丹後の地名プラス

そら知らなんだ

仏教伝来①
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -89-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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伝承郷土芸能②
伝承郷土芸能③
伝承郷土芸能④
伝承郷土芸能⑤
伝承郷土芸能⑥
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玉砕の島①
玉砕の島②
仏教伝来①
仏教伝来②





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

仏教伝来

仏教の始まり

仏教は、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)を開祖として説かれた教えで、紀元前6世紀に始まり(2500年ほど前)、マガダ国(摩訶陀国。現在のインドのビハール州)を中心とした古代インドの東部地域において発生した。その後、インド亜大陸の北西部を経て中央アジアや東アジアに展開、また東南アジアにも展開し、各地域の各文化に影響を及ぼす。
たとえば舞鶴の文化財(国指定)

時代を越え国境を越えて認められるであろう普遍的価値の高い舞鶴の文化財は、まぁハッキリいえば仏教関係しかない。それ以外の「教え」に基づくような「文化財」は、地元においてすらも批判があり、隣国に反対されること間違いないようなことで、国境も時代も超えられるような強力な普遍的高さの価値はありそうにはない。あたかも強力そうでいて実はまったく無力な空疎なものでしかなかろう。こんな物を有り難がる空疎な時代の象徴として見れば、それなりの一時の価値があるりかも…

仏教の教えの基本(超簡単に)
数多くの教えがある、「四法印」「八正道」。
四法印(しほういん)と四諦(したい)
四法印とは、仏教の根本理念となる考え方のこと。「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」「涅槃寂静」の四句に要約されることから、四法印と呼ばれる。
諸行無常  すべてのものは変化する
一切皆苦  人生で苦しみは避けられない
諸法無我  固定された自我はない
涅槃寂静  煩悩や苦がない安らかな世界(悟りの境地)が存在する
悟りに至るための4つの修行を四諦と呼ぶ。
苦諦 くたい この世のすべてが苦であるという真実
集諦 じったい 苦が多いのは、煩悩(尽きることがない欲望)があるからだ
滅諦 めったい 苦しみの原因である煩悩を絶つことで心理である涅槃にたどり着く
道諦 どうたい 涅槃にたどり着くには、八正道を実践しなければならない

何でもそうだろうが、頭の知識だけではダメで、(ぎょう)(実践行動)が伴わいと本物にはなれない。若いときから、行の積み重ねを行え、そこから学ぶことは書からの知識以上のものがある、というのは、今の日本社会が学ぶべき第一の教えではなかろうか。口先だけエラそうに言っているだけでは何も変わらない、自分自身すら変えられない。
八正道(はっしょうどう)
正見 しょうけん  自分がするべきことを正しく見定めること
正思 しょうし  怒りや憎しみにとらわれず、正しく物事を考えること
正語 しょうご  嘘や偽りをのべず、正しい言葉を使うこと
正業 しょうごう  盗みや殺生をせず、正しい行動をすること
正命 しょうみょう  悪事などを行わず、正しい仕事をすること
正精進 しょうしょうじん  正しいことに向かって、正しい努力をすること
正念 しょうねん  常に審理を求め、正しい決意をすること
正定 しょうじょう  正しい心を保つこと
8つの正しい教えを守ることで、人は煩悩を滅して涅槃にたどり着けると考えられる。

仏教では仏陀の説いた教えに従い、僧侶や在家信者それぞれの立場で修行・実践して悟りや解脱(涅槃)を成道することを目標とする。仏教徒として実践すべき、最低限の教えであろうか。

ガンダーラ

教団(サンガ)を作って、教えを伝え広め後輩の育成に努めたのであるが、お釈迦様の入滅後、百年ほども過ぎると、教団は分裂しはじめる。百年もたてば世の中が変わり、その対応で意見が分かれる。お釈迦様の教えだから、このままに行こうという保守派(上部部)と革新派(大衆部)に大きく二つら分裂し、さらに小さく再分裂を繰り返す。
大乗仏教と呼ぶのは革新派の方で、日本などに伝来した。小乗仏教と呼ぶのはお釈迦様の教えを忠実に伝え行おうとした保守派の方で、これは東南アジアなどに伝播した。
小乗仏教側から言えば、ワレラニッポン仏教は権力になびいていった堕落したニセの仏教となるかも知れない。お釈迦様の時代とは違うし、インドと日本では社会が違う、お釈迦様そのままというわけにもいかない。


アショカ王の時代
マウリア朝は、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝である。紀元前317年頃、チャンドラグプタによって建国された。第3代のアショカの時に全盛期を迎える。
南方のカリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショカはカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。
アショカが仏教を深く信仰したことは数多くの証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策は終焉を迎えた。仏教に基づいた政策を実施しようとした彼はブッダガヤの菩提樹を参拝すると共に、自分の目指したダルマに基づく統治が実際に行われているかどうかを確認するために領内各地を巡幸して回った。アショカの事跡は後世の仏教徒に重要視され多くの仏典に記録される。

カニシカ王の時代
仏教全盛時代のガンダーラ
クシャーナ朝の支配下でガンダーラは黄金時代を迎える。ペシャワル渓谷とタクシラにはこの時代の仏塔と仏寺の遺構が数多く見られる。カニシカ王(在位:128年 - 151年)統治下にガンダーラ美術は繁栄し、多くの仏教建造物が建立された。カニシカ王は仏教が中央アジアから極東にまで広がりを見せることになった最大の功労者だった。王のもとで、ガンダーラは周辺文明の中心となり、その地で栄えた仏教美術はアジア全域に広がった。ペシャワルには120メートルもの巨大な仏塔が建立されたほか、数多くの仏教遺跡が残り、後世、東アジアからの巡礼地として神聖視された。カニシカの死後、王国は東方領土を失い始め、西方ではサーサーン朝の支配下に入った。しかし、クシャン族の族長の元で新しい仏塔は建立され続け、旧来のものは拡張された。仏寺には大仏像が建てられ、断崖には磨崖仏が彫られた。
カニシカ王は、ペシャワルを仏教研究の中心へと発展させた。当時としては最大級の釈迦の遺骨を納めるストゥーパを建設する一方で、ペシャワル旧市街には、Ganj Gate→と呼ばれる門を建設した。
カニシカ王が建設したストゥーパは、アフガニスタンの山々からガンダーラ平原に降り立った人々を大いに驚嘆させる建築物であったと伝えられている。400年ごろ、中国から経典を求めてインドへ旅した僧法顕は、カニシカ王のストゥーパについて記録した。ストゥーパの高さは約120mであり、その美しさは類を見ないものであると記録した。玄奘がペシャワルを訪問したのは、634年であるが、そのころにはペシャワルの仏教寺院はかなり荒廃が進んでいたとされる。

ストゥーパ
「ストゥーパ」はサンスクリット語(梵語)で、ものが堆積して高くなり目立つという意味で、そこから土を半球形に盛った「塚」を指すようになったという。中国語に音写されて卒塔婆、略して塔婆、塔とも呼ばれる。
お釈迦様が亡くなりになったとき、ご遺体は荼毘に付された。 そして遺骨(仏舎利)は8つの国の王に分骨された。 遅れて来た2つの国の王には遺灰と骨蔵器を分け与えたと言い、 つまり、お釈迦様がお亡くなりになった後、10基のお墓が造営された。
仏教においては、釈迦(ブッダ)の遺骨である「仏舎利」を納めた塚を「ストゥーパ」と呼び、重要な信仰対象となったのです。「仏舎利」とは、遺骨や遺体を意味する「シャリーラ(あるいはサリーラ)」の音写。
後にアショカ王が8分骨されていた仏舎利を回収し、 自らの手で今度は8万4千に再分骨したと言わる。 この時期になって、お釈迦様のお墓は一気にインド全土において8万4千基も造営された。
この頃のストゥーパは土を固めて半球形に盛り上げたり、 あるいはレンガや石を半球形に積み上げたりして、まるで饅頭のような形状をしていた。インドのサーンチーには紀元前3世紀に造営されたストゥーパ→があって、 周囲にはお釈迦様の前世の善行をモチーフとした本生譚(ジャータカ)や、 仏陀の象徴としての輪宝、菩提樹、蓮の花などの見事なレリーフが残されている。

仏教がインドから中国に伝わると、お釈迦様の教えとともに、 建築、美術を始め、多くの知識、技術が中国にもたらされた。 ストゥーパも盛んに造営された。しかし、その形状は多層化し、方形化していく。
仏教が朝鮮半島を経て日本に伝来すると、日本で最初に建立された塔婆はどのようなものであったか。 『日本書紀』の記録では、蘇我馬子が建てた「大野丘の北の塔」で、その形状や規模は不明。
古代において、寺院を建立する場合、 塔婆は境内の中心部に建てられた。それは塔婆が釈尊のお墓であり、 仏舎利崇拝の施設であるからである。時代が降るにしたがって、仏舎利崇拝から仏身崇拝となり、 塔婆は境内の中心部からだんだんと離れ、 その代わりに仏像を奉安する金堂がその位置を占めるようになる。 鎌倉時代からは塔婆はお寺のシンボルであるとともに、檀越の権威の象徴となっていく。
今となれば、塔のあるお寺はめったにはないものとなる。
伽藍配置


中国
インドと中国は、地理的には隣同士であるが、国境一帯には大山脈や大砂漠がある。シルクロードを通り西のペルシャ側から大回りするか、南側の海路を行くしかなく、隣といえど遙かな遠国である。
両地域は太古から高度な文明が栄えた先進地域で、それぞれ独自の思想や文化が発展していた。中国には中華思想があり、「西戎」の宗教であり思想である仏教が伝来し受容されたことは、仏教の普遍性と高さの証であろうか。
後漢のころ西域を通じて大乗仏教が伝えられ、魏晋南北朝時代に独自の発展を始め、唐代に隆盛し、多くの宗派が形成される。さらに朝鮮、日本の仏教にも大きな影響を与えた。
仏教が、中国に伝来した時期は、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされる。最初の信者となったのが後漢の明帝(在位57年~75年)の異母弟楚王英であり、皇帝としての最初の信者は後漢の桓帝(在位147~167年)であった。後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られて、不老長寿の霊力のあるものとして信じられた。仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられたのであった。

仏教経典が伝えられられたのは3世紀の西晋時代で、敦煌に住む月氏の人、竺法護(233年~310年)が初めて多くの大乗仏教の経典を漢訳した。彼の翻訳した『正法華経』は観音信仰の広まる基礎となり、また『維摩経』は竹林の七賢などの清談にも影響を与えた。次いで西域から渡来した西域僧の仏図澄は310年に洛陽で、インド僧鳩摩羅什は401年に長安で布教を行い、大乗仏教の本格的な受容が始まる。
さらに法顕はグプタ朝時代のインドに赴き『仏国記』を書いた。このようにインドとの間の僧侶の交流が盛んとなり、大乗仏教が伝えられた。そのため5~6世紀の中国の仏教は急速な発展を遂げた。仏図澄の弟子の道安は中国で最初の仏教教団をつくり、さらにその弟子の慧遠は中国の浄土教信仰の祖となった。

北魏の仏教 5世紀の前半に北魏の太武帝が華北統一を進める中で、北涼国を滅ぼしたとき、そこにいた僧侶3千人を捕虜とし、多数の北涼国人とともに首都平城に強制移住させたころから、北魏の国内に広まった。446年には、道教信者となった太武帝による弾圧(法難(廃仏))が行われた。しかし次の文成帝の代から再び仏教は盛んとなり、北魏の都平城の近郊の雲崗に巨大な石窟寺院が造られた。さらに孝文帝による洛陽遷都後は、貴族にも信者が増え、宣武帝・孝明帝はみずからも仏教を信仰して保護したため、仏教は大いに隆盛し、都洛陽には多くの寺院が建設された。洛陽には北魏の末に1367の寺院があり、都市の3分の1は寺院に占められたという。また洛陽郊外の竜門の石窟はその盛況を物語る。
南朝の仏教 南朝では梁の武帝の保護もあり、民間に定着した。武帝は自ら「三宝の奴」と称し、仏教を保護し、多くの寺院を建立した。その仏教が盛んであったことは、“南朝四百八十寺”と謳われたことでも知られている。南朝の宋の仏教は朝鮮にも影響を与えており、また南朝と外交上の接触を持った「倭の五王」を通じて、日本仏教にも影響を与えた。また、伝承ではこのころ、インドから渡来した達磨が禅の修行を伝え、のちの禅宗の始祖となったという。
隋唐 次の隋・唐時代はともに仏教を保護し、国家統制も加えられ国家との結びつきを深めた。唐の仏教は鎮護国家仏教としての基本的性格をもっていたが、玄奘や義浄のようにインドに赴いて多くの大乘仏教の経典がもたらされたことにもよる。それによって中国仏教は独自に展開し、天台宗、浄土教、密教、禅宗などの教団が成立しのがこの時代である。一方で唐王朝は道教を国教として保護した。道教は唐王朝の王室が信仰し、仏教は貴族層に受けいられrていたが、仏教と道教はたびたび対立し、唐の後半になると、845年の会昌の廃仏といわれる武宗の廃仏が行われ、仏教は打撃を受けた。北魏、北周、唐、次の五代の間の仏教弾圧をあわせて「三武一宗の法難」というが、規模、意義から言ってこの時の弾圧が最も重要である。この弾圧によって仏教に対する国家的保護の時代が終わっただけでなく、唐代に栄えた外来宗教である景教(ネストリウス派キリスト教)、ゾロアスター教(祆教)、摩尼教がいずれも中国で実質的に消滅するきっかけとなった。
宋 10世紀以降の宋代に仏教は復興し、禅宗、浄土宗、密教、天台宗、華厳宗などが再び盛んになった。特に禅宗はめざましく発展し、新興階級である士大夫の支持を受けて他の宗派にかわって仏教の主流となり、12世紀に臨済宗や曹洞宗など多くの宗派に分かれた。禅宗は儒教の宋学の形成にも強い影響を及ぼし、いずれも朝鮮や日本に伝えられ、それぞれの文化形成に大きな存在となった。また、民間では阿弥陀信仰が盛んになり念仏によって極楽浄土に往生するというわかりやすい教えが浸透した。なお宋代には木版印刷が普及して膨大な経典を集大成した「大蔵経」が刊行されている。禅宗は士大夫層に受け入れられたのに対し、浄土宗系は民間信仰と結びついて民衆に浸透していった。
元 13世紀に中国を支配した元は、モンゴルの時代からチベット仏教に帰依していたので、チベット仏教を国教とし、フビライはチベット僧パスパを国師とした。一方、中国在来の宗教に対しては寛容であった。首都大都を始め各地にチベット仏教寺院を建て、篤く保護したがそのため支出がかさみ、元の財政を圧迫した。異民族支配が続く中、宋代に始まるという阿弥陀信仰の結社である白蓮教が民衆の反モンゴル感情と結びつき、さらに弥勒仏が現れて民衆を救済するという下生信仰が生まれて、元に対する紅巾の乱が起こった。
明・清 明代にも白蓮教は邪教として弾圧されながら存続し、清中期には白蓮教徒の乱を起こす。これらは仏教と道教などの民間信仰が混合したものであり、仏教そのものとしては禅宗と浄土教の融合が進んだが、次第に衰退した。

朝鮮
高句麗では372年(小獣林王)6月に中国の前秦の皇帝苻堅が僧順道と仏像・経典を伝えたのが始まりとされている。374年には南朝の東晋の僧阿道が来て普門寺など二寺を創建した。
百済では384年(枕流王元年)に、東晋から僧摩羅難陀が来ると、王は宮中に迎えて教えを聞き、深く仏教を信じ、翌年都の漢山に仏寺を建てたことに始まる。
新羅では5世紀に高句麗より民間に伝えられた、公認は高句麗・百済よりかなり遅れ、法興王の時、527年に反対を押し切ってようやく仏教を公認したとされる。これは新羅では土俗的なシャーマニズムの力が強かったためと思われる。
三国時代には儒教も伝えられたが、三国とも国家鎮護のために仏教を保護するという政策を採った。また、日本への仏教伝来は、朝鮮半島南部をめぐり新羅と対立していた百済が、倭(日本)との政治的結びつきを強め、その支援を受ける代償として新しい文化を提供するという背景で行われた。それは、6世紀の聖王(日本書紀では聖明王)の時、538年(あるいは552年)であった。

日本
仏教公伝
6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。しかし、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、逼迫した状況にあり、新羅に対抗するため、さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していた。百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、大陸の先進文化を伝えることで交流を深めること、また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があったという。

公伝年代をめぐる諸説
日本への仏教伝来の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あり、現在では 538年が有力とされている。
『日本書紀』(720成立)
十三年の
 冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏逹率怒唎斯致契等を遣して、釋迦佛の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干卷を獻る。別に表して、流通し禮拜む功徳を讃めて云さく、「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れています。解り難く入り難し。周公・孔子も、尚し知りたまふこと能はず。此の法は能く量も無く邊も無き、福徳果報を生し、乃至ち無上れたる菩提を成辨す。譬へば人の、随意寶を懷きて、用べき所に逐ひて、盡に情の依なるが如く、此の妙法の寶も然なり。祈り願ふこと情の依にして、乏しき所無し。且夫れ遠くは天竺より、爰に三韓にいたるまでに、教に依ひ奉け持ちて、奪び敬はずといふこと無し。是に由りて、百済の王臣明、謹みて陪臣怒唎斯致契を遣して、帝國に傳へ奉りて、畿内に流通さむ。佛の、我が法は東に流らむ、と記へるを果すなり」とまうす。是の日に、天皇、聞し已りて、歡喜び踊躍りたまひて、使者に詔して云はく、「朕、昔より來、未だ曾て是の如く微妙しき法を聞くこと得ず。然れども朕、自ら決むまじ」とのたまふ。乃ち群臣に歴問ひて曰はく、「西蕃の獻れる佛の相貌端巌し。全ら未だ曾て有ず。禮ふべきや不や」とのたまふ。蘇我大臣稻目宿禰奏して曰さく、「西蕃の諸國、一に皆禮ふ。豐秋日本、豈獨り背かむや」とまうす。物部大連尾輿・申臣連鎌子、同じく奏して曰さく、「我が國家の、天下に王とましますは、恆に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拜りたまふことを事とす。方に今改めて蕃神を拜みたまはば、恐るらくは國神の怒を致したまはむ」とまうす。天皇曰はく、「情願ふ人稻目宿禰に付けて、試に禮ひ拜ましむべし」とのたまふ。大臣、跪きて受けたまはりて忻悦ぶ。小墾田の家に安置せまつる。懃に、世を出づる業を修めて因とす。向原の家を浄め捨ひて寺とす。後に、國に疫氣行りて。民夭殘を致す。久にして愈多し。治め療すこと能はず。物部大連尾輿・中臣連鎌子、同じく奏して曰さく、「昔日臣が計を須ゐたまはずして、斯の病死を致す。今遠からずして復らば、必ず當に慶有るべし。早く投げ棄てて、懃に後の福を求めたまへ」とまうす。天皇曰はく、「奏す依に」とのたまふ。有司、乃ち佛像を以て、難波の堀江に流し棄つ。復火を伽藍に縱く。燒き燼きて更餘無し。是に、天に風雲無くして、忽に大殿に災あり。

古典文学大系本の頭注
この条は仏教公伝の記事として有名であるが、これを帝説・元興寺縁起では欽明七年戊午(538)(戊午は紀では宜化三年)のこととする。壬申とし戊午とするのは、いずれも革命説によるとする説もあり、この条全体が事物起原説話にすぎないとする説もある。
帝説には「仏像経教并僧等」。元興寺縁起には「太子像并潅仏之器一具及説仏起書巻一篋」とある。
以下は唐の義浄が長安三(703)年に訳した金光明最勝王経の文を用いて構成したもので、明らかに書紀編者の修飾。僧道慈の作文とみる説がある。元興寺縁起に「当聞。仏法既是世間無上之法。其国亦応修行也」とあるのが、原史料に近い形であろう。初めの部分は最勝王経如来寿量品の「是金光明最勝王経、於諸経中、最為殊勝。難解難入。声聞独覚、所不能知。此経能生無量無辺福徳果報、乃至成弁無上菩提」による。

『金光明最勝王経』は、欽明期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世人の文飾と見られ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性は疑われている。
これ以前より仏教は渡来人とともに私的な信仰として日本に入っているし、さらにその後も何度か仏教の公的な交流はあったと見て、公伝の年次確定はあまり意義がないとする論者もあるし、絶対といえる典拠がない。
『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)には、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力とする説があった。
これら二書は書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも含めて説の支持理由とされていたが、その後の研究でこれら二書の記述に淡海三船の漢風諡号が含まれていることが指摘され、書紀編纂以降に成立していたことが明らかとなった。そのため作為のない典拠であるとは断言できなくなり、したがって論拠としては弱くなってしまった。
伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。
また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。しかし上表文の存在そのものは、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文そのものはあったとする見方がある。
伝来が欽明治世期間中だったかどうかとは別に、欽明治世時期自体にも諸説あり、したがって伝来年も不明ということになる。

百済から公式に伝来した仏教ではあったが、その後の日本における受容の経緯は順調とは言えなかった。
欽明天皇は、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。
欽明に続く用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが、欽明天皇代と同様の理由により物部守屋は猛反対した。用明天皇が正式に帰依を表明したきっかけが自身の病気であることである。これは、神祇・神道が持つ弱点であった穢れに対する不可触-病や死などに対処するための方策として仏教が期待され、日本における仏教受容の初期的な動機になったことを示している。その後、蘇我氏が支援した推古天皇が即位。もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。推古朝では、馬子によって本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺・飛鳥寺が建立され、また四天王寺・法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされる。しかし、この時期において仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、仏教が国民的な宗教になったとは言い難い。
奈良時代には鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、東大寺大仏の建立、鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、本格的な普及には遠かった。

国分寺建立の聖武天皇の詔
 (『続日本紀』天平13年(741)3月乙巳(24日)条)
私は徳の薄い身であるのに、おそれ多くも天皇という重い任務を受けている。しかし、民を導く良い政治を広めることができず、寝ても目覚めても恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。昔の賢い君主は、みな祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家はおだやかで無事であり、人びとは楽しみ、災害はなく幸福に満ちていた。どうすれば、このような政治ができるのであろうか。この数年は、凶作がつづき伝染病が流行している。私は恥かしさとおそろしさで自分を責めている。
 そこで、万民のために大きな幸福を求めたい。以前(天平9年11月)、各地の神社を修造させたり、諸国に丈六(一丈六尺=約4.8m)の釈迦牟尼仏一体を造らせるとともに、大般若経を写させたのもそのためである。おかげで、今年は春から秋の収穫の時期まで風雨が順調で五穀も豊かに稔みのった。これは、誠の心が伝わったためで、神霊のたまわりものである。その霊験はまったくおそろしいほどである。金光明最勝王経には『もし広く世間でこの経を読み、敬い供養し、広めれば、われら四天王は常に来てその国を守り、一切の災いもみな取り除き、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた消し去る。そしてすべての願いをかなえ、喜びに満ちた生活を約束しよう』とある。
そこで、諸国にそれぞれ七重塔一基を敬って造り、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経を各十部ずつ写経させることとする。私もまた、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めたいと思う。これにより、仏教の教えが大空・大地とともにいつも盛んに続き、仏のご加護が現世でも来世でも常に満ちることを願う。
七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選んでまことに長く久しく保つようにしなければならない。人家に近いときは悪臭が漂うような所ではよろしくないし、遠いときは集まる人を疲れさせてしまうようでは望ましくない。国司は国分寺を荘厳に飾り、いつも清潔に保つように努めなさい。間近で仏教を擁護する神々を感嘆させて、神仏が進んでこの国を守護してくださるようになってほしいのだ。全国にあまねく布告を出して、私の思っていることを知らせなさい。

丹後国分寺
創建期の古代国分寺の伽藍については所在も含めて詳らかでない。遺物としては軒丸瓦・軒平瓦の2点があり、その文様は山城地方の普賢寺跡(京田辺市)出土瓦や山陰地方の国分寺跡出土瓦と一致する点が注目される。

再興された中世国分寺の伽藍遺構は、現郷土資料館の南の史跡地に遺存する。金堂・中門が南北に並び、その西方に塔を置く伽藍配置になる。


金堂
本尊を祀る建物。門を入った正面に位置する。現在は礎石35個を遺存し、「本堂屋敷」という地名が残る。礎石配置は間口(南北面)5間・奥行(東西面)6間で、『丹後国分寺再興縁起』との一致が認められる。

寺域西に位置する。現在は礎石16個を遺存し、「塔屋敷」という地名が残る。『丹後国分寺再興縁起』に記述はない(再興前から遺存、または縁起後に完成か)。「天橋立図」では五重塔が描かれるが、戦国時代には火災で失われている。
中門
寺域南に位置する。現在は礎石2個を遺存する。『丹後国分寺再興縁起』に記述はない。
中世国分寺跡の伽藍を知る史料としては雪舟の「天橋立図」が知られる。同図の金堂・塔・中門の相対的位置は、現在の礎石群とも一致する。





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In a Persian Market


Ketelbey, In a Persian Market , ケテルビー:ペルシャの市場にて (youtube.com)
(95) In a Persian Market. Albert W.Ketelbey. Edited by Marino van Wakeren, - YouTube
(95) KETELBEY_In a Persian Market ،1/2 - YouTube

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