伝統的郷土芸能⑥
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 ミコシミコシにも歴史があって、ミコシの原型ではないかと言われる。夜久野額田の一宮神社祭礼の御神木 「御神木」と称するミコシの御幸神事が夜遅くまで続く。(15:00~23:00くらい) 『夜久野町史』 御神木
御神木は、面取りをした4寸(約12センチ)角・長さ2間(約3.6m)の1本の檜の角棒である。先端に常盤樹(榊と檜)の枝と御幣640垂を結わえた極めて古色豊かなものである。御幣は宵宮前日に総代によって準備される。 大量の奉書でつくる垂の準備も大変だということである。府の資料によると、昔は神木を洗う役もあり宮本の子ども衆がチキリという清水の湧く場所へ持って行って洗ったという。… 府の指定関連文書には、このような御神木巡行に類する行事は「近在にもみられない。府内でも類例がないが、柱=棒の民俗を考える上で注意すべきものであり、資料として重要である」と記されている。 町内では大油子の喜世見神社でも、昭和30年代までこの御神木巡行があり、青年団を中心とした若者がムラ中を練り歩き、時には走ったり、高くさし上げたり、川に入ったり、また隣ムラの高内の御輿とエール交換や喧嘩の一歩手前のようなやりとりもあったというが、現在は担ぎ手がいないなどの理由で御神木のみが区で保存されている。 一般的な御輿 百貫御輿 千貫御輿 御輿は何のためのものか 神輿(みこし)は、神霊の動座の折に用いる輿で、神社の神霊を移し、神幸祭の折などに担がれる。台・胴・屋根の三部構成で、台に棒を縦に貫き、これに横棒を取りつける。平安時代ごろより一般に普及したとされ、時代とともに装飾も華美となった、という。 今はそう考えられているが、古くは神の降臨地から祭場までの間を迎え送りした乗り物であろうか。祭礼の前後二回の渡御があったと推定される。 かつぎ屋台-御輿と似ているため「○○御輿」と普通は呼ばれるが、神が乗っていないので本当は御輿ではなく、担ぎ屋台であろう。 降臨地 神の降臨地といえば、天孫降臨の槵触峯を思い浮かべるが、別に天孫だけが降臨されたわけでなく、各地の神社に祀られている神もまた祭礼日に天上世界から降臨されたと思われる。山の頂とか高い樹木とか、大きな岩とかに降臨された。 神様は今は神社の本殿に年中おられるように考えられているが、古くはそうではなかったと思われ、祭日だけ天降られ、祭礼が終わればまた天上世界に戻られた。 樹木とか岩とかを、神として祭場まで運んだり、あるいは降臨地へ降りられた神を祭場へ行き来する神様の乗り物としてミコシが用意された。 御旅所 神社の祭礼において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡行の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。 御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。 幟 村祭り・氏神の祭礼村々の氏神(鎮守の神様、産土の神様)の祭礼氏神とは、 今日、氏神・産土神・鎮守神の三つが区別なく、いずれも氏神といわれているが、本来は祖先あるいは自分の出生地の守り神を産土神といい、一定区域の土地神を鎮守といい、氏族の祖先神、氏族と関係の深い奉斎神を特に氏神といった。 氏子は古代社会における氏族とその守護神(氏神)との関係に由来し、中世以降郷村制社会の成立・発展に伴い、郷村における神社を氏神として祀るようになり、その地域の人々を氏子と呼ぶようになった。今日では、神社が鎮守する地域社会で、生活を営んでいる人、または家庭を指して氏子という。 祭礼とその準備期間・物忌潔斎 物忌み (ものいみ)とは、ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けることで、斎戒に同じ。具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面があるという。 公事、神事などにあたって、一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることをいいい、潔斎、斎戒。平安時代には陰陽道により物忌みが多く行われ、貴族などは物忌み中はだいじな用務があっても外出することを控えた。物忌み中の人は家門を閉ざして、訪客がきても会わず、行事にも出席しない。家にあっても冠や髪に「物忌」の札をつけていた。夢見なども陰陽師がよくないというと物忌みをした。当時における公家などの物忌み日数は1年間に1か月ぐらいに及んだ。また物忌みのため自家に忌み籠りするだけでなく、他の特定の場所に出かけることもあった。 また、伊勢神宮などの大社で、神事に参与する童男・童女を「物忌」とよんだ。鹿島神宮では、7、8歳から12、3歳までの経水のない女子のうち、「物忌」役は亀甲を灼いて亀卜により定めたという。伊勢神宮や出雲大社はもちろん、山形県の鳥海山大物忌神社などは厳重な物忌みで知られている。富士山麓の「吉田の火祭り」は北口本宮冨士浅間神社の祭礼で、忌中の氏子は自家を離れて一定の場所に外泊し、祭りの主要行事の済むのを待つという不文律がある。沖縄県宮古島に「ンナフカ」という豊作をもたらす神を迎える神事があるが、その物忌みは厳しく、かつては祭りの日には人も牛馬も外出せず、明りもつけず声もたてなかった。祭りを行う巫女は以前は断食して神を迎えたといわれている。「ンナフカ」とは仮死の意で、人間の活力が一時停止した状態をいう。 直会 神社本庁のHPによれば、 直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒みけみきを神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。 古くから、お供えして神々の恩頼みたまのふゆを戴くことができると考えられてきました。この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義であるということができます。 簡略化されたものとして、御酒を戴くことが一般的な儀礼となっていますが、これは御酒が神饌の中でも米から作られるものであり、また調理をせずにその場で直接戴くことができるため、象徴的におこなうものとなりました。 神々にお供えした物を下げて戴くということは、宮中においても毎年行われる新嘗祭にいなめさいの際に、天皇陛下が親しく新穀を神々に捧げ、また御自らも召しあがるという儀礼に観ることができ、「神人共食」という祭りの根本的意義が示されています。 直会の語源を「なおりあい」とする説もあります。神職は祭りに奉仕するにあたり、心身の清浄につとめるなどの斎戒をします。神社本庁の「斎戒に関する規程」には、「斎戒中は、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を異にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、穢けがれ、不浄に触れてはならない」とあるように、通常の生活とは異なるさまざまな制約があり、祭りの準備から祭典を経て、祭典後の直会をもって全ての行事が終了し、斎戒を解く「解斎げさい」となり、もとの生活に戻ります。「なおらい」の語源は、「もとに戻る=直る」の関係を示して直会の役割を述べたものであり、直会が祭典の一部であることを指しています。 直会が神事として一般の宴と異なるのも、こうした意義をもっておこなわれているからなのです。 村総出の秋のめでたい村祭から、役員会だけの祭礼化の傾向 難しく言うなら、上記したように言われるが、神社・神道以前の秋祭なら、秋の収穫祭であり、その秋に収穫した物をみなで腹いっぱいにいただいて、みなで祝おうとしたもので、お祝いの祭典であり、要するに息抜きの「遊び」であろう。 踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らな 損 損。で、村人たちはめいめい自分の身体を動かして祭に加わる爽快感にひたったものであろう。 村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 朝から聞こえる笛太鼓 年も豊年満作で 村は総出の大祭 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 夜までにぎわう宮の森 治まる御代に神様の めぐみ仰ぐや村祭 ドンドンヒャララ ドンヒャララ ドンドンヒャララ ドンヒャララ 聞いても心が勇み立つ 音の玉手箱
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