

少年易レ老学難レ成、一寸光陰不レ可レ軽
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上、生物の寿命上、言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。
舞鶴湾には大きく東西に二つの浦がある。
枯木浦は、今で言う東舞鶴湾のことである、白糸湾とも呼ぶ。戸島上空より枯木浦方向↓

『丹後風土記残欠』
枯木浦は、往昔、少彦名大神と大己貴大神、この二柱神、国造り坐さなとするの時に当たり、海路の順次に所在する諸島を集合しめんと欲し、便ち笠松山之嶺に登り、息限りに号呼んで曰く、彼々来々と。則ち四嶼自ずから来て列り。故に彼来と曰う也。
国来、国来の出雲の国引き神話を彷彿する話である。四嶼というのは戸島、蛇島、烏島、浮島のことと言われる。海路に連なってこれらの島々があるが、海路の終着点は今の溝尻になる。笠松山はその奥の倉梯山(三国山)であろうか。

なぜ枯木浦というかと言えば、浦の奥に枯木(加羅村)があったからであろう。それは今の弥加宜神社の鳥居の前に枯木堂(写真→)となって残っており、このあたりに加羅村があったのであろう。
今は枯木浦という名は忘れられているが、少し古くは白糸湾と呼ばれていた、今も海事関係者の間では使われている呼称だという、私のオヤジも白糸湾と呼んでいた。戸島から奥が白糸湾だろうと言っていた。
白糸橋、白糸中学、白糸浜神社がある今の舞鶴市字浜が白糸浜である。
シラは新羅、イトも新羅であろう。
今の舞鶴市役所本庁の地が糸である。昔は市役所から来る郵便封筒には、市役所の所在地を「舞鶴市北吸糸」と書かれていた。市役所のある所から北吸谷がイトである。
イトは『倭人伝』の伊都国のイトと同じである。弥生北九州の中心国であり、北吸の糸はあるいはそこから来た人達の村であり、あるいはもしかすると卑弥呼もこの辺りにいたかも知れない。
伊都国は仲哀紀に、筑紫の伊覩の縣主の祖である五十迹手が見えるが、『筑前国風土記逸文』に、
五十跡手奏ししく、「高麗の國の意呂山に、天より降り來し日桙の苗裔、五十跡手是なり」とまをしき。
イトは天日槍の国であった。イトはイソが転訛したといい、そのソは新羅のことであろうか。
東舞鶴湾は、加羅と新羅からの渡来人たちの湾、天日槍が苗裔の湾であったということになろう。行永という地名がある、これは息長のことであろうといわれる、日槍集団の中枢のような鍜冶氏族であり注意したい地になる。息長は継体や応神といった大王(天皇)を輩出した巨大氏族であるが、この地名は近江しか見られず、当地の行永は貴重な関連地名で、弥加宜神社の関係で考えるなら、直接に渡来したのではなく近江の三上山の麓から移動してきたものであろうか、三上氏が祀る神が天御影命(=天目一箇神)で、その娘が息長水依比売という(開化記)から、同氏も息長氏である。ミカゲとミカミ、元々は同じかも知れないが、かなり古い時代のことではなかろうか、天目一箇神を祀る社はあちこちにもあり今後の研究が待たれる。「行永家住宅」という市の文化財がある、小倉の庄屋であったという、そうすると海部氏の祖とされる大倉岐命などもあるいは息長氏であったかも知れない。
意呂山は蔚山のことだという、元々は加耶の一部であるが、オロとウル、発音が似ていて、達川鉄山のある所で、何百という古代製鉄の跡があるというが、砒素が多く、ここ産の鉄は見分けがつき、どこだったか日本国内の古墳から出土した鉄を分析したら、ここ産だったというニュースが最近あった。
『魏略』は、
〔弁辰の〕国々から鉄を産出する。韓〔族〕・?ワイ〔族〕・倭〔族〕が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、〔それは〕中国で銭を用いているのと同じである。そしてまた〔鉄を楽浪・帯方〕二郡にも供給している。
これが意呂山の鉄であろうか。(意呂山に限らず弁辰(弁韓。加耶諸国)はあちこちで鉄が採れた)
大呂とか小呂は日本にも多い地名で、元は古代朝鮮語の泉のことである。その泉の霊を意呂霊というのかも知れない。
意呂とは真名井とかウケイのことである。磯砂山(比治山)の麓に大路という所がある、磯砂山は真名井山とも呼ばれるが、意呂山でもあったのであろう、そこに天降ったのが豊受大神ということであろうか。
枯木は先にも書いたが、綾部市にもある。枯木浦は宮津の阿蘇海にもある。
『与謝郡誌』
枯木浦
須津近傍の海港を云ふ別に一の入江をなし模糊たる夕景色など頗る妙なり。
細川幽斎
枝もなく枯木の浦に風吹けはなみの花こそ散り亂るらめ
顕朝朝臣
冬みれは稍にくもる夜半もなし枯木の浦にさゆる月かけ.
阿蘇の海の一番奥、倉梯山の麓、須津の海で今は多くは埋め立てられて景観は変わっている。

西舞鶴湾は、少し古くは、九景浦、笛浦、四所浦、と呼ばれていた。

『舞鶴市史』
その社交の場が常に逸見家の菩提寺妙法寺であったことで、ここを席場として集る俳人たちはこの寺から見える舞鶴湾の風景を「九景浦」の雅称で呼び親んでいたことが、この寺に残されているとされる申斎の額面から知ることができる(写真246)。
『丹後国加佐郡旧語集』
下福井村ヨリ無常院迄を大野辺と云、見渡す所を四所か浦と云又九景か浦といふ。

妙法寺より北向き。海岸は埋め立てられ、建物が建って、九景浦はほとんど望めない。
真名井はウケイともいう。
勘注系図にも「真名井亦云宇介井」とある。天の真名井で天照と素盞嗚が誓約をしたという伝承がある(記紀など)。そうしたことなのか、真名井はウケ井とも呼ばれた。舞鶴の真名井の別名・笠水をウケミズと読めというのもそうしたことであろうか。
与謝郡には吹飯(吹井、浮景、宇気)浦や吹飯社がある、府中の阿蘇海の海岸である。ウケイが、フケイ、クケイ、フクイ、フエなどと転訛したものであろう。
西舞鶴の浦は古くは真名井浦、またはウケイの浦と呼ばれていたものと思われる。
四所というのは、下福井、上福井、喜多、その先の村々をまとめて呼ぶ地名で、檀寺のない村は桂林寺の檀家で、元々は桂林寺の前にいた八田村の村人が移住していった村々でなかろうか。
シシというのは父子とか獅子とかと同じで、天日槍の新羅のことであろうか。



音の玉手箱 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石
思い出のソレンツァラ 岸洋子
ソレンツァラは地中海のコルシカ島の港のある村。オリジナルはEnrico Macias で、Solenzara。Soleは太陽だろうか、後はわからない。元歌詞と近いものになっているよう、タマシヒが揺すぶられる。
近くのシチリア島出身のアダモ(Salvatore Adamo)を思い出す。
Tombe la neige:雪が降る
二人は同じくらいの年格好で、私よりは少し年上になる。彼はシチリアの坑夫の子、育った境遇もあるのか絶望の墓場で泣き叫んでいるような悲しい曲である。。
もう一人、チュニジア出身のMichel Laurentがいる。La Reine de Saba(サバの女王)がよく知られている、次に取り上げてみたい。
関連情報
(質問に答えて)
『丹後風土記残欠』について
各国の風土記は、
『続日本紀』(和銅六年・713)五月甲子の条に、
畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。その郡の内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物は、具に色目を録し、土地の沃土+脊、山川原野の名号の所由、また、古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。
この勅に基づいて作成されたのが、各国の風土記であった。これが最初で、その後も何度も風土記を奏上せよの勅命が出ている。だから編纂も何度も行われたようで、旧版や中版、新版などが残されている国の風土記もある。
残念ながら、これら国々の風土記はほとんど残ってはいない。
写本として現存するものは、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。その他の国の風土記も存在したと考えられているが、現在は後世の書物に逸文として引用された一部が残るのみである。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在している。
丹後国庁も編纂したのであろう、しかしそれは残っていないが、天橋立、浦嶼子、羽衣伝説の奈具社の3篇が逸文の形で今に知られている。「逸文風土記」と呼ばれている。たぶん一番最初の勅によって伊予部馬養国司によって作られたものと思われる。
図書館で「風土記」を探されれば、ホコリにまみれた書を読むことができる。

『丹後国風土記残欠』は、残欠とか残簡とか残篇とかも呼ばれる。これもいろいろ写本があり、一部は異なる記事内容になっているというが、長享戊申年(2年・1498)九月に籠神社の大聖院智海という人が白川家に伝わるオリジナルを写したといわれるものである。本当に風土記なのか、その下書きのデーター集なのか、それとも偽書なのか、この名は後世の人が勝手につけたものだが、そう呼ばれる名のとおりのものか何とも今の所は判断は定まってはいない。
残欠は加佐郡部分しかない、勘注系図を読めば与謝郡についてもあったようだが、今に伝わらない。他郡部分については不明である。
この書は「丹後史料叢書」の劈頭に収めるられている(←)。図書館へ行けば、郷土史コーナーのロックがかかった書棚で読むことができる。
その評価について、先学たちは次のように考えていた。
丹後風土記の編纂は遠く奈良朝の和銅六年に濫觴し平安朝の延長五年十一月に勘進せられしとも其の本何れにか散逸して今傳はらず、僅かに蠶殘燼餘の加佐郡の一都のみ京師白川家にありしを室町中期に丹後一宮籠神社に僧智海僧都の臨寫せるもの即ち此の丹後風土記殘缺なり。由来諸國風土記の今日に傳はるもの晨星よりも寥々たり假令一部分たりと雖も丹後の之れを傳ふる洵に至幸といふべく、最も該風土記に就ては或は僞風土記なりとの異説なきに非ざるも蓋し尚ほ貴重の史料たるを失はざるべし。即ち丹後史料叢書の劈頭に收む。
大正十五年十二月 永濱 宇平
『市史編纂だより』(No.60 52.3.1
<「丹後風土記」について>
顧問 池田 儀一郎
…これらの命令によって、報告された文書がいわれる風土記で、現在、当初の姿を残しているのが播磨・常陸・出雲・豊後・肥前の五ヵ国、そのうち完本は[出雲風土記」だけであって、他はいずれも欠本である。[丹後風土記」のごときは、わずかに加佐郡の一部分をとどめているに過ぎず、しかも後世の偽書であろう、というような汚名まで着せられているのである。
次に平凡社の大辞典がのせている「丹後風土記」の簡単な解説を掲げてみる。
「丹後風土記」一巻。神亀天平年間成。釈日本記に散見すれど欠脱あり、全編不伝。嘉永年間、鈴鹿連胤・長享奥書の写本現存すれど偽書とさる。(後注)誠に芳しからぬ解説である。しかし、加佐郡は現在の舞鶴市の地域であり、こういう汚名があつても、味読する興味には余り変わりはない。「舞鶴市史」にこれを取り上げるべきは当然のことであろう。ところで、丹後五郡のうち、加佐郡だけの記事があへて、他の四郡(中郡・与謝郡・竹野郡・熊野郡)の記述が無いのはどういうわけなのであろうか。この四郡の記述は散逸したのかと思われるが、初めから報告をしなかったのかとも考えられる。全国六十に近い国、五百ばかりの郡という行政区画があったにしては、余りにも残っている風土記の数が少なすぎる。…
『市史編纂だより』No.70.(53.1)以下
古丹後風土記の奥書とその実像 井上金次郎
私はこれらを含めて、当市唯一の古代地歴書である丹後風土記残編を、この際再認識して、これを十分に活用することによって史的空白を埋めるとともに、考古学的成果の上に立って、ややもすると無味単調に叙述されやすい古代史を地方色豊かに色どって欲しいと思う。またこれは古くから市民に知られ、親しまれてきた伝承内容をもつものだけに取り上げ方如何によっては市史をより身近かなものにすることが出来よう。
…ところで最近出版された日本歴史大辞典の中て加佐郡内の郷名の考証では和名抄とこの風土記残編が史料として紹介され、その他の事項でもかかわりあいがある事柄については、丹後風土記残編を引用し、解説しているところをみれば、「偽書云々」という時代は過ぎて、史料価値が定着したことを証明している。
それにしても、加佐郡すなわちいまの舞鶴市域の?々の事蹟についての研究、考証はほとんどなされず、細々とした学界での風土記研究も、その対象(はすべて前述の五国風土記に限られているのはさびしい。それは戦前の単一的な古代伝承説話の研究は、戦後ややもすれば神学的なものの反動につながるとして敬遠され、あるいは消される傾向にあったのが原因だが、ちかごろはこれら古代史料の神々の存在を抽象的にとらえず、古代政治機構の中で考古学的成果をとらえて説明しようとする努力がなされるようになった。しかしなかには、古代人特有の夢のような説話から神々の特性である情緒的なものを排除するあまり、これの持つ人間的、唯心的な面を徹底的に排除し、うるおいのないものになっているのが見受けられる。
このような風潮の中で、中世以前「風土記逸文」として引用された浦島子伝や比沼天女の説話が時流に乗り、新しい角度からの解明がなされるようになってきた、この風潮は各地で忘れられていた民話の蒐集となりつつあり、それに伴い「風土記残編」の持つ内容は、今日的を問題に多くの示唆と新しい解釈を要求していると思われる。これについて考えられるのは、今後の残編の研究は伝承史実を冷静に判断し、他の風土記の使用例をも比較し、一行毎の成文の是非から総合的な検証を行なうことが最も必要だということである。
そういう意味から、その大半の記述が舞鶴市域という狭少性のゆえをもって、だれからも顧みられない市の最古の地誌「丹後風土記残編」の実像を再検討、再評価することによって、風土記の真価がその伝承者の息吹とともによみがえり、私たちになんらかの光を与えることであろう。


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