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そら知らなんだ

丹後の弥生期-扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡
(そら知らなんだ ふるさと丹後 -82-)


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そら知らなんだ ふるさと丹後
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丹後の弥生期-日吉ヶ丘遺跡 他
扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡





少年易老学難成、一寸光陰不
脳が若い30歳くらいまでに、せめて千冊は読みたい

友を選ばば書を読みて…と与謝野鉄幹様も歌うが、子供の頃から読んでいるヤツでないと友とも思ってはもらえまい。
本を読めば、見える世界が違ってくる。千冊くらい読めば、実感として感じ取れる。人間死ぬまでに1万冊は読めないから、よく見えるようになったとしても、たかが知れたものである。これ以上の読書は人間では脳の能力上タイムリミット上言語能力上不可能なことで、コンピュータ脳しかできまい。



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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。
放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。

扇谷遺跡(峰山町丹波扇谷)


峰山中学前から杉谷へ道があるが、その北側あたりにある。(今は埋め戻された何もない雑木林)。タンゴ鉄道峰山駅の北側の20メートルばかりの丘陵地、丹後文化会館が建っている丘である。この巨大な環壕が有名。
扇谷遺跡
(立地)
扇谷遺跡(おうぎだにいせき)とは、この背後にそびえる丘陵中腹、標高55m~65m、丘陵裾との比高差30m~40mの斜面に位置します。この場は西から東に伸びる丘陵の末端部分にあたり、峰山盆地を一望でき、竹野川及びその支流を見下ろすことのできる、交通の要所といえる地点です。
(概要)
 昭和40年の遺跡発見以来、現在までに10次にわたる発掘調査が行われ、弥生時代前期末から中期にかけての比較的短期間営まれた遺跡であることがわかりました。調査により二重に巡らされた巨大な環濠が発見され、住居跡は古墳の造営及び後世の削平により検出されませんでしたが、防禦的な周濠を備えた高地性集落とみられ当時の乱戦をうかがわせます。出土遺物は畿内第Ⅰ様式・第Ⅱ様式に比定される弥生土器、鉄製品、鉄滓、玉つくり未製品などで、技術者集団の存在が推定されます。また、この地点より南西に2.3㎞離れた地点にある途中ヶ丘遺跡との関連も指摘されています。
(環濠)
 環濠はこの丘陵を取り囲むように巡っており、全長は850mに及びます。その外側に一部欠けている部分がありますが平均12mの間隔で平行して外濠が巡っています。
 濠は最大径6m,最大深4mに及び、断面はV字型またはU字型をしており、濠の外側に土を盛り上げたものや、排水溝などか発見されています。また、濠内に陸橋の一部とみられるピットが検出されています。
(鉄製品・玉つくり関係遺物)
 扇谷遺跡から出土した板状鉄斧は、全長5,6㎝幅3.4cm、厚2.0㎝、重さ68gのもので、砂鉄系原料による鋳造品です。鉄製品導入期の希少なものです。
 その他精練鍛冶滓と位置づけされる鉄滓(鉄くず)、碧玉、緑色凝灰岩、瑪瑙、鉄石英などの玉つくり遺物の破片および未製品が出土しています。
(陶塤)
 中央支丘くびれ部溝CⅢより出土した陶塤は、高6.7cm、最大径5.8㎝の卵形のものて、背面が欠損していますが、内面底部には指頭圧痕や指なで痕が認められ、手づくねによる成形とみられます。
 陶塤とは中国源流の土笛のことで、日本では日本海沿岸を中心に平成9年現在て57点出土しており。日本海沿岸の文化の伝摺を考えるうえて重要な遺物です。

『京丹後市の考古資料』(地図も)
扇谷遺跡・七尾遺跡(おうぎだにいせき・ななおいせき)
所在地:峰山町丹波小字扇谷ほか(扇谷遺跡)
    峰山町荒山小字七尾(七尾遺跡)
立 地:竹野川中流域左岸丘陵上
時 代:弥生時代前期末~中期初頭
調査年次:1974、77、78、80~82、82~85年
    (峰山町教委)
現 状:調査後一部保存(扇谷遺跡:市指定遺跡)
    消滅(七尾遺跡)      一
遣物保管:市教委
文 献:B003、B8018、B024、B035
遺構
 扇谷遺跡は、竹野川流域の支流小西川と鱒留川に挟まれた、竹野川西岸を望む丘陵上に位置する。周辺は独立丘陵の様相を呈しており、竹野川の向きへ伸びる三つの支丘で構成された丘陵の標高50~60mに位置する。平地との高低差は約20mあり、弥生時代前期末~中期前葉に営まれた高地性集落である。
 1965年、付近の工場整地の際、弥生土器が発見され「扇谷遺跡」として報告された。その後、中央の丘陵を崩し、二つの谷を埋め、丹後文化会館用地を造成する計画が立てられたため、1974年に発掘調査を実施した。その結果、全長170mにおよぶ溝状遺構が検出され(巻頭図版2-6)、環濠集落遺跡であることを確認した。その後、遺跡の南西部に都市計画街路の建設が計画され、1980~82年に工事予定地の丘陵を発掘調査したところ、調査地の丘陵山腹から大規模な二重の環濠が検出した。このため、日本考古学協会が峰山町長などへ遺跡の保存について要望書を提出するなどの保存運動が展開された。結果、道路構造上の工法変更により遺跡の消滅を最小限にとどめるよう変更がなされた。その後、遺跡の範囲性格、内容確認のための発掘調査が1982~85年まで行われ、環濠の全長が830~850mに及ぶ全国屈指の弥生時代前期の環濠集落であることが判明した。
 以上、10次におよぶ発据調査終了後の1993年には峰山町指定遺跡に指定され、法的保護が図られた。その後は、2004年の京丹後市発足により京丹後市指定遺跡となり現在に至っている。
図は『丹後の弥生王墓と巨大古墳』より→
 扇谷遺跡を最も特徴付ける環濠は三つの支丘のうち中央支丘の中腹から基部丘陵を通り南丘陵、南支丘の中腹へと二重にめぐらされている。環濠は一部で崖による消失のため確認できない部分があるが、平面形状は東側に開口する馬蹄形をしており、内壕は全長830~850mに及ぶ。内壕と外濠の間隔は斜距離10~1mの幅を保ちほぼ平行に並んでいるが、丘陵西側など外壕が一部確認できなかった地区もあり、一部には存在しなかった可能性も指摘されている。環濠の規模や断面形状は地形によって変化しているが、通常幅4m、深さ2m程度、深いところでは幅6m、深さ4mに達する場所も存在する。また、断面形状はV字またはU字型をする。太部分が花崗岩の地山を掘削して形成されているが、一部では壕の外側に土を掘り上げ防御性を高めている部分もある。濠内の堆積状況は、C地区の観察によると、まず自然堆積があり、次に丘陵の低い側から上砂が堆積し、それ後に丘陵の高い側からの土砂堆積が推測される。遺物は各層から出土しているが、高い側からの堆積層に多くの遣物が含まれる。
 環濠の内側については、急峻な地形で尾根上も狭長である。中央支丘と前支店丘の谷間に設定したグリッドから畿内Ⅰ~Ⅱ様式の弥生土器が出土しているが、遺構は確認できていない。また、中央支丘基部、南支丘の尾根筋に設定したトレンチから浅い土壙、焼土を伴う土壙、ピット群などが検山されている。南支丘の東斜面から検出された段状遺構などは、奈具岡遺跡(4)の例から住居跡の可能性が考えられる。集落の中心は、濠の開口部に面する東側斜面および丘陸上が推測されている。
遺物
 扇谷遺跡からの出土遣物には、弥生土器、鉄製品、石製品、土製品、ガラス原料、ベンガラなどがある。出土遺物のほとんどが内壕から出土した。
 濠内から出土した土器はすべて弥生土器である(巻頭図版2-4)。器種は壺、甕、鉢、蓋であり、当該期の通常の集落遺跡と異ならない。口縁端部が未発達で加飾が少なく篦描文様を施す畿内第Ⅰ様式の特徴を示すものから櫛描文様を多用する第Ⅱ様式に比定されるものがある。Ⅰ様式から第Ⅱ様式への過渡約な様相を示したものと考えられる箆描文と櫛描文を併用しているものもある。これらの出土土器の一部は胎土分析され、南西約2・5㎞離れた途中ヶ丘遺跡出土土器と比較されている。結果、両者の第Ⅰ様式土器の胎土にはかなり近い組成の粘土を使用していたこと、第Ⅱ様式土器には別の組成を持つ粘土も胎土に使用され、その粘土が途中ケ丘遺跡出土土器の胎土の一つとしてその後も利用され続けていることが判明している。出土製品は、紡錘車、上錘のほか、陶塤が出土している(巻頭図版2-5)。紡錘車はすべて土器を利用したもので、重さ7・8~70.7gと多様なものが出土しているが、特に10g以下の小形紡錘車の出土比率が高く、蚕糸など特殊な繊維の紡錘に使用した可能性がある(巻頭図版2-2)。陶塤は中央支丘溝CⅢ区より出土したものであり、口径3・0cm、高さ6・7cm、最大怪5・8cmを測る卵形の小形品である。胴部には径1.5㎜の小孔が4ヶ所開けられている。茶褐色を呈し、表面には箆で磨いた痕跡が認められる。
 鉄製品は、板状鉄斧、粗悪な鍛造鋼片、砂鉄系鍛冶滓が出土している。南支丘周壕No.10から畿内第Ⅱ様式に比定される土器と供伴した板状鉄斧は、化学分析によると、炭素量が3%と多く、鋳巣と見られる空孔の存在から鋳造品と判断されている。また、原料は砂鉄系原料とされる。
 石製品には、石鏃、石槍、太型蛤刃石斧、石包丁、敲石、くぼみ石、石鍬、磨製石剣などのほか、砥石、石錐、石鑿、摺棒、石鋸がある。石鏃は大きさ50~17㎜、重さ0.4~5・1gと多様なあり方を示す。石材は無斑晶安山岩のものが大部分を占める。
 玉作り関連遺物には、管玉欠損品、未製品、緑色凝灰岩片、碧玉片、玉砥石などがある。遺跡の広い範岡から出土しており、工房跡などは確認されていないが、完成品の出土が少ないことからその存在が予想される。
 また、特殊な出土品として、半融状態のガラス小塊がある。組成分析およびX線回析分析によるとガラス小塊は結晶化しており、アルカリケイ酸塩ガラスめ原料が半融状態で冷却された結果、結晶化したものと推定されている。
意義
 扇谷遣跡は、弥生時代前期末から中期前葉にかけて丘陵上に営まれた丹後地域を代表する環濠集落である。住居などの様相は不明ながら、傑出した規模の環濠は防御的な性格がうかがえる。
 出土遺物についても、鍛冶滓、玉作り関連遺物、ガラス原料の存在は新しい知識、技術を持った生産集団の存在を推測させる。さらに、玉作り関連遺材の量が多いことから他地域への供給も想定できる。扇谷遺跡出土の土器は、貝殻施文の土器を含み日本海的な色彩が強いが、近江や播磨の影響を受けたものもあり、広い交流がうかがえる。
 また、扇谷遺跡の南の谷を隔てた丘陵に立地する七尾遺跡では、弥生時代前期末~中期初頭に築造された方形台状墓2基が検出され、扇谷遺跡の集落に対応する墓域と推定されている。
 さらに、南西に2・5㎞離れた微高地に立地する途中ケ丘遺跡との関係では、時期、立地、継続性などに差異はあるが土器の胎土、陶塤、玉作り関係遺物の出土などに共通点も見られ、密接な関係が想定される。
陶塤
『舞鶴市史』
丹後の前期三遺跡から発見された特徴的遺物に陶塤がある。竹野・扇谷・途中ヶ丘の三遺跡でいずれも竹野川流域の遺跡で、これらはすべて前期新段階に属する遠賀川系土器を伴って出土している。陶塤はもと中国華北地方で楽器として用いられた土笛である。朝鮮半島では未発見だが、わが国の発見例は山口県綾羅木郷遺跡の六個をはじめ、福岡県宗像市長尾遺跡一個、島根県タテチョウ遺跡二個、同西川津遺跡一〇個、竹野遺跡一個、扇谷遺跡一個、途中ヶ丘遺跡二個、静岡県浜松市伊場遺跡一個の都合二四個である。伊場出土の陶塤は形態も他と異なり、時期も弥生後期の遺物である。それに対して他は前期新段階の土器とともに出土する前期の遺物である。
 扇谷出土の陶塤(写真22右)は、高さ六・七センチメートル最大径五・八センチメートル、吹口径三・〇センチメートルの卵形品である。途中ヶ丘出土の陶塤(写真22左)は口縁部を欠いているが、高さ六・三センチメートル、最大径五・五センチメートルで前者よりやや小形品である。上部に吹口孔、胴部前面に四個、後面に二個の指孔があけられている。前者の指孔は径一・五ミリメートルの細孔であるが、後者は径五ミリメートルと大きく、形状的には後者が綾羅木郷出土の一個に似ている。
 陶塤が、いずれも日本海沿岸の、とりわけ北部九州と山陰地方の前期の諸遺跡から発見されている事実は、綾羅木人と丹後弥生人の関連を想起させるだけでなく、日本海沿岸における弥生文化伝播の一様相を示すものとして注目してよいと思う。そして、陶塤は、その操作や使用法についてまだ不明な点が残されているが、函石浜出土の貨泉とともに、大陸との文化交流を考える上での貴重な資料であるといえよう。
全国でも3番目とかの陶塤出土だったが、今ではものすごい数になる。
海の道むなかた館・西谷正館長の講演資料」より↓



『舞鶴市史』は、浜松市の伊場遺跡を加えているが、これは古い資料のためで、陶塤ではなかったようである。全国というか、図の遺跡で合計118個出土しているという。分布が何か特徴的で、どんな歴史を意味するものであろうか。

鋳造品の板状鉄斧
これも中国のものと思う、興味引かれるが資料なし。

途中ヶ丘遺跡(峰山町長岡)

今は途中ヶ丘公園になっていて一部は広い陸上競技場になっている。ここも20メートルばかりの丘である。多少の山あり谷ありの地形が広く広がっていたのだろうか。
扇谷から南西側2㎞くらいに位置する。


『京丹後市の考古資料』
途中ケ丘遺跡(とちゅうがおかいせき)
所在地:峰山町新治、長岡小字途中岡
立 地:竹野川中流域、支流鱒留川右岸段丘上
時 代:弥生時代前期~後期
調査年次:1972~75年(峰両町教委)
    1975年(丹後郷土資料館)
    1977、79、88~90年(峰山町教委)
現 状:一部盛土保存(途中ヶ丘運動公園)
遣物保管:市教委、丹後郷土資料館
遺構
 途中ヶ丘遺跡は、鱒留川に接する北向きの段丘上に立地する(巻頭図版3-1)。南東隅に高台状の丘陵部を持ち、南から北へなだらかに傾斜し、西半部は台地状の縁辺に至る。中央よりやや東の部分では南北方向に水脈が確認されており、旧地形では中央部分から北に向かい窪地状の谷筋が存在していたと推定される。
 1949年、峰山高校郷土史研究会により遺物の表採が確認され、「三軒屋遺跡」として報告されたのが初見となる。続いて1950~55年にかけ継続的に表面採集が行われ、弥生時代前期、中期の特徴を持つ壺や刻み目文を持つもの、体部に沈線を施した甕、蛤刃石斧、石包丁、石鏃や、サヌカイト製の有舌尖頭器などの表採遺物が知られるようになった。
 その後、1972~77年にかけ、バイパス整備、ほ場整備などに伴い発掘調査が実施され、弥生時代前期末~後期を中心とした溝状遺構、住居跡、柱穴、ピットなどが検出され、多重の環濠を持つ集落遺跡であることが判明した。
 溝状遺構は、報告されているもので前期のもの2条、中期のもの5条、後期のもの4条がある。前期・中期の溝は、台地状北西部を中心として弧を描くように造られ、それぞれの溝はほぼ平行している。いずれも規模は小さいもののいわゆる環濠と推定される。前期・中期の環濠は幅1~2m程度、断面Ⅴ、U字型であるのに対し、後期の環濠は幅4mの断面箱型を呈す。また後期の溝は、前期、中期の溝の弧の外側に造られており、環濠の規模が拡大したことが推定される。また環濠の中には、濠底部に小さな溝を持つもの、段を持つものが見られる。
 また、1988~91年の運動公園整備に伴う調査では、台地状地形の広い部分で溝状遺構、住居跡、柱穴、多数のピットなどを検出し、遺跡南部のやや小高い場所の土壙から、多量の弥生土器と石斧、石鏃、大型石包丁などが出土しているとされる。
遺物
 出土遺物には、弥生土器、土製品、石製品、鉄製品、木製品、ガラス製品、玉作り関係遣物など多種多様である。
 弥生土器は、第Ⅰ様式からⅤ様式に比定される土器が出土するが、後期前葉の遺物は目に付かない。弥生時代前期、第Ⅰ様式の特徴を持つものでは、壷の頸部のなめらかな曲線、口縁端部に施される沈線文、頸部沈線の多条化などの特徴をもち、頸部に2帯の刻み目文突帯を施すものが多く、胴部に貝殻羽状文を施すものがある。数は少ないが、口縁内部に突帯を持つものも見られる。甕は口縁端部に刻み目文を施すものが約半数あり、胴部に沈線文を多条化、沈線文と竹管文を施したものが目立つ。
 弥生時代中期、第Ⅲ様式の特徴を持つ壺には、突帯文が頸部に用いられ、櫛描文が口縁内面及び胴部に用いられるものがある。口緑内面には8種の文様が施されるが、半同心円文が最も多い。また口緑部が水平に伸びておわる高杯がある。第Ⅳ様式の壷は、頸部に強いヨコナデを加えた凹線文を施す。内面をわずかに加飾するが、扇形文が増加する。
 弥生時代後期、第Ⅴ様式の段階では、器台、台付鉢などが出現し、それらほとんどの器種で二重口縁をもつものが現れる。また壷、甕の口緑端部に擬凹線を施すものがある。
 土器の一部は胎土の組成分析が行われている。Ⅰ様式の特徴を示すものはまとまった分析値を示すが、Ⅲ様式の特徴を示す一群はケイ酸塩類、酸化アルミニウムなどの分析値が多様であることが判明している。中期段階では、それまでと異質の粘土や土器製作手法との接触の可能性があり、他地域との交流、交易による土器の搬入が示唆されている。
 鉄器は、耳付鉄斧がある。長4.6㎝を測り、左右に折り曲げた状態の耳が付く。内面上部に木質部らしきものがある。さらに、有茎柳葉式鉄鏃が1点ある。長7.6cmを測り、断面レンズ状を呈する。
 石製品は、北西部から集中して出土する傾向を示す。石鏃、石槍、石錐、石のみ、石包丁、刃器、石錘、打製石斧、磨製石斧、砥石、磨石、敲石、くぼみ石などがある。石斧の中には「大型石包丁」に類する、大形で扁平な身に両刃を付した石器が多く見られる。
 玉作り関連遺物には、碧玉、緑色凝灰岩の原石、剥片、管玉未製品などが出土している。また鉄石英の石のみや、砥石の中に筋状に溝が残るものがあり、これらは玉類の研磨に使われたものである可能性がある。
 土製品では、陶塤2点および人面土器が出土している (巻頭図版2-3、2-5)。陶塤のうち一つは、前期の溝内から出上したもので、ヘラ描沈線と楕円形刺突文が施された甕片が共伴しており、前期末のものと判断されている。吹口孔の大半を欠損しているが現存高6.2cmを測り、全面に4つの音孔、背面に2つの音孔痕をもっ。吹口に平坦面がなく、音孔が大きい。人面土器は、ゴルフボール大の頭部であり、目、鼻、口の表現がある。
意義
 途中ヶ丘遺跡は、弥生時代前期から後期にかけ営まれた環濠集落である。環濠の位置と石器の出土から想定すると、西北部が集落の中心であり、集落の規模は中期、後期と拡大していったと見られる。
 出土した弥生土器は、第Ⅰ~Ⅴ様式に比定されるが、第Ⅱ、Ⅳ様式、Ⅴ様式前半のものが少ない。土器の出土量から見ると集落の人口はやや流動的である。また、約2.5㎞離れたⅡ様式を中心とする扇谷遺跡とは、土器の胎土などに共通する要素もあり、関連が想定されている。また、玉作り関連遺物、陶塤の出土、搬入土器の存在など、他の地域との交流、交易を行っていた様子がうかがわれる。丹後地域では、唯一の前期~後期まで営まれた集落であり、竹野川中流域の拠点集落と評価できる。
環壕集落の起源(Wikipedia)より
「環濠」と「環壕」のルーツはそれぞれ、長江中流域と南モンゴル(興隆窪文化)であると考えられており、日本列島では、弥生時代と中世にかけて各地で作られた。
長江中流域では、今から約8000年前の環濠集落が、湖南省のリーヤン平原にある彭頭山遺跡で発見されている。この環濠集落の直径が約200メートルで、西側が自然河川に繋がっており、北側と東側、南側には、幅約20メートルの濠が巡っているらしい。充分な発掘調査はまだであるが、水田稲作農耕の遺跡である。
内蒙古自治区赤峰市にある興隆窪遺跡から、約8200 - 7400年前の環濠集落が見つかっている。この集落は、長軸183メートル、短軸166メートルの平面形が楕円形に巡る溝によって囲まれている。溝の幅は約1.5 - 2メートルあり、深さは約1メートルほどである。環濠の内側から約100棟の竪穴建物が発見されている。この集落の生業はアワなどを栽培する畑作農業である。






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 精神に翼をあたえ、創造力に高揚を授ける、音の宝石

魔笛 Die Zauberflöte


【ドイツ語】魔笛 - 夜の女王のアリア (Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen) (日本語字幕) (youtube.com)
(96) 夜の女王のアリア (魔笛) 復しゅうの心は地獄のように胸に燃え ルチアーナ・セッラ  Der Hölle Rache - YouTube
Mozart: Die Zauberflöte – Ouvertüre ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Tarmo Peltokoski (youtube.com)

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