大蛇伝説②
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『丹後の地名』は、「FMまいづる」で月一回、「そら知らなんだ、ふるさと丹後」のタイトルで放送をしています。時間が限られていますし、公共の電波ですので、現行の公教育の歴史観の基本から外れることも、一般向けなので、あまり難しいことも取り上げるわけにもいきません。 放送ではじゅうぶんに取り上げきれなかったところを当HPなどで若干補足したいと思います。 舞鶴の大蛇伝説②建部山の大蛇『舞鶴の民話』 どうくつの蛇 (下福井)
建部山には大蛇がいるというのは現在でも本当のこととしてウワサされる。この大蛇を見たという人は、今もある。建部城に一色氏か城主でいたころの話だが、中腹にびょうぶ岩といって、そそりたった岩があった。その下の方に、ほら穴があり何者かか住んでいた。 ある日村人が、シキビをとるのに山に登っていた。姫蛇が時たま出てくる。紅にねずみ色のしま模様かわいいしぐさにその人はじっと見ていた。三、四匹はいただろう。しばらくじやれるようにしていたが、体をくれうせながら、びょうぶ岩の方にいってしまった。 男は又シキビをとってかごに入れていた。腰が痛くなったので、体をおこしぐっと背のびした。と、びょうぶ岩の方に美しき女の人がこちらをじっと見つめている。とんとこのあたりで見たことのない美しき人で、紅の着物をきている。男は今だいい年になったのに嫁がいない。夢ではないかと目をこすってみるが、女はじっとこちらをみている。男はおそるおそるそちらの方に登っていった。女の人は、にっこりと笑ったと思ったら、びょうぶ岩のどうくつの中に入っていった。 男はいそいで、どうくつの方にのぼっていった。どうくつの中を見ると、ただ暗くて人の入った様子もない、男はきみ悪くなって下におり、シキビを入れたかごを背おって家にかえった。 家に帰ったが、男はあの美しき女のことが忘れられず、その夜は夕ごはんも食べず寝てしまった。 あくる日隣りの人に昨日あったことを話した。しかしそんなことはうそだと信用しない、また、たぬきにでもばかされたのだというだけだ。男は気になりながらも、田の仕事のために行くことができなかった。山のびょうぶ岩の方を何回もながめた。そのたびに美しい髪の長い女の姿かうつった。しばらくして、村人の間でびょうぶ岩のどうくつに誰か住んでいるといううわさが広がった。大男が入るのをみた、美しい女が入るのをみた、白髪のおじいさんが入るのを見たと、みる人によって違った。男はもんもんと夜もろくに寝むれなかった。 お日さんが建部山におちる頃、西の空は夕焼けであった。しきびをとった所に行くと、又姫蛇へが三匹ほどたわむれていた。しばらくするとびょうぶ岩の方にいってしまった。 男はそのあとを追うようにして草をわけて登った。蛇はびょうぶ岩のどうくつの中に入ってしまった。男はどうくつにつくと、中をのぞいた。暗い中にほたるの火のように小さいあかりがいくつも光っている。男は思わず勇気をふるい起して中に入った。すると光はだんだん奥の方に入っていく、その光を追って進んだ。ぽとりぽとりと岩からしずくが落ちる。まがりくねった穴は続く、少し寒くなった。足もとに水があるのか、ぴちゃぴちゃ音がする。小さい光のむれは、まだ先を行く。裏をふり返ると、ボーッと入口の光が見える。だいぶ中に入ったのだろう、光はまだつづく。 村人たちは、男が山に登っていくのをみたものはあったが、その後男の姿を見たものはなかった。 しかし、しきび取りやしばかりにいった人の話では、びょうぶ岩のところのどうくつから、大きな三米もあるような蛇が二匹体をくねらせ、ひっついて出てくるのを見たという人がある。 一方は黒じまで、もう一方は紅じまであるという。それからというものは、あのどうくつにはいると蛇になるといって近ずくものはなかった。 一色氏はその後、細川氏の軍勢に攻められ、奥丹の方に逃げていったということです。 岡安の池が首 『朝来村史』に、 池ケ首の伝説 岡安峠
岡安の村の北端、峠の上に大なる池あり蛇ケ池と称し、往昔此池に大蛇住めり.時人は其池の傍に立寄るときは影を呑まるべしと懼れ登尾へ越す峠道を特に左右二筋に作り、即午前は西の方を午後は東の方側を往還したるなりき。今を去る凡一千二百年前、泉源寺村に殿さんと尊称する豪族あり、一人の娘の許へ夜な夜な通ふ忍び男あるにより殿さん夫婦太く心配し、或夜密かに苧のつづね糸のいとも長きに針を附し、先夜忍び男の脱ぎ忘れし袴の裾に縫ひ附けおきたるところ、翌朝に至り戸の節穴より外に出で其苧糸は、遠く岡安の峠の池にあとを引いてきてゐるのを見届け、大に驚き帰り直ちに討伐に取かゝったのである。大蛇は池を追ひ立てられ中山まで、逃がれ出でしが、此時討手の中に稀代の弓の名人あり遂に大蛇を此地に於て退治せり。大蛇は遁ぐる道中で六人の人を呑み殺せしを以て後に白屋の下に堂宇を建て六地蔵とし懇ろにまつれりと請う中山の大蛇を射止めし地点は今に蛇地(じゃぢ)と称呼せられあり。 以上古老の語りの儘を記したが此池の所在を池ケ首と称し、先年府道開鑿の時其池あとの一部を埋むるに道路敷の下に大きさ廻り二尺長七尺の粗朶千二百把を投じ漸く其上に土砂を置くことができたと謂う。随分深い池であったとみえる。 昭和十四年海軍用地関係により久しきに亙り光輝ある伝統をもつ字岡安は茲に自然的解体を遂げ、住民は夫々新たなる郷土に移転したのである。 岡安峠は舞鶴市青葉山麓公園から北の登尾・笹部口へ越える峠である。峠とは呼べないような低い平坦な峠である。この峠の上に蛇ヶ池があったと思われるが、現在は見当たらないようである。 大蛇に毒を吹きかけられた話 『中筋むかしと今』に 大蛇に毒を吹きかけられた話
村に言語障害の青年がいた。不幸にも生まれつきものの言えない彼は、毎日、山へ行って柴を二束作ってこなければ、ご飯が食べさせてもらえぬという気の毒な境遇だった。毎日、柴を刈りに行くので、だんだんと雑木も無くなり、ずうーつと奥まで出かけねば手の届くところに無くなっていた。 ある日のこと、日もとっぷり暮れる頃、二束の柴を背負って帰ったが、ひどく疲れた様子だった。翌朝、目を覚ますと随分と顔がはれていた。家の人もあわれに思ったのか、「今日は、一日休んでよい。」と許可した。 めったに、こんな休みは当たらない彼にとっては、どんなにうれしかったことか。近所を遊び歩いていた。「今日は山へ行かんでもよいのか」と手まねでたずねると、「ずうーつと、山の奥まで行って柴を刈っていたら、太い長いものが首をもたげて、襲い掛かってきたので、すわ大変と一生懸命逃げて、しばらく隠れているとやがて向こうへ行ったので、また、さっきの場所へ行き二束を完成させて帰ったのだと、手まねで教えてくれた。その目は開いていないくらいボンボンにはれ上がっていた。 そして、その翌日、彼は静かに死んだ。村人はうわばみ(大蛇)に毒を吹きかけられたのだろうと、彼の死を悼んだそうな。 大蛇の話 『舞鶴の民話5』に、 大蛇の話(中舞鶴)
昔から滝の空から桂谷にかけて、大蛇がいると言い伝えられていた。このあたりは、足もふみいれられない程、篠竹が生え茂っておったが、二次世界大戦による食糧不足の影響で、当時一部分は山畑として開墾され、又、戦後滝の空の頂には、テレビの中継塔が建設され、和田中の記念植林もでき、馬の下からバツ谷、桂谷の一部にかけては、小西商事が砕石工事のため、此の一帯は開墾されて、今では大蛇がいる事は想像できない。 明治のおわり、本町四丁目の八十すぎの松本氏が小学生のころ友人三人と栗ひろいにいき沢山の栗をひろっていた。突然大蛇に会って、命からがら帰ったという。当時は町には蛇屋というのがあったが、下一丁目の荻野さんはこのことを聞いて、「ボンほんまに大蛇に出会ったんか」と念をおして尋ね、大阪の蛇取りに知らせ、三、四人でとりに行った。第一日目は蛇もそれを察したのか、いくらさがしてもみつけることが出来なかった。しかし二日目の夕方、日が暮れるし今日もだめかと帰りかけた。ふと前方に大木がころがっていた。少しおかしいと目を大きくひらいてじっとみていると、少し動いているようだ。草むらがかさかさいう。四人で二手にわかれて、その方にいった。大蛇だ。片方にあみのふくろを二人で持ち、あとの二人は木の棒で反対の方にまわってたたいた。大木みたいな蛇はゆっくり動きだした。間違いないと四人は緊張した。胴まわりは一尺六寸はあるだろう。あみのふくろにゆっくりはいっていった。「とれたとれた」四人はよろこび、あみにはいった蛇をたたき気絶させ、かついで帰った。 蛇は必ず二匹いるものだと蛇屋はいう。明日探すことにして、よろこびいさんで明日の日をたのしみにした。大蛇のおることを知らせた松本のボンは、五円のお礼をもらったという。蛇のぬけ皮をさいふにいれておくと金がたまるというが、世の人は蛇というものに何かしらこわさを感じるようだ。蛇屋は二、三日もう一匹をさがしたが、遂に発見することが出来なかったという。 話はちがうが私が五才のころ、母のさとの福知山にいったとき、新町の繁華街で人だかりがしている。何だろうかと、私は人だかりの人のあいだをくぐって前にでた。大きな呉服屋の門口から二メートルはあるだろう、真白の舵が体をくねらせながら、ゆうゆうといく。むかいのやはり呉服屋へだ。町の人たちは「主様のお通りだ、みんなもっとうしろにさがって」とうしろにさがる。おばあさんで両手をあわせ、おがんでいる人もある。何かしら蛇姫様のようである。私はさわってみようと蛇に近付いた。「ボン前にいったらあかんで」おいかえされた。町の役員の人は、ほんとうに神様のお通りのように礼をしていた。どこの町にも主といわれる動物がいるものだね。 中舞鶴の大蛇もそのあたりの主であったかも知れぬ。山くずれがあったり砕石場で人身事故がよくあったが、村の人たちはあの生どりした大蛇のたたりだとうわさした。その後蛇屋はどこにいったのかその家も今はなくなっている。 『大丹生校閉校記念誌』に、 守り神 へび
いつのころからか、大丹生に来られる三つの道にわらで作った大きなへびが置かれるようになった。これには、こんな話がある。 昔、大丹生は悪い病がはやり、村の大人はばたばたたおれていった。困った子どもらは、わらで大きなへびを作り、病が三つの道を通る時こわがって村へはいってこないようにしようと考え、実行した。それ以来毎年二月一日に、前から作っていた長さ十四メートルぐらいもある大きなわらのへびを、早朝かけ声と共に村の三方におくのである。 今、へびは小学校三年から中学三年生までの男子が作っている。 わらをそぐって、指が切れたりへびを作っていて、手のひらがすれることもある。しかし、今やらなければ、この伝統もたたれてしまうかも知れない。 どんな伝統でも、良い伝統なら守っていきたいものだ。 大蛇伝説②(丹後各地の大蛇伝説)天橋立・鼓ヶ岳(成相山)『みやづの昔話-北部編-』 成相山の大蛇 中野 松井ぬい
これな、ほんまにあったことだで。成相山のつくった話だなしに、なあ、あのいく分かな、尾や鰭がついてはおるか知らんけえど、実際にあったことの話だ。 あそこに、あの今はな、あの底なし池言うとったけえど、今は底なし池だない、お茶屋がでけたりしとりますけえな、弁天山の下に。そこにな、成相に小僧さんがおってな、その小僧さん、ここのかまいりがくると、たらいに乗って、あそこの底のない大きな池だって、ほて、蓮の花を切りにいくのに、小僧さんに、あの、お上人が小僧さん乗せて花切りに行くのに、毎年そのたらいに乗った小僧さんを蛇体が飲んだんだ。蛇体いうて、淵におろうが。 底なし池におるおおぐちなわが毎年飲んでどもならんで、小僧さんがかわいそうだで言うて、ほて、あのわら人形こしらえて、衣きせて、その腹の中に、煙硝玉をな、仕掛けて、花切りに行かせなはった。ほたら、そなこと知らんで、いつものおおぐちなわが出てきて、その小僧さんを頭から飲んだ。飲んだら、あの、お腹の中ではじいてな、ほて、破れたんだな。ほいで、あの熱いもんだでな、じゃあと山から国分寺いうところに、下り坂になるな、国分寺は、このつづきだし。ほて、そこにおりてな、もはや、どこらへんまできたんだろう思うて、ひょいと頭をもちあげてみたらな、国分寺のな、その、吊り鐘の下に頭がはいってな、ほて、ぬこうしても、あの、吊り鐘が深いで、ぬげなんだ。 それから、そのまんま、鐘をかぶったなり、じゃあとおりて、この内海に入って、向うが見えんいうし、ほいで、行ったら、文殊さんの、あの、細うなったところにな、あの、行ったら、ほたら、そのお腹が破れたところからな、水が入って、どないにもいたたまれんようになって、そこで、沈んだというてな。それが、あの、この内海からあっち、大天橋の方へ出るところにな、あの、浅瀬があって、そこにお腹がつかえて、そこに沈んでしもうたんだって、その蛇体が。 そこは、いまでも浅いだいうて、私ら子どものときにな、文殊さんに旅するのに、その浅いところを通らんで、こっちゃの深いところを通って行ったもんだ。そこに行くと、昔のお爺さんが、ここらじに沈んだだろうで、ここは浅かろうが言うて。ここらへんは、あの、波の静かなときには、 「蛇体の死骸が見えるかもわからんで、あんばいのぞいてみい」言われちゃあ、 「ほんまかしら」思うて、舟ばりに指じゃいついて、 「今年も見えなんだ。蛇体が今年も見えなんだ。来年になったら見えるかしらんだあ」言うて、 「そうかな」言うちゃ、毎年文殊祭りに行くのに見たけど、何年のぞいて見ても、蛇体の死骸どもあらへん。あそこ、あの、沈んだことはな、沈んだ言うて。いろいろの話してもろうたけど。 依遅ヶ尾山・竹野神社 『京都の伝説・丹後を歩く』 依遅ケ尾の大蛇神 伝承地 竹野郡丹後町矢畑
昔むかし、何千年も前のこと、依遅ケ尾に大蛇が棲んでいた。矢畑の村の人々は時々この大蛇を見ることがあった。 この大蛇が、ある日、齋神社の神姫を見て一目惚れをしてしまった。それからは、寝てもさめてもその神姫のことを思って、食事もろくろくとれぬほどになった。大蛇は牧の谷まで下りてきたが、斎神社の神威に打たれてどうしても神社の森に入ることができない。 斎神社の神はその大蛇の心情をかわいそうに思って、雪が二メートルも積もったある日、大蛇に「二百十日の巳の刻に斎神社の松縄手にあるお旅所へ行け。そうすればお前の恋をかなえてやろう」と告げた。 やがて、依遅ヶ尾にも春が来て雪が解け、夏が過ぎて待望の秋が来た。不思議なことに、斎神社の神姫も夢のなかで、「二百十日の巳の刻、とてもよいことがあるので、縄手のお旅所へ行くように」と天照大神のお告げがあった。 二百十日になり、神姫は斎神社のお旅所にお参りして祝詞をあげていた。午後一時ごろになると、一天にわかにかき曇り、バケツから移したような大雨が竹野川に降ってきた。みるみるうちに田も畑も海のようになってしまったが、お旅所だけは少し小高いところにあったので、水のなかにぽっかりと浮いたようになった。神姫は宮へ帰ることができず、何度も祝詞をあげていた。午後二時ごろになると、依遅ヶ尾から炭のような真黒い雲が下りてきた。この雲に乗って、依遅ヶ尾の大蛇が神姫に逢いに来たのだった。しかし、何とかして姫に近寄ろうとしたけれども、斎神社の威光に打たれ、もんどりうって立岩の沖の海に落ちた。その嵐のなかでキラリと光った二つの目は姫を吸いつけるようににらみ、竹野の人も間人の人も、海を見ていた人はみな、この大蛇の目を見ることができた。この嵐のためについに大蛇の恋は遂げられずに終わった。 それから何千年もの間、大蛇は二百十日の午後二時ごろ、依遅ヶ尾から炭のような黒雲に乗って、後の立岩の沖へ出てくる。大蛇はだいぶん年をとったのか、二百十日を間違えて二、三日早く来たり、四、五日遅れて来たりするようになった。 (『丹後の民話』第三集) 『丹後の昔話』 蛇女房
若者が漁に行って、何にもその日は漁がなかっただ。しまいぐちに一匹うなぎがかかっただけど、するりと逃げた。そこでまあ、そのうなぎをもう一ぺん取れやええげど、今日はなんにもかからんといて、それがかかっただもんだで、今日はあかんで、それも逃げる命があるなら逃げてしまえばええだ思ってもどっただ。 へたら、もどってきたら、ものすごい雨が降って、どしゃぶりの雨が降って、へて、どしゃぶりの雨が降るで家におったって。ほいたら、 「今晩は」いうて、雨が降るのに女の声がするだげな。そこで、こんな雨が降るのに思って出て見たら、 「雨が降って先ぃ行かれんで、軒でも借してくれ」言うた。それでまあ、 「こんな大雨が降るのに軒下だいうてもしゃらへんしなあ、ま、入んなれ。貧しい家だけど、だあれもおらへん、わしだけだ」言うて、入んなれ言うて、ほいてまあ入れたらぺっぴんだっただ。ほいで、 「だあれもおいでなんだら、なんか手伝わしてくれ」言うで、手伝ってもらういうても一人ださかいに何にもすることあらへんだし。そいたら、 「あんたは漁に行くし、洗濯やなんだはわたしがさしてもらうで」。ほいでまあ、べっぴんでもあるだし、そう言われておいとくだそうな。家においたで。 「あんたの家はどこだ」言うても、 「所はきかんといてくれ」言うだげな。 「所をきかれると帰らんなんときがくる」言うて。 ほいてあの、一年ほどしたら男の子がでけたいうわ。へて、あのもんだ、そのぺっぴんさんが、 「わしには一部屋だけあてがってくれ」言うだげな。 「わしが休み部屋を、だあれもそこへはこんとおいてくれ」言うで。ほいで、あのもんだ、子どもがでけてから二年も三年も日が暮れたそうな。ほいたら子どもが大きな乳を抱えたりしとって、どうやらした拍子に、気がゆるんだ拍子に大きな大蛇になって、どてらあんと寝とっただ。ほて、子どもがよちよちこそこへ行ったら、大きな蛇がおるもんだで、子どもがびっくりして、ほて、 「お母さん」いうて呼んだら気がついて、あの、自分が姿を出しとった思って、ほて、もう急いで外へ出て、外に出たら井戸があるだげで、その井戸へ行って、水をガァッとかぶって。ほいたらお母だっただげな、それは。ほで子どもが、 「まあお母は水かぶっとっただか」いうて、 「わしはいま妙なもんを見た」いうて子どもが話(はに)ゃあただいうて。その蛇の所作(しょっさ)をするだげな。 「そんなもんがおったか」言うて。 「そんなもんは知らん。お母は見なんだ」言うとるだげな。 ほて言うとったら、しばらくして、自分も見られんようにせんなん思っておったそうだけど、どうやらしとったら、あんまり婿さんにその部屋をのぞかんといてくれ言うだけど、常には機(はた)を識っとるだげな。ほいて休むときには、その機織っとる最中に休むときにはその自分の部屋へ帰って休むだそうな。その休むときには、あの、大蛇にならんとえらいだそうな、体が。いっつも緊張ごろしとると、ほで、大蛇になって、やっぱし。ほいたら、その婿さんが何の気なしに障子の破れからのぞいただって。ほいたら、その大蛇がどたあんどしとるだもんだで、びっくりして、ほして、どたあんと尻もちをついただって。その音に気がついて、ほいて、また井戸に行って水をジャァッとかぶったら、もうもとの女になっただそうな。ほいて、あの、蛇女房 「わしの姿を見なったな」言うてしたら、 「もう姿を見られたら、子どもにも見られただし、あんたにも見られただし、もうこれだけ見られたら、もうここにはおられん。人にも見られるようになったらあんたが困るようになるで、もう帰るわ」言うて。 帰るわ言うたところで子どもがかわいい。いまこそ一年も乳を飲ませへんけど、昔は五つも六つにもなってもお乳を飲んどった。ほんでその子もお母が帰ったらお乳があらへんで、ほいで子どもが育たんで困ったことだいうて嘆いただそうな。ほしたら、 「子どものお乳のかわりのものをわしが置いとくさかいに、ほいで子どもが機嫌の悪いときにはこの目玉を出してなめさしてくれ。決して他人にはやるな」言うて、ほいて置いとくだそうなけど、どういうはずみだ知らんが、近所の人が見つけて、ほしてそこの、そのときのお代官に言うただそうな。そう言うたら、お代官のところにも子どもがあって、お医者さんの薬をやっても思うように治らんらしいわ、病気が。ほいたら、その目玉なんだかをなめさせたら治るかもしれんちゅうだもんで、どうでもこうでもそれを、目玉をくれ言うて、その目玉をくれなんだったら子どもの命もとる言うた。言われたもんだで、ほいで、もうしやあなしにその目玉を出すだ。ほいたら子どもがむずかって、この子にたらしをやるもんがない。この子がもしも病気になっても取り返しがつかんここだ思って、帰り道に情ながってもどってくるだそうな。 そいたら晩げに、あの、夢に出てきて、 「あの目玉を取られたそうなが、まんだ目玉はもう一つあるで、それで、あの湖に来て『あぐるや、あぐるや』いうて呼んくれ。三井寺の鐘が鳴るじきに、三井寺の鐘がゴーンと鳴ったら、ほしたら、その三井寺の鐘を頼りに出てくる」言うて。 「それでもう一つの玉をあげる」言うて。ほいでまあ、教えてもらったようにしたら、出てきて、 ほて、玉をもらあて、へたら、 「こんなことをしたら、盲になってしまって困るだろう」言うたら、へたら、 「子どもさえ丈夫に育ってくれたら何にも言うことはない」言うて、ほで、 「また困ったことがあったら、ほいたらまた、三井寺の鐘の鳴る時分に、前よりももっと大きな声で『あぐるや、あぐるや』呼んでくれ。そしたら、鐘を頼りに、眼が見えんだで、鐘を頼りにずうっと会いにくるで」言うた。 そういうことだった。 語り手・中郡大宮町明田 横田きく枝 『おおみやの民話』 小原山 大蛇に息を吹きかけられたら 三坂 松村 初江
小原山(大宮町と弥栄町の境付近の山)へ行く休み場に、ようけ栗の木があるそうな。 昔のことだけど、娘らあが、「栗取りにいこう」いうて、四人づれ、絣の着物を来ていくだわ。ほいたところが、そのうちに、どもならずの人がおって、 「お前らあ、まぁ待ってくれ」いうで、玄関口へ、とことこと、ぞうりをはいたまま、ほうてあがって、氏神さんのお神酒つぼからお神酒を、 「いただかしておくんなれよ」いうで、がっぷがっぷお神酒のんだ。お神酒のんで、 「さあ行こうぜ」いうで山へいった。 ほいだところが、まあようけ栗がなっとって、一本の木にようなっとったで、その人は、『ひとり占めにしたろう』思って、 「お前らあ、一つ所におってもあかん。ばらばらで拾おう」いうで、ばらけて拾っとっただげな。そいたところが、だんだん、だんだん、日が暮れてくるし、だれやらが、 「もういのうでえ」いうだけど、かったに、返事もせんだげな。 「おおい、どうだ」いうても、返事をせんもんだで、いって見ただげな。ほいたら、その人が、栗の木から落ちて、あおむけになって、目をまわしとった。 「これあどもならん、連れていなな」いうだけど、栗はようけあるわ、持てんわ、それを引きずって、休み場まで連れていって、 「お前らあは、ここに留守参しとれ」いうてえて、だあっと村へ下りて、村の者に、「来てくれえ」いうで、炬火つけて、その人の名を呼びもって山へ上った。 その人は、なんにもいわんだし、二日目に気がついて、 「ああ恐わ」いうて、 「どうだった」いうても、 「どうにもこうにも、ようけなっとって、こばれえで手えかけて、上へあがったら、枝が三つになっとらところがあったで、そこに尻すえて、上の栗を取ろうとしたら、大けな大けな蛇が、がぁっと、口開けて、ねらっとった」と、それにびっくりして、あだけた(落ちた)だし、大けな蛇は、緋縮緬のような赤い口あけておっただって。それにおどろいて、二日、気がつかんでおったって。きがついたで、 「どうだった」いうでも、ふるっておって、飯もようけ食えへんだし、 「どうだったいや」いうたら、 「まあ、おとろしや、おとろしや、手えだしてとろうとしたら、大けな赤い口あけて、ああそれで、気を失っとっただ。山には、大けな物がおるで、もう行かれんぞよ」 その人は、蛇に息を吹きかけられたもんだで、一代、頭の髪が生えず、坊さんだって。 『丹後文化圏』 途中ヶ丘竹林寺の大蛇伝説 坪倉 利正
途中ケ丘遺跡には、いろいろの伝承が語り伝えられているが、その一つに「途中ケ丘の上に途中山竹林寺という大伽藍があり、境内の鐘楼の鐘を小僧が毎日撞いていた。ところが或日、鐘を撞きに出た小僧が忽然と消えるという事件が二度三度と続いた。和尚はこの不可解な事件を解明するため一計を案じた。夕刻、鐘を撞きに出る小僧の形の藁人形を作り、その中に火薬を仕込んで犯人の現われるのを待った。やがて小僧の失踪した時刻になると、一天にわかに曇り七色の雲と共に一匹の大蛇が現われ、一呑みに藁人形を呑み込んでしまった。と、同時に大きな破裂音がし、正体を現わした大蛇はあたりをのたうちまわり、何処かに姿を消してしまった。数日して長岡の里人が山仕事で宮ヶ谷に入ろうとすると、入口の溜池に腹を裂かれて長々と池に浮かんでいる大蛇を見た。長岡の里人は後難を恐れて、大蛇の死体を近くの山に丁重に葬ると共に、谷の入口に祠を建てて祀った。」という。 例祭は9月15日であるが、昭和5年に氏神である八幡神社に祠を移し「山ノ口社」として現存している。また、小字「途中岡」付近には「本堂屋敷」、「弁天」、「地蔵前」、「蛇池」等の小字名が残っており、「弁天」には昭和初期まで弁財天を祀った祠が残っていた(現在八幡神社に合祀)。こうみてくると「途中山竹林寺」は相当の伽藍であったことがわかる。しかし現存する字金田(きんだ)は「金田千軒」の伝説があったにしてはあまりにも地理的位置に恵まれていない。北側を東流する鱒留川の氾濫と、金田東部馬場地域が、江戸末期から明治時代にかけて開削され水田化されたことを考えると、それ以前に農業を主体とした大集落が存在したとは考えられない。 『ふるさとのむかしむかし』 下岡落谷のババメ
むかし下岡の落谷には「ババメ」が棲んでいた。 「ババメ」とは大蛇のことである。 二人の村人が、落谷に山仕事に出かけた。「ババメ」は、すぐそれを見付けて、あっという間に一人を横ぐわえにした。もう一人はびっくりしてふるえあがり、そっと木蔭にかくれて見ていると、「ババメ」は上半身を空中に立ちあげてから、地面めがけてふりおろし山にたたきつける。この行為が何回か行われた。これを見ておそろしくなり、後をも見ずに、飛ぶように村に帰り、村人にその模様を告げた。勇敢な若者たちが、 「ようし、敵を討ったる」と言って、二人が退治に向った。 「ババメ」はすぐこれを見つけるや、まず一人の若者をまる呑みにした。他の一人は勇気をふるって、何くそと躍りかかり、友だちがぐんぐん呑まれつつある咽首のあたりを目がけて、持ってきた刃物で切りさいた。 呑まれていた友だちは鎌を腰に差していたので、呑まれるにつれて、鎌が「ババメ」の咽の肉を切ってはいる。内外から咽首を切りさかれたので、友人は助け出された。 「ババメ」は咽首を切りさかれ、深でを負って退散した。 呑まれた男は一命を助かり、元気を取り戻したが、頭髪は抜け落ち、再生しなかったという。 その後、呑まれた人の夢枕に「ババメ」があらわれ、 「われは長き世代に、あまたの生きものを呑み殺した。最後にお前を呑んで、咽首を切りさかれて命つきた。今後、わが霊は、今までの罪ほろぼしに、すべての生きものの命を守るであろう」と告げたという。 このことがあってからずっと後の話であるが、大雨洪水の時、落谷に山津波が起って、山が崩れ、土砂が引原谷に流れ出し、下岡田圃にたて臼のような「ババメ」の背骨がゴロゴロ流れてきて村の人を驚かせた。 その骨の元のあり場所は、高天山東山腹のババメ谷であったことがわかった。向うの尾根から、谷一つ越えて、こちらの尾根に真一文字に横たわって白骨体があったという。 「ババメ」は歯がないので、呑んだものは生きたまま丸呑みするが、大きなえものは、くわえて、上半身を空中に立て、地面にたたきつけ、つぶして呑みこむのだという。 切畑の大蛇退治 ずっと昔の話ですが、切畑部落にたいへん気丈な権作という老人がありました。ある年の秋、権作さんが、水無大橋谷という村の奥の焼畑へ出かけました。そこには、ソバや、アワを作っており、実が熟して 刈取りの時期がきたので、鎌とか、にない棒とか必要なものを持って畑までやってきました。ところがどうでしょう。ソバの穂が喰い荒され、ふみ倒されて、一面にむざんな姿となっている。 「狸めても喰い荒したのかな」と独りごと言いつつ 焼畑の上の段に目を移すと、どえらい大きな蛇が、ソバの実を食べている。驚くより腹がたった。 「ひとがせっかく苦労して作ったソバをスル(註)とは不届きなやつだ」と思いましたが、手道具はただ腰に差いえ鎌があるだけだ。 「いんで道具取ってくるまでそこに待っとれ」と言い捨てて、急いでわが家に帰りました。 家から鉈を持ってきて 途中の道の端にあった「青だらの木」(註)の末がふたまたになっているのを伐って、それを持って馳けつけたところ、大蛇は鎌首をもたげ、目をかがやざし赤い舌をチョロチョロ出し、今にもこちらへ、おそいかからんばかりだった。 強気な権作さんは、針だらけの「青たち」の木で蛇めがけてさんざん打ちおとし、なぐりつけた。そしてとうとう大蛇を打ち倒してしまった。 この闘いのためソバはよけいめちゃくちゃになってしまって、その惨状にぼうぜんとしたが、あきらめて、ソバは一本も刈らずに帰ってきました。 しばらく休んでから、まずひと風呂あびてと思って風呂場へ行ったところ、なんと、風呂場一面にたくさんの子蛇が居ります。そいつを外へ放り捨てて、入浴を終り、つぎに夕飯をと、箱膳のふたを取ると、そこにも子蛇が居ったので、これも放り捨てて 夕食をすませた。 やれやれと思って寝床へ入ろうとしたら、寝床の中にまで子蛇が居り、いかな強気な権作さんも気味わるく思いながらそいつも始末して寝入ってしまいました。 このような子蛇の攻勢はこれで終らず、その後もたびたびそんな事件に出合ったので さすがの権作さんも、いささか反省し、いくら相手が動物でも、年を経た大蛇の命をうばったことが原因で、そ怨念が残っているにちがいないとさとりました。 それからまず仏の加護にすがり大蛇の霊を供養することを思いたち、六部姿で霊場めぐりのため全国を巡国しました。 何年か後に帰国し、村の端に大きな廻国供養塔を建立し、僧の読経をもらい、村人にも供養をうけました。 こんなに尽してもなおその怨念が断ち切れなかったとみえ、この家では息子の代になってからもいろいろ不幸なことが続きましたので、息子もまた廻国供養に出かけ、帰村してから同じく供養塔へ墓を立てました。 さて話かわって、権作さんの退治した蛇はぞっとするような大きなもので その死がいが谷間の溝へ落ちこみ、その腐り汁が下流まで流れ出して その後、三年間ばかりは、牛馬がその水を呑まなかったと言い伝えています。 (原話 切畑 吉岡常夫) 註 スルとは食い荒すことの方言。 註 「青だらの木」とは幹にも枝葉にも一面にぎっしり針のある木。 『ふるさとのむかしむかし』 丹後の丹池(あかいけ)の話
むかし大阪の鴻池に年ごろの美しい娘さんがあった。嫁のもらいては多かったが、娘が行くと言わんので、両親は困っていたそうだ。それで両親が、 「そんならどうするだいや」言うと、 「わたしの好きなようにさしておくれ」と言って親の言うことを聞かなんだ。 そうしたら、ある時、丹後から嫁のもちいてが来た。それが、どえらい男まえ(美男子)の人が貰いに行っただって。娘さんはその男にひかれたのか 「丹後へならお嫁に行く」と言いだした。 両親も娘の言いなりにさせようと思われて、立派な駕籠(かご)に乗せ、供人もつけて、丹後まで送らせたそうな。 はるばる丹後までやって来て、ちょうど、竹野郡から熊野郡への郡界となっている桜尾峠までやって来ました。かごを降ろして一同がひと休みしていた時、娘さんはかごから出られて、小用にでも立たれたのかと思っていたが、いっこうに戻られない。それから大さわぎになり、山から谷へとさがしたが見付からない。ちょうど谷の底が大きな池になっていて村人が「かった池」といっている池まで降りて、 「お嬢さあーん。お嬢さあーん」と何回呼んでも返事がない。 すると湖上に、男と、女が泳ぎまわっている姿が見られた。あっと驚く間もなくその姿が消えたので、 「お嬢さん……もう一度姿を見せて下さーい」 と呼ぶと、大蛇が湖上にかま首をもたげて、こちらをにらんでいるかと見るまに、これも水中深くはいってしまった。 一同はお嬢さんは水中に入って大蛇となられたであろうとあきらめて しかたなく、駕籠を置いて供人たちは帰っちまっただそうな。 その後、この湖には大蛇が居るといううわさが高くなり、村の人々もこの大蛇になやまれることが多くなった。 そのころ近くの木津村のうち有田という小部落に、三五郎という剛の男があって、 「おれが、そいつを退治してやる」と言っていた。 三五郎はある日、氏神の加茂の神に祈願してから「かった池」まで行き、裸になると、短刀を口にして ざぶんと水中深くもぐっていった。あちこちさがし廻ったが、大蛇らしいものは見つからない。ただ湖の底に大きな木の株が沈んでいたので、もしやと思って、ふたたびもぐり、その株を短刀でさんざん刺した。すると大蛇は水面に姿をあらわしたので、三五郎はこれとたたかって、ついに退治してしまった。 そのためにこの湖の水はまつ赤になり、いつまでも赤い水のままだったので、誰言うとなく「あか池」といい、「丹池」とも書かれるようになり、それがだんだん有名になり、ついに国名を「丹波」と名づけられたということです。 附記 この話は多くの人から聞いたものを一本に直した。人によって僅かずつ差があったのでこんな形にまとめました。(木津 井上正一) 音の玉手箱
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