国分寺創建①
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 国分寺の創建①聖武天皇の勅命『続日本紀』の記事 (脚注は岩波古典文学大系本)天正9年(737)。三月丁丑(3日)、詔して曰はく、「国毎に、釈迦仏の像一体、挟侍菩薩二躯を造り、兼ねて大般若経一部を写さしめよ」とのたまふ。 脚注・天平平三年三月乙巳の国分寺創建の詔の中に見える「去歳、普令下天下造二釈迦牟尼仏尊像高一丈六尺者各一鋪一、并写中大般若経各一部上」がこれに当る。 脇侍・夾侍・脇士ともいう。仏の両脇に立つ菩薩または羅漢など、常に仏に随侍し、仏を助けて衆生を導く大士。釈迦如来の挟侍は文殊・普賢の二菩薩。 天平十一年度伊豆国正税帳にこの詔による大般若経書写の記事が見える(古二-九五頁)。 天平12(740)年6月○甲戌(19日)、天下の諸国をして、毎国に法華経十部を写し、并せて七重塔を建てしむ。 天平13(741)年正月、○丁酉(15日)、故太政大臣藤原朝臣の家、食封五千戸を返し上る。二千戸は、旧に依りてその家に返し賜ふ。三千戸は、諸国の国分寺に施し入れて、丈六の仏像を造る料に充つ。 脚注。三月乙巳条の国分寺建立の詔によると、国分寺は国毎に設置され、僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)から成る。その詔の発布以前の本条に国分寺の語が見えるのは、同寺建立の施策が天平九年三月丁丑条の詔以後段階を追って整えられたためか。 一丈六尺の釈迦如来像。天平九年三月丁丑条の詔の「釈迦仏像一体」、同十三年三月乙巳条の国分寺建立詔の「釈迦牟尼仏尊像、高一丈六尺者、各一鋪」に当る。 天正13年3月 ○乙巳(24日)、詔して曰はく、 「朕、薄徳を以て忝くも重き任を承けたまはる。政化弘まらず、寤寐に多く慙づ。古の明主は、皆光業を能くしき。国泰く人楽しび、災除り福至りき。何なる政化を脩めてか、能くこの道に臻らむ。頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交集りて、唯労きて己を罪へり。是を以て、広く蒼生の為に遍く景福を求めむ。故に、前年に使を馳せて、天下の神宮を増し飾りき。去歳は普く天下をして、釈迦牟尼仏尊像の高さ一丈六尺なる各一鋪を造らしめ、并せて大般若経各一部を写さしめたり。今春より已来、秋稼に至るまで、風雨順序ひ、五穀豊かに穣らむ。此れ乃ち、誠を徴して願を啓くこと、霊貝+兄答ふるが如し。載ち惶り載ち懼ぢて、自ら寧きこと無し。経を案ふるに云はく、「若し有らむ国土に、この経王を講宜し読誦し、恭敬供養し、流通せむときには、我ら四王、常に来りて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめむ。憂愁・疾疫をも亦除差せしめむ。所願心に遂げて、恒に歓喜を生せしめむ」といへり。天下の諸国をして各七重塔一区を敬ひ造らしめ、并せて金光明最勝王経・妙法蓮華経一部を写さしむべし。朕また別に擬りて、金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各一部を置かしめむ。冀はくは、聖法の盛、天地と与に永く流り、擁護の恩、幽明を被りて恒に滿たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華とせむ。必ず好き処を択ひて、実に久しく長がるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆を労はして帰集することを欲はず。国司等、各務めて厳飾を存ち、兼ねて潔清を尽すべし。近く諸天に感け、臨護を庶幾ふ。遐邇に布れ告げて、朕が意を知らしめよ。また、毎国の僧寺に封五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺は、必ず廿僧有らしめよ。その寺の名は、金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺は一十尼。その名は法華滅罪之寺とせよ。両寺は相去りて、教戒を受くべし。若し闕くること有らば、即ち補ひ満つべし。その僧尼、毎月の八日に必ず最勝王経を転読すべし。月の半に至る毎に戒羯磨を誦せよ。毎月の六斎日には、公私ともに漁猟殺生すること得ざれ。国司等、恒に検校を加ふべし」とのたまふ。 天平16年○8月甲申(23日)、詔して曰はく、「四畿内・七道の諸国、国別に正税四万束を割き取りて僧尼の両寺に入るること各二万束。毎年に出挙して、その息利を以て永く寺を造る用に支てよ」とのたまふ。 天平19年11月○己卯(7日)、詔して曰はく、「朕、去ぬる天平十三年二月十四日を以て至心に願を発し、国家をして永く固く、聖法をして恒に修めしめむとして、遍く天下の諸国に詔して、国別に金光明寺・法花寺を造らしめき。その金光明寺には各七重塔一区を造り、并せて金字金光明経一部を写して塔の裏に安置かしむ。而るに諸国の司等怠緩して行はず。或は寺を処くに便あらず、或は猶基を開かず。以為へらく、「天地の災異、一二顕れ来ること、蓋し茲に由らむか」とおもふ。朕が股肱、豈此の如くあるべけむや。是を以て、従四位下石川朝臣年足、従五位下阿倍朝臣小嶋・布勢朝臣宅主らを差し、道を分ちて発遣し、寺地を検へ定め、并せて作れる状を察しむ。国司、使と国師と与に勝れたる地を簡ひ定め、勤めて営繕を加ふべし。また郡司の勇幹にして諸事を済すに堪ふるを任して、専ら主当せしめよ。来る三年より以前を限りて、塔・金堂・僧坊を造り、悉く皆了へしめよ。若し能く勅に契ひ、理の如く修め造らば、子孫は絶ゆること無く郡領の司に任せむ。その僧寺・尼寺の水田は、前に入る数を除く已外、更に田地を加ふること、僧寺に九十町、尼寺に四十町なり。便ち所司に仰せて墾開き施すべし。普く国郡に告げて朕が意を知らしめよ」とのたまふ。 天平宝字3年(759)11月辛未(9日)・国分二寺の図を天下の諸国に頒ち下す。 天平宝字4年六月乙丑(7日)、天平応真仁正皇太后(光明皇后)崩りましぬ。… 皇太后、幼くして聡慧にして、早く声誉を播けり。勝宝感神聖武皇帝儲弐とありし日、納れて妃としたまふ。時に年十六。衆御を接引して、皆、その歓を尽し、雅しく礼訓に閑ひ、敦く仏道を崇む。神亀元年、聖武皇帝位に即きたまひて、正一位を授け、大夫人としたまふ。高野天皇と皇太子とを生む。その皇太子は、誕れて三月にして、立ちて皇太子と為る。神亀五年、夭くして薨しき。時に年二。天平元年、大夫人を尊びて皇后とす。湯沐の外、更に別封一千戸と、高野天皇の東宮に封一里戸とを加ふ。太后、仁慈にして、志、物を救ふに在り。東大寺と天下の国分寺とを創建するは、本、太后の勧めし所なり。また、悲田・施薬の両院を設けて、天下の飢ゑ病める徒を療し養す。… 宝亀10年(779)8月○癸亥(26日)、治部省言さく、「今、検造せる僧尼の本籍に依りて、内外の諸寺の名帳を計会するに、国分の僧尼、京に住む者多し。望み請はくは、先の御願に任するひとは皆本国に帰さむことを」とまうす。太政官処分すらく、「智行具足して、情に借に住むことを願ふひとは、願に依りて聴すべし。以外は悉く還せ」といふ。 国分寺創建まとめ 奈良時代に全国66ヵ国と3島(壱岐、対馬、多ネ)に建立された。朝廷発願の官寺で、僧寺を金光明四天王護国之寺と称して東大寺を総国分寺とし、尼寺は法華滅罪之寺(国分尼寺)と称して、奈良の法華寺を総国分尼寺とした。 当時、735年頃から疫病(天然痘)が流行し、米などの作物の不作が続き、また740年には中央政府に不満をもつ藤原広嗣が大宰府で反乱を起した。 聖武天皇はこうした疫病・不作・反乱などの災害や社会不安を、金光明景勝王経と鎮護国家思想で取り除こうとした。 国分寺制は、7世紀末より促進されてきた護国経典の読誦によって国家の安寧を祈る仏教政策の総仕上げで、中央の大寺で展開した国家仏教の画一的な地方伸展の意義をもつ。直接的には律令体制の根幹をゆるがす疫病・飢饉・反乱などの災いを、「金光明最勝王経(最勝王経)」の鎮護国家の思想で消除しようと図ったものであった。 国分寺建立の実際の施策は741年(天平13)2月の勅にあるが、その構想につらなる幾つかの前段階が考えられ、国分寺の性格は複合的であった。 国分寺建立の第1段階は737年3月、諸国に釈迦三尊像1体の造立『大般若経』1部の書写を命じたことに始まり、ついで740年6月に諸国に『法華経』10部の書写ならびに七重塔1区の建立を令し、同年9月には観音像1体の造立と『観音経』10巻の書写を行わしめた。こうしてしだいに構想が整い、741年2月諸国に、七重塔1区造建と『最勝王経』『法華経』各10部書写を重ねて命令し、それとは別に天皇の書写した金字の『最勝王経』を塔の中に納めさせ、かつ僧寺・尼寺の名称を〈金光明四天王護国之寺〉〈法華滅罪之寺〉とし、僧寺には封戸50戸・水田10町、尼寺には水田10町の寺領を施入し、僧20人、尼10人を置くことなどの条例、および願文等を制定した。 国分二寺の造営は、〈国華〉たる七重塔を造るべき僧寺の金光明寺に重点が置かれた。 国分寺の造営は、744年、国ごとに正税4万束を割き取り、これを毎年出挙して造寺用にあてる財政上の措置が講じられてより本格化する。一般には新たに伽藍を建造するか、または既存寺院を転用するかの2様が想定される。いずれにしろ国司と国師の両者に造営の責任が課せられ郡司ら地方豪族にも協力を求めている。 主要建物である南門・中門・金堂・講堂・塔・僧房・食堂等の七堂伽藍の建築には歳月を要し、全国的に整備されたのは宝亀年間(770~780年)の初め頃と推定されている。 760年代半ばごろ国分寺はほぼ全国的に完備し、これ以後9世紀前半にかけての時期は〈修造〉のことが督励された。また国分寺が倒壊・焼亡すれば、律令体制の弛緩や地方財政窮乏という状況下では再建することは困難であったので、国内の定額寺をもって国分寺の代替とする便宜的な措置をとるなど、ともかく国分寺制の維持につとめている。ところが同時期に、鎮護国家の仏事が国分寺のほかに定額寺や国庁でも催されると、国分寺が創建以来の使命とする護国仏教の役割は相対的に軽減した。 やがて9世紀ないし10世紀になれば、国分寺はその存在意義を失って退廃に向かう。939年(天慶2)の太政官符によると、「国分二寺の堂塔雑舎仏像資財等、大破朽損す」というありさまで、平安中期より衰退し、室町時代にはほとんどが遺構を残すのみとなった。 遺構 国分寺の寺域は国の格によって方3.5町(≒380m)の武蔵国、陸奥国の方800尺(≒285m)などの大きなものが多いが、方2町(≒220m)の例が上総、播磨、備中、備後、周防、讃岐、紀伊などと多く、方500尺(≒180m)の出雲と小さいものもあり、志摩、佐渡などの小国はさらに小さいものもある。尼寺は国分寺よりも小さく、常陸、下野、阿波など500尺四方であった。 主要堂塔は南門を入ると中門、中門から出た回廊が金堂にとりつき、後方に講堂、その後に僧房が配され、塔が金堂院の東あるいは西方の外郭に配される例が最も多いが、相模国分寺や下総国分寺のように塔と金堂が併立する法隆寺式配置のもの、中門金堂をつなぐ回廊内の金堂の南東に塔を配する上総、筑前のような例もあり、寺地の地勢とともに各国とも異なって、どれ一つとして同じものがない。尼寺は備中をのぞいて塔がないのが通例で、南門、中門、金堂、講堂、尼坊と中軸線上に並ぶという。 伽藍配置は、寺院の塔堂の位置関係のこと。寺院の性格や時代的特徴を示す。 法起寺は、法隆寺と同じ斑鳩(奈良県)の寺院で、南向きの金堂が西、塔が東に配置されていたことが発掘調査で分かったため、このような配置の寺院を「法起寺式伽藍配置」と呼ぶ。法隆寺は東西の並びが逆で、西に塔、東に金堂の配置を「法隆寺式伽藍配置」と呼ぶ。 法隆寺式伽藍配置 法起寺式伽藍配置 金堂も講堂も間口7間(≒12.6m)奥行4間(≒7.2m)が通例で佐渡のように5間のものもみられる。講堂も間口7間が多いが、下総、相模のように平安時代に9間にひろげられた例がみられる。 塔は10尺(≒3.6m)等間の例が多いが、安芸のように小型のものがあり、すべてが七重であったかどうかはわからない。建築は塔に一番よくあらわれているように、都の建物のように間口の中央間を一番ひろくとり両脇にゆくほど柱間寸法を逓減するというようなきめこまかな設計でなく、等間で両端の廂部分だけ少なくするものが多く、技術的拙劣さが目だつ。 このことは屋根に葺いた瓦にも端的にあらわれる。都より持ち帰った雛形を忠実に模した上総、美作の例はよい方で、隷下の各郡に命じて納めさせた武蔵など各地独自の文様をもつ瓦が用いられる。ただ従来国分寺瓦すべてを奈良時代と考えがちであるが、より古い7世紀の瓦を集めて使ったり、平安時代のより文様の退化した粗悪な瓦も多く含まれていることもあるという。 国分寺の本尊は奈良時代のものは一つも現存せず東大寺にならって毘盧遮那仏かと考えられがちであるが、平安時代以降の現存する本尊のほとんどが薬師如来であり、いま廃寺となって現地に残る小堂も薬師堂と呼ばれるものが多い。 現在、寺院の残るところは陸奥、武蔵、信濃、美濃、備中、備後、讃岐、土佐、筑前など数えるほどしかないという。 私寺の大発展 仏教公伝(538)より100年の後のころ、推古32年(624)に行われた調査によると、寺が46か所、僧尼はあわせて1385人を数えた。持統天皇6年(692)には、全国の寺院数545か寺というから、ものすごい建設ラッシュの大発展があった。 これらの寺院のたいていは、本堂と庫裡と鐘楼くらいの今の簡単な構成ではなくて、本堂・庫裡のほかに塔・講堂・経蔵・鐘楼・僧房・食堂・浴室などをふくむ七堂伽藍の豪華なもので、寺域も広く、1町歩(≒100メートル四方)はあったという。氏寺、私寺と呼ばれるが、その地の豪族が、おのが権勢を誇示する目的で建てたものであった。ただ丹後王国では、これが少なすぎる、今のところ確認されているものは、俵野廃寺の1寺のみである、1郡に1寺くらいはあってもよさそうなものではある。 当時の丹後豪族層の衰退によるものか、それとも現在の史学や考古学の弱さか。 丹後の古代寺院(ネットより)↑ 国分寺は、当時の国によって建てられたもので、仏教公伝(538)より、200年後のことであり、全国先進豪族よりはかなり遅れるものであった。 丹後国分寺丹後国分寺の跡(左は金堂、右は塔)案内板 丹後国分寺跡(国指定史跡)は、府立郷土資料館のすぐ脇、成相寺に登る道の登り口、国分集落の北方、小字本堂屋敷・天王山・ドエなどを含む約1・2ヘクタールの地で、南方に阿蘇海を隔てて天橋立を正面にみる。 その造塔の寺は、兼ねて国華とせむ。必ず好き処を択ひて、実に久しく長がるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠くは、衆を労はして帰集することを欲はず。国司等、各務めて厳飾を存ち、兼ねて潔清を尽すべし。 国分寺の創建以来の歴史をしのぶものとしては、国分寺跡に残る門跡・金堂跡・塔跡と、北方の一段高い山に建つ現・国分寺(真言系単立)に蔵する古瓦片・行道面・鬼面などである。 雪舟の「天橋立図」に」に描かれている。↓中世の再建国分寺 現在の国分寺↓。近世に再再建された。 現在の国分寺について 『与謝郡誌』 護国山國分寺 府中村字国分にあり、本尊薬師如来行基菩薩の開基にて中興開山宣基上人といふ。聖武天皇の朝天平年中諸国に國分寺を置く蓋し當寺は其一なり、本尊胎内金銅佛は光明皇后の御作なりと言傳へ開基六百餘年の後、盗難に罹り京都にて打壊かんとせしとき其槌音丹後に帰りたしといふに似たりとて驚いて中止せし由官庁の耳に入り遂に盗賊捕はれ本尊は當寺に帰りしと、此事後醍醐天皇の叡聞に達し宣基上人に勅して伽藍を再興せしめ給ふとしふ、その建武再建勅使参向に関する古文書今尚ほ存し當時の状勢を窺ふべき屈竟の資料なり、寺宝として鬼の仮面二個あり、天和年中洪水の爲めに諸堂損傷し寺後の山鼻に移したるが今の国分寺なり、旧国分寺金堂、塔、山門礎石等あるも社寺趾の条に譲る。. 丹後国分寺は「弘仁式」によると、寺料2万束が充てられ、これを出挙して得る利稲によって経営されていた。 丹後国田数帳には、与謝郡に「金光明寺 散在十九町二段卅八歩 御免」とあるほか、同郡「石河庄」に「十五町三段十八歩 加松富名 国分寺」がある。同荘にはほかに「十三町六段百九十八歩 国分寺領無現地」も記されている。少なくとも鎌倉後期にはまだかなりの寺領をもっていたことがわかる。 現国分寺に蔵する丹後国分寺再興縁起(1冊)は嘉暦3年(1328)から建武元年(1334)にかけてのこの寺の再建の状況を記している。それによると、鎌倉時代末には国分寺は荒廃し、本尊・金銅薬師が盗難にあって国司が京都に探索にいったこともあった。住僧円源房宣基は再興の志を起こしたが、元弘の戦乱などで中止、後醍醐天皇が伯耆から帰京するに及んで復興し、建武元年盛大な供養が行われたという。その時の金堂が五間四面堂舎一宇というのは現在小字本堂屋敷に残る礎石と合致する。この時の再建堂舎に塔がみえないのは、あるいは塔のみは残っていたためとも考えられる。雪舟筆の「天橋立図」に描かれる塔はこれ。 のちに再び荒廃し、とくに永正4年(1507)の若狭武田氏が細川政元の応援を得て府中城を攻めた時には戦火を被ったと思われる。現存礎石のほとんどが火にあたったあとを残している。 行道面(一面)→は桐製・彩色、縦32・5センチ、横19・7センチ、裏に「金光明寺」「修正円尊」と墨書されている。毘沙門天と伝え、鎌倉初期の作という。 『宮津市史』 丹後国設置以後、国の政庁である国府の諸施設は、丹後における旧来の有力者の本拠地である、野田川中流域(加悦町付近)や竹野川中流域(峰山町付近)に築かれることはなく、特定の政治的意志によるものか、天橋立を見おろすことができる阿蘇海北西岸の台地、すなわち岩滝町男山付近あるいは宮津市府中地区に漸次的に建設されていったのではないかと考えられている。一般的には国分寺・国分尼寺は国府所在地およびその隣接地に造営されるが、丹後国分寺もまたその原則に従い、国分の台地上に築かれたのであろう。阿蘇海・天橋立を見おろすこの地は、まさに聖武天皇の詔にある「必撰好所」の地にふさわしい。
丹後国分寺跡 国指定史跡丹後国分寺跡は、宮津市字国分の台地上に位置する。昭和五年(一九三〇)に国の史跡指定を受け、昭和四十年代前半にかけて、京都府により史跡地の公有化と整備がすすめられた。現在史跡を見おろす背後の丘陵上には、京都府立丹後郷土資料館が所在し、丹後地域の歴史文化の情報発信墓地となっている。史跡指定地はこの資料館の前庭ともなっており、ここからの阿蘇海、天橋立の眺望はすばらしい。 史跡指定地の面積は約一二〇〇〇平方メートルで、指定地の南半部にかけて、金堂跡・塔跡・中門跡と呼ばれる三か所の礎石群が残されている。丹後国分寺は、奈良時代後半の創建以後、平安後期から鎌倉時代にかけていったん衰亡したと思われるが、建武元年(一三三四)、律宗西大寺派の僧宣基によりその伽藍は再興される。室町時代後期には雪舟筆の国宝「天橋立図」に、この国分寺の金堂、塔といった壮麗な堂宇が描かれている。その後江戸時代にいたり、天和年間(一六八一~八四)の大洪水(寺伝に拠る)によって堂字は流出するが、背後の丘陵に寺地を移転し、現在の護国山国分寺としてその法灯を保っている。 史跡指定地とその周辺の小字地名には、本堂屋敷、寺の下、寺大門東、ドエ、トウノ後、西大門、東大門などがある。これらはかつての国分寺の所在と関係した地名であろうが、奈良時代の創建当時の寺域や遺構は現在不明であり、史跡地として保護されている範囲も、寺域の一部に過ぎないと思われる。 礎石群は、金堂跡が三五個、塔跡が一六個、中門跡が二個の礎石により構成されている。礎石はいずれも花崗岩で、火を受けて割れたり、表面が剥離したりしている。 三五個の礎石を残す金堂跡は、正面五間、奥行六間で、復元すると内外陣を有する建物になる。この礎石配置は現国分寺に伝わる、「丹後国分寺再興縁起」(重要文化財)に記される金堂供養指図の配置とほぼ一致することから、嘉暦元年(一三二六)から建武元年にかけて造営された再建金堂であることがわかっている。 塔跡には、一六個の礎石が残されている。礎石は火災にあったためか、表面の剥離や割れが著しい。 中門跡の礎石は約五メートルの間隔で二個が残存しているのみであるが、古相を示す礎石が見られる(杉原和雄「丹後国分寺跡」『史料編』第一巻)。 現在の国分寺跡の遺構は、礎石の配置や形状、また「丹後国分寺再興縁起」の記述から、律宗西大寺派の僧宣基の尽力により、建武元年に落慶をむかえた再興国分寺にかかわるものであることは明らかである。しかしながら、伝金堂跡付近出土と伝える奈良時代の軒丸瓦、軒平瓦の存在や、史跡地周辺の発掘調査でも、少量ながら、奈良時代の瓦や硯など寺院関連遺物の出土がみられ、この地にかつて聖武天皇の詔に基づく天平の国分寺が存在したことは、間違いないものと考えられる。ただし、この天平の丹後国分寺の伽藍配置や規模などの詳細はほとんどわかっていないのが現状である。 丹後国分寺の伽藍・規模 先に記したように、現存の丹後国分寺跡に残る三つの礎石群は建武再興の国分寺にかかわるものであり、天平国分寺の遺構ではない。しかしながら、宣基による再興国分寺が、鎌倉時代には荒廃していた天平国分寺の伽藍配置をある程度踏襲して造営された可能性も考えられる。ここではそのような前提をもととした、天平国分寺の伽藍・規模についての研究を紹介してみよう。 丹後国分寺の伽藍配置や規模については、まず元丹後郷土資料館長の釋龍雄氏の研究があげられる(『新修国分寺の研究』第四巻)。釋氏は、現存の礎石の形状や、他国の国分寺の金堂規模などがら、金堂については、現存礎石の最前列を天平国分寺における金堂の正面最前列としてとらえ、間口五間、奥行四間程度の天平国分寺金堂を想定される。次に、この想定金堂心心を原点とし、中門礎石心心をつなぐ線を南北墓準線、これに直交する線を東西基準線として割り付け、石田茂作氏の寺域の設定に関する研究(『東大寺と国分寺』 地形に応じ方形の伽藍を定め、南北に四等分、東西に八等分し、南北は中央に金堂、中軸線にそい、その上に講堂、下の交点に中門、最南の交点に南大門、また、東西八等分の外から二番目の区画中に塔を配するという国分寺伽藍地割の法則)を参考に、まず中門礎石と想定金堂心心の距離が約三八メートル(一二五尺)であるので、石田説から逆算して、南北の寺域についてはその四倍の一五二メートル(約五〇〇尺)、東西についても一五二メートルのほぼ方形の寺域を復元された。この研究は、検討できる材料がきわめて少ない丹後国分寺の寺域について精力的に取り組んだ、ほとんど唯一の学説として高く評価することができる。 丹後国分寺跡周辺の発掘調査 釋氏の復元案をみても明らかなように、国分寺の寺域は現在の史跡指定地の範囲を越えて広がっているものと思われる。現在まで史跡地内の発掘調査はおこなわれていないが、指定地隣接地においては昭和五十四~平成七年度(一九七九~九五)の間、宮津市教育委員会等が八次にわたる発掘調査を実施している。とくに平成二~七年度の第四~八次調査は、天平国分寺の範囲確認を目的におこなったものである。ここではこれらの発掘調査で得られた知見を簡単に記すこととしたい。なお調査地点の設定にあたって使用した割付線は、中門跡礎石心心を原点とし、これと現存する金堂跡礎石心心とを結ぶ延長線を南北基準線としている。 まず史跡地南方の調査であるが、原点から南へ四〇メートル前後に設定したA地点から弥生時代~中世の遺物が多数出土している。そのなかから小数ではあるが奈良時代の布目瓦や円面硯の破片が見つかっている。硯の出土は、そこに文字を使う人間が存在したことを示すものである。奈良時代に瓦葺の建物で、文字を使う人間がいる施設というと役所あるいは寺院が想定される。したがってこれらの遺物は天平国分寺にかかわるものがもしれない。遺構には、複数の柱穴、土坑などがある。なかでも原点から南に約三九メートル、西に一四メートルの位置の柱穴内部からは柱痕(細立柱の根元)が見つかっており、ここに何らかの建物があったことがわかる。もっとも柱穴列として見つかったものではなく時期も含めその内容は不詳であるが、天平あるいは建武再興時の国分寺にかかおる建物遺構の可能性かおる。またこの地点は釋氏が想定される寺域南限のライン(原点から南に三八メートル)に近いことも興味深い。 次に史跡地西方の状況であるが、史跡地から市道をはさみ西側に設定したD-I地点からは、A地点と同様、弥生~中世の遺物が大量に出土している。奈良時代の遺物は須恵器の杯のほが、底部に墨書がある丹塗土師器も一点見つかっている。遺構では原点から西へ約五七メートル、南へ約三九メートル前後の地点の土塁状の遺構が注目される。この土塁は南北方向に築かれており調査区の幅三メートルにわたり検出された。土塁の幅は約一・八メートルで両側とも溝で区画されており、これは天平国分寺の西限を区切る施設の可能性がある。なお、この五七メートルという数値を南北基準線から東へ反転すると現在の史跡地東限にほぼ一致する。史跡地の東端から東方は傾斜して谷地形となるが、天平国分寺の寺域は地形的制約を受け安定した台地上に設定されたと考えるとこの数字は都合がいい。また、現在史跡地の西側には成相山に源を発する大橋川が流れているが、D-2地点では、南北基準線から西に七二メートル地点を東岸とした旧河道が検出されている。この旧河道の時期は不明ではあるが、奈良・平安時代にさかのぼるものと仮定すると、天平国分寺の西限を河道を越えて西に設定することには無理がある。 史跡地東方の調査のため設定したK地点からは、南北方向の杭列が見つかっている。またL地点からも石組の井戸跡が見つかっている。ただしこれらの遺構は出土遺物から中世後期のものと思われ、建武再興国分寺にかかわる遺構の可能性がある。 その他の調査区においても、遺構・遺物は見つかっているが、A地点やD-1地点に比べると遺物の出土量は少なく、遺構の密度も低くその性格も不明なものが多い。また全調査区を通じていえることであるが、天和年間の洪水による堂宇流失の伝承からも裏付けられるように、この地は土砂の流入・流出による土層の乱れが著しく、各調査区で検出される遺構の時期や性格がつかみがたい。以上のように五次にわたり実施した史跡隣接地での範囲確認調査では、新たな発見もあったが、天平国分寺の寺域を明らかにするには至らなかった。 府中地域は、背後に標高五四六メートルの成相山を抱え、阿蘇海までの狭小な扇状地形を流れる短い河川は、たび重なる氾濫と山崩れをおこしている。したがって当地では、集落は土石流に強い台地上に集中することになる。このような地形的制約により、この地に諸国に比して大きな国分寺伽藍を築くことは困難ではなかったかと考えられる。いずれにしても謎の多い丹後国分寺の実態を明らかにするためには、中心伽藍が所在するであろう史跡地内の発掘調査が必要であろう。 中野遺跡と国分尼寺 丹後国分寺跡から、東北に約一キロ離れた地点に所在する中野遺跡は、縄文時代から中世にかけての遺構や遺物が出土する複合遺跡である。遺跡は字中野の台地上、京西約二五〇メートル、南北二〇〇メートルの範囲にわたる。遺跡内に所在する墓地の整備にともない布目瓦や多数の奈良時代の土器片が出土したことや、付近の小字に「法花堂」などの地名が残っていることから、付近に丹後国分尼寺跡の存在の可能性があるとして、宮津市教育委員会が、昭和五十四年がら四次にわたる発掘調査を実施した。調査の結果、国分尼寺の存在を確証づける遺構の検出はできなかったが、奈良時代の軒平瓦や硯、墨書土器など多数の遺物が発見された。いずれにしても同時代の通常の集落遺跡とは質を異にすることは明らかであり、国分尼寺跡としての可能性は留保しつつも、丹後国府の設置とかかわって営まれた遺跡である可能性は高い(第二節参照)。 中野遺跡からは奈良時代の遺物のほか、平安時代から室町時代にかけての中国製の陶磁器など、当時としては高価な遺物が多数出土し、その質・量は丹後の同時代の遺跡と比べて群を抜いている。この地は奈良時代に国府が、中世には守護所が置がれたと考えられる、丹後国の政治・経済の中心の一角に当たるが、地下に埋もれた遺跡からもそのことを傍証することができる。その中世の都市景観は、一五〇〇年前後に描かれたとする雪舟筆の国宝「天橋立図」に詳細に描がれており、今に生きる私たちに往時のこの地の繁栄を偲ばせる。 鎌倉時代の丹後国分寺建久二年(一ー九一)回三月の公家新制では、諸国司に国分僧尼二寺の修造を命じているが、もとより実効は期待できなかったようである。弘長三年(一二六三)の公家新制にみられるように、鎮護国家三部経典の一つとされる金光明最勝王経を諸国国分二寺で転読(経典の主要な一部分を読誦すること)させようにも、「近来国分二寺の礎石全うならざれば、便宜の堂舎」を転用するように命じなければならない有様であった。 鎌倉時代の丹後国分寺の詳しい様子はわからないが、『丹後国惣田数帳』では与謝郡内に「金光明寺 散在十九町二段三十八歩」「法花寺 四町一段三十六歩」とある。通説のように金光明寺を国分寺、法花寺を国分尼寺と解釈すれば、鎌倉時代にいたっても丹後国には国分僧尼二寺が存在していたことになるが、尼寺についてはこれ以上のことは明らかでない。これにたいして僧寺のほうは散在一九町二段三八歩とあるので、成相寺と同様に丹後府中近在の寺周辺に散在所領が点在していたものといえよう。しかし、鎌倉時代末期の国分寺境内は荊や雑草に覆われ動物たちの住処となり荒廃に任せるままで、本尊までもが賊に盗まれ京都まで売り飛ばされてしまう有様であった。463(平成四年に重要文化財に指定された国分寺蔵の『丹後国分寺再興縁起』から鎌倉時代末期の丹後国分寺の再興前の状況を見ておこう。この『縁起』は鎌倉時代後期の嘉暦年間から建武元年(一三三四)に至る国分寺再興の経過を詳述したものである。 鎌倉時代の丹後国分寺における荒廃の状況を、『縁起』の各所で次のように述べている。 ○最初合力の僧衆……わずかに草庵を結び、郁々たる雲霧を防ぎ、ただ柴戸を細んで颯々たる蕭瑟を遁るるばかりなり ○伽藍は荒廃して狐狼の薗となり、仏閣は乱墜して雉兎の栖となる。しかる間ある時盗人ありてこの(丹後国分寺本尊)金銅の尊容を取り奉り、京都においてある人にこれを売りおわんぬ。 ○(中興の祖宣基上人が)先年旅行のついでをもって、当寺(丹後国分寺)の荒廃の体を見るに、荊棘は路に埋るるなり、給孤独の露は袂を湿す。松柏は砌を残すなり。那蘭陀の月は肝を摧く。寺舎の頽落を見るどとに再興の思いは誠に切なり。尊容の破壊を拝むごとに興行の願いはいよいよ深し この『縁起』は、丹後国分寺の再興を所願した奈良西大寺派勧進僧の宣基上人の活躍を述べているため、文章表現は多分に文学的な誇張も見られるが、建武再興前の国分寺の状況は十分にしのぶことができよう。 丹後国分寺の再興供養 いわゆる建武新政は、後醍醐が天皇として復活し、正慶年号ならびに光厳天皇を廃したとされる元弘三年五月十七日(施行は二十五日)に事実上開始される。この時点で、後醍醐はなお上京途上にあり、鎌倉幕府も鎮西探題もいまだ陥落していなかったが、京ではこの日公卿の新人事が断行され、後醍醐の近臣公家らが復権を遂げていたのである(『公卿補任』)。五月二十九日、書写山(兵庫県姫路市)にあった後醍醐は、若狭国国富荘地頭職を官務小槻匡遠に給与する旨の綸旨を下す。これが、現在確認できる建武新政府最初の行政文書であり、「綸旨万能」と称される後醍醐の天皇独裁政権構想はここに始まるのである。 そして、この新時代の到来は丹後にも鮮烈なかたちで伝えられることになる。建武元年(一三三四)四月に挙行された丹後国分寺の華麗な再興供養の儀式がそれである。そもそも、この丹後国分寺再興は、嘉暦元年(一三二六)三月、国分寺長老宣基の発願により勧進が開始され、翌二年四月には「今上皇帝」であった後醍醐が綸旨をもってその興行を命じて再興の槌音が響くことになった事業である。造作はおそらく討幕戦争のなかをも継続され、ついに落慶供養の日を迎えたことになる。丹後国分寺が再興に費やした日々は、後醍醐にとっては再起への日々となった。後醍醐白身が供養に参列することはなかったが、その感慨はひとしおのものがあったと想像される。 供養の大願主は国司洞院公賢であった。勅使として藤原光遠(公賢室で後醍醐の乳母となった光子の兄)。国衙からは権介藤原助忠らの在庁官人が参列した。したがって、この儀式は、一寺院の落慶供養であることを超えて、丹後における建武新政府の政治セレモニーとしての意味合いをもつことになった。しかも、武家の関与はほとんどなく、文字通り公家一統の政治がこの丹後において順調に滑りだしたことを丹後国内に示す絶好の機会となったのである(なお、丹後国分寺再興についての詳細は本章第三節参照)。 建武二年七月、大谷寺衆徒ならびに一宮籠神社供僧らが大谷寺を勅願寺とするよう新政府に請願する(一四八)。衆徒・供僧らの主張は、後宇多院(後醍醐の父)のとき寺内金剛薩埵院が勅願所となっていることを根拠に、総寺をもって勅願所とすべしということにあった。しかし、なによりも、後醍醐は新政府の基本政策のひとつとして一宮・国分寺興行を掲げており、そのうえ国分寺再興供養の記憶も新鮮な機をとらえての請願であることに注目するべきであろう。 こうして丹後では、鎌倉時代後期に実績をのこす洞院家による国衙支配が継続し、一宮・国分寺の興行が推進されるなど、後醍醐の政治構想がきわめて順調に実現していくことになる。討幕戦争を乗りきった日置氏・佐野氏・山田氏なども、おそらくは鎌倉幕府成立以前からの伝統をさらに引き継ぐかたちで国衙行政に参与していったものと推定される。鎌倉幕府が倒壊した結果、御家人の号もまた現実の機能を失うことになった。鎌倉時代に六波羅探題の催促をうけて再三上洛した日置氏は、その着到状などには丹後国御家人日置某などとみずからの名乗りを表記したが、元弘三年五月に上洛し足利高氏の陣に着到を遂げたときには御家人の称は用いていない。同時期に他国から着到を遂げた武士たちの多くが、なお御家人の称を表記していることと対照的でさえある。 『宮津市史』↑ 釈龍雄氏復元案図(ネットより)↑ 「天平の古道」の案内板。幅1メートルばかりの土道で車はムリ 右のお寺は妙立寺 この小路を北限として、西から国分寺、国府、国分尼寺が建っていた、のではないかと、見られる。 「天平の古道」が一番山手側(北側)の条理線(一条か?)だとすると、これより1町海側に並行して直線道路(二条?)があり、そのまた1町海側に国道178号の直線道路(三条?)が通っている。(ほぼのアバウトなハナシでピッタリと今もそのままあるのではない)、これらに直交する南北線が幾つもある。条里の跡でないかと思われる。こんな田舎にアレ~ッ(失礼。素朴な疑問)。見事な直線道と直交する交差点がある。古代条里制の遺構としか考えようがない。これに基づいて班田を行うのだから、これは当時の国家にとっては生命線でもある。 だから創建国分寺の中心線も、条理の方向にピッタリ合っているのでないかとみて、なんの必要あって、こんなに傾くのかと、正南面でもないようだし、地形的には全体として海に向かって傾斜していて、さらに丘あり谷あり川あり、平らな所ではない、と難しい土地ではあるが、中心線を傾けてもその難題は解消しそうにもない、南限は今の国道178号に沿っているだろうと見て、ワタシは図49は納得しにくいのである。 もし、釈氏復元図のように本当に寺院中心線と条理線が合わないのなら、これはもしかすると、条理線以前に建てられたものではないか、もともとここには正南面して在地豪族(海部氏か?)の氏寺が建っていた、それを国分寺として改修しリサイクルしたものかも知れない。飯役社と中野遺跡のあたりにも条理線とは別の正東西南北線のようなものが見られる、注意が必要な遺跡かと思われる。 音の玉手箱
Brahms - Hungarian Dance No.1 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2024 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |