幹事小笠原長孝、事務掛高橋亀八、教師粟飯原儀光を残すのみとなった。「天橋義塾略史」の著者は、鳥居らの「栄転」を、「県令義塾の盛隆を喜ばず、ためにその錚々なる者を除いて、その勢を殺ぐ者なり」との陰謀を推測しており、ここで「義塾略史の第一期」は終わっている。
 そこに西南戦争の時の弾圧であったが、この危機のなかで、天橋義塾は一連の改革を実施する。明治十年の暮れから翌年の夏にかけて、天橋義塾では会議法・委員章程・資本講規則・社則の制定、教則・醵出法などの改正をおこなった。とくに注目すべきは、地域ごとに組をもうけ(七組のち十九粗)、各組に委員を置き、全員参加の大会議で運動方針、規約・規則などの改正、決算・予算の審議、役員の選出などをおこなった。
 この改革を指導したのが、二十二歳の青年沢辺正修である。沢辺は、宮津藩の儒者の家に生まれ、明治四年の春、藩費生として京都に遊学して、信介と同じ山口正養に師事した。ほどなく廃藩になるが自費で修学し、明治六年からは綴喜郡田辺校の小学教員に赴任し、約三年の間、子供たちの教育に従事した。西南戦争の「国事犯」として拘留されたときも、獄中でモンテスキューの『万法精理』(「法の精神」)を読んでいたという逸話がある。明治十年十二月の天僑義塾の資本講規則に、沢辺ははじめて幹事として署名し、翌明治十一年には社長に選出されている(原田久美子「沢辺正修評伝」『資料館紀要』三号)。沢辺の社長就任は、天橋義塾の世代交代でもあった。

国会開設運動
明治十三年一月には、丹後の府会議員らが、峰山で臨時会を開き、与謝郡の石川三郎助・田井五郎右衛門らが、綴喜郡の議員西川義延・伊東熊夫・田宮勇らとともに、地方官会議に傍聴に出かけた。そして二月二十二日、国会開設運動のために、東京中村楼で各府県議員らの合同共議がもたれ、京都府からは与謝郡の田井五郎右衛門、中郡の川口藤右衛門、愛宕郡の松野新九郎らが参加した。この時期、京都府下の民権運動の中心が、府県会議員のクラスになり、京都の運動が全国的な国会開設連動と組織的に結びついた。
 この頃、立志社々員の桐島祥陽が天橋義塾を訪れて、国会開設請願での立志社との共闘を訴えた(四-一八六)。そして三月十日、宮津の智源寺で「国会懇願の集会」がもたれるが、この集会の前日、九日付けの『大阪日報』に、沢辺正修の「丹後有志人民に告げる書」という文章が載っている(四-一八七)。同文では、丹後人民に国会開設を呼びかけ、「我々丹後人民は、明治維新の時のごとく、時勢を知らず、方向に迷い逡巡し、他の軽蔑を来すべけん」と、宮津藩が第二次長州征伐に参加して、「朝敵」の汚名を着た、「軽蔑」の歴史を回顧する。そこで、「天皇陛下は国会を開き、広く会議を興し、万機公論に決し、政体を立てんとの、叡旨(天皇の考え)たる明白」と、彼の尊皇論的な国会開設論を展開する。しかし、「国会さえ開けば妄に過分の租税を課し、不便なる法律を立てらる、ことなく、我々人民の生命財産自由は安全なるべし」として、参政の権利が得られないのなら、納税を断るといった「軽挙暴動」には反対している。しかし、皮肉にも丹後では、この直後に植村正直知事の地方税追徴金に反対して、小室静三らが追徴金の不納闘争を展開する。
 この三月十日の「国会懇願の集会」の前に、宮津では大阪の愛国社の第四回大会への代表を選ぶ動きがあった。委任状まで作り代表が選ばれていたが、これを知った槙村知事は、三月十六日、沢辺や小笠原長孝らを呼んで、大会への参加中止を命じたので、このために沢辺らは参加を断念した。また五月六日、与謝郡では長田重遠郡長みずからが村をまわって伍長らに、自由民権運動は、天子様・政府に反する罪だから参加しないように、と説いてまわった。
 明治十三年六月、沢辺らは再度の国会開設請願を願って、町村会の立案委員になったり、「士族のための興産社なる」ものを組織した。そして沢辺らは、七月二十六日、毎月十五日に天橋義塾において教育の問題を議論する教育談会を組織し、近郡を遊説して「国会開設を熱望する者」を増やした。また九月には、熊野郡久美浜で、信介の呼びかけによって、稲葉市郎右衛門らが熊野同仁会を結成した。
 沢辺の上京は、信介の助力で実現する。信介の発起で、十月二十八日、「金一円」の会費で、京都室町の音羽屋で、丹後・丹波・山城の客員二二人が集まり懇親会がもたれた。翌二十九日には、御幸町御池下る安右衛門の宿で、上京費用の相談がおこなわれた。三十日には、沢辺は京都府庁に「東上御届」を出し、十一月一日には「自由亭」で送別の宴を張った。この時も、丹後の人びとは沢辺に、「部理代人」としての委任状を渡していた。
 上京した沢辺は、十一月十日、京都府三国二区九郡有志二七五○人の総代として、国会期成同盟第二回大会に出席して幹事になり、十二日には国会期成有志公会の立案委員に選出された。そして十五月七日、沢辺は「国約憲法制定懇願書」を大政官に提出した。この「懇願書」には、九四人の丹後の人びとが名を連ねている。)

憲法草案の作成
 この明治十三年の沢辺の上京の前に、天橋義塾が中心になって憲法草案が作成されている。竹野郡の水島家が所蔵していた「大日本国憲法」(四-一九三)という草案をみると、表紙に「閲了」と書かれて「さわべ」という印が押されている。これは、誰かが草案を書き、沢辺が検閲したという意味だと考えられる。この草案は、複数の人の討議のなかで生まれた可能性が強い。
 草案の第一篇第一条は、「大日本ハ立憲君主政体ニシテ天照大御神ノ皇統ノ知シ召ス国ナリ、皇統ニアラザレバ天ツ日嗣ヲ継カセ給フ可カラズ」と、天皇の皇統を規定している。そして第二条では、「天皇ノ身体ハ神聖ニマシマセハ侵ス可カラズ」が、「天皇ハ神種ナレバ侵ス可カラズ」と修正されている。第三条では、立法権は天皇と国会、行政権は「天皇ノミ」、司法権は「天皇ノ名位ヲ以テ之ヲ行フ」とするもので、強い天皇大権が規定されている。沢辺らの「勤王ハ民権」の主張が強く出されたものである。
 第二篇では、「天皇」の大権と、皇位継承が規定されている。第十一条で男子直系主義をうたっているが、男子が欠けた時には、「女帝」を立てることを認めている。また「第十七条 帝室ノ経費ハ天皇即位ノ姑メ国会二於テ之ヲ定ム」ともしている。その後の皇室典範とは、異なった考え方である。
 「第三篇 国民ノ権利及義務」のところでは、第二十四条で「法律ニ定メタル式ニ由ラザズシテ拘引捕縛禁獄セラレ、又ハ裁判ニ召喚セラル、コトナシ、且ツ住居ヲ侵シ書類ヲ開封セラルゝコトナカルベシ」と書かれているが、「禁獄」という文字や「且ツ住居ヲ侵シ書類ヲ開封セラルゝコトナカルベシ」という文句が全文削除されている。また第二十六条でも、「国民ハ皆同シク自己ノ教派ヲ奉スルノ自由権ヲ有シ」と後の「且教会ハ皆同一ノ保護ヲ受ク可シ」が削除され、「然リトモ葬祭等ハ国家ノ監督ヲ受クベシ」という文章に変えられている。
 同篇の第三十五条の皇太子や皇太子の長子が満二十五歳になって、元老院に列席する時、「其坐次ハ議長ノ下ニ列スベシ」という文章も削除されている。そして、第五篇「行政」の「参議院」のなかで、第八十九条の「参議ハ法律及ビ国益ニ悖リテ奏聞スル所ノ意見、若クハ詭詐明ナル意見ノ為ニハ其責ニ任ス」という一文が削除されている。権力の弾圧を恐れたこともあっただろうが、沢辺の検閲によって、明らかに主張が後退している。
 現在発見されている民権家の「私擬憲法」は、二院制をとっているものがほとんどで、選挙も「複選法」をとっている。この草案も、元老院と民選議院の二院制がとられ、「府県ニ於テハ郡区ヲ一小選区トシ、人口一万以上二付一名ノ比例ヲ肌テ選挙人ヲ其郡区内ヨリ撰ビ、其撰挙人議員ヲ撰フベシ」といった、「複選法」がとられている。これは民権派の憲法草案に共通するものであるが、そのなかでもこの草案は、天皇大権の大きさなど保守性の強いものといえる。

自由懇親会と三丹遊説
明治十四年二月十五日、天橋義塾は大会議を開き社則を改正した。そこでは、「改進主義」による人材の教育とともに、丹後人民の知識の開発、産業の興隆、福利の増殖などを目標として掲げている。そして同社を北丹連合の中核として、平安公会に先立って丹後一国の結合をめざす、との方針が決められた。平安公会とは、十三年十二月に京都で結成された自由主義団体で、国会期成同盟の下部組織的な役割をめざしていた。
 そして丹後では沢辺の帰郷後、表67のように各地で自由懇親会が開かれていた。そこで信介は、沢辺と計って、元元老院議官の中島信行を押し立てての三丹遊説をこころみた。中島は、土佐出身の民選の元老院議官であり、人びとの希望を集めていたが、元老院起草の憲法草案が政府に反対されて、議官を辞職した。これが全国の民権家の賛同を集め、板垣退助とならんで民権運動の副総裁に祭りあげられていた。
 宮津では府中農事相談会など各地の結社で準備会がもたれていた。明治十四年四月十七日、中島らを迎えて宮津の自由懇親会が開かれた。『朝日新聞』は、「その会場、すなわち同所智源寺には、門前に自由懇親会の五文字を害したる紙標をはりし、門内に切符請取所を設け(切符は、前日より国内に頒布しおきたるものにて、その数千五百枚を製し、八十九分は払出せしという)、来会人より切符を請け取り、しかして後に入場を許せり」としている。当日は雨天にもかかわらず、来会人より切符を請け取り、しかして後に入場を許せり」としている。雨天にもかかわらず、「来会者すべて一千三百六十余名」という盛会で、「隣国丹波・但馬より来会せし者あり」といわれている。
 懇親会は、午前十一時頃、中島信行が信介とともに入場すると、「歓呼の声ほとんど会場を動々」となり、沢辺の趣旨説明で始まり、中島が演説して、「天橋義塾の社員および生徒等、かわるがわる起って、該会の盛んなるを愛し、かつ中島君とともに自由主義をとるべきの趣旨を演説し、あるいは祝辞を読」んだ。続いて信介が起って、「中島君の履歴の大略をのべ、同君の尊きは人爵にあらずして天爵にあり、議官たりしにあらずして自由主義の人たる」と演説し、最後に中島が謝辞を述べて、午後四時に閉会した。
 さらに翌日には、「天橋の白砂」のうえで、天橋義塾の生徒たちが自由党と圧制党とに分かれて旗取り競
技をした。これには与謝会員も加わり、自由党が苦戦のすえ、勝利を得るという演出がなされていた。その
後、中島らは熊野郡を経て但馬に遊説し、自由民権の思想を宣伝した。
 この自由懇親会を主催した百井護一や接待委員の糸井徳之助らは、同年秋、大阪で結成された立憲政党の有力な党員であった。同党は関西最大の民権政党で、届け出党員は七五八人を数えるが、そのうち丹後が百四七人と全体の二○パーセント近くを占めた。宮津出身の小室信介や沢辺正修らが幹部となっていた。明治十四年以降、信介は群馬の民権家新井フデらと、山陰地方の遊説に出た。この時、兵庫県の豊岡で古島一雄は、信介らの演説を聞いている。やはり古島も、豊岡の宝林義塾で、ルソーやスペンサーを盛んに読んだと語っている(『老政治家の回想』)。)

在地の民衆結社
図25のように、明治十五年を画期として丹後の民衆結社は急速に増大している。なかでも宮津がもっとも多く、天橋義塾から興産社まで九社もある。しかも民権結社(下線の結社)が圧倒的に多いというのも、丹後の特色である。地域としては、純農村というよりは、地方都市(宮津・舞鶴・岩滝)や「小工業村落」(大野)、「半農半漁」村(江尻・間人)といった所に民衆結社は発達していった。また民衆結社のなかにも、綢繆社や興産社のような、宮津士族の生活防衛のための産業結社から、府中農事相談会・択善会などのような政治結社、天橋義塾・教育談会などの学習結社などさまざまな形態がある。
 明治十三年の国会開設運動の高揚のなかで、江尻村の第七組用掛兼江尻村総代の宮崎六左衛門は、十一月三十日、小松村の府会議員小松九郎右衛門の提唱する「親睦会」に参加するが、同会は会名を「農事相談会」としている。しかし、その内容は、翌明治十四年一月四日の集まりでも、沢辺正修を招いて国会開設運動の話しを聞くなど、もっぱら自由民権運動を推進するものであった。この時期の丹後では、表67のように、おびただしい数の懇親会がもたれている。この懇親会運動と民衆結社の結成が、先述した中島信行を迎えての四月十七日の自由懇親会を実現したのである。
 宮崎は、明治十四年十月六日の宮津万町定小屋の沢辺らの演説会の案内を、宮崎佐平治らの家の前に貼っている。また、小集会に参加して、沢辺の再東上を援助している。この頃、「北丹自由党」を作る動きもあったが、日本立憲政党の結成に統一されていった。そして、読書好きの宮崎は、宮津の書林南波庄兵衛で「民権之ハナシ」を買ったり、東京の自由出版会社や修正社から自由民権関係の書籍を購入し、周囲の人びとにも貸していた。このような地域のなかでも新しい政治文化を学ぶ風潮が生まれてきている。
 また明治十四年六月一日、府中校で開かれた「連合村会規則修正会」では、議長の沢辺正修をはじめ、一九人の出席者のうち一一人までが天橋義塾の社員であった。議長の沢辺は、もちろん天橋義塾の社長であり、副議長の竹本行央、書記の速石徳造、幹事の岩瀬章道ら重要な役職はすべて天橋義塾の社員であった。竹本・岩瀬は江尻・府中校の教師、速石は江尻校の訓導でもあった。このように若い教師社員が重要な役職につき、連合村会でもないのに、出席者全員に議員番号が付いていて、討論の場となっていた(宮崎六左衛門「日誌」宮崎家文書)。
 この時期の民権派は丹後各地の連合町村会の結成に参加していた。『京都新報』では、丹後「地方は近頃町村会が続々起りて」、「随分立派な議論もありて町村会にて珍しきことなり」(六月三十日)と伝えている。竹野郡でも七月十一日より「連合町村会」を開く予定であった。

沢辺・小室の死と天橋義塾の衰退
天橋義塾社長の沢辺正修は、明治十四年の秋頃から大阪で活動するようになり、「社長他出不在中」のなかで、天橋義塾の運営は、木村栄吉・平田敬信らを中心とするようになった。沢辺の大阪での活動中、これまで知られていない興味深い話がある。天橋義塾に学び、沢辺の元で書記見習いのような仕事をしていた林清志が明治二十四年の回想録「後世の枝折」(四-二一二)で、明治十六年七月末か八月の初めのある夜、大阪で病中の沢辺に呼び出され、憲法調査から帰国する伊藤博文を、暗殺することをもちかけられたという話である。
 今の廷臣にても才智の聞え高き伊藤参議こそ国賊なれ、御国の卵累ねし危うさを他処に見做して、憲法取調など口実を設け、遠く外国に責を避けんとする心憎さよ、咄奸臣神戸に着きなんこと、今日明日の中にこそ御国の為ぞ、疾く罷り下りて彼が首を討ち来れと。
 林は、この申し出を必死になって断った、という。この話が、どこまで真実を伝えているものなのか、事実だとすれば、沢辺のどのような心事からのものなのか、あるいは沢辺以外の人間も含まれての計画かなどは一切不明である。沢辺は、明治十五年頃から病気がちになり、十六年三月立憲政党の解党後『立憲政党新聞』の会計長としてその経営に苦闘していたが、その間病気は進行していった。沢辺は、十九年六月十九日、療養先の熱海で客死した。満三十歳の若さであった。
 沢辺の盟友小室信介も、明治十八年六月に外務卿の井上馨に随行して朝鮮から帰国すると、滞京城中に悪化させた盲腸炎のために、八月二十五日に逝去した。これも行年三十四歳の若さであった。
 天橋義塾は、明治十六年頃から弱体化しており、年一回の資本講会の連絡さえ滞るようになり、宮崎六左衛門は「拙者不服」と「日誌」に記している。また明治十六年十二月二十八日の改正徴兵令の公布によって、官立学校の本科生徒と教員には徴兵が猶予されるが、私立学校の生徒は対象外とされた。これによって私立学校では退学者が激増していった。
 京都府は、天橋義塾を解散させるために、明治十三年に丹後・丹波に府立中学校を作るという案を出している。そのねらいは「浮薄民権主張之私塾ヲ抑制」するためだとはっきり語られている(徳重文書)。植村知事時代に生まれたこの構想は、北垣知事によって引き継がれ、山城を含む郡部三中学校の設置案が浮上した。中学校の設置には、天橋・南山・盈科の三義塾を継承することが前提とされた。
 この中学校設立には、田中源太郎の周旋と根回しがあった。府会議長で盈科義塾の幹部でもあった田中は、まず南山義塾の伊東熊夫に働きかけ、両義塾の土地・建物を府に寄付させた。そして明治十六年、天橋義塾幹事の木村栄吉にたいして、資金難の天橋義塾を存続させるよりは、府立中学校を義塾の跡地に建ててはどうかと勧誘した。後年、木村は、田中の勧誘を受ける方が地域の子弟の利益になると信じて、社員総会にはかって賛同を得たと回想している。

天橋義塾の解散と宮津中学校
明治十七年二月二十七日の天橋義塾常議員会は、宮津に中学校を設立する時は、普通科教育部を中学校に譲り、本塾を法律専門学校にすること、そのかたわら訴訟・鑑定・代言人の仕事をし、私立書籍館を開設すること、本塾の家屋を中学校に譲り、本塾は別に家屋を設置し、維持講金は期限まで続け、またこの件について京阪に委員を派遣すること、などが決議された。
 そして、三月四日の臨時会議の議事録では、義塾の家屋を寄付するかどうかが話し合われた。当時すでに学務課から寄付についての指示が郡役所に届いており、川村政直(与謝郡長)や黒川透(郡書記)らは寄付説に賛成であったが、大勢は反対であった。
 幹事の木村栄吉は、「自分の意見では、該家屋を寄付することを願っていない。なぜならたとえ普通学科を中学に譲っても、本塾内か一小家屋に法律学科あるいはその他二、三科を設置し、我が義塾開設の精神をもって、この団結を維持しなければならない」 と主張した。また同じく幹事の平田敬信は、「我義塾は自由改進の主義を以て結合し、活発英偉の英材を薫陶教育する私学舎で、その名声の流布することは、東京の慶応義塾、阿波の立志社、次に我が天橋義塾をもって三大義塾とも称せられるほどである。のみならず、資本も十分とはいえないが、このままでも千六百円の金額がある」、と語った。
 しかし、九月の社員総会では、同年九月一日より五か年間教育を中止すること、しかし社員の結合は解かないこと、社員維持講金は明治十七年前半限りで中止すること、そして明治十七年九月限りで本塾役員を廃止して、委員七名を置いて休業中の事務を委託すること、などが決められた。「時宜に依り中止中と雖も開業することおるへし」とは注記されているが、結局、新委員の業務は残務整理となった。
 すでに七月下旬に、宮津中学校問題を協議するため、与謝郡内の各村代表五○人の会議がもたれており、数日の討議のすえ、全郡の協議費二三八二円で宮津小学校の校舎敷地を買い上げ、それを京都府に寄付することが決められていた。そのなかには、天橋義塾買い上げ費一六○円も計上されていた。こうして、明治十七年九月、天橋義塾の敷地三一○坪、建て家五九坪は、府立宮津中学校に引き継がれた。
 そして四年制の府立宮津中学校は、明治十八年一月末に開校した。生徒は定員一○○人、教職員八人のなかには、監事兼教諭の木村栄吉、教諭粟飯原儀光、助教諭岡本鱗太郎、同高橋栄治など天橋義塾のメンバーが多かった。しかし、明治十九年四月十日公布の中学校令は、府県立の尋常中学校を一府県一校と限定した。このため府立第三中学校は、何年七月京都府中学校に併合され、宮津中学校はわずか一年半で廃校となった。明治二十年十月、天橋義塾は株主への割戻しを完了したうえで資本溝を解散した。ここで天橋義塾の歴史は完全に終馬した(今西一『メディア都市・京都の誕生』)。

沢辺さんも小室さんも優秀だけれども、当時の世界の政治水準から見れば、ずいぶんと遅れている。彼らもサムライの子、過去の官僚の子のためか、近世を担う民の側に立ちきれてはいない。世界を見て高いレベルの政治目標を持ってがんばってもらわないと、その後の歴史に大きな禍根を残すこととなる.。
世界はパリ・コンミューン(明治3)をすでに経験していて、その政治目標とするものは、ずっと進んでいる。そうした水準から見れば、ということだが、
民権運動というが、男女同権、婦人参政権とか言った民権の基本もない。もっとも民の男子すらなかったのだが…
天皇大権などはそもそも民権と対立する権力で、これはきびしく制限するのが民権側の目標であろう。はるか過去の古代人や封建人の感覚が残っている、近代人のものではない。
教育運動を行っているのはいいのだが、無償の義務公教育といった考えがない。これは遅れた日本各地の藩校ですら、たいていは無償であった、今でいう給食もタダ、寮費もタダ、さらに上級の教育を受けたい者には藩がバックアップしていた、海外留学を藩費で行った藩もあった、こうしたことから考えれば、彼らも藩士であって、たぶん無償の教育の恩恵を受けて育ったはずの者とは思いがたいことである。彼ら自身が証明しているように、貧乏人(言葉悪いが)の子弟にも教育機会を開かないと維新の志士も出て来られず、社会は停滞に沈んでしまう。
教育や民主主義は政治の基本である、この時代から150年もすぎたが、いまだに基本的な課題ですらもクリアできていない。現代を生きる者にも考えさせられること多い運動であった。






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 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

Chopin: Fantasie-Impromptu Op. 66


Horowitz plays Chopin: Fantasie-Impromptu Op. 66
(1) 学校帰りに『幻想即興曲』弾いた女子高生がヤバすぎるww【 ショパン / 幻想即興曲 / Chopin / Fantasie Impromptu / Op.66 / ストリートピアノ 】 - YouTube

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放送の合間にこんな曲が流れます(予定)

学生時代
惜別の歌」  
 「惜別の歌」(昭和19年末の作曲。東京の陸軍兵器工場に動員された女子学生が、島崎藤村の若菜集の高楼(たかどの)という詩を、そこに一緒に働いていた男子大学生に手渡したそう。その詩に中央大学の本学予科生であった藤江英輔氏がメロディーをつけて作曲。その後出兵していく学生の送別の歌としてよく歌われた、という。 藤江氏は制作にあたり、「高楼」の8連の詩から1、2、5、7連を抜き、1番の「わがあねよ」を「わがともよ」と変えている。今の同校学生たちたちすら、この歌を知らないそうで、過去を忘れる者は、未来も忘れはしないかと、気になる。


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